「うっせぇわ」って曲が流行ってるってんでyoutubeで聴いてみたけど、なんというかね……。パンクスの精神を煎じ詰めれば「うっせぇわ」の一語に帰着するわけだから、「それはそうだろうね」としか言いようがないですね。この「~としか言いようがない。」とか、さらに進めて「~でしかない。」といった言い回しも、いかにも近年の流行りですけども。
べつにことさら楽曲にして言挙げされずとも、いまの中学生なんて全身で「うっせぇわ」を表現してますからね。「わざわざ歌ってくれんでも見てればわかるよ。」という……。基本、じぶんのスマホにしか興味ねえよって感じで、周りの人間を空気ほどにも思ってないでしょ。もちろん、礼儀正しくて感じのいい子もいるんだろうけど、私の体感としては、かなり荒廃している印象ですね。
人付き合いってのはたいそう煩わしいもので、「誰かと一緒にいて楽しい」という事例のほうがむしろ幸福な例外なんだしさあ……。「大人世代に対する反抗ではなく、コミュニケーションの断念そのものを歌った歌」という批評もみたけど、共同体っていうか、ニホン的なムラ社会がどんどんどんどん解体していって、表層だけのリベラリズムが蔓延すれば、そりゃあそういう按配にもなろうってもんで。
ひととひととがわかりあえるはずなんか根本的にありえないわけで、だから当面、とりあえず歩み寄りの手立てとして「コトバ」ってものがあるわけでね。コトバってのはぼくたちひとりひとりのものではある。だから、世界とか世間とか他者に対する憤懣だの呪詛だの絶望だのをひとわたり絶叫してみる、といった使い方は当然あっていい。というか、それは「文学」や「芸術」への初期衝動ですらあったりする。
だけど、その前にじつはコトバっては「社会」のもの(共有物)であり、さらには「歴史」のもの(産物)でもあるわけだ。早い話、いまのニホン社会に訴えたいからこそニホン語で歌ってるわけでしょ(「うっせぇわ!」のパートを「you say,wrong」に置き換えた秀逸な英訳版もyoutubeで視聴させて頂きましたが)。
つまり、「うっせぇわ!」が今の気分を映した楽曲として流行るのはべつにいいんだけども、その次のステージっていうか、コミュニケーションの復権、もしくは再生を目指すコトバってものが出てこなかったらちょっとヤだなって感じはありますね。でもそうなるととたんに「感動をありがとう。」みたいなベチャッとした感傷にいっちゃうんだよなあ……。そういうのではダメなんだよな。
ずいぶん間があいたんで、なにをいってたのか忘れちゃったんですけども、「江戸期より脈々と連なるサブカルの系譜」みたいな話をしてたんですよね。サブカルのこともいいんだけども、ぼくが強調したいのは「歴史ってのは繋がってるんだ」ってことです。
近ごろはいわゆる「貧農史観」が見直されてきて、「江戸時代はそれほど悪くなかった」から、果ては「あの時代こそ理想郷だ」みたいな説を唱える人までいるようだけど、ぼくはそこまで礼賛する気にはなれないですね。厳然たる身分制だったのは確かだし、因習の絡んだ停滞感とか閉塞感とか重苦しさは当然あったと思うから。でも、江戸期270年の蓄積がニホンの「近代」を準備したのは間違いない。
その泰平の礎を築いたのは徳川家康で、その偉大なる先駆者が織田信長。「織田が搗(つ)き羽柴が捏(こ)ねし天下餅 ただ楽々と食うは徳川」なんて狂歌があったけど、羽柴こと豊臣秀吉は信長の家来で、家康は信長の若年からの同盟者だから、格からいえば秀吉より上位。べつに横からいきなり出てきて簒奪したわけではない。
ひとつ確かにいえるのは、もし信長なかりせば、秀吉はもとより家康でさえけっして「天下統一」なんて偉業を成しえなかったってこと。それくらい信長の存在は大きい。このあたりは大河ドラマが戦後えんえんとやってきたから平成世代にも馴染み深い史実でしょう。
それで、じゃあその信長がでてくる前はなんでそんなに世の中が乱れてたのかっていうと、これがいわゆる戦国時代で、まあ時代区分の名称に「戦」って字が入ってるんだから乱れてたに決まってるんだけど、ではその前の「室町時代」がすんなり治まってたのかっていうと、これがぜんぜん治まってないわけですね。
「応仁の乱」というものがあった。始まったのは応仁だけど、元号が変わって「文明」となり、結局は文明9年までほぼ11年にわたってだらだらだらだら続いたもんで、「応仁・文明の乱」とも呼ばれますけども。西暦でいえば1467年から1477年。ちなみに信長が桶狭間で今川義元を……これは戦国を代表する名家の大大名ですが……を破って表舞台に華々しく登場するのが1560年だから、ほぼ100年前ってことになりますね。
Googleで「応仁の乱」と検索をかけると「応仁の乱 グダグダ」「応仁の乱 わかりやすく」といった候補が出る。じっさい、あの頃ってのはグダグダしててわかりにくくて、大河でも滅多に取り上げない。三田佳子が日野富子を演った1994(平成6)年の『花の乱』がほぼ唯一の例なんだけど、これは2012年に『平清盛』によって更新されるまで歴代のワースト視聴率記録を保持してたというね……。
たしかに内容も画像もむやみに暗くて陰気な印象でしたがね……でもキャストは豪華だし、人物相関図さえアタマに入ってればそれなりに面白いドラマではあった。ただ、これはほかの大河にもいえることだけど、「庶民」の生活が描かれないんだよね。どうしても殿上人(てんじょうびと)っていうか、偉い人たちだけの話になっちゃうんでね。宮廷ドラマになっちゃうわけ。
当時の庶民が何を食ってて、どんなとこに住んで、どんな着物を身につけて、どんな会話をして、どんな生業を営んでたかってあたりが描かれない……まあ描かれないわけでもないんだろうけど、それがいかにも時代劇ふうの紋切り型っていうか、「ちょっと安直だよな。」って感じで。先述のとおり、応仁の乱から信長の登場までは100年の径庭があるわけで、庶民の暮らしぶりも相応に変わってるはずなんだけど、なんか一緒くたなんだな。
馴染みがないから視聴率が取れない、視聴率が取れないから取り上げない、大河で取り上げないから馴染みがない……の悪循環で、「現代における講談」としての大河ドラマも、相変わらず「戦国→幕末(明治初期)→戦国→幕末(明治初期)」の繰り返しで……2022年の三谷幸喜脚本『鎌倉殿の13人』が久々の新機軸なんで、それはいいことだなあと思いますけども。やはり歴史ってものは多角的に見たいですよね。
いや、応仁の乱の話だった。
ぼくが応仁の乱に興味をもったのは、それが「どろろ」の時代背景になってたからなんだよね。正確にいうと、応仁の乱のあと、秩序の紊乱がいよいよ甚だしくなってきたころ、つまり戦国時代の濫觴っていうか、すなわち下剋上の時代ですね。
ここはすこぶるはっきりしていて、前に当ブログにも書いたけど、百鬼丸の父・醍醐景光が仕えているのが富樫正親で、これは実在の人物なんだ。このひとは加賀の「守護大名」で、史上名高い「加賀一向一揆」によって1488年に城を攻められて落命してるわけ。そこから加賀の国は、ほぼ90年にわたり、大名の統治をうけない「百姓の持ちたる国」となるわけね。手塚治虫はいちおうそれを念頭に置いて描いた。残念ながら昔の少年マンガは荒っぽかったから、原作は「意余って力足らず」という感じですが。でも2019年のMAPPA版アニメは本来の意図をかなり忠実に汲み上げてて、「民衆蜂起」による落城と、それに伴う醍醐景光の失脚をちゃんとラストに持ってきていた。
そういったことが起こるのも、応仁の乱の影響なくしてはありえない話で、応仁の乱は日本史上における画期なんですよ。内藤湖南(1866 慶応2~1934 昭和9。専門は東洋史)という大変な碩学がいらして、「応仁の乱に就て」という講演でそういっている。これは有名な説で、支持者も多く、青空文庫にもなってます。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000284/files/1734_21414.html
べつにことさら楽曲にして言挙げされずとも、いまの中学生なんて全身で「うっせぇわ」を表現してますからね。「わざわざ歌ってくれんでも見てればわかるよ。」という……。基本、じぶんのスマホにしか興味ねえよって感じで、周りの人間を空気ほどにも思ってないでしょ。もちろん、礼儀正しくて感じのいい子もいるんだろうけど、私の体感としては、かなり荒廃している印象ですね。
人付き合いってのはたいそう煩わしいもので、「誰かと一緒にいて楽しい」という事例のほうがむしろ幸福な例外なんだしさあ……。「大人世代に対する反抗ではなく、コミュニケーションの断念そのものを歌った歌」という批評もみたけど、共同体っていうか、ニホン的なムラ社会がどんどんどんどん解体していって、表層だけのリベラリズムが蔓延すれば、そりゃあそういう按配にもなろうってもんで。
ひととひととがわかりあえるはずなんか根本的にありえないわけで、だから当面、とりあえず歩み寄りの手立てとして「コトバ」ってものがあるわけでね。コトバってのはぼくたちひとりひとりのものではある。だから、世界とか世間とか他者に対する憤懣だの呪詛だの絶望だのをひとわたり絶叫してみる、といった使い方は当然あっていい。というか、それは「文学」や「芸術」への初期衝動ですらあったりする。
だけど、その前にじつはコトバっては「社会」のもの(共有物)であり、さらには「歴史」のもの(産物)でもあるわけだ。早い話、いまのニホン社会に訴えたいからこそニホン語で歌ってるわけでしょ(「うっせぇわ!」のパートを「you say,wrong」に置き換えた秀逸な英訳版もyoutubeで視聴させて頂きましたが)。
つまり、「うっせぇわ!」が今の気分を映した楽曲として流行るのはべつにいいんだけども、その次のステージっていうか、コミュニケーションの復権、もしくは再生を目指すコトバってものが出てこなかったらちょっとヤだなって感じはありますね。でもそうなるととたんに「感動をありがとう。」みたいなベチャッとした感傷にいっちゃうんだよなあ……。そういうのではダメなんだよな。
ずいぶん間があいたんで、なにをいってたのか忘れちゃったんですけども、「江戸期より脈々と連なるサブカルの系譜」みたいな話をしてたんですよね。サブカルのこともいいんだけども、ぼくが強調したいのは「歴史ってのは繋がってるんだ」ってことです。
近ごろはいわゆる「貧農史観」が見直されてきて、「江戸時代はそれほど悪くなかった」から、果ては「あの時代こそ理想郷だ」みたいな説を唱える人までいるようだけど、ぼくはそこまで礼賛する気にはなれないですね。厳然たる身分制だったのは確かだし、因習の絡んだ停滞感とか閉塞感とか重苦しさは当然あったと思うから。でも、江戸期270年の蓄積がニホンの「近代」を準備したのは間違いない。
その泰平の礎を築いたのは徳川家康で、その偉大なる先駆者が織田信長。「織田が搗(つ)き羽柴が捏(こ)ねし天下餅 ただ楽々と食うは徳川」なんて狂歌があったけど、羽柴こと豊臣秀吉は信長の家来で、家康は信長の若年からの同盟者だから、格からいえば秀吉より上位。べつに横からいきなり出てきて簒奪したわけではない。
ひとつ確かにいえるのは、もし信長なかりせば、秀吉はもとより家康でさえけっして「天下統一」なんて偉業を成しえなかったってこと。それくらい信長の存在は大きい。このあたりは大河ドラマが戦後えんえんとやってきたから平成世代にも馴染み深い史実でしょう。
それで、じゃあその信長がでてくる前はなんでそんなに世の中が乱れてたのかっていうと、これがいわゆる戦国時代で、まあ時代区分の名称に「戦」って字が入ってるんだから乱れてたに決まってるんだけど、ではその前の「室町時代」がすんなり治まってたのかっていうと、これがぜんぜん治まってないわけですね。
「応仁の乱」というものがあった。始まったのは応仁だけど、元号が変わって「文明」となり、結局は文明9年までほぼ11年にわたってだらだらだらだら続いたもんで、「応仁・文明の乱」とも呼ばれますけども。西暦でいえば1467年から1477年。ちなみに信長が桶狭間で今川義元を……これは戦国を代表する名家の大大名ですが……を破って表舞台に華々しく登場するのが1560年だから、ほぼ100年前ってことになりますね。
Googleで「応仁の乱」と検索をかけると「応仁の乱 グダグダ」「応仁の乱 わかりやすく」といった候補が出る。じっさい、あの頃ってのはグダグダしててわかりにくくて、大河でも滅多に取り上げない。三田佳子が日野富子を演った1994(平成6)年の『花の乱』がほぼ唯一の例なんだけど、これは2012年に『平清盛』によって更新されるまで歴代のワースト視聴率記録を保持してたというね……。
たしかに内容も画像もむやみに暗くて陰気な印象でしたがね……でもキャストは豪華だし、人物相関図さえアタマに入ってればそれなりに面白いドラマではあった。ただ、これはほかの大河にもいえることだけど、「庶民」の生活が描かれないんだよね。どうしても殿上人(てんじょうびと)っていうか、偉い人たちだけの話になっちゃうんでね。宮廷ドラマになっちゃうわけ。
当時の庶民が何を食ってて、どんなとこに住んで、どんな着物を身につけて、どんな会話をして、どんな生業を営んでたかってあたりが描かれない……まあ描かれないわけでもないんだろうけど、それがいかにも時代劇ふうの紋切り型っていうか、「ちょっと安直だよな。」って感じで。先述のとおり、応仁の乱から信長の登場までは100年の径庭があるわけで、庶民の暮らしぶりも相応に変わってるはずなんだけど、なんか一緒くたなんだな。
馴染みがないから視聴率が取れない、視聴率が取れないから取り上げない、大河で取り上げないから馴染みがない……の悪循環で、「現代における講談」としての大河ドラマも、相変わらず「戦国→幕末(明治初期)→戦国→幕末(明治初期)」の繰り返しで……2022年の三谷幸喜脚本『鎌倉殿の13人』が久々の新機軸なんで、それはいいことだなあと思いますけども。やはり歴史ってものは多角的に見たいですよね。
いや、応仁の乱の話だった。
ぼくが応仁の乱に興味をもったのは、それが「どろろ」の時代背景になってたからなんだよね。正確にいうと、応仁の乱のあと、秩序の紊乱がいよいよ甚だしくなってきたころ、つまり戦国時代の濫觴っていうか、すなわち下剋上の時代ですね。
ここはすこぶるはっきりしていて、前に当ブログにも書いたけど、百鬼丸の父・醍醐景光が仕えているのが富樫正親で、これは実在の人物なんだ。このひとは加賀の「守護大名」で、史上名高い「加賀一向一揆」によって1488年に城を攻められて落命してるわけ。そこから加賀の国は、ほぼ90年にわたり、大名の統治をうけない「百姓の持ちたる国」となるわけね。手塚治虫はいちおうそれを念頭に置いて描いた。残念ながら昔の少年マンガは荒っぽかったから、原作は「意余って力足らず」という感じですが。でも2019年のMAPPA版アニメは本来の意図をかなり忠実に汲み上げてて、「民衆蜂起」による落城と、それに伴う醍醐景光の失脚をちゃんとラストに持ってきていた。
そういったことが起こるのも、応仁の乱の影響なくしてはありえない話で、応仁の乱は日本史上における画期なんですよ。内藤湖南(1866 慶応2~1934 昭和9。専門は東洋史)という大変な碩学がいらして、「応仁の乱に就て」という講演でそういっている。これは有名な説で、支持者も多く、青空文庫にもなってます。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000284/files/1734_21414.html
「兎に角應仁の亂といふものは、日本の歴史に取つてよほど大切な時代であるといふことだけは間違のない事であります。而もそれは單に京都に居る人が最も關係があるといふだけでなく、即ち京都の町を燒かれ、寺々神社を燒かれたといふばかりではありませぬ。それらは寧ろ應仁の亂の關係としては極めて小さな事であります、應仁の亂の日本の歴史に最も大きな關係のあることはもつと外にあるのであります。」
「大體歴史といふものは、或る一面から申しますると、いつでも下級人民がだんだん向上發展して行く記録であると言つていいのでありまして、日本の歴史も大部分此の下級人民がだんだん向上發展して行つた記録であります。其中で應仁の亂といふものは、今申しました意味において最も大きな記録であると言つてよからうと思ひます。一言にして蔽へば、應仁の亂といふものの日本歴史における最も大事な關係といふものはそこにあるのであります。」
「さういふ風で兎に角是は非常に大事な時代であります。大體今日の日本を知る爲に日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆どありませぬ、應仁の亂以後の歴史を知つて居つたらそれで澤山です。それ以前の事は外國の歴史と同じ位にしか感ぜられませぬが、應仁の亂以後は我々の眞の身體骨肉に直接觸れた歴史であつて、これを本當に知つて居れば、それで日本歴史は十分だと言つていゝのであります、……」
旧字体だから読みづらいところもあるにせよ、もとが講演だから、論旨はきわめて明快ですね。「現代の日本を知るためには古代の歴史を研究する必要はない。応仁の乱いこうの歴史を勉強してればそれで沢山だ。」ってわけ。さすがにこれは極論だろうと思いますけども、それくらい、応仁の乱ってものは日本史にとっての画期だったってことですね。