ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

第6回・丸山健二「バス停」その②

2016-02-22 | 戦後短篇小説再発見
 「バス停」の文体につき、作者・丸山健二の経歴とからめて、「平易で、むしろ卑俗といってもいい」とぼくは前回述べたけれども、じつは丸山さんは小説の構成に対しても文章そのものに対しても意識の高い作家で、初期の頃こそ口語調で書いていたものの、その後どんどん洗練の度を増していき、ほぼ20年のちには、こんな水準にまで至った。

 私は風だ。
 うたかた湖の無限の湧水から生まれ、穏健な思想と恒常心を持った、名もない風だ。私はきょうもまた日がな一日、さながらこの世のようにさほどの意味もなく、岸に沿ってひたすらぐるぐると回るつもりだった。ところが、太陽がぐっと傾いた頃、人間をひとり、長く生きても世情に通達しているとは言い難い男を、いとも簡単に殺してしまった。重ね着をし、毛糸の胴巻には懐炉まで忍ばせていたのだが、その釣り人の使い古された心臓は、私の易々たるひと吹きでぴたりと停止した。老人は声もあげずに頽(くずお)れ、前にのめり、頭を清水にどっぷりと漬けたまま、異存なさそうにあっさりと息絶えた。腰骨のあたりに、青々とした発光色のイトトンボがとまって羽を畳んだ。

 長編『千日の瑠璃』の冒頭である。これは「まほろ町」という架空の地方の町を舞台に、「世一」という少年とその家族の千日に及ぶ日々を、悠然たる筆致で綴ったものだ。ただしその手法がはなはだ異色で、一日につき一ページ、語り手が次々と入れ替わっていく。それが人間であることはごく稀で、一日目はご覧のとおりの「風」であるし(これは世一を可愛がっていた祖父が心臓麻痺で天寿をまっとうした場面)、このあとも「闇」だの「口紅」だの「境界」だの「相談」だの、無生物どころか抽象的概念が語り手を務めることも少なくない。まことにユニークな長編で、世界レベルで見ても珍しいと思う。発表当時、心ない批評家が嘲弄に近い悪口を書いていたようだが、ぼくはもちろん大好きだ。
 50代にはこんな境地に達した丸山さんだが、20代から30代前半くらいにかけての作品を読むと、センテンスが短く、よい意味での一本調子が目につく。文末がおおむね「た」で終わっているのである。
 これは過去形が「……だった」しかないうえに、述語が必ず文末にくる日本語の泣き所といってよく、あまり物事をよく弁えぬまま創作を試みたときに、誰しもが一度は経験することだと思う。「だった」「言った」「なかった」「思った」といった具合に、間の抜けた韻を延々と踏み続けている感じになる。たとえばヘミングウェイの原文と翻訳とを比べてみれば明らかだ。むろん訳者もいろいろ工夫を凝らすが、それでも「た」で終わるセンテンスの多さは否めない。
 しかし、短所が長所に転じることもあるわけで、その単調さがかえって独自のビートを刻んでいるという見方もできる。初期の丸山健二がまさしくそれで、執拗な「た」止めの繰り返しが、歯切れよく、小気味いい効果を生んでいるのである。もちろん、それが作品の風土に見合っているからだ。
 「バス停」の語り手は、2年前に郷里を離れて都会に出て行った若い娘。高校を出てすぐ行ったようだから、まだ20歳かそこらだろう。初めは百貨店の売り子をしていたようだが、すぐに辞め、いまは風俗の仕事をしているらしい。念のため言うと、性的なサービスをふくむ接客業を「風俗」と呼ぶのはバブル以降の用語で、当時はまとめて「水商売」と呼んでいたはずである。
 彼女は3日間の帰郷を終え(4日間のつもりだったが、1日早く切り上げた)、今から都会に戻るところだ。町なかにある駅まで行くために、暑苦しい田舎道をよたよた歩いてバス停に辿り着き、バスを待ってるわけである。母が見送りに付いてきてくれている。
 家族は両親と弟だが、弟はたまたま怪我で入院中。実家には父と母だけだった。「去年の秋に起きた山火事」がいまだに唯一のネタという退屈な村で、近所の人たちも彼女の顔を見に押しかけてきた。都会暮らしで服装やら髪形なんかも垢抜けているのだろうし、おまけにちょっと顔もいじってるらしい。とにかくみんな世情に疎いから、誇張まじりの彼女の話を、大いに感心して聞いてくれた。
 あまつさえ彼女は、じつに気前よくカネをばらまいた。両親はもとより、集まってきたご近所さんたちにまでだ。それで人気はますます上がり、両親などは感激のあまり、「父はどうしてもあたしと暮らしたいと言い出し、弟をないがしろにするようなことを口走った。母までがその気になって、近所へ言いふらしてまわった。」というありさまである。じつに単純なものである。
 この「おカネ」というやつが、この短篇の裏のテーマだとぼくは思う。「戦後短篇小説再発見1 青春の光と影」に収められた全11篇のうち、この「バス停」がもっともシビアに「金銭」の問題を扱っている。それはこの短篇のみならず、丸山健二という作家の特徴でもあった。いかなる時も生活者の視点を忘れないのだ。
 マルクスが『資本論』の第一章を商品の話から始めているのは有名だけれど、「商品」がそれほど重要なのは、それが「市場」によって「価値」を認められているものだからである。人間の社会において(「資本主義社会において」とは言わない。いわゆる「社会主義」をうたう国家にも「貨幣」はあるわけで、ゆえに厳密な意味ではすべての社会は資本主義社会だから)、価値はすべて「貨幣」によって換算される。すべてのものは、「貨幣」という媒体によって、計量可能と見なされているわけだ。
 「市場」とは「商品」を価値づける場であり、その基準となるのが「貨幣」である。あるいは、「貨幣」によって価値づけられた「商品」の織りなす関係性の集積が「市場」であるといってもいい。どちらも同じことであり、「市場」と「貨幣」と「商品」とは、いわばぜんぶが同時的に成立している。マルクスの言い分をやや単純化しすぎているかもしれないが、ぼくの理解はそんな感じだ。
 これはたいへん明快で、便利な世の中だとはいえる。もしも貨幣という基準軸ないし媒介がなかったら、パン一つ買うのもおおごとだ。というか、パン一つ買うことすら事実上ほぼ不可能ではないかという気もする。まずパンを作っているひとのところへ赴き、その相手が「それだったら交換してもいいよ」と言ってくれる物品をこちらが提供せねばならない。考えるだに気が遠くなる。ただ、これはべつだん無理に設定を作っているわけではなくて、日本でも、じっさいに戦時中はそんな塩梅であった。
 うちの母方の祖母はそこそこ豊かな家の出身なので、嫁いだ時にどっさり高価な着物を携えてきたが、戦争が終わる頃には衣装箪笥が空っぽになっていたそうだ。わずかなお米と引き換えに、残らず手放さざるを得なかったのである。子供時分に田舎に帰るとよくその話を聞かされた。
 われわれが暮らすこの社会では、原則としてすべてが貨幣に換算される。小泉=竹中の「構造改革」以降、その傾向はいよいよ強くなってきた。「カネで買えないものはない」とうそぶいたホリエモンこそ、当時のそのシンボルであった。当初は「中間層の復興」をうたっていたはずのあの民主党政権の時も、とりたててその風潮に変化は見られず、アベノミクスという名の新自由主義政策が推し進められる今日では、もはや事態は末期の様相を呈しているようだ。末期の様相を呈しながらも、だらだらと続いていくから困るんだけど。
 いや、ブンガクの話に政治を絡めぬように気をつけてはいるんだけど、ついにやってしまったか。でも、「バス停」という作品の内容が妙にシンクロしちゃったもんで、しょうがない。いったんここで切っておいて、次回は改めて作品そのものに戻りましょう。


第6回・丸山健二「バス停」その①

2016-02-10 | 戦後短篇小説再発見
 ぼくの文学開眼のきっかけが、高校の図書室にあった全80巻の「新潮現代文学」だったことは当ブログでも再三述べた。コンパクトで読みやすいシリーズだったので、当時(昭和50年代)、わりとあちこちの図書館でも見かけた。川端康成、井伏鱒二からはじまって筒井康隆、井上ひさし、古井由吉まで、人気と実力を兼ね備えた作家をあつめ、あの頃の「文壇」の格好の見取り図ともなっていた。松本清張や司馬遼太郎などの「大衆小説」の作家をきっちり抑えていたのも特徴で、こういった作家の巻は見るからにボロボロであった。いっぽう、小川国夫だの小島信夫だの島尾敏雄だのの巻はキレイなもんだった。いつの時代も純文学はそんなに読まれるものではない。とはいえ、仮にも本として出版はされてたわけだから、今よりは読まれていたのである。昭和の末から平成以降、もはやこのような全集は企画されることすらなくなった。悲しい。
 これまで取り上げてきた五人の作家、すなわち『戦後短篇小説再発見』第一巻「青春の光と影」のトップから五番目までを占める作家たちは、いずれもこの「新潮現代文学」に収められている。六番目のこの丸山健二まできて、はじめて未収録作家の登場となった。とはいえ、丸山といえば平成になって綿矢りさに破られるまで「芥川賞最年少受賞」の記録を保持していた人だし(昭和41年、23歳で受賞。石原慎太郎より若かった。のちの村上龍も、この記録は破れなかった)、その後も意欲的な短篇・中編を次々と発表し、実力のほども折り紙つきだった。80人のなかに入っていてもちっともおかしくはなくて、選に漏れたのはもっぱら年齢のせいだと思う。若くしてデビューしたばっかりに、当時まだ30代だったのである。
 これまでの五人、すなわち太宰、石原、大江、三島、小川と比べて、丸山健二が異色なところはもうひとつある。学歴が低く、かつ、デビューまでに同人誌などの組織に属して文学修行をしたわけでもないということだ。あ。一つじゃなくて二つだな。ともかくまあ、これは現代日本文学史を考えるうえでそこそこ大事なことなのである。
 太宰、大江、三島、小川はいずれも東大である。太宰と大江は仏文、小川は国文だ(ただし太宰・小川は中退)。三島は法学部卒(首席)ながら、十代半ばにしてすでに同人誌に作品を載せ、「神童」の名を恣(ほしいまま)にしていた。慎太郎だけは一橋の社会学部卒で、スポーツマンとの印象もあり、文学にゆかりが薄そうだけど、それでも在学中には仲間と共に文学活動にいそしんでいた。
 しかるに丸山健二は、手に職をつけるために専門学校を出て、その間もそのあとも、誰かと一緒にブンガクをやっていた経歴がない。それで独学で小説を書き、いきなり文學界新人賞→芥川賞という快挙を果たした。かつて文学青年のあいだでは、このルートはエリートコースということで、「東大法学部から大蔵省」などと称されたらしい(しかし思えば三島由紀夫というのは、この比喩をリアルに実現した人だった。秀才中の秀才だけど、まあ家柄そのものが根本的にわれわれと違う。ただし才能がありすぎたために、大蔵省は早々に退職したが)。
 ニホンの大学の文学部は、元来、小説の書き方を教えるところではない。誰だって結局のところは独学で書き方を会得していくわけだから、学歴なんか関係ない。それはじっさいそうなのだけど、明治からこの方、日本文学史ってものを見ていくと、なかなかそう簡単な話でもないのである。このあたりは長くなるのでまたの機会に譲るけれども、なんだかんだと言いながら、メインストリームたる「純文学」の書き手といったら、かなりの率で高学歴それもやっぱり東大の人(中退をふくむ)が多かった、ということは、事実としてお含みおき願いたい。
 その位階秩序が崩れ始めたのは昭和51(1976)年、上にもふれた村上龍(武蔵野美大中退)の『限りなく透明に近いブルー』からで、元マンガ家の山田詠美(明治大中退)が芥川賞の選考委員にまで登りつめたり、その山田の強い推挽で芸人・又吉直樹の『火花』が受賞に至る、といった事態も、すべて元をたどれば40年前の村上龍フィーバーに端を発している。その一年前、昭和50(1975)年には中上健次(新宮高校卒)が戦後生まれ初の芥川賞に輝いているが、この人のばあいは「文芸首都」という名門の同人誌に所属していたので、むしろ古風な文学青年タイプの最後の人とみるのが妥当だ。
 だから、もし仮に「文壇史」的な見地から芥川賞の系譜のなかで村上龍の先蹤(せんしょう)を探すなら、それは直近の中上よりむしろ十年前の丸山健二であったろう。つまり丸山健二という作家は、今日における「純文学業界」(もはや「文壇」という言葉は使えまい)の流動化・液状化の遠い淵源なり、というのがぼくの位置づけである。
 さて。長々と書いてきたけれど、こういうのはいわば「社会学」に属する話であって、ブンガクの本道とは関係がない。問題はただ、目の前の「作品(テクスト)」そのものであり、本来は、それが誰の書いたものであるかさえ、極端にいえばどうでもいい。それを読み、自分が心を動かされるか否か、肝心なのはその一点だ。
 ただ、テクストを味読するためには、こういった下世話な話題もいちおうは抑えとかなきゃなあ、ということである。
 「バス停」は1977年に発表された。ほぼ40年前だ。それこそ「新潮現代文学」シリーズが刊行されてた頃である。作家は当時34歳。すでに十年ちょっとのキャリアを積んでいたとはいえ、今日の丸山健二の到達点を鑑みるならば、まだまだ初期と言える。文体は平易で、むしろ卑俗といってもいい。いまのぼくたちがふつうに使ってるような言葉である。舞台も設定も至ってシンプル、すこし手を加えたら寸劇にでもできそうだ。

 休まずに歩いたものだから、だいぶ早くバス停に着いてしまった。母は息切れひとつしていなかったが、あたしはとても苦しんでいた。肺は穴でもあいたみたいな音をたて、膝頭がいつまでも震え、まるで病人だった。そのうえ、せっかくの服がどこかで着替えなければならないほど、汗でよれよれになっていた。

 冒頭の段落である。じつに平易で、むしろ卑俗と……あ、これはさっきも言ったな。ご覧のとおりの読みやすさで、慎太郎の「完全な遊戯」の上(下?)をいくといっていい。だが、もちろん、それでいて入念に計算されてもいる。そこいらの兄ちゃんがアタマに浮かんだ文章をそのまま綴ったものではない。当たり前だ。そんなんで芥川賞が取れちゃあたいへんである。
 1943(昭和18)年生まれの丸山健二にはもはや漢文や古典の素養はなく、ミシマのように人工的な美文を駆使できたわけでもなかったし、大江さんのように翻訳の文体から新しい日本語を作り上げていったわけでもない。小川国夫みたいに独自の鋭い感性を彫琢した文章に託すわけでもない。徹底して「口語」を用いて、ふだんのぼくたちが日常で経験するような事柄を、ふだんのぼくたちが感じるような思いを絡めて描いていく。これはこれで難しいことであり、上に述べてきた事情を踏まえて言うならば、とても斬新なことでもあったのだ。


第5回・小川国夫「相良油田」その⑫

2016-02-02 | 戦後短篇小説再発見
 いよいよ大詰めである。将棋でいえば、中終盤の難所をいくつも潜りぬけ、ようやく寄せの段階に入ったところか。しかし、いっこうに楽にさせてはもらえない。一手でも読み間違えればたちまちひっくり返される。そんな緊張感がある。
 二階の部屋に押し込めを食らっている浩くんは、階下の上林先生とのやりとりの中で、「怖いの?」という問いかけに対し、「気持が悪いんです。」と答える。彼がやや病的といってよいほど鋭い感受性の持ち主であること、また小学生とは思えぬくらい言葉遣いに厳格なことは、たとえば夕焼をめぐる問答のなかでも明らかだった。たしかにこのばあい、「怖い」より「気持が悪い」というほうが精確であろう。われわれは、「幽霊が怖い」とはいうが「幽霊が気持ち悪い」とは言わない。ただ、「気味が悪い」という言い方はする。しかしその際は、「幽霊が気味悪い」というより、「この場所は幽霊が出そうで気味が悪い」といった用法になろう。
 一般に、「怖い」「気味が悪い」は、正体が不明で得体のしれないものに対して使うのだと思う。いっぽう、「気持が悪い」は、その対象がもう目の前にあって、生々しく実在しているような際に用いる。蛇が怖い、蜘蛛が怖い、とは言うけれど、それはやっぱり「気持悪い」という意味の「怖い」であって、幽霊に対するものとは違うはずだ(ついでにいうと、ぼくは長らく蛇が「怖い」と思っていたけれど、ひょんなことから亀を飼うようになり、これがもう可愛くて可愛くて、「いや亀がこんなに可愛いなら、蛇だって見ようによっては可愛いかもね」と思うようになった。関係ない話ですいません)。
 浩のばあい、すぐ傍らに遺体が横たわっているわけだから、そりゃ気持悪いに違いない。その口から一筋の血がじりじりと流れ続けてるのなら尚更である。とうとう彼は、「僕は我慢が出来ないんです。もう我慢が出来ないんです。先生、気持が悪い。気持が悪い。」と訴えながら、先生の阻止を押し切って、梯子を下りはじめる。ここからの描写はまさしく悪夢そのものだ。眼の前が濁り、脂っこいスープの表面みたいな黄色の斑点が浮かぶ。その粒々が拡散や収斂を繰り返し、それにつれてジーンジーンという音がする。体が宙に浮く気がして、梯子に獅嚙みつくのだが、その梯子が垂直に起き上がってくる。それを押し戻して元の角度に直そうとすればするほど、自分が梯子もろとも倒れるのを防いでいるのか、倒れるのを手伝っているのかわからなくなる……。こういった「空回り」「悪あがき」は、ぼくなども夢でよく体験するところだ。
 そうして彼は意識を失う。「夢のなかで意識を失う」とは、すこしおかしな気もするが、一時ブラックアウトして、次のシーンでは場面が転換されていた、といった感じであろうか。
 気がつくと彼は川原に倒れている。辺りは夕暮れになっていて、さっきまで居た採石の小屋は逆光の中に黒々と立ち、大きな調車のついた機械は濃い影になり、梯子は橙色の光に濡れている。小屋に着くまでの道中で夕焼について話していた時は、まだ日が高かった。今度はほんとに辺りが夕焼に染まっているのである。むろん小説の構成という見地からみれば、あの時の会話はこの伏線として敷かれていたのだ、という言い方になろう。

 ――先生、といった。それから立ち上がった。まわりの道具立ては、彼が経験したことが満更夢ではない証拠になったが、かといって、どこからが現実で、どこからが彼の脳の中だけの出来事かは、区別のつけようがなかった。

 夢の中の話であるのに、「満更夢ではない証拠」もないもんだ、と最初読んだときは感じたし、それは先ほどの「夢のなかで意識を失う」にも通じる違和感ではあるけれど、しかし思えば、ひどい悪夢を見て目が覚めて、「ああ夢だったか、よかった」と安堵してたらじつはそれもまた夢で、そこでもまたとんでもない目に合わされる、というようなことは確かにある。とくに体調の悪いとき、実生活でトラブルを抱えている時などに。こういう夢を見たあとは、寝床のなかで本当に覚醒したのちもしばらく非現実感が残り、一分くらい放心状態になってしまう。「夢中夢」というやつで、ドラマなんかのネタにも使われる。そう考えるならさほど奇矯な表現でもないのか……。ただ、海外の文学も含め、ほかの小説で、夢を扱ったものを思い起こしても、この手の表現を見た覚えはない。小川さんの独創といえるのではないか。
 上林先生の姿はない。例の「機械」のところに行ってみるが、そこにもいない。先生が倒れた僕を置きっぱなしにして帰るはずはない、かといって、先生と一緒に来たのではないとは、なおさら信じられない、と彼はしばし思い悩む。浩にとっては、この道中は煩悶に満ちたものではあれ、やはり一方ではどこかに甘い気分もあったのだろう。それが二階に上がってからは急転直下、何が何やらわけのわからぬ展開となって、あげく突き放されて置き去りにされてしまったのだから、それは小学生でなくともショックは免れ得まい。気の毒なことである。
 ひとしきり先生の姿を空しく探し求めたあとで、彼は「海軍の若い少尉が二階に死んでいたことを」思い出す。「もう二階へ上がって調べるのはいやだったから」(そりゃそうだろうね)、小屋から離れ、大きな洲に乗って、二階の中を透かし見る。海軍士官は、「彫り物のように」「水平線上の島影のように」赤い下窓のこちら側に横たわっている。
 ――あの人だって、置きっ放しにされた。
 と浩はつぶやき、それでいくらか淋しさを癒された気になる。しかしそのいっぽう、「枯川の川床に似て荒れ果てた」上林先生の心の中を垣間見たような気分にもなる。
 ここがまた難しい。ぼくは1980代後半、まさにバブル真っ盛りの頃に、そのころ急速に新刊書店の棚から消えつつあった小川国夫の文庫本を求めて古本屋を巡り歩いた。そのとき手に入れた角川文庫版の『生のさ中に』でこの短編を初めて読んだのだが(ちなみにその文庫本は、今も手元にあるけれど、紙質の悪さゆえに煮しめみたいな色になっている)、ここで唐突に出てきた「先生の内面の荒廃」にはつくづく首を傾げたもんである。えっ、上林先生って、そんなに荒んでたわけ? なんで? とか思った。結局のところはわからなかった。
 前回ぼくは、彼女の恋人たる海軍士官の青年は自然死ではなく、余人の手によって果てたわけでもなく、恋敵たる浩の手によって、浩自身にさえ意識されぬまま、まさにその時その場所で殺害が行われたのだ、という仮説を出した。つまりこれはまさしくオイディプスの神話の再現であると。そして、上林先生はそれをお膳立てしたとまでは言わないが、少なくともうすうす勘づいてはいて、そのうえで浩をそこに導いたのだ、と。
 しかもそれから彼女は、浩を二階へと追いやっておいて、自分は分裂したもうひとりの海軍士官と「機械のところ」で何かしら性的なふるまいをしていた。すなわちあの「油田」(採石の小屋)とは、タナトス(死への欲動)とエロス(性の衝動)とが、激しく渦巻き交錯する場だったのである。
 もうひとつ付け加えさせていただくならば、その「油田」を夕焼のようにすっぽりと覆い包んでいるのは、「戦争」という極めつけの狂気であり、暴力であり、荒廃である。その荒廃の反映として、「枯川の川床に似て荒れ果てた」上林先生の内面がある。初読のときから30年、さらにこの一年近く、いろいろと考えを巡らせてきて(いや、ずっとこればっか考えてたわけじゃないよ、もちろん)、ようやくぼくは、そのような解釈に至った。
 そう考えてこそ、この短篇がたんなる浩個人の通過儀礼を描いたものに留まらず、作品の背景となった時代全体を担うだけの普遍性を帯びると思うのだ。

 長い長い夢の話から一行あけて、最後の短い段落は、後日談というか、その翌日談である。学校の昼休みに浩が蘇鉄の前の廊下を歩いていると、リアル上林先生がうしろから忍び寄ってきて(べつに忍び寄ってきたわけではないが、足音を立てずに歩くので、浩からするとそんな感じになる)、いきなり声を掛ける。浩を廊下のわきへ誘うように、腰板のほうへ身をひねり、蘇鉄の葉先にさわりながら彼女はいう。あなたのいったとおり、御前崎には油田があるのね。相良油田。でもバケツで汲むというほどだから、油井といったほうがいいかもしれない。いずれにしても、表日本では珍しいことね…………。
 どんどん畳みかけられて、浩のほうは、「僕は見て来たわけじゃありません。」と(おそらくはか細い声で)応じることがせいぜいだ。「先生だって油田をまだ見たことはないわ。」とこの若くて美しい女性教師は答え、それがこの短篇の最後の一行となる。つまりここで、まるで断ち切られたように作品は終わる。
 読者を納得させる、あるいは唸らせるような鮮やかな結末を示すことなく、あとの顛末をこちらの想像に委ねる形で、ぽんと放り出してみせるこのような終わり方をオープン・エンディングとよぶ。星新一やО・ヘンリーの対極にある手法だが、小川国夫はこれをはなはだ愛好した。とはいえ、中でもこれはとくに極端なほうである。
 浩の夢はあくまでも浩の夢にすぎなくて、現実の上林先生とは直接の関係はないはずだが、それでもやっぱり、彼の主観にとってはもう、彼女は昨日までのような清らかな聖女ではなくて、タナトスとエロスとを身の内に抱えたひとりの女性なのである。そんな少年の戸惑いを、残像のごとく読者の目のなかに焼き付けるうえで、このラストシーンはとても見事だと思うのだけれどどうだろう。