ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

高橋源一郎って、やっぱしあんま好きになれんわ。

2015-10-30 | 純文学って何?
 さて。昔のブログからブンガク関係の記事を引っ張ってきてるんだけど、どれを読んでも必ずいちどは「ワタシは高2のときに文学に目覚めてうんぬん」という話をやってて、自分でもちょいと厭になりました。だけどまあ、ブンガクってものは自然科学と違って「オレと世界との関わり」を扱うものだから自分語りになっちゃうのもしょうがないかな、とも思い直しているところ。前回の丸谷さんでぜんぶ移し終えたと思ってたけど、まだ何人かの分が残ってました。それで、まずは高橋源一郎。
 なんかこのひと、今は作家というよりニューリベラル派の論客みたいになってるらしいんだけど、ごめん、そっちの話にも興味ないし、それ以上に高橋源一郎の現在についても興味がないのでよくわかりません。ここに再掲するのは5年前に書いた記事だけど、高橋さんに対するぼくの考えは、この時と比べてほとんど変化していない。
 マガジンハウスの雑誌「BRUTUS(ブルータス)」が創刊30周年を記念して、「ポップカルチャーの教科書」なる特集を組んだんですね。5年前に。「ポップカルチャー・お笑い・ゲーム・広告・文学・映画・女子・音楽・デジタル・デザイン・マンガ・演劇・通信・思想・写真・服飾・アイドル・サブカルチャー・労働文化・夜遊び・アート」という21の項目を立てて、それぞれのジャンルで1980年から2010年までの30年間を総括しようという企画。
 たとえば「音楽」の項なら菊地成孔。といった具合に、それぞれに適当な、じゃなかった適切な書き手が寄稿していたわけだけど、その「文学」の項の担当が高橋源一郎だったのです。ぼくは21項目すべてにわたり、五回に分けて感想を記したんだけど、文学はやっぱりホームグラウンドなんで、これだけは一回分をまるまる当てて独立した記事に仕立てた。それがこれ。2010年時点での「ニホン文学この30年」の総括に寄り添いながら、プチ高橋源一郎論にもなっているのがミソっていうか。例によってうざったい自分語りも入ってますが、そのあたりはご寛恕のほど。では。


BRUTUS創刊30周年記念・ポップカルチャーの教科書~その2
初出 2010/05/28


 BRUTUS創刊30周年記念特集「ポップカルチャーの教科書」を叩き台にして、あれこれ感想を綴りつつ、この30年間の文化状況に関するぼく自身の思いがちょっとでも浮かび上がればいいな、という企画の2回目。今回は五番めの項目「文学」です。
 案の定というべきか、この項目の執筆者は高橋源一郎なんだけど、この高橋さんという方には、個人的にたっぷり思い入れがある。と言ってももちろんご本人に面識はないので、その作品とか作風とか、文学シーンにおけるポジションへの思い入れなんだけど。大学時代、ぼくが文芸部の部長をしていたとき、そこに困った人がいた。現役の学生ながら、中途入学のうえ休学やら留年を重ねてすでに齢30近く。屈折していて自意識過剰で常識がなく我がままでかつ甘ったれで、ぼくはひそかに「才能のない太宰」と呼んでいたが、まさに「文学青年の成れの果て」といった感じで、文学をやっててこんな具合になっちまうんなら、早く見切りをつけたほうがいいかと思い、経済学部への転部を考えた。それくらい難儀なおっさんでした。
 顔を合わすたび議論というか口論になったが、今もよく覚えてるのが高橋源一郎への評価で、当時はまだ『さようなら、ギャングたち』くらいしか目ぼしい作品は出てなかったものの、「あれこそが日本文学の未来を担う才能だっ!」と息巻く彼に対して、ぼくは「あんなもん、ブローティガンとバーセルミ、あとヴィアンの『うたかたの日々』を混ぜ合わせて水道水で割っただけの安いカクテルじゃないスか。」と真っ向から反論した。当時ぼくが心酔していた吉本隆明が高橋さんを褒め上げてることを引き合いに出された時は、「ああいうものに騙されるから、吉本さんは若手の批評家から『脳軟化』なんて言われるんですよ。」と応じた。「高橋源一郎なんて読んでる暇があったら、あなたももっと古典の勉強したらどうスか?」なんてことも言った気がする。まあ、こっちの生意気さ加減も相当だったネ。
 とはいえ、高橋源一郎という作家に関するぼくの評価は、この方がすっかり大家となった今でもさほど変わっていない。あの頃はきちんと言葉にできなかったけど、ぼくがほんとに言いたかったのはこういうことだ。高橋さんが『さようなら、ギャングたち』でやったことは、純文学やマルクシズムにどっぷり浸かって自我を形成してきた世代、つまり絵に描いたような「内面」=「近代的自我」の持ち主にとっては斬新に映ったのかも知れないけど、そもそもマンガやアニメと一緒に育ったぼくたちにとっては別に目新しくもない。とくにぼくなんか、小学生のときはマンガに夢中で、中学になってもその延長でSFやハードボイルドを読み耽り、え? 文学って何のこと? みたいな調子でずっと来ていた。もともとが数学少年だったし。
 それが一変したのは高2のころで、たぶん自分を取り巻く状況の複雑さゆえに内面がふつふつ煮え立ってきて、これを制御するためのコトバが必要になってきたってことなんだろうけど、それこそ純文学や評論や、そういった系統の書物を図書館で借りて貪り読むようになった。そんなところに『ギャングたち』みたいなのを持ってこられても、「なんなんすか今更これ?」というよりほかにないではないか。これならわざわざ小説の形で読む必要はありません、マンガとアニメで充分に間に合ってますよ、と。だからほんとは、むしろあの困った先輩のほうが「ブンガクの未来を真摯に考えるマジメな文学青年」であり、ぼくのほうがずっと、ブンガクに対して冷淡であったのだと思う。今にして思えばよくわかる。世の中がバブルに向かって雪崩れ込んでいく80年代、「文学」が本気で延命を図るつもりなら、たしかにそっち方面に舵を切るしかなかったのだ。
 この「ポップカルチャーの教科書」の「文学」の項で高橋さんが言ってることは、彼がふだんから述べてることの要約だけど、それだけにちょっとした集大成の感もある。引用しよう。
「本屋に行くと、《日本文学》の棚には、いつも新刊が溢れていた。……(中略)……若者たちも、けっこう《日本文学》を読んでいた。『正直いうと、なんか違うかも。』と思ったが、それを口に出しては言わなかった。……(中略)……それが1980年の《日本文学》だった。」
「風が変わったような気がした。なんとなく、だけれど。その始まりが1980年だった。2月、村上春樹が雑誌に『1973年のピンボール』を発表した。村上春樹は、その前の年、『風の歌を聴け』でデビューしていた。彼の作品を支持したのは若者と、《変化》に敏感な一部の読者だけだった。《日本文学》のエラい人たちや《文壇》や文芸雑誌やその周辺に棲息している評論家や関係者たちは、《アメリカかぶれ》とか《翻訳っぽくて不自然な文章》とか《わけがわからない》とか《日本文学を知らない》とか言った。同じようなことがこの年もう一度起きた。……(中略)……田中康夫が『文藝賞』を『なんとなく、クリスタル』で受賞した。これもまた前代未聞のわけのわからない小説だった。」
 この辺りの状況把握と描写はさすがに的確で、あの頃の文学シーンはまさにそういう感じだった。「純文学」という権威が玉座から滑り落ちていき、「文壇」というギルドが少しずつ解体されていく。じつをいえばそれは1976年の村上龍『限りなく透明に近いブルー』に端を発していたのだが、今回の企画は80年から話を始めるってお約束だから、そこはまあしょうがない。で、この二人のあとに列挙されるのは、当の高橋自身をはじめ、『1980 アイコ十六歳』、『家族ゲーム』、島田雅彦、池澤夏樹、山田詠美、吉本ばなな、水村美苗、『ノーライフキング』、辻仁成(ここまで80年代)、保坂和志、多和田葉子、阿部和重、川上弘美、中原昌也、町田康、平野啓一郎(ここまで90年代)、嶽本野ばら、舞城王太郎、綿矢りさ、金原ひとみ、山崎ナオコーラ、モブ・ノリオ、岡田利則、楊逸、川上未映子といった固有名詞たち。その中に少なからぬ数の芥川賞受賞者を含むこの顔ぶれを見ていけば、たしかにあれから30年を経て、「純文学」ってやつは完膚なきまでに液状化したなァ、と納得がいく。まあ、池澤さんだけは格が違うと思うけどね。
(註 ここに2015年の又吉直樹の名を加えれば、日本の「純文学崩壊史」はほぼ完成する。)
 しかし、ひとつ言っておくべきことがある。じつは80年代から90年代半ばにかけて、もっとも圧倒的なセールスを誇った作家といえばハルキさんでもばななでも、もちろん高橋さんでもない。赤川次郎だ。これも大学時代、例の困った先輩相手に言ったことだが、「売れる」ということを基準とすれば、高橋源一郎より赤川次郎のほうがはるかに「ポップ」なのである。だけど、そんな言い方はだれもしない。それはアンディー・ウォーホルやロイ・リキテンスタインなど、いわゆる「ポップ・アート」の画家たちが、ぜんぜん「ポップ」じゃないのとよく似ている。20世紀のアメリカでいちばんポップな画家といったら、ウォルト・ディズニーに決まってるじゃないか。同様に、今の日本でポップな画家は村上隆でも奈良美智でも会田誠でもなくて、宮崎駿を頂点とするアニメ作家たちにほかならない。このへんに、「ポップカルチャー」なる概念の括りの微妙さがある。つまり、ベタに分かりやす過ぎてはだめで、必ずや相応のインテリくささが不可欠なのだ。このことは、「文学」だけに留まらず、今回の企画で扱われたすべてのジャンルにも関わってくるだろう。




丸谷才一さんを悼む。

2015-10-24 | 純文学って何?
 3年まえに書いた丸谷才一への追悼文を再掲します。
 丸谷さん、三島由紀夫、吉本隆明はほぼ同年齢で、「昭和」と同い年なんですね。この3人の文学者が、それぞれまったく相反する個性をもっていることは、「昭和」ってものの複雑さを物語っている……とは思うけど、この短いエッセイはそこには深くは踏み込んでません。例によって自分のことを引き合いに出して、なんかごちゃごちゃ言っております。しょうもない自分語りもええかげんにせい、と今読み返すと思いますけども、文学ってものは自分との関わりのなかで考えなければ意味を持たないこともまた確かで、なんというか、量子力学的と申しましょうか、そういう点ではやはり鬱陶しくも面白いジャンルであるとは思います。それでは、前置きはこれくらいにして、本文どうぞ。


丸谷才一さんを悼む。
初出 2012年10月15日



 ぼくは恩師というものを持たない。大学に在籍していた頃は、ごく一部の先生にはたいそう目をかけて頂いた反面、ほかの大多数の方々からは明らかに疎んじられていた。ナマイキだったせいだろう。文学部の教授なんて、ものすごく優秀な人が一割で、そこそこ優れた人が一割、ごくふつうの人が一割、あとの七割はろくでなしだと思ってたもんで、そういう気持が態度に出ていたのだと思う。
 ともあれ師匠というのは書物の中に求めるほかないと決め込んでいた。それは今も変わらない。とはいえ問題は、誰を師匠に選ぶかだ。もっとも心を惹かれる著作家をひとり述べよと言われたらニーチェを挙げるが、しかしニーチェの著作をそのまま師として仰ぐわけにはいかない。時代も違えば文化圏も違う。何よりも、テンションが高すぎ、思考のレベルが高尚に過ぎて軽々には近寄りがたい。あまり適切な比喩ではないけれど、ニーチェに対するぼくの姿勢は師弟というよりむしろ教祖と信者に近いかもしれない。エキセントリックで破天荒なところも、教祖たる資格たっぷりだ。そんな教祖のご託宣をストレートに実生活において実践すれば、少なからず厄介な事態になるだろう。

 生身の当人ではなしに、その著述を師と見なすにせよ、やはり肌に馴染むのは年長ではあれ同時代を生きるニッポンの批評家ないし思想家ってことになる。そういう意味では柄谷行人がそれに該当するだろう。文庫になったものはおそらく全部読んでいる。柄谷さんを耽読するまで、世界史や哲学史といったものはぼくにとって無味乾燥な教科書のなかの記述でしかなかった。現代思想のこともよく分からなかった(今だって別にそれほど通暁しているわけでもないが)。オーバーにいえば、「世界認識の方法」の基礎をぼくは柄谷さんから学んだのだと思う。
 しかし、いかなる優れた思想家や作家にも欠落や偏向は当然ながらあるわけで、柄谷行人をいくら読んでも得られないものはたくさんある。というか、特定の著作家に惑溺することで確実に何かを喪失していくということさえ起こりうるのだ。それで、あくまでも「今になって思えば。」ということなんだけど、そのような喪失を補ってくれたのが丸谷才一の一連のエッセイであった。だからぼくにとってのもう一人の師匠は丸谷さん(の本)だったってことになる。

 高2のとき、「同時代のもの」としてぼくが生まれて初めて夢中になった評論集が小松左京の『読む楽しみ 語る楽しみ』だったことは以前に書いた。そのあと吉本隆明の『共同幻想論』に出会ってショックを受けたことも併せて書いた。柄谷さんを読むようになったのはその流れだが、記憶を再構成してみると、角川文庫の『共同幻想論』と相前後して、高校の最寄りの同じ書店で中公文庫の『遊び時間』を買っている。
 吉本隆明と丸谷才一は共に大正末期の生まれでほぼ同年齢だけど(ちなみに三島由紀夫も同期)、考えてみたら笑っちゃうくらいこのお二人の紡ぎ出す世界の像は異なっている。吉本さんはどこまでも深刻で重くて理屈っぽくて晦渋。丸谷さんはあくまでも軽妙で洒脱でしなやかで明快。軍国主義の空気を吸って幼少青年期を過ごし(丸谷さんには従軍経験があり、吉本さんにはない)、強靭な思索力を備えた桁外れの読書家という共通点を持ちながら、よくぞここまで違った知的人格が形成されるものである。そして、柄谷さんはもちろん吉本さんに近い。文体は遥かにクリアで明晰ではあるが、タイプとしては吉本派だ。

 『共同幻想論』が、いわばマルクスの『資本論』みたいに一定の構想に従って資料を集めて練り上げられた論考であるのに対し、『遊び時間』は丸谷さんがあちこちの媒体に書いた評論や文学エッセイを集めたいわゆる「吹き寄せ雑文集」だった。だから思春期の生意気盛りのぼくははっきりいって軽く見ていた。『共同幻想論』は襟を糺してきちんと読むもの、『遊び時間』はいわば上質の暇つぶしくらいに思っていたのだ。何しろタイトルからして「遊び時間」だし。
 しかし、結果としては「勉強になった。」という点でいうならむしろ丸谷さんの本のほうが上だった。2年後に出た『遊び時間②』は発売後ただちに買っている。脂の乗りきっていた山藤章二さんの瀟洒な表紙が懐かしい。その後も、『みみづくの夢』『ウナギと山芋』『山といへば川』『コロンブスの卵』『鳥の歌』『雁のたより』と、丸谷才一文芸エッセイは文庫になるたび目につくかぎり片端から買った。このタイトルの付け方を見ても、丸谷さんがいかにくだけたお人柄をもつ知識人だったか推し量れようというものだ。間違っても「丸谷才一文芸評論集」なんて堅苦しい題は付けない。その手の野暮を徹底して排した。

 いま手元にヤケて色の変わった『遊び時間』①②を置いてぱらぱらと捲り、ちょっと驚いているのだが、もしかするとぼくがボルヘスやジョイスの名前を初めて知ったのはこの本からだったかもしれない。石川淳や埴谷雄高の名に親しんだのも、シェイクスピアの凄さを教えられたのも、英文学史の輪郭を分かりやすく学んだのも、すべてこの本からだったかもしれない。かもしれない、ではなくて、ひとつ断言できるのは、本邦の古典(とりわけ和歌)のすばらしさを最初に教わったのは間違いなくこの本からであったということだ。
 総じていえば、文学の教養の基礎と、伝統というものの大切さとを学んだ。体裁は「吹き寄せ雑文集」だけど、中身はとうていそんなものではなかったわけだ。そうか。紛れもなく丸谷才一は、ぼくのお師匠さんだったんだなあ。もちろん、向こうはぼくのことなど微塵もご存じなかったけれど。
 そして、それらの「知識」そのものよりもっと重要なこととして、何よりもエッセイの文体に関して、はっきりとぼくは影響を受けている。早い話このブログの文章がそうだ。できるだけ柔らかく、しなやかに書く。例えば丸谷さんは、「◎◎的」という言い回しをめったに使わない。「本格的に」というところを「腰を据えて」もしくは「きっちりと」「じっくりと」といった具合に崩していく。一事が万事。ぼくもなるべくそのように心がけている。

 先に柄谷行人のことを「タイプとしては吉本派」と述べたけれども、ある意味では、日本の作家なり批評家たちは、ほぼ全員がいわば「吉本派」なのである。深刻で重くて、理屈っぽくて晦渋。でもって、何となくじめじめ湿っぽい。それは近代日本の成り立ちおよび進み行きがそのような姿勢を知識人たちに強いたことを意味するが、多くの大新聞の追悼記事が述べているとおり、丸谷さんはこういった日本の風土に対して「たったひとりの叛乱」を企てた(厳密にいえば、石川淳、吉田健一といった先達もしくは同士格の文士たちも幾人かおられたわけだけど)。それはこのうえなく小粋で優雅な、それでいて、したたかな闘いであった。そうやって開かれた風通しのいい地平の中から、村上春樹、池澤夏樹、堀江敏幸らが現れたのである。この功績はいくらでも強調されてもいいように思う。

 ただ、最後にひとつ言いづらいことを言ってしまうと、ぼくは如上のとおり丸谷さんの評論やエッセイ、さらに翻訳には多大な恩恵をこうむっているが、小説とはいまひとつ相性がよくないのであった。愛読したといえるのは『輝く日の宮』と『横しぐれ』くらいである。それらの二作も、むしろエッセイの延長ないし変奏として興味ぶかく読んだ。作家としての丸谷才一を、けっしてぼくは高く評価してはいないのだ。
 代表作とされる『笹まくら』にしても、過去(徴兵忌避をして日本各地を逃げ回っていた戦時中の日々)と現在(大学のしがない事務員として、時代の空気に翻弄される日々)とを鮮やかに交錯させて描く手法の見事さに舌を巻いたが、砂絵師に身をやつして全国を放浪する主人公の描写があまりにも上品すぎ、甘すぎるように感じた。丸谷流「市民小説」の限界が露呈していると思えたのだ。徴兵忌避者として命がけで(捉まれば憲兵に虐殺されかねない)逃げ回る彼は「市民」の域を逸脱しているはずなのに、丸谷さんの筆はそんな彼をあくまでも「市民」として描こうとする。むろんそれが作者の揺るがぬ方針なのだが、どうしてもぼくは、物足りなさを禁じえなかった。

 「市民」にこだわる丸谷さんの審美眼は、大江健三郎が認めなかった春樹さんをいち早く評価するいっぽう、中上健次という異形の作家に対してはきわめて冷たく働いた。中上が終生憧れながらついに「谷崎潤一郎賞」を受賞できなかったのは、丸谷才一選考委員の強い反対があったからだと聞いている。それはまあそうだろう。中上健次は、市民だなんだという枠組自体を爆砕しちまうような文学者だったから。それを丸谷さんが拒絶したのは当然だと思う。ただ、一つだけ問いかけを書き添えておきたい。丸谷さんの小説と中上健次の小説とを読み比べた時、どちらがより洗練されて巧緻で知的であるかは誰の目にも明らかであろうが、しかし、より烈しく深くあなたの魂を揺さぶってくるのは、果たしてどちらの小説だろうか? とりわけ若い人たちに、このことを訊ねてみたい気はする。





吉本隆明について。

2015-10-24 | 純文学って何?
 このところ、古いブログからブンガク関係の記事を引っ張ってきてるんだけど、まとめて読み返してみると、なんか必ず自分のことを書いてるんですよね。高2の夏にブンガクに嵌まって理系の成績が急落したとか、そればっか書いてて、われながら「もうええ!」という感じですね。「いつまでおんなじことを言うとんねん。だれもお前のことなんか聞いてへんぞ」というね。なぜか大阪弁でツッコミを入れたくなりますね。やっぱツッコミは大阪弁のほうが効果的やろ。ともあれ、これはどういうことかといいますと、もとのブログではべつに文学の話ばかりじゃなくて、政治とかドラマとか、いろいろ扱ってたわけですよ。で、文学ネタにせよそれに纏わる自分の思い出話にせよ、そういった話題はほどよく間をあけて点在してたわけ。それがここではまとめて並べられてるもんで、どうしてもくどくなっちゃってるんだな。
 でまあ、あとふたつ、吉本隆明さんと丸谷才一さんへの追悼記事を引っ張ってきます。これでだいたい、旧ブログでやってた「作家案内」シリーズはほぼ網羅したことになりますね。ここでもまあ、例によって高校時代の話をやってますけど、上記のごとき事情ですんで、そのてんはどうかご寛恕を願います。では。




吉本隆明について。①
初出 2012年03月16日


 高校に入る頃には読書欲が爆発的に膨らんでおり、年がら年中、書籍費の捻出に苦慮することとなるのだが、本格的な文学青年と化したのは高2の夏休み前くらいである。それまでは理系志向で、小説などはいかに面白くとも所詮は暇つぶしであると思っていたのが、がぜん「文学こそ我が天職なり。」といった勢いになってしまった。やはりそれだけ屈折し、内面が過剰になっていたのであろう。学校の図書館にあった「新潮現代文学」全80巻を片端から読み耽り、自分でも何やら創作めいたものをノートに書き綴ったりもし始めるのだが、その一方、小説ならざる「評論」「批評」といった文章への関心も高まっていた。ところがしかし、どうにもこれが、何を読めばいいやら分からない。

 かるいエッセイ風のものはあっても、骨っぽい評論や批評は図書館にもさほど見当たらなかった。当時、文庫で手軽に買えるその手の文章といったら小林秀雄くらいだったが、この人はたしかに達人だとは思うけど、気取りまくって肝心なことを語ろうとしないあの口ぶりにはいつも苛々させられた。いまだにぼくは小林秀雄が好きになれぬし、あのような人がニッポンの近代評論における神と崇められていることは、わが国の文化の大いなる歪みを示していると思う。むしろ中村光夫のほうが地味な分だけ偉いのではないか。ともあれ、いずれにしても小林秀雄は扱っている対象があまりも古くさかったし狭すぎた。少なくとも当時のぼくにはそう思えた。もっと現代世界を丸ごと把握し、解析するような文章が欲しかったのだ。

 「世界を丸ごと把握したい。解析したい」という切望に駆られるのは知的好奇心に目覚めた十代の若造ならば必ずや一度は通る道であり、まあ高2病と言ってもいいかと思うが、しかし思春期にこの種の熱狂を経ずして、人間、何が万物の霊長かとも思うわけである。70年代初頭辺りまでのまじめな学生であれば、あるいはここからマルクスに行ったのかもしれないが、幸いにしてこちとらが高校生活を謳歌していたのは80年代バブル前夜、政治の季節は過ぎ去っていた。その頃に高校の最寄りの書店で出っくわしたのが小松左京『読む楽しみ 語る楽しみ』およびその続編たる『机上の遭遇』(共に集英社)の二冊である。これがおそらくぼくが最初に「同時代のもの」として夢中になった評論文だ。

 今にして思えばあれは、小松さんが親しい作家の文庫巻末に書いた「解説」を中心に編んだ書評集であり、まあ安直と言っちゃあ安直な企画だったのだが、当時のぼくにはそのようなことはわからない。座右に置いて繰り返し読んだ。実際、とても勉強になったのである。ほかに何冊か買ってよく読んだのは青土社が出している「ユリイカ」のバックナンバーだ。これも大いに勉強になったが、しかしこれらはいずれも小説でいえば「アンソロジー」であって、一冊まとめてひとつの確固たる世界観を表した書物ではない。高3の時分には、その点に物足りなさを感じてもいた。

 角川文庫で、杉浦康平+赤崎正一による荘重な装丁の『共同幻想論』『言語にとって美とはなにかⅠ・Ⅱ』『心的現象論序説』の四冊が刊行されたのはその頃である。言わずと知れた吉本隆明の代表作だ。吉本隆明の名を目にしたのはそれが初めてではあったが、店頭で内容を一読し、それがたいへんな書物であり、今の自分にとって何よりも必要なものであることはすぐに分かった。しかもそれらが、一冊当たり五百円で数十円のお釣りが返ってくる程度の値段で買えるという。夢ではないか、と首をひねりながらレジへと急いだものである。

 ひとことでいうとこの四冊は、それまでに読んだどのSFやミステリや純文学よりも面白かった。脳のまったく異なる部分を活性化させられている感じとでも言おうか。とくにこのうち、中上健次の卓抜な解説の付いた『共同幻想論』は、文字どおりページの端が擦り切れるまで読み返した。あの時の吉本さんとの出会いによって、ぼくはいよいよ深みに嵌り込み、分際も弁えずにニーチェだの現代思想だのといった厄介なものに惹きつけられる羽目にもなって、30年近くののちにこのようなブログを書き綴ることにもなるわけだが、今朝のニュースでその吉本さんの訃報を聞かされた。それで取り急ぎ、時間を見つけてこんなものを書いた次第である。ご冥福をお祈りいたします。次回はもうすこし長く吉本さんのことを書きたい。


吉本隆明について。②
初出 2012年03月23日


 こんなことを書くのは不謹慎だと言われるならばお詫びするけれど、各新聞社は、もうずいぶん前から吉本隆明さんの訃報の草稿を用意していたんじゃないかと思う。見出しは「戦後最大の思想家」で決まり。サブで「全共闘世代の教祖」と附ける。本文はまあ、時代ごとに「転向論」だの「共同幻想論」だの「言語にとって美とはなにか」だの「最後の親鸞」だの「マス・イメージ論」といった単語を散りばめてむにゃむにゃやって、「若い世代にはよしもとばななさんの父親としても知られ」とか「つねに庶民の中に身を置き」なんて下らないこともついでに添えて、あと、弟子筋に当たるあの人とこの人とその人とに三行コメントをもらって一丁上がり、といった感じだ。ぼくは昨年の四月から新聞を取ってないので定かでないが、おおむねそんな按配だろうと想像はつく(だからこそ、新聞を取るのを止めたわけだけど)。

 吉本さんが「教祖」としていちばん輝いていたのはニッポンが貧しかった時期だ。つまりソ連型のマルクス主義がわが国においてもまだ「ありうべき選択肢」としてリアリティーを保っていた頃だ。吉本さんは「そんなものは虚妄だよ」と言挙げし、その言挙げを裏打ちすべく理論的な著作と政治的発言を量産することで、主に「新左翼」と称された人たちのあいだでカリスマ的な人気を誇った。「政治の季節」が過ぎ去って、ニッポンがバブル景気に沸き立つと、だから吉本さんは何も言うことがなくなった。80年代半ば以降の吉本さんは、ぼくに言わせりゃ「ばななパパ」というよりむしろ「バカボンパパ」である。バブル経済に対しても「これでいいのだ」、消費社会も「これでいいのだ」、原発に対しても「これでいいのだ」。結局はそれ以外のことは言ってない。なんといっても親鸞上人ですからね……。ただ戦争に対してだけは「賛成の反対なのだ」と言っておられたようだが、それも「国が軍隊を持つのは良くない。ただし、国軍が解散して、人民が自衛のために軍を持つ、つまり人民軍なら全然OKだぜ」みたいなことを言い出して、小林よしのりさんあたりに嘲笑される始末であった。なんというかもう、頭の内部で「知の解体」が始まっていたというよりない。それが晩年の吉本隆明という人なのだった。

 ネットで見た吉本評の中でかなり秀逸だと思ったのは、「吉本隆明は、かつての新左翼たちが現状肯定の新自由主義者に移行するモデルケースとなり、しかもその《転向》を理論武装した。だから糸井重里のような男があれほど持ち上げたのだ。」というものだった。その通りだと思う。朝日や毎日の中にその程度の指摘ができる記者がいたなら、ぼくも新聞購読をやめたりなんぞしなかったんだけど。ともかく、はっきり言って、その肉体の医学的な衰滅のずいぶん前に、思想家としての吉本隆明は死んでいた(ただ、ご本人の名誉のために申し添えておくと、文芸批評家としてはいくつか良い仕事を遺されている。書評集『新・書物の解体学』などは、いろいろと示唆に富む文章を含んだ好著だと思う)。吉本さんが「戦後最大の思想家」と呼ばれるに値する著作家であるとするならば、それは70年代後半までの仕事に対してである。ごく簡単ながら、そのことについて考えてみたい。

 前回の記事でも書いたとおり、ぼくは高3のときに学校の最寄りの書店で角川文庫版の『共同幻想論』に出くわして、ほんとうに大きな影響を受けた。あの時に『共同幻想論』に出会ってなければ今頃は……いやまあ、どうなっていたかは分からないけれど、少なくともこんなブログをやってなかったことは間違いない。しかしいま、ほぼ十数年ぶりに書棚の奥から引っ張り出して読み返してみると、正直、よく分からなかった。ウィキペディアの「共同幻想論」の項に、「難解というより曖昧な書物」と書いてあるのはまったく言いえて妙だと思う。「国家は幻想である」というテーゼは確かにショッキングに違いないけれど、しかし、この論考によってそのことが真に立証されていると言えるのだろうか? 柳田國男の『遠野物語』と『古事記』だけにテクストを依拠して、それで国家の本質が暴けるのか? もし仮に「国家の起源は共同体の幻想にあった」ということが証明できたにせよ、それが数千年という歳月を経て、われわれの住まうこの近代社会にまで適用できる保証はあるのか?

 また、実際にこの近代国家が幻想の産物だとしても、それでもやはりぼくたちは、この国の法律や政治や制度や教育や市場や環境によって拘束を受けているわけで、ただ幻想性を喝破しただけでは、たんに認識の転回にすぎない。現実に立ち向かう力をそこから得られるわけではないだろう。そんなことも考えた。つまり、あまりにも初歩的なところでいっぱい疑問にぶつかっちまったわけである。こうなると、以前この本のどこにそれほど感動したのか、自分がいささか不安になってくる。思い返せば、高3のぼくが感動したのは、この本の内容それ自体よりも、ひとりの人間が自分の脳髄だけを頼りにここまで広くて深い考察を繰り広げているという、その営為そのものに対してであったようだ。その志の高さと腕力に感動したのだ。こんな試みは前代未聞だろうと思っていた。マルクスの相棒エンゲルスが『家族・私有財産・国家の起源』という論考を残しているのだが、そのことを当時のぼくは知らなかった。

 ひとつ言い添えておくと、だいたい「岬」くらいから後の中上健次はこの『共同幻想論』からものすごく影響を受けている。むろん中上の場合はそこから遡行して柳田や折口信夫を貪り読み、じっさいに熊野の深奥にも踏み入って、巨大な物語世界を繰り広げていったわけだが、それをも含めて、「オリュウノオバ」が登場する彼の一連の作品は、「共同幻想論」なしには考えられない。つまり『共同幻想論』はやっぱり文学書としてはたいへんなものだし、ぼくも小説を書く人間としては今もなお確かに刺激を受けるのだが、しかし、これが政治学ないし歴史学ないし民俗学の論文として世界に向けて翻訳されるべきものかと訊かれれば、どうにも首を傾げざるをえない。そもそも翻訳が可能だろうか? 吉本さんの文章は用語が我流で論旨に独特の飛躍がある。例えば丸山眞男や加藤周一の文章ならばほとんどそのまま欧文脈に移調できると思うのだが、吉本さんはそうではない。たぶん翻訳はされてないだろう。「世に倦む日日」さんが、「なんで吉本隆明が世界水準の思想家なのか。世界水準なら、欧米の学者が競って訳しているはずだ」と難詰しておられたけれど、それは確かにそうだと思う。吉本隆明が世界レベルなんて、日本人しか言ってないだろう。「黒澤明が世界レベル」とか「イチローが世界レベル」というのとは違う。海外における実績がない。

 「世界レベル」はともかくとして、ではしかし「戦後最大の思想家」というキャッチコピーはどうなのか。そのまえに、そもそも「思想家」ってなんなのよ?という問題がある。和英辞典で「思想家」と引くと「thinker」だと書いてある。しかし英米の辞書をひもとけば、たとえばサルトルは「実存主義を唱えたマルクス主義哲学者」である。フーコーは「哲学者・社会歴史学者・政治的実践家で、後年には、クィア理論のアイコン」だ。アドルノは「文化批評家・哲学者、フランクフルト学派の主要メンバー」、サイードなら「文芸批評家・ポストコロニアル理論の主導者」といった按配となる。ぼくが調べたかぎりでは、「thinker」などというたいそうな肩書きを明記されている著作家は、かのマルクスとヘーゲルの二人しかいなかった。ニーチェですら、「哲学者」に留まっている。それくらい、「思想家」という呼称はハードルが高いのだ。

 近代ばかりか中世・古代の昔から、海外からの輸入によって文化を発展させてきたわが国のばあい、話はさらに輪をかけて厄介である。ニッポンにおいて思想家とは何か、さらにまた、ニッポンにおいて思想とは何か、という問題になってくると、とてもじゃないがブログ二、三本分の記事で扱えるものではない。ただ、吉本隆明について考えていくと、どうしても話がそこまで及んでしまう。

 たとえば戦後日本を代表する知識人といえば先に名を挙げた丸山眞男、加藤周一といった方が思い浮かぶ。戦後日本を代表する碩学といえば井筒俊彦、大塚久雄あたりだろうか。しかし皆さん、どこか「思想家」という呼称にはそぐわない気がする。アカデミズムの枠内(もしくはその近傍)に身を置き、節度を保っておられたがゆえに、やはりこれらの方々は「学者」であり「評論家」なのだ。吉本隆明はもっとずっと下世話で雑駁だった。大和書房という出版社から80年代の半ばに出た「吉本隆明全集撰」は、「共同幻想論」「言語にとって美とはなにか」「心的現象論」などの主著を除いているにも関わらず、一巻当たり600ページ前後に及ぶ全七巻のボリュームである。吉本さんはここで、詩を論じ、宮沢賢治や横光利一や小林秀雄を論じ、政治を論じ、マルクスを論じ、聖書(マタイ福音書)を論じ、天皇を論じ、西行を論じ、マスメディアを論じている。それらの考察のすべてが的を射ているとは思わぬけれど(むしろ異議を呈したい考察のほうが目に付くけれど)、それでもやっぱりこのエネルギーは驚異的だ。

 いま大学で思想をやっている20代の俊英などから見れば、「言語にとって美とはなにか」はソシュール以前の、「心的現象論」はラカン以前の幼稚な議論としか思えないだろう。「共同幻想論」は類書がないのでよく分からないけれど、マルクスの唱えた《上部構造》の概念を批判した論考として見るならば、「それならフランクフルト学派がはるかにきっちりやってますよ。」という話になるんじゃなかろうかと思う。つまり、吉本さんの全盛期、すなわち70年代後半までの仕事はほとんど乗り越えられてしまっていて、あとはただ、バブル経済を「超―西欧的」と見なしたバカボンパパだけが佇んでいる、ということにもなる。

 しかし、かつて『共同幻想論』一冊によって《知の快楽》に目覚め、なんとなく道を誤ってしまった往年の高校生としては、どうしてもそれだけで話を終えたくはないのだ。吉本さんの「とにもかくにも自分のアタマで考える。自分ひとりの力で世界を丸ごと把握する」という異形の情熱は本物だったし、その情熱の強度において吉本さんは傑出していた。「戦後最大」かどうかは留保するにせよ、このニッポンにあって、思想家、と呼ぶに値する稀な著作家だったとは思いたい。


 追記) その後、ウィキペディアで確認したら、『共同幻想論』は日本人の手によってフランス語に訳されているそうな。ちょっとびっくり。



狼は生きろ 豚は死ね ~戦後史の一断面

2015-10-24 | 政治/社会/経済/軍事
 「狼生きろ 豚は死ね」という警句は、わりと人口に膾炙しているようだ。ただ「狼は生きろ 豚は死ね」と思っている人が多いのではないか。一般にはこちらのかたちで流布している。グーグルで検索を掛けると、「狼は生きろ 豚はしね」などと、なぜか平仮名で出てきたりする。

(追記 2019.11.  サンドウイッチマンの富澤たけしが、かつてこのタイトルでブログを書いていたことを最近になってようやく知った。それと共に、ぼくのこの記事に妙にアクセスが多い理由もわかった。みんなホントにお笑いが好きだね。まあぼくもサンドは大好きですが)

 ともあれ本来は、「狼生きろ 豚は死ね」が正しい。「オオカミイキロ・ブタハシネ」で、七五調なのである。古代の長歌、中世の和歌から江戸の俳諧、近代の短歌へと至る日本古来のリズム(韻律)に則っているわけだ。

 これが「狼は生きろ~(以下略)」に転化したのは、高木彬光の原作をもとに作られ、カドカワ映画が1979年に公開した『白昼の死角』の宣伝用テレビCMにおいて、渋い男性ナレーターの声で「狼は生きろ、豚は死ね。」とのキャッチコピーが繰りかえし流されたからである。ついでにいえば、主演は松田優作ではなく夏木勲(夏八木勲)だ。

 若い人はご存じあるまいが、気鋭の社長・角川春樹ひきいる当時のカドカワ映画の勢いたるや誠にすさまじいもので、その宣伝攻勢も、ちょっとした社会現象を形成しかねぬほどだった。ぼくなども、じっさいに劇場に足を運んで本編を観たことはないが(小学生だったんでね)、テレビで見かけた予告映像だけは今でもよく覚えている。『犬神家の一族』(1976年公開)の、湖面から二本の脚がニョッキリと突き立っているイメージなど、忘れようとしても忘れられるものではない(のちに同じ市川崑監督によってリメイクされた)。

 口に出せば分かるが、「おおかみはいきろ」と一息で言って読点(、)を挟むと、これが8文字で「字余り」になっていることは気にならず、わりとしぜんに「ぶたはしね」に続く。やはり助詞を省くと気持がわるいこともあり、むしろ「おおかみはいきろ、ぶたはしね」のほうが語呂がいい気さえする。

 こちらのほうが広まったのも当然かと思えるが、とはいえ本来はあくまで「狼生きろ」なのである。さっきから本来本来と何をしつこく言っているのかというと、ちゃんと元ネタがあるからだ。1960年、28歳の青年作家・石原慎太郎が劇団四季のために書きおろした戯曲のタイトルなのである。それをカドカワ映画(の宣伝部)が約20年後に引っ張ってきて、一部を手直ししたうえで使ったわけだ。

 しかも、字句が変わった以上に重要なのは、意味そのものが変わってしまったことである。時あたかも「60年安保」の真っただ中、弱冠28歳で、まだ政治家にはなっておらず、しかもしかも、にわかには信じにくいことだが「革新」のサイドに身を置いていたシンタロー青年は、「既存の体制の上にあぐらをかいた醜い権力者ども」を「豚」に、「それを打ち倒す真摯で精悍な若者たち」を「狼」になぞらえていたらしいのだ。

 らしい、とここでいきなり私も弱気になってしまったが、これは当の芝居を観たこともなく、新潮社から出たそのシナリオ版を読んだこともないからだ。つまり原テクストに当たっていない。原テクストにも当たらぬままにこんなエッセイを書いてしまうのは、研究者としてあるまじき態度ではあるが、しかしあの小保方さんに比べればはるかに罪は軽いと思われるのでこのまま続けることとする。そもそもよく考えてみると私はべつに研究者でもないし。

 原テクストに当たらぬまま、ネットで調べた資料を頼りにいうのだが、「狼生きろ豚は死ね」の「豚」はもともと「既存の体制の上にあぐらをかいた醜い権力者ども」で、「狼」は「それを打ち倒す真摯で精悍な若者たち」のことだった。大事なことなので二度言いました。

 それが今では「豚」は「弱者」で「狼」は「強者」、すなわち「弱肉強食」の意味で使われている。『白昼の死角』は、戦後の世相をさわがせた大がかりな詐欺事件(光クラブ事件)を題材に取った作品である。今ならばさしずめ、「振り込め詐欺」にやすやすとひっかかる「情弱」の民衆が「豚」で、「それをまんまと誑かす連中」が「狼」といった感じか。

 それはむしろ「狐」か「狸」ではないかという気もするが、いずれにせよ、本来の内容が転化して、「狼は生きろ、豚は死ね。」が「弱肉強食」を指すようになったのは、『白昼の死角』のみならず、当の石原慎太郎じしんの存在も大きい。

 戯曲のタイトルだとは知らずとも、この文章の出どころはシンタローだよってことだけは何となくみんな知っており、あのシンタローが言うのなら、そりゃ「社会的弱者はとっとと死ね。んで、強ぇ奴だけ生き延びろや」ってことだよなあと、誰しもが思ってしまうのである。

 それはつまり、かつて大江健三郎らと連帯をして「若い日本の会」などの活動をしていた石原慎太郎が、自ら政界に進出し、そこで現実の政治の汚泥にまみれることによってどう変節していったかの好例であるし(まあ、ああいう人格は根本のところでは何も変わっていないのだろうが)、さらにまた、戦後のニッポンそのものの変節をあらわす好例でもあろう(まあ、この国も根本のところでは……以下略)。

 さて。じつはこの稿、「旧ダウンワード・パラダイス」に発表したものがもとになっている。それを新たに書き直しているのだ。ここまでの記述と重複するところもあるが、より詳しく書いてあるので、以下、元の稿をそのままコピーしよう。





 「狼生きろ豚は死ね」というフレーズを、ぼくは長らく誤解していた。しかもその誤解は、かなり多くの人々に共通のものではないか……。この字面をパッと見たら、誰しもが「弱肉強食」という成句を連想する。ましてや政治家シンタローの「差別的」言動をさんざん見聞きしてきたわれわれならば……。もう少し知識のある人なら、「太った豚よりも痩せたソクラテスになれ。」なんて文句を思い浮かべて(じっさいのソクラテスは、まあ、太っていたと言われているが)、「豚」とはたんに「捕食動物」の意味ではなくて、「ただ漫然と日々を生きている人。俗物」の寓意と考えるかもしれない。その伝でいくと「狼」は、「明確な目的意識にのっとって、毅然たる態度で日々を送っている人」みたいなニュアンスになろうか。じつはニーチェも、『ツァラトゥストラ』の中で、これに近い使い方をしている。

 「狼生きろ豚は死ね」は、浅利慶太が主宰する劇団四季のために、若き日の石原氏が提供した戯曲のタイトルである。じつは氏はこれを梶原一騎原作の劇画から取ってきたのだという説もあって、そういうことがあってもおかしくないとは思うが、確認はできない。しかし先述のニーチェの事例を除けば、ほかにネタ元と思しきものが見当たらないのも確かだ。このとき石原氏はまだ28歳。「太陽の季節」で一世を風靡してから四年のちだが、まだまだ青年といっていい年齢だ。

 時はあたかも1960(昭和35)年。まさに安保闘争の年である。GHQ占領下での数々の怪事件を取り上げた松本清張の「日本の黒い霧」が文藝春秋に連載されていた年でもあった。戦後史において際立って重要な年度に違いない。5月19日に強行採決、6月10日にハガチー来日(デモ隊に包囲され、翌日には離日)、6月15日が「安保改定阻止第二次実力行使」で、国会をデモ隊が取り囲む。あの樺美智子さんはこの時に亡くなった。新安保条約は19日に自然承認されるも、その代償のように、岸内閣は7月15日に退陣を余儀なくされる。

 「狼生きろ豚は死ね」は、このような空気のなかで書かれ、上演されたわけだけど、それが「キャッツ」やら「オペラ座の怪人」などの商業演劇に専心している現今の劇団四季からは考えられない作品であったことは容易に想像がつく。しかしそもそも、なぜ石原青年が戯曲なんぞを書いたのか。ちなみにこのシナリオは、1963年に『狼生きろ豚は死ね・幻影の城』として新潮社から出ている。60年代から70年代初頭くらいまでは、小説家がけっこう戯曲を書いており、それがまた単行本として出版されていたのだ。出版物としての戯曲が商業ベースに乗っていたらしい(今に残っているのは、井上ひさしを別格として、三島由紀夫や安部公房など、一握りの人のものだけだが)。「文壇」と「演劇界」との垣根が今よりずっと低かったのだろう。しかしさらに調べていくと、石原のばあいは、たんに「浅利慶太と仲がいいから頼まれた。」という話ではなかった。

 石原慎太郎青年は、1958(昭和33)年に「若い日本の会」という組織を結成している。この会のメンバーが今から見ると瞠目すべき顔ぶれで、大江健三郎、開高健、江藤淳、寺山修司、谷川俊太郎、羽仁進、黛敏郎、永六輔、福田善之、山田正弘等々とのこと。福田・山田両氏のことはぼくはまったく存じ上げぬが、ほかの方々の名はもちろんよく知っている。いずれも各々のジャンルで一家をなした、錚々たる文化人である。しかし1958年の時点では、いずれも20代かせいぜいが30代で、新進気鋭というべき年齢だった(ここで列記した人名はウィキペディアからの引き写しなので、フルメンバーを網羅しているかどうかは定かでない)。そして、浅利慶太もまたその中の一人だったのだ。石原氏の「狼生きろ豚は死ね」と同じ時期に、寺山修司も「血は立ったまま眠っている」を書き下ろして劇団四季に提供している。ただしこの時点での寺山は、大江・開高・石原といった芥川賞作家たちに比べ、ほとんど無名の一詩人に近かったらしいが。

 顔ぶれの豪華さから考えて、この「若い日本の会」のことはもっと知られていてもいいように思うが、まとまった研究書も出てないし、ネットの上にも有益な情報が置かれていない。こんなところにも、ニッポンという国の「過去の遺産を次の世代に継承しない。」悪い癖が表れている……。ただ、関係各位がこの会のことをあまり熱心に語りたがらないのも確かなようで、それはまあ、改めて指摘するまでもなく、メンバーの中にこのあと明瞭に「保守」のサイドへと参入していった方々が少なくないからだ。江藤、黛両氏はもちろん、浅利氏にしてもそうだろう。むろん石原氏は言うまでもない。「黒歴史」という表現がふさわしいかどうか知らないが、「体制」側に与したほうも、そうでない側に残った(?)ほうも、双方にとってあまり触れたくない「若気の至り」だったのかも知れない。

 言うまでもなく、「若い日本の会」は「反体制」のサイドに属するものだ。それが現実の政治運動の中でどれほどの力を持っていたのかはよく分からないけれど、そもそもが「当時の自民党が改正しようとした警察官職務執行法に対する反対運動から生まれた組織」であり、「1960年の安保闘争で安保改正に反対を表明した」組織であったのは事実である。国会を解散せよとの声明も出していた。文中のこの「」内はウィキペディアからの引き写しだけど、「従来の労働組合運動とは違って、指導部もなく綱領もない」というのはいかにも(そりゃそうだろうな……)という感じで、これだけ個性の強い売れっ子たちが集まって、指導部もなにもないだろう。まあ、「綱領」くらいは作ってもよかったんじゃないかと思うが、きっとそれも纏まらなかったんだろう。

 それにしても、その「狼生きろ豚は死ね」ってのはどんな芝居だったのか? しかしなんとも困ったことに、「若い日本の会」以上に、ほとんど資料が出てこない。先述の『狼生きろ豚は死ね・幻影の城』はamazonで法外な値をつけているし、図書館で読むしかないのだが、さすがにぼくもこの件に関して、そこまで時間を費やすわけにいかない。困った困ったと言いつつネットを探して、やっと見つけたのが牧梶郎さんという方の「文学作品に見る石原慎太郎 絶対権力への憧れ――『殺人教室』」という論考。その冒頭にはこうある。「若い頃の作家石原慎太郎が、政治は茶番でありそれに携わる政治家は豚である、と考えていたことは『狼生きろ豚は死ね』に即して前回に書いた。」

 なんと! 「豚」とは「政治」という「茶番」に携わる「政治家」のことであった! まことにびっくりびっくりで、びっくりマークをあと二つくらい付けたい気分なのだが、これではそれこそジョージ・オーウェル『動物農場』の世界観ではないか。つまりこれは28歳の石原青年が披瀝した、諷刺小説ばりにマンガチックな世界観のあらわれだったということだ。とにもかくにも、「豚」というのが「弱者」ではなく「政治家」を意味していたとは、ぼくをも含め、世間の通念とは180°正反対の事実と言ってよいだろう。

 「政治は悪と考える純血主義が六〇年代には支配的だった……(後略)。いいかえれば六〇年代の学生運動は全然政治的運動ではなく、現実回避への集団的衝動であったということでしょう。」と関川夏央(1949年生)さんが自作の小説のなかで自分の分身とおぼしき男に語らせているが、「太陽の季節」を書いた青年作家石原慎太郎の1960年における感性(ちょっと思想とは言いがたい)は、ここでいう「純血主義」の見本みたいなものだったらしい。

 牧梶郎さんは「前回に書いた。」と記しておられるので、ぼくとしては当然、その「前回」の論考も探したのだが、あいにくネットの上にはなかった。ほかの論考も見当たらず、「文学作品に見る石原慎太郎」という連載エッセイの内で、どうやらたまたま「絶対権力への憧れ――『殺人教室』」の回だけがアップされているようだ。はなはだ残念ながら、ネット上ではこういうこともよく起こる。ともあれ、重要なのは「豚」とは「弱者」ではなく「政治」という「茶番」に携わる「政治家」のことであったということだ。これにはぼくもほんとに驚いたので、この場を借りて特大明記しておきたい。ところで、じゃあ「狼」のほうは何ぞやって話になるが、それはやっぱり、「権力の上にあぐらをかいてぬくぬくと肥え太る豚」どもを、その鋭い爪と牙とで打ち倒す「新世代の覚醒した若者」たちなんだろう。

 「安保闘争」の1960年から八年が過ぎた1968(昭和43)年、これもまた戦後史におけるもう一つのエポック・メイキングな年だが、36歳の石原慎太郎は7月の参議院選挙に全国区から立候補し、300万票余りを得て第一位で当選する。これが今日に至る政治家・石原慎太郎氏の軌跡の華々しい幕開けだったわけだが、この八年という歳月のあいだに、戦後ニッポン、および、石原慎太郎という「時代の寵児」の双方にどのような変化が起こったのかは、字数の都合で今回は触れることができない。

 しかしあくまで想像ながら、かなりの確信をもって言えることがひとつある。36歳の石原氏は、けっして「豚」となるべく国会議員に転進したのではなかろうということだ。そうではなくて、どこまでも氏は自らを「狼」と任じて政治家になったと思われる。つまり、「政治はすべて悪」と考える「純血主義」から、もう少しばかり大人になって、「政治の中には悪(豚)もあれば善(狼)も含まれている。」という認識に至った。そして自分は「狼」としてこの国の政治に関わっていく。心情としてはそういうことだったと思うのだ。もちろんまあ、現実にはもっともっとドロドロしたことが内にも外にも山ほどあって、そんな単純な話ではなかろうが、少なくとも心情としては、36歳の慎太郎青年はそう考えていたのであろう。

 そのように仮定してみると、1968年からかれこれ五十年近くに垂(なんな)んとする彼の政治活動の特異さの因って来たる所以がまざまざと見えてくるような気がしてくる。齢80歳を迎え、あれだけの権力を恣(ほしいまま)にするに至った現在も、あの人は自分を「豚」とは微塵も考えてはいない。いささか老いたりとはいえ、まぎれもない一匹の「狼」であると確信し続けているのであろう。だからこそあれほど矯激な言動を休むことなく取り続ける。もちろんこちらも、現実にはもっともっとドロドロしたことが内にも外にも山ほどあって、そんな単純な話ではないわけだけど、少なくともあの人の「心情」のレベルに即していえば、要するにそういうことであろうと思われる。



 以上。長くなったが、おおむねこれが、3年まえ(2012年)に書いた元の記事の大綱である。基礎になる情報をネットに置いて下さっていた牧梶郎さんには改めて感謝しなければなるまい。「狼生きろ 豚は死ね」について言いたいことは大体こんなところだが、ちょっとした後日談がある。当の記事についてコメントを頂いたので、ぼくはこう返事を書いた。





 そういえば『狼と豚と人間』という邦画があったはずだ、と思って調べてみたら、1964年の東映映画でした。監督は深作欣二で、出演は三國連太郎、高倉健、北大路欣也。ここでは狼が健さん、豚が三國さんで、人間が欣也さん。それぞれ、一人で生きようとする者、人に飼われて生きる者、人間らしく生きたいと願う者、という図式だそうです。

 1979年の『白昼の死角』の宣伝用コピーは石原戯曲のパクリでしたが、角川映画はその前年に、フィリップ・マーロウの名セリフ「(男は)しっかりしていなかったら、生きていられない。優しくなれなかったら、生きている資格がない。」を、「男はタフでなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない。」と改ざんしたうえでパクッた前科があります。

 さらに、2002年の映画『KT』で、KCIAをサポートする富田(佐藤浩市)の「狼生きろ、豚は死ね」という言葉に対して、元特攻隊員で活動家くずれの新聞記者・神川(原田芳雄)が「豚生きろ、狼死ね」とやり返すくだりがあった、とYAHOO知恵袋に書いてありました。

 いずれにしても、権力者こそが「豚」なのだ、という「動物農場」的な発想がまったく見受けられないのは興味ぶかいところです。 投稿 eminus | 2012/11/16





 するとその後、この補足に対して、「翻訳の文章なんだから、どれがオリジナルかは一概に言えない。『改ざん』や『前科』は言い過ぎではないか」という主旨の別のコメントが来た。そこはけっこう重要なんで、補足をさらに補足しておきましょう。

 「しっかりしていなかったら、生きていられない。やさしくなれなかったら、生きている資格がない。」は、翻訳家で、映画の字幕の名訳者としても知られた清水俊二の手になる訳である。ご存じレイモンド・チャンドラー『プレイバック』(ハヤカワ文庫)の中で、私立探偵マーロウが女性からの問いに答えての至言だ。

 これと、『白昼の死角』のコピー「男は、タフでなければ生きていけない。優しくなければ、生きている資格がない。」はどう違うのか。なぜぼくは「改ざん」「前科」という強い言葉を使ったか。たんに清水訳のほうが早かったというだけではない。

 「しっかりしている」と「タフ」との違いはこの際どうでもいいのだ。もっと大事な理由が2つある。ひとつめ。マーロウの名せりふの原文は、“If I wasn’t hard,Ⅰ wouldn’t be alive.If Ⅰ couldn’t ever be gentle, Ⅰ wouldn’t deserve to be.”だ。もういちど、清水俊二訳と「野性の証明」のキャッチコピーを見比べていただきたい。

 この台詞のキモは、「優しくなることができなかったら」という点にある。つまり、「タフでなければ生きていけない」のは大前提。そのうえで、「時と場合、つまり情況に応じて」「優しくなれる」ところがオトコの値打ちなんだぜ、と言っているわけだ。『野性の証明』のコピーは、その肝心なニュアンスを落としてしまっている。

 ふたつめは、この台詞に目をつけたのが、当時のカドカワ映画の宣伝部の手柄ではなかったということ。先駆者がすでにいた。もともとは丸谷才一がミステリ評論の中で紹介したのが最初で、それを生島治郎がいたく気に入り、「ハードボイルド美学の精髄」としてあちらこちらで引き合いに出した。ミステリ・ファンには常識といっていい話である。

 映画『野性の証明』が制作/公開されたのはそのあとで、しかもこの名セリフをキャッチコピーとして使うにあたり、関係者各位になにも挨拶はなかったらしい。それらの点から、ぼくも改ざんなどと書いたわけだ。いずれにしても、当時のカドカワ映画(の宣伝部)がかなり荒っぽいことをしていたという傍証なのだ。

 ただ、「狼は生きろ、豚は死ね。」と転用するに当たって石原慎太郎に仁義を切ったのかどうかは知らない。慎太郎は弟(裕次郎)を通じて映画界にも太いパイプを持っているので、なんらかの挨拶はあったかもしれぬが。


追記①) 2017年11月
 その後ネットを見ていたら、戯曲「狼生きろ豚は死ね」につき、新たな情報を得た。現代劇ではなく、幕末が舞台の時代もので、「坂元龍馬の護衛をする久の宮清二郎という青年が、その龍馬と幕府老中の松平帯刀、商人の山井九兵衛、土佐藩士後藤象二郎らの権謀術数の中で、理想と政治と権力に振り回される話。」とのことだ。ブログ主さんの感想によれば、「ちょっと新国劇の香りがする」内容だったとのことで、石原青年が書いたんだから、そうだろうなあという気がする。あの人はもともとセンスが古いのである。
 「久の宮清二郎」を演ったのは、劇団四季の看板役者・日下武史。なお「久の宮清二郎」については、検索してもこれ以外ヒットしないので、架空の人物と思われる。


 追記②) 2020年7月
 この記事の元となる原稿を書いたのは8年前で、そのとき石原慎太郎という政治家はまだ現役だった。この頃ぼくはかなり批判的な感情を込めて石原氏のことを見ており、それはこの文章にも色濃く反映されている。ところがこのたび、中国発のコロナウィルスの世界的蔓延ということがあり、そこであらわになった一党独裁体制の恐さを目の当たりにして、石原氏に対するぼくの評価は変わった。たしかにいろいろと問題もあったと思うが、じつは氏は先見の明を持った政治家だったのかもしれない。いずれまた石原氏については資料を集めてきちんと考えなければならないと思っている。


 追記③) 2023年11月
 そのご、2019年11月25日に、「シリーズ・戦後思想のエッセンス」の一冊として、中島岳志『石原慎太郎 作家はなぜ政治家になったか』が出た。「若い日本の会」についての言及もある。また、ユリイカも2016年5月号で慎太郎特集を組んだが、ぼくはこちらは未読である。














浦沢直樹の『20世紀少年』。

2015-10-21 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽









 浦沢直樹の『20世紀少年』は、トータルとしての完成度にはあきらかに難があり、その点においては「壮大なる失敗作」と呼ぶべきものだろう。しかし世の中には、「こじんまりまとまった成功作」より「壮大なる失敗作」こそが多くのひとに影響を与え、後世に残るということがある。
 ここに再掲する2本の記事は、テレビ放映された映画版に触発されて書いたものだ。本文でも強調しているとおり、あれは良い企画だった。ちゃんと原作の補完になっていた。
 『20世紀少年』のテーマは、
①1960年代から70年代初頭に澎湃(ほうはい)として湧き起こったヒッピー・ムーブメントやカウンター・カルチャーの精神(スピリット)。

 と、
②80年代以降の高度資本主義、もっとあっさりいうなら商業主義。

 とのあいだに横たわるあまりにも大きな断絶にある。この作品で浦沢さんは、その問題を「ロック」に集約して、正面きって取り上げた。それはあの時代に幼少年期を送った表現者としてとても真っ当な態度だと思う。作品としては遥かにきれいに纏まっている『PLUTO』(全8巻)よりも、ぼくが『20世紀少年』のほうに拘ってしまうのはそのせいだ。それでは本編、どうぞ。


☆☆☆☆☆☆☆☆

完成させたジグソーパズル・映画版「20世紀少年」
初出 2010年08月28日


 金曜ロードショーで三週にわたって放映された「20世紀少年」はよかった。最初の回こそ「ふーん、生身の俳優によるそっくりショーか。」みたいな気分で見ていたけれど、二週目の後半あたりからだんだん面白くなってきて、最終回のラストのエピソードでは、ちょっぴり感動に近いものすら覚えた。

 あれだけ大規模で悪逆非道な「人類滅亡計画」の発端が小学生のときの駄菓子屋での万引き騒ぎだったなんて、原作を知らない人が観たら、拍子抜けというより「ふざけんな」って気分になったろうと思うが、かつて原作の『20世紀少年』の単行本を発売日になるたび買って帰って、晩飯もそっちのけで一気読みしていたぼくにとっては、あの映画版(劇場公開とはまた別の編集らしいから、テレビ版というべきか)は原作の見事な要約であり補完であると思えたのだった。

 ただ、「晩飯もそっちのけで一気読みしていた」のはせいぜい16巻くらいまでで、そのあとは急速に熱が冷めていった。「ともだち」が再三にわたって死んだかと思うとまた生き返り、しかもそれらがぜんぶ筋書き通りで、そのたびに主要な登場人物たちが振り回される。思わせぶりな伏線はあれこれと張り巡らされるものの、一向に回収される気配はなく、いくつかの重大な疑問が解答を与えられぬまま置き去りにされ、挿話の一つ一つに矛盾や齟齬が生じてきて、それが作者の計算なのか、作品そのものの設計ミスなのかが判然としない。そんな感じになってきた。単純にいえば、「破綻を来たした」ってことだろう。

 いうまでもなく絵はうまい。テーマの重さ、世界設定の壮大さも群を抜いている。「MONSTER」で鍛えたストーリーテリングも円熟の境地といっていい。それなのに、いや、それゆえにこそいろいろな要素を詰め込みすぎて、作り手自身にも制御できなくなった。ぼくにはそう思えたし、世間の評価も概ねそんなところだと思う。強引ともいうべき展開のあげく、物語は唐突な大団円を迎え、あれこれ物議をかもしたのちに、「最終章」と銘打った『21世紀少年 上・下』が出たが、ぼくはもうこの二冊を買わなかった。それから長いあいだ、ぼくの中では『20世紀少年』は過去のものとなっていた。

 『20世紀少年』のテーマについては、この作品の後に描かれた浦沢さんのもう一つの代表作『PLUTO』第6巻の巻末にある山田五郎の文章が的確に語っている(ちなみに『PLUTO』は、「鉄腕アトム」の中のエピソード《地上最大のロボット》の素晴らしいリメイクであり、手塚マンガへの敬意あふれるオマージュである。この名作にハリウッドから映画化のオファーが来ないのはおかしい……といま書きかけて、いや、当たり前かと思い返した。『PLUTO』は、イラク戦争というアメリカの暴虐が生んだ悪夢をテーマにしているのだから……)。

 山田さんはこう書く。「物心がつくと同時にこの名作(鉄腕アトム)と出会い、アトムと超人、ゴジラとウルトラマン、新幹線やアポロ11号、王・長嶋に馬場・猪木、学生運動とウッドストックなどなどに胸ときめかせて育った私たちは、科学とヒーローと革命とロックを、最も無邪気に信じた世代といえる。だが、《銀色の未来 @岡田斗司夫・58年生まれ》の幕開けとなるはずだった70年の大阪万博と共に幸福な夢は終わりを告げ、思春期を迎えた私たちを待っていたのは、科学が公害、ヒーローが有名人、ロックがビジネス、革命がテロへと堕して行く現実。…………そんな私たちが中年にさしかかり、このままでいいのかと悩みはじめたときに、《自分たちが信じた未来を取り戻そう》と訴えたのが、浦沢の『20世紀少年』だ。」


 2年前に初めて読んだ時にも深く感じるものがあったが、いま書き写していて、「科学が公害、ヒーローが有名人、ロックがビジネス、革命がテロへと……」のくだりでまたジーンときた。ぼくはこの一文を草した山田氏や浦沢氏よりももうちょっと下の世代だが、いろんなものがきらきらと輝いていた時代のかすかな思い出は残っているし、それらがたちまち薄汚れた「リアル」にまみれていった光景というのも、ひょっとしたら後付けの記憶なのかも知れないが、覚えがあるような気がするのだ。

 夢や希望をどこかに忘れてこんな世界を創ってしまったのは「私たち」なのだから、ほんとうは、映画版でヨシツネが演説していたとおり、「《ともだち》とはぼくたちみんなのこと。」なんだろうけど、原作では、ミステリーの手法でその点に読者の興味を集めすぎたがゆえに、「ともだちとは誰か?」が、作品そっちのけで侃侃諤諤、ネット上などで論じられることにもなってしまった。しかし先にも記したとおり、ストーリー自体がすでに破綻を来たしていたために、論戦のほうもさほど実りあるものとはならなかったように思う。

 そんな「偉大なる失敗作」を、骨太のテーマに沿って抜き出し、余計な枝葉を削ぎ落として、ダイジェスト風に再構築したのが映画版(テレビ版)であり、その試みは十分に成功したとぼくは思う。エピソードの緻密さではむろん原作に及ばないにせよ、作品としてはこちらのほうが優れているのではないか。ことにラスト、ヴァーチャルマシンで過去に戻ったケンジが(何だかアレがタイムマシンみたいに扱われてるのは、元SFマニアとしては苦笑を禁じえないんだけど、それはそれとして)、学校の屋上で、中学時代のフクベエ(ではなくカツマタくんなんですね、じつは)にアドバイスをして、同じく中学生の自分自身と「ともだち」……じゃなくて、「友達」になる手助けをするところがとてもよかった。

 その直前にカツマタくんは、ケンジが放送室をジャックして、(ポール・モーリアの「エーゲ海の真珠」のかわりに)掛けたT・レックスの「トゥエンティー・センチュリー・ボーイ」を耳にすることで、飛び降り自殺を思い留まっている。この挿話があればこそ、覆面をした「ともだち」が、「僕こそが20世紀少年だ。」とうそぶくシーンが生きるわけだし、何よりも、作品の冒頭にわざわざ置かれたこのエピソードが、決定的な意味を持って浮かび上がってくるわけである。「ロックを通じてぼくたちは心の底から分かりあえる(ってことが真剣に信じられてた時代があって、それは青くさい夢想みたいに葬り去られてしまったけど、じつはほんとに今だって、きっとぼくたちはロックを通じて心の底から分かりあえるはずだぜ!)」ということこそが、この作品に秘められたメッセージなんだから。

 それでもやっぱり、この物語全体が荒唐無稽で空疎きわまると思う方がおられたならば、こんな解釈はどうだろう。実は「ともだち」ことカツマタくんは子供の頃のいじめ体験のせいでうまく大人になれぬまま、すっかり病んで壊れており、あの地獄絵図のような未来のすべてが、成長した彼の頭のなかの妄想だとしたら? そして、なにかのきっかけでそのことを知ったケンジが、過去の自分を反省し、どうにかして彼の憎悪や怨念を解いて、現実の世界と和解させようとする奮闘のプロセスが、真の「20世紀少年」だとしたら?

 つまりあの映画で描かれたのは、壊れたままで成長してしまったカツマタくんの脳内に渦巻く妄想を、ドラマチックにビジュアライズしたものだったということだ。これだと壮大なる夢オチみたいな話になっちゃうけど、そんな解釈の含みを持たせた点でも、かえって映画版のほうがよかったと思う。原作は妙に細部を作りこんでいる分、「夢でした。」のような逃げが許されない雰囲気がある。

 ともあれ、浦沢=長崎コンビが真摯な問題意識(と露骨な商業主義)にのっとって広げに広げた大風呂敷を、使えるピースだけうまくピックアップしてきれいに組み上げたジグソーパズル、それが映画版『20世紀少年』だといっていいんじゃなかろうか。


☆☆☆☆☆☆☆☆

『20世紀少年』の正しい読み方。
初出 2010年10月13日


 金曜ロードショーで三回にわたって放映された映画版が思いのほか面白かったので、押し入れの奥に詰め込んであった『20世紀少年』全22巻を読み直し、余勢を駆って完結編の『21世紀少年』上下も、3年遅れで買って読んだ。ただし正価ではなく、有名大手古書チェーン店にて、二冊あわせて七百円也。新刊で買う気はしなかった。それくらい、かつて味わった失望が大きかったのだ。四年前、巻を追うごとに展開が強引になっていくのを危ぶみながら読み継いできたのだが、果たして、22巻での大団円があまりに乱暴だったので、最後まで律儀に付き合ったのを後悔し、もうちょっとで売り払うところだった。『21世紀少年』上下を加えて「全24巻」を読了した今、早まらなくて良かったと思う。やっとこの作品の正しい読み方が分かったのである。

 えーと、このマンガに関してはいまさらネタバレ禁止でもないと思うが、もし未読の方がおられたら、ここから先はくれぐれもご注意のほど。

 ともだち①=フクベエが小学校の理科室でヤマネに撃たれて死んだあと、ともだち②=世界大統領に成りすましていたのはカツマタくんであったわけで、この二人は教団の結成当初から二人三脚で行動していたばかりか、随時入れ替わってもいたらしいのだが、肝心のカツマタくんに関する伏線がまったくといっていいほど張られていないため、ラストでいきなり「じつはカツマタだったんですよー」と言われても、唖然とするほうがふつうである。第一、どうして彼ら二人が完全に同じ顔をして、背格好や体型ばかりか、声までも瓜二つなのだろう。作中では何度か、登場人物の台詞を借りて「整形」の可能性が強く示唆されているが、ネット上では「双子」説も根強くある。

 仮にフクベエとカツマタくんとが医学的に一卵性双生児であった場合、成人した後の行状はどうにか辻褄が合うとして、小学生および中学生の時のことが説明できない。なぜ姓が違うのか。なぜカツマタくんは、サダキヨのように一学期だけで転校したわけでもなく、中学まで一緒だったにも関わらず、みんなから本当に「死んだ」と認識されていたのか。何よりも、フクベエとの関係はどうなっていたのか。理屈を付ければ付けられないことはないにせよ、どうしても牽強付会の感は拭えない。さりながら、ぼくは、やはりフクベエとカツマタくんとは「双子」であったと解釈している(さらにいえば、ユング派心理学でいうところの「影(シャドー)」としてのサダキヨをも含め、チョーさんメモにもあるとおり、彼らはいわば、三人で一人の「三つ子」だったと言ってもよい)。

 そもそもこの物語において、少年時代のケンヂたちにとっての「悪」の象徴がヤン坊マー坊という双子であったことを思い起こしていただきたい。ヤン坊マー坊は青年期においてスマートなIT企業の経営者として姿を見せるが、「血の大みそか」のあと、リバウンドで太って再登場してからはコメディーリリーフみたいな役どころとなって、一定の距離を置きながらも、ケンヂ側の仲間になってしまう。確かに彼らはガキ大将であり苛めっ子だったが、その悪童ぶりはむしろ陽性のもので、きわめて分かりやすかった。いっぽうフクベエは、友達(ヤマネとサダキヨ)を集めて首吊りの真似事をし、そこから復活する様を見せつけて自らを崇拝させようと試みるなど、やることが子供離れしていて末恐ろしい。その自己顕示欲と支配願望と知能の高さは尋常ではなく、ドンキーが「あいつは悪の帝王になる。」と予見するのも宣なる哉といえる。

 つまりこの作品のコードにおいては、「双子」が「悪」の役割を担うのだが、それが冒頭から表に出ていたヤン坊マー坊ではなくて、裏に潜んでいたフクベエ+カツマタくんであったというのがミソなのだ。そういった作品の構造からの読解として、彼らは「双子」と見なすべきなのである。大体これは「本格科学冒険漫画」であるからして、現実との照応を一つずつ生真面目に求めていっても仕方がない。それはケンヂが大爆発から生還した理由がまったく語られなかったり、カンナのもつ超能力の説明が、「秘薬を投与したからね。」というひとことであっさり片付けられていることからも分かる。リアリズムを棚上げにして、比喩ないし象徴として飲み込まなくてはならない部分がまことに多く、フクベエとカツマタくんとが「双子」であるということは、その中の最大の要素だといえる。

 『20世紀少年』の正しい読み方は、細部の整合性や現実との照応にこだわることなく、圧倒的な画力と構想力が織り成す大法螺に酔い痴れながら、浦沢=長崎コンビが打ち出した壮大なテーマを追認することだ。『20世紀少年』のテーマについては、この作品の後に描かれた『PLUTO』第6巻の巻末にある山田五郎さんの文章が的確に語っている。「……アトムと超人、ゴジラとウルトラマン、新幹線やアポロ11号、王・長嶋に馬場・猪木、学生運動とウッドストックなどなどに胸ときめかせて育った私たちは、科学とヒーローと革命とロックを、最も無邪気に信じた世代といえる。だが、《銀色の未来》の幕開けとなるはずだった70年の大阪万博と共に幸福な夢は終わりを告げ、思春期を迎えた私たちを待っていたのは、科学が公害、ヒーローが有名人、ロックがビジネス、革命がテロへと堕して行く現実。…………そんな私たちが中年にさしかかり、このままでいいのかと悩みはじめたときに、《自分たちが信じた未来を取り戻そう》と訴えたのが、浦沢の『20世紀少年』だ。」

 そう。つまり『20世紀少年』とは、「世を席捲しているニセモノを、不遇をかこつホンモノが打ち破る話」なのである。ニセモノは目立ちたがりで、扇情的で、エキセントリックで悪意に満ちているゆえに、大衆の俗情と結託して持て囃される(いまのテレビを賑わせている顔ぶれを思い浮かべて下さい)。いっぽうホンモノは、地味で、愚直で、ちっともカッコよくなくて、ちょっと小ずるいところはあっても根は善良で、しかも純情なうえに不器用だからまるで冴えない。しかしそれこそが、ただの「有名人」ではない真の「ヒーロー」なのであり、そんなヒーローの歌う曲こそが、ただの「ビジネス」ではない真の「ロック」なのである。しかし、そんな真実の歌が人々の胸に響きわたるためには(「ウッドストック」のあの昂揚が21世紀に甦るためには)、背景として、あれだけの地獄絵図が不可欠であったということなのだ。とはいえ、ふたりの「ともだち」が引き起こしたあの黙示録の世界も、比喩ないし象徴としては、ぼくたちの生きた20世紀そのものの荒涼たる精神風景を示していると言えなくもない。

 この作品の中で「正義」の側に立つのはホンモノ(=オリジナル=リアル=日常=科学)であり、「悪」の側に立つのはニセモノ(=コピー=インチキ=トリック=ウソ=ズル=ヴァーチャル=超能力)である。ヴァーチャルアトラクションの中でカツマタくんが常にのっぺらぼうとして表象されるのは、(サダキヨにはまだしも大人の顔があったけれども)カツマタくんは本当に「顔」を持たないからだ。彼は「ホンモノ」(ケンヂ)のコピーでありインチキな超能力者であるフクベエの、さらなる「コピー」としてしか生きられない。

 そのような彼が「僕こそが20世紀少年だ。」と名乗りを挙げるのであれば……20世紀がそのような時代であったというのであれば……『20世紀少年』の最終章が、わざわざ『21世紀少年』と改題されたのも頷ける。それはニセモノとしての20世紀少年が滅びたのちに、新しく再生してくる「ホンモノ」の称号でなければならないだろう。とはいえそれが、ケンヂを指すのかどうかは分からない。ケンヂは笑ってそんな美名を拒むだろうし、むしろ実際のこの時代に少年なり少女として生きている、文字どおりの「21世紀少年」たちのことなのかもしれない。そういえば、サナエとカツオという愛すべきキャラクターもいたわけだし、後世に希望をつなぐのは、けして悪いことじゃあないだろう。




安岡章太郎おぼえがき / 折れた杉箸

2015-10-19 | 純文学って何?
 10月7日に再掲した記事では、なにやら高橋和巳のことばかり書いちゃったけれど、ほんとはもちろん小松左京についても言いたいことは山ほどあって、改めて『継ぐのは誰か?』を読み返したらば、ラスト部分の記述が「攻殻機動隊」の先取りになってたもんだから吃驚した。つまり人類すべてがそれぞれの脳そのものでもってサイバースペースに接続し、全体として、広大きわまるネットの海を形成するというビジョンですわ。「攻殻機動隊」の先取りってことは、ウィリアム・ギブソンの先取りってことで、ようするにサイバーパンクを視野に入れてたってことですね。いや、なにもそんなに話を難しくすることはない。今日のわれわれが当然のように享受しているWWWを、小松さんは精確に把握し、それを小説の中に取り入れていたって話。この作品が「SFマガジン」に連載されていたのは昭和43年すなわち1968年(!)。たぶん、これは世界レベルで見ても相当に早い方だったはずだし、当時の大多数の読者には文字どおり「SF」としてしか捉えられなかったろうなあとも思う。
 ただ残念ながらその尖鋭な認識はあくまでも簡単なビジョンの提示に留まっていて、「物語」として展開されてはいない。だからやっぱり小松左京は小松左京で、W・ギブソンにはなれなかった。日本からギブソンは出なかった。ここから日米ハイテク技術論、さらに日米文化論へとつなげていく力量は残念ながら私にはないが、SFってものがたんなるサブカルの一ジャンルではなく、途方もない可能性を秘めた表現手段であるということを再確認したってことだけは言っておきます。ちなみに今回ぼくが読み返した『継ぐのは誰か?』は、1998年にハルキ文庫で復刊された版。日下三蔵氏が仕掛け人だと思うんだけど、このころ(つまり20世紀末)小松さんの初期~中期の名作・傑作が次々とハルキ文庫で蘇って、ちょっとしたコマツ・ルネサンスの様相を呈してたんですよねー。
 はてさて。ぼくは純文学バカではあるが如上のとおりSFをはじめエンタテインメントに並々ならぬ敬意を抱いてもおり、というか、もともと娯楽小説と純文学とは巨鳥の両翼、双方がバランスよく発達してこそ、一国の文化は高々と天翔けるものだと信じている。しかるに現在、娯楽小説のほうはラノベ、マンガ、アニメ、ゲームなどと止めどなく拡散・融合しながらアメーバのごとく巨大な市場を成しているのに対し、いっぽうの純文学は「火花」ごときに伝統ある賞を授けてどうにかこうにか窮状をしのいでるようなありさまなもんで、どうしてもブログでは純文学を顕揚せざるをえないし、時にはそのあまりの不振ぶりに激昂して、つい居丈高なことを書いたりなんかしてしまうのである。お聞き苦しいところはすいません。
 というわけで、今回再掲するのはもろ純文学の礼賛記事です。まずは安岡章太郎。これは2013年、この大家の訃報に接してアップしたもの。高橋和巳の記事の中で、

 そして文壇の主流はいわゆる「第三の新人」たち、すなわち安岡章太郎に代表されるような、日常を生きる猥雑な生活実感とか、卑小なる身体感覚のなかで小説の世界を作り上げていく人々の系譜へと移っていった。かくして、「政治」とは? 「宗教」とは? 「国家」とは? 「革命」とは? なんて大命題を高々と掲げて真っ向から文学を志すひとなんてのは、少なくとも「純文学」の範疇では、ほとんどいなくなりました(むしろ直木賞系にその理念を継ぐタイプがいたりして、じつは村上龍は、ぼくの基準ではそちらのほうに属します)。

 と書いたのに関連して引っ張ってきました。それともうひとつ、同じ「第三の新人」に属する吉行淳之介の「驟雨」を引き合いに出して、ぼく自身のいわば「純文学開眼」について語ったエッセイを。……読み返してみたら、ここでも『継ぐのは誰か?』の話を出してるなあ……。この記事では純文学を持ち上げようとするあまり、エンタテインメントについてけっこう失礼なことを書いておりますが、娯楽小説に対するぼくの考えは上に記したとおりです。それではまず、安岡さんの話から、どうぞ。


安岡章太郎おぼえがき
初出 2013年02月09日


 この1月26日に安岡章太郎が92歳で亡くなった。この安岡章太郎という作家のスゴサってものは……どうしてもここは、「凄さ」ではなく安岡さん風に「スゴサ」と書かなきゃだめなんだけど……代表作「海辺の光景」(うみべ、ではなく、かいへんと読みます)を一読すればたいていの人が嫌というほど思い知るであろう。田中慎弥の「共喰い」と同じく、息子=父よりも息子=母の繋がりを中心としたニッポン式のエディプス・コンプレックス物語、つまりまあ「ボクとオカン、ときどきオトン」のお話なのだが、話題につられて「共喰い」を読んだ若い人たちは、もし未読なら、ぜひとも「海辺の光景」をも併せ読んでいただきたいと思う。500円出せば今も新潮文庫で手に入る。

 「共喰い」について述べた記事の中でぼくは、この作品がかなり明瞭にギリシア悲劇的な(正確にいえば、ギリシア悲劇を劇画調にデフォルメしたような)骨格を持っていることを指摘し、「昭和の純文学は、これほど劇的な構成を立てない。もっとぐずぐず日常性に流れていく。」と書いた。そのときにはっきり「海辺の光景」を念頭に置いていたわけではなかったが、訃報に接して改めて読み返してみると、やはり自分がこの作品を、心のどこかで強く意識していたのが分かった。これはまあ、安岡さんの代表作であるのみならず、「戦後文学の達成のひとつ」と称されるほどの名品なのだが、正直いって、ぼくは20代の頃にはどうにも読むことができなかった。べたべたねちねち、あまりにも「リアル」な日常性に塗れており、それゆえに読めなかったのだ。

 ひとことで言えば、30代前半くらいの一人息子が瀕死の母親を郷里の病院に見舞い、その臨終を看取るまでの話、と要約しうるこの中編において、注目すべきはそのストーリーではなくて、むしろ両親へと注ぐ主人公・信太郎の偏執的なまでの眼差しであろう。

 (……)信太郎は(…中略…)その顔を母の側に近づけた。汗と体臭と分泌物の腐敗したような臭いが刺すように鼻についた。しかし、その臭いを嗅ぐと、なぜか彼は安堵した気持になった。重い、甘酸っぱい、熱をもったその臭いが、胸の奥までしみこんでくるにつれて、自分の内部と周囲のものとのバランスがとれてくるようだった。いまは変型した母の容貌のなかに、まちがいなく以前の彼女のおもだちが感じられる。いつまでも子供っぽい印象をあたえていた額は渋紙色に変って深い縦皺がきざまれ、ゴム鞠のようにふくらんでいた頬は内側からすっかりえぐりとられたように凹んで、前歯一本だけをのこして義歯をはずされた口はくろぐろとホラ穴のようにひらかれたままだ。それに、あんなに肥って、みにくいほど二重三重になっていた頤の肉は嘘のように消えて、頤がそのままシワだらけの喉にくっつきそうになっている。けれども、いまは次第にそれらのものが、それぞれに昔からなじんだ部分部分のなごりを憶い出させてくれる……。だがそれだからといって、この母に何か話しかけてみる気にはなれなかった。(……)

 あるいは、

 (……)ふだんから父は存分に時間をかけて咀嚼する方だ。ひと口ひと口、噛みしめるたびに、脱け上がった広い額の下で筋肉の活動するさまがハッキリ見える。乾いた脣のはしに味噌汁に入っていたワカメの切れはしが黒くたれさがっているのも知らぬげに、口は絶え間なくうごいており、やがて噛みくだかれたものが食道を通過するしるしに、とがった喉仏が一二本剃り残されて一センチほどの長さに伸びた無精ヒゲといっしょに、ぴくりと動く。まるでそれは機械が物を処理して行く正確さと、ある種の家畜が自己の職務を遂行している忠実さとを見るようだ。(……)

 こういった容赦なき描写が全編にわたって続く。もちろん、たんに容貌のみならず、その来歴や性格、言動や生活態度のあれこれが、これでもかとばかりに微に入り細を穿って描かれるのだ。最初にこの文庫本を手に取ったとき(結局ラストまで読めなかったのは冒頭に述べたとおり)、小説家になるためにはここまで踏み込まねばならないのかとアゼンとしたものだ。いや、アゼンというより、もっと生理的な嫌悪感を覚えて本を放り出したように思う。なにか自分がいちばん秘匿したいものを白日の下に晒されたような気がした。つまりはこれが「私小説」ってやつのオソロシサであり、我が国において異常に発達したこの制度は、さまざまな批判を浴びてきたとはいえ、こうして改めて見ると、やはりただならぬ強度を持っていると認めざるを得ない。

 安岡章太郎という作家は、「人生の劣等生、敗残者、落伍者」としての自己(および家族)の肖像を書き綴ることで作家としての地歩を築いていった。文学史的な分類としては、俗に「第三の新人」と呼ばれるグループに属する。第三の新人とは、ざっくり言えば、概して観念的で重厚な作風をもつ「戦後派」のあとに現れ、より卑小で繊細な日常を描くことをモットーとした若い作家たちの集団であった。ほかに吉行淳之介、遠藤周作といった俊英もいたが、芥川賞を取ったのは安岡さんがいちばん早かった。学校やら実社会においては劣等生であり落伍者であったのかもしれないが、作家としては生粋のエリートだったわけだ。トランプのゲームに、マイナスのカードをぜんぶ集めたらプラスに変わるのがあったが、あるいはそんな感じかもしれない。

 芥川賞をとった「陰気な愉しみ」の中に、以下のくだりがある。進駐軍の占領下における貧しき日本人の屈折した思いを留めて世評の高い描写だが、

 私はまた大廻りして、別のもっと幅の広い通りも歩く。そこは外国人相手のみやげ物屋やレストランばかり並んでいるので、私は買い物や食事をしている外国人をながめる。……写真機をいじくっているアメリカ兵の後に立って、お尻でつきとばされるのは、ちょっといいものである。しかし、もっと好いのは、日本人のボーイに送られてレストランから出てくる家族づれを見ることだ。チップをそれで補う心算もあって、愛嬌をふりまきながら夫人がまず出てくる。その次がやや神妙そうな顔をした主人で、最後が子供だ。……私は幸福な彼等にみとれる。実際、彼等はたしかにわれわれとは人種がちがう。そばにいるボーイは彼等にくらべるとまるで猿だ。そして私はそのボーイよりまた一段下なのだが……。ところで私のたのしみは、これからだ。行き先きでも相談するのか大人たちは子供に背を向けて話し合っている。その隙に、私は怖い顔をつくって子供の顔を睨みつけてやるのだ。子供は、さッと顔色を変える。……

 まさに「陰気な愉しみ」だけれども、「戦後派」の作家たちならもっと壮大なドラマに仕立てる筈の葛藤を、こういったエピソードとして造型するのが「第三の新人」の、また安岡さんの真骨頂なのだ。そして、それはたしかに小説という形式の本道であろうとぼくは思う。要するに、べたべたねちねち、厭になるほど「リアル」なのである。おそらくはそれゆえだろう。野間宏の「暗い絵」のように、かつて新潮文庫に入っていた「戦後派」作家の小説の大半は今やもうすっかり消えてしまっているけれど、安岡さんをはじめ、第三の新人の作品の多くはいまだに新潮文庫で版を重ね続けている。

 それでは、今日は引用づいているので、あの手厳しい柄谷行人をして「……私たちが一九五〇年代から六〇年代にかけて通過しなければならなかった、根本的な社会的構造の《変化》の暗喩たりえている。」と言わしめた「海辺の光景」の名高いラストシーンを最後に引いておきましょう。

 岬に抱かれ、ポッカリと童話風の島を浮べたその風景は、すでに見慣れたものだった。が、いま彼が足をとめたのは、波もない湖水よりもなだらかな海面に、幾百本ともしれぬ杙(くい)が黒ぐろと、見わたすかぎり眼の前いっぱいに突き立っていたからだ。……一瞬、すべての風物は動きを止めた。頭上に照りかがやいていた日は黄色いまだらなシミを、あちこちになすりつけているだけだった。風は落ちて、潮の香りは消え失せ、あらゆるものは、いま海底から浮び上った異様な光景のまえに、一挙に干上がって見えた。歯を立てた櫛のような、墓標のような、杙の列をながめながら彼は、たしかに一つの〝死〟が自分の手の中に捉えられたのをみた。



折れた杉箸
初出 2010年12月14日


 おおむね高2の夏くらいまでぼくは古典とか純文学にさしたる関心がなく、読む小説といったらSFが主だった。SFは、今でこそ各方面に拡散してしまってジャンルとしては廃れ気味のようだが、当時はわがご近所の貧弱な図書館にも、世界や日本の名作群がごっそり揃っていたのである。ひときわ感銘を受けたものとして、今でもよく覚えているのは小松左京の『継ぐのは誰か?』と『果しなき流れの果に』の二作で、あれはまさしく物語の形を借りた文明論というべきものだった。いわゆるスペキュレイティヴ・フィクション(思弁小説)の趣きもあり、すこし後の(つまり二十歳をいくつか出たころの)ぼくが小説を書いて身を立てようなどと無謀な決意を固めながらも、結局のところ文学作品はそれほど読まず(映画はアホほど観ていたが)、もっぱら思想とか歴史の本ばかり読み漁ることとなる淵源のひとつはあの辺りにあったのかなあとも思う。

 高2以前に話を戻すと、SFと共に好きだったのはアクションもので、これはまあマンガやアニメの延長みたいな気分で消費していた。そう、まさに消費財としか言いようのない、ハリウッドのB級映画みたいな代物である(こんな書き方をしちゃったからには、実名を出しちゃあまずいんだろうけど、平井和正や大薮春彦、あと、初期のドタバタ時代の筒井康隆とかです。ファンの方々、すいません)。

 つまりまあ、『勝手にしやがれ』のラストでジーン・セバーグがつぶやく有名な台詞をもじって言うならば、「文学? それってなんのこと?」といった調子でずっと過ごしてきたわけだ。ただ、漱石の『吾輩は猫である』だけは妙に気に入って小学生の頃から繰り返し読んでいた。あまりに『猫』が好きなので、じつはいまだに漱石が後年に著した(より深刻で《文学的》な)作品たちにうまく馴染めない。むろん他にも、何しろぼくらの子供の頃にはゲームもケータイもなかったから、今の少年少女たちよりはたくさん活字に親しんでいたと思うけど、ここにわざわざ書き記すほどの書物はないようだ。家が狭く、親がインテリとは程遠いタイプなもんで、「世界文学全集」がなかったことが大きいと思う。プロの作家の回想録を読んでると、たいていの人が自宅にあった「世界文学全集」を幼児期に一通り読んで文学の素養を身につけたと書いている。そういう経験を持てなかったことは一生もんの欠落だけど、この齢になって苦情を言ってもしょうがない。

 「文学ってなんのこと?」とうそぶきながら(いやまあもちろん、じっさいにうそぶいていたわけではないが)、いずれは理系の技術者になるのであろうと目算を立てていたぼくが急激に《純文学》へと傾斜したのは、時期としては高2の夏辺りということになるが、このころになにか特筆すべきことが起こったわけではなく、やはり青春のアイデンティティー・クライシスってことになるんだろう。内面がふつふつ煮え滾ってきて、それを制御するためのコトバが必要になってきたのである。すこし気取っていうならば、革ジャンのポケットにナイフを忍ばせて夜の街を闊歩するかわりに、本を読みまくってたようなものだ。だからぼくにとっての読書というのは、「教養を身につけるため」ではなく、内的な必然に追い立てられてのものであり、それが社会的な意味で「健全」な性向だったとは思ってはいない。世の中の大多数の人々はたぶん、「文学」などとは無縁のままに、ゲームをしたりエステに行ったり車を乗り回したり、水嶋ヒロのデビュー作を買うために行列を作ったりして一生を終えていくのであろうが、けして皮肉で言うのではなく、それはたいへん幸福なことではないかと思う。あなたがもし文学を切実に渇仰していないのなら、それに越したことはない。

 ぼくが文学に入れ込んだのは、如上のとおり内的な衝動に従ったうえでのことであったが、もっぱら技術的な面で、「純文学」の真価に開眼するきっかけとなった小説は明瞭に記憶している。吉行淳之介さんの『驟雨』である。これは昭和29年の作品で、芥川賞受賞作でもあり、ぼくが読んだ80年代の半ばにはすでに「戦後日本文学を代表する名品」としての風格を漂わせていた。新潮文庫の『原色の街・驟雨』に入っているが、ぼくが読んだのは当時高校の図書館にあった全80巻の「新潮現代文学」でだった。これは川端康成・井伏鱒二・中野重治から筒井康隆・井上ひさし・古井由吉に至る一人一冊のシリーズで、この全集を手当たり次第に貪り読むことで、ぼくはそれこそ「文学の素養を身につけた」のだ。もとより未熟ではあったにせよ、思えばこれまでの生涯でもっとも甘美な読書体験といえるかもしれない。ほぼ3日に一冊のわりで借りていき、一冊ごとに新しい世界が広がっていく感覚だった。80巻すべてを完読したわけではないが、いちおうほとんどに目を通したはずである。ただしおかげで理系の成績は急落したし、友達づきあいもずいぶん疎かにしてしまったから、良かったとばかりは言えない。

 吉行作品は90年代後半以降、フェミニストたちの手厳しい批判の標的となっていささか旗色が悪くなったように思うが、裏返せばそれは、「オトコ」の目から眺めた世界の情景をこのうえなく的確に描き出しているということではないか。この記事を書くに当たって、表題作二本のほか「薔薇販売人」「夏の部屋」「漂う部屋」が収められた新潮文庫版をざっと読み返してみたが、これがちっとも古びていないどころか、めっぽう面白かったのである。かりにフェミニストたちから反動的と謗られようとも、やっぱりぼくも一人のオトコであるらしい。ともあれ、初期吉行の作品風土というべき「娼婦の街」(いわゆる赤線のこと)http://www.tokyo-kurenaidan.com/yoshiyuki-hatonomachi1.htm を舞台に、若くて知的で上品な娼婦に(そんな娼婦がかつて実際に存在していたのか、そして今も存在するのかどうか、不勉強にしてぼくは知らぬが)、持ち前の信条に反して恋愛感情を抱いてしまった青年のてんまつを描いたこの短い小説に、高校2年のぼくはすっかり参ってしまった。

 その「持ち前の信条」は、この作品の冒頭に箴言みたいな形で出てくる。わりと有名にもなったし、ある意味で、吉行文学のマニュフェストのように見なされてもいるはずである。いわく、「……愛することは、この世の中に自分の分身を一つ持つことだ。それは、自分自身にたいしての顧慮が倍になることである。そこに愛情の鮮烈さもあるだろうが、わずらわしさが倍になることとして故意に身を避けているうちに、胸のときめくという感情は彼と疎遠なものになって行った。」 いま改めて書き写すと、なんか、「草食系男子」の内面を先取りしているようだネ。この五十六年前の草食系男子は、「わずらわしさ」を怖れて金銭を対価に性欲を解消するだけの関係を取り結んだはずが、いつしか彼女の(躯だけではなく)内面に強く心を惹かれていくのを感じる。このあたりの心理描写の緊密さは、それまでぼくが読んできたいかなるSFやアクションものにも見られないものだった。そして、ショッキングなラストシーン。

 捥(もぎ)られ、折られた蟹の脚が、皿のまわりに、ニス塗りの食卓の上に散らばっていた。脚の肉をつつく力に手応えがないことに気付いたとき、彼は杉箸が二つに折れかかっていることを知った。

 これは彼女と逢引をするため娼家を訪ねた青年が、「いま、時間のお客さんが上がっているの。四十分ほど散歩してきて、お願い。」と断られたために、「縄のれんの下った簡易食堂風の店に入って、コップ酒と茹でた蟹を注文し、そこで時間を消そうとした。」あげくの出来事である。杉箸ってのはそう易々と折れるもんではない。どれほどの力を込めたなら、その杉箸が無意識のうちに折れるのだろうか。しかも、「捥(もぎ)られ、折られた蟹の脚が、皿のまわりに、ニス塗りの食卓の上に散らばって」いることで、無残な惨状のイメージは、よりいっそう増幅されている。それは例えばミサイルによって壊滅した都市や、マシンガンの乱射によって累々と横たわった死体の描写などよりも、はるかに鮮烈に高校2年のぼくの心を打った。そうしてぼくは純文学の凄みを思い知り、それ以来、今に至るも純文学の信奉者であり続けてるのだった。


バーナード・マラマッドの話。

2015-10-15 | 純文学って何?
バーナード・マラマッドの話。
初出 2013年11月05日


 バーナード・マラマッド。アメリカのユダヤ系作家。1914~1986。元号でいえば大正3年生、昭和61年没ということになる。フィッツジェラルド、フォークナー、ヘミングウェイといった大御所たちはぎりぎり19世紀の生まれだから、彼らより一回りちょい後の世代ってことになろうか。ちなみにいうと、村上春樹の翻訳によって日本でも人気となったレイモンド・カーヴァーは1939年生(1988没)だ。カーヴァーは現代アメリカ短編作家の代表格であり、ミニマリズムとも呼ばれるその作風は1970年代後半以降のひとつの規範となったので、カーヴァーを基準に現代アメリカ文学史を分かつのは単純ながらも有力な視点であるとぼくは思うが、その伝でいけば、マラマッドはいわば「現代作家」の中での「旧世代」に属するってことになる。

 アメリカ文学について少しでも知識のある方ならご承知のとおり、この国の文運を真に盛り立ててきたのは「ニューヨーカー」誌に瀟洒で軽妙な作品を載せるたぐいの作家たちではなく、ユダヤ系、アフリカ系(いわゆる黒人)、また南部出身といった、言うならばマイノリティーの作家たちである(むろん彼らの中にも「ニューヨーカー」誌の常連はいるが、それはまた別の話)。ともあれ、中でもとくにユダヤ系作家の存在感には特筆すべきものがあり、ソール・ベロー(1914年生)は1976年にノーベル賞を取っているし、フィリップ・ロス(1933年生)はいつ取ってもおかしくないといわれている。この人たちの代表作が文庫化されて廉価で入手できる形になっていないのは不備じゃないかとぼくは思う。日本は翻訳大国かもしれないが、そのありようはずいぶん歪(いびつ)だ。だってアメリカの属国じゃないか……。宗主国のことは知っとかなくちゃ……。ハンバーガーとコーラとディズニーランドと……あと何だ?……ハリウッドの3D映画? そんなのだけじゃガキじゃないですか、アホじゃないですか。マラマッドはベローと同年齢で、既述のとおり1986年に亡くなってしまったけれど、もし存命ならば有力なノーベル賞候補のひとりとなっていたことは間違いない。って、さすがにムリか。100歳超えだもんな。宇野千代さんじゃないんだから。とはいえ、そういった事情も弁えずにハルキハルキと騒ぎ立てるのは、ほんとうに恥ずかしいことだぜとしつこく申し述べておきたい。なんか今日はいつにもまして厭味ったらしいが。

 ぼくがこの作家の名を初めて知ったのは高校2年の時だった。ブンガクに目覚めて道を誤ってしまった年である。理系志望だったのに、小説に溺れてそちらの成績が急落した。日本の作家もどっさり読んだが、外国の作家も翻訳で読んだ。学校帰りに必ず立ち寄っていた商店街の本屋に、新潮文庫の「海外文学短編集」というシリーズがあって、わけもわからず月に一冊ずつ買っていたのだが、いま改めて見るとかなり優れたラインナップで、その頃の編集者の心意気がうかがえる。O・ヘンリー、サキ(英国)といった定番をはじめ、あのマーク・トウェインを抜かりなく押さえ、ヘミングウェイ、フォークナー、スタインベックらの大御所を外さないのは当然ながら、アンダスン(ふつうはアンダソン、もしくはアンダーソンと表記。アメリカ初のモダニズム作家といわれる)、コールドウェル、さらに大江健三郎の推奨で日本でも最近とみに評価の高いフラナリー・オコナーといった渋いところが入っていた。いい読書経験をさせてもらった、と30年経って切に思う。その中にマラマッドもいたのである。初期の短編集『魔法の樽』がそっくりそのまま収録されていた。全米図書賞を受賞したというから、同時代の本国にあっても評価の高い作品集だったわけだ。この『魔法の樽』は今年になって別の訳で岩波文庫から出た。amazonで見たら入荷待ちになっていたから、初版はすぐに売れたらしい。このことをみても、かつての新潮文庫の見識がわかる。

 ロバート・レッドフォード主演で映画化されたデビュー作『汚れた白球(ナチュラル)』は、小説としての評価は芳しくなかったらしいが、その後の『店員(アシスタント)』『修理屋(フィクサー)』『ドゥービン氏の冬』などの長編によって、マラマッドは全米を代表する作家の一人と目されるに至った。最後の長編『コーンの孤島(神の恩寵)』は、これも大江氏がエッセイのなかで取り上げていたので強く印象に焼き付いている。焼き付いていながら未だに読む機会を逸しているのだが、SFの体裁をとりながら、ユダヤ的世界観とキリスト教的世界観との対立を基底に据えて、「核の冬」を生きる現代人の絶望を描いたはなはだ沈痛な作品らしい。大家としての名声を確立してなお、そのような作品をものするというのは、老人性の抑鬱といった側面もあろうが、やはりマラマッドという人の根っこに抜きがたいペシミズムが絡み付いているのだと解さざるをえない。そう。マラマッドの作風は概して暗い。ぼくが高校のとき読んだ新潮文庫の『マラマッド短編集』(魔法の樽)にもそのペシミズムは濃厚にあって、それはさながら不吉なふたごの兄弟のように「貧困」と手を携えていた。ぼくはもとよりアメリカ人じゃあないし、ユダヤ系でも移民の息子でもないわけだけど、日本に住む同じ日本人によって日本語で書かれたあまたの小説に負けず劣らず、マラマッドの小説は身に染みた。そしてそれは、楽しい読書経験とは言いがたかった。

 貧しさと、それゆえの無知からくる何ともいえない重苦しさ、行き場のなさ、やりきれなさ、閉塞感……それらはまさに生家で暮らした18年のあいだ、ぼくが絶えず感じ(させられ)続けたものだった。マラマッドの短編には、そういった負の感情のいちいちが、ほとんど生理的なリアリティーをもって描かれていた。それが作家としての卓越した才能のたまものだってことが理解できたのは、自分で小説を書きはじめてかなりの時間が経ってからだ。若くて未熟な一読者にすぎなかった頃は、ただもうつらいだけだった。だからマラマッドのことはずっと気に掛かってはいたけれど、愛読していたとはとうてい言えない。ずっと本棚の奥に押し込んで、ごく稀に読み返すだけだった。そんなマラマッドの、もう茶色くなった30年前の新潮文庫を、最近また引っ張り出して読み直している。

 そうはいっても、わがニッポンのねちっこい私小説のようなものを思い浮かべてはいけません。マラマッドをよくご存じない方のために、このことは強調しておかねばなるまい。1976年に出版された、集英社「世界の文学」の33巻、「マラマッド/ベロー/ボールドウィン」の巻末に附された宮本陽吉氏の解説から、以下のくだりを引いておきましょう。なお、()内はぼくの補足である。

「(マラマッドは……)社会派と呼ばれる作家たちがやったように題材の新鮮さを誇示することも、ラッシャン・ジュウ(19世紀末から20世紀初頭に、迫害を逃れて東欧からアメリカへ逃げてきた人々)の貧しさをとりあげて不満を訴えかけることもない。社会性を含まないという点で、第一次大戦後から現在にかけてしばしば書かれてきたいわゆるアメリカのリアリズム小説とは違う。(……中略……)マラマッドの短篇には、シャガールの画面を想い出させるような美しい情景、人間の癖を心得ていてそれをユーモラスに誇張してみせるときの面白さ、話の意外な展開など、読者を楽しませる面と、もう一つ読者に何かを教えようとする面がある。(……)解釈の可能な部分と解釈をうけつけない部分とが織りあわされて、一つの宝石が見る角度によってちがった光彩を放つように、それぞれの読者が、これは何を語った話なのだろうと考えれば考えるほど深みをます話に仕上がっている。……」

 そういって宮本氏は、「こういう話法はアメリカのものというよりは東欧の香りがつよくただよっていて、イディッシュ語(ヨーロッパに住むユダヤ人が使う特殊な言語)で書かれた民話や短篇によく書きこまれている一つの場面を想い起こさせる。それは途方に暮れた村人がラビに相談に出かける場面である。ラビはきまってタルムードの一節を引用し、それについての解釈を示しながら、村人に考えさせ、解決策を自分でつかむように仕向ける。……マラマッドもそういうふうに話をつくりあげる。」と続ける。的確な紹介には違いないけれど、ただ、ぼくの感覚ではここのくだりはマラマッド文学の寓話的な面をやや強調しすぎているようで、少なくとも「魔法の樽」に収められた短編の大半は、たしかに一筋縄ではいかない謎めいたものが多いにせよ、全体の印象としては、この文章から窺える感じよりはずっとリアリズムに近い。いずれにしてもマラマッドの作品が、迫害を逃れてアメリカにきたユダヤ移民の貧しい生活という特殊性に根ざしながらも、極東の島国に生きる1980年代初頭の高校生(オレのことね)を揺さぶるくらいの普遍性を湛えていたのは事実であり、岩波文庫から出た新しい訳が今また好評を博しているのも、先にふれたとおりである。

 そういえばマラマッド、これは「魔法の樽」の所収ではないが、「ユダヤ鳥」という短編もあった。「自虐ネタ」の文学版というおもむきだが、強烈すぎてウディ・アレンのギャグのようには笑えない。ぼくは聞いたことないのだが、レニー・ブルースの喋りってのはこんな感じだったのかもしれない。或る意味でユダヤ人的な知性の持ち主である筒井康隆が70年代半ばくらいにこれを元にして「ジャップ鳥」という短編を書いたことでも有名で、だからマラマッドの名は往年のSFファンにもよく知られているはずだ。岩波文庫『20世紀アメリカ短篇選』(下)に大津栄一郎訳が収められている。

 たまたまぼくの手元には、新潮文庫版のほかにも「魔法の樽」からの翻訳が何本かある。べつに集めたわけでもないのになんでだろうな。へんな縁があるのかな。「世界の文学」33巻、「マラマッド/ベロー/ボールドウィン」の西川正身訳もそうだし、同じ集英社の「現代の世界文学」シリーズ、「アメリカ短編24」に入っている小島信夫訳もある。この「アメリカ短編24」はとても優れたアンソロジーで、いずれ機会があれば詳しく紹介したいのだが、マラマッドでは「借金」という短編が選ばれている。じつはぼくはこの「借金」が「魔法の樽」の中でいちばん好きだ。「好き」というのはただ好もしいというのでなくて、「苦いからこそ惹きつけられる」という意味なんだけども……。

 設定はきわめてシンプルで、苦労を重ねてようやく自分の店を持ち、商売がどうにか軌道に乗ったリーブというパン屋のもとに、昔なじみのカバツキーが訪ねてくる。ただそれだけの話である。舞台劇にもできそうだ。二人はもちろんユダヤ系の移民で、若き日に三等船室で一緒にアメリカにやってきた仲だ。移住後もいろいろ苦楽を共にしたのだが、借りた金を返した、返してないの縺れでついに袂を分かってしまった。貸したのはリーブのほうである。それから15年間会っていなかったらしい。

 今日カバツキーが訪れたのも、やはり借金を申し込むためだった。妻が(かつてリーブもよく世話になった)5年前に他界したのだが、その墓すら造ってやれずに心苦しい。どうかその墓石代を貸してくれというのだ。リーブは心を動かすが、その場にはリーブの妻のベッシーがいる。夫婦ふたりで切り盛りしているパン屋を営業中に訪れたのだからベッシーがいるのも当然である。彼女もまたユダヤ系移民であり、これまでに舐めてきた辛酸はふたりの男たちにけっして劣るものではない。カバツキーの苦渋に満ちた告白を聞いて、彼女も涙をみせるのだけれど、もらい泣きしながらも彼女が折れることはないのである。引用しましょう。

「 だがベッシーは、泣いてはいたが、首を横にふった。そして彼等が何のことをいっているのか見当がつかぬままに、彼女は艱難(かんなん)の物語をいきなりしゃべり出した。彼女が幼い頃、ボルシェビキーがやってきて彼女の愛する父をはだしのまま雪の積もった原っぱにひっぱっていったこと。銃声が木に止まっていたムクドリを散らかし、雪は朱(あけ)に染ったこと。彼女が結婚して一年したとき優しい立派な男で教育のある計理士だった彼女の夫が――当時としてはそのあたりではめったにないことだったが。――ワルシャワで発疹チフスで死んだこと。悲しみのうちに打ち捨てられていた彼女があとになってドイツの兄の家で安住の地を見出した。この兄は戦争前に彼女をアメリカへ送りこむためにおのれの機会を犠牲にして彼自身は妻と娘といっしょにヒットラーの焼却炉の一つで果てたといった、くさぐさのいきさつをば。」

「『こうして私はアメリカへ来て、ここで貧しいパン屋に出あったのです。貧しい男――それまでいつだって貧乏だった人――一文もない、生活の楽しみもない。そして私はどういうわけか知らないが、彼と結婚して、両手を資本に昼も夜も働き、私はこの人にまがりなりにも店を張らせてやれて、十二年後の今、どうにかこうにかささやかな暮らしをたてているのです。でもね、リーブは根が丈夫じゃないんですよ。おまけに眼だって手術をうけなきゃあならないし、それにそれだけですむというわけじゃない。こんなことあってもらっちゃ困るけど、この人に死なれてごらんなさい。私は一人でどうしたらいいんです。どこへ行けばいいんですか。どこへ。それに貯えがなかったら、誰の厄介になれるのですか」

 この台詞がどうにもたまらない。これだけを取れば、うちのママンが父親をさして同じようなことを言ってもまるで不思議でない気がする。「パン屋」のところに他の職業が入るだけである。まあこれだけの客観的な自己省察力はわが母上にはないが。……ともかく、この短編の末尾はこうだ。

「 眼から涙を流しながら、ベッシーは項をもたげ不審そうに空気をかいだ。不意に金切り声をあげると彼女は奥へ駆けこんで、あっと叫びながらオーブンの扉をこじあけた。もうもうとした煙が彼女めがけて吹きつけてきた。パン型の中のパンは真黒な煉瓦――炭化した屍体――になっていた。/カバツキーとパン屋は抱きあって、失われた青春をなげいた。彼等は互いに頬に口を押し当て、永遠に別れた。」

 たぶん半日か、あるいは一日分の稼ぎがふいになってしまったのだろうし、それは大きな痛手に違いなかろうが、これで店が潰れるわけじゃなし、リーブとカバツキーが「永遠の別れ」を決意しなければならないほどのことだろうか、と高校生のぼくは訝った。いま読んでもちょっとそう思う。だが、「炭化した屍体」という激甚な比喩が用いられているからには、やはり「ヒットラーの焼却炉」のイメージが重ね合わされているわけだろう。つまりベッシーにとってこの「事故」は、われわれ第三者が想像するよりはるかに深刻な事態だったということか……。先の引用において宮本陽吉氏が「一つの宝石が見る角度によってちがった光彩を放つように」と評したマラマッド短編の魅力の一端がお察しいただけるかと思う。



コメント


20代30代の二十年間は翻訳物しか読まなかったと自負していたのですが、マラマッドはひとつも読んでいませんでした。
時々こんなことにぶつかります、私の読書の幅の狭さと異文化であることの壁は歴然としていると痛感させられる瞬間です。
「レニーブルースの喋りはこんなだったか……」このワンフレーズに強くかれて是非読んでみます。
確かに、70年代前半までの新潮文庫の翻訳は貴重でしたが、サンリオ文庫の登場とともに急につまらなくなって行きました。勝手な空想ですがたぶん新潮社からサンリオに移ったスタッフがいたのではないか? その後あまりにも張り切り過ぎてマニアックに走り過ぎ、サンリオが終了してその後、ハヤカワか創元に移ってひっそり定年を迎えたのではと夢想しておりました(笑
高橋和巳のことですが、1930年代をテーマにしたもので、戦前の出版物をめぐる物語がなかったでしょうか? 『悲の器』だったような……?

投稿 かまどがま | 2013/11/06



 高校の頃はほとんど文庫しか買えなかったので、新潮文庫の翻訳シリーズはとてもありがたいものでした。400円でお釣りがきましたからね。マラマッドにせよオコナーにせよ、昭和40年代あたりに出たものがずっと版を重ねていたわけです。それが1980年代初頭までは町の本屋で手に入った。高橋和巳もそうですね。ぜんぶ新潮文庫で出ていた。そう考えると、やはりバブルというのはひとつの「断絶」であったと思います。生み出したものより失ったもののほうが多かったのかも知れない。
 その新潮文庫版をフォローしておられなかったとは意外ですが、そういえばいつぞや、「日本のちまちました私小説は苦手」という意味のことをおっしゃっていたような……。だから豊穣な物語性をもつ南米や中国の現代小説に惹かれていったのだと……。そういう意味では、マラマッドの作品の多くは、むろん私小説ではないにせよ、つつましい庶民の生活を描いたものが多いので、関心が向かわなかったのかも知れませんね。
 いっぽう、サンリオ文庫は「訳が粗い」という評判だったので、ぼくは一冊しか持ってないのですが(ヴォネガットのエッセイ集)、それこそ南米文学や、SFの比重が大きかったという印象です。それにしてもスタッフ(編集者)の話は面白い。前々から思っているのですが、編集者にスポットを当てた文学史が書かれるべきだなあ。
 高橋和巳のことですが、『悲の器』はもっぱら1950年代が舞台となっていたはずです。あるいは『散華』か『堕落』ではないかと思ったものの、ちょっと確かなところはわかりません。いずれにしても、高橋の作品は、戦後ニッポンと「戦中・戦前」との連続性を強烈に意識しながら構築されていましたね。それが1970年代半ばごろまでの「政治の季節」を生きた昭和ヒトケタ生まれの「知識人」の基本姿勢だったと思います。それもまた、バブルによって潰えました。


投稿 eminus | 2013/11/07




マラマッドは知識があって避けていたのでは無くて、全くスルー状態だったのです・・・
つつましい庶民の生活ものが苦手かというとそうでもなくて、幸田文が庶民かという問題は置いて、日々の生活を書いたものは好きでほとんど読んでいます。
なんというか、太宰の様な屈折三回転捻りのチマチマさを読んでいると、う~んんん、、、2歩位置をずらせば景色は違うんじゃね?と(笑
バッシングを恐れずに云えば、歌手で云えば尾崎豊が苦手です。
散々読んだにもかかわらず、ミニマリズムは今考えるとそうとう苦手な分野で、レイモンド・カーヴァーも全集まで買ったのに、一冊目に読んだ、短編集『ささやかだけど役にたつこと』の中で、子どもを亡くした夫婦とパン屋のやり取りのシーンしか残っていません。たぶんこの物語にひどく惹かれての全集までだったのですが、これ以上に印象の強いものには出会えませんでした。
ところがチマチマ屈折も政治的背景がたちあらわれるとなぜか急に興味の度合いが変わり、面白くなるのです。
というわけで、レニーブルースに反応したということです。

投稿 かまどがま | 2013/11/08



 レニー・ブルースのことはほんとに知らなくて、その昔、ダスティン・ホフマン(もちろんユダヤ系)が演った映画をテレビで観ただけなんですけどね……。字幕だったし、「笑えるか笑えないか」でいうならば、再現された漫談シーンは、腹を抱えて笑うたぐいのものではなかったですね。
 頭がよくて屈折していて、いつも苛立って、がつがつして、「ギャグ」というたったひとつの才能を武器に、世間に向かって吠えついているという感じであれば、初期のビートたけしがそうでしたね。その頃はファンでしたが、偉くなってからは嫌いになりました。タモリもデビュー当時から知っていますが、彼のほうは最初から妙に老成した安定感がありました。だから嫌いではないが大好きにもならない。
 岩波文庫『20世紀アメリカ短篇選』(下)に入っている「ユダヤ鳥」も、もちろん腹を抱えて笑えるたぐいのものではないです。ぼくとしては、むしろ「魔法の樽」のほうを推薦しますが……。
 もし未読であれば、マラマッドと併せて、フラナリー・オコナーの短編を強く推薦いたします。ショッキングな傑作「善人はなかなかいない」がネットで読めます。


 あとは……そうですねえ、幸田文さんは、そういえばきちんと読んだことないです。岡本かの子は、30代の時に「老妓抄」ほかの短編を読んで「すげええっ」と嘆賞しましたが……これは新潮文庫でまだ手に入りますね。日本も捨てたもんじゃない。
 太宰では、「新釈諸国噺」がいちばんだろう……と長らく思っていたけれど、「右大臣実朝」を読んで気が変わりました。
 カーヴァーだと、「大聖堂」でも「ささやかだけれど、役にたつこと」でもなく、「メヌード」にもっとも感銘を受けました。中公から出た全集版では⑥の「象・滝への新しい小径」に入っていると思います。
 好きになるのは、必ずしも世評の高い代表作と限ったわけではないですよね。


投稿 eminus | 2013/11/08



岡本かの子もいましたね、野上弥栄子もそうですが、個人的に漱石や芥川よりも腹が坐っていると思いますし、読むたびにはまります。
レニーブルースは晶文社、自伝で『やつらを喋りたおせ!』があり、映画も観ましたが、自伝ははるかにラディカルで、言葉についての概念が一変しました。
たけしは最初から嫌い、弱いものや下のものをいじる笑いは笑い自体に風刺があっても笑えません。
小学校の教室内でいじめが定着したのもたけし以降だと認識しています。それ以前もいじめは無くはなかったけれど、あって当然のものではなかった。制御しなければならない感情だということは子どもたちみんながきちんと分かっていました。

オコナー読んでみますね。


投稿 かまどがま | 2013/11/09



 『やつらを喋りたおせ!』は、同じ晶文社の『マルクス兄弟のおかしな世界』と並んで、ぼくの「いつか読んでみたいリスト」に入っていますが、なかなか機会がない……。歩いていける距離に図書館があればいいんですけどねえ。この晶文社という出版社も、バブル以降に精彩をなくしたもののひとつでしょうか。
 たけしのばあい、テレビで使って貰えるようになった頃(80年代初頭)はランクが最下位だったわけで、それはたけし自身が芸能人として最低のランクだったということもあるし、「お笑い」そのものが「イロモノ」と呼ばれて軽んじられていたのです。それで、周囲に居並ぶベテランタレントを口先ひとつで手玉にとって毒を吐きながら巧妙に笑いを取っていく彼の姿が魅力的に映ったんですね。タモリ、たけし、さんま以降、MCのできるお笑い芸人の地位が爆発的に向上して、日本の芸能界の地図が一変しました。
 だから彼自身が逆に「権威」になってしまえば、周りがほとんど「下のもの」になってしまう。あまつさえ、文化人きどりで面白くもおかしくもないコメントを垂れ流すようになっちゃあどうしようもない。度重なるスキャンダルを乗り越えてテレビ界の帝王となり、映画が評価されるようになってからのたけしは、かつての彼がさんざ嘲笑のネタにしたような対象そのものに成り下がってますね。
 しかしまああれですよ、ぼくがいつも考えるのは、「あまりの過激さゆえに売れない=アングラに留まる」芸人と「ほどよく大衆に媚びて売れる=メジャーになる」芸人との対比ですよ。今回の話でいうならば、レニー・ブルースVS十歳年下のウッディ・アレンですね(ウッディ・アレンも若い頃にはスタンダップ・コメディアンとして舞台に立っていたし、レニー・ブルースも戯曲を書いてましたよね)。いつでもこれを考える。そして、あえて二人のうちどちらかを選べと言われたら、どうしても自分はアレンを選んでしまうなあと思う。どちらにしても、日本には彼らに比肩しうるほどの喜劇人はいないし、これからも出てきそうにありませんが……。ニール・サイモンの劣化版としての三谷幸喜はいますけど。
 フラナリー・オコナーは、南部出身の女性作家で、三島由紀夫、吉本隆明、丸谷才一とほぼ同年です。難病のために39歳で他界しました。マニア受けするカルト作家というのではなくて、20世紀のほんとうに重要な作家の一人だと思いますが、癖が強いので好き嫌いが分かれるのも事実です。「善人はなかなかいない」は中でもとりわけショッキングなものとして知られる短編ですが、これはけっしてたんなる犯罪ものでもブラックユーモアでもなく、カトリックの信仰に基づき、人と人との関わりについて切実に突き詰めたとても深い作品だと思います。


投稿 eminus | 2013/11/10


ご紹介頂いた翻訳サイトは4年くらい前に(たぶん同じだと思いますが)観た時よりはるかに充実していて、わくわくしています。
ただ、図書館に依頼していた延長できない相互貸借の他館からの取り寄せ本が年末を前にして怒涛の様に押し寄せて、これらを捌いたらゆっくり読みたいと思います。
たけしはやはり「いろもの」という扱いが正しい評価ではないでしょうか。まぁフジテレビを体現しているタレントの一人ではあります。
レニー・ブルースとウッディ・アレンの対比ですか?ダスティン・ホフマンかウッディ・アレンの映画だったら2度以上観たいのはウッディ・アレンですが
(英語を楽しめるという条件のもと)、絶対にレニー・ブルースの方が刺激的です。
自伝も喋るスタイルで書かれているのですが、ラディカルで面白いですよ、是非読んでみてください。

投稿 かまどがま | 2013/11/10



 むろんレニー・ブルースの方が刺激的には違いないけれど、コメディアンのありかたとして、どちらが正当かなあ、ということですね。
 小説に置き換えると、やはり村上春樹のことが浮かびます。あの人も、自らのレニー・ブルース的な資質を封じて、ウッディー・アレン路線でいこうと決めているように思える……。あくまでも比喩ですが。
 テレビに出てくる日本の芸人は、みな自分が「権威」になろうと汲々としているか、「権威」にすり寄ろうとする者ばかりで、「反体制」なんて夢にも思ったことのない連中ばかりですけども、それは今のテレビというものがもう体制べったりのメディアなんだから、仕方ないといえば仕方ない。しかし出だしの頃のたけしには、かすかながらも「体制」に噛みつく感じがありました。
 辛辣な毒を笑いにまぶして撒き散らし、体制をたくみにからかいながら、しぶとく生き残って売れ続ける。そんなスタイルが理想だなあと思うわけです。爆笑問題の太田光がそれに当たるか……と見ていた時期もありましたが、期待していたほどではなかったですね。


投稿 eminus | 2013/11/10


ネオ・リベラリズム

2015-10-07 | 政治/社会/経済/軍事
 まえの「ダウンワード・パラダイス」ってのは、とにかく色んな話柄が雑多に詰まったブログだったんで、引っ越し後のこちらではブンガクに特化というか純化するつもりでいたし、現にそのセンでやってるんだけど、もとより文学ってのは文化の一部でありまして、その文化なるものは、どうしたって経済や政治に大きく左右されるわけですな。従属するとは思わない。そうはけっして思わないけれど、政治やら経済と、文化とを比べて、さあどっちが強いかっつったら、それゃあもう答ははっきりしてる。悔しいけれどしょうがない。本を齧っても腹はふくれないもんね。むしろお腹こわすわな。
 それでまあ、文学ブログとしてのダウンワード・パラダイスは、必要最小限、万やむを得ざる範囲内でのみ政治とか経済を扱う。といま決めましたが、そこで現在、このニッポンが採用してるというか、いや違うな、「もろもろの必然としてそうなっちゃってる」状況とは、新自由主義=ネオリベラリズムというやつです。だから「火花」なんてのも、ネオリベの文学なんですよね。一見するとネオリベの真逆をいってるようだけど、そこも含めて結局はネオリベの市場で消費される文学なわけだ。
 敗戦から70年、サンフランシスコ平和条約から63年経ってもなお、わが国がアメリカなしでは立ち行かないことは、先日の安保法制を見ても明白なんだけど、今も昔もアメリカってのは世界でいちばん面白い国だと思います。911およびイラク戦争以降、「軍事国家」としての本質が前面に出てきて相当コワモテになってるけども、そこも含めて面白い。怖わオモロい。20世紀、さらには21世紀の狂気も叡智もテクノロジーも、結局はぜんぶアメリカから出てるわけでしょう。日本がその対抗原理となることはありえない。EUもロシアもだめ。対抗原理になりうるとしたら、せいぜい中国かイスラームだけですよね。そうなっちゃあ大変だぞ、ってことで、安保法制になっちゃったわけですが。

 というわけで、アメリカについて書いた記事を「旧ダウンワード・パラダイス」から転載します。1960年代から70年代前半にかけてのカウンターカルチャー、ヒッピー・ムーブメントが、70年代後半のミーイズム(個人主義)を経て、露骨きわまる格差社会を生み出すラットレース的競争主義、市場原理バンザイ主義へと変遷していくプロセスを簡単に、ごく簡単にまとめたものです。「ホール・アース・カタログ」に代表されるカウンターカルチャー、ヒッピー・ムーブメントの精神はひょっとしたらこの21世紀における唯一の(!)希望かもしれないなんてことを私は妄想してるんで、これについてはいずれまた、ゆっくりと考えてみたいとは思ってるんですけどね。それではまず、「リベラリズム」についての軽い考察から始めて、本編へ。


 ネオ・リベラリズム
 初出 2009年12月06日


 フランス革命(1789 寛政1年)の有名なモットー「自由・平等・友愛」のうち、「平等」の理念を至上とするのがコミュニズム(共産主義)だとすれば、「自由」を至上とするのがリバタリアニズム。ざっくりと要約すればそうなる。リベラリズム(自由主義)を極限まで推し進めたものとして、絶対自由主義、と訳されたりもする。

 リバタリアニズムはほんとうに極限の概念なので、これを徹底すると「国家」そのものまで消えてしまう。真逆であるはずのコミュニズムと同じことになる。両極端はぐるっと回って合致するのだ。それではいくらなんでもということで、これを本気で追求している国家なんてない(自らの消滅を追求する共同体なんてあるわけがない)。ただ、「小さな政府」や「規制改革」「民営化」を叫ぶのは方向としてはリバタリアニズムである。しかしそれならば税金は下げねばならぬのに、税だけは取って保障はどんどん切り下げる。このような立場を新自由主義、横文字でネオ・リベラリズムという。庶民にはいちばん迷惑な話だ。

 ネオ・リベラリズムはむろんリベラリズムを母体としている。これは私たちにも馴染み深いものだが、ヨーロッパとアメリカとでかなり意味が変わるので、時に混乱を生じる場合がある。整理しておくに越したことはない。

 世界史が急激にスピードを速めた、すなわち「近代」が始まったのがイギリスの産業革命とフランス革命からだというのは定説といっていいかと思うが、じつは、逆説的ながら「保守」という概念もまたこの時に明確になった。つまり「保守主義」は、そもそも「反動」として成立した。

 大革命が起こるや否や、海峡を隔てたイギリスの思想家エドモンド・バーク(1729 享保14年 ~1797 寛政9年)が、痛烈にそれを批判したのだ。この批判に端を発するヨーロッパ型保守主義は、「進歩」を疑い、理性による社会設計を否定し、伝統の破壊を憤り、経済の目まぐるしい革新を好まない。その代わり、緩やかな階級的秩序を重んじ、オーソドックスな権威を尊び、家族・共同体・国家の役割を個人の上位に置く。だからヨーロッパで「リベラリズム」と言えば、それはこの保守主義と正反対の、個人を重んじる自由主義を意味する。

 いっぽう、移民によって創られ、いきなり近代から始まったアメリカという国の保守主義は、これとはずいぶん違っている。自主独立の気風が強いから、「平等」の概念を重視せず、初めから「自由」をすべての価値の最上位に置く。自らの力で人生を切り開く、独立した個人を中心に据え、制約のない市場の中での、能力を生かした競争原理を旨とする。とうぜん進歩やテクノロジーを信奉するし、絶えざる革新や創造的破壊を推進することにもなるだろう。片や政府はなるべく小さくして、所得の再分配や福祉政策は必要最小限にとどめる。働かざる者食うべからず。つまり平等が嫌いなのである。だからアメリカで「リベラリズム」といえば、アメリカ的な自由主義/競争原理に反対するもの、すなわち左寄り、ヨーロッパでいう社会民主主義に近いものとなる。

 だからヨーロッパ型の保守を「保守」と呼ぶのはすんなり納得できるが、アメリカ型のそれは、そもそも「保守」とは言い難いものに思える。政治的にはおそらく、「共和主義」と呼ぶのがふさわしいのではないか。南北戦争の際、奴隷制廃止を主張したのは共和党のほうだった。それは「人種の平等」を重んじたという以上に、奴隷制度が経済発展を阻害していると分かっていたからだ。そして、経済的な面からいうならば、まさにこれこそ「新自由主義」だろう。つまりアメリカという国は、たとえ民主党が政権の座に就こうと、その本質において「新自由主義」な国家なのだし、さらに言うなら、「軍事国家」でしかありえないのである。

 そこで新自由主義/ネオ・リベラリズムだが、これは格差拡大の元凶として、小泉=竹中政治を批判するうえで繰り返し俎上に乗せられたから、たいていの方はご承知であろう。何よりも市場原理を重んじ、政府はなるべく小さくして、国家や公共によるサービスを縮小し、大幅な規制緩和によって、民間業者どうしの競争を激しくしようとする考え方だ。このたび仏大統領の座に就いたサルコジ氏も、この路線を目指すと言って選挙に勝った。ドイツのメルケル首相も同じ考えらしいから、先進諸国のアメリカ化は、欧州においても顕著であると見ていいだろう。

 いっぽうでアメリカは、とても人権意識の高い、世界に冠たる「リベラル」な国だともいわれる。先にも書いたが、思想のひとつの形態として見れば、個人の「自由」に最大の価値を置く点で、「ネオ・リベラル」と「リベラル」とは同根だ。しかし経済面における「新自由主義」的傾向と、政治・社会面における「リベラリズム」的傾向とは、相容れない面のほうが多い。先述のとおり、経済面での「新自由主義」がいかにもアメリカ的な理念であるのに対し、政治・社会面における「リベラリズム」は西欧型の理念なのである。

 だからアメリカにおいても、新自由主義は社会的強者、ないし強者たりうる自信に満ちた層に支持され、リベラリズムは社会的弱者やマイノリティー、または弱者というほどではないにせよ、激しい競争を好まない層(概して文化的なインテリが多い)に支持される。現代アメリカ史において、少なくとも70年代までは、双方のバランスが割合うまく取れていた。これが崩れてはっきり強者寄りへと傾いたのが、80年代の特徴かと思う。

 小泉=竹中内閣の構造改革の原点は、1980年代の中曽根行革にある(国鉄をJR各社へ、電電公社をNTTへと、それぞれ民営化)。それはイギリスにおけるサッチャリズム、アメリカにおけるレーガノミクスと共に、先進主要国のネオ・リベラリズム的潮流の中での政策だった。中でいちばん徹底していたのはサッチャー女史だが、ここではアメリカに話を絞る。1981(昭和56)年に米大統領に就任したロナルド・レーガンは、社会福祉費の大幅な削減と、大規模な企業減税とを打ち出した。この二本柱に軍事費の拡大がきっちりセットになっているところが、アメリカのアメリカたる所以なのだが。

 この時のレーガンの政策は、国内における保守派の本格的な巻き返しとして、「保守革命」と呼ばれたりもする。保守革命とはあたかも「黒い白鳥」と言うがごときだが、保守というのがもともと反動であったという先ほどの話を思い起こして頂きたい。裏返して言えば、それまでのアメリカは、色々と曲折はあれ、「大きな政府」のもとで、「リベラル」な空気を謳歌していたということだ。そのあいだ、保守派のグループは苦々しい気分を抱き続けていたわけである。

 その端緒はじつは戦前にまで遡る。1929(昭和4)年、ウォール街での株価暴落に始まる恐慌は、アメリカ全土をかつてない危機に陥れたが、フーヴァーに代わって1933年に大統領に選ばれたF・ローズヴェルト(民主党)は、周知のとおり、ニューディール政策によってこれに対処した。税金を投じて銀行や農家を救済し、政府企業によるテネシー渓谷の総合開発に取り組み、さらに労働者の団結権・団体交渉権をも認めたこの政策は、当時のアメリカという国の政治体制の中で、最大限にケインズ的な実験を試みたものといえるだろう。つまりこれこそ、アメリカ的な意味での「リベラリズム」の実践であった。

 ニューディール政策についての評価は、じつはまだ定まっていない。ひとつには、途中から第二次大戦が始まったために、政治・経済・軍事面において、戦争の影響があまりに大きく、政策そのものの効果が測りにくいこともある。しかし明瞭に言えるのは、アメリカの各州ならびに利害の錯綜する諸集団(ビジネス・農民・労働者・消費者など)を調整するための機関として、連邦政府の力がそれまでになく拡大したことだ。すなわちここに、「大きな政府」が確立した。貧困層は依然として貧しいままだったが、それでも労働組合が増員したり、アフリカ系アメリカ人の人種差別禁止命令が出されたりと、社会的弱者の権利も少しずつ認められるようになった。ただしその一方、「軍産複合体」といわれる国家中枢と大企業との癒着が、この時期に始まったのも事実なのだが。

 アメリカという国が終始一貫して軍事国家であり、国家としてのロジックの根幹に軍事を置いていることは少し注意深く見れば明らかだが、それでもなおあの国がかくも魅力的なのは、ファッションや映画やロックをはじめ、世界に向けてポップでヒップなカルチャーとライフスタイルとを発信し続けてきたからである。その源泉となってきたのが、多様な民族から成る民衆たちの逞しい活力であり、それこそが戦後アメリカの「リベラル」な空気そのものだった。軍事一色でガチガチになり、国民を一つの色に染め上げてしまえば共産主義国と変わらない。そんなアメリカを誰が好きになれるだろうか。

 ニューディールのあと、戦時下ではとうぜん共和党が盛り返してリベラル派はいったん後退したし、ローズヴェルト急死の後を受けたトルーマン大統領は「トルーマン・ドクトリン」によって冷戦構造を戦後世界のパラダイムの基調に据えた。国内でもマッカーシー旋風が吹き荒れ、共産主義者はもちろん、穏健なリベラル左派まで攻撃された。50年代には朝鮮戦争も勃発した。戦後のアメリカにおいて、軍事費が切り下げられたり、大企業の権益が抑えられたりしたことは一度だってない。それでもリベラリズムの水流は途絶えることなく、少しずつ勢いを増して広がっていく。むしろ戦争や経済成長に促されるようにして、マイノリティー、ことにアフリカ系アメリカ人の権利意識は高まった。1960(昭和35)年にJ・F・ケネディーが大統領の座に就いてのち、その水流は公民権運動となって全米を揺るがす。

 ケネディーが暗殺されてから、アメリカはヴェトナムの泥沼に足を取られていくが、そのさなか国内においては学生運動とニューレフトの活動、そしてカウンター・カルチャーが盛んになった。浦沢直樹『20世紀少年』の発想の原点というべきウッドストックの音楽祭は、まさにヴェトナム戦争真っ只中の1969(昭和44)年に行われたのだ。テントすらない野原の上に、3日間で40万人が集まり、さながら束の間のコミューンが生まれたごとき光景だったという。その動きはとうぜん反戦運動へも連なる。おそらく世界史上、あれほど大規模な反戦運動を抱えこんだ戦争はない。国外で戦争を推し進めつつ、国内ではリベラリズムが沸点に近いところまで高揚する。ここにヴェトナム戦争とイラク戦争との違い、60年代とゼロ年代との圧倒的な違いが横たわる。

 こうやって資料を頼りに近過去のおさらいをするといつも思うが、やはり1968(昭和43)年から69年にかけての2年間が、戦後史の一つの頂点だったのかも知れない。1970年代に入ると、街頭での政治行動は沈静化し、だんだんと内向していく。ウォーターゲート事件によるニクソンの辞任が1974年、ヴェトナム戦争の終結が1975年。60年代がもたらしたヒッピー・ムーブメントは、形を変えて社会の中に根付いたものの、それが連帯と変革を求めてのうねりへと高まっていくことはもうなかった。1970年代の後半は、「ミーイズム」の時代と称される。元号でいえば、興味深いことにちょうど昭和50年代と重なるわけだが。

 ミーイズムとは直訳すれば「自分主義」ないし「わたし主義」か。社会への働きかけを嫌い、変革をあきらめ、他人との紐帯を求めることなく、ひたすらに自らの内なる楽しみの中へと沈潜していく志向をいう。思えばこれは、まさにわれらが21世紀、平成の御世の若者たちの姿ではないか。私がアメリカにこだわるのは、その影響力があまりに大きく、アメリカの動向を抜きにして日本のことが考えられないせいもあるけれど、もうひとつ(それとも関連しているが)、戦後日本のトレンドが、10年単位でアメリカのそれを踏襲しているという理由もあるのだ。

 ともあれ1981(昭和56)年、カーターという影の薄い大統領が退陣したあと、R・レーガンが大統領になる背景はすでに整っていたといっていい。同じ「リベラリズム」の枠の中ではあれ、ミーイズムは紛うかたなき保守化である。社会全体の変革ではなく、自分(とせいぜいその家族)だけの幸福や快楽を求めるのなら、なにも苦労ばかり多くて実り少ない社会運動なんかせず、有能なビジネスマンとなって金儲けに勤しむのがいいに決まっている。日本がバブルに沸き立つ頃、アメリカでは「ヤッピー」という言葉が生まれていた。YOUNG URBAN PROFESSIONALSの略で、「都会やその近郊に住み、知的専門職をもつ若者たち。教育程度も高く、収入も多く、豊かな趣味を持っている」階層のことだ。むろん財テクにも長けている。

 1989(昭和64=平成1)年、レーガンの「保守革命」を継いだブッシュSrは、湾岸戦争を遂行したものの、一期4年しか続かなかった。次いで保守派にとっての雌伏期ともいうべきクリントン政権の8年間に(べつにクリントンが平和主義者だったわけでもないが)、アメリカの保守思想はより強靭で広範なものへと変質を遂げた。その新しい保守勢力は、文字どおり「ネオ・コンサーバティブ」と呼ばれる。日本ではネオコンという略称のほうが通りがいいか。この集団に支えられて成立したのが2001(平成13)年からのブッシュJr政権であり、ここにアメリカは(ひょっとしたら世界は)本格的な「第二次・保守革命」の時代を迎える。新自由主義=ネオ・リベラリズムが、改めて21世紀のハイパーリアルなイデオロギーとなっていくわけである。

 変な話だが、アメリカにおけるネオコンの台頭と、わが国における小泉=竹中政権の誕生とがあまりに符合しすぎていて、ちょっと陰謀論に色目を使いたくなる。陰謀論とジャーナリズムとのあいだの絶妙なポジションに身を置く広瀬隆氏の著作は、やはり一度は目を通しておくべきかと思うし、ことに『アメリカの経済支配者たち』『アメリカの巨大軍需産業』『アメリカの保守本流』(すべて集英社新書)の三部作には、私も教えられるところが多かった。ただ、陰謀史観というやつは、それがユダヤ資本だろうとフリーメーソンだろうとビルダーバーグだろうと、「ごく一握りの権力者たちがシナリオを書き、それに合わせて世界がうごく。」といった図式に収まってしまう。つまり、勤労者=消費者としての「大衆」というファクターが捨象されてしまう。

 しかしこうして見ていくと、けして上からの操作ばかりでなく、大衆の意識レベルの変遷が、ネオ・リベラリズムを招き寄せた経緯がよくわかる。そして世を席巻した新自由主義は、グローバリズムの凄まじい奔流と相俟って、ひとつの巨大なシステムと化し、世界全域を飲み込んでいく。


80年代について。

2015-10-07 | 政治/社会/経済/軍事
前回の記事と関連して、「旧ダウンワード・パラダイス」からの転載ですが、これは本格的な80年代論ではなく、暫定的メモみたいなもの。近過去というのは学校の授業でもやらないし、適当な文献もありそうでないから(皆無じゃないけど)、ブログで扱うには格好のネタで、若い人には面白いんじゃないかと思ったんだけど、どうもあんまり読まれなかったみたい。平成生まれはバブルの昔話なんぞに興味はないか。ただ、ぼくとほぼ同年代かと思われる方から的確なコメントをいただいて、このころはまだあまりコメントが入らなかったので、うれしかったのを覚えている。では。


80年代について。
初出 2010年05月13日



 まずはこの文章から。

 「バブルは1985(昭和60)年9月のプラザ合意をきっかけに生まれ、90年の大蔵省による不動産融資の総量規制ではじけたといわれる。プラザ合意とは、この年9月22日にニューヨークのプラザホテルで開かれたG5(五カ国蔵相会議)での合意で、この合意以降、各国がドル高の是正に向かって政策協調したため、それまで1ドル=240円だった円が一時は1ドル=120円に至るまで急速に円高になった。貿易で食っているわが国は深刻な時代に直面し、政府=大蔵省は国内産業を保護・強化し、円高不況から脱するために低金利政策に転換した。/こうして、86年1月から立て続けに六回にわたって公定歩合が引き下げられた。その結果、そこいらの中小企業や不動産屋でも巨額の融資を受けられるようになり、金利の安いカネが日本国中に大量に流れ始めたわけである。/この急増したマネーサプライがバブルを誘発したのだ。景気が好況に転化するとともに、86年頃から土地と株式の急速な資産額増加が始まる。そうして、投機が投機を呼び、信用が風船のように膨れ上がっていく過程が展開していったのである。」(宮崎学『突破者』 96年刊 幻冬舎アウトロー文庫 より)

 この経緯を、アメリカにスポットライトを当てて露骨に言ったらこうなる。

 「1970年代の半ば、オイルショックを乗り切った日本経済は、再び順調な成長軌道に乗ったが、そこに襲ってきたのが、アメリカからの内需主導型の経済構造への転換要求だった。1977、1978年のサミットで、アメリカは「日独機関車」論を展開し、日本とドイツは対米輸出を抑制して、内需主導型で世界経済を引っ張っていけと指示した。当時の福田赳夫内閣はこれを受けて、公共事業費を驚異的に増やした。そのために国債依存度が急に高まり、この状況は、四世紀半を経たいまもなお続いている。/そして、1985年のプラザ合意では、日本はアメリカの財政赤字を助けるために円の急激な切り上げ要求を飲んだ。その結果バブルが発生し、日本経済は一時の宴を謳歌したが、この時期に始まった日米経済協議では、日本はアメリカからさらなる内需拡大の要求を突きつけられた。1991年、バブルが完全に崩壊すると、内需拡大要求はさらに厳しくなり、日本は630兆円もの「公共投資基本計画」をつくり、以後、公債発行額はさらに飛躍的に増えたのだ。」(ベンジャミン・フルフォード『さらば小泉 グッバイ・ゾンビーズ』  06年刊 光文社ペーパーバックス より)

 ……経済の面でいうならば、確かにそうだったのかもしれない。貿易摩擦と言いながら、結局は今と同様、アメリカに振り回されていただけかもしれない。しかし十代後半と二十代前半の10年間、俗に「青春」と呼ばれる時期を、ほとんどすっぽり80年代に重ねて過ごした自分としては、それだけで済ませたくない気持はある。少なくとも文化の面では、80年代は後世に少しは何かを残したのではないか。そう思いたいのだ。

 80年代バブルの始まりを告げた《事件》は、ぼくにとってははっきりしている。1986(昭和61)年10月、民営化されたNTTが、自社株を1株119万7400円で売り出したことだ。これは抽選に当たらなければ買えなかったが、大方の予想どおりたちまち値上がりし、二ヶ月後には318万円という値をつけ、少なからぬ人々が懐を潤した。ぼくは証券会社が街頭に出した抽選テーブルの前を通りかかった覚えもあるし、大量に買って何十億という儲けを得た人が、「フォーカス」だか「フライデー」だかに載っているのを喫茶店で見た記憶もある(この写真週刊誌というメディアも、80年代のシンボルのひとつ)。五年ほど前、ライブドアやらジェイコムの件でデイトレーダーブームみたいなものが巻き起こったけれど、当時、あれよりももっと大規模な昂揚が列島を包んだものだった。ぼくの感覚では、バブルというものが庶民レベルに浸透して、何となくみんながざわざわ浮つき出したのはあの時からであったと思う。

 むろん予兆はその前からあった。明確には名指しできないんだけど、70年代からの連続性において、80年初頭にのみ成立しえた「何か」があったはずなのだ。マンガというスタイルで書かれた80年代論ともいうべき岡崎京子さんの『東京ガールズブラボー』(1993年刊)のラストに、次のような文章がある。「そんであたしは高校卒業するまでに6回家出して6回とも連れ戻された/その間にYMOは散開しディズニーランドは千葉にできて/ローリーアンダーソンがやってきて/松田聖子がケッコンした/ビックリハウスが休刊して「アキラ」が始まった///何となく「どんどん終わってくな」という感じがした///浪人して美大に入って東京で一人ぐらし始めた年に/チェルノブイリとスペースシャトルの事故が起こった」

 このマンガの主人公「金田サカエ」の年齢は、ほぼ岡崎さんご自身と重なっている。YMOの散開と、東京ディズニーランドの開園は83年、「チェルノブイリとスペースシャトルの事故」は86年。まさにこれから狂乱の時代が始まろうって時に、「どんどん終わってくな、という感じがした」なんて、「岡崎さん、やはり天才だなあ」とぼくなどは思うが、たしかに、「14番目の月」じゃないけれど、宴はたけなわとなる寸前がいちばん楽しい、ということはあるのかも知れない。バブルの到来とともに何かが終わったという感覚は、岡崎さんより少しばかり年下のぼくにもぼんやりと分かる気はするが、それを今、うまく言語化することはできない。

 ぼくにとって83年という年が忘れられないのは、YMOでもディズニーランドでもなく、サントリー=電通によるサントリー・ローヤルの伝説のCM『ランボー、あんな男、ちょっといない。』が初めてテレビで流れたからである。http://www.youtube.com/watch?v=cfve3SzJOS4 (演出は鈴木理雄。82年が初オンエアとの記述もあるが、ぼくは83年と記憶している)。あれからほぼ30年、CG加工が当たり前となった現在でさえ、これ以上のインパクトをCMから受けた覚えがない。金曜ロードショーかなにかの折にあれを見たとき、「えらい時代が来たもんだ」と思った。商品そのものではなしに、その商品にまつわるイメージを拡張し、増幅して市場に流通させる。そのなかで表現の技術は飛躍的に磨かれていく。いま改めて見直してみると(そんな真似ができるのは、パソコンの普及とインターネットのおかげなんだけど)、この映像は、それこそバブルの狂乱と、それが通り過ぎたあとの索漠さ、までをも予感しているように見える。

 じつは今回のこの記事、1996年4月の「STUDIO VOICE」、特集「Babylоn 80s」を傍らに置いて書いている。和訳すると「80年代 虚飾の都」みたいなタイトルになるこの号は、音楽、ファッション、文学、哲学、映画、アート、演劇・パフォーマンス、写真、漫画、メディア・スペースの十項目に分類された、かんたんな用語事典になっていて、当時を偲ぶのにちょうどいい。96年刊行ってことは、その頃はまだ80年代の余殃が色濃く残っていたわけだが、それから14年を経て、今や当のスタジオボイス自体が休刊になった。時代の流れというほかないが、それはともかく、巻頭、野々村文宏による序文の中に、このような文章がある。

 「……結局のところ、経済や流通の問題をネグっておいて、現実にありえない仮想の階層を用意して……それが解釈の勝利だ、なんて言ってるうちは甘くて、やがて足元をすくわれることになる。そりゃそうだ。自分が足場だと思っているものが、実は無いんだから。」

 もちろん、足場などあるはずもない。セゾンや電通を始めとする巨大資本に都市ぐるみ囲い込まれて、遊園地という名の豊かな植民地の中で、楽しく踊っていただけなんだから……。だけど、本当にそれだけだったんだろうか?

 ブログを始めた4年前から、折りにふれてこのことを考え続けてるんだけど、いまだに明瞭な答えが出ない。模索中。でも、せっかく押し入れの底から引っ張り出したので、「Babylоn 80s」の中から、80年代をシンボリックに表す「記号」を抜き出してみよう。今も残っているものもあるし、消えてしまったものもある。ぼくなんかの世代にとっては、気恥ずかしくも懐かしい。平成生まれの皆さんにとってはどうなんだろう。

 YMO。AOR。ビートたけしのオールナイトニッポン。RCサクセション。デフ・ジャム。戸川純。ブルーハーツ。おニャン子クラブ。アインシュトゥルツェンデ・ノイバウテン。ナゴム・レコード。オルタナティヴ。BOOWY。川久保玲。カラス族。東京コレクション。PARCO。山本耀司。竹下通り。FACE。ファッション通信。DCブランド。ハウスマヌカン。ポール・スミス。メンズファッション。村上春樹。キッチン。なんとなく、クリスタル。山田詠美。埴谷雄高×吉本隆明論争。サラダ記念日。「雨の木」を聴く女たち。片岡義男。さようなら、ギャングたち。ノーライフキング。虚航船団。構造と力。チベットのモーツァルト。「情報資本主義社会批判」。GS(グループサウンズではない。「楽しい知識」という矢鱈と部厚いニューアカ雑誌)。記号論。ポスト構造主義。ジェンダーとセクシュアリティー。ものぐさ精神分析。廣松渉。日本近代文学の起源。ディーバ。蓮實重彦。ミニシアター。ディレクターズ・カンパニー。ストレンジャー・ザン・パラダイス。ゴダールのマリア。小津ブーム。スパイク・リー。ブレードランナー。デビッド・リンチ。薬師丸ひろ子。原田知世。ベルリン・天使の詩。リュミエール。

 松任谷由実。稲垣潤一。糸井重里。ヘタウマ。超少女。ローリー・アンダーソン。日比野克彦。大竹伸朗。ヨーゼフ・ボイス。ナムジュン・パイク。アンゼルム・キーファー。キース・ヘリング。ニュー・ペインティング。ポストモダン建築。子宮回帰。夢の遊民社。如月小春。ラジカル・ガジベリンバ・システム。東京グランギニョル。蜷川幸雄。勅使河原三郎。青い鳥。第三舞台。ブリキの自発団。自転車キンクリート。PHOTO JAPON。篠山紀信「激写」。ハーブ・リッツとブルース・ウェーバー。メイプルソープ。ダイアン・アーバス。荒木経維。リブロポート。シンディー・シャーマン。ロンドン・カルチャー。わたせせいぞう。鈴木英人。ねじめ正一。伊藤比呂美。AKIRA。ナウシカ。うる星やつら「ビューティフル・ドリーマー」。ホイチョイ・プロダクション。北斗の拳。オネアミスの翼。パトレイパー。江口寿史。わたしは真吾。バタアシ金魚。BE FREE。BANANA FISH。岡崎京子。みうらじゅん。蛭子能収。ピテカントロプス。宝島。MZA有明。インクスティック。青山ブックセンター。WAVE。そしてもちろん、MTVにマイケル・ジャクソン。そういえば、マドンナやアンディー・ウォーホルがテレビCMに当たり前みたいに出てきて、吃驚させられたもんだった。



コメント①

興味深く記事を読みました。

野々村文宏の言葉がひっかかっているとか…。あなたも私と同じような「時代の暗示」を感じている。と勝手に共感してしまいました。

結局のところ、電通やセゾンらの巨大資本は、国際金融資本につながっていて、それらに迎合する勢力と、民族的な勢力とのせめぎあいが80年代にも、そして2010年にも存在する。というのが、ウェブによって明らかになったことでしょう。

別記事で、浅田さんのことを述べられていますが、彼は1975年以降批評の場はない。と、言明されています。そういう諦観の中で、浅田さんも坂本さんも現代を生き抜かれている。そんな感じがしています。

スコラについては記事を上げていますので、ご覧いただければ幸いです。

投稿 スポンタ中村 | 2010/05/13



 コメントありがとうございます。
 Web論がご専門のようなので、釈迦に説法と申しましょうか、まことにお恥ずかしいのですが、本文中で引用した野々村文宏氏の巻頭言の続きに、このような一節があります。
「若い読者たちに僕が何か言えるとしたら、自分の身の回りを撮った写真であれ、渋谷系であれ、日本語のラップであれ、テクノのクラブであれ、インターネットであれ、いっさいの足元それじたいを疑ってかかれ! としか言いようがない。そんなの、別に新しくないぞ。むしろ見事なまでに80年代前半と同じだぞ。……」
 「渋谷系」などが出てくる辺りが、いかにも90年代中盤ですが、この中で、「インターネット」だけは明らかに新しいものだし、これに相当するものは、80年代には皆無だったと思うのです。これらをすべて並列して、一緒くたにするのは、野々村さん、ちょっとまずいのではないか……(なにぶん14年前のことだから、その後、考えがお変わりになったかもしれませんが)。
 インターネットは、われわれが「囲い込まれた遊園地(という名の、じつは植民地)」から抜け出す手段になりうるのではないか、という夢想を僅かながらぼくは抱いているのですが、これはあまりにシンプルかつ楽観的すぎるでしょうか。
 「スコラ 音楽の学校」についての5月10日の記事も拝見しました。ジャズに関する講義では、12年前に山下洋輔さんがNHK教育「趣味悠々」でおやりになった「ジャズの掟」が忘れられません。今回はあれよりずっと「啓蒙的」になっておりますが、たとえば池上彰さんのような方が引っ張り凧となる世情を見るに、これもまた、時代の流れなのかもしれませんね。

投稿 eminus(当ブログ管理人) | 2010/05/14


コメント②


ニッポン・クロニクルの「80年代について」の記述の中で、『80年代を表す「記号」』を眺めていて
あ、と思ったのは、
70年代にとんがっていた人たちが80年代にメジャーになるとともに面白くなくなっている……と云うことでした。
有名になり、仕事と収入が増えて、成熟したのではなく、薄まって面白くなくなってきている。

社会が豊かになりひとつの仕事の値段が上がった時に、仕事を増やし、出番を増やしお金持ちになるのは
普通の人の心情ですが、
一人の人のクリエイティビティは実は無限に湧いて出てくるわけではなくて
探索し掘削するしんどい作業を潜り抜けないといけないわけで、
どんなに天才でも出がらしになる時はすぐ目の前にあるのです。

名前が売れれば、仕事は来るし、買う人も増えるけれど、それは名前に対する代価であって
仕事の内容に対しての代価ではないということを本人はつい忘れてしまう。
100万円の仕事が来たら、次にその仕事以上のものを目指して、100万円で暮らせるだけ頑張って次を目指して精進しないと
成熟の域には達せないのではないでしょうか。

本当の経済の豊かさは、目指すものを探求している人が、
喰うための稼ぎにあくせくしないで仕事に集中できる社会的な余裕があること、
作る側はどんなに高価で買い上げられても、納得できるもの以外は安易に外にださないことで
やっと成熟の域に到達できるのかもしれません。と、自戒を込めて……

投稿 かまどがま | 2012/11/19


 岡崎京子というマンガ家は、「天才」であったと思います。このばあいの天才とは、「桁外れに鋭い感性のアンテナを備えた表現者」といったていどの意味ですけど。この記事でも書いたとおり、まさにこれからバブルが膨らもうという1983(昭和58)年において、「『どんどん終わってくな』という感じがした。」と、岡崎さんは90年代前半に証言しているわけです。
 この一節は、『東京ガールズブラボー』という作品の末尾に置かれています。ぼくは岡崎さんよりちょっとだけ年下なのですが、一読してすぐ、このカンジは何となく分かるなあと思った。しかし、うまく自分の言葉にはできなかったのですが、今回かまどがまさんが指摘されたような内容も、その中には含まれているのかも知れません。
 たとえば荒井由実が松任谷由実になって、リゾート地に似合う軽やかで明るいポップソングを量産するようになった。ぼくはその頃の楽曲もけして嫌いではないのですが、そこにはもう、「ひこうき雲」のような深い内面性はなくなってしまいました。70年代と80年代との「差異」を象徴する事例のひとつでしょう。
 つまり、「芸術作品」から「作り手の内面」が脱色され、「商品」へと変質させられていったわけですね。80年代とはそういう時代であったと。
 村上春樹は1979年デビューだから、実質的には80年代の人ですが、それでも『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』までは「純文学」であったと思うんですよ。それが3作目の長編『羊をめぐる冒険』から、マーケティングを重視するようになっていく。
 これはクリエーターの側の話ですけど、では、彼ら/彼女らのつくる「商品」を享受(消費)していた一般ピープルたちはどうだったか? むしろ問題はこちらかもしれない。金回りがよくなり、生活に余裕ができたんだから、流行りの「現代思想」でも読んで思考を鍛えればよかったのに、カフェバーだディスコだサーフィンだスキーだと遊び回って、あとに何も残さなかった(あ。ゴミの山と財政赤字が残ったのかな?)。結局はそのツケが、「失われた十年」を経て今に至ってるように思うのです。学生運動の遺産がほとんど残らなかったように、バブルカルチャーの遺産もやっぱり残らなかった。日本という国は同じことばかり繰り返しています。そしてジリ貧になっていく。
 これこそまさにニッポンという風土の最大最強の特質なのではないでしょうか。「ラディカル」とは「根底的・根源的」そして「過激」という意味ですが、ものを真剣に考えていけば、どうしたってラディカルになるわけです。しかし、それは空気を乱すことでもある。だから最初から、なるべく、ものを考えないようにする。技術的なことや実用的なことは別ですよ。そういう思考はむしろ得意で、世界でもトップクラスなのですが、より根底的なことは考えない。あえて考えないよう努める。自分たちの拠って立つ基盤を揺るがさぬように。
 それが日本という国です。西欧の哲学を読んでいると、さながら炙り出しのように、わが国のそのような特質が見えてきます。この国のネット文化も結局はその延長の上にあるようで、近頃のぼくは、以前ほどネットの力を信じられなくなってきてるんですよね……。

投稿 eminus | 2012/11/20

小松左京……、ではなく高橋和巳のこと。

2015-10-07 | 純文学って何?
 旧ダウンワード・パラダイスからの転載記事、今回は高橋和巳について。初出は2011(平成23)年。

 ぼくのばあい、「作家案内」めいた記事を書くときは、当の作家の訃報に接して、その追悼文のかたちで着想することが多かった。前の井上ひさし、立松和平がそうだし、ほかに丸谷才一、吉本隆明、安岡章太郎らの記事も書いた。でも高橋さんはすでに1971(昭和46)年、つまりあの三島由紀夫とほぼ同じ頃に亡くなっている。これは高橋さんの京大時代からの親友……いやむしろ盟友というべき小松左京の逝去に際してのものだ。



 高橋和巳は抜群の構想力をもった作家で、その骨太さは小松左京の作品世界と通低している。とくに『邪宗門』はそうだ。片や生真面目な社会派リアリズム、片やSFという違いはあれ、虚心に読めばその共通性は明らかだろう。なのに、そのあたりのことをまともに論じた評論を見た覚えがなく、この国の文芸評論は底が浅いなあと思っていたら、1998年にハルキ文庫から復刊された『継ぐのは誰か?』の解説で金子邦彦(肩書きは理論物理学/理論生物学者)という人が同様のことを書いているのを見つけてようやく溜飲が下がった。「高橋和巳が全共闘の文脈で、小松左京が万博プロデューサーや地震災害の文脈でしか語られない社会は、やはり貧困としかいいようがない。」と金子氏は書いているのだが、残念ながらこれを読んだのはこの記事を書いたあとだった。




 高橋和巳は、文中にも書いたとおり80年代初頭あたりにはもう読まれなくなりつつあったが、それでも新潮文庫でまだ作品の大半が入手できた。それが一掃されたのは86年以降、バブルが膨れあがった頃だった。バブルはこの国の精神風土を一変させた。いうならば、じっさいの土地だけでなく、精神までも地上げされたようなものだ。いまのぼくたちがその延長線上に……どころか「成れの果て」というべきところにいるのはいうまでもない。

 「バブル時代とは何であったか?」という問いに対して、文学史の文脈から答えるならば、「高橋和巳的なるものを抹殺してしまった時代」と言えるかもしれない。具体的にいうならそれは、生真面目さ、内面性、社会(政治)意識、大東亜戦争の記憶、などといった事どもである。こういったことはすべて「根暗(ネクラ)」という笑っちゃうほど簡明な(しかしコピーとしては絶妙な)コトバに置換されて、「ダサイ」の同義語になってしまった。80年代の後半ってのはそういう時代だ。

 だから今回は、高橋和巳についての記事に加えて、バブル時代の記憶をつづった短いエッセイと、アメリカの精神風土の変遷をたどった記事とを「旧ダウンワード・パラダイス」から引っ張ってきた。なぜアメリカなのかというと、わがニッポンは、巷間よく言われるとおり、アメリカという国の軌跡をおおむね一周半くらい遅れて追尾しているところがあるからだ。前置きはここまで。それではどうぞ。


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小松左京、ではなく高橋和巳のこと。
初出 2011年8月8日

 先月の26日に逝去された小松左京さんのことを書こうとしていたら、なぜだか筆がどんどん滑っていって、どうしても高橋和巳の話になってしまう。小松さんその人に思い入れがないわけじゃない。何しろぼくは小6のときに初期の代表作「果しなき流れの果に」と「継ぐのは誰か?」を近所の図書館で借りて読み(この二本がセットで一冊になった本があったのだ)、ものの考え方に決定的な影響を受けたし、高校の時には『読む楽しみ 語る楽しみ』『机上の遭遇』(集英社)という書評集を買い、繰り返しこれに読みふけることで、自分でもノートに評論めいた文章を綴るようになった。だから当ブログの直接の淵源は小松さんだといっていいほどだ。だから小松左京に関しては、世間一般に流布する「日本SF界のゴッドファーザーにして、卓越した文明評論家」というような括りとはまた別の角度からアプローチできるとも思うんだけど、下書きをつくってるうちに、結局は高橋和巳の話になってしまう。

 それでまあ、「誰よ、その高橋和巳って?」って話なんだけど、いま30代以下の人がこの名前を知らないのはむしろ当然で、ふつうに合コンとかやってふつうに就職して社会人をやってる20代~30代くらいの人がもし高橋和巳を知ってたら、「えっ、どこで聞いたんですかその名前? まさか作品は読んでないよね?」と逆に問い返したい気がしますね。ぼくが高校生をやってた80年代前半でさえ、クラスメートはほぼ「ああ、日本ハムの投手だろ?」みたいな反応だったですからね。いたんですよ当時ね。高橋一三ってピッチャーが。交流戦なんてなかったから、パリーグは今よりもっとマイナーだったし、日本ハムだって優勝争いに絡むようなチームじゃなかったんだけど、それでも高橋和巳よりは高橋一三のほうがまだ知名度が高かったというね……。べつにうちの高校がどうこうじゃなく、それが当時の社会の平均値であったと思われ……。

 とりあえず、ウィキペディアのヘッド記事ではこうなってます。「高橋和巳(たかはしかずみ、1931年8月31日~1971年5月3日)は、日本の小説家で中国文学者。夫人は小説家の高橋たか子。中国文学者として、中国古典を現代人に語る事に努める傍ら、現代社会の様々な問題について発言し、全共闘世代の間で多くの読者を得た。左翼的な思想の持ち主ではあったが、三島由紀夫と交流するなどの人間的な幅の広さがあった。自然科学にも関心が深く、特に、相対性理論に関する造詣が深かった。癌で39歳の若さで他界した。」

 「相対性理論に関する造詣が深かった。」というのはぼくは初耳だったけど、ほかはだいたいそんなところかな。でも、余計なことを書いたらたちまち「独自研究」のレッテルが貼られるとはいえ、これだけの記述では高橋和巳なる作家=思想家について十分なイメージが伝わるとは言いづらいでしょう。で、「新潮 日本文学辞典」(91年刊)の「高橋和巳」の項を開いてみると、こんな記述が散見されます。「昭和20年3月の大阪大空襲で焼け出された。この時に、人間はいざとなればどんなことでも平気でする恐ろしい存在だという考えに取り憑かれた。作品に魔に取り憑かれた人物が登場する遠因はここにある。」「…………時に悲憤慷慨し、時に短調の悲調に流れる独自な感性……。」「知識人の運命と責任を主題に……」などなど。

 そう。高橋和巳は、暗い。そして、重い。さらに、真面目。真面目の上に、いささか字面のよくない文字が付くほどに。まあ、真摯、という表現を使ったほうが格調たかくていいんだろうけど、とにかく作品タイトルを列挙するだけで、その雰囲気は迫ってくると思います。いわく、『悲の器』『堕落』『散華』『我が心は石にあらず』『憂鬱なる党派』『捨子物語』……といった具合。「先生……大丈夫ですか?」と、つい言ってしまうかもしれない。もし本人が目の前にいたら。さらに付け加えるならば、作品はそのほとんどが、今日の感覚でいえば大長編と呼ぶべき長さです。

 じっさいほんとに大丈夫じゃなくて、常人ではちょっと考えられない量の小説と評論と論文を書きつつ、京都大学の教授として全共闘運動に関わり、大学と学生たちとの板挟みとなって(その双方に対してひたすら誠実であろうとしたために)心身を擦り減らすこととなり、ウィキにもあるとおり、1971(昭和46)年に39歳の若さで亡くなりました。たぶん60年代には、学生ならば(高校生でも)高橋和巳を読んでいるのが当たり前、くらいの存在だったと思うし、77年には全集が出たほどだから、70年代にも読み継がれていたはずだし、さらに、さっきはあんなこと書いたけど、1982年の段階では、まだ主要な作品がぜんぶ新潮文庫に入ってたんですよね。だからぼくなんかでも入手できたわけで。それが一掃されたのが85年くらいからのバブル到来の余波で、バブルが抹殺してしまったものはたくさんあるけど、「高橋和巳」はまさにその代表、というか象徴でしょうね。

 ただ、高橋和巳が「過去の人」になったのは、バブルの到来で日本の空気が「重厚長大」から「軽薄短小」になったせいだけではありません。高橋さんより10歳年下の柄谷行人が、評論家としてデビューした当時、さながら仮想敵のように高橋さんを攻撃したということがあった。ぼくはなにも柄谷さんを詰るつもりでこれを書くわけじゃなく、柄谷行人の大ファンで、著作は文庫になったのはほとんど持ってるくらいだけど、でも事実は事実として書かなきゃしょうがない。初期の柄谷行人は高橋和巳を攻撃した。高橋さんの作品のなかから、「青木は自動車の窓から、牢獄から牢獄へとたらい廻しされる囚人のように、もう同じ景色を二度と眺めることができないかのように、郊外の家々と樹々を見た。」とか、「最初の性交で梅毒にかかった青年のように、渇仰しながら嫌悪し、飢えながら恐怖し、路地から路地へ、人目につかぬ道をほっつき歩いただけだった。」といった叙述を引いて、そこはまあ柄谷さんだから高度な議論が展開されてはいるんだけれど、ぼくなりに約めて言っちゃうならば、ようするに「観念的」かつ上すべりで、とても小説の文章とはいえないし、そもそもこれを「文学」と呼ぶこと自体が間違ってるだろ、みたいなことをお書きになったわけです。法学者の手記という体裁を取っているために、この手の言い回しが徹底して排除されている『悲の器』だけは皮肉な調子で褒めていますが、ありようは全否定に近い。

 この影響はけっこう大きかったと思う。いわゆる「文学のプロ」たちによるこういった冷ややかな見方はいまも根強く、最近では小谷野敦が、『現代文学論争』(筑摩書房 2010年刊)のなかで、「高橋和巳の小説が通俗であるのは明らか」と、あっさり切り捨てています。通俗といっても西村京太郎みたいなのとは違うんで、「ちょっとインテリっぽい読者向けの通俗」(なんか変ですが)といった感じでしょうが、たしかにそれはそうかもしれない。とぼく自身も思う。けどぼくみたいに、いったんポストモダンを通過した目でこの手の文飾を見直してみると、「なんかちょっと面白いんじゃね?」と思っちゃうところもあるんですよね。そりゃあこればっかりだとうんざりするけど、ところどころにパロディーとして使ってやれば、けっこういい味出すんじゃないの? っていうか、そういえば村上春樹が『スプートニクの恋人』なんかでやってませんでしたっけ? このような、確信犯的なあざとい比喩の使い方? むろん、高橋さんが大真面目なのに対し、春樹さんは半ば遊びでやってるって違いはありますが。

 ともあれ、まあ、文体ってのは小説の命だから、柄谷さんの指摘はただの難癖ではなくて本質を突く批判なんだけど、じつはぼくがここでやりたかったのはそういう話でもないんですよね。じっさい高橋和巳の小説は観念的かつ上すべりで、登場人物の多くは血が通っていない操り人形にすぎず、彼の文学はせいぜいが「インテリ向けの通俗小説」で、バブルの到来とともに忘れ去られても仕方ないものだったのかもしれない。でも、『邪宗門』はどうですかってことなんですよ。『邪宗門』という大作だけは、どう見ても「観念的」とか「通俗」の一語で片づけられるものではない。柄谷さんも小谷野さんも、『邪宗門』に匹敵するほどの小説を、お書きになってご覧なさいとまでは言わないが、せめて3本、日本の今の文学シーンのなかで挙げてみていただきたい。中上健次以降に出てきた日本文学の中で、質量ともに『邪宗門』に比肩しうる作品といったら何ですか? まあ大江健三郎の『燃えあがる緑の木』は入るとしても、あとの2本は何ですかと。まさか『1Q84』じゃないよね? ……いやしかし、これはけっこう本気で訊いてみたいですね。

 『邪宗門』は、1965年の1月から10月にかけて「朝日ジャーナル」に連載された作品で、太平洋戦争下の日本を舞台に、「ひのもと救霊会」という架空の教団(モデルがどこかは明らかですが)の誕生から壊滅に至るまでの経緯をつぶさに描いた壮大な叙事詩です。「政治」とは? 「宗教」とは? 「国家」とは? 「革命」とは? といったそれこそ「観念的」としかいいようのないテーマの数々を、小説という器の中で存分に描いた野心作といっていいでしょう。新潮文庫版が絶版となり、しばらく入手困難だったものを、朝日文芸文庫が1993年に出版し直し、たまたま1995年のオウム事件を受けてそこそこ版を重ねたようですが、今はまた入手困難となってます。同じく1990年代の半ばに河出文庫が「高橋和巳コレクション」という奇特な企画をやったんですが、どういうわけか『邪宗門』はその中に入ってなかったんですね(『悲の器』と『日本の悪霊』あたりはまだ在庫があるようですが)。

 この『邪宗門』に関しては、福田和也が慶応大学での授業にテキストとして使っているらしく(ネット情報)、また宮台真司が「さいきん読み直してみたけど、やっぱりいい。」とツイッターにて述べたとか。政治的な立ち位置は真逆なのに、いずれも辛辣な物言いで知られる二人の論客が、これほど高く評価しているってのは、ちょっとただごとじゃないですね。ごく単純に、それこそ「通俗小説」として読んでも抜群に面白いし(「村上龍の何十倍も面白い」と言ってる方もネットの上で見かけました)、いまどきの若い人たちが手に取れば、ふだんほとんど考えたことのない(それでいて、じつは避けては通れない)さまざまな問題を考えるためのきっかけになるとも思うわけです。『邪宗門』がふつうに書店で手に入らないのは、日本社会の欠落というか、はっきりいって恥ではないか。だってほんとに、これほど重量感のある純文学ってなかなか見当たらないですからね、いま。

 文学史的なパースペクティブにおいていうならば、早い話、高橋和巳はこのニッポンでドストエフスキーをやろうとしたわけですよ。もとよりそれは高橋さんが嚆矢じゃなくて、「第一次戦後派」と呼ばれた先達が何人もいたし、少し後の世代では初期の大江さんもそうなんだけど、大江さんは何しろ天才だから、「グロテスク・リアリズム」とか、そちらのほうに行ってしまった。そして文壇の主流はいわゆる「第三の新人」たち、すなわち安岡章太郎さんに代表されるような、日常を生きる猥雑な生活実感とか、卑小なる身体感覚のなかで小説の世界を作り上げていく人々の系譜へと移っていった。かくして、「政治」とは? 「宗教」とは? 「国家」とは? 「革命」とは? なんて大命題を高々と掲げて真っ向から文学を志すひとなんてのは、少なくとも「純文学」の範疇では、ほとんどいなくなりました(むしろ直木賞系にその理念を継ぐタイプがいたりして、じつは村上龍は、ぼくの基準ではそちらのほうに属します)。

 小松左京さんは高橋和巳と京都大学で同期だったんですよ。あくまでも書かれたものから察するだけですが、「親友」なり「盟友」といっていい間柄だったと思います。あの頃の学生が、しかも京大で「一緒に活動していた。」といえば、それはとうぜん政治活動なわけで、その絆の強さは今の学生の感覚では想像を超えるほどでしょう。のみならずもちろん、文学においても二人は盟友であったわけです。影響を与え合っている。「第一次戦後派」が次々と一線から退いていくなかで、高橋和巳がひとり「純文学」の孤塁を守って奮戦し、あえなく力尽きていったのち、小松さんはSFというジャンルで彼のその「観念性」や「大きすぎた問題意識」や「志」を引き継ぎ、それを大衆レベルで存分に展開してみせた、という言い方もできるかもしれない。小松左京の死とともに、高橋和巳も、没後からきっかり40年を経て、もういちどここで死んだのかなあという気がしています。それはそれとして、『邪宗門』、どこかの出版社が復刊してくれないもんかなァしかし。


 追記 2015年10月3日) 『邪宗門』(上下)は、河出文庫でめでたく復刊されました。いっぱい売れてりゃあいいんだけどなァ……。せめて火花の百分の一くらいなあ……。まあ無理だわなあ。無理だろうなあ。

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10年後、小栗旬主演のドラマ『日本沈没』放映に際して、あらためて小松さんについて書いたもの。

小松左京について21.11