ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

ジブリ「都市伝説」を斬る(笑)02 魔女の宅急便

2018-06-30 | ジブリ

このカットも本編にはないが、作品の「世界観」を凝縮した素敵な画像だ


 さて。ジブリでもうひとつ有名な「都市伝説」は、「『魔女の宅急便』(1989年)の黒猫ジジ(CV 佐久間レイ)は、途中から話せなくなったわけではなくて、じつは最初から人語を解してなどおらず、彼との会話のくだりはすべて孤独なキキの夢想だった。」というものだ。
 つまり「喋るネコ」としてのジジは、キキにとっていわゆる「イマジナリー・フレンド」の一種だったってことになる。
 この説の裏づけは、「『魔女の宅急便』の公開時(だからほぼ30年前だ)に宮崎駿監督が行ったトークショーでの発言」ってことになってるんだけど、ぼくが探したかぎりでは、その「発言」は伝聞(の伝聞)にとどまっており、書籍はもとより、パンフレットみたいな形ですらも活字になってはいないようである。
 だからその「発言」そのものの信憑性がうたがわしい。また、じっさいに監督ご自身がそのような意味のことをおっしゃったのだとしても、あの方は非常に韜晦(とうかい)癖のある人だから、素直に受け取っていいものかどうか。
 さらに、そもそも作り手がまじめにそう述べたところで、それはけっして「絶対」ではない。作り手は作品を統べる「神」ではもはやないのである。それが現代批評の常識だ。「作品」に対して「作り手」が開陳する「製作意図」や「裏設定」などは、「重要な参考資料」ではあるかもしれないが、所詮はそれ以上のものではない。すべての作品は、それが作り手の手を離れてわれわれに届けられた時点で読み手(観客)のものになるのである。もちろん、あからさまな曲解は退けられるべきだとしても。
(『魔女の宅急便』にはもちろん角野栄子さんによる原作があるが、アニメ版は「製作途中で角野さんが難色を示した」といわれるくらいオリジナルなものに仕上がってるので、ここでは宮崎さんの作品として扱う。)
 「魔女」が「黒猫」を「使い魔」として伴うのは西洋のおとぎ話の常套で、だからジジが細い箒の柄にちょこんと乗って一緒に空を飛ぶのも、キキとひんぱんに話をするのもあの世界ではぜんぜんおかしなことではない。もしジジの存在がなかったら、あのアニメの前半部分はずいぶんと色あせたものになったろう。それだけに、「ジジはほんとは喋ってなかった」という説は(サツキとメイの件ほどではないが)かなりショッキングである。
 しかしこれは明らかに変で、なぜならば、初仕事の配達の途中でキキがぬいぐるみを落っことし、それが見つかるまでのあいだジジが身代わりを務めるという挿話があるではないか。あのエピソードを持ち出すだけでたやすく反証できるこの説が、なぜ大手をふってまかり通ってるのか、これもまことにフシギである。
 だいたい、リアリズムで書かれた児童文学ならともかく、べったべたのファンタジーたる本作に対して、よくもまあこんな身もふたもない臆説が流通するものだ。それならもう、「空を飛ぶ」のも思春期特有のヒステリー系妄想といったらいいし、ようするにもう、設定から何から、ぜんぶがまったくどうでもいい。そんなことなら最初から「物語」になんか関わらず、法律の勉強でもしてればよろしい。
 はっきりといえることがひとつある。「後半部にさしかかるあたりでジジの言葉がわからなくなる」のはこの作品世界における「事実」だ。しかし、「ジジが最初から喋ってたのかどうか?」は、これに比べればじつは本質的な問題ではない。ネット上のやり取りを見ても、「ジジはほんとに喋ってたのか?」を議論してるはずが、いつのまにやらその件はどっかに行って、「なぜ途中から言葉が聴き取れなくなったか?」に移ってるケースがほとんどだ。
 とはいえ、繰り返すが、上で述べたとおり、ジジはほんとに喋っていた。それがキキの魔力によるもので、彼のせりふがキキにだけしか理解できなかったとしても、ジジが一個の人格(?)をもって彼女の話し相手を務めてたのは確かである。本質的な問題でなくとも、このことは明記しておく。
 しかし、途中からは話さなくなった。キキに彼の言葉がわからなくなった。なぜだろう。これはけっこう厄介だ。前回のトトロの件より難しい。「ファンタジーの文法」でたんじゅんに割り切れることではなく、「児童文学」としての読みが求められるからである。
 『魔女の宅急便』は、ほかのジブリ作品と同様、日本テレビ系列の「金曜ロードショウ」で何度も放映してるから、2度3度と見た方も多かろう。ぼくはたぶん3回見ているが、いちばん初めに見たとき(20代だった)には、仕事のうえでスランプに陥ったからだと思った。
 焼き上げる段階から手を貸して、苦労して届けたお祖母ちゃんのパイが、その孫娘によってにべもなく拒絶されてしまった。つまり、仕事が軌道に乗ったところで、ひどい挫折を体験し、職業意識が損なわれ、アイデンティティーを見失いかけた。おまけに雨に打たれて風邪までひき、トンボからのパーティーの誘いまですっぽかしてしまった。それで心身ともに不調になって飛べなくなり、使い魔の声も聞こえなくなった。そう思っていたのである。
 しかし、2度目に見たら(30代だったと思う)、それは間違いだった。エピソードの流れをきちんと追えていなかった。風邪をひいて寝込んだキキは、おソノさんの看病もあってけっこう早く復調する。そして元気を取り戻し、「コポリさんて人にこれを届けて」というおソノさんの依頼を受けて仕事に戻る。そのさい、ジジはもう隣家の可愛い白ネコと親しくなっているのだが、彼女のことを「リリーっていうんだ」と紹介し、「仕事? いま行くよ」と、ふつうに喋っているのである。キキは「近くだからいいよ」とジジへの気づかいを見せる。
 ここは短いシーンだし、会話もかんたんだから見過ごしやすいが、作り手の側は明らかに、「ここではまだキキの身の上に切実な変化は起っていない」旨を観客に示している。後になって振り返ると、これはキキが作品内でジジと交わした最後の会話だったのだが。
 問題はこのあとである。「コポリさん」とはじつはトンボのことだった。今回の依頼は、まえに彼からのパーティーの誘いをふいにしてしまい、そのことを気に病んでいたキキを、ふたたびトンボに近づけるためのおソノさんの粋なはからいだったのだ。
 初めてゆっくりトンボと言葉を交わしたキキは、思いのほか意気投合し、その勢いで「人力飛行機の機関部」であるプロペラ付自転車の後ろに乗せてもらって、海までの坂道を突っ走る。ちょっとした小冒険である。キキの魔力が無意識のうちに働いたのか、自転車は途中で浮きあがり、結局はプロペラが外れて砂浜に墜落してしまうのだけど、互いにケガがないことを確かめたあと、キキは、おそらく街に引っ越してきて初めて、腹の底から楽しそうに大笑いする。彼女がトンボに惹かれ始めているのは明らかだ。
 さらにそれから、ふたりは海岸に並んで腰をおろして語り合う。トンボにとって「空を飛ぶ」ことはたいへんなステイタスであり、彼がキキに抱く思いは、恋というより何よりもまず憧れと敬意なのである。キキももちろん悪い気はしない。彼女の気持ちはますますトンボに傾く。
 ところがそこに、オープンカーに便乗したチャラい一団がやってくる。運転するのは少し年上らしきキザ男。後部シートにひしめくように乗っているのは、カラフルな服に身を包んだうら若い娘たちである。彼女らは「飛行船の中を見せて貰えるんだって」とトンボを誘い、トンボはすぐに興味をひかれる(そもそも海まで来たのも飛行船を近くで見るためだった)。
 彼女たちはまた、キキを見て「誰あのコ?」「魔女だってー」「あー知ってる。働いてるらしいよ」「へーあの齢で。えらいねー」と、ロコツに軽侮の態度を示す。当初からキキは、自分の冴えない黒服に劣等感をもっていた。13にして生家をはなれ、見知らぬ街で労働をして自活している彼女には、親の庇護の下でぬくぬくと遊び暮らす娘たちは「不良」にしか見えない。そんな娘たちと、トンボは仲良く話している。キキは傷つき、追いすがるトンボを振り払うようにして、そのまま歩いて家まで帰る。
 この出来事を境にして、彼女には、ジジのことばがわからなくなるのだ。それが原因のすべてだとは言い切れぬにせよ、「初恋」が彼女の変化の引き金となったことは疑いようがない。だけど彼女は、自分がトンボを好きになり始めてることに気づいてないし、だからもちろん、自分の中に渦巻いている嫉妬やら何やらの感情もぜんぜん整理できてはいない。
 自室に戻ったキキはベッドにばたんと倒れ伏し、そこにジジも戻ってくる。「にゃー」とふつうの猫の声で鳴き、「どうしたの?」という感じでベッドに飛び乗り、横たわるキキの傍まで寄ってくるのだが、もう人間のことばは喋らない。そしてキキが、「あたしどうかしてるのかな? せっかく友達ができたのに、急に憎らしくなっちゃって……」みたいな愚痴を始めると、そそくさと行ってしまうのである。キキは、「冷たいなあ」と不平を漏らすが、この時はまだ異変にまるで気づかない。
 事態の深刻さがあらわになるのは次のシーンである。時間経過が定かではないが、たぶん同じ日の夜だろう。食卓にお皿が並んでいる。窓から入ってきたジジに、キキが「お友達ができたからって、食事の時間は守ってよね」と苦情をいうが、ジジはまた「にゃー」と鳴くばかり。そこでキキはようやく「たいへん」と顔色を変え、階下に行って箒にまたがり、自分の飛行能力が落ちていること、魔力が弱まっていることを自覚するのである。
 このくだりはわりと重要で、「空を飛ぶ力」と「ジジと会話できる力」とがいずれも「魔力」によるものであることが明示されている。このことからも、「ジジは初めからほんとは喋れなかった」という説がおかしいのがわかる。もし30年前の宮崎さんが「トークショー」で実際にそう言ったのなら、なにか勘違いされてたんだとしか思えない。
 ただ、そう言ってみたくなる気持ちはわからなくもなくて、キキの初恋とジジの恋とはあきらかに無関係ではない。密接に連動している。幼い頃の「共依存」めいた繋がりから脱し、それぞれに「性」をそなえた一個の人格として自立しつつあるわけだ。そういった面を強調したくて、つい口が滑った、ということはあるかもしれない。
 キキの母は冒頭シーンにしか登場しないが、映っているかぎり、このひとが黒猫をかたわらに侍らせている場面はないし、この家に黒猫が住みついている様子もない。使い魔は、主(あるじ)たる魔女が独り立ちするのと軌を一にして、完全に自立するのかもしれない。しかしそれなら、母がそのことを娘に伝えていないわけはなく、キキも覚悟はできてるだろう。キキが自分の家庭をもつのはまだまだ先で、それまでは、ジジは夫となり父となってもキキの身近にいるであろうし、彼女の魔力が戻ったら、また話せるようになったはずである(エンディングのカットでもそのことは暗示されている)。
 空を飛べなくなったキキは、風邪ひきの時とは比べものにならないアイデンティティー・クライシスを味わうが、メンター(先達)である画家のウルスラ(CVはキキと同じ高山みなみ。つまり二役)の来訪によって立ち直りのきっかけを得る。キキはウルスラに連れられて彼女の小屋に泊まり、そこで彼女の描いた大作を前に、真率な対話を交わすのだけれど、この時の対話は、おそらくわざと焦点をぼかしたものになっている。
 設定を見ると、ウルスラはまだ19歳。メンター(先達)といっても、キキとそんなに差があるわけではない。家を離れ、アトリエを兼ねた小屋で寝起きしていることから見て、今は絵の製作に人生のすべてを懸けてるようだし、男の子と見間違えられるルックスからしても、まだ真剣な恋をしたことはないんだろう。だから彼女がキキに送る助言は、ストーリー・ラインからは微妙にずれているのである。
 キキの魔力が弱まったのは、前述のとおりトンボへの恋が引き金だ。そのことに彼女じしんは気づいていない。ジジはけっこう早熟なところもあるようなので、もし彼が話せたら、「それはキキ、君があのトンボって子に恋をしてるのさ」と教えてくれたかもしれない。しかし彼が助言者たる役回りからおりた今、それを伝えるのは本来なら先達としてのウルスラの役のはずだけど、いかんせん彼女もまた色恋沙汰にはうとい。だからウルスラは、そっち方面の話は何ひとつせず(できず)、「血(持って生まれた才能)」とか、「誰しもが陥るスランプとその脱出法」などといった、より高尚かつ実用的な意見を述べるのみである。
 むろん、それはそれで大切な話であるのは間違いないし、それによってキキが勇気づけられるのも事実だが、「初恋」を巡って展開しているストーリー・ラインにおいて、あくまでもウルスラの意見は補助的なものにすぎない。それでいて、月明かりに照らされるこのシーンの魅力もあり、ここのエピソードは観客の心に強く残る。そのせいで、「なぜキキが空を飛べなくなったか=ジジの言葉がわからなくなったか=魔力が弱まったか」についての解釈があれこれと入り乱れることにもなる。罪な話だが、宮崎アニメにはこういうところがたくさんあって、そこがディズニーアニメと違う。
 ともあれ、ウルスラのおかげでずいぶん元気になったキキは街へと戻り、招かれた老婦人の屋敷のテレビでトンボの受難(飛行船の事故)を知って現場に駆けつけ、(愛用の箒は折れちゃったので)手近にあったデッキブラシを借用して、危ういながらもどうにかこうにか空を飛び、必死でトンボを救出して、いちやく街の人気者になる。むろん、これはたんなる人助けじゃない。大好きな男の子を助けるためだからこそ全霊を尽くせたわけだし、だからこそ魔法が蘇ったわけだ。恋によって失われた魔力が、恋によって蘇ったのである。
 上でもちらりとふれたエンディングのカットは、すっかり街に溶け込んだキキが、安定した飛びっぷりでまた宅配業にいそしむ姿だ。箒の柄には、ジジがちっちゃな仔猫と一緒にちょこんと座っている。ただの猫にそんな真似ができるものか。魔力の回復と共に彼の言葉がふたたびわかるようになったのは明らかで、ジジがほんとは最初から喋ってなかったなんて、やっぱりとんだガセネタなのである。


ジブリ「都市伝説」を斬る(笑)01 となりのトトロ

2018-06-29 | ジブリ

本編にはないイメージ画像。このアニメの「ほのぼの感」がよく出ている




 有名なアニメやマンガには、それにまつわる裏話があって、ネット上に専用のサイトもたくさんある。それを要領よくまとめたコンビニ本まで出ている。用語としては正しくないと思うけど、世間では「都市伝説」の一環として扱ってるようだ。
 ジブリアニメでいちばん知られた「都市伝説」は、『となりのトトロ』(1988年)の、「サツキとメイはじつは死んでる。」というやつだろう。ハッピーエンドを迎えたはずの作中人物がほんとは落命していたなんて、ショッキングだから印象に焼きつく。これを言ってる人たちも、おおむね面白半分で、まさか本気で信じちゃいまいと思うんだけど、「物語」のもつ社会的な意味をわりとまじめに考えてるぼくとしては、笑ってばかりもいられない。なんといってもジブリ、とくに宮崎アニメは今の日本を代表する「国民的な物語」なんだから。
 じつをいうと、この「死亡説」、まるっきり根も葉もないデタラメってわけではない。
 これはものすごく重要なことだが、あの姉妹がいちど「異界に行った」のは確かだ。なぜならば、ファンタジーってのはそういうものだから。その道行きを案内したのはトトロ(とネコバス)で、その意味でトトロが「異界の使い」という解釈もじつは誤りではない。
 ただ、ここまでだとまだ半分にすぎない。肝心なのは、そうやって「異界≒あの世」へと出向いたふたりが、「七国山病院」の母の病床までトウモロコシを届けて(そこには父が見舞いにきており、つまり両親が揃っている)、ふたたび無事に「こちら」へと帰ってくることなのである。
 なお、あの場面でのトウモロコシは、「死」に傾きかけたひと(母親)を「生」の方向に引き戻す食べ物として、とくべつな意味を帯びている。だからそれを届けるのはとても大切な行為だ。そして、樹の上にいるふたりの姿が両親に見えないのは、その時点ではまだふたりが「異界」の側に身を置いているからだ。

 ① 主人公(おもに子ども)が現実世界(この世)で困難に直面する。
 ② 「使い」が彼ないし彼女を「異界」に連れていく。
 ③ 主人公がそこでひとつの「仕事」を成し遂げる。
 ④ 現実世界(この世)に戻ってくる。
 ⑤ 直面していた困難が解決する。あるいは、解決させられるだけの新たな力を主人公が身につけている。

 ここまででワンセットである。これを称して「行きて帰りし物語」と呼ぶ。ほとんどすべてのファンタジーは、この定式を踏襲する。
(同じ宮崎アニメのなかで、もっとも見やすい例は、2001年の『千と千尋の神隠し』だろう。彼女はちゃんとトンネルを抜けて帰ってくる。「千尋はじつは死んでいる」と主張する人はさすがに見たことがない。)
 「トトロ」ももちろん例外ではない。サツキとメイはラストでこちらに帰ってくる。両親は病院にいて不在だから、ふたりを案じて捜しまわる村人たちのもとに戻り(あれ、あとで父親は村中にアタマを下げて回ったろうなあ……)、あのおばあちゃんに抱きかかえられる。親しんだ日常の中へと帰還する。そうでなければ文字どおり「お話にならない」。
 これは物語論についての知識があれば誰にでもわかるところで、いま手元に本が見当たらないが、大塚英志さんも同じことを指摘していた。さらに氏は、「なぜあんな俗説が行きわたるのだろう。世間にはこれほど物語があふれているのに、みんなは意外とファンタジーの文法に習熟していないのか」と、疑問を呈してたようにも思う。ぼくもそこはフシギに思うが、たぶん、それはみんなが「怪談」好きなせいなんじゃないか。怪談ってのは因果ものが多くて、ネガティブで陰鬱でどろどろしている。「サツキとメイはじつは死んでた。」という俗説は、その条件にぴったりだ。そういうものに惹かれる部分も、人間のなかには確かにある。
 それに、千尋の迷い込む世界はあからさまに「異界」であって幼い観客にも見紛いようのないものだけど、トトロは湯婆婆なんかにくらべて明らかにフレンドリーだし、サツキとメイがネコバスに乗って病院まで届けてもらうシーンも、あくまでも楽しげに描かれ、さほど長いわけでもなく、ふたりが「異界」に身を移していたことが一見するとわかりにくい。そこがかえって捩じくれた解釈を招くのかもしれない。
 もうひとつ、あの姉妹の暮らす昭和30年代のニホンの田園風景は、いま都会でそれをみる観客にとっては、自分たちの生活圏と地続きでありながらそれ自体がどこかしら既に「異界」めいている。そのことも大きいかと思う。
 つまり、「トトロ」は「千と千尋」に比べて、わかりづらいファンタジーなのである。そのためにかえって、見るものの深層心理にはたらきかけ、陰惨なものまで含めた多様な解釈をうむのかもしれない。しかし、いかに解釈は自由だといっても、この作品に関するかぎり、ネガティブな読みはあくまで曲解であり、妄説・奇説・珍説のたぐいであることは心得ておきたい。



芥川賞と物語

2018-06-29 | 純文学って何?
 前回の投稿から9日も経ってるもんで驚いた。つい昨日くらいに思ってたんだがな……。ちょっと忙しくなるとブログのことがすっ飛んでしまう。「教養って何? みなさんの定義」の続きをやるつもりで、草稿もつくってたんだけど、ファイルがどこかに紛れてしまって見当たらない。しょうがないので別の話をしましょう。
 それではサッカーのこと……はさっぱり不案内なので、またまた「純文学」と「物語」ってことになるんだけども、ともあれ「物語」の威力なるものはまことに大きく、「純文学」の牙城であるはずの「芥川賞」の選考委員の皆さんとて、じつは全員が「物語作家」なのである。
 宮本輝さんは、いうならば「もっとも良質な通俗小説」の書き手なわけだし、村上龍さんが社会派のエンタメ作家であることも論を俟たない。高樹のぶ子さんは情感あふれる恋愛小説の手練れで、小川洋子さんはリアリズムのなかにSF(すこしフシギ)な感覚と微妙な悪意をからめてお話を作る名手。川上弘美さんも柔らかなことばでシュールな寓話や風変わりな大人の恋模様を紡ぐ優れた物語作家である。
 山田詠美さんはそもそもが直木賞系だし、島田雅彦さんもペダンチックで癖のある文体が身上とはいえけっして物語の破壊者ではない。奥泉光さんは一般にはむしろ巧緻なミステリー作家として知られているだろう。
 新しく加わった吉田修一さんもまた一流の語り部であることはここで強調するまでもない。堀江敏幸さんだけは、「文章の魅力で読ませる」タイプで、中ではもっとも物語性に乏しいけれど、いまどきの翻訳小説を思わせる工芸品のような小説をつくる。たとえば小川国夫のような狷介な作家のものと比べれば、読みやすさは明らかだ。
 「純文学」とは言いながら、長年にわたって一家を張ってるほどの小説家は、みな物語作家でもあるわけだ。村上春樹さんはいうまでもない。
 ここ十年ばかりにおいて、ほんとの意味での純文学というか、まさに「ことばの運動」だけで織り上げられたエクリチュールを提示したのは、ぼくの見たかぎりでは朝吹真理子さんの「流跡」(新潮文庫『流跡』所収)ただ一作だけれども、この路線を突き進むのか、と思いきや、次の「きことわ」はわりと普通の小説だった。おかげで芥川賞は取れたのだが、大手通販サイトのレビューでは「中身がない」「ストーリーが希薄」とさんざんである。ほとんどの読者は「小説」に「物語」(だけ)を期待している。「小説」とくに「純文学」と「物語」とは別物であり、別物なればこそ貴いのだが、なにぶん選考委員の皆さんからしてああなのだから、それを申し立てても詮無いことだ。
 いや……ことばの存在感が生々しく立ち上がる作品がもうひとつあった。黒田夏子さんの「abさんご」(文春文庫『abさんご・感受体のおどり』所収)。しかしこちらは、語り口というか、文体こそ極めて特異ではあれ、背後には相応の重さをもった「物語」がきっちり潜んでおり、「ことばの運動」そのものがスリリングな軌跡を描いて止まない「流跡」とはまた別様のものだった。


あらためて、HINOMARU の話。

2018-06-17 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽
 『君の名は。』のことは前回でケリがついたので、あらためて、RADWIMPS≒野田洋次郎さんの「HINOMARU」の歌詞について考えたい。
 ツイッターによる謝罪から6日が過ぎた今朝、「RADWIMPS HINOMARU」で検索し、上位にきた記事をひととおり読ませて頂いたのだが、ぼくが前前前世、じゃなかった前々回の記事でやったような、「歌詞の文法的誤り」をていねいに指摘したものはなかった。
 こんなコスプレみたいな「なんちゃって古文」で綴られた詞で「愛国(心)」を歌い、それをまたファンの子たちや、そっち系の人たちが「ええ歌やんけ! 国を愛して何が悪いんじゃあ!」と言って持てはやしてる光景は、それ自体がもうブラックジョークである。
 冒頭から掉尾まで、文法的・用法的誤りのない行はひとつもないが、何よりも、「御霊」という誠に大切な単語を、「僕ら」という一人称に接続するのは、およそ日本語に対する冒涜といっていい。
 古事記、日本書紀、万葉集、古今集、新古今集、源氏、それに本居宣長までを読んでご覧なさい。
 「わが御霊(御魂)」という言い回しが見つかるのは、ただ一か所だけだろう。
 「この鏡は、もはら我が御魂(みたま)として、吾が前を拝(いつ)くがごと拝き奉(まつ)れ。」
 古事記の一節である。そして、この言葉を述べているのは、天照大神だ。
 むろん、科学的にいうならば、「『古事記』を編纂したチームが、天照大神という人格神を措定して、そのお方にこのような言葉を喋らせている。」というのが正しいのだが、とりあえずここでは、「日本語の伝統」について強調したいので、あえて「天照大神がそのように語っている。」と言っておく。
 言いたいのは、「私」という一人称に「御霊(御魂)」という単語を繋げ得るのは、日本語の伝統において、神にのみ許される所業であるということだ。
 しかるに何ぞや、「僕らの御霊」とは。
 まあ、「僕」と「僕ら」とではまた話がかわってくるわけで、「僕ら」と風呂敷を広げて周りの者を包みこもうとするあたり、よけいに気色悪さが際立つのだけれど、まあ自分から包み込まれたがってる人たちも多いみたいだから、別にそこはもうどうでもいいか。
 ロッカーなんだから、とりあえずファン層っていうか、同調者を増やそうというのは本能だろうしなあ。
 いずれにしても、「僕らの御霊」なんて歌詞をつくって恬(てん)として恥じず、「愛国者でござい。」と胸を張ってる姿は、少しでも古典に親しんでいる者から見れば笑止でしかない。しっかりしてくれよ野田くん。おれ『前前前世』も『スパークル』も好きなのに。映画館で見て(聴いて)泣いたのにさあ。アホみたいじゃないかこれじゃあ。
 ところで、それはそれとして、「HINOMARU」という曲そのものとはまた別に、この曲のリリースと、野田さんの謝罪、それに対する世間の反応といった一連のプロセスも気になる。
 「HINOMARU現象」とでもいうか。
 「HINOMARU」という曲そのものと、「HINOMARU現象」とはまた別だ。こちらについても少し述べたい。
 「ゆとり」という括りは社会学的に確立されてるわけではないし、そもそも軽侮の響きがあるので失礼だろう。いまどきの若い人たちをなんと呼べばいいのかわからないのだけれど、とりあえず「平成生まれ」といっておこうか。
 むろん、平成といっても30年の長きにわたり、「平成生まれ」で一括りにするのも粗すぎるが、この先また適切な呼び方を思いつくまで、ひとまずそうさせて頂きたい。
 ぼくは昭和後半の生まれだけれど、子供の頃から、小説はもとより、ドラマやマンガなどにおいても、「軍国ニッポンの怖さ」ってものが、いろいろな物語、たくさんのキャラに託されて、繰り返し繰り返し、それこそもう「イヤというほど」描かれるのを見てきた。
 それはもちろん、作り手の側が、じっさいに戦争を体験した世代であったからだけど、とうぜんながら時代を追うごとにその記憶は薄れ、「軍国ニッポンの怖さ」を追体験できる(させられる)機会も、めっきり少なくなってるはずだ。
 正直なところ、学校の授業にもまして、子どもってのはサブカルによって「教育」されるもんだから、このあたりが、「昭和生まれ」と「平成生まれ」との温度差になってて、今みたいな機会に露呈される。
 「右」とか「左」とか、そんなイデオロギー的な、たいそうな話じゃないんだよな、ほんとはな。
 平成生まれの人たちはむしろ、『ゴーマニズム宣言 戦争論』をはじめとする、小林よしのりの著作のほうに親しんでるんじゃないか。
 小林さんの作品は、ぼくもいっぺんまとめて読まにゃいかんと思ってるんだけど、あのどぎつい描線が生理的にダメで、ついつい後回しになってる。
 でも、ブックオフで立ち読みしたことはある。じっくり読んだわけじゃないんで、おおきなことは言えないけど、ぼくが読んだ範囲では、小林よしのりという表現者が、「軍国ニッポンの怖さ」を生々しく描いているものはなかった。
 平成生まれの人たちの多くが、もしこれをそのまま真に受けてるんだとすると、それは相当偏ってるんじゃないかと思う。
 というわけで、今回は、いま手元にある本の中から、ぼくが相当えぐいと思ったくだりを、引用させて頂きたい。「軍国ニッポン」ってもののえげつなさが、わかりやすく伝わってくると思うからだ。


 ……軍隊では、教育は暴力のもとにおこなわれた。それは多くは、暴行であり、私刑であった。兵隊は、朝から寝るまで、時には夜中まで、なぐられつづけた。学徒兵も、その例にもれなかった。……(中略)……復唱のいいかたが悪いといってはなぐられ、いつも走っていないからといってはなぐられた。……(中略)……班内のひとりが失敗したために、ほかの全員が制裁されることも、しばしばあった。いきなり、なぐられることもあるが、多数が制裁を受ける時には、号令がかけられた。「今から、しょうねをいれかえてやる。ありがたく礼をいえ」と、若い下士官が、いばりかえる。兵たちは、声をそろえて、「ありがとうございます」といわねばならない。それをまずくいうと、それもなぐられる数を増すことになる。
 号令は、「両足をひらけ」にはじまり、「歯をくいしばれ」とくる。下士官は両手をふるって、交互に頬をなぐりつける。からだがよろめく。三発か四発くらうと、目がくらんで、ぶったおれる。それをつかみあげ、あるいはけとばして立たせて、また、なぐりたおす。
 このような激しい暴行のために、顔ははれあがり、目が見えなくなる。誰とも見わけのつかない顔になる。鼻血を流して、顎を染めるのは、普通である。なかには、前歯が折れ、耳の鼓膜をやぶられたものも、すくなくはない。もっと侮辱した制裁も行われていた。……(後略)……。

 奥野健男・編『太平洋戦争』集英社文庫、387ページより。

 これは「陸軍 内務班」での話だけれど、ぜんぜん特殊なケースじゃなく、これこそが、「軍国ニッポン」の体質そのものなのだった。
 ぼくなんかが小学生の頃には、この「軍国教育」で育った教師がじっさいに居て、ぼく自身、何ひとつ悪いことをしてないのに、いきなり廊下で、「貴様、何をちんたら歩いとるかッ」と一喝され、顔を張られたことがある(実話)。
 今だったら大問題だろう。まあ、軍国教育もさることながら、今から思うと、すこし精神に異常を来たしていたのかもしれない。しばらくのちに、本当に事件を起こして退職しちゃったようだから。
 そんなのがいたんですよ、まだね、昭和50年代にはね。
 ああ、つい思い出話が入っちまった。まあいいや。
 もちろんこれは、野田洋次郎さんのつくった「HINOMARU」って歌とは直接にはカンケイのない話だよ。直接にはね。ただ、昭和に生まれた者たちには、幼いころからの刷り込みによって、「ヒノマル」ってコトバと、この手の陰惨な情景とが、心のどこかで結びつくようになっちゃってんのな。
 そういうふうになっちゃってんですよ、ほんとにね。体質としてね。だから、「過剰反応かなあ」とも思いつつ、どうしても、あれこれ言っちゃいたくなるわけさ。
 そこんとこもひとつ、わかって頂きたいとは思う。

追記)
 例年だったら8月に書くような記事を、2ヶ月も前倒しで書いちゃったなあ……。
 でも、「カタルシスト」はいい曲なんですよ。YOU TUBEで公式を5回くらい立て続けに見せて(聴かせて)もらっちゃった。英語詞のパートにかわったとたん、曲の肌ざわりが冷ややかな、金属的な感じになるのな。あそこ痺れる。もちろんメインの日本語パートもいいし、詞そのものもいいわ。林檎嬢には及ばないけどね……(@個人の感想です)。
 だから身の丈に合ったコトバを使ってるかぎりは巧いんだよな。裏返していえば、それだけ無理して作ったんだね、あの歌は。
 いやHINOMARUだって、歌詞を度外視して、曲だけ聴けばアツくなるんだよね、胸がね。こういうとこが、「音楽」の凄さであり、コワさでもあるわけだけど。
 なんにせよ今回は、コトバってのは難しいもので、また怖ろしいものだと、あらためて、自戒を込めて思ったですよ。




RADWIMPS HINOMARUについて 02 ~『君の名は。』はセカイ系か?

2018-06-16 | 君の名は。/天気の子/すずめの戸締まり
 RADWIMPSの「HINOMARU」にこだわるのは、前回も述べたとおり、このバンドがアニメ『君の名は。』にふかく関わったからである。
 たんに主題歌をふくむ4曲を提供したというだけでなく、作品の製作中から新海誠監督となんども打ち合わせを重ね、ストーリー展開や、「世界観」そのものにも影響を与えた。ただの音楽担当じゃないんである。
 でもって、ぼくは2年まえ、その『君の名は。』に激しく入れ込んだのだった。今でも好きだ。
 そんな縁がなかったら、こんなややこしそうな話題、ブログで取り上げたりしない。
 「右」と「左」との、いわゆるイデオロギー論争てきなやつは、ここでは遠慮しておきたい。ちなみにぼくは、「右」のほうの立場だ。それで、日本語にはかなり厳格である。だから前回は、内容については棚上げして、ひとえに「文法」もしくは「用法」の見地からこの歌詞を難じた。
 「HINOMARU」の歌詞における擬古文の使いかたはあまりに稚拙で、ありていにいって「中2レベル」であり、とても看過できない。もともと中2っぽいブンガク臭が野田洋次郎の詞のウリであったにせよだ。なぜなら、これが「愛国(心)を歌ったうた」だから。愛国(心)を歌うのならば、せめて正しく美しい日本語を使ってくれ。それが前回のぼくの主張であった。これについてはもちろん、「この内容をがっちがちの文語調でやったらほんとに軍歌になってしまう。野田さんはそれを避けたのだ。」との反論もありうるだろう。ただ、ぼくが見たところ、野田さんにはそこまでの素養はなく、仮に文語調をやりたくても、できなかったと思う。
 ふつうのひとなら別にいいけど、いやしくも表現者を自認する者が「愛国(心)」をテーマに作品を世に問うならば、最低でも古事記、日本書紀、万葉集、古今と新古今、源氏、ずっと飛ばして芭蕉、蕪村、さらにずっと飛ばして漱石、これくらいには目を通しておいてほしい。精読しろとはいわない。目を通すだけでいい。漢詩だの本居宣長だのまでやれとも言わない。だから、けして無理はいってないはずである。
 このことは、野田さんだけじゃなく、ゆずの北川悠仁さんにも当てはまる。
 まあ、こんなことをわーわー言うのはぼくくらいだろう。いずれにせよ、「右か左か左か右か」のせめぎ合いみたいなのからは、ちょっと距離を置かせて頂きたいのだ。ぼくがこよなく大切に思うのは(「愛」とはすこし違うようだ)、「日本」よりむしろ「日本語」なのかもしれない。
 あと、「表現の自由」の問題も出ている。ぼく自身は、「表現の自由」を何より重視するものである。このたび野田さんがツイッターで謝罪したのは、たぶん営業上の理由が大きいと思うが(この夏に韓国をふくむアジアツアーがある)、この曲そのものを廃盤にしたり、ライブでの演奏を自粛するなんてのは、もってのほかだと思う。
 それくらい強い禁足処置が必要なのは、特定の個人や集団などを、明確に名指しで傷つけたばあいだけだろう。この歌は、たしかに危ういものを孕んでいるかもしれないが、そこまでリアルに誰かを傷つけているわけじゃない。そのような表現までをも抑圧するのは、社会そのものにとってもよくない。そのほうがずっと危うい。
 はてさて。なんだか前回からアツくなってるが、やはり題材が題材だけに、気が高ぶってるんだと思う。
 今回書きたかったのは少し別の話である。冒頭でのべた『君の名は。』のことだ。
 このたびの件でぼくは、作詞家としての野田洋次郎にはなはだ失望した。
 念のためいうが、「ウヨク的だ」と思って失望したわけじゃない。歌詞の日本語が稚拙すぎたからだ。そしてもちろん、「表現(歌詞そのもの)」と「内容(歌詞のあらわす世界観。とりあえずここでは曲のことは度外視)」とは不可分一体のものだから、歌詞の脆弱さは、けっきょくのところ、野田さんの思想そのものの脆弱さにつながる。
 そこでぼくは気が滅入ったわけである。だって、冒頭でのべたとおりRADWIMPSは『君の名は。』に深くかかわってるのだ。野田さんの思想の脆弱さは、ぼくの大好きな『君の名は。』にも通底してるんじゃなかろうか……。
 たしかに、オトナの目で冷静に見返してみると、『君の名は。』はけっして完全無欠のおハナシではない。圧倒的な映像美と、卓越した編集技術をふくむ映像表現で覆い隠されてはいるけれど、ストーリーそのものをつぶさに見れば、弱いな、と思える点はある。
 これまでぼくは、あえてその点に目をつぶってきた。でも今回の件で、なんだかどうも、真剣に向き合っとかなきゃいけない気分になってきたのだ。
 そのための手掛かりがほしい。
 「右か左か」のイデオロギー論争とも、「表現の自由」の問題とも違う立場から、「HINOMARU」にアプローチした文章はないか。そう思ってネットを見ていたら、石黒隆之という方のエッセイを見つけた。
 肩書は「音楽評論家」である。前回のwikipedia引用の中にもお名前があった。椎名林檎の「NIPPON」について、
「日本に限定された歌がずっと流れることになるのも、相当にハイリスク」
「過剰で、TPOをわきまえていないフレーズ。日本以前にサッカーそのものを想起させる瞬間すらない」
 と批判した(とwikipediaに記されていた)方だ。
 なおぼくは、林檎嬢のファンってことを抜きにしても、このご意見にはまったく賛同できぬことを書き添えておく。
 その石黒さんが、「HINOMARU」についてこう書いておられる。

 さて政治的な興味から注目された「HINOMARU」ですが、野田氏の“幼い全能感”は他の曲からも見て取ることができます。「五月の蝿」(2013年、作詞・作曲 野田洋次郎)という曲が典型的ですね。上っ面だけ暴力的な言葉の羅列によって、とりあえずセカイと個人が対決しているような雰囲気を作る。そんな不可解な戦いの中で、どういうわけか重要な真理を知った気になってしまう。


 「五月の蝿」は、YOU TUBEに公式PVがアップされているけれど、「問題作」「怪作」と呼ばれ、スプラッタムービーを思わせる語句が並んでいるので、そういうのが苦手な方、食事前の方などはくれぐれも注意されたい。ぼくにいわせれば、まあ、ボードレールの末流であり、そりゃポップスの歌詞としてはショッキングだろうが文学的には別にどうってこともない。ただ、本を読まない若い子たちが「トラウマ級だ」だの「すげえやっぱ野田天才」だのと持てはやす気持はわかる。そんな歌である。
 「五月の蝿」論はさておき、ぼくが注目したのは「セカイと個人が対決している」のくだりだ。なるほど。セカイ系か。気づいてみれば何を今さらって感じだけれど、『君の名は。』=新海誠さんは、「セカイ系」というキーワード(キーコンセプト)によってRADWIMPS=野田洋次郎さんと繋がるのだ。
 「『君の名は。』の脆弱さと向き合わねば。」というぼく個人の今回の課題は、ここにきて、「『君の名は。』はセカイ系なのか?」という設問に置き換えられた。
 セカイ系とはなにか。
 東浩紀さんの定義が明快だ。
 セカイ系とは、『主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)とを中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと』である。
 なるほど。しかし「抽象的な」よりも、「おおげさな」のほうがより分かりやすいと思う。
 代表的なものとして、高橋しんのマンガ『最終兵器彼女』、秋山瑞人のラノベ『イリヤの空、UFOの夏』、そして新海さんの『ほしのこえ』が挙げられている。『ほしのこえ』は、2002年に公開された、新海監督の初の劇場用アニメだ。
 ぼくは観てないが、wikiによれば、「携帯電話のメールをモチーフに、宇宙に旅立った少女と地球に残った少年の遠距離恋愛を描く」ものであったとか。
 もともと新海さんは、「セカイ系」の代表と見なされるほどの人だったのだ。むろん、前に読んだ「ユリイカ」の特集号にもそのことは書かれてあった筈であり、これを失念していたのは、やはりぼくが『君の名は。』の脆弱さから目を背けたかったせいだろう。
 『「ぼく」と「きみ」とが、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」といったおおげさな大問題に直結する作品』をセカイ系と呼ぶなら、そりゃあまあ、『君の名は。』はセカイ系に違いない。
 しかし、「具体的な中間項」とは何だろう。
 「個人」がいて、「世界の危機」があって、そのあいだに挟まる「具体的な中間項」といえば、ほとんどもう自衛隊クラスの、強大なパワーをもった国家的機構くらいしか考えられない。
 となると、『君の名は。』と同じ2016年に公開された『シン・ゴジラ』がすぐ思い浮かぶ。あの特撮ドラマの事実上の主人公は「日本の官僚機構」そのものだろう。矢口蘭堂(長谷川博己)はいわばそのシンボルにすぎない。
 とはいえ、いちおう名前を与えられ、人格を備えてるんだから、ひとりの「個人」には違いない。強引だけど、この蘭堂と、カヨコ・アン・パターソン(石原さとみ)とを「ぼく」と「きみ」だと見なすなら、『シン・ゴジラ』は、『「ぼく」と「きみ」とが、具体的な中間項をぎっしりと挟んで「世界の危機」「この世の終わり」といったおおげさな大問題と結びつく作品』であるから、「セカイ系」とは呼ばれないはずである。
 ネットで確認したところ、果たしてそのとおりだった。『シン・ゴジラ』は、あきらかに、「セカイ系」とは一線を画すものとして扱われている。さすがにあれだけの設定を整え、取材に基づいて綿密にシステムの内実を描き込んだら、「セカイ系」とは呼ばれないのである。
 だけどこれだと、ようするにシミュレーション・ノベル以外のものは、たやすく「セカイ系」っぽくなっちまうんじゃないか。
 伊坂幸太郎さんの『ゴールデンスランバー』なんてどうだろう。ぼくは映画版をテレビで見て、このブログで分析もやったが、あれだって、人はいっぱい出てくるし、「国家的謀略」なんてのが絡まってもいるが、ありようは、「青柳」と「晴子」とのお話なのである(ふたりは結局、ひとことも言葉を交わさないけれど)。
 「世界の危機」とまではいかないけど、一組の男女のラブストーリーを描きたいがために、「国家的謀略」なんてのを持ち出すんだから、おおげさといえばおおげさだ。
 こう考えていくと、「セカイ系」というコンセプトは、思いのほか射程が広いかも知れない。
 いきなり話が大きくなるが、世界文学の古典中の古典、ダンテの『神曲』だって、ダンテがベアトリーチェという(べつに恋人でもない)女性にべらぼうな思い入れをして創り上げた作品である。
 「世界の危機」ではないにせよ、地獄、煉獄、天国を経巡るんだから、格調高き妄想炸裂ファンタジー、といえないこともない。
 あるいは、ゲーテの『ファウスト』はどうか。ラブストーリーの要素は薄いが、悪魔と契約し、グレートヒェンという美少女と熱烈な恋に落ちて(じきに捨ててしまうんだけどね。ひどい奴なのである)、異世界にまで及ぶ大冒険の果てに天国に迎えられるんだから、やはり相当おおげさである。
 マンガだと、『20世紀少年』などどうか。これも昔ぼくは当ブログで分析したが、小学校の同窓生だけで「じんるいのめつぼう」にまで至ってしまう世界。いちおう国会の様子も描かれてたし、ローマ法王なども出演されてらしたが、それだけをもって「具体的な中間項」と呼べるだろうか。
 現代小説でも、「日常べったりのリアリズム」から離れて、少しでもSFチック、ファンタジックな発想を導入したら、ほとんどもう、「セカイ系」っぽくなっちゃうんじゃないか。言い換えると、フィクションってものは、そもそも根っこに「セカイ系」たる資質を含んでるのではないか。
 そんなふうにも思えてくる。
 セカイ系とはじつは、文芸用語でいうならば、「ロマンティシズム(ロマン主義)」の一種だ。
 これもいろいろ定義はあるが、ドイツ・ロマン派の精髄は、「自己(自我)と世界との合一」である。そのばあい、やはり独りじゃ物悲しいし、話としても面白くないので、だいたい恋愛要素が絡む(失恋に終わるケースが多いが)。
 自己(自我)と世界とが、「具体的な中間項」なしに合一する。恋愛もからむ。
 もろセカイ系ではないか。
 『君の名は。』は、『シン・ゴジラ』と比べるまでもなく、べっちゃべちゃのロマンティシズムの作品だ。もともと新海さん自身がそういう作家で、だから『君の名は。』がセカイ系に属することは間違いなくて、それだけを指摘しても、さほどたいしたことはなさそうだ。
 『君の名は。』がセカイ系に属するのは前提として、このアニメが、セカイ系を超え出ている要素はないか。そう考えてみたい。
 『君の名は。』は、「世界の危機」を扱ってはいない。「ニッポンの危機」「東京(首都)の危機」を扱ってるわけでもなくて、ここで危機に晒されるのは、「糸守」という地方の(架空の)小さな町である。
 もういちど、初めの定義に戻ってみる。
 セカイ系とは、主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)とを中心とする小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといったおおげさな問題に直結する作品である。
 『君の名は。』とは、ヒロイン(三葉)と青年(瀧)とを中心とする(超自然的ではあるが)小さな関係性が、具体的な中間項を挟むことなく、「糸守の危機」「糸守の終わり」という大きな問題に結びつく作品だった。
 微妙だが、決定的な差異がある。「糸守」は、「世界」に比べてはるかに小さい。三葉にはたぶん、住民ひとりひとりの顔が(濃淡の差はあれ)ぜんぶ判っているはずだ。そのことはもちろん、瀧もよく知っている。
 だから、三葉のからだに入った瀧は、半信半疑のテッシー&さやちんと組んで、糸守町ぜんたいを救おうと(文字どおり)奔走した。
 町長(父)がまったく取り合ってくれず、必死の叫びも住民に届かず、ついに彗星が頭上で割れ始めたとき、すでに自分のからだに戻っていた三葉は、自分ひとりで、あるいは、せめて祖母と妹を連れて、逃げ出すこともできたはずである。
 しかし、彼女はそうはしなかった。それどころか、そんな発想に思い至る様子すらなかった。やっぱりそれは、彼女が糸守の町そのものと、その住民や、風景や歴史と深く「結ばれて」いたせいだ。
 三葉と瀧は、けして自分たちだけで完結して、そのまま世界と合一しちゃったわけではない。周りの人たちとの「結び」をちゃんと保っていた。
 この一点において、『君の名は。』は、ありきたりの「セカイ系」に留まらず、3・11以降の「リアル」に向かって手を差し伸べているといえないだろうか。
 とりあえず今回ぼくは、そのような結論に達した。当面のあいだは、『君の名は。』を好きなままでいられそうである。



RADWIMPS HINOMARUについて

2018-06-15 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽
 これは2018(平成30)年の記事です。日付にご注意ください。


 RADWIMPSが6月6日にリリースした曲「HINOMARU」が、「軍歌みたいだ」と物議をかもしている。これを受け、このバンドのフロント(ボーカル)で、同曲の作詞・作曲も担当した野田洋次郎が、11日、ツイッターで謝罪をした。
 全文はネットで見られるが、「戦時中のことと結びつけて考えられる可能性があるかと腑に落ちる部分もありました。傷ついた人達、すみませんでした」というくだりがあるから、たんなる「釈明」ではなく、れっきとした謝罪である。
 でもネットを見ていると、これで鎮静化ってわけでもなく、15日現在もなお、けっこうな騒ぎがつづいている。
 ふつうなら、こんな厄介そうな話題はブログで取り上げないんだけど、野田さんといえば、映画『君の名は。』に、主題歌をふくむ4曲の楽曲を提供し、大きな寄与をした人だ。RADWIMPSの曲のない『君の名は。』なんて考えられない。
 ぼくは2年前に劇場で観て年甲斐もなくこのアニメに魅了され、いくつか記事も書いた。今年(2018年)の1月、テレビでの初オンエアを見たのだが、かつての感動はまるで色褪せず、やはり良い作品だと思って、「『君の名は。 Another Side Earthbound』 なぜ町長はとつぜん態度を翻し、町民の避難を敢行したか」を1月5日に再掲した。




 そういう縁があるもんで、ブログをやってる以上、この件を避けては通れない。
 「HINOMARU」は、通算22枚目のシングル「カタルシスト」のカップリング曲である。「カタルシスト」は、2018年サッカーワールドカップ・ロシア大会の、フジテレビ系テーマ曲だ。
 つまり、「HINOMARU」がW杯ロシア大会のテーマ曲ってわけではない。このところ、勘違いしている方もおられるようなので、念を押しておきたい。
 とはいえ、カップリング曲なのだから、これと「カタルシスト」とが無関係ってはずもない。裏と表とで補い合って、ひとつの「世界観」をあらわしている……と見るのがふつうだろう。
 サッカーW杯のテーマ曲と聞いてすぐ思い出すのは、2014年にNHKからの依頼を受けて作られ、結果として2016年度まで使われることとなった、椎名林檎の「NIPPON」だ。
 この「NIPPON」の歌詞も、じつは当時そうとう批判を浴びた。Wikipediaより、すこし編集のうえ引用させていただく。


 『週刊朝日』は、2014年7月4日号の誌上にて、「(サッカー日本代表のチームカラーを「混じり気無い青」と表現した歌詞が)『純血性』を強調している」、「(死をイメージさせる歌詞が)特攻隊を思わせる」、「『日本の応援歌なんだから日の丸は当然』と言うが、意味深な歌詞をはためく国旗の下で歌われてしまうと、さすがにいろいろ勘ぐりたくもなる」などと評した。
 音楽評論家の石黒隆之は「日本に限定された歌がずっと流れることになるのも、相当にハイリスク」「過剰で、TPOをわきまえていないフレーズ。日本以前にサッカーそのものを想起させる瞬間すらない」と、NHKのワールドカップ中継のテーマとしてふさわしくないと批判した。
 ジャーナリストの清義明も「サッカーは民族と文化のミクスチャー(混在)のシンボル」「最近は浦和レッズの一部のサポーターが掲げた『ジャパニーズ・オンリー』という横断幕が差別表現と大批判された事件もあったのに、サッカーのカルチャーをまったくわかってないとしか言いようがない」と批判した。
 一方で、音楽評論家の宗像明将は「デビュー当時から和の要素も含む過剰な様式美を押し出してきた人ですから、その要素が過剰に出すぎて議論を呼んでいるだけでしょう」として、椎名の音楽に特段の政治性はないと擁護した。


 どんどん長くなってしまうが、これらの批判に対する才媛・林檎嬢の反論も大切なので、もうすこしwikiからの引用をつづける。


 椎名自身は、雑誌『SWITCH』のインタビューにて「貧しい。」「諸外国の方々が過去の不幸な出来事を踏まえて何かを問うているなら耳を傾けるべき話もあるかもしれないが、日本人から右寄り云々と言われたのは心外。(それらの批判は)揚げ足を取られたと理解するほかない。趣味嗜好の偏りや個々の美意識の違いなどという話を踏まえた上でも、自分は誰かを鼓舞するものを書こうとはしても誰かに誤って危害を加えるようなものは書いていないつもりだ。」と反論し、不謹慎だと言われた“死”という言葉については「死は生と同じくみんな平等に与えられるもので、勝負時にせよ今しかないという局面にせよ、死の匂いを感じさせる瞬間は日常にもある。ここを逃すなら死んだ方がマシという誇りや負けた後のことまで考えていられないという決死の覚悟をそのまま写し取りたかっただけ。」と答えている。
 また、2014年6月14日にゲスト出演したラジオ番組『JA全農 COUNTDOWN JAPAN』においては、「最前線で戦う方だけにわかる、『ここを逃したら死ぬしかない、死んでもいいから突破したい』っていう気持ちはどんな分野にでもある。その瞬間だけを苦しむんじゃなくて、楽しもうという気分を切り出せば成功するだろうと思い、頑張って取り組んだ。」と語っている。


 椎名さんは、どのような形であれ、ひとことも謝罪はしていない。そこが今回の野田さんと違う。潔い、とぼくは思うが、ただ、寄せられた批判の声が、野田さんのほうがずっと大きかったのも確かである。
 ひとつには、『君の名は。』の世界的ヒットによってRADWIMPSの知名度がワールドワイドとなり、この夏には昨年に続いて、韓国をふくむアジア・ツアーが予定されている、ということもあるだろう。つまり営業上の配慮である。
 もうひとつ、歌詞そのものに重大な違いがある。このブログの性格上、ここではこちらを詰めていく。
 JASRACが怒るので残念ながら転載できないが、「NIPPON」と「HINOMARU」、双方の歌詞を、あらためてネットで見比べてみた。とりあえず、「椎名林檎は天才だ。」と再確認した。「戦い」の場における「生」の極まり。そこにおいて身体を突き上げてくるタナトス(死への欲動)。くらくらさせられる歌詞だ。いわゆる現代詩人をもふくめ、いまの日本で、ここまで鮮烈に日本語を使いこなせるひとは数えるほどしかいまい。
 とはいえ、「現代詩手帖」みたく、日本全国でも数千人単位の読者しかいないメディアに発表するのではなしに、天下のNHKで、天下のサッカーW杯のテーマ曲として流されるのだから、これを「過剰」ととる視聴者はとうぜん想定しうる。上に引いた批判のなかで、「TPOをわきまえていない」とあるのは、まさにそのことであろう。
 じつはこれは、「政治」というもののもつエロティシズムにかかわってくる大問題なのである。きちんと論じるつもりなら、あの三島由紀夫まで引き合いに出して、長い評論をでっちあげねばならない。だからここでは深入りしない。そんなトリガーをつい引いてしまいそうになるくらい、林檎嬢の才はすさまじいということだ。
 いっぽう、「HINOMARU」の歌詞には、エロティシズムもタナトスもない。こういっちゃナンだが、かなり素人くさい。
 もともと野田さんの歌詞は、ぼくの好きな「前前前世」もふくめてどれも素人くさく、ある種のブンガク臭と、やや攻撃的な妄想力が爆発してるのが魅力、というところはある。
 「NIPPON」に寄せられた批判のなかで、「HINOMARU」に通じるのは、「『純血性』の強調」だろう。
 強調された「純血性」は、わりとたやすく「優越性」につながる。それゆえに危ういというので警戒されるわけだけど、「HINOMARU」のばあい、これに加えて「愛国」がストレートに出てくるもんで、よりいっそう批判を招いた。
 全文ではなく、断片だけならJASRACも寛恕してくれると思うので、一部を抜粋させて頂こう。
 出だしが、

 風にたなびくあの旗に
 古(いにしえ)よりはためく旗に
 意味もなく懐かしくなり
 こみ上げるこの気持ちはなに?

 となっている。このテクニックは、「修辞的疑問」というのだけれど、あえて真面目に答えるならば、うんまあそれは、ふつうにいえば愛国心だよね、と、だれしもが言わざるを得まい。
 林檎嬢の「NIPPON」には、「愛国心」というワード(概念)を呼び起こす要素がなかった。ここもまた、ぼくが凄いと思うところだ。げんに、上に引用した批判の声でも、「愛国心をかき立てる」みたいなことは言ってない。週刊朝日でさえもだ。それはつまり、彼女がたんなる「詩人」としてのみならず、「商業ポップ」の作り手としても、プロ中のプロだということだろう。むろん、スポンサーたるNHKのチェックがきちんと入っていた、ということもあろうが。
 じつは、サッカーのテーマ曲ではないけれど、つい最近、今年の4月に「愛国心扇動ソング」として物議をかもした歌がある。「ゆず」の最新アルバム『BIG YELL』に収録された「ガイコクジンノトモダチ」だ。

 この国で生まれ 育ち 愛し 生きる
 なのに
 どうして胸を張っちゃいけないのか?
 この国で泣いて 笑い 怒り 喜ぶ
 なのに

 「この国で(を)/愛し」と、はっきり明言しちゃってる。「はっきり」と「明言」とは意味がかぶってて、いわゆる「重言」なんだけど、「重言」なんて反則ワザを使いたくなるほど、「愛国」を明瞭に歌っちゃってるのだ。
 なお、「なのに」が繰り返されるのは、「なのに」君が代を歌えない、「なのに」国旗を飾れないと続くからである。これはこれで、何だかなあと思うけれども、この方面に踏み込んでいくといよいよ紛糾して収拾がつかなくなるので、ここではただ、「この国で(を)/愛し」と、このくだりにだけ注目したい。
 たぶん、戦後のポップス史において、まあアングラ系は別として、オリコンランキング常連クラスのアーティストで、ここまで「愛国(心)」を前面に出した人はこれまでいなかったはずだ。そういう意味では画期的だろう。
 歌詞を書いたのは、ゆずの北川悠仁である。
 このたびの野田さんにしても、あくまでもぼくの想像だけど、この「ガイコクジンノトモダチ」の歌詞に(いろいろな意味で)触発された面はあったかと思う。まるっきり無関係とは思えない。そして、もしこんな言い方が許されるならば、北川さんは「一線を越えた」のだ。でもって、野田さんはさらにその先を100メートルくらい突っ走っちゃった感がある。


 胸に手を当て見上げれば 高鳴る血潮、誇り高く
 この身体に流れゆくは 気高きこの御国の御霊

 また、

 ひと時とて忘れやしない 帰るべきあなたのことを
 たとえこの身が滅ぶとて 幾々千代に さぁ咲き誇れ

 とか、字面だけ見ても、かなりイカツい。
 ネットでこの歌をじっさいに聴かせていただき(ありがとうございます)、歌詞をつぶさに拝見して、ぼく個人も、「うん。軍歌みたいだね。」とほんとに思った。
 ただ興味ぶかいのは、擬古文を使おうとしてるわりに、口語は混じるし、文法自体もメチャクチャだし、なんかちょっと、怖いってより笑っちゃいそうになるところだ。
 イデオロギーうんぬん以前に、正直いって、ひとりの作詞家としての野田洋次郎に、今回ぼくはまるっきり失望させられちまった。素人くさいってレベルじゃない。
 それくらいひどいから、「この歌詞そのものが『愛国心』の空洞を表してるのだ。つまりこの歌はフェイクなのだ。」という「穿った見方」すらネットには出ているのだけれど、でもそれはそれで変な話で、今度は逆サイドから怒られるんじゃないかという気がする。
 ところで、野田さんや北川さんは、批判に対する釈明の中で、「自分は右でも左でもない。そういうものとは関係なしにこの詞を書いた。」と述べて、それでまた、「ウソつけ」と言われたりしてるわけだけど、これを書いてるぼく自身は、中立ってよりも、じつはけっこう「右」なんである。
 といってもまあ、シンプルにこの国を大切に思ってて(「愛」とはちょっと違う気がする。「愛」ってのはよくわからない)、この国のことば、つまり日本語をものすごく大切に思っている、というていどの話だけれど。
 しかし、「日本語を大切に思っている」という点においては人後に落ちないつもりでおり、だから野田さんのこの歌詞については、たんに失望したとか、思わずからかいたくなる、といった段階をこえて、いささか腹を立てている。
 「愛国」を歌うんであれば、もっと日本語をきちんと使おうよ、と言いたい。
 中途半端に擬古文をもちいて「それっぽい感じ」を出そうとするなら、いっそもう、すべてをそれで統一すべきであった。

 風にたなびくあの旗に
 古(いにしえ)よりはためく旗に
 意味もなく懐かしくなり
 こみ上げるこの気持ちはなに?

 「意味もなく」は「故知らず」がよい。たんに擬古文だからそのほうがいいってだけでなく、ここで「意味もなく」では文字どおり「意味」をなさない。わからないのは「意味」ではなく「理由」なのだから。
 ほかの部分にも違和感はあるが、符割りのこともあるのでうまい言い方が見つからない。でもこの冒頭だけでも、据わりのよくないフレーズだらけなのは確かだ。


 胸に手を当て見上げれば 高鳴る血潮、誇り高く
 この身体に流れゆくは 気高きこの御国の御霊

 見上げれば、ではなく、格調のために、見上ぐれば、としたいところだ。
 高鳴る血潮、誇り高く、と、「高く」が重なるのも見(聴き)苦しいが、そもそも「血潮」は「熱く滾る」ものであって「高鳴る」ものじゃない。高鳴るのは「鼓動」だ。
 たしかに、「高鳴る血潮」というフレーズを校歌につかってる学校もあるようだ。しかしそれも厳密には誤用だ。「高鳴る潮(うしお)」という言い回しはあり、それを拡張しているのだと思うが、ここでの「潮」は「波の音」であり、だから「高鳴る」のである。「血潮」が高鳴るというのは、誇張法としても無理があるのだ。
 「この身体に流れゆく」も変で、「ゆく」は、所定の場所からどこかへ去ってしまうことである。身体のなかを巡っているのだから、「流れたる」だ。あ。いや、「御霊」が流れ込んでくると言いたいのかな? それならば、「流れくる」だ。
 「気高き」と、ここでまたさらに「高い」が重なる。品がない。「御国」と「御霊」の重なりも品がない。それにしても「御霊」とはしかし、えらいコトバを持ち出したものだ(これについては後で詳しく述べる)。


 ひと時とて忘れやしない 帰るべきあなたのことを
 たとえこの身が滅ぶとて 幾々千代に さぁ咲き誇れ

 「忘れやしない」は甘ったるい口語だ。気持ち悪い。「ひと時たりと忘るまじ」であろう。「忘るまじ」が固すぎるなら(でも林檎は使いこなしてたよ)、せめて「忘れまい」だ。
 「たとえこの身が滅ぶとて」は、文法がおかしい。「たとえこの身が滅ぶとも」である。こういう誤りは、カッコつけて擬古文を使おうとするとき誰しもがやってしまいがちなことだが、仮にも商業ベースに乗せる楽曲が(しかも「愛国」を歌う楽曲が!)、こんな間違いをするのはまことに恥ずべきことである。


 どれだけ強き風吹けど 遥か高き波がくれど

 擬古文としてもぎこちない。「いかなる強き風吹けど 遥か高き波来たれども」くらいか。


 胸に優しき母の声 背中に強き父の教え

 こういうのもまあ、「愛国とワンセットになった性差の固定化だっ。」とフェミニストなら気色ばみそうなくだりだが、ぼくとしては、背中(せなか)が気になった。野田さんは「せなか」と歌っているが、「せな」と擬古文ふうに短く読んで「せな‐には」と助詞の「は」を入れたほうがよい。「母」と「父」との対比が際立つからである。細かいことをいうようだが、対比表現において後のほうに「は」を入れるのは、漱石あたりを読みなれてればしぜんにできることである。
 こんな具合に、出だしからラストまで全編にわたってデタラメや誤用や残念なフレーズが散見され、JASRACさえ怒らなければ無料でぜんぶ添削してやりたいくらいなのだが、中でも極めつけは「僕らの燃ゆる御霊(みたま)」であろう。
 「御霊」はこの歌のキーワード(キーコンセプト)であり、とても重要なのだが、じつはつぶさに読んでも意味がはっきりしない。そこがブキミで、批判を招くところでもあろうが、それはともかく、「御」は敬意を示す接頭辞だから、「僕ら」のものに付けるのは変なのである。
 「君、ぼくのおカバンを取ってくれ。」といってるのと同じだ。
 この「僕らの燃ゆる御霊」には、ぼくもつくづくがっかりした。そのあとに、「僕らの燃ゆる御霊は、挫けなどしない」というフレーズもある。「古(いにしえ)より脈々とつらなる御霊は僕らのからだに受け継がれ、いかなる困難にも屈せぬ気概(きがい)となって、僕らの芯をつくっている。」と言いたいのだろうけど、そもそも「僕らの御霊」が文法として珍妙なので、まるで心に訴えかけてこないのである。
 小林よしのりに「教育」をうけた平成うまれの皆さんは、「いい曲じゃん。」「なんで文句いうの?」くらいのノリで受け入れているようだが、それはやっぱり、この国の近代史について「勉強不足」というよりない。とりあえず、加藤周一さんの『夕陽(せきよう)妄語』(ちくま学芸文庫)をお勧めしたい。ただ、そんなことよりも何よりも、かくも幼稚な日本語でもって「愛国」が歌われちゃってるこのニッポンの現実が、ぼくはしみじみ物悲しいのだった。



追記 18年11月02日)
 この記事をほぼ5ヶ月ぶりに読み返して、ほかのところはともかく、ゆず「ガイコクジンノトモダチ」の歌詞についての記述はおかしいと感じた。「この国で 生まれ/育ち/愛し/生きる」のくだりは、「このニッポンという国のなかで生まれ、育ち、(家族やら友人やら恋人やらを)愛して、生きる。」という含意で、「国を愛し」といっているわけではない。どうしてこれを、5ヶ月前のぼくは、「この国で(を)/愛し」なんて強引に読み替えちまったんだろう。やはり平静さを欠いていたんだろうな。むろん、この歌そのものが「愛国心」っぽい気分(と、それをストレートに表現できない屈託)をテーマにしているのは間違いないにせよ、けして「オレはこの国を愛してるぜ!」と高らかに宣言しているわけではないので、この記事におけるぼくの論法は、この歌詞の件に関しては、牽強付会(こじつけ)というべきだろう。
 記事そのものを書き直すべきかと思ったが、主眼はRADWIMPS「HINOMARU」のほうにあるんだし、全体の主旨は変わらないので、このままとさせて頂き、「追記」だけを附しておきます。

 あともうひとつ、とても肝心なことなのだが、HINOMARUこと「日章旗」は、幕末において国籍を明示するための商船旗として採用されたもので、古来よりニッポンのシンボルであったわけでも何でもない。ただしこれは常識に属することなので、野田さんも承知の上であえて無知を装って押し通したのだろうと判断し、その点について本文では一切ふれなかった。









『ゼロ年代の想像力』における純文学の取り扱いについて。

2018-06-14 | 純文学って何?
「『ゼロ年代の想像力』(ハヤカワ文庫)のなかで、目につく「純文学作家」の名前は中上健次のみ。しかも、「(映画監督の)青山真治は、とても優秀なのだが、いつまでも中上健次にこだわってるのが玉に瑕だ」みたいな言い方で出てくるのだ。とほほ。」


 と、前回の記事で書いたのだけれど、あらためて確認したら、これは正確ではなかった。
 円城塔『Self-Reference ENGINE』、諏訪哲史『アサッテの人』、川上未映子『わたくし率イン歯―、または世界』、岡田利規『わたしたちに許された特別な時間の終り』。
 この4作が、「2007年はある種のポストモダン文学のリバイバル・ブームが起きた年として記憶されるだろう。」との前置きを附して、リストアップされている。
 諏訪哲史『アサッテの人』は芥川賞受賞作である。岡田さんの『わたしたちに許された特別な時間の終り』は芥川賞の候補にすらならなかったが(なぜだろう)、大江健三郎さんが単独で選考を務める「大江健三郎賞」に選ばれ、作品そのものの面白さもあって話題になったし映画化もされた。円城さんと川上さんは、この作品では選ばれなかったけれど、のちに芥川賞を取った。
 こういう実力派たちに目をつけてるんだから、宇野さんはけっして、純文学をおろそかにしてるわけではない。
 その前の段には、黒川創の名前もある。
 そもそもこの本の序盤では、W村上(春樹&龍)および吉本ばななと、定番のビッグネームをちゃんと抑えてあったのだ。後のほうでは、綿矢りさ、金原ひとみの名も見える。
 ほかに辻仁成、佐藤友哉、津村記久子らの名もある。なかなかどうして、「中上健次のみ」どころじゃない。くまなく目配りしてるのだ。
 ただ、W村上とばななについては軽くコメントがなされているが、綿矢、金原、そして辻、佐藤、津村ら各氏については、ほかとのカラミで名前を挙げてるだけである。
 円城、諏訪、川上、岡田、それに黒川さんを加えた5人については、本文ではなく、ポイントの小さい活字で組まれた「註」のなかでふれられてるんだけど、宇野さんはどうやら、この5人に対しては、一定の評価を与えているようだ。ほかの作家には、わりと冷たい。
 中上健次は論外として(とほほ……)、龍もばななも、もはや「現代」をきちんと捉えてはいない。ただし春樹さんだけは別格。ほかの作家たちは、どうもいまいち。しかしその中で、円城塔と諏訪哲史と川上未映子と岡田利規と黒川創は健闘している。そのように、宇野常寛は評価を下している(とぼくには読める)。
 念のためいうが、この文庫がでたのは2011年で、その親本となる単行本は2008年刊、宇野さんがこの論考を書いたのはたぶん2007年の終り頃だ。そのご、純文学シーンもかわっているし、宇野さんの考えも大きくかわっているだろう。ぼくがここで、10年も前のハナシをしてるってことは、アタマに留めて頂きたい。
 さて、「2007年はある種のポストモダン文学のリバイバル・ブームが起きた年として記憶され」ているんだろうか。世間は純文学になんか興味ないので、たぶん誰もそんなもん記憶してないと思うが、とにもかくにも宇野さんが、『Self-Reference ENGINE』『アサッテの人』『わたくし率イン歯―、または世界』『わたしたちに許された特別な時間の終り』の4作を、「ある種のポストモダン文学」として捉えてるのは間違いない。
 はい。ポストモダン文学って何ですか。
 答は風に吹かれている。じゃなくて、はっきりと同じパラグラフの中に書かれている。
 「広義の意味で、近代的な主体の解体を描く作品」である。
 ここんとこ、すこぶる重要なんで、ぼくのことばで補おう。
 「近代的な主体」とは、いいかえれば「近代的自我」だ。ぼくがこれまでの記事のなかで述べてきたとおり、「内面」をもち、「苦悩」をかかえ、それを「告白」したりなんかする、めんどくさそうな主体のことである。
 いや、この「めんどくさそう」と感じるセンスがまさしく「ポストモダン」の産物であって、「近代(モダン)」においては、それはけっしておかしなことではなかった。
 そういう主体がいま解体されている。それに伴って「世界」もまた壊れつつある。だって、「世界」を認識して意味づけるのは主体(自我)なんだから、これが崩れりゃ世界のほうも崩れますわな。
 そんなポストモダンな状況を作品化してるのが、2007年度における優れた「純文学」だ、というわけだ。
 ところが、そんな姿勢すらもう古いぜ、と宇野さんはここでいうのである。
「しかし、円城塔に象徴的だが、彼らが描くような意味で世界が≪壊れて≫いるということはもはや前提化しており、むしろ彼らが描くポストモダン的な解体の結果として、現在の物語回帰は存在している。(後略)」
 つまり、今さら「近代的な主体の解体」なんかをテーマに掲げて作品化したって、べつに新しかねぇんだよ純文学さんよ、状況は、つーか現実はもっとシビアに切羽詰まってて、むしろ「物語」がまた復権してきてるんだよ、と宇野さんはいっておられるわけである。そのことは、芥川賞受賞作よりも『バトル・ロワイヤル』のほうを重要視する(!)この『ゼロ年代の想像力』の論調をみればおのずから明らかだ。
 春樹さんに対する評価の高さもここからわかる。だって、村上春樹って純文学作家というより、純文学くさい物語作家じゃん。
 ところでぼく自身は、復権もなにも、物語ってのは今も昔も圧倒的な市場を誇ってて、純文学なんて、もはやその傍らで細々とやってるだけなんだから、そもそも同じ俎上(そじょう)で論じることがムリなんじゃないかなあ、と考える。
 ここでの、というか、『ゼロ年代の想像力』における「物語」とは、エンタメ小説(活字の物語)だけでなく、例によってドラマ、アニメ、マンガ、特撮、ゲームなどを含む。こういうものは、復権もなにも、以前から強いし、ネットの普及でさらにまた強い。これについてはぼくも、ここんとこ何回かにわたってずっと述べてきた。
 純文学は、物語に回収されぬからこそ純文学なわけであり、そこにこそ存在意義(レーゾンデートル)があるわけだから、「いまどきの純文学には物語がないからダメ」というのは、魚屋さんに行って、「人参と玉ねぎとじゃが芋を売ってないからダメ」というようなものだ。
 あっ。いやいや。ちょっと待った。それより何より。
 ぼくは批評は読むのもやるのも好きだけれども、いちおうは実作者でもある。
 実作者としての立場からいうと、そもそも、『Self-Reference ENGINE』『アサッテの人』『わたくし率イン歯―、または世界』『わたしたちに許された特別な時間の終り』の4作を、「ポストモダン文学」と一括りにすることはできない。
 それがおかしい、というのではない。もちろん妥当である。もしぼくが批評プロパーでやってたら、たぶんそうするだろう。
 だが、じっさい手に取って、つぶさに読んでみるならば、とうぜんながらこの4作、それぞれに肌合いも違えば作者の問題意識もちがう。
 『Self-Reference ENGINE』はポップなSFだ。サイエンス・フィクション(科学小説)というよりスペキュレイティブ・フィクション(思弁小説)のほうだが。
 『アサッテの人』は、これはもうメタフィクっぽい哲学小説としかいいようがない。よく芥川賞を取ったもんである。
 『わたくし率イン歯―、または世界』は、初期の川上さんらしい、身体性をそなえた瑞々しい佳品だ。
 『わたしたちに許された特別な時間の終り』は、物語性には乏しいが、この中では、いちばんふつうの小説に近くて読みやすい。
 いずれも「広義の意味で、近代的な主体の解体を描く作品」には違いないけれど、技術てきなこと、方法論、コトバの手ざわり、それぞれに味わいがあって、こちらの心がけしだいでは、たっぷりと可能性を秘めている。じつに旨そうな素材なのである。
 ゆえに、「あっこいつらポストモダン小説、それ古い、それダメ」と、あっさり切り捨てることはできない。
 『ゼロ年代の想像力』は、面白くて勉強になる一冊だけど、とりあえず、ぼくの専門分野たる純文学にかんしては、このほかにも、異を唱えたいところがいくつかある。むろんそれは、「刺激的」ということでもあり、それゆえにこそ面白いわけだが。