ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

第5回・小川国夫「相良油田」その①

2015-03-12 | 戦後短篇小説再発見


 前回のミシマからずいぶん間があいてしまったが、そろそろ「戦後短篇小説再発見」の続きをしましょう。五番目に選ばれているのは小川国夫。これはぼくにはうれしい人選だった。トップバッターの太宰(青春小説の永遠のチャンプ)、二番手の慎太郎(元都知事)、三番手の大江(ノーベル賞)、四番サード三島(戦後日本文学最高のエースにして最大の謎)と、知名度においてはいずれ劣らぬ錚々たるメンバーに続いて、ここで小川国夫がくるんだからね。ぼくにとっての「文学の基準線」は高校以来ずっと変わらず大江健三郎その人だけれど、それとは別に、「とにかく矢も盾もたまらず好き。数ヶ月に一度はこの人を読み返さずにはいられない」という大好きな作家も何人かいて、その筆頭が古井由吉とこの小川さんなのだ。またしても思い出話になってしまうが、ぼくは高校の図書室にあった「新潮現代文学」という全80巻のシリーズでブンガクの世界に入門した。赤い表紙のハードカバーで、表紙を開けるとタイトルの記されたページがあって、その次に作者の近影が載っている。どれも作家の個性が出ていて面白かったが、中でも小川さんのは、群を抜いてカッコよかったのである。バックに何もない殺風景な景色のなか、石の柱に背中を預けた小川国夫が、左手を左のこめかみに当て、瞑目したまま天を仰いでいる全身像。それがクローズアップではなく、ちょっと遠めの視点で撮られている。こんなクサい構図が様になるひとは、役者の中にもそんなにいまい。ウェーブの掛かった豊かな長髪は五木寛之を思わせるが、格調の高さでは小川さんのほうがさらに一枚上だったと思う。町田康が登場するまで、たぶん小川国夫は吉行淳之介と並んで近代日本文学史上屈指の美男であったはずである。

 当時、原田芳雄に心酔する少し渋めのミーハーであったぼくは手もなくこの近影にいかれてしまい、なんの予備知識もないままにこの巻を借りて帰った。CDでいうところの「ジャケ買い」みたいなもんだが、中身のほうも作家の風貌に恥じないカッコよさで、これを機に全80巻の「新潮現代文学」に深入りしていくこととなる。つまり小川国夫はぼくの本格的な文学入門のきっかけを作った作家だともいえる。その同じ図書室で、大江さんの「死者の奢り」と野坂昭如の「火垂るの墓」を読んで衝撃を受けるのは、その何日か後である。ちなみにこの「新潮現代文学」の小川国夫の巻は、最初の出会いから十数年のち、偶然入った古本屋で見つけて飛びついて買った(三百円だった)。爾来、手の届く場所に置いて繰り返し読みかえしている。とうぜん影響を受けてもいるはずだが、影響というなら、そもそもぼくが19の年に文具屋でコクヨの原稿用紙を買って初めて書いた小説(らしきもの)が、もろに小川国夫の模倣だったのである。模倣といっても自己流だから、似て非なるものであったのは間違いないけど、それでも自分としては真剣だった。しばらくはその線で書き続けていたものの、根っからの饒舌体質であるぼくには、切り詰めて凝縮された小川流の文体はどうしても無理だと判断し、しばらくのちに諦めた。それでもあの文体は、今も自分にとって目標の一つであり続けている(ついでに言うと、大江さんの文体はあまりにも癖が強すぎるので、仮に練習であっても一度も真似したことはない)。

 小川国夫は、1970年代にはそこそこ人気を博していた。あのころは高橋和巳の作品もみな新潮文庫で入手できた。バブルはほんとにこの国の精神風土を変えてしまった。ま、その話はいい。70年代には人気のあった小川さんだけど、それ以前は長く不遇であった。不遇というか、本人はさほど気にしてなかったらしいから無名の時期と言い換えるべきかもしれないが、地方の一介の同人誌作家として、けして短からぬ歳月を過ごした。昭和40(1965)年、38歳のころに短編集『アポロンの島』がとつぜん島尾敏雄の賞賛をうけて一挙に知名度をあげるのだが、その『アポロンの島』は8年も前に自費出版したものだったのだ。まあ悠長な時代だったんだなァ。そういえば、つげ義春の短篇で、「彼は当時まだ無名であった小川国夫をいち早く発見して私に薦めてくれた」といった文章をみた覚えがある。才能はあるのに生きるのが下手で社会の底辺を低迷している漫画家のエピソードとしてである。小川国夫とは、そんな事例に引き合いに出されるのが似つかわしい作家ではあった。

 「アポロンの島」は「新潮現代文学」にも収録されていて、ヘミングウェイの初期短篇を思わせる小品のスケッチ集である。文章は簡潔にして陰影に富み、個々の作品はそれぞれに強い緊張を孕んではいるが、しかし物語や劇が展開されるには至っていない。ヘミングウェイもそうだったけれど、いかに優れたものであれ、これだけではまだ一般の評価も集まらないし、作家としても認められがたい。「戦後短篇小説再発見」に採られた「相良油田」は、この『アポロンの島』につづく第二作品集『生のさ中に』の中に入っているものだ。じつはここでもまだ、物語や劇は展開されていない。小川国夫は物語作家ではなく、いわば生粋の「純文学」の書き手、純文学しかやれない人なのだ。ただここでは、ヘミングウェイの「ニック・アダムス」シリーズに倣って、作者の分身とおぼしき少年が成長していく挿話が(けして系統立てられてはいないが)順に積み重ねられている。だから「相良油田」は、短編集「生のさ中に」の流れにおいて読むのがいちばん望ましいのだが、しかしこれだけ読んでも十分に面白い。

 ――ちょっと熱を加えただけで揮発は蒸発します。放っておいたって蒸発しますね。うんと熱くしてやってもなかなか蒸発しないのは、悪い成分です。
 ――………………。
 ――ガソリンもいい成分ですね。八十度以上二百度以下で蒸発するんです。
 ――時枝さん、飛行機の燃料はなんですか。
 ――ガソリンです。
 ――そうガソリンですね。飛行機に使うガソリンは、とりわけいいものです。百度前後の熱で蒸留したものです。もっと質の悪いガソリンは……。
 ――自動車なんかに使います。
 ――そう、自動車や軽便のレールカーに使いますね。
 ――………………。
 ――軍艦の燃料はなんでしょうね。軍艦はなんで走るの。
 ――重油です。
 ――そう、重油ですね。では、重油をなん度くらいに熱してやると、上って来るんでしょう、青島さん。
 ――………………。
 ――教科書の表にあるでしょう。
 ――四百度以上です。
(以下略)

 作品はこんな会話ではじまる。「小説を会話で始めるのは、できれば控えたほうがよい」という戒めをそのむかし「小説の書き方」みたいな本で読んだ記憶があるが、小説には決まりごとなんてものはないので、要は書き手の腕次第である。会話を「」ではなく――であらわすのは終生かわらぬ小川さんのスタイルだった。深意は知らぬが、こだわりということなんだろう。ぼくも最初はマネしていた。こうすると、「」よりも会話の部分が地の文に溶け込んで、結果として作品全体に幻想的な風合いが増すように思う。このやりとり、小学校の教室で先生が生徒に授業をしている場面なのである。年代ははっきり書かれていないが、作者自身の年齢などを考え合わせると、おそらく太平洋戦争の始まる間際、すなわち昭和15(1940)年あたりらしい。「軍艦」という単語が出てくるのもそのせいだし、そもそも小学校の授業でこんなに石油の話に拘るのも、戦争という背景あってのことである。それにしてもこの会話、ぼくには何度読み返しても分からない。気がついた方はおられるだろうか。――ちょっと熱を加えただけで、という出だしの一行は、これはやっぱり先生の発言だろう。次の………………は、教室ぜんたいが黙って傾聴している感じ。そして次の――ガソリンもいい成分ですね、はとうぜん再び先生の発言だと思われるのだが、しかし、だとするとこの次の――時枝さん、飛行機の燃料はなんですか、が分からなくなる。あれ、先生はこの前に喋ってたよね? でも授業中に生徒に質問するのって、どう考えても先生しかないよね。だとするとこれが先生なの? え、じゃあさっきの――ガソリンもいい成分ですね、は誰なのよ。ていうか、そうなると、順に前へと戻っていって、冒頭の――ちょっと熱を加えただけで、までもが、もう誰のせりふだか分からなくなっちゃうじゃん。まさかこれ時枝さん? 時枝さん最初から喋ってたの? いやさすがにそれはないでしょ。といった具合に、よく分からなくなってくるわけだ。

 ぼくの解釈としては、――ガソリンもいい成分ですね。八十度以上二百度以下で蒸発するんです。から、――時枝さん、飛行機の燃料はなんですか、までが、先生による一連なりの発言であって、これを切断して二つに分けたのは作者の単純なミスでなければ一種のトリックであろう。後者の解釈に従うならば、ここからすでに小川マジックが始まっているわけで、読み進めればわかるとおり、この短篇は全編のほぼ8割が夢の情景という或る種異様な作品なのである。この冒頭の授業のもようは夢ではない。夢ではないが、この時点でもう、平凡な授業風景のようでいて、だれがどのせりふを喋っているのか、じつはゆらゆら揺らめいている。小川国夫の文体には、「明晰」という形容がよく使われるけれど、大理石に鑿(のみ)をふるうがごとく、端正かつ明晰な文章をこつこつと重ね、結果として「硬質なる夢幻」とでも呼ぶべき独特の世界を彫り上げるのが小川国夫という稀有の作家なのである。

 その②につづく。