バーナード・マラマッドの話。
初出 2013年11月05日
バーナード・マラマッド。アメリカのユダヤ系作家。1914~1986。元号でいえば大正3年生、昭和61年没ということになる。フィッツジェラルド、フォークナー、ヘミングウェイといった大御所たちはぎりぎり19世紀の生まれだから、彼らより一回りちょい後の世代ってことになろうか。ちなみにいうと、村上春樹の翻訳によって日本でも人気となったレイモンド・カーヴァーは1939年生(1988没)だ。カーヴァーは現代アメリカ短編作家の代表格であり、ミニマリズムとも呼ばれるその作風は1970年代後半以降のひとつの規範となったので、カーヴァーを基準に現代アメリカ文学史を分かつのは単純ながらも有力な視点であるとぼくは思うが、その伝でいけば、マラマッドはいわば「現代作家」の中での「旧世代」に属するってことになる。
アメリカ文学について少しでも知識のある方ならご承知のとおり、この国の文運を真に盛り立ててきたのは「ニューヨーカー」誌に瀟洒で軽妙な作品を載せるたぐいの作家たちではなく、ユダヤ系、アフリカ系(いわゆる黒人)、また南部出身といった、言うならばマイノリティーの作家たちである(むろん彼らの中にも「ニューヨーカー」誌の常連はいるが、それはまた別の話)。ともあれ、中でもとくにユダヤ系作家の存在感には特筆すべきものがあり、ソール・ベロー(1914年生)は1976年にノーベル賞を取っているし、フィリップ・ロス(1933年生)はいつ取ってもおかしくないといわれている。この人たちの代表作が文庫化されて廉価で入手できる形になっていないのは不備じゃないかとぼくは思う。日本は翻訳大国かもしれないが、そのありようはずいぶん歪(いびつ)だ。だってアメリカの属国じゃないか……。宗主国のことは知っとかなくちゃ……。ハンバーガーとコーラとディズニーランドと……あと何だ?……ハリウッドの3D映画? そんなのだけじゃガキじゃないですか、アホじゃないですか。マラマッドはベローと同年齢で、既述のとおり1986年に亡くなってしまったけれど、もし存命ならば有力なノーベル賞候補のひとりとなっていたことは間違いない。って、さすがにムリか。100歳超えだもんな。宇野千代さんじゃないんだから。とはいえ、そういった事情も弁えずにハルキハルキと騒ぎ立てるのは、ほんとうに恥ずかしいことだぜとしつこく申し述べておきたい。なんか今日はいつにもまして厭味ったらしいが。
ぼくがこの作家の名を初めて知ったのは高校2年の時だった。ブンガクに目覚めて道を誤ってしまった年である。理系志望だったのに、小説に溺れてそちらの成績が急落した。日本の作家もどっさり読んだが、外国の作家も翻訳で読んだ。学校帰りに必ず立ち寄っていた商店街の本屋に、新潮文庫の「海外文学短編集」というシリーズがあって、わけもわからず月に一冊ずつ買っていたのだが、いま改めて見るとかなり優れたラインナップで、その頃の編集者の心意気がうかがえる。O・ヘンリー、サキ(英国)といった定番をはじめ、あのマーク・トウェインを抜かりなく押さえ、ヘミングウェイ、フォークナー、スタインベックらの大御所を外さないのは当然ながら、アンダスン(ふつうはアンダソン、もしくはアンダーソンと表記。アメリカ初のモダニズム作家といわれる)、コールドウェル、さらに大江健三郎の推奨で日本でも最近とみに評価の高いフラナリー・オコナーといった渋いところが入っていた。いい読書経験をさせてもらった、と30年経って切に思う。その中にマラマッドもいたのである。初期の短編集『魔法の樽』がそっくりそのまま収録されていた。全米図書賞を受賞したというから、同時代の本国にあっても評価の高い作品集だったわけだ。この『魔法の樽』は今年になって別の訳で岩波文庫から出た。amazonで見たら入荷待ちになっていたから、初版はすぐに売れたらしい。このことをみても、かつての新潮文庫の見識がわかる。
ロバート・レッドフォード主演で映画化されたデビュー作『汚れた白球(ナチュラル)』は、小説としての評価は芳しくなかったらしいが、その後の『店員(アシスタント)』『修理屋(フィクサー)』『ドゥービン氏の冬』などの長編によって、マラマッドは全米を代表する作家の一人と目されるに至った。最後の長編『コーンの孤島(神の恩寵)』は、これも大江氏がエッセイのなかで取り上げていたので強く印象に焼き付いている。焼き付いていながら未だに読む機会を逸しているのだが、SFの体裁をとりながら、ユダヤ的世界観とキリスト教的世界観との対立を基底に据えて、「核の冬」を生きる現代人の絶望を描いたはなはだ沈痛な作品らしい。大家としての名声を確立してなお、そのような作品をものするというのは、老人性の抑鬱といった側面もあろうが、やはりマラマッドという人の根っこに抜きがたいペシミズムが絡み付いているのだと解さざるをえない。そう。マラマッドの作風は概して暗い。ぼくが高校のとき読んだ新潮文庫の『マラマッド短編集』(魔法の樽)にもそのペシミズムは濃厚にあって、それはさながら不吉なふたごの兄弟のように「貧困」と手を携えていた。ぼくはもとよりアメリカ人じゃあないし、ユダヤ系でも移民の息子でもないわけだけど、日本に住む同じ日本人によって日本語で書かれたあまたの小説に負けず劣らず、マラマッドの小説は身に染みた。そしてそれは、楽しい読書経験とは言いがたかった。
貧しさと、それゆえの無知からくる何ともいえない重苦しさ、行き場のなさ、やりきれなさ、閉塞感……それらはまさに生家で暮らした18年のあいだ、ぼくが絶えず感じ(させられ)続けたものだった。マラマッドの短編には、そういった負の感情のいちいちが、ほとんど生理的なリアリティーをもって描かれていた。それが作家としての卓越した才能のたまものだってことが理解できたのは、自分で小説を書きはじめてかなりの時間が経ってからだ。若くて未熟な一読者にすぎなかった頃は、ただもうつらいだけだった。だからマラマッドのことはずっと気に掛かってはいたけれど、愛読していたとはとうてい言えない。ずっと本棚の奥に押し込んで、ごく稀に読み返すだけだった。そんなマラマッドの、もう茶色くなった30年前の新潮文庫を、最近また引っ張り出して読み直している。
そうはいっても、わがニッポンのねちっこい私小説のようなものを思い浮かべてはいけません。マラマッドをよくご存じない方のために、このことは強調しておかねばなるまい。1976年に出版された、集英社「世界の文学」の33巻、「マラマッド/ベロー/ボールドウィン」の巻末に附された宮本陽吉氏の解説から、以下のくだりを引いておきましょう。なお、()内はぼくの補足である。
「(マラマッドは……)社会派と呼ばれる作家たちがやったように題材の新鮮さを誇示することも、ラッシャン・ジュウ(19世紀末から20世紀初頭に、迫害を逃れて東欧からアメリカへ逃げてきた人々)の貧しさをとりあげて不満を訴えかけることもない。社会性を含まないという点で、第一次大戦後から現在にかけてしばしば書かれてきたいわゆるアメリカのリアリズム小説とは違う。(……中略……)マラマッドの短篇には、シャガールの画面を想い出させるような美しい情景、人間の癖を心得ていてそれをユーモラスに誇張してみせるときの面白さ、話の意外な展開など、読者を楽しませる面と、もう一つ読者に何かを教えようとする面がある。(……)解釈の可能な部分と解釈をうけつけない部分とが織りあわされて、一つの宝石が見る角度によってちがった光彩を放つように、それぞれの読者が、これは何を語った話なのだろうと考えれば考えるほど深みをます話に仕上がっている。……」
そういって宮本氏は、「こういう話法はアメリカのものというよりは東欧の香りがつよくただよっていて、イディッシュ語(ヨーロッパに住むユダヤ人が使う特殊な言語)で書かれた民話や短篇によく書きこまれている一つの場面を想い起こさせる。それは途方に暮れた村人がラビに相談に出かける場面である。ラビはきまってタルムードの一節を引用し、それについての解釈を示しながら、村人に考えさせ、解決策を自分でつかむように仕向ける。……マラマッドもそういうふうに話をつくりあげる。」と続ける。的確な紹介には違いないけれど、ただ、ぼくの感覚ではここのくだりはマラマッド文学の寓話的な面をやや強調しすぎているようで、少なくとも「魔法の樽」に収められた短編の大半は、たしかに一筋縄ではいかない謎めいたものが多いにせよ、全体の印象としては、この文章から窺える感じよりはずっとリアリズムに近い。いずれにしてもマラマッドの作品が、迫害を逃れてアメリカにきたユダヤ移民の貧しい生活という特殊性に根ざしながらも、極東の島国に生きる1980年代初頭の高校生(オレのことね)を揺さぶるくらいの普遍性を湛えていたのは事実であり、岩波文庫から出た新しい訳が今また好評を博しているのも、先にふれたとおりである。
そういえばマラマッド、これは「魔法の樽」の所収ではないが、「ユダヤ鳥」という短編もあった。「自虐ネタ」の文学版というおもむきだが、強烈すぎてウディ・アレンのギャグのようには笑えない。ぼくは聞いたことないのだが、レニー・ブルースの喋りってのはこんな感じだったのかもしれない。或る意味でユダヤ人的な知性の持ち主である筒井康隆が70年代半ばくらいにこれを元にして「ジャップ鳥」という短編を書いたことでも有名で、だからマラマッドの名は往年のSFファンにもよく知られているはずだ。岩波文庫『20世紀アメリカ短篇選』(下)に大津栄一郎訳が収められている。
たまたまぼくの手元には、新潮文庫版のほかにも「魔法の樽」からの翻訳が何本かある。べつに集めたわけでもないのになんでだろうな。へんな縁があるのかな。「世界の文学」33巻、「マラマッド/ベロー/ボールドウィン」の西川正身訳もそうだし、同じ集英社の「現代の世界文学」シリーズ、「アメリカ短編24」に入っている小島信夫訳もある。この「アメリカ短編24」はとても優れたアンソロジーで、いずれ機会があれば詳しく紹介したいのだが、マラマッドでは「借金」という短編が選ばれている。じつはぼくはこの「借金」が「魔法の樽」の中でいちばん好きだ。「好き」というのはただ好もしいというのでなくて、「苦いからこそ惹きつけられる」という意味なんだけども……。
設定はきわめてシンプルで、苦労を重ねてようやく自分の店を持ち、商売がどうにか軌道に乗ったリーブというパン屋のもとに、昔なじみのカバツキーが訪ねてくる。ただそれだけの話である。舞台劇にもできそうだ。二人はもちろんユダヤ系の移民で、若き日に三等船室で一緒にアメリカにやってきた仲だ。移住後もいろいろ苦楽を共にしたのだが、借りた金を返した、返してないの縺れでついに袂を分かってしまった。貸したのはリーブのほうである。それから15年間会っていなかったらしい。
今日カバツキーが訪れたのも、やはり借金を申し込むためだった。妻が(かつてリーブもよく世話になった)5年前に他界したのだが、その墓すら造ってやれずに心苦しい。どうかその墓石代を貸してくれというのだ。リーブは心を動かすが、その場にはリーブの妻のベッシーがいる。夫婦ふたりで切り盛りしているパン屋を営業中に訪れたのだからベッシーがいるのも当然である。彼女もまたユダヤ系移民であり、これまでに舐めてきた辛酸はふたりの男たちにけっして劣るものではない。カバツキーの苦渋に満ちた告白を聞いて、彼女も涙をみせるのだけれど、もらい泣きしながらも彼女が折れることはないのである。引用しましょう。
「 だがベッシーは、泣いてはいたが、首を横にふった。そして彼等が何のことをいっているのか見当がつかぬままに、彼女は艱難(かんなん)の物語をいきなりしゃべり出した。彼女が幼い頃、ボルシェビキーがやってきて彼女の愛する父をはだしのまま雪の積もった原っぱにひっぱっていったこと。銃声が木に止まっていたムクドリを散らかし、雪は朱(あけ)に染ったこと。彼女が結婚して一年したとき優しい立派な男で教育のある計理士だった彼女の夫が――当時としてはそのあたりではめったにないことだったが。――ワルシャワで発疹チフスで死んだこと。悲しみのうちに打ち捨てられていた彼女があとになってドイツの兄の家で安住の地を見出した。この兄は戦争前に彼女をアメリカへ送りこむためにおのれの機会を犠牲にして彼自身は妻と娘といっしょにヒットラーの焼却炉の一つで果てたといった、くさぐさのいきさつをば。」
「『こうして私はアメリカへ来て、ここで貧しいパン屋に出あったのです。貧しい男――それまでいつだって貧乏だった人――一文もない、生活の楽しみもない。そして私はどういうわけか知らないが、彼と結婚して、両手を資本に昼も夜も働き、私はこの人にまがりなりにも店を張らせてやれて、十二年後の今、どうにかこうにかささやかな暮らしをたてているのです。でもね、リーブは根が丈夫じゃないんですよ。おまけに眼だって手術をうけなきゃあならないし、それにそれだけですむというわけじゃない。こんなことあってもらっちゃ困るけど、この人に死なれてごらんなさい。私は一人でどうしたらいいんです。どこへ行けばいいんですか。どこへ。それに貯えがなかったら、誰の厄介になれるのですか」
この台詞がどうにもたまらない。これだけを取れば、うちのママンが父親をさして同じようなことを言ってもまるで不思議でない気がする。「パン屋」のところに他の職業が入るだけである。まあこれだけの客観的な自己省察力はわが母上にはないが。……ともかく、この短編の末尾はこうだ。
「 眼から涙を流しながら、ベッシーは項をもたげ不審そうに空気をかいだ。不意に金切り声をあげると彼女は奥へ駆けこんで、あっと叫びながらオーブンの扉をこじあけた。もうもうとした煙が彼女めがけて吹きつけてきた。パン型の中のパンは真黒な煉瓦――炭化した屍体――になっていた。/カバツキーとパン屋は抱きあって、失われた青春をなげいた。彼等は互いに頬に口を押し当て、永遠に別れた。」
たぶん半日か、あるいは一日分の稼ぎがふいになってしまったのだろうし、それは大きな痛手に違いなかろうが、これで店が潰れるわけじゃなし、リーブとカバツキーが「永遠の別れ」を決意しなければならないほどのことだろうか、と高校生のぼくは訝った。いま読んでもちょっとそう思う。だが、「炭化した屍体」という激甚な比喩が用いられているからには、やはり「ヒットラーの焼却炉」のイメージが重ね合わされているわけだろう。つまりベッシーにとってこの「事故」は、われわれ第三者が想像するよりはるかに深刻な事態だったということか……。先の引用において宮本陽吉氏が「一つの宝石が見る角度によってちがった光彩を放つように」と評したマラマッド短編の魅力の一端がお察しいただけるかと思う。
コメント
20代30代の二十年間は翻訳物しか読まなかったと自負していたのですが、マラマッドはひとつも読んでいませんでした。
時々こんなことにぶつかります、私の読書の幅の狭さと異文化であることの壁は歴然としていると痛感させられる瞬間です。
「レニーブルースの喋りはこんなだったか……」このワンフレーズに強くかれて是非読んでみます。
確かに、70年代前半までの新潮文庫の翻訳は貴重でしたが、サンリオ文庫の登場とともに急につまらなくなって行きました。勝手な空想ですがたぶん新潮社からサンリオに移ったスタッフがいたのではないか? その後あまりにも張り切り過ぎてマニアックに走り過ぎ、サンリオが終了してその後、ハヤカワか創元に移ってひっそり定年を迎えたのではと夢想しておりました(笑
高橋和巳のことですが、1930年代をテーマにしたもので、戦前の出版物をめぐる物語がなかったでしょうか? 『悲の器』だったような……?
投稿 かまどがま | 2013/11/06
高校の頃はほとんど文庫しか買えなかったので、新潮文庫の翻訳シリーズはとてもありがたいものでした。400円でお釣りがきましたからね。マラマッドにせよオコナーにせよ、昭和40年代あたりに出たものがずっと版を重ねていたわけです。それが1980年代初頭までは町の本屋で手に入った。高橋和巳もそうですね。ぜんぶ新潮文庫で出ていた。そう考えると、やはりバブルというのはひとつの「断絶」であったと思います。生み出したものより失ったもののほうが多かったのかも知れない。
その新潮文庫版をフォローしておられなかったとは意外ですが、そういえばいつぞや、「日本のちまちました私小説は苦手」という意味のことをおっしゃっていたような……。だから豊穣な物語性をもつ南米や中国の現代小説に惹かれていったのだと……。そういう意味では、マラマッドの作品の多くは、むろん私小説ではないにせよ、つつましい庶民の生活を描いたものが多いので、関心が向かわなかったのかも知れませんね。
いっぽう、サンリオ文庫は「訳が粗い」という評判だったので、ぼくは一冊しか持ってないのですが(ヴォネガットのエッセイ集)、それこそ南米文学や、SFの比重が大きかったという印象です。それにしてもスタッフ(編集者)の話は面白い。前々から思っているのですが、編集者にスポットを当てた文学史が書かれるべきだなあ。
高橋和巳のことですが、『悲の器』はもっぱら1950年代が舞台となっていたはずです。あるいは『散華』か『堕落』ではないかと思ったものの、ちょっと確かなところはわかりません。いずれにしても、高橋の作品は、戦後ニッポンと「戦中・戦前」との連続性を強烈に意識しながら構築されていましたね。それが1970年代半ばごろまでの「政治の季節」を生きた昭和ヒトケタ生まれの「知識人」の基本姿勢だったと思います。それもまた、バブルによって潰えました。
投稿 eminus | 2013/11/07
マラマッドは知識があって避けていたのでは無くて、全くスルー状態だったのです・・・
つつましい庶民の生活ものが苦手かというとそうでもなくて、幸田文が庶民かという問題は置いて、日々の生活を書いたものは好きでほとんど読んでいます。
なんというか、太宰の様な屈折三回転捻りのチマチマさを読んでいると、う~んんん、、、2歩位置をずらせば景色は違うんじゃね?と(笑
バッシングを恐れずに云えば、歌手で云えば尾崎豊が苦手です。
散々読んだにもかかわらず、ミニマリズムは今考えるとそうとう苦手な分野で、レイモンド・カーヴァーも全集まで買ったのに、一冊目に読んだ、短編集『ささやかだけど役にたつこと』の中で、子どもを亡くした夫婦とパン屋のやり取りのシーンしか残っていません。たぶんこの物語にひどく惹かれての全集までだったのですが、これ以上に印象の強いものには出会えませんでした。
ところがチマチマ屈折も政治的背景がたちあらわれるとなぜか急に興味の度合いが変わり、面白くなるのです。
というわけで、レニーブルースに反応したということです。
投稿 かまどがま | 2013/11/08
レニー・ブルースのことはほんとに知らなくて、その昔、ダスティン・ホフマン(もちろんユダヤ系)が演った映画をテレビで観ただけなんですけどね……。字幕だったし、「笑えるか笑えないか」でいうならば、再現された漫談シーンは、腹を抱えて笑うたぐいのものではなかったですね。
頭がよくて屈折していて、いつも苛立って、がつがつして、「ギャグ」というたったひとつの才能を武器に、世間に向かって吠えついているという感じであれば、初期のビートたけしがそうでしたね。その頃はファンでしたが、偉くなってからは嫌いになりました。タモリもデビュー当時から知っていますが、彼のほうは最初から妙に老成した安定感がありました。だから嫌いではないが大好きにもならない。
岩波文庫『20世紀アメリカ短篇選』(下)に入っている「ユダヤ鳥」も、もちろん腹を抱えて笑えるたぐいのものではないです。ぼくとしては、むしろ「魔法の樽」のほうを推薦しますが……。
もし未読であれば、マラマッドと併せて、フラナリー・オコナーの短編を強く推薦いたします。ショッキングな傑作「善人はなかなかいない」がネットで読めます。
あとは……そうですねえ、幸田文さんは、そういえばきちんと読んだことないです。岡本かの子は、30代の時に「老妓抄」ほかの短編を読んで「すげええっ」と嘆賞しましたが……これは新潮文庫でまだ手に入りますね。日本も捨てたもんじゃない。
太宰では、「新釈諸国噺」がいちばんだろう……と長らく思っていたけれど、「右大臣実朝」を読んで気が変わりました。
カーヴァーだと、「大聖堂」でも「ささやかだけれど、役にたつこと」でもなく、「メヌード」にもっとも感銘を受けました。中公から出た全集版では⑥の「象・滝への新しい小径」に入っていると思います。
好きになるのは、必ずしも世評の高い代表作と限ったわけではないですよね。
投稿 eminus | 2013/11/08
岡本かの子もいましたね、野上弥栄子もそうですが、個人的に漱石や芥川よりも腹が坐っていると思いますし、読むたびにはまります。
レニーブルースは晶文社、自伝で『やつらを喋りたおせ!』があり、映画も観ましたが、自伝ははるかにラディカルで、言葉についての概念が一変しました。
たけしは最初から嫌い、弱いものや下のものをいじる笑いは笑い自体に風刺があっても笑えません。
小学校の教室内でいじめが定着したのもたけし以降だと認識しています。それ以前もいじめは無くはなかったけれど、あって当然のものではなかった。制御しなければならない感情だということは子どもたちみんながきちんと分かっていました。
オコナー読んでみますね。
投稿 かまどがま | 2013/11/09
『やつらを喋りたおせ!』は、同じ晶文社の『マルクス兄弟のおかしな世界』と並んで、ぼくの「いつか読んでみたいリスト」に入っていますが、なかなか機会がない……。歩いていける距離に図書館があればいいんですけどねえ。この晶文社という出版社も、バブル以降に精彩をなくしたもののひとつでしょうか。
たけしのばあい、テレビで使って貰えるようになった頃(80年代初頭)はランクが最下位だったわけで、それはたけし自身が芸能人として最低のランクだったということもあるし、「お笑い」そのものが「イロモノ」と呼ばれて軽んじられていたのです。それで、周囲に居並ぶベテランタレントを口先ひとつで手玉にとって毒を吐きながら巧妙に笑いを取っていく彼の姿が魅力的に映ったんですね。タモリ、たけし、さんま以降、MCのできるお笑い芸人の地位が爆発的に向上して、日本の芸能界の地図が一変しました。
だから彼自身が逆に「権威」になってしまえば、周りがほとんど「下のもの」になってしまう。あまつさえ、文化人きどりで面白くもおかしくもないコメントを垂れ流すようになっちゃあどうしようもない。度重なるスキャンダルを乗り越えてテレビ界の帝王となり、映画が評価されるようになってからのたけしは、かつての彼がさんざ嘲笑のネタにしたような対象そのものに成り下がってますね。
しかしまああれですよ、ぼくがいつも考えるのは、「あまりの過激さゆえに売れない=アングラに留まる」芸人と「ほどよく大衆に媚びて売れる=メジャーになる」芸人との対比ですよ。今回の話でいうならば、レニー・ブルースVS十歳年下のウッディ・アレンですね(ウッディ・アレンも若い頃にはスタンダップ・コメディアンとして舞台に立っていたし、レニー・ブルースも戯曲を書いてましたよね)。いつでもこれを考える。そして、あえて二人のうちどちらかを選べと言われたら、どうしても自分はアレンを選んでしまうなあと思う。どちらにしても、日本には彼らに比肩しうるほどの喜劇人はいないし、これからも出てきそうにありませんが……。ニール・サイモンの劣化版としての三谷幸喜はいますけど。
フラナリー・オコナーは、南部出身の女性作家で、三島由紀夫、吉本隆明、丸谷才一とほぼ同年です。難病のために39歳で他界しました。マニア受けするカルト作家というのではなくて、20世紀のほんとうに重要な作家の一人だと思いますが、癖が強いので好き嫌いが分かれるのも事実です。「善人はなかなかいない」は中でもとりわけショッキングなものとして知られる短編ですが、これはけっしてたんなる犯罪ものでもブラックユーモアでもなく、カトリックの信仰に基づき、人と人との関わりについて切実に突き詰めたとても深い作品だと思います。
投稿 eminus | 2013/11/10
ご紹介頂いた翻訳サイトは4年くらい前に(たぶん同じだと思いますが)観た時よりはるかに充実していて、わくわくしています。
ただ、図書館に依頼していた延長できない相互貸借の他館からの取り寄せ本が年末を前にして怒涛の様に押し寄せて、これらを捌いたらゆっくり読みたいと思います。
たけしはやはり「いろもの」という扱いが正しい評価ではないでしょうか。まぁフジテレビを体現しているタレントの一人ではあります。
レニー・ブルースとウッディ・アレンの対比ですか?ダスティン・ホフマンかウッディ・アレンの映画だったら2度以上観たいのはウッディ・アレンですが
(英語を楽しめるという条件のもと)、絶対にレニー・ブルースの方が刺激的です。
自伝も喋るスタイルで書かれているのですが、ラディカルで面白いですよ、是非読んでみてください。
投稿 かまどがま | 2013/11/10
むろんレニー・ブルースの方が刺激的には違いないけれど、コメディアンのありかたとして、どちらが正当かなあ、ということですね。
小説に置き換えると、やはり村上春樹のことが浮かびます。あの人も、自らのレニー・ブルース的な資質を封じて、ウッディー・アレン路線でいこうと決めているように思える……。あくまでも比喩ですが。
テレビに出てくる日本の芸人は、みな自分が「権威」になろうと汲々としているか、「権威」にすり寄ろうとする者ばかりで、「反体制」なんて夢にも思ったことのない連中ばかりですけども、それは今のテレビというものがもう体制べったりのメディアなんだから、仕方ないといえば仕方ない。しかし出だしの頃のたけしには、かすかながらも「体制」に噛みつく感じがありました。
辛辣な毒を笑いにまぶして撒き散らし、体制をたくみにからかいながら、しぶとく生き残って売れ続ける。そんなスタイルが理想だなあと思うわけです。爆笑問題の太田光がそれに当たるか……と見ていた時期もありましたが、期待していたほどではなかったですね。
投稿 eminus | 2013/11/10