ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

宇宙よりも遠い場所・論 06 友達って何ですか? 後編

2018-11-30 | 宇宙よりも遠い場所
 前回ぼくが結月を「作為的なキャラ」といったのは、もともと彼女が、「南極行きの切符を3人にもたらす役」として、作中に招聘されたキャラクターだからだ。
 しかも結月は、一部のファンから「クレイジー友情ジャンキー(笑)」と称されるほど、友情に餓えた性格として設定されている。これもまた、そのくらいでなきゃ、3人と一緒に南極へ行く気になったりしないからである。
 極端な話、3人と行動を共にできるなら、アフリカだろうと南米大陸だろうと、彼女は臆せず行ったかもしれない。
 つまり結月というひとは、その性格もふくめ、まず話の都合から演繹(えんえき)されてつくられたキャラで、ひとつ間違えば操り人形になりかねない。だが、じっさいに仲間に加わってカルテットになると、そんなつまらぬ懸念は吹き飛んでしまう。
 彼女なしではアンサンブルが成立しない。キマリ、報瀬、日向と同じく、結月が欠けてもこの物語は成り立たない。掛けがえがない。
 作品のなかで生きている。
 そこはスタッフの腕だろう。いったん仲間になったあとは、和気あいあい、旧知の4人組のように、息の合ったやり取りを繰り広げるのだ。
 もうひとつ、この作品がどこまでも「友達/友情」というテーマにこだわっていることが大きい。
 「友情に餓えている」という彼女のキャラ付けは、話の都合で要請されたものだったはずなのに、本作の制作陣は、それを作品自体のテーマにうまく融合してみせた。
 結果として、結月の担うテーマは、『宇宙よりも遠い場所』の主旋律にぴったり重なった。「友達って何ですか?」という結月の素朴にして深遠な問いは、この作品を貫くメインテーマそのものだ。
 ……まあ、そんなカタい話は抜きにして、3人のわちゃわちゃぶりがあんまり楽しそうだから、つい乗っかっちゃった、という風にもみえるし、ふつうに観ている分には、それでなんら問題はないんだけどね。


「ふぅ……かるく死ねますね……」



 結月は子役出身の新進アイドル。CDも出している(第3話のサブタイトル「フォローバックが止まらない」はその曲名)。高1で、ほかの3人よりひとつ若い。資金繰りに悩む「南極チャレンジ」(これがプロジェクトの正式名称)は、彼女の事務所と提携し、「女子高生の南極レポート」という企画を立てた。JKアイドルにネット中継をしてもらうことでプロジェクトの宣伝を図り、結月のがわも露出をふやして顔を売る。どちらにも損のない話で、マネージャーを兼ねる結月の母親は乗り気である。
 しかし、結月じしんは渋っている。アイドルならずとも、妙齢の女子が南極に行きたがらない理由は山ほどあるだろうし、むしろ行きたがるほうが珍しいと思うのだが、これは「物語」なので、余計なことは捨象されている。
 「南極に行って日本を長く離れたら、友達ができない」。それ(だけ)が理由だ。
 「中にはいるんだよ、高校行ってない16歳だって」が日向をあらわす切ない名セリフだとすれば、結月をあらわすそれは、「私、友達いないんです。今じゃないですよ。今まで……今までいちども」だろう。
 「歌舞伎町鬼ごっこ」の翌日、ひとりで茂林寺駅に降り立った結月は、ぎらぎらの陽光を受けて顔から汗を滴らせ、「ふぅ……かるく死ねますね」と呟く。6月とはいえ、舘林はもう夏の陽気なのだ。
 「かるく死ねますね」は彼女の口癖みたいなもので、バリエーションとして、「かるく死なせますよ」というのもある。口調はていねいなのに、毒舌なのだ。面白い娘さんなのである。
 こちらでは、報瀬の家に3人が集まり、うだうだと反省会および作戦会議をやっている。スマホ片手に「南極+女子高生」で検索を掛けていた日向がとつぜん大声を上げる。「女子高生アイドルの南極レポート」のニュース記事を見つけたのだ。色めき立つ3人。
 そこに、どんぴしゃのタイミングで縁側の庭から結月本人があらわれる。



え……白石結月って……ええーっ。



 結月は「自分は行きたくない。女子高生なら企画の主旨は変わらないので、代わりにどうぞ」という意味のことを報瀬にいう。ただし、行きたくない真の理由は言わない。
(ここでの結月は、かなり事務的な物言いをしている。CVの早見沙織さんは透明感のある美声だが、トーンが少し高い。そのせいもあって冷ややかに聞こえる。結月がそんな態度を取っているのは、じつは3人の仲の良さに嫉妬しているからで、そのことは後になってみるとよくわかる。)
 報瀬は大はしゃぎするが、すぐに結月の母があらわれ、結月の勝手な提案を撤回して彼女を連れ帰る。しかし結月が「行きたくないって言ってるでしょ」と言い張って走り去ったため、一計を案じ、報瀬のもとに引き返して、「結月が南極に行くよう説得してくれたら、3人が同行できるよう仲介してもいい」と取引を持ち掛ける。
 なお、結月は北海道在住ながら、仕事の都合であと2日間こちらのホテルに投宿している(歌舞伎町の会合もそのついでだったのだろう)。
 いったん消沈していた報瀬はまた元気を取り戻し、もう夜遅いにも関わらず、すぐにでも説得に押しかけようと言い出して、日向から「あの子の気持ちをちゃんと訊くのが先だろう」とたしなめられる。すなおに反省する報瀬。日向の大人びた面と、報瀬の純粋さとがよく出た挿話だ。
 翌日。ホテルの玄関前で例によって3人でわちゃわちゃやっているところに、ちょうど結月が出てくる。ファミレスで勉強をするという彼女に付いていく3人。そこでいろいろと話しているうちに、キマリのことばがきっかけで、ついに結月が本心を吐露する。
 回想シーン。幼稚園の頃から、仕事に追われて休んでばかりで、誰とも仲良くなれない。高校に入ってから、教室でたまたま前の席だった女の子に勇気をふるって声を掛け、その子の友達と3人でラインを始めるも、やはり仕事のせいでぜんぜん約束を守れず、疎遠になってしまう(そもそも相手の女生徒たちも、結月が有名人だからラインを始めただけで、けして真率な感じではない)。


「私、友達いないんです。今じゃないですよ。今まで……今までいちども」


 そこでこうなる。こういうことがしぜんにできるのがキマリの真骨頂だ。
な、なな、なんです?!
なんか、抱きしめたくなった!


 さらに、このあとのやり取りが第10話につながる大切な伏線なので、一部を簡略化して、文字に起こしてみよう。

キマリ「わかるよ、そういうの」
結月「わからないですよ!」
キマリ「わかるよう」
結月「わからないです! だって皆さん、親友同士じゃないですかぁ!」

日向「親友?」
報瀬「?」
キマリ「?」

結月「違うんですか……」
日向「私たち、出会って1ヶ月も経ってないぞ……」
報瀬「一緒に遊び行ったこともないし」
結月「ふえ?」


キマリ「ただ、同じところに向かおうとしているだけ。……今のところは。……ねー?」
報瀬「ね」
日向「ねー」
 目を輝かせて3人を見つめる結月。



 3人はホテルのロビーまで結月を送る。説得は失敗におわったが、報瀬と日向は清々しい。彼女の気持を尊重するのがいちばん大事だと気づいたからだろう。キマリだけが何となく物足りなさそうな顔をしてるのは、説得どうこうを抜きにして、結月と4人で南極に行けたら楽しいな、と思いはじめているからか。
 いっぽうの結月は、ベッドに寝そべり、キマリの抱擁を思い返して、「初めてだ……あんなことされたの」と呟き、「くーっ」と小さく叫んで枕に顔を押し当てる。「友達って、あんな感じなのかな……」
 そのとき、窓からノックの音がする(そこが何階なのかは正確には見定められないが、3階以上なのは間違いない)。
 訝りながら窓を開けると、梯子にのぼった3人がいる。しかも外はなぜかひどい強風だ。

ストッパーがなく、窓が全開

やっぱり、南極いこう!

何やってるんですか、怒られますよ!


手、伸ばして!


 とうぜん結月はためらうが、3人から声を掛けられて、ついにキマリの手を取る。そのとき梯子が風にあおられ、「えええええーっ?」と叫びつつ、4人はそのまま落ちていく。
 目が覚めるともう朝で、結月はベッドの下にいる。すなわちそれは夢だったのだが、ただの夢オチってことではなく、「高い塔の上に幽閉された姫を勇者が助け出す」という物語の定型をうまく使って、結月の「みんなに連れ出してほしい。みんなと一緒に行きたい」という切なる願望を視覚化した巧妙な演出だ。
 窓を確かめ、くすくす笑って「へんな夢」とつぶやく結月。そのあと寂しげな顔になる。ラインの画面をみると、追い打ちをかけるかのように、例の2人が「退出しました」との表示が出ている。がっくりと肩が落ちる。

現実には、もちろん事故防止用のストッパーがある


 そのとき、またノックの音がする。反射的に窓を見る結月。しかし、今度のノックは廊下側の本当のドアからだった。


おっはよーっ




結月「みなさん……」
日向「だから言ったろ、早すぎるって。まだパジャマじゃん」
キマリ「言ったのは報瀬ちゃんだよー?」
報瀬「仕方ないでしょ。東京まで行くんだから」
結月「東京……?」
キマリ「あ。うん、結月ちゃん東京で仕事だって言ってたから、もしよかったら、一緒に行こうかなって」
日向「いきなり押しかけてごめんなー。こいつが連絡先きいておかないから」
キマリ「わたしぃ?」
報瀬「時間、ある?」
結月「はい……」
キマリ「ほんとー? じゃあさじゃあさあ、東京に南極の……」



日向「キマリー」
報瀬「キマリぃー」
キマリ「え。わたし? だって、い、一緒じゃん、みんな一緒じゃん」



3人が結月を迎えに来たあとのカット。絶妙のカメラワークで、ストッパーが「消えて」いる





だから、3人と一緒なら行くっていってるの。一緒じゃなかったら行かないから



 次のシーンは、晴天の下、ひときわ爽やかな笑顔で、「国立極地研究所 南極・北極科学館」の前に立つ結月の姿だ。
 4人でペンギンの剥製にコーフンし、海底ケーブルの長さに驚き、雪上車の内部に入り、基地での暮らしを疑似体験したあと、それまでは「肖像権があるから」と拒んでいた写真を、結月じしんが率先して撮る。
 そして最後はオーロラシアター。ほんもののオーロラはなかなか見られない、という話になって、
 キマリ「じゃあ、もし本当に見ることができたら、南極でオーロラ見た世界で唯一の高校生になれるかも」
 結月「そうか……もしそうなったら……」

「かるく死ねますね」


 台詞はまったく同じなのに、込められた感情は正反対。4人の南極行きが実現に向かって大きく動き出す第3話は、さながら鮮やかな短篇小説なのだった。


宇宙よりも遠い場所・論 05 友達って何ですか? 前編

2018-11-28 | 宇宙よりも遠い場所
 あれこれ書いているけれど、『宇宙よりも遠い場所』はエンターテインメントであって、深刻でもなければ小難しくもない。ほとんどは、女子高生4人がわちゃわちゃやってるだけである。むろん報瀬の抱える課題は重いが、彼女とて大半のエピソードでは稀にみるドジっ子としてコメディエンヌぶりをいかんなく発揮し、「ポンコツ」と書かれた紙を額に貼られる始末だし、日向だってけっこうガキっぽい。天然ボケ気味のキマリのおバカっぷりはいうまでもない。とにかくみんな楽しそうで、こちらとしても、ややこしいことなど考えず、そのようすに付き合ってるだけで全然いい。
 あくまでこれは、「物語」というものをより深く味わいたい人や、自分でもいずれ物語をつくってみたいと思っている人たちのための論考だ。
 さて。友達ってのは、そんなふうに「よくは分からないけど一緒にいるだけでなんだか楽しい」間柄のことをいうんだろうけど、いざ正確に定義してみろと言われると、たしかに困るところがある。
 最後にくわわる白石結月(しらいし ゆづき CV・早見沙織)は、友達というのがどんなものなのか、実感としてわからない。子役として仕事に追われ、学校にちゃんと通えなかったため、親友はおろか同世代の知り合いすらいなかったせいだ。それで「友達」や「友情」に並々ならぬ憧れをもっている。


 この結月は、むろん他の3人と同じくたいへん魅力的だし、彼女がおらねば面白さが半減するのも間違いないが、話の構成上から考えるなら、かなり作為的なキャラではある。
 もし結月がいなかったら、3人が南極に行けることはなかったろうからだ。整理してみよう。
 報瀬の母は「民間初の南極観測隊」の一員として彼の地に赴き、そこで消息を絶った。それもたんなる「一員」ではない。藤堂吟(とうどう ぎん CV・能登麻美子)、前川かなえ(CV・日笠陽子)と共に、そのプロジェクトを立ち上げた、主要メンバーの一人だったのだ(むろん3人とも、南極に行ったのはその時が初めてではない。あくまで「砕氷船と基地を使用する権利が民間に払い下げられて初」ということである)。


藤堂吟。初登場シーン(厳密にいえば1話でちらりと姿を見せてはいるが)




左が前川かなえ。右はマネージャーも兼ねる結月の母


 犠牲者を出したショックと、スポンサーの撤退による資金難でプロジェクトは頓挫し、3年間のブランクののち、ようやく再開のめどが立った。報瀬たちはそこに加わろうとしているわけだ。
 藤堂は母の高校時代からの親友で、母がよく自宅に招いていたので、報瀬も子供の頃からよく知っている。ただ、母が遭難した際の隊長を務めていたひとだから、お互いにわだかまりがある。これは2人に共通する頑なな性格も大きいわけだが。いっぽう、副隊長の前川かなえは、気さくな人柄で話しやすい。どうやら報瀬はこれまでにも再三、かなえのいる事務所を訪ねて「連れて行ってくれ」と直談判し、そのたび突っぱねられてきたらしい。
 そこで報瀬は今回、キマリと日向を伴って夜の歌舞伎町に出かける。観測隊の会合がそこで開かれるとの情報を入手し、もういちどアタックしようと計画を立てたのだ。しかしそれは、「男性隊員を色じかけで篭絡し、密航を企てる。」などという、おバカというかマヌケというか、「ポンコツ」の名に恥じないグダグダな策なのだった。
 とうぜんそれは失敗する。そもそも歌舞伎町に来た時点で、雰囲気に飲まれてパニクっているほどだから、うまくいくはずもない。「誰が声を掛けるか」を押し付け合っているうちに、前川かなえと、調理担当の鮫島弓子(CV・Lynn)に見つかって、歌舞伎町中を追っかけまわされる羽目となる。


 この鬼ごっこは、考えてみると全13話のなかで唯一の「アクションシーン」といっていい。ドタバタなんだけど、挿入歌がかかり、キマリの「なんかね、動いてる……私の青春、動いてる! なにかが起きそうで……なにかが起こせそうで……」という述懐もあって、ほろりとさせる名場面にもなっている。個人的にも好きなシークエンスだし、ひとつずつのカットに緻密な計算が施されていて、分析のし甲斐もあるのだが、このあたりで時間を掛けると後になって息切れしそうだ。涙を呑んで割愛しましょう。

 エピソードそのものを冷静に見れば、バカな真似をして、オトナのひとに迷惑をかけてるだけなんだけど、たしかにそれも「青春」ってものの一面ではあろう。
 ふだんから鍛えている観測隊員のお二人には、元陸上部員の日向もかなわず、結局3人はとっつかまって、喫茶店で大目玉をくう。その場で報瀬が改めて南極への思いを吐露し、「お母さんが待ってる」と言って、一同が粛然とする。
 ……といったあたりが第2話の後半部で、だからサブタイトルは「歌舞伎町フリーマントル」だ。
 歌舞伎町まで出かけて走り回っただけで、じっさいにはなにも進んでいない。とんだ無駄足……と、現実であればおしまいになる所だが、そこは「物語」である。観測隊の会合の場に、母親と一緒に結月が招かれ、居合わせていたのだ。そこから事態が一気に進展する。
 「鬼ごっこ」が始まったとき、「誰ですか?」と周囲のひとに3人の素性を訊ねた結月は、どうやらそのまま3人を尾けてきたらしい。帰りの電車で、同じ車両の隅っこの席に乗り合わせているのだ。



帰りの車中。今回の計画のあまりのアホらしさに、日向が「リーダー報瀬の解任動議」を提唱し、キマリが即座に賛同したところ


この時点での距離感


ふくざつな目つき



 この結月のカットで第2話はおわる。視聴者にはまだわからないし、どうも結月自身にすら明瞭にはわかっていなかったようなのだが、彼女はこのとき、3人のことをものすごく羨ましく思っていたのだった。



宇宙よりも遠い場所・論 04 日向(ひなた)と闇

2018-11-27 | 宇宙よりも遠い場所
 キマリは何しろ「表の主人公」なので、芯は一本通っているし、ストーリーラインのなかで「ここぞ。」という場面ではしっかり仕事をする。
 ただ、ふだんはいかにも子供っぽい。CVの水瀬いのりさんも、ふにゃふにゃした、甘えた感じの喋り方をしている。そういうキャラづくりをしているわけだ。
 キマリが子供っぽいのは、まだ高2なんだから当然といえば当然だけど、これまで「世間(共同体)」や「他人」の悪意にまともに晒されたことがないからだ。
 彼女が初めて「闇」に向き合った(向き合うことを余儀なくされた)のは第5話のクライマックスシーン、南極へと旅立つ朝のことで、この件についてはいずれまた扱うことになる。
 ともあれ、キマリという子はずっと天真爛漫に日々を送ってきた。いっぽう報瀬は真逆である。
 キマリのほかに友達らしい友達はおらず、学校の中では敬遠、ないし軽侮をもって遇されている。そして自分のほうからも、突っ張れるだけ突っ張って、全力でそれに対抗している。「私は性格悪いよ、悪い?」と開き直ってるくらいだ(キマリは笑って「いい!」と受け入れるのだが)。
 だからキマリは、彼女にとって無二の同志であり朋友(とも)ではあるのだが、本当に寄り添い合える相手かというと、すこし微妙なところがある。兼好法師も『徒然草』のなかでいっている。「病気をしたことのない者に、病人の気持ちはわからない」
 そこで物語のなかに、もうひとり大切なキャラクターが招聘される。三宅日向(みやけ ひなた CV・井口裕香)だ。


 彼女がストーリーに(ということはつまりキマリと報瀬に)絡んでくるのは第2話からだが、第1話ですでに、キマリたちがよく立ち寄るコンビニの店員として顔を出している。「南極行きがどうこう」という会話に耳をそばだて、エンドカットでは地球儀を下から覗き込んだりもしている。
 第2話の前半でキマリは、渡航費用を稼ぐべくコンビニでバイトを始める。そこで初めて日向を知るのだが、日向のほうは、キマリが報瀬とふたりで南極を目指してるのをすでによく知っているわけだ。
 日向の第一印象は、その名の通りとにかく明るい。「よろしくぅー」と自分から握手をもとめ、仕事の合間にあれこれ話して終業までにはすっかりキマリと打ち解け、さらに報瀬を呼び出して、自分も仲間に加えてほしいと持ち掛ける。ばつぐんのコミュ力といっていいだろう。
 3人が初めて一堂に会するこの舞台は、狸の置物で知られる舘林の茂林寺公園である。辺りはもう暗いが、ここでも日向は朗らかで、その闊達さが周囲の景物と相まって楽しいシーンになっている。


 だが、「学校を休むことになるけど、いいの?」と報瀬に問い質されて、「平気だよ、高校は行ってないし」と答え、さらに「そんなに驚くことないだろ、中にはいるんだよ、高校行ってない16歳だって……」と続けた時の声音が、ふいに陰りを帯びる。声優さんの凄みを感じさせられるところだ。詳しいことは語られないが、彼女は最初から高校に行かなかったのではなく、ある事件をきっかけに中退に追い込まれたのだった。


 暗いムードは束の間で、バックには軽妙な音楽が流れ、日向もすぐ笑顔をみせる。大学には行くつもりだし、もう高卒認定も取っている。それで受験勉強を本格的に始める前に、なにかひとつ大きなことをしてみたい、という。
 しかしこのあと、自転車で帰る報瀬と別れてキマリとふたりで駅の構内に入ったとき、もういちど彼女がまじめな口調になる。
「……でもよかったよ」
「ふぇ?」
「あたし、あなたたちふたりのこと、嫌いじゃなかったんだよね。ほら、あのコンビニ、たにし(多々良西高校)近いから、生徒いっぱい来るじゃん?」
「うん」
「でも、ふたりだけはなんか別だなァって。空気が違うっていうか」
「そんなこと言われたの……はじめて」
「私さあ、集団の中でぐちゃぐちゃ~みたいなの苦手でさあ、だから高校ムリだったんだけど…………ふたりは、いいなあって」
「いいって、何が?」
「う~ん、なんだろ? 嘘、ついてない、感じ?」
 この会話のあいだに挟み込まれる日向目線の回想シーンが美しい。



 しかし日向はオトナなので、こんなこと言われてちょっとキマリがぽーっとなっているのを見ると、「こうして日向ちゃんはひとの心に取り入るのだよォ。うひひっ。じゃあね~」と軽口を叩いて階段を駆けあがってしまう(キマリとは家の方向が逆なのだ)。
 つまり日向は、南極行きもさることながら、まずはキマリと報瀬の関係性に、ふたりの醸し出す空気の清潔さに惹かれたのだった。
 この「嘘、ついてない、感じ?」という言葉の真意は、第11話まで来て視聴者にようやくわかるのだけれど、「それぞれに輝きの異なる13粒の宝石」とも評される全13話のなかで、第11話はとりわけ多くのティーンエイジャーから支持されている回である。それだけ切実で、若い世代の心に響いたわけだ。
 第11話は日向の回であり、同時に報瀬の回でもあった。日向と報瀬の回だった。その前哨というべき第6話ともども、報瀬×日向ペアはことのほか熱いドラマをうむ。
 この第2話での駅のシーン以降、キマリと日向との純粋なツーショット場面はそんなにない。いっぽう、報瀬と日向とのツーショットは枚挙にいとまがない。このあとで加わる結月もふくめて、もちろん全員仲良しだし、親友には違いないのだが、報瀬×日向ペアはとりわけ強い絆で結ばれている。キマリ×報瀬は別格としても、それに勝るとも劣らない。けだし、報瀬と日向とが「闇」を知る者どうしだからだ。



参考画像。3話より



宇宙よりも遠い場所・論 03 コメディエンヌとしての報瀬

2018-11-26 | 宇宙よりも遠い場所
 もし「宇宙よりも遠い場所」をご覧になっておらず、ぼくのこのブログだけでストーリーを想像している方がいらしたとしたら、報瀬というのはさぞかし生真面目で陰のある女の子だろうな、と思っているかもしれない。
 たしかにじっさいそうなのだが、いっぽうでは、キマリから「残念美人」と称されるくらい、ドジで隙だらけのキャラクターでもある。
 これは、「そういう設定のほうが面白い」というキャラ付け上の理由もあるし、また、彼女がもし完全無欠なリーダータイプであったなら、話がうまく転がらないということもある。
 なにしろ報瀬とキマリが知り合ったのも、彼女が虎の子の100万円を駅の階段で落としたからだ。
 落とすこと自体うかつだが、そもそもなんでそんな大事なものを持ち歩いてるんだ、と思う。「お守り代わりに肌身離さず持っているのか……」とぼくは憶測していたが、コミック版の設定によれば、「こつこつ貯めた預金が100万に達したので、嬉しくてつい引き出してしまった」らしい。
 何にせよ、どう見ても、完全無欠なリーダータイプのすることではない。
 翌朝、学校で初めて紛失に気づいた彼女は、女子トイレに行き、個室にこもってひとしきり荒れ、泣きじゃくる。それで「ひゃくまんえん……」と嘆くのだが、鼻水で声がつまっているために、「しゃくまん……えん」と聞こえる(だから第1話のサブタイトルは「青春しゃくまんえん」である)。
 廊下で報瀬の姿を見かけ、トイレの中まであとを追ってきたキマリは、その時からずっと、その封筒に入った100万のことを「しゃくまんえん」と呼び続けることになる。
 この「しゃくまんえん」は、作中における最大の小道具として、何度となく重要な役割を演じ続け、最後の13話において、見事な落ち着き場所を得るのだが、それはずっと先の話だ。
 「しゃくまんえん」を返してもらった際の報瀬のようすは以下のとおりである。前々回の記事に貼った画像と見比べてください。


 「ギャップ萌え」ではないけれど、これくらい振れ幅が大きく、可愛いところがあるからこそ、キマリも視聴者も彼女を好きにならずにいられない。
 むろん、「喪の仕事」という重い課題を背負っているので、彼女のこころのいちばん深いところはずっと凍ったままなのだ。学校では孤高の姿勢を崩さず、ほかの誰かと打ち解けることもない。しかし、キマリという朋友(とも)に対しては、無邪気なくらい幼い顔を見せもする。


 これは南極に行く観測船「しらせ」が広島の呉に寄港したとき、ふたりが誘い合わせて見学に行く折の車中のようすだ。彼女たちの住む群馬県・舘林から呉までは片道6時間半あまり、運賃も20000円以上かかる。ただの物見遊山で行けるものではない。だからキマリが約束どおり来てくれた時の報瀬はこんなに嬉しそうなのだ。
 「しゃくまんえん」を崩して高額な「幕の内」を2人分買おうとする報瀬をキマリが押しとどめ、結局500円くらいのお握りを買ってふたりで分ける。そのあと、背の高い報瀬のほうが身を低くして、キマリの肩に凭れかかってうたた寝するところがミソだ。
 南極に行く、という一事において報瀬が牽引役なのは間違いないが、けっしてふたりの関係は、どちらが主でどちらが従というものではない。誘ったのは報瀬だが、「決めた」のはキマリ自身である。このことは、第5話において、「めぐっちゃん」という5人目のヒロインとのかかわりのなかで大きな意味をもってくる。
 


宇宙よりも遠い場所・論 02 ここではない何処かへ

2018-11-24 | 宇宙よりも遠い場所
 もう1つのテーマ「ここではない何処かへ。」を担うもう1人の主人公が、玉木マリだ(愛称はキマリ。CV・水瀬いのり)。
 報瀬はいわば「裏の主人公」であり、表の主人公はキマリである。彼女の担うテーマのほうが、10代の若者にとってはより普遍的だし、彼女のキャラも、報瀬よりも親しみやすいからだ。




 文学たると映画たるとドラマたるマンガたるとポップス(ロック)たるとを問わず、「ここではない何処かへ。」は青春ものに欠かせぬテーマで、これを扱った作品は枚挙にいとまがない。いやむしろ、このテーマに関わりをもたない青春ものを探すほうが難しいだろう。
 「ここではない何処かへ。」とは、ほぼ「青春」と不可分一体の初期衝動ではあるまいか。
 たとえば谷川俊太郎の詩「GO」の冒頭8行、

さあ。いこう。何処へいこう。
と 我が友詩人の藤森安和君は云った
さあ いこう
ひとまずいこう とにかくいこう
ここはしめっぽい ここはくさっている
ここはごきぶりで一杯だ ここは顔のない他人で一杯だ
ここはいかさない
だからいく いくんだ とにかくいく


 あるいは、ランボーのあまりにも有名な詩句、


俺たちの舟は、動かぬ霧の中を、纜(ともづな)を解いて……

 とか、

俺たちは清らかな光の発見に志す身ではないのか?
季節のうえに死滅する連中から遠く離れて


 などが典型的だ。五木寛之の小説で、「青年は荒野をめざす」というのもあった。10代半ばくらいの齢で、こういう詩句を見て何となく体がアツくならない人はちょっとどうなんだろうと思う。ま、アツくなったからってどうってこともないわけだけど。


 キマリのばあい、「ここではない何処かへ」行きたいという思いは心の底に強くある。その延長として、「青春、したい。」という思いもある。だが、いざとなると「怖くなって」しまい、どうしても一歩を踏み出すことができない。そんなふうなまま高2の日々を過ごしている。
 お話は、キマリがベッドで惰眠を貪っているシーンから始まり、そのまま彼女の視点で進んでいく。
 そんなキマリが、ある日とつぜん報瀬と出会う。ガール・ミーツ・ガールだ。
 クールビューティーな外見と、突っ張るだけ突っ張った物腰にも似合わず、じつは相当なドジっ子でもある報瀬は、駅のホームで階段を駆け上がっているとき、封筒に入れた虎の子の100万円を、うかつにも鞄から落としてしまう。
 それをたまたまキマリが拾い(ふたりは同じ高校の同期だが、クラスが違い、それまでまったく面識がなかった)、翌日学校で返したことから、ぐんぐん親しくなっていく。
 南極に寄せる報瀬の思いを聞いたキマリは、感激して、「応援するよ!」というのだが、報瀬はそれでは良しとせず、「じゃあ一緒に行く?」と誘う。
 報瀬もやはり、根はふつうの高2女子であり、友達は欲しいのだ。ただ、馴れ合って毎日を一緒に過ごす相手なんかは論外だし、南極への思いをわかってくれる相手であっても、たんなる理解者ではダメなのだ。
 志を同じくし、共に行動してくれる相手でなくてはいけない。ここらが非常に「めんどくさい」ところである。
 いきなりハードルを最上段まで上げられて、キマリはもとより困惑するが、一晩中、悶々と考え抜いたあげく、ついに南極行きを決意する。
 その決意の強さをあらわす挿話として、それまで散らかし放題だった部屋のなかを、彼女がきれいに片づける脚本が秀逸だった。
 そこまでの気持になれたのは、むろん報瀬に惹きつけられたからだけど、その根底には彼女じしんの情熱が眠っていたのである。



 第4話にて、訓練のためにキャンプを張った山頂の岩の上で隊長(藤堂吟。CV・能登麻美子)と向き合ったキマリは、彼女とこんな対話をする。






「どうして南極に? あの子に誘われた?」
「はい……でも、決めたのは私です。一緒に行きたいって。このまま高校生活が終わるのイヤだって。ここじゃない何処かに行きたいって。でも、日向ちゃんと知り合って、結月ちゃんと知り合って、観測隊の人の気持を知って、隊長と報瀬ちゃんのこと聞いて思いました。何処か、じゃない。南極だ、って!」

 「ここではない何処かへ」という、漠然たる初期衝動にはっきりした形を与え、方向を整えてくれたのは、まずは報瀬への、そしてほかの友達と仲間たちに寄せる思いの厚さなのだった(念のため書くが「厚さ」は「熱さ」の誤変換ではない)。そのうえで、自分自身で決断した。本編の映像ではこのシーン、「南極だ、って!」と笑顔で言い切ったキマリの髪を一陣の風が揺らして過ぎる。忘れがたい名場面のひとつだ。




宇宙よりも遠い場所・論 01 喪の仕事

2018-11-24 | 宇宙よりも遠い場所
 前に書いたとおり、アニメ「宇宙(そら)よりも遠い場所」はとてもシンプルなつくりの作品だ。
 考察とか分析とか謎解きとか、そういったものがことさらに入り用だとは思わない。でも、好きになった作品について語りたいのは人情だ。いわゆる「感想」に留まらず、もう少し深いところに行きたいと思う。これから自分で物語をつくろうと考えている若い人には、いくらか参考になるかもしれない。
 何しろこの作品は、「物語」を織りなす基本のファクターだけでできあがっているといっていい。いわば、どこの家の冷蔵庫にもある素材だけで作られた料理のようなもので、それがここまで美味に仕上がるものかと、ぼくなどは驚いたのだった。
 シリーズ構成/脚本の花田十輝、監督のいしづかあつこ、両者ともに才気あふれるクリエーターだけど、才気のみで為しうることではなく、長年にわたるキャリアのたまものであろう。
 シンプルゆえに、ストーリーラインも性格設定も人間関係もたいへん明確になり、それが声優陣の熱演をうんだ。名作というのはこうやって生まれるものかと改めて思う。

 4+1、あわせて5人のヒロインが登場する。いずれも10代半ばの高校生だ(ただし1人は中退したので現役ではない)。
 うち事実上の「主人公」は2人いる。
 1人は「喪の仕事」というテーマを担う。
 1人は「ここではない何処かへ。」というテーマを担う。いずれも「物語」を生成し、前へと進める基礎中の基礎というべきテーマである。
 「喪の仕事」は、「喪の作業」とも訳される。ぼくも「家政婦のミタ、あるいは喪の作業について。」という記事を当ブログ内に置いているけれど、もとは精神分析の用語で、細かい定義がある。
 細かい定義はあるのだが、あえてひとことでいうならば、「自分のなかでまだ死にきっていない死者を、きちんと葬ってあげる」作業のことだ。
 とても身近な、大切なひとが亡くなったとき、理性ではどうにか抑えても、心の(あるいは身体の)深いところでどうしてもそれを納得できない。自分のなかで、どうしてもその死を受け容れられない。そんな情態になることがある。
 このような際、その死者は物理的には地上から消滅していても、じっさいにはまだ亡くなってはいない。
 2011年に放映されて話題をまいた「家政婦のミタ」は、まさにそのことを主題に据えた作品だった。
 2017年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」でも、小野政次(高橋一生)が亡くなったあと、直虎(柴咲コウ)は、(自らが手にかけたにも関わらず)その死を受け容れることができず、しばらくは錯乱のていで、夜な夜な政次の来訪を待ち続ける、という痛ましいエピソードがあった。
 「喪の仕事」を始めるまえの情態とはああいうもので、残された生者のほうも、半ば死に囚われてしまい、うまく生を営むことができない。ゆえに、「喪の仕事」は切に必要なのである。
 小淵沢報瀬(こぶちざわ しらせ CV・花澤香菜)の母は、3年まえ、民間初の観測隊として赴いた南極の地で消息を絶った。
(なお「民間初の観測隊」とは、もちろん、本作独自の設定である。)





 それいらい報瀬は、「自分も南極に行く。」という情熱の虜となり、高校生活のかたわら、さまざまなバイトに明け暮れ100万円を貯める。
 100万円貯めたから南極に行ける、というものではない(北極圏とは異なり、南極への観光ツアーというものはない)。また、仮に南極に行けたところで、そこで母のために何ができるかもわからない(1話の時点で彼女は「……遺品もほとんどないままで。だから、私が行って見つけるの」とキマリにいうが、じっさいに捜索ができるわけではないのは理解している)。
 母を失った空虚さを、日々、そうやって埋め合わせることで、かろうじて自分を支えている、ということだろう。
 もともとの性格もあって、報瀬はけして人当たりがよくない。
 入学以来、いつも切羽詰まった様子で、「南極南極」と言い募り、誰かとつるむこともなく、遊びの誘いにも乗らぬため、周囲から敬遠されている。
 バイトが忙しくて遊ぶ暇がない、ということもあるにせよ、彼女のほうも、むしろ自分から孤立を求め、周りを敵視しているふうもある。
 いうまでもなく、「喪の仕事」を担う主人公とは彼女である。彼女にとって南極とは、「喪の仕事」を為しうる場所のことだ。その地に赴かぬことには彼女の仕事はできない。母を葬ることができない。そのことが本能的にわかっていて、だから報瀬は必死で南極を目指している。
 いうならば彼女は裏の主人公。もうひとりの、いわば「表の主人公」がそんな報瀬と出会うことから、ストーリーは動き出す。



第8回・田中康夫「昔みたい」その②

2018-11-15 | 戦後短篇小説再発見
「昔みたい」のヒロイン・兼・語り手は、典子という若いОLさんで、「大手町にオフィスがあるコンサルティング会社で副社長秘書を務め」ている。
 副社長は、「ベルギー人とのハーフで、まだ30代後半」とのことで、どうやらこの会社自体が外資系らしい。
 自宅は、「新宿から神奈川方面に向けて出ている私鉄電車で多摩川を渡ってしばらく行ったところ」。これ、多摩ニュータウンという理解でよろしいんでしょうか。80年代には、多摩ニュータウンに住むのはステイタスだった。むろん一戸建てである。父は勤め人ではなく、自分で会社を経営しているらしい。母は専業主婦。きょうだいはいない。
 「幼稚園から大学まで」の一貫校で学び、大学時代にはヨーロッパ・ツアーに行った。フィレンツェで美術館にも寄った。そういうことが当たり前になりはじめた時代だが、いくらかは時代に先んじていたかもしれない。
 婚約者がおり、結婚式の日取りも決まっている。2歳上の彼はテレビ局の報道記者で、いまはフィリピンに取材に行っている。作品中には書かれてないので補足しておくと、この少し前、フィリピンではアキノ上院議員が暗殺されて、政情が不安定となり、世界の注目が集まっていた。
 まあ、昨今の世界情勢と比べたら、日本にはぜんぜん対岸の火事で、のんきなものではあったけどね。
 裕一郎という名のその婚約者は、たぶんルックスもいいのだろう、つい昨日も、マニラ市街から衛星中継でレポートを送ってきた。テレビニュースでその映像をみた彼女は、ふと、取り残されたような気分になる。
 若い人のために念を押しておくと、当時はまだ、スマホもネットもない。
 田中康夫的ヒロインの例にもれず、この典子さんも派手ではないが恋多き女性であった。学生時代は、7歳上の勝彦をメインに、何人かの彼氏と付き合った。勝彦は輸入家具を扱う会社を経営していて羽振りが良く、聡明で優しいオトナの男ではあったが、そういう男の常として、複数の女性と付き合っていた。まあどっちもどっちである。
 だから、典子は勝彦が好きだったけれど、「結婚は無理なんだろうな。」とも思っていた。そんな折、テレビ局に勤める裕一郎と出会って、そちらに乗り換えたわけだ。この小説は典子の語りで綴られるので、「乗り換えた」なんて下世話な表現はしてないが。
 すでにお互いの両親も交えて式の日取りまで決めたくらいだから、彼女は裕一郎くんが好きなのである。それは間違いないけれど、マリッジ・ブルーっていうか、なんだか少し揺れている。事実上の遠距離離恋愛だし、裕一郎が自分とは別世界のような華々しい舞台に立ってるせいもある。
 そんなわけで、彼女はひそかに勝彦と再会し、ホテルのフレンチレストランで食事をする(明記はされないが、とうぜん向こうの奢りである)。ささやかなようでも、れっきとしたデートであり、はっきりいって浮気だ。
 このホテルにも、レストランにも、ついでにいえば、典子の通ってた大学にも、もとよりモデルはあるんだろうけど、面倒なのでその考察は略。
 とにかく、典子のその「揺れる思い」が、この短篇の主題である。
 しかしまあ、今さら言うまでもないけれど、なんとも贅沢な境遇であり、贅沢なお悩みなんである。丸山健二「バス停」(1977年)のトルコ嬢(あえて当時の用語を使う)と比べれば、天と地ほどの開きがある。それは二つの短篇のあいだの10年という歳月以上に、田中康夫と丸山健二との違いであろう。
 そういえば丸山さんはあの頃、「最近はアンノン族ふうの美学で書かれたゴミのような小説ばかりだ。」とエッセイのなかで吐き捨てていた。名前は出してないにせよ、田中康夫が念頭になかったはずはない。
 ぼくはたいへん育ちが悪くて、丸山健二寄りだから、典子さんにはとても同情する気にはなれない。お嬢さんがなんか言ってるなあ、という感じだ。
 これも明記されてないのだが、このデート、典子のほうから誘ったことは間違いない。なのに、ざっと読み流しただけだと、「なんとなく」デートすることになりました、みたいに書かれている。そんなふうに典子が語っている。ずるい。どこまで作者の計算なのかは不明だが、こういうところはうまいなあと思う。
 まあ、勝彦がなんのためらいもなくその誘いを承諾したのも確かだろうが。オトコってのは、「昔のオンナ」から「会いたいんだけど、どうかな?」と言われたら、よほどのことがないかぎりすっ飛んでいく。むろん、下心があるからである。
 もちろんそこでガツガツしたそぶりを見せたら即アウトだけれど、勝彦くんは育ちもいいしオトナなので、そんなへまはしない。
 しかし典子もそこはさるもので、レストランで席に就いて早々、「今日は、あまり遅くなれないの」と釘を刺す。本日はお食事だけですよ、という含意である。
 「4時に弁護士が家に来るから」というのがその理由だ。ここらあたりもいかにも田中康夫流なのだが、「両親の資産を、今から少しずつ典子名義に替えていくので、その相談のため」である。
 「今日は食事当番やから早よ帰ってご飯炊かんとあかんねん。」とか、そういうことではないんである。どこまでも厭味なんである。
 弁護士が来る、というのはあくまで口実なのだが、「名義変更しなくてはという話が家族の間で出ていたのは本当」だそうだ。勝手にせい。
 昔のオンナから「会いたいの」てなことを言われ、流行りの高級フレンチレストランを予約してすっ飛んできた勝彦くんにしてみれば、いきなり冷や水を浴びせられたようなものだが、彼はオトナであるからして、そんな気持は顔にも態度にも出さない。
 それどころか、「いつ結婚するの? 日にち、決まった?」と、自分からその話をふる。
 嫉妬はもとより、もはや未練とてないのである。ただ、ちょっぴり下心はある。こういうところはどんなオトコも一緒だが、ただ、うまくやれる人とやれない人がいる。しかし、国ぜんたいが貧しくなると、うまくやれないほうが増えていく。そうして未婚率が上がり、出生率は減り、人口が激減して移民政策を取る羽目となって日本は滅んでいくわけだが、もうその話はいいか。
 そのあと二人は結婚式の話をする。内容はまあ、いかにもプチブルの家庭の結婚式にありがちな話で、今でいう「結婚式・披露宴の準備あるある」みたいなネタなんだけど、それにしても、そんな話を淡々と聞き、的確な受け答えをしている勝彦くんの様子は、ぼくから見ても好もしい。
 なんか前回からこの小説のことをボロカス言ってきたけれど、こういうシーンの上品かつ軽妙な駆け引きなんかを読み込んでいくと、この短篇、まあ風俗小説としてはなかなかよく出来てるんじゃないかと思えてきた。やはりテキストってものはきちんと付き合って読んでやらなきゃいけないね。
 レストランを出て(上にも書いたが、勝彦が支払ったことは疑いない)、ふたりは中二階へ出る。辺りに人けはない。昔いつもそうしてたように、勝彦はホテルの部屋を予約しているはずだが、そんなそぶりは暖気(おくび)にも見せない。ただ、ロビーを見下ろす中二階からの階段の途中で、キスを求める。そしてふたりは、ほんの1、2秒、軽いキスを交わす。



「結婚する前に、もう一度、会えるといいね」
 彼は最後にそう言った。私は黙って頷いた。今度、会ったならば抱かれることになるのだろうな。一段一段、ロビーへの階段を下りながら、頭の中でぼんやりと考えた。



 ぼくはあえて時系列に沿って再編集しながらあらすじを叙してきたのだが、じつはこの場面は回想シーンである。勝彦とのデートが土曜日で、その翌日、日曜日に裕一郎がマニラから国際電話をかけてきてくれた。そんな彼とお喋りしながら、典子は勝彦のことを思い出し、「今度、会ったならば抱かれることになるのだろうな。」などと考えてるわけだ。
 そうはいってももちろん、裕一郎の声を聞けばうれしいし、「裕一郎のこと、好きなのだわ。」とも、典子は感じてるわけである。基本的には裕一郎でOKなんだけど、彼が傍にいてくれないので昔のオトコにもちらちら気が向く。揺れてるのだ。
 こういう心情は、べつにバブル時代がどうこうではなく、普遍てきなものだとは思う。「クラシック」という川村湊さんの評価も納得できるように思えてきた。この短篇そのものは、イヤミではあっても小説としてはなにもそれほどダメではない。ただやはり、置かれた場所がわるかったのだ。




第8回・田中康夫「昔みたい」その①

2018-11-14 | 戦後短篇小説再発見
 というわけで、中沢けい「入江を越えて」以降、ほぼ2年半ぶりの「戦後短篇小説再発見を読む。」シリーズ、ついに始まりましたけども。
 ここまで間があいたのは、いろいろ事情もあったにせよ、当の作品自体に魅力がない。というのがいちばん大きい。「論じたい!」という気持ちをここまで起こさせぬ小説ってのも珍しい。何これ中学生の作文?と訊き返したくなる幼稚な文体。「プチブル」としか言いようのないヒロインの環境。まるっきり起伏を欠いたストーリー。この短篇は、新潮文庫の『昔みたい』に収められてて(全15本の短篇集。電子書籍化ずみ)、どれも同工異曲だが、その中の一本として読めばまあそれなりに読めるのかも知れない。でも、三島だの大江だの小川国夫だの金井美恵子だの、この錚々たる猛者たちの中に置かれたら、いまどきの用語でいう「公開処刑」にしか見えない。昔でいえば「晒しもの」である。
 どこに挟んでも情けないが、就中(なかんずく)「入江を越えて」の超絶技巧の直後に置くとは……編者にはなにか悪意があったのだろうか……とすら思ったが、解説の川村湊は「……まるで『古典』であるかのような静かな輝きとクラシックな雰囲気をもつ作品」などと、まんざらでもなさそうなのである。「古典」と「クラシック」とは同義だから、この一節そのものがちょっと間が抜けてるのだが、川村さんは尊敬すべき文学者なので、あまり突っ込むのはやめておこう。
 デビュー作『なんとなく、クリスタル』は1980年に発表された。いわゆる「バブル」は1985年9月の「プラザ合意」によって始まったから、5年も先んじていたことになる。ゴダールの『中国女』が五月革命を予見したように、『ベルリン・天使の詩』が壁の崩壊を予見したように、とまで言ったら褒めすぎだけど、ブランド品のカタログ・リストのあいだにしょーもないポルノが挿入されたあの小説(?)は、いま読んでも「バブリー」としか言いようがなく、たしかにバブルを予見していた、というか、70年代末の時点ですでにバブルが準備されてたことの例証になるのは間違いない。
 つまり、文学的価値は限りなくクリスタルに近いけれども、社会学的価値は今でも高い。いやむしろ今だからこそ高い。
 「なんクリ」の注釈はそのご増補されたと聞くが、ぼくの手元にあるのは1983年にはじめて河出文庫に入ったときの本で、注の総数は442個だ。そして巻末には、「人口問題審議会」による「出生率の低下」レポートが附されている。
 ひょっとしたら、この442個の註とレポートこそが、この作品の本当の意味での「主人公」かもしれない。一橋大学法学部(石原慎太郎とまったく同じ)を出て、のちに政治家となった(これもシンタローと同じ)田中康夫の本領は、この注釈とレポートを附した「批評精神」ないし「社会意識」にこそ存するのだ。本編の小説だけじゃ意味はない。本編と注釈、そして巻末の付録とが一体となって初めて成り立つ作品なのだ、『なんとなく、クリスタル』は。
 ようするに、ねえオトナの皆さん知ってます? いま都会ではこんなネエちゃんニイちゃんがクリスタルでブリリアントなライフをエンジョイしてるんですけど、そのいっぽうで、ニッポンの人口はじりじり減り続けてますよね、このままだったら30、40年後にエライことになっちゃいますけど、そこんとこ、どう思います? と、当時24歳の田中康夫は読者の耳元でひそひそ囁いてたわけである。その囁きは届かない人にはさっぱり届かず、届く人にだけ届いたけれど、その数はたいへん少なかった。でもって、じっさい今、ニッポンはエライことになった。無策の果ての少子化・高齢化が止まらず、市場原理(グローバリズム、と読む)に身を売って、なりふりかまわぬ移民国家になろうとしている。
 さて。『なんとなく、クリスタル』で有名なのは、「昭和を代表する文芸批評家」の一人といわれる江藤淳(1932 昭和7~1999 平成11)が、これを絶賛したことだ。江藤さんは作者の「批評精神」「社会意識」にうっすらと気づいてはいたようだが、そのことを明瞭に口に出したわけではない。だから、「なんで江藤はあんなのを評価するんだ?」と、当時そこそこ話題になった。それというのも江藤氏は、その4年前、あの『限りなく透明に近いブルー』を「サブカルチャーにすぎん。」と一刀両断していたからだ。
 ふつうの感性をもった文学青年・文学少女なら同意してくれると思うが、虚心に「ブルー」と「クリスタル」とを読み比べて、後者のほうが「文学として優れている」と感じるひとはまずいまい。まして「サブカル」というならば、「純文学やるぜ!」と目いっぱい頑張っている「ブルー」に対し、「クリスタル」はそんな努力すら放棄しており、サブカル度合ははるかに大きい。むろん、サブカルっぽい固有名詞の掲出量も比較にならない。これはまあ、江藤淳という人がサブカルという用語の意味をよくわかってなかったせいもあったらしいけど、ともかくも異様なこととして、当時の「文壇」かいわいで話題になったわけである。
 当時ぼくは中坊で、ブンガクにさして興味もなかったが、「ブルーをけなしてクリスタルを褒めた江藤淳って評論家がいる。」という話はどういうわけか耳に入って、「おかしなオヤジもいるもんだ。」とは思っていた。

 江藤淳が「ブルー」をけなして「クリスタル」を持ち上げたことは、当時(1980=昭和55)ひとつの謎だったが、その種明かしをしてみせたのが、新進の文芸評論家・加藤典洋だ。
 82年に「早稲田文学」に発表された「アメリカの影」という論考で、これがデビュー作だったのだが、話題になって他の二本の評論と込みで85年には単行本として出版された。新人の文芸評論集なんて当時でもそんなに売れるものではなく、これほどすぐに本になるのは滅多にないことだ。そのご講談社学術文庫に入り、そのあと文芸文庫のほうに入って現在に至っている。ちなみにこの「戦後短篇小説再発見」シリーズも講談社文芸文庫で、その頃はぼくもよく買っていたのだが、さいきんは狂気すら感じさせるくらいの高値になってとても手が出せない。『アメリカの影』にしてからが、学術文庫版は960円だったのが文芸文庫版は1860円である。いくら値上がりっつったって、十年あまりでほぼ倍ってのは尋常ではない。どうなっておるのか。
 さて、その種明かしだが、じっさいに聞かされてみれば単純で、ようするに「ブルー」は基地(在日米軍)に抵抗の意を示している小説で、「クリスタル」はそれとは逆に、アメリカの存在を諦念をもって受けいれている小説だ、だからブルーはだめでクリスタルは良い、と江藤さんは言うのだよ、と加藤さんは言うのであった。
 念のため言うが、江藤淳って人はアメリカが嫌いなんである。大嫌いだけどどうやったって敵わないんだから従わなけりゃしょうがない、と、ご本人自身が諦念をもって受けいれている。だから安直に「ヤンキー・ゴーホーム」と言ってのける「ブルー」にはキレて、アメリカまみれのシティー・ライフを満喫してみせる「クリスタル」には「我が意を得たり。」と悦んだという、そういう話なのだった。
 おそろしく屈折している。
 とはいえそれも奇妙な話で、小説の値打ちってのはそういうことで決まるんですか、と率直にギモンを覚えるし、あと、ブルー(1976)とクリスタル(1980)とのあいだにぴったり挟まる「風の歌を聴け」(1979)の評価はどうなってんだ、というギモンも浮かぶ。ちなみに、江藤淳は終生、村上春樹をまともに評したことはなく、黙殺に近い態度を取った。それもまたぼくにはよくわからない。なんでそんなに突出して田中康夫が好きだったんだろう。江藤淳は石原慎太郎も大好きだったから、一橋大出身で若くして作家デビューして後に政治家になるタイプの人(といっても二人だけだし、しかも政治信条は正反対だが)に惹きつけられる星の下にでも生まれたんだろうか。どういう星だ。
 なお田中康夫氏は、2014年に『33年後のなんとなく、クリスタル』を出した。これも河出文庫に入っているが、読んでないからなんとも言えない。ただ、ネットを見てたら「小説の形をとった政治的マニュフェスト」と評している方がおられ、「なるほど」とは思った。やはり田中康夫という人は、作家というより社会評論家なのだ。
 「昔みたい」は1987年、まさしくバブルのさなかに発表された。もちろん注など付いてはおらず、体裁はまるきりふつうの小説である。プロデビューして7年も経ってるんだからとうぜんそれなりに熟(こな)れてはいるが、若い娘の幼稚くさい一人称で書かれてるところはクリスタルと一緒だ。そういえば上野千鶴子さんだったか、村上龍『トパーズ』(角川文庫)の文体を評して、「女の知性をバカにしている」と罵ってた記憶があるが、若い娘の口寄せをする田中康夫の文体についてはどういう意見をお持ちなんだろう。よもや、田中康夫は村上龍よりもリベラルだから批判なぞしないというんだろうか。だとしたらまったくもってくっだらねえ話ではあるが。


 その②につづく。



読まずに語る! マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』

2018-11-04 | 哲学/思想/社会学
 マルクス・ガブリエルさんの『なぜ世界は存在しないのか』(講談社選書メチエ 清水一浩・訳)が売れてるらしい。売れている、といっても「哲学書としては。」って話で、映画化されたラノベみたいな勢いで売れてるわけではもちろんない。こういうものを買って読むのはインテリの中でも「好きモノ」の方々であって、ぼくはまあ、インテリではないんだけれどかなり「好きモノ」ではあるから「読んでみたいな。」とは思っている。きっとそのうち読むつもりだが今はまだ読んでない。読みもしないで書くわけだから、この記事に限っては「なぜ世界は存在しないのか」の検索ワードで上位にこないよう願う。訪問される方に有意義な情報を提供できるかどうか自信ないからだ。

 マルクス・ガブリエルは1980年生まれの哲学者。2009年にボン大学の教授となり、ドイツでは最年少の哲学正教授として話題になったそうな。少壮気鋭というやつだ。ネットの画像で見るかぎり、ルックスもまあまあ。Wikipediaによると、同大学では認識論・近現代哲学講座を担当すると共に、大学内にある「国際哲学センター」のディレクターも務めているとか。過去にはカリフォルニア大学バークレー校の客員教授を務めた、ともある。また「複数の言語(ドイツ語、英語、イタリア語、ポルトガル語、スペイン語、フランス語、中国語)を自在に操り、また古典語(古代ギリシャ語、ラテン語、聖書ヘブライ語)にも習熟している。」らしい。なんだかよくわからないけど、相当にアタマがいいのは間違いないようだ。

 しかし、これは半分くらい負け惜しみでいうんだけれども、この手の「アタマの良さ」ってのはようするに「情報処理能力の高さ」であって、それで誠に創造的な(クリエイティヴ、と読む)業績を残せるか否かはまた別である。むろん、情報処理能力の低い人より高い人のほうが創造的な仕事を成し遂げる可能性はだんぜん大きいにせよ、逆は必ずしも真ならず。

 ぼくなどは最近つくづく「哲学」ってのは「文学」と似てる、っていうか、ほぼ文学と同じじゃん、という気分になっているんだけど、どちらもつまり、コトバでつくった「世界観」というか「世界像」という点でそっくりだ。あえて言ってしまえば「作品」なのだ。緊密で体系立っててエレガントな「作品」もあれば、ゆるゆるでぐずぐずでみっともない「作品」もある。ニッポンでいえば江戸中期の人だけれども、カントなんてやっぱり今読んでも立派だし、相対性理論と量子力学とを経由した現代人にとっては、確かに古びて見えるけど、しかしこれほど立派な作品を生み出せるひとは現代でもそうはいない。

 こんなこと言っちゃナンだけど、そのへんの大学で「哲学」の講義をもってるような人たちの大半は、自前の「作品」がつくれないから「解説」や「概論」をやって喰ってるわけで、その点も「文学」を担当してる先生方と一緒である。知識が豊かだからって「作家」になれるわけじゃない。「作品」をつくるってのは、それくらい大変なことなのである。

 ところで、どうしてぼくが当の本を読みもしないでこんな記事を書きだしたかというと、「マルクス・ガブリエル なぜ世界は存在しないのか」で検索を掛けて上のほうに出てきた池田信夫さんの短い書評が面白かったからだ。
 以下、出だしの引用。


「世界が存在することは自明だが、カント以来の近代哲学はこれを証明できない。カントは「物自体」の存在を前提しただけでその証明を放棄し、ヘーゲル以降は存在を「括弧に入れて」そのありようを論じるのが哲学の仕事になった。それに対して「世界は存在する」と主張したのが唯物論だが、素朴実在論は認識論として成り立たない。
 ヘーゲルの観念論を徹底するとニーチェのいうニヒリズムになり、超越的な存在を否定する「言語論的転回」が20世紀の哲学を支配した。ポストモダンはその極限形態だが、この種の「新ニーチェ派」にはみんな飽きた。そこで出てきたのが、ポストモダン的な「相関主義」を否定して、世界は主観に依存しないで存在すると主張する新実在論である。」


 近世~現代に至る西欧哲学の一筆書きとして、じつに明快である。残念なのは、これがガブリエル氏の本の要約なのか、池田さんご自身の見解なのかがアイマイなとこだが、もし本の要約だとしたら、『なぜ世界は存在しないのか』は、何よりもまず的確な「現代哲学入門」として使えることは間違いない(注・このあと確認したら、ガブリエルさんは本編で別にこんなことは書いておらず、池田氏オリジナルの要約だった)。

 一筆書きだからとうぜん、この濃縮された「西欧近代~現代哲学史」のエッセンスには穴も開いてれば歪曲や単純化も見受けられるのだけれど、この手の話は厳密にやったらたちまち膨れ上がってしまうので、なんとなく哲学っぽいこと、現代思想っぽいことに関心のある若い人なんかはとりあえずこれだけ頭に入れといて、細かいとこはネットを探ったり本を読んだりして詰めていったらいいんじゃないか。

 さて。そうはいっても「ここはやっぱり看過できない。」という点もある。「言語論的転回」というキーワード(キーコンセプト)である。
 これについてはwikiにも「コトバンク」にも簡明な説明が載ってるんで、ここでは詳述は避けたいが、ひとことでいえば「哲学の歴史で延々と議論されてきた問題って、じつはコトバの問題じゃね?」という発想のことだ。これが相当な「発想の転換」だったもんだから、「転回」と呼ばれてるわけだ。
 かんたんな例をあげましょう。
 Aが「人生には意味なんてない。」といい、
 Bが「いや、人生にはやっぱ意味あるよ。」と反論をする。そこで例えばお互いがそれぞれの半生やら体験談を語りだしたら、まあ会話としてはそれなりに面白くなるかもしれぬが議論としてはおそらくずっと決着はつかない。まずは「人生」というコトバでお互いがどういう内容を想定しているのか、それを明らかにしてないからだ。
 もっというなら、「意味がある」「意味がない」というコトバでお互いがどういう内容を想定しているのかについても、詰められるだけ詰めといたほうがいいだろう。

 もっと高尚な例でいえば、「神は存在するか?」というのはどうだろう。昔よく「アナターは神をー信じまーすかー」と路上で尋ねられることがあったが、まず「神」というコトバでその人がどういう内容を想定してるのか、そこがわからないから答えようがない(もちろん大体察しはつくが)。といって、そんな問答を始めたら時間がいくらあっても足らないし、そもそもその人とそれほどの縁を結ぶ筋合いもないので「ちょっと急いでるんで~」と逃げなきゃしょうがなかった。

 ともあれ、「言語論的転回」すなわち「哲学の歴史で延々と議論されてきた問題って、じつはコトバの問題じゃね?」という発想ってのは、すごく卑近にいえばそんな感じで、それを病的なまでに探究したのがウィトゲンシュタインというひとである。

 ウィトゲンシュタインはユダヤ系のオーストリア人だけど、イギリス国籍を得てケンブリッジの教授になった。ヘーゲルに代表される「ドイツ観念論」や、デカルトに始まる「フランス合理論」からは切れていて、英米系の「論理分析哲学」の始祖(の一人)と目される天才だ。

 この「論理分析哲学」は、第二次大戦後には現代哲学の大きな潮流となった。それは、日本で80年代バブル期に流行ったいわゆる「ポストモダン」の面々、すなわちフーコー、ドゥルーズ、デリダ諸氏とはまた別の流れなのである。むろん、「言語論的転回」はほんとうに大きな出来事だったので、「ポストモダン」の面々も相応の影響を受けているのは間違いないが(とくにデリダ)、論理分析学派ほどではない。

 上で引用した池田さんのブログの文章のなかの、
「「言語論的転回」が20世紀の哲学を支配した。ポストモダンはその極限形態だが、この種の「新ニーチェ派」にはみんな飽きた。」
 というくだりの「新ニーチェ派」とはもっぱらフーコーやドゥルーズやデリダ、及びその影響下にある思想家たちのことで、つまりこれでは論理分析学派がすぽっと抜け落ちてしまう。

 もちろん池田さんは、このあとでちゃんとウィトゲンシュタインにも言及しておられるけれど、ぼくがネット上の情報をあれこれ漁ったかぎりでは、どうも『なぜ世界は存在しないのか』におけるマルクス・ガブリエルさんは、「論理分析学派」からは意図的に距離を置いておられるようだ。っていうかどうもこの本、「英米系論理分析哲学」に対する「大陸系」からの逆襲。という印象さえも、ぼく個人は受けたのだった。

 「論理分析哲学」はその後いくつかの流派に分かれていったが、総じていえば「科学(的世界観)」に最大限の敬意を払う、という点で共通している。そして、「科学(的世界観)」は何といっても厳然と現代世界を律しているわけだから、論理分析哲学は、業界でも大きな力をもってるのである。哲学者の中には、「科学(的世界観)」と「哲学(的世界観)」との融合を目論んでいるひともいれば、最終的に「哲学(的世界観)」が「科学(的世界観)」に包摂されるのを期待している(かに見える)人もいるくらいだ。

 「論理分析哲学にあらずんば哲学に非ず。ポストモダン派だ何だといっても、所詮は言語の戯れではないか」といった風潮さえも、ひと頃はあったのである。
 ところが、『なぜ世界は存在しないのか』におけるガブリエルさんは、その「科学(的世界観)」までをも相対化している。どうやら、「哲学(的世界観)」どころか、「文学(的世界観)」までをも、「科学(的世界観)」と同価値のものだと述べてらっしゃるらしいのである。

 まさに「英米系論理分析哲学」に対する「大陸系」からの逆襲、いや、これはもう「科学(理系)」に対する「哲学(文系)」の逆襲とすらいえよう。
 ここのところをさして、千葉雅也氏×東浩紀氏による対談書評では「面白くない。」「哲学的後退。」「人文学の自慰的な話。」とまで酷評されている。ただこればっかりは自分のアタマで確かめなくちゃしょうがないので、読んでみたいのは山々だけれど、とうとうほんとに『宇宙よりも遠い場所』のディスクを買っちまったので、当面は本が買えないのだった。

 追記) 2019.06 そのあと買って読みました。たいへん面白かったし、「読まずに書いたこの記事も、それほど的外れなことはいってない。」と思って安堵しました。書評はいずれまた。