ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

ひきつづき、『風立ちぬ』のこと。⑦ 「近代ニッポン」の象徴としての菜穂子。

2019-04-29 | ジブリ



 口語調のくだけた書き方に飽きてきたので、ふつうの文体に戻すことにする。元号を跨ぐのもアレなんで、できれば今回でひとまず決着をつけたい。
 質問サイトを見ていたら、「なぜ本庄はいつもあんなにキレ気味なんですか?」みたいなQがあって笑ってしまった。二郎の親友・本庄(CV・西島秀俊)にも実在のモデルがいる。本庄季郎(きろう)という人だ。ただ、たしかに二郎の同僚ではあったがそれほど仲が良いわけでもなく、欧州への視察にも同行していないらしい。それで、本作ではフルネームではなく「本庄」という表記に留まっている。モデルはいてもあくまで架空のキャラなのだ。
 本庄は二郎とは別のチームにいる。彼がつくっているのはたぶん爆撃機だろう。
 本庄がつねにイラついているのは、欧米列強に比べて日本の技術が大きく遅れており、それが戦局の帰趨を、ひいては日本の命運を左右することが痛いほどわかってるからである。満洲事変が始まったのちも「どこと戦争するつもりなんだろう……。」などとすっとぼけたことを言っている二郎よりもずっとシビアに情況を理解し、危機感をもっているわけだ。
 明治維新いこう、日本はずっと孤立無援だったのである。それまで文化の範を仰いできた中国(清)はイギリスにこてんぱんにやられていたし、隣の韓国もまるで当てにならない。イギリス、フランスも倒幕の際には手を貸してくれたが、もちろんそれも自国の利益のためであり、腹蔵なく日本の発展を支援してくれるほどお人よしではない。アメリカもしかり。ロシアとは緊張関係どころか干戈(かんか)を交えた仲である。
 友好国たるドイツでさえも、一皮剥けば露骨な敵愾心に満ちていることは、欧州視察のくだりでわかりやすく描写されていた。カプローニの故国イタリアとは利害対立はないが、たんにそれは、はっきりいってイタリアが弱いからってだけなのだ。
 どこにも頼れる相手がない。
 そんななか、限られた技術供与をもとに、あとはほとんど工夫とアイデアだけで列強に伍しうるだけの飛行機を作っていかねばならぬのだから、そりゃ苛々するのもしょうがない。
 本庄の苛立ち、焦燥、切迫感は、明治いこうの、すなわち近代日本の苛立ちそのものだ。
 「俺たちには時間がない。」というセリフを、本庄は何度か口にする。そう。近代日本にはとにかく時間がなかったのだ。黒船の来航によってとつぜん泰平の眠りを覚まされ、準備期間もなしに国と国との熾烈な生存競争の中に引きずり込まれたわけだから。
 少しでも気を抜けば植民地化され、寄ってたかって好き放題に食い荒らされる。それが「後進国」に対する欧米のやり方なのである。
 そうならぬよう、近代国家としての体制を整えねばならない。政治・経済・科学技術・社会・商業・交通・教育……その中にはもとより軍事も含まれる。というか、軍事の優先順位は今では想像もつかぬほど高かった。なんといってもスローガンは「富国強兵」である。「強兵」のために「富国」があるわけで、「民の幸福」のためではないのだ。
 太平洋戦争の4年間とは、明治以降のその強迫観念が限界を超え、狂気じみたヒステリーの域にまで高じた時期といっていい。


 本庄とはまったく違うシチュエーションで、二郎もまた「僕たちには時間がないんだ。」と口にする。菜穂子が山を下りてきて、黒川夫妻(CV・西村雅彦/大竹しのぶ)の厚意でめでたく結ばれ、さらには邸の離れにふたりで住まわせてもらっている時期のことである。
 とはいえ、この時はまだ、太平洋戦争(アメリカとの戦争)は始まっていない。二郎と菜穂子とが軽井沢で再会したのは1933(昭和8)年。満洲事変の2年後、五一五事件の翌年、ドイツでナチスが政権を樹立し、日本が国際連盟を脱退した年だ。





 太平洋戦争が起こる(を起こす)まで、まだ8年の間がある。この8年間はけっこう大きい。
 このあたり、映画の中にそういった社会状況をはっきりと可視化する描写がないので、時代背景がわかりにくい。ぼくくらいの齢のものでも後から整理しなければわからないんだから、若い人たちは「なんか昭和の初めごろの暗ーい時代」みたいな感じで、ごっちゃになってるんじゃないか。
 二郎は再会して間もなく(菜穂子の巧みな誘導もあって)彼女との結婚を決める。そのあと菜穂子は喀血して、療養のために八ヶ岳高原の病院に籠もるのだが、ついに思いが高じてそこを抜け出し、自ら二郎に会いに行く。
 そしてそのまま、黒川夫妻に媒酌人となってもらって結婚、さらには離れを借りての同居にまで至る。
 話の都合で、黒川夫妻、むちゃくちゃ親切な人たちになっている。
 あの「お輿入れ」のシーンは美しい。夢幻的ですらある。さりとて、儚くもある。「この婚姻は寿ぐべきものだが、しかし、長続きはすまい……。」という予兆に満ちている。
 ちなみにあの折の口上、
大竹「申す。七珍万宝投げ捨てて、身ひとつにて山を下(くだ)りし見目麗しき乙女なり。いかに?」
西村「申す。雨露しのぐ屋根もなく、鈍感愚物の男(おのこ)なり。それでもよければお入り下さい」
二人「いざ夫婦の契り、とこしなえ」
 というのは、どこかの地方の習俗といったものではなく、完全なる宮崎監督のオリジナルである。ただ「あまたの金銀財宝」をあらわす「七珍万宝」という熟語は、前回ふれた『方丈記』の中に出てくる。
 夫妻の厚意で二郎と菜穂子とが結ばれ、邸の離れを借りて暮らし始めるこの辺りまでが、1934(昭和9)年の出来事だ。再会してから一年くらいしか経っていない。たいそうペースが早いのである。
 このかんずっと、設計者としての二郎は「九試単座戦闘機」の開発に勤しんでいる。これがのちの「零戦」の原型となる。
 ふたりが一緒に暮らす時間は一年にも満たない。二郎が「僕たちには時間がないんだ。」と口にするのは、医学を学ぶ妹の加代が菜穂子と会い、菜穂子の病が見かけ以上に重篤であることを指摘して、「お兄様は薄情」と詰(なじ)った時だ。
 これがその翌年、1935(昭和10)年のことである。
 「僕たちには時間がないんだ。」とは、「菜穂子が命を削ってここに留まっているのはわかっている。菜穂子にも僕にももう覚悟はできている。承知の上でこうしているんだ」という意味だ。これでは、さすがの加代もそれ以上はもう何も言えない。
 心情としては、できれば二郎は一分一秒も惜しんで菜穂子の傍に居たいはずである。しかし、いっぽうで彼は日本の命運を担う戦闘機をつくってもいるのだ。
 毎晩帰宅は遅く、帰ってからも、片手で菜穂子の手を握りしめながら、片手で計算尺を扱う日々。
 しつこくいうが、そうやって二人が共に暮らした時期は、どう見積もっても一年にも満たない。
 加代の最初の来訪からほどなく、自らの体調が臨界に達したのを悟った菜穂子は三通の手紙を残してひっそりと退居してしまう。おそらくは高原の病院に戻ったのだろうが、そのあとはもう作中には現れず、二郎がそこを訪れたり、彼女の最期を看取ったりする描写もない。
 いや、そういった描写が皆無というより、いきなり話がぽーんと飛んでしまうのである。
 夢のシーン。カプローニ伯爵(CV・野村萬斎)がいる。これまで彼の登場場面は明るくカラフルで官能的だったが、今回だけはひたすら暗い。遠景の街は焦土と化し、あちこちに飛行機の残骸が散らばる。ほぼ「地獄」のイメージである。「君の10年はどうだった?」と尋ねる彼に、「終わりのほうはズタズタでした。」と二郎は答える。
 これはもちろん敗戦直後だ。だとすれば確かに、菜穂子が去ってからきっかり10年が経過している。
 つまり、『風立ちぬ』というアニメは、日本にとって、そしてまた零戦の設計者としての二郎にとっても、「もっとも肝要」なはずの10年間が、ざっくりと割愛された作品なのだ。
 この作品がぼくたちにひどく面妖な感じをもたらすのは、ひとえにそのせいだろう。
 カプローニは二郎に、「そうだろう。国を滅ぼしたんだからな。」という。なぜそんな言い方をしたのだろう。いかに優秀とはいえ、所詮は一介の技術者ではないか。「国を滅ぼした」は大仰すぎるではないか。
 あれはすなわち、「最愛の妻を死なせたんだからな。」という含意であったのだろう。だからこそ、次のシーンで彼方から菜穂子が歩いてきて、「(あなたは)生きて。」と二郎に告げるのだ。
 


 つまり「佳人薄命」を地でいく菜穂子は、近代の幕開け以降、「ずっと時間がなかった」日本の姿と重なり合っている。もっというなら、近代日本の美しく擬人化された姿ではないかとさえ思う。少なくともぼくにはそのように視えたし、そう解釈しなければ、『風立ちぬ』という作品が理解できない。
 それがあそこでいったん死んだ。滅びた。しかし、遺された者たちは生きていく。生きて戦後のニッポンをつくる。そういう寓意なのだろう。
 でもそのことがわかるのは、ぼくが日本という共同体のなかで暮らしているせいだろうなあとも思う。感傷のナミダに濡れた瞳で近代日本を眺めているわけだ。
 ただ、いっぽうでもちろん軍国ニッポンには、「猛々しい益荒男(ますらお)」の面もあったわけであり、とりわけ「近隣諸国」の住人は、そちらの印象のほうが遥かに強いはずである(もっというなら、アジア諸国のみならず、捕虜の中から多くの死者を出した欧州の国の中にも「軍国ニッポン」への恨みを残す人たちは多い)。
 だから、ぼく個人は『風立ちぬ』というアニメが好きだが、その感覚を「他の共同体」のひとたちと共有できるかどうかは正直なところ心許ない。
 ちなみに、『風立ちぬ』は、カプローニつながりということだろうか、イタリアのベネチア映画祭に出品され、好評は博したものの受賞は逸した。ほかに海外で賞をいくつか取ってはいるが、さほど目ぼしいものはない。ドイツでのベルリン国際映画賞(金獅子賞)、アメリカでのアカデミー賞をはじめ、輝かしい経歴を誇る2001年の『千と千尋の神隠し』に比べるとずいぶん見劣りがする。ファンタジーに対して、やはり歴史を扱った作品はそれだけ難しいということなんだろう。


ひきつづき、『風立ちぬ』のこと。⑥ 堀田善衞

2019-04-26 | ジブリ



 むろん、戦闘機のほうが爆撃機よりもまだ殺傷力が低いから罪が軽いなんて言ってるわけじゃない。どっちも人を殺すための道具ってことでは同じだからね。それはとうぜん宮崎監督もそう思ってるはずだけど、作品の系譜を辿っていけば、「爆撃機」よりも「戦闘機」のほうを好ましく思ってらっしゃることは明白でしょう。
 でも、これは難しい問題だ。『風立ちぬ』という作品そのものの本質にかかわる問題だけど、それだけにとても難しい。保留ってことにしときましょう。
 さて。
 たまたま「堀」の字で繋がるんだけど、堀田善衞という作家がいたんですよ。1918(大正7)生まれだから、堀越二郎・堀辰雄よりは下になるけども。
 亡くなったのは1998(平成10)年。文学史の上では「戦後派」にカテゴライズされる、押しも押されもせぬ大作家ですが、後年は、司馬遼太郎さんと並んで作家というより「文明批評家」「文明史家」というべき存在になっていらした。
 戦後派の作家って、以前に述べた大岡昇平さんもそうだけど、おそろしく骨太なんだよね。兵士として戦場に行った人はもちろん、そうでない人も何らかのかたちであの大戦を経験している。それも多感な青年期、あるいは中年にさしかかる年齢でね。そりゃ人間の迫力が違ってきますよ。
 それに、好奇心が旺盛で、文学に留まらず膨大な量の本を読んでて、百科全書的な知識の持ち主が多い。武田泰淳とか、埴谷雄高とか。
 昔は純文とエンタメとの差別がうるさかったから、司馬さんは「戦後派」には入ってないけど、感じとしては近いですね。
 堀田善衞も例外ではない。どころか、知識の豊かさでは筆頭に数えられるべき方です。
 主著は『ゴヤ』全4巻(朝日文芸文庫→集英社文庫)と『ミシェル 城館の人』全3巻(集英社文庫)。
 前者はタイトルどおりあの画家のゴヤ、後者は『エセー』で知られる思想家のモンテーニュが主役……なんだけど、たんに評伝ってわけじゃなく、ほんとの主役は当時の社会そのものですね。前者であれば18世紀スペイン、後者であれば16世紀フランスを中心とした、その時代の「ヨーロッパ」そのものが主役。
 だから隈なく熟読すれば、当時のヨーロッパについて、政治・経済・宗教・商業・軍事・思想など、立体的かつ総合的な知識が得られる。ただの面白エンタメなんかじゃないんだな。ボリュームからいっても内容からいっても、こういう「小説」を書く人は、いまの日本では思い当たりませんね。まあ塩野七生さんとか、佐藤賢一さんとかかな? でもなんかちょっと違うんだなあ。
 ひとことでいえば、堀田善衞ってのは「乱世」を見据え、「乱世」を思索しつづけた方でした。この人にとっては、現代もまたひとつの「乱世」であった、というか、「乱世」に過ぎなかったんだよね。今よりもずっと長閑だった「昭和元禄」の頃も、バブルの頃でさえも。
 だいたい、日本が泰平に浮かれてへらへらしてる時期は、ずっと海外におられるんですよ。旅の好きな方でね。
 個人的には、堀田さんが少年~青年の頃の自分および仲間を……ということはつまり戦前・戦中の知識青年たちの様相を……描いた自伝的小説『若き日の詩人たちの肖像』(全2冊。集英社文庫)を、高2の夏休みあたりに読んでみてほしいものだなあ、と若い人たちに望むんですが。


 宮崎駿さんは、司馬さんとこの堀田さんをことのほか敬愛していた。90年代初頭には、「私は一人の書生として、お二人のお話を伺うために来ました。」なんて言って、『時代の風音』(朝日文芸文庫)という座談会の聞き手を務めたりして。
 年齢こそかなり下だけど、当時の宮崎さんはアニメ界ではもう大家だったからね。なかなかできることではない。
 昨年(2018年)、堀田さんの生誕100年・没後20年を記念して、『堀田善衞を読む 世界を読み抜くための羅針盤』って企画本が集英社新書から出たんだけども、これの帯には、「お前の映画は何に影響されたのかと言われたら、堀田善衞と答えるしかありません。 宮崎駿」と大書してあります。つまり、これが最大の売り文句になってる。






 堀田さんの本で今でもよく読まれてるものに『方丈記私記』(ちくま文庫)ってエッセイがあるんだけど、宮崎さんは、その本にふれてこう述べてます。


 「堀田さんが、何かの機会にお会いした時に、『方丈記私記』を映画にしないかとおっしゃいました。「あげるよ。」と。僕は『方丈記私記』を初めて読んだ時、夜中に寝床で読んでいたのですが、まるで平安時代に自分がいるのではないかと思えて、立ち上がって思わず窓を開けてしまったほどの感覚に陥りました。外には火の手がほうぼうに上がる平安時代の京都があり、その上を、見たはずのない東京大空襲の時、三〇〇〇メートルの高さまで降りてきて焼夷弾を落としていくB29が見えました。ぎらぎらしたB29の腹には地上の火が映って明るかった、といろんな人が書き残していますが、それがいっぱい見えてきそうなくらい、リアリティーのある小説でした。」


 『方丈記』は400字詰め原稿用紙で30枚にも満たないくらいの短いものだけど、地震や台風や大火事など、天災の記述に大きく紙数を割いている。鴨長明って人は冷静なリアリストなもんで、その記述がきわめて精確なんですよ。町を包んだ炎が地上を舐めて上空へと巻き上がっていく描写なんかが、科学的に精確なんだよね。
 27歳の堀田善衞青年は、自らが体験したB29による東京大空襲のさい、『方丈記』の一節を思い起こして、それがきわめて精確だってことに改めて気づいた。生き延びたあと、その記憶を核にして、戦後、自身初の長編エッセイ『方丈記私記』を書くわけです。
 宮崎駿さんは1941(昭和16)、まさに太平洋戦争が始まった年の生まれで、「父親に負ぶわれて逃げる中で、B29が落とす焼夷弾が降ってくるのを目撃した最後の世代」と述べてらっしゃるんだけど、宇都宮に疎開して、そこで敗戦を迎えたんだから、東京大空襲には遭遇しておられないはずなんですよね。それで「見たはずのない東京大空襲の時」という言い方になる。
 ところで、この『堀田善衞を読む』という企画本が集英社新書から出たのは前述のとおり2018年なんだけど、そこに収められたこの宮崎さんの文章は、2008年に県立神奈川近代文学館で開催された「堀田善衞展 スタジオジブリが描く乱世。」の時の講演の採録なわけ。
 2008年というと、ちょうど「ポニョ」の年ですね。引退宣言したあとなんだ。
 でもこの講演録を読むと、「どうにかして、『方丈記私記』から受けたインパクトを映像化したい。」といっておられるようにみえる。まだまだ意気軒昂というか。
 ただ、作家の構想なんてどんどん変わっていくもんだしね。だから当てにはならないんだけど、引退宣言を撤回して、「これこそほんとに最後の一作。」ってふれこみで作った『風立ちぬ』が、このときの意気込みと無縁とは思えないんだよなあ。
 『方丈記私記』と……ってことはすなわち「東京大空襲のイメージ」と……まるっきり無縁であるとは、少なくともぼくには思えない。
 だけど、できあがった『風立ちぬ』は、けっきょく東京大空襲を描きませんでしたね。空襲を描かなかったどころか、「地上で爆弾を落とされる側」の視点に立ったカットってものが一コマたりともなかった。「ぎらぎらしたB29の腹には地上の火が映って明るかった。」という、そのイメージをビジュアライズすることはなかった。
 それが巨匠・宮崎駿の思想の限界なのか、興業上の配慮だったのか、はたまたその両方か、さらには他にも原因があるのか、ぼくも6年前からちょくちょく考えてるんだけど、どうも結論に至らない。たぶん答えは出ないかもですね。
 いずれにせよ、高畑勲監督の『火垂るの墓』とは(もっというなら、片渕須直監督の『この世界の片隅に』とも)、決定的に違うってことは間違いない。
 アニメ『風立ちぬ』は、そういった、「戦禍の悲惨さ」の描写に振り向けるべき映画的なリソース(つまり尺とか作画枚数のことね)を、二郎と菜穂子との清冽で激しい恋愛のもようにぜんぶ注ぎ込んじゃった。
 そしてそれは、陶然とするほどロマンティックで美しく、どうしたってナミダを誘われる。それゆえに、こちらとしても困ってしまうわけですが。






ひきつづき、『風立ちぬ』のこと。⑤ 鯖の骨とピラミッド

2019-04-24 | ジブリ


 
 カストルプが架空のキャラであるのに対し、「カプローニ伯爵」は実在の人物です。Wikipediaには、ジョヴァンニ・バッチスタ・ジャンニ・カプロニ(Giovanni Battista "Gianni" Caproni)として載ってますね。ここにはなぜか「伯爵」とは書かれてませんが、伯爵位を持っていたのは事実らしい。
 優秀な技術者だったんだけど、「カプロニ」という会社の経営者としてむしろ有名なんですね。実業家であったと。

 「第一次世界大戦が勃発すると、アメリカやイギリス、フランス等の連合国の需要に応え、爆撃機や輸送機の生産で躍進。1930年頃には、自動車・船舶用エンジンの生産など事業の多角化に成功し、イタリア有数の企業に発展した。これに併せ、ソチェタ・イタリアーナ・カプロニ (Società Italiana Caproni, Milano) へと社名を変えた。また、小企業の買収も行った。」

 と、wikiの「カプロニ」の項にはあります。
 小学生の二郎が初めて夢のなかでカプローニ伯爵と対面し、「飛行機乗りになれないのなら、設計者になればよい。」と励まされるのが1916(大正5)年のことだから、まさにこの会社が「アメリカやイギリス、フランス等の連合国の需要に応え、爆撃機や輸送機の生産で躍進」してた頃。
 そんなさなかに、「飛行機は美しい夢だ。戦争の道具でも商売の手立てでもない。」なんてセリフをぬけぬけと口にするんだから、相当なタマですが。
 この人の語録の中では、「クリエイターの最盛期はせいぜい10年。君の10年を大切にしたまえ。」とかいう忠告が人気みたいだけど、もっと重要なのは、「ピラミッドのある世界とない世界、君はどっちがいい?」って問いかけでしょう。
 これらはいずれも、二郎が欧州に視察に出かけた際の夢のなかで語られる。だから1929(昭和4)年、二郎26歳の年です(詳細は「ひきつづき、『風立ちぬ』のこと。②」をご参照のほど)。
 二郎はそれには直接答えず、「僕は美しい飛行機を作りたいのです。」てなことを述べる。
 美しい飛行機。すなわち「鯖の骨」ですね。




 カプローニ伯爵はピラミッド、二郎は鯖の骨。

 これが対立する構図になっている。
 宮崎駿作品の系譜でいえば、テレビアニメ『未来少年コナン』のギガント、映画『天空の城ラピュタ』のゴリアテ、これらが典型的な「ピラミッド」。







 いっぽう、「紅の豚」ことポルコ・ロッソの愛機「サボイアS.21試作戦闘飛行艇」とか、「風の谷」のガンシップね。城おじのミト爺が操縦するやつ。ああいうのが「鯖の骨」。まあ、そう呼ぶにはいささか武骨ですが。
 もっとも軽快で優美な「鯖の骨」といえば、もちろん、ナウシカの乗るメーヴェでしょう。




 
 
 それでね、これは何を言ってるのかってことですが、これを「リアルな戦争」という文脈において翻訳するならば、「爆撃機」と「戦闘機」なんですよ。
 ここのところを抑えとかないと、あそこの対話の真意がいまいちわからない。
 「爆撃機」といえばアメリカ空軍のB-29ですね。太平洋戦争末期、日本中を火の海にした。
 対して、二郎らのチームが作った零戦は「戦闘機」。
 したたかなカプローニ伯爵はともかく、アニメの二郎は純朴だから、むろん戦争の道具なんて造りたくないんだ。だけど、当時の状況において、どうしても飛行機を造りたいならば、それは軍用機でしかありえない。
 それで二郎は、「鯖の骨」のような飛行機、すなわち「戦闘機」をつくるって言ってるわけですよ。


 軽井沢で静養して、菜穂子という恋人をえた二郎は、東京に戻って再び新型飛行機の設計主務者に選ばれ、チームで「九試単座戦闘機」をつくる。これは以前の「七試艦上戦闘機」とはうってかわった、スマートな機体であった。
 これが、さらに数段階の発展を経て、のちの「零戦」になっていきます。




ひきつづき、『風立ちぬ』のこと。④ カストルプ

2019-04-23 | ジブリ



 こんなに長々やるつもりはなかったんだけどな。書き出すとだんだん面白くなってきてね……。さすがに奥が深いわ。そりゃそうだよな。宮崎さんだもんな。
 アニメの二郎は飛行機のことしかアタマにない朴念仁(ぼくねんじん)かってというとそうでもなくて、若い女性にはけっこう目がいってるし、紳士的で優しいんですよね。自分の男性的魅力にも気づいてると思う。
 いっぽうの菜穂子にしても、純情可憐な令嬢ってわけでもなくて、前回述べたとおり自分から巧妙に二郎を誘い込んだりもするし、「二郎の心が自分に傾いた。」と確信した際には、「してやったり」みたいな表情を(にっこりと可愛く)する。しかも、ソッコーで父親に紹介して、逃げ道を絶っちゃうんだからね。あのばあい、二郎のほうもぞっこんだったからいいけども。
 だから純愛ものには違いないんだけど、どっちも意外と大人なんですよ。そこがいいですね、コクがあって。

 カストルプの話をやりましょう。
 カストロプじゃないよ。原語ではCastorpだからね。「ロ」にはならない。
 まず名前だけど、これは20世紀を代表するドイツの文豪トーマス・マン(ノーベル賞作家)の主著『魔の山』の主人公の苗字です。ただし、このハンス・カストルプ君はあんな海千山千っぽいオジサンではなく、単純な青年です。「単純な青年」と作者(語り手)がはっきり言ってます。
 その単純な青年が、いろんな人とのかかわりを通じて成長していくというのが骨子で、だからこれはドイツ文学の伝統芸である「教養小説」(成長小説、と訳したほうがわかりやすい)なんですね。
 「魔の山」と聞くとおどろおどろしいけど、べつにゴシック・ホラーでもミステリーでもない。形而上的な議論がふんだんに出てくる大長編、という点では、ワタシ個人はドストエフスキーのほうが好きですが、『魔の山』が格調高き名作であることには疑いを容れません。新潮文庫・岩波文庫で翻訳あり。
 ついでにいうと、日本では、北杜夫、辻邦生さんがことのほかこのマン先生の影響を受けてます。マンの『ブッテンブローグ家の人々』がなかったら、北さんの『楡家の人びと』もなかった。
 アニメの中のカストルプも、「ここは魔の山」というセリフを吐きますね。原作の「魔の山」はスイス山上の療養所(サナトリウム)のことだけど、軽井沢のホテルも、地上の喧騒から隔絶された場所、という点で共通してるわけだ。
 巷間、カストルプ氏のモデルはリヒャルト・ゾルゲ説が最有力ですね。ほかにも、高名な哲学者などいくつか名前が挙がってますが、でもカストルプ氏がスパイ……少なくとも日本側からそう見られるに足る活動に従事してたのは間違いないでしょう。
 二郎は軽井沢から東京に戻ってすぐに特高に目をつけられるけども、ストーリーの流れからいって、その理由はカストルプとの接触以外に考えられない。カストルプ自身も、逃げるように軽井沢の地を後にしてたしね。
 ゾルゲというのは……手塚治虫の『アドルフに告ぐ』にも出てくるし、篠田正浩監督のライフワークみたいな『スパイ・ゾルゲ』って大作もあるんだけど、やっぱ若い人には説明がいるかなあ……ひとことでいえばソ連のスパイですね。世界の諜報史にその名を刻む大物といっていい。
 日本には、『フランクフルター・ツァイトゥング』紙の東京特派員という肩書で滞在、ついで駐日ドイツ特命全権大使オイゲン・オットの私的顧問の地位も得た。これで人脈がぐんと広がった。有能で魅力的だったんだね。一流のスパイだったら当然だけど。
 彼がとってくる情報はとても精度が高かったんだけど、スターリンってのは猜疑心のカタマリみたいな男で、それをほとんど生かせなかった。そのせいで、独ソ戦の緒戦でソ連は大敗してしまう。
 でもそれでスターリンがゾルゲを信頼したかというと、むしろ逆で、ますます疑うようになった。そして最後は見殺しにする。スターリンとはそういう男だった。まあ独裁者ってのは大なり小なりそんなもんでしょうが。かくしてゾルゲは最後には日本で処刑されました。
 ゾルゲ自身は、スターリンなんぞに忠誠を誓ってたわけではなくて、ドイツのファシズム、つまりナチズムを恐れてたわけね。それは放っておけば世界を滅ぼすだろうし、ドイツそのものにも多大な不幸をもたらすであろう、と。だからそれと対抗するためにも、スターリニズム(ソ連型共産主義)に生命をかけて尽くしたわけだ。
 後になって思えば、スターリニズムも、ナチズムに劣らぬ「双子の悪魔」だったんだけどね。
 ともあれ、ゾルゲは私利私欲でスパイ活動をやったわけじゃなく、自分なりの正義を貫き、それに殉じたわけです。まあ政治の世界、とりわけ諜報の世界なんて魑魅魍魎(ちみもうりょう)の巣窟で、真相なんてわかりませんが、とりあえずここでは、そういうことにしておきましょう。
 食堂での初お目見えのさい、山盛りのクレソンをむしゃむしゃ食べる場面が印象的なカストルプ氏だけど、あとで二郎とふたりベランダのとこで差し向いになったとき、いかにもゾルゲが言いそうなことを言うんですよね。
「ここは忘れるにはいい所です。チャイナと戦争している、忘れる。満州国作った、忘れる。国際連盟抜けた、忘れる。世界を敵にする、忘れる。日本破裂する。ドイツも破裂する。」
 でしたっけ。「破裂」は「破滅」が正しいと思うけど、微妙に日本語を間違えるところが不気味っていうか。
 で、たしかその後に、「止めなければ。」とも言ってましたよね。
 いかにもゾルゲが言いそうなことを言うんだけども、これ、考えたら変でしょ。スパイってふつう、「いかにもその人が言いそうなこと」は言いませんよね。本来の自己とは逆の役を演じるのがスパイなんだから。
 ゾルゲほどの大物がそんな下手を打つとは思えない。だから、もう少し脇の甘い、「協力者」くらいの立場の人物じゃないか……とぼくは思うんですが。
 時代背景をおさらいすると、1931(昭和6)年が満洲事変。
 1932(昭和7)年が五一五事件。犬養毅首相暗殺。
 1933(昭和8)、つまりまさにその、二郎と菜穂子とが再会した年にドイツでナチス政権が成立、片や日本は国際連盟を脱退しています。
 さて。カストルプはそのあと、食堂のピアノでドイツ映画の名作オペレッタ『会議は踊る』(1931 昭和6年)の主題歌『唯一度だけ Das gibt's nur einmal』を演奏し、そこに二郎と、菜穂子の父も加わって大合唱になる。
 ここで皆でこの歌をうたうってのも凄い趣向で、つくづく宮崎監督、凝ってますなァって感じなんだけど、この名作が日本で配給・公開されたのはじつは1934(昭和9)年。二郎の軽井沢行きは、さっきから言ってるように1933年。さすがに二郎も菜穂子の父も、公開前のドイツ映画を観る機会はないはず。だからこれは厳密に考証すればおかしいんだけど、そこは宮崎さんの演出ですね。知るはずのないヴァレリーの詩句を13歳の菜穂子が暗唱できたのと同じ。
 それでその後日、カストルプ氏、クルマでもって風を巻いて、軽井沢をあとにする。何も知らない二郎と菜穂子はのんきなもので、手を振ってましたね。あれもまた、ぼくが彼をゾルゲとは思えない理由で、ゾルゲだったら、1933年の時点でそこまで追いつめられるはずがない。彼が日本にやってきたのはまさにこの年で、これからいよいよ本格的に活動を始めようって時なんだから。
 だけどまあ、堅苦しいこたぁ言わないで、「お話」としてみるならば、そりゃゾルゲと考えたほうが興味深いし、そう思って観ればますます作品の味が濃くなるのは確かですけどね。




ひきつづき、『風立ちぬ』のこと。③ 菜穂子とお絹/辰雄と二郎

2019-04-21 | ジブリ




 まあ、「運命の再会」といやあ聞こえはいいけど、あれは通俗ロマンにありがちな「ご都合主義」ですよね。そこで初めて出会って恋に落ちたんだったらわかるけど、震災の日に縁を結んだ相手とそこで再び巡り合うってのは……。菜穂子のほうは、療養をかねて長期滞在してたとしても、現実にはまずありえない偶然でしょう。
 実在の作家・堀辰雄は、たしかにこの年、1933(昭和8)年に最初の妻(お名前は綾子さん)と出会っています。だけど、べつに再会したわけではないし、そもそも堀辰雄という人は、ご自身も結核を患っていて、しょっちゅう軽井沢に泊まってたんですよね。
 もちろんお話なんだから、そこは構わないんだけど、菜穂子があんなに二郎を慕い続けていたのなら、どうしてそれまで彼女の方から一回も接触を試みなかったのかなあという疑問は残る。二郎が東大の学生ってことはわかってたわけだし、父親に頼めば、三菱に勤めてるのは簡単に調べがつくでしょう。時代が時代だし、深窓の令嬢だからそこまでの勇気はなかった、ということかもしれないが、「自分の口からきちんとお礼を言いたい」という口実ならば、会うことくらいはできたはずですよね。
 6年前に劇場でみたときは、そういったことが気になって、このあたり、なかなかストーリーに乗っていけなかったなあ。
 あと、高台で絵を描いている菜穂子が、眼下の小道を歩いてくる二郎をみたときの反応もよくわからなかった。ふつうはもっと驚くんじゃないか? なのに、ちょっと微笑を浮かべるだけで……。まるで、そこに来るのを予期してたみたいに見えました。あるいは、すでにホテルのなかで見かけていて、二郎の滞在を知ってたのかな?
 そのあとすぐに突風が吹いて、二郎が彼女のパラソルを捕まえる「アクションシーン」に移るんで、そこのところもどうも曖昧なままなんですね。
 とはいえ、出会いのときに菜穂子が二郎の帽子を捕まえるくだりが、主客を入れ替え、よりスケールアップして反復される趣向は見事なものでした。あれは屈指の名シーンですね。『風の谷のナウシカ』が出世作となった宮崎駿さんですが、世界のすべてのアニメ作家のうちで、風の表現においてこの人を凌ぐ才能はいないでしょう。
 とにかく、菜穂子はこの時点ではっきり二郎のことを認識してるけど、二郎はぜんぜんわかっていない。
 13歳の少女がいきなり23歳の女性に成長して現れたんだから、そりゃ二郎ならずともわからないのがふつうかもしれない。けど、あとで二郎が菜穂子に告げたとおり、「初めて会った時からずっと好きだった」んなら、気づいてもおかしくないはずだ。
 だからたぶん、「ずっと好きだった」は事実じゃないですね。嘘というわけではないにせよ、感情の高まりによって、過去の自分の記憶がそのように改変されたんだと思う。そういうことって確かにある。
 ヴァレリーの詩句を原文ですらっと口ずさむような少女だし、あれだけの体験を共有したんだから、印象に焼き付いてたのは間違いないわけで。
 いずれにしても、ここまではぜんぶ「偶然」でした。しかし、その翌日、森の奥の泉であらためて「再会」を果たした時は、あれはもう偶然ではなかった。森の入り口に、あきらかに不自然なかたちでイーゼルとパラソルが置かれてたからね。あれは菜穂子が二郎を呼び込んだというか、誘ったわけでしょ。
 あそこで二郎が口ずさんでた「だぁれが風を見たでしょう……」という詩は、西條八十の訳詩「風」(詳しくはコメント欄を参照のこと)。まあ庵野さんの朗読はひどかったけど。
 そのあと、菜穂子が二郎に、お絹がお嫁に行ったこと、2人目の子供を出産したことを告げますね。ぼくの考えだけど、あそこでやっと、それまで未分化だった「菜穂子」と「お絹さん」とが分離して、ストーリーの上でも、二郎の情感の上でも、菜穂子がヒロインとして自立したんですよ。
 『もののけ姫』いこうの宮崎作品は、作劇上の理屈からいえば破綻してるんだけど、逆にそのぶん、なんだろう、ユング的とでもいうのかなあ、「物語」としてはより根源的っていうか、すごく深いものになってるんですね。
 二郎をめぐる菜穂子とお絹さんとの関係性を考えても、強くそう思います。
 ここんとこ、もう少し詳しくやりましょうか。つまりアニメの二郎は、設計技師・堀越二郎と作家・堀辰雄との融合体ですよね。友人の本庄もそんなようなこと言ってたけど、当時の技師の奥さんには、教養なんて必要なくて、家庭をしっかり支えてくれる相手がいいわけだ。たぶん本庄が所帯を持ったのも、お絹さんみたいなタイプだと思う。
 料理を作って、家事もこなして、子供も産んで子育てもして……というタイプね。ヴァレリーなんて知らなくていい。そんなことより、健康で、ちゃんと夫をサポートして、家庭を守ってくれる奥さんのほうがいいわけ。
 二郎だって、飛行機の設計に夢中で、ほかのことにかまけてる余裕はないんだから、ほんとはお絹さんタイプがいいんですよ。それなのに、菜穂子のほうを選んじゃう、菜穂子と恋に落ちちゃうというのは、そこは「堀越二郎」ではなく、「堀辰雄」の感性なんだよね。
 じっさい、技師・堀越二郎氏は敗戦後もずっと三菱重工業に勤めて、最後は参事~顧問にまで出世される。まあ科学立国・経済大国としての戦後ニッポンを築いた世代の代表の一人といっていい。亡くなったのは1982(昭和57)年。ほぼバブル前夜ですよ。
 対して作家・堀辰雄は、1944(昭和19)年、つまり敗戦の前年には大喀血して絶対安静にまで陥り、戦後はもう、さしたる作品を発表することもなく、1953(昭和28)年に48歳で亡くなってしまう。
 「実学」と「ブンガク」との相違ってのをロコツに見せつけられる感じで、ちょっと索然としますが。
 これは、前にも述べたラストシーンでの菜穂子のせりふ「生きて。/来て。」にも関わってくることだけど、アニメの「堀越二郎」だって、仮にもし敗戦の衝撃に耐えて生き延びたとしても、天寿を全うすることはなく、たぶん40代の半ばくらいで世を去ったように思うんですよね。もちろん、ここはあくまでワタシの想像ですけども。



ひきつづき、『風立ちぬ』のこと。②

2019-04-19 | ジブリ

 二郎と菜穂子とが汽車のデッキで出会うのは、まさに関東大震災の日だから1923年(大正12年)9月1日なんだけど、このとき二郎は20歳で、東京帝国大学の学生。いっぽう菜穂子は13歳くらいなんですね。せいぜい中学生なんだ。
 風に飛ばされた二郎の帽子を菜穂子が受け止め、礼を述べる二郎に悪戯っぽく微笑んで “Le  vent  se   lève,” という。
 二郎はすこし面食らったあと、“  il  faut  tenter  de  vivre.” と、続きを返す。
 意味は、二郎があとから呟くように「風が立つ。生きようと試みなければならない。」20世紀前半を代表するフランスの詩人(にして批評家)ポール・ヴァレリーの「海辺の墓地」の最後のほうに出てくる有名なフレーズです。
 このフレーズが日本で有名になったのは、堀辰雄が自作の小説『風立ちぬ』のエピグラムに引用して、「風立ちぬ。いざ生きめやも。」と、えらく格調の高い文語調の訳をつけたから。
 ただ、格調高いのはいいんだけど、これだと「風が立つ。いざ! うーん、とはいうものの、はてさて。生きようかなァ、どうしようかなァ」みたいなニュアンスになる。原文の力強い調子とは別物になっちゃうわけ。でも『風立ちぬ』という小説のもつアンニュイな空気には、むしろそっちのほうが相応しい。だからこれは誤訳じゃなく、あえてそう意訳したのでは? とも言われてますが。
 堀の小説『風立ちぬ』は、もちろんアニメ『風立ちぬ』の「原作」のひとつでもある。でもこれが発表されたのは1938(昭和13)年。アニメの中での二郎と菜穂子の出会いから、15年もあとのことです。2人が出会った時分には、まだヴァレリーの翻訳なんて出てないし、そもそもそんなに知られてなかった。「古典的教養」なんかじゃなく、ほんとに最先端の文学だった。だから、専門外なのにこれを知ってる二郎も凄いし、菜穂子はさらに凄いですよね。じっさいには、いかに良家のお嬢様でも、あんな中学生はいなかったでしょう。
 お絹さんは当時の用語でいうところの「女中さん」ですね。さいきんの日本もまたそうなりつつありますが、昔は厳然たる階級社会だったので、貧しい農家の娘なんかがけっこう幼い頃から都会のお屋敷に雇われて、住み込みで家事や子育ての手伝いをする。そうして妙齢になったら適当な相手を世話してもらってその家から嫁いでいく。そういう制度ができあがっていた。二郎の家にも、それらしき「女中さん」がいましたね。
 お絹さん、あのとき20歳の手前くらいかなあ。そうすると二郎とほぼ同い年だけど。
 菜穂子にとっては、主従とはいえ姉みたいな存在で、いわゆる「姉(ねえ)や」ってやつでしょう。
 二郎が直接に助けたのは菜穂子ではなくお絹のほうで、彼の情感としても、ストーリーの上からも、初めのうち菜穂子とお絹は渾然一体というか、まだ未分化のままでいる。2年後に、学校まで礼状を添えてシャツと計算尺を返しに来たのもお絹のほうだしね。
 下宿で待ってた「若い娘」にしても、お絹でも菜穂子でもなく妹の加代だったし、あのあたり、宮崎監督は観客をはぐらかして遊んでるようにも見えました。
 そのあとは卒業~入社、前途ある優秀な技術者として身を立てていく二郎の描写が続いて、ヒロイン菜穂子がふたたび二郎および観客の前に現れるのは、1933(昭和8)年のこと。出会いから数えてちょうど10年が経過している。そのあいだ、二郎はまるっきり菜穂子のことを忘れてたわけですが、菜穂子のほうはそうではなかった。
 ここで時系列をおさらいすると、二郎が「三菱内燃機株式会社」に入ったのが1927(昭和2)年。これは実在の堀越二郎氏の経歴とも一致してます。作中でも描かれてたように、世間ではあちこちで取り付け騒ぎが起こっていた。芥川龍之介が自裁した年でもありますね。
 二郎が本庄らとともに遠路はるばる「ユンカース社」に視察に出向いたのが1929(昭和4)年。世界恐慌の始まった年だ。あ。もちろん渡航手段は船ですよ。
 夜、二郎と本庄が気晴らしのためにホテルを出て散策していたとき、民家の窓からシューベルトの「冬の旅」が聴こえてきたあとで、なにか不穏な捕り物騒ぎに巻き込まれそうになりますね。
 逃げていく男と追いすがる一団との影が、一瞬、大きくビルの壁に映し出される場面、それこそフリッツ・ラングばりの表現で、「凝ってますなあ。」と、映画好きならニヤリとするところ。
 追っかけていた男たちの中に、昼間、格納庫で二郎たちの視察を邪魔した男がいたのは、つまり彼はユンカース社の人間じゃなく、機密漏洩を防ぐための警察関係者だったということですね。ちなみに彼が吐き捨てたセリフは “ Geh  zurück  nach   japan! (とっとと)日本に帰れ! ” です。
 だからあのあと捕まった男はスパイであった。どこの? 当時のドイツの軍事機密を命がけで盗もうとするのは、とうぜんソ連のスパイでしょう。
 ところで、「堀越二郎」のもうひとりのモデル、小説家・堀辰雄が東大の国文科を卒業したのもこの年です。堀辰雄は堀越二郎よりも1年下で、かつ、病弱ゆえに休学したので、こんなに遅れたんですね。
 1932(昭和7)年、二郎は上司の服部および黒川から、「七試艦上戦闘機」の設計主務者に選ばれる。これも実在の堀越二郎さんと同じ。ただし、アニメではそんな台詞はなかったけども、じっさいに完成した七試艦上戦闘機は、堀越二郎が「鈍重なアヒルだ……」と自嘲するほど不格好な機体でした。しかも、試作した2機はいずれも大破してしまう。
 それでアニメの二郎は失意のあまり、おそらくは入社以来はじめての長期休暇をもらって、静養のために軽井沢へと赴くわけですね。
 そしてここから、アニメの「堀越二郎」は、実在した技術者・堀越二郎から、作家・堀辰雄および堀辰雄の描いたフィクションのほうへと傾斜していく。すなわちその地で菜穂子と「運命の再会」を果たし、静謐ながら激しい恋が始まるわけです。
 それが、上にも述べたとおり1933(昭和8)年のこと。




ひきつづき、『風立ちぬ』のこと。①

2019-04-17 | ジブリ



 6年前(2013=平成25年)に劇場で観たとき、いちばん強烈だったのはやはり序盤の「関東大震災」のシーンですね。文字どおり、「震撼させられる」という感じになった。とはいえ、あのくだりは3・11ショックの影響で出てきたものではないんだ。そういう意味では、『風立ちぬ』は『シン・ゴジラ』や『君の名は。』とは違うんですよ。3・11に触発されて生まれた作品ではない。
 2011年の3月あたりには、『風立ちぬ』はもう製作段階に入ってたんですね。宮崎監督はすでに絵コンテを切り始めていて、「ちょうど関東大震災の絵コンテができた翌日に3・11が来まして」と、パンフレットではっきり語っておられる。これは予見性というより、シンクロニシティー(共時性)と呼ぶべきだろうと思いますが。
 だから「そのシーンを描くのかどうか、本当に深刻に考えなければならなかった。」といってもおられる。むしろ逆に、自粛すべきかどうか慮(おもんぱか)るくらいだったわけですね。最終的には、当初の構想どおり完全に映像化できたらしいけど。
 アニメにおける「堀越二郎」のモデルは、実在した技術者(零戦の設計者)堀越二郎氏なんだけど、この方は群馬県の生まれで、東大の工学部航空学科に受かって東京に出たのは1924(大正13)年、つまり震災の翌年だから、じっさいには体験していない。ただ、もうひとりのモデルである作家の堀辰雄(小説『風立ちぬ』や『菜穂子』の作者)のほうは、震災で母親を亡くしている。町が火事になって、みんな隅田川へと押しかけるんですね。これはそれからほぼ20年あとの大空襲の時もそうだったんだけど。
 だから堀辰雄の母親も、ほかの人たちと紛れてしまって遺体が結局見つからなかったらしい。アニメ『風立ちぬ』を見ている限り、そこまでの悲惨さは伝わってこないですよね。二郎がお絹さんと菜穂子を屋敷まで送り届けるくだりも、命懸けというほどではなさそうだったし、あとは、大学で研究室の本を運び出して、その傍らでタバコ吸ったりとか。まあ、本の避難も大事だろうけど、じっさいには、町中はもっと酷いことになってたんだ(のちに、水辺に並んだ無数の卒塔婆でぼんやりと示唆はされますが)。むろん、宮崎監督は百も承知で作ってるわけだけど、そういった姿勢への評価が作品そのものに対する賛否を分けるかなあとは思う。
 ともあれ、堀越二郎と堀辰雄ですよ。ほぼ同じ年の生まれで、ほぼ同時期に東大で学生生活を送り、苗字に同じ「堀」の一字をもつこの2人だけど、専攻はぜんぜん違うし(堀辰雄は国文科)、まったく面識はなかったでしょう。しかしアニメ『風立ちぬ』の主人公「堀越二郎」は、この2人の半生を巧みに綯い交ぜにしながら綴られるわけね。
 ざっくりいえば、飛行機の開発にかかわるパートが堀越二郎で、菜穂子との恋愛にかかわるパートは堀辰雄。
 理系のパートと文系のパート、あるいは、リアルのパートとロマンのパートといってもいいか。
 ただ、謹直なエンジニアであるはずの「二郎」も、夢のなかではカプローニと共に「官能的」といいたいくらい色彩豊かで豪奢なイメージの世界に遊ぶわけですね。角川文庫で出てる『零戦 その誕生と栄光の記録』を読むかぎりでは、じっさいの堀越さんは、とてもあんな夢を見るタイプとは思えないんですが(笑)。
 そうやって、作中ではずっと「楽園」のイメージで表されてきた「夢の世界」が、ラスト、菜穂子の死と日本の敗戦(に伴う零戦部隊の壊滅)の後には、一転して「地獄」のごときイメージになってしまう。打ちひしがれる二郎(庵野さんが下手すぎて心情がいまいち届いてきませんが)。そこでカプローニだけが妙にのんきで落ち着いてるのが、救いのようでもあるし、何とも無責任のようでもある。そこに遠くから菜穂子が歩いてきて「(あなたは)生きて。」と二郎にいう。
 あそこのとこ、最初のシナリオでは菜穂子のセリフは「来て」だった……っていう話をネットで見たけど、どうなんだろう。初夜に二郎を布団へと招く「来て」と対になってはいるものの、それだとまったく逆の意味になっちゃいますよね。作品全体の意図ががらっと変わってしまう。そんな重大な変更をするかなあ。これについては懐疑的にならざるをえない。
 ただ、前回も書いたように、『もののけ姫』いこうの宮崎作品はぜんぶ構成が破綻してるので、土壇場で「来て。」が「生きて。」に変わっちゃってもさほど支障はないのかなあ……って気もしてます。「トトロ」のラストでさつきとメイがじつは死んでたって都市伝説は噴飯もので、ぼくも本気で反論を書いて当ブログにアップしてますが、「ポニョ」のラストで宗介はじめ全員がじつは「あの世」にいるっていう解釈については、正直なところ「あー、そうとも読めるな。」と思うんですよね。それくらい、このところの宮崎作品は良くも悪くも融通無碍(ゆうづうむげ)になってきている。
 作劇の常識からいけば、「敗戦の痛手から少しずつ、しかし懸命に立ち上がろうとするニッポンの姿」を最後に描き添えるのが筋ってもんですよ。片渕須直監督の『この世界の片隅に』では、きっちりそういうことをやってるでしょ。でも宮崎さんはやらないんだよね。




平成最後のスタジオジブリ

2019-04-16 | ジブリ






 ジブリ作品が「金曜ロードSHOW!」のメイン・コンテンツになったのはいつ頃からかな。平成に入ってからってのは間違いないけど、それでも10年やそこらの話じゃないよね。
 ともあれその平成を締めくくる2本が、高畑勲さんの『平成狸合戦ぽんぽこ』と宮崎駿さんの『風立ちぬ』だったというね……。これがまた切ないんだわ2本とも。今回もまあ、泣いた泣いた。「ぽんぽこ」は4回くらい観てるんだけど、見るたびにナミダの量が増えてく感じでね。齢をくうにつれ切なさがいや増す作品ですよあれは。
 『風立ちぬ』は6年前(2013=平成25)かな、劇場まで行って観たんですよね。『もののけ姫』いこうの宮崎作品はぜんぶ構成が破綻してるんだけど、あれもやっぱりそうなんだ。宮崎さんって作家はひょっとしたら作品を収束できないんじゃないか、とすら最近ぼくは思いはじめてるくらいでね。もともと職人じゃなく、天才肌のアーティストなんだろうね。
 『風立ちぬ』もラスト付近がばたばたでしょ。菜穂子の死と日本の敗戦とが二郎の中で綯い交ぜになってるんだよね。
 あと、全体のバランスも異様でしょう。二郎チームの作った零戦は、けっきょく本編中では一度もまともに空を飛ばない。回想シーンのみ。それもほぼ残骸ばかり。それなのに、カプローニとの夢のくだりはやたらと尺を取っててね。
 作中では「カストルプ」と名乗っていた、ゾルゲと思しき人物も何だかよくわからなかったしね。ふしぎなアニメだと思う。あれがそのまま宮崎監督における「日中~太平洋戦争」観だとは思わないけど、面妖なアニメですね。庵野秀明氏の棒読みがいっそうその面妖さを増幅していて、その点は好配役だったんだろうね。
 いっぽう、「ぽんぽこ」は巧すぎるくらい巧緻に組み立てられた作品で、そこは好対照ですね。高畑さんはあくまでも手練れの職人だから……。むろん、それだけで済むような方でないのは言うまでもないですが。あ、いや、主役が棒読みだったのはこちらも同じか。あれだけの顔ぶれを揃えておいて、なんで正吉役が野々村真さんになったのだろうか。
 いずれにせよ、「ぽんぽこ」も『風立ちぬ』も敗北を描いた話なんだ。敗れ去った者たちを悼むお話ですよ。挽歌といってもいいかなあ。それが平成の〆に2本まとめて来ちゃったわけですよ。なんとも象徴的だなあと。
 「ぽんぽこ」は多摩ニュータウンの造成が背景だから、じっさいは昭和の出来事なんだよね。戦後の高度成長期。いっぽう「風」は大正末期から戦前~戦中~敗戦直後まで。どっちも平成が舞台ってわけじゃない。それでもすごくリアルなんだよね。
 劇場でみた6年前にはさほど思わなかったけど、いまのニホンっていよいよ『風立ちぬ』の感じに似てきてますね。「戦前」って感じがすごくしますよ。「どこと戦争するつもりなんだろう」と、ぼくも言いたい気分ですけども。
 「ぽんぽこ」にしてもね、科学信仰の行きつく果て、みたいなことを考えたら、どうしてもフクシマのことが頭をよぎるし、狸たちが幻術でもって「百鬼夜行」を繰り広げるシーンで、住宅街を大津波が襲う場面があるでしょう。あそこは今回、やはりドキッとしましたね。優れた芸術ってのは、おしなべて予見的なんだなあと。
 じつはぼくにとっての「ベストワン・ジブリ」は「ぽんぽこ」なんですよ。シンプルに好きだし、作品としても卓越していると思う。『風の谷のナウシカ』は、アニメ史どころか映画史に残る傑作だけど、あれはジブリ作品じゃないから……。当時はまだスタジオジブリはなかった。「ナウシカ」が大方の予想を超えてヒットしたことで、ジブリという会社ができたわけですね。それも結局、平成のうちに事実上の解体となりましたが。
 だから『平成狸合戦ぽんぽこ』がぼくにとっての「ベストワン・ジブリ」なんだけど、若い人なんかはあれ、「説教くさい」と敬遠したりするみたいだね。「説教くさい」って言い回しはよくわかんないんで、たぶん「メッセージ色が強すぎる」って意味かなあって思うんだけど、まあねえ、みんな齢とりゃ自ずと分かるよ。
 あの作品って、完敗に終わった政治闘争の話にもみえるし、自然破壊を難詰する寓話にもみえるし、人間中心主義へのこっぴどい批判のようもみえるんだけど、ぼくは今回、あの狸たちがそのままぼくたち一般ピープルに重なってみえましたね。「近代(モダン)」の目まぐるしさに疲れて「前近代」を夢見る気持ちは誰しもが心の底に抱いていると思うけど、やっぱりそれでもぼくたちは、この「現代社会」でしか生きられない。生きていくしかない。そういってるようにも見えたなあ。
 あの作品が上映された時分は、まだスマホもネットも普及してなかった。ちょうどその前夜でした。ハイテク社会がこれからどこまで行くのかは見当もつかないけれど、節目節目に思い起こされ、繰り返し参照される一作であると思いますね、「ぽんぽこ」は。


「令和」考。

2019-04-03 | 歴史・文化
 元号というのは時の帝(みかど)が「時間を司る」力をもっていることの証として名づけるもんですよね。しかも、いずれは諡(おくりな)になることが習わしになってもいる。だとすれば、たかだか宰相が自らの名の一文字をそこに冠するなんてことはありえない。だから「安久」だの「安永」なんぞと予想を立ててる時点でおかしいわけ。そもそも「安永」はすでに江戸期に使われてるし。
 だから「安」が入らなかったことに対しては安倍さん嫌いの人たちはもちろん、その逆サイドというか、伝統を真に重んじる側の人たちも胸を撫で下ろしてると思うんだけど、ひとつ笑い話があって、「安倍」の「ア」がちゃんと入ってるじゃないかっていうんだよね。たしかに「令」の字の下の部分はカタカナの「ア」だ。まあ、「マ」と書いてもいいらしいけど。
 これはたんなる笑い話だけど、冗談にせよこういう話が出てくるのは、「文字」というものにそれだけ念が籠ってるからだとは思う。「言霊」とはまた別の次元でね。「文字」、とくに「漢字」という表意文字の放つオーラっていうか。
 ひらかなは漢字をやわらかく崩したもの、いっぽうカタカナは、漢字の一部(部首)を独立させたもの。ちなみに「あ」はそれこそ「安」の崩し字であり、「ア」は「阿」のへん(左側)からきてます。
 「漢字」ってのは読んで字のごとく「漢(から)の国」の字で、いまの中国から渡ってきた。もちろん文字だけじゃなく、法制から衣服まで、政治や文化にまつわるさまざまなものを輸入して、それを和の風土になじませることで古(いにしえ)の日本は国としての骨格を整えたわけですよね。それは歴史的な事実であり、この国の伝統であって、なんら恥じることはない。古来より元号を漢籍から取ってきたのは、敬意のあらわれだったのでしょう。
 このたびは、初めて和書からの出典とのことで、万葉集の巻五「太宰師大伴卿の宅の宴の梅花の歌三十二首」の序文より「初春令月、気淑風和、初春令月、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」。
 岩波文庫の『万葉集』は、2013(平成25)年に詳細な註を施した5分冊の新版が出たけれど、ぼくの手元にあるのは初版が1927(昭和2)年、改版でさえ1954(昭和29)年という古い版。当該箇所(217ページ)は、仮名まじりの読み下しでこうなってます。
「初春の令(よ)き月、気淑(よ)く風和(なご)み、梅は鏡の前の粉を披(ひら)き、蘭は珮(はい)の後の香を薫らす。」
 さいきんの註では、「鏡の前の粉」は「鏡前(きょうぜん)の粉」となってるようですね。そのほうが漢文らしくすっきりしていて良い。「粉」は「白粉(おしろい)」でしょう。女性が鏡のまえで美しく装うおしろいのように、梅が真白な花を咲かせ、蘭は身を飾った香のように匂いたっている、という感じかな。珮(はい)は今でいうアクセサリーだけど、そこに「香」が焚き込められてるんでしょうか。
 万葉集はまさしく「万葉仮名」という一種の「当て字」で綴られているわけですが、この「序」はきちんとした漢文なんですよね。このあたりがいかにも当時の「日本」なんだけど。
 しかも、じつはこれにはネタ元があった。
 この「ネタ元」の件は、4月1日の午後6時にはもうウィキペディアの「令和」の項に上がってたんで、具眼の士が早々にネットで指摘されたんでしょうね。
 当時の文化人(貴族)がみんな読んでた『文選(もんぜん)』。漢籍です。中国は南北朝時代、だから5世紀から6世紀ごろだけど、南朝・梁の昭明太子という名君によって編まれた詩と散文のアンソロジー、名文集ですね。現代でも、文学史をきちんとやろうって人間にとっては必須文献なんだけど、なかなか文庫にならなくて、昨年(2018)からやっと岩波文庫で6分冊の刊行がはじまりました。ちょっと因縁を感じます。
 貴族ってのは教養がなくては社交ができない。社交ができなきゃ政治もできない。宮廷社会で生きていけない。だからこの『文選(もんぜん)』は必携も必携、ほとんどバイブルみたいなもんだった。
 この『文選』に、後漢の張衡(ちょうこう 78年~139年)……ウィキによれば、政治家(官僚)で天文学者で数学者で地理学者で発明家で製図家で文学者で詩人という一種ルネサンス的な才人ですが……の『帰田賦』(きでんのふ)なる詩が入ってて、そこに「仲春令月、時和氣淸、原隰鬱茂、百草滋榮」という詩句がみえる。
 「仲春の令月 時は和し気は清む 原隰(げんしつ/げんしゅう)し鬱茂(うつも)し 百草 滋栄す。」
 さすがに生の漢文となると晦渋ですが、後半は、「あまたの草花がうっそうと豊かに生い茂っている」情景でしょう。問題は前半のほうで、見てのとおり、「令月」も「和む」もちゃんと出ている。
 しかしまあ、古い和書なんて漢籍に感化されてるのが当然で、くどいようだけど、そもそも「漢字」が「漢(から)の字」なんだもの。オリジナリティーを出そうとして、かえって大陸文化の影響を示すことになったってとこかな。でもそれは、前にも述べたけど、ぜんぜん恥ずべきことではないんだ。むしろ隠したり、糊塗したりしようとするほうが恥ずかしい。
 さらにはまた、『帰田賦』が執筆された背景までも掘り下げて、もっと深読み・裏読みをする向きもネット上にはおられるようですが、ぼくとしては今回はそこまで話を広げるつもりはないので、興味がおありの方は当たってみてください。キーワードは「安帝」です。
 さて。それはそれとして、「令」って字は「命令」の「令」じゃないかって難癖が出てます。それはたしかにそうなんで、画像検索すると、けっこう上位にこの図がくる。







 「上からの命」で庶民が集められ、膝を屈して「お達し」を頂戴しているイメージでしょうか。「清らか」とか「気品あふれる」といったニュアンスも、主君の命令だからこそなんですね。下々(しもじも)があれこれ邪念を差し挟んではいけないわけだ。そう考えるとなんだか情けないけども、しかし白川静先生の本などを読むと、漢字ってのはたいてい、成り立ちをたどると感じ悪いのが(シャレじゃないよ不可抗力だよ)多いんだよね。陰惨だったり、抑圧的だったりね。それは古代社会ってのが今のわれわれには想像もつかないくらいキビしかったってことじゃないかと思います。それもあって、ぼく個人は、「語源にはあまり拘らなくていいんじゃないかなあ」という気がしてますね。
 ただ、「令」の字のもつ含みはもちろん昔から重々意識されていて、元号に使われるのは今回が初めてなんだけど、かつて一度だけ、候補にあがったことがあるらしい。
 愛知学院大学教授・後藤致人さんの文章から引用させていただきます。

「室町幕府15代将軍の足利義昭は、室町幕府の復興を祈念して「元亀」という元号を天皇に奏請している。しかし、織田信長はこの元号を嫌い、1573年に義昭を畿内から追放し、事実上室町幕府を滅ぼすと、改元を促した。そして、信長の旗印「天下布武」にちなんだのか、「天正」とした。
 幕末の元号にも、メッセージ性の強いものがある。ペリー来航以降、「明治」までの元号は、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応だ。どれが最もメッセージ性の強い元号か、分かるだろうか。「嘉永」は、「嘉(よろこ)ばしく、永遠に」というニュアンスで、「安政」も「安定した政治」と解される。「万延」も「万のように永遠に」など、「平和で安定した政治」という意味合いのものばかりである。
 ところが、「元治」は違う。「元」も「治」も元号ではよく使われる漢字だが、これを組み合わせると、「元(はじま)りの政治」となり、新政府を宣言するメッセージが現れる。この元号は、実は第2候補であった。本当はもっとメッセージ性の強い元号になるはずだったのだ。
 それは「令徳」である。この元号の衝撃度は、かなり大きい。「レ点」を付けて読めば、「徳川に命令する」となり、これからは朝廷が幕府よりも上位の世の中となる、ということを露骨に世間に宣言している。」

 ……というわけで、「明治」のふたつ前(「慶応」はわずか3年だけ)に、「令徳」が朝廷側から候補として出され、徳川幕府によって却下された、という経緯があったんですね。
 ほんとうに「漢字」ってものは「意味」や「歴史」はもちろん「情念」やら何やらまでが籠ってしまうんで厄介だなあ。しかしまあ、上にも言ったとおりぼく個人は、あくまでも自分の語感に即してだけど、「令和」はそんなに悪くない気がしてます。
 たぶん「令」がどうこう言われるもんで政府筋がリークしたんだと思うけど、ほかの候補が「英弘(えいこう)」「久化(きゅうか)」「広至(こうし)」「万和(ばんな)」「万保(ばんぽう)」の5案だっていうじゃないですか。どれも古臭い。それこそ江戸か、もしくは室町、下手すりゃ奈良時代かよってもんまである。「令」はそのてんモダンですよね。ちょっと冷ややかだけども。