ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

あらためて文学と向き合うための10作リスト・02 アンチ・ヒューマニズム

2022-03-26 | あらためて文学と向き合う。
 01からのつづき。


 ぼくは悲観的かつ過激な性格なので、根っこは反ヒューマニストである。人間を中心として物事を考えてはいない。早い話、いまの人類ってものはいったん滅んだほうがいいんじゃないか、とさえ腹の底では思っている。これほど文明が熟していながら、どうして軍事と縁が切れないのか。世界各国が軍事に費やしているマンパワーや経費や知的リソースをぜんぶ福利厚生に回したら、地球は明日にでも夢のような理想郷へと進化するだろう。人類のすべてとまではいかぬかも知れぬが、今と比べれば遥かに多くの人々が幸せに暮らせるはずだ。わかっていながらそれができない。今日もまた誰かが誰かの血を流し、弱者が苦難に晒されて、そのいっぽうで(ボブ・ディランが歌うところの)「戦争の親玉」どもが肥え太っている。どうにもこうにもしょうがない。
 ユヴァル・ノア・ハラリ氏の世界的ベストセラー『サピエンス全史』に続く第2作『ホモ・デウス』(原著は2017年刊)には、「もとより人類は多くの危難を克服できてはいないが、とりあえず深刻なパンデミック(疫病の蔓延)や大規模な戦争に見舞われることはないだろう。そのていどには聡明になってきたと思う。」というようなことが書いてある。大外れではないか。これはハラリ氏がうっかりしたというよりも、人類のほうが氏の想定よりも愚かでありすぎたのだと思う。
 『サピエンス全史』は人類の過去(歴史)を論じたもので、『ホモ・デウス』は未来を論じたものだ。そのぶんだけSFチックといえる。AIによって齎される未来がけして明るい展望だけではないと予見されている。そこは反ヒューマニズムである。SFとは近現代の文学が産み落とした鬼子みたいなジャンルで、もともと反ヒューマニズムが身上なのだ。中学時代のぼくはSFが大好きだった(文字どおりの中2だったわけだ)。根に反ヒューマニズムの資質を抱えているからSFに惹かれたのだろうし、SFを耽読するなかでいっそうそんな資質が高じたともいえる。
 そのあと高校に上がってから改めて「純文学」の魅力に気づいた。純文学というか、このたび扱っているような「主流派(メインストリーム)」の文学といったほうがいいかもしれぬが、こちらはもちろんヒューマニズムに貫かれている。『戦争と平和』なんてとりわけそうだ。トルストイはまさしく人類愛のひとである。
 だからぼくにとっての文学ってものは、自らをヒューマニズムの側に繋ぎとめておくための装置だともいえる。偉大な作品を読むたびに、そこに描き出された人生模様に思いを馳せ、そのような作品を書いた作家の才能に敬意を抱く。そのようにして、人間という存在に対する信頼感を取り戻し、「いまの人類ってほんとは滅んだほうがいいんじゃないの?」という自分の内の猛毒を中和しているわけである。
 といったわけで前回からつづく「その02」だけれども、『戦争と平和』『自負と偏見』『赤と黒』『カラマーゾフの兄弟』の4作がすんなり決まった反面、あとの選出は難航した。
 ⑤『ミドルマーチ』 ジョージ・エリオット(光文社古典新訳文庫。廣野由美子訳)。
 近代小説を確立したのは世界に先駆けて「市民社会」を築いた英国といっていいと思うが、その英国からの2作目がこれ。しかしこの国から2人の作家を選ぶとして、ひとりがジェイン・オースティンなのはいいとして、もうひとりは本来チャールズ・ディケンズを選ぶべきところだろう。英国を代表する大作家ディケンズさんを差し置いて、知名度において日本では劣るエリオット女史をリストアップしたのはひとえにぼくの好みゆえだ。廣野由美子さんによって新しく訳出された光文社古典新訳文庫版の『ミドルマーチ』がたいそう面白かったのである。
 もうひとつ、とかく男性にばかり偏りがちな(男性作家の数のほうが圧倒的に多かったのだから仕方ないが)文学史の中から、どうにかして女性作家をひとりでも多くリストに加えたかったという理由もある。
 そうはいっても『ミドルマーチ』をご存じの方はどれくらいおられるだろうか。ウィキペディア日本版「ミドルマーチ」の項を引用させて頂こう(一部を改稿)。



 ミドルマーチ(Middlemarch, A Study of Provincial Life)は、ジョージ・エリオットのペンネームをもつ英国の作家メアリー・アン・エヴァンズが執筆した小説。1871年と1872年に8回に分けて発表された。1829年から1832年までの架空のイングランド中部の商業都市ミッドランドを舞台に、それぞれ異なった生活環境の中でともに理想に燃える二人の男女の人生の経緯を描く。副題に「地方生活の一習作」とあるように、ミドルマーチの住民を描きながら、多彩な人生模様と心の動きを描いて、人生について深く考えさせる作品となっている。エリオットは1869年から1870年に小説を形成する2つの作品を書き始め、1871年に完成させた。当初の評価はまちまちであったが、後年ヴァージニア・ウルフが、この本を激賞して以来、今では彼女の最高傑作、英国における偉大な小説の1つと見なされている。


 付け加えておくと、この小説は近年いよいよ評価が高まり、「英国における偉大な小説の1つ」どころか、2015年にBBC(British Broadcasting Corporation英国放送協会)が英国以外の各国の批評家たちに対して行った「偉大なイギリス小説」のアンケートで堂々の1位に輝いている(ちなみに2位と3位は、やはり女性作家のヴァージニア・ウルフによる『灯台へ』と『ダロウェイ夫人』)。ディケンズの『大いなる遺産』が4位であった。






あらためて文学と向き合うための10作リスト・03につづく


あらためて文学と向き合うための10作リスト・01 外せない4作品。

2022-03-26 | あらためて文学と向き合う。

 今年に入ったら世界文学の古典的名作について論じようと思い、「あらためて文学と向き合う」というカテゴリまで作って昨年末から準備してたのに、『戦争と平和』について少し書きかけたところで、体調不良などで滞っているうち、プーチン大統領のウクライナ侵攻ですっかり気勢を殺がれてしまった。「文学に罪はない。」という言い方はできるし、「こんな時だからこそロシアの生んだ偉大な小説と向き合うことに意義がある。」という言い方もできるが、やはりこの状況下でロシアにまつわることを楽しげに語るのはどうにも気が引けるのだった。
 「あらためて文学と向き合う」のカテゴリでは、『戦争と平和』を皮切りに10本の作品を扱うつもりだった。『戦争と平和』ほどではないにせよどれも大物ばかりであり、相変わらず意気込みだけは立派である。そういえば「戦後短篇小説再発見を読む」のカテゴリも長らく中断している。ほかにも「いずれやります。」と言っておいて放りっぱなしになっていることが沢山あったと思うがどれくらいなのかは自分でもよくわからない。いいかげんな奴である。しかし「あらためて文学と向き合う」はごく最近の話なのだからこのままというのも落ち着かない。
 『戦争と平和』論は当面のあいだ憚られるので、今回は「論じる予定の作品リスト」および「それを選ぶに至った経緯」について述べたい。
 まず①、その『戦争と平和』だけれど、これは問答無用の即決だった。妥当な判断だと思う。評価の定まった古典的作品のなかでは、この長編を文学史上の最高峰に挙げる人はけして少なくないはずだ。ぼくとしては、高1の春にいきなり挫折して以来これまでの人生で何度か手を伸ばしながらも結局通読できなかった難物を克服する良い機会でもあった。望月哲夫氏の新訳が出て、これがすこぶる性に合っていて読みやすかったのだ。
 ②がジェイン・オースティン『自負と偏見』(新潮文庫。小山太一訳)。長らく親しまれた中野好夫訳に代わってのこれも新訳である。新しければいいってものでもないのだが、小山さんの日本語はいつも明晰で読みやすい。
 近代小説発祥の地ともいうべき英国からはまずジェイン・オースティンを選んだ。これもそんなに迷わなかった。1775(安永4)年生まれだからトルストイより50年ほど前のひとだ。作風はまるで対照的。さほど大きな題材は扱わず、日常の細部、感情のささやかな動きを緻密に描く。ネット上でどなたかが「トルストイが黒澤明ならばオースティンは小津安二郎」と評していた。少々荒っぽすぎる比喩かもしれぬが、ニュアンスとしてはそんなところである。
 「生きるための婚活」という普遍のテーマを扱っているゆえに、昔から根強いファンに支えられているし、小説史における女性作家の草分けということもあり(紫式部を除く)、近年になって専門家からの評価もますます高い。この人は外せないと思った。
 ③がスタンダールの『赤と黒』。大岡昇平訳。これもいくつか訳が出ているが、70年代に講談社版世界文学全集の一冊として出た大岡さんの訳である。これに関しては数種の訳を読み比べて厳選したわけでなく、家にあったものを選んだ。ぼくが20代の頃にはどの古本屋にも「文学全集」の端本が300円くらいで転がっていた。しっかりした装丁だから嵩張るのが難だが、貧乏な身にはあれはほんとに助かった。そのようにして手に入れた一冊である。
 そうはいっても大岡さんといえば戦後の日本を代表する作家であると共にスタンダリアン(スタンダールの研究家。あるいはマニア)としても高名だった。もともとスタンダールの翻訳や研究書から文業をはじめて創作へ移行していったのだ。丸谷才一流にいうなら「スタンダールの弟子」のひとりである。この訳は上下に分冊されて講談社文庫から出ていたが、今は絶版らしい。勿体ない。
 そしてまたトルストイもいうならばスタンダールの弟子なのだ。いかに彼が大才であろうとお手本もなしに『戦争と平和』は書けない。当時のロシアにはあの大作の導きになるような先行作品はなかった。スタンダールは1783(天明3)年生まれだからオースティンさんとおよそ同時代である。つまりトルストイの50年先輩。トルストイの頃のロシアはすべてにおいてフランスに範を仰いでいた。『戦争と平和』の中の「ワーテルローの戦い」の描出に当たって『パルムの僧院』の戦闘描写を参考にした……という話は有名だけれど、影響を受けたのがそこのところだけである筈はないのだ。
 村上龍のデビュウ作『限りなく透明に近いブルー』でも言及される『パルムの僧院』でもよかったのだが、より読みやすいほうということで、『赤と黒』にした。迷える青年ジュリアン・ソレルの苦難は現代ニッポンの若い世代にも共感できると思う。
 ④がドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』。上記3作と比べるといささか異色の小説なのだが、やっぱりこれも外せない。なにしろあの村上春樹が、『グレート・ギャツビー』『ロング・グッドバイ』と並べて「もっとも影響を受けた3冊」に選んでいる。発表されたのは1880(明治13)年ではあるが十分これは「現代小説」といっていい。少なくとも「現代小説の源流のひとつ」であるのは間違いない。
 日本では亀山郁夫氏が殊の外このドスト氏に拘って何冊も関連書籍を出しておられる。ぼくが選んだのもその亀山氏の光文社古典新訳文庫版である。今から10年前に出て、この手の古典としては異例なほどの売れ行きを示した。
 この4作は迷わなかった。ほぼ「スタンダード」といっていい。しかしそのスタンダードの中にロシアの小説が2作も入っているのはどういうことなのだろう。近代化の面でも文芸の面でも、あの国は常にヨーロッパ(西欧)に後れを取っていたはずなのだが。しかしその後進性ゆえに、同じく後発だった明治ニッポンの文学者にとってはちょうどよい規範となり、二葉亭四迷(1864/元治1~1909/明治42)を介して日本の近代小説はロシア文学の多大なる影響のもとに誕生したといっていいわけだけれども。



あらためて文学と向き合うための10作リスト・02につづく


22.03.20 ウクライナとロシアについて02

2022-03-20 | あらためて文学と向き合う。





 歴史を学ぶのも大切だけれど、何よりもまず、「なぜロシアは国際的な孤立を覚悟でこのような挙に出たのか?」という当面の疑問を抑えておかねば話が空回りしてしまう。ぼくはテレビを見ないし新聞も取っていないので、とりあえずネット頼りになるのだが、ざっと探してみたところ、このサイトが時系列をきれいにまとめて明快だった。天下の日経新聞である。






日本経済新聞 図解 ウクライナ なぜロシアはウクライナに侵攻したのか
https://www.nikkei.com/telling/DGXZTS00000970X10C22A2000000/




 肝心なのは、
①ウクライナはロシアにとって断じて失うことのできない隣国なのに、国内が反ロシア派と親ロシア派とに分かれて鬩ぎ合っていること、
②そして現状は反ロシア派が優勢であり、EU(European Union 欧州連合)およびNATO(North Atlantic Treaty Organization 北大西洋条約機構)への一日も早い加入を求めていること、
この2点だろう。
 「ロシアがウクライナのEU加盟を拒絶している。」という情報に接した覚えはない。プーチン大統領が何としても阻止したいのはNATO加盟のほうだ。NATOはあくまでアメリカ主導の軍事同盟だから、かつての東西冷戦における東側の領袖として、それだけは許しがたいということだ。1962(昭和37)年、アメリカの喉元というべきキューバにソ連が核ミサイルを配備して、あわや第三次世界大戦の寸前までいった「キューバ危機」が引き合いに出されるのもわからぬではない。
 これはすなわちEUが、つまりヨーロッパが自前の軍事同盟をもっていないから起こってしまう事態なのだろうが、かといって今からそういう組織を創ったらどうかというと、それはよけいに話が紛糾するだけだろう。これ以上世界に軍備を増やしてどうする。
 ウクライナ国内における反ロシア派と親ロシア派との確執の中で、反ロシア派が過激化して国内の平穏を脅かし、その脅威がロシア本国にも及んでいる……というのがプーチン側の派兵の口実(のひとつ)であり、「反ロシア派が過激化して云々」については前々回の記事で紹介した漫画『紛争でしたら八田まで ウクライナ編』にも描かれていたとおりではあるが、たとえいかなる理由があろうと他国の領土に侵攻して無理やりに言うことを聞かせようというのはこの時代にけっしてあってはならないことである。
 それにしても、このあいだの米大統領選でも痛感したが、この情報の洪水の中で「事実」と思しきものを見極めるのは難しい。ウクライナ問題については、アメリカの暗部を暴く作風で知られるオリバー・ストーン監督が、2004年の「オレンジ革命」や2014年の騒乱(これらの事件については冒頭にリンクを貼った日経のサイトを参照)の背後にうごめくCIAの謀略を強調して作った『ウクライナ・オン・ファイヤー』があり、いっぽうではまるっきり反対の立場から撮られた『ウィンター・オン・ファイヤー ウクライナ、自由への闘い』というドキュメンタリーもある。ほぼ対極の内容なのに紛らわしいほど題名が似通っているのは一体どういうことなのか。ともあれ、こういったものをなるべく多く見比べたうえで自分なりの判断を下すのが望ましいのだろうが、今のところ『ウィンター・オン・ファイヤー ウクライナ、自由への闘い』がわりあい容易に観られるのに対し、『ウクライナ・オン・ファイヤー』のほうはなかなかアクセスしづらいようだ。
 しかしまあ、何度でもしつこく書くけれど、たとえいかなる理由があろうと他国の領土に侵攻して無理やりに言うことを聞かせようというのはこの時代にけっしてあってはならないことである。この根幹原則だけは何としても揺るがせにはできまい。


 ここでまた少しだけ歴史をお浚いすると、今日の世界につながる民族自決の機運あるいは思想……すなわち「民族主義」が勃然と沸き上がったのはヨーロッパ全土をほぼ巻き込んだナポレオン戦争(1803/享和3 ~1815/文化12)の余勢である。ヨーロッパの国民国家独立運動は、いわばナポレオンの置き土産なのだ。そしてそのナポレオンによるロシア侵攻とロシア側の祖国防衛戦を文学史上有数の規模で描き切ったのがトルストイの『戦争と平和』(刊行は1869/明治2年)にほかならない。
 その「ヨーロッパの国民国家独立運動」は玉突きのように派生しながら同時進行的に拡がっていくが、前回の記事で取り上げたクリミアが舞台となった「クリミア戦争」(1853/嘉永5・6 ~ 1856/安政2・3)にトルストイは少尉として従軍し、セヴァストポリ包囲戦を経験して、『セヴァストポリ物語』というルポルタージュをものしている(この文章が絶賛を浴びたことが、本気で作家を志す契機となった)。
 当時のクリミア半島はもとよりロシア帝国の領土であったが、ロシア人とは別に「ウクライナ民族」なるものが存在し、ウクライナもまた独立国たるべし……という機運が盛り上がってきたのもまたこの頃なのだった。
 そんなわけで、ぼくがもっと若いうちから『戦争と平和』をじっくり読み込んでおればこの事態に際して作品論と現下の情勢とを織り交ぜながら面白いブログが書けたのかもしれないが、力が及ばないのがもどかしい。









22.03.17 ウクライナとロシアについて01

2022-03-17 | あらためて文学と向き合う。





 「文学に罪はない。」という考え方はできる。あるいは、もっと積極的に、「こんな時だからこそロシアの生んだ偉大な小説を読むことに意義がある。」という考え方もできる。とはいえこの状況下で、『戦争と平和』について楽しげに語ることにはやはり抵抗を禁じ得ない。間が悪すぎる。それもこれも、昨年末に準備を始めていながら一向に更新しなかった自分がよろしくないわけだが(体調とパソコンの調子とがともども優れないから仕方ないんだけども)、それにしても、何とも収まりのつかぬ気分だ。そういえば、日本を代表するロシア文学者で、『カラマーゾフの兄弟』の新訳で知られる亀山郁夫氏も、目下の状況を前にひとこと「絶望」と言っておられたが……。
 事態は時々刻々と動いており、ウクライナにとってもロシアにとっても世界にとっても悪い方向に進んでいる(としか思えない)のだけども、ぼくの癖として、こういう折には、より過去のほう、「起源」に近いほうへとアタマが向かう。とりあえず、前回の記事で紹介した黒川祐次氏の『物語 ウクライナの歴史』(中公新書)に目を通してみた。「ヨーロッパの歴史」といえば教科書でも一般書籍でもとかく「西欧」が中心となり、東欧~ビザンツ帝国~スラブ方面の記述は甚だ薄かったから、ページを繰るごとに知識が増えていくようで面白かった。といってもこの本の初版は2002年だから、2014年のロシアによる(事実上の)クリミア併合についての言及はない。243ページに、「(ソビエト連邦の崩壊に伴うウクライナの独立によって)ロシア人はあれほど愛したヤルタの保養地も、ロシア軍の歴史とともにあったセヴァストーポリも失うことになるのである。」との記述がみられる。
 この記述から12年後、その「ヤルタの保養地」や「軍の歴史とともにあったセヴァストーポリ」を含むクリミア半島(の一部)を、プーチン大統領は、事実上奪還するのだ。
 ロシアとウクライナとの確執は、このクリミアひとつ取って見ても極めて入り組んでいる。
 「ヤルタ会談」で有名なヤルタも、軍港として名高いセヴァストーポリも、もとはウクライナの領土内だった。ただし、それは1954年以降の話で、かつてはロシア帝国の土地であり、革命後は「ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国」の領土だったのである。
 ソ連という名称につき、平成生まれの若い世代には補足が要るかもしれない。「ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国」とは、プーチン率いる今のあの「ロシア連邦(正式名称)」のほぼ前身である。その「ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国」を巨大な中心として、ウクライナ、白ロシア(ベラルーシ)、ウズベク、カザフ、グルジア、アゼルバイジャン、リトアニア、モルダビア、ラトビア、キルギス、タジク、アルメニア、トルクメン、エストニアの15の国で構成されていたのがいわゆる「ソ連」であった。「米ソ対立の冷戦構造」という際の「ソ」とは、この「ソビエト連邦」のことだ。
 15国の顔ぶれをみてもわかるとおり、スラブ系のみならず、中央アジアの民も含んで人種は多岐にわたっている。かつての大日本帝国の「五族協和」ではないけれど、ソ連は多民族の協調を建前として謳っていたから、これらの国々の民族的な独立を認めたうえで、連邦に編入させていたのだ。民族主義を無理やりに抑えつけることはなかった。ただしもちろん、「社会主義」という絶対的なイデオロギーを奉じ、かつ、けっしてロシア及びロシア共産党に楯突くことがない、という条件の下で……であったことは言うまでもないが。
 1954年、時のソ連の最高権力者フルシチョフ……この人はウクライナ出身ではなかったが、終生ウクライナに好意的だった……が、「ウクライナに対するロシア人民の偉大な兄弟愛と信頼のさらなる証し」としてクリミアをウクライナ共和国に移管する。裏には様々な思惑があったが、いずれにせよ、「当時はウクライナが将来独立することなど毛頭考えられていなかったので、行政上の措置程度の軽い気持ちでなされた決定であっただろう。」(『物語 ウクライナの歴史』)。しかし、1991年のソビエト連邦崩壊により、ウクライナは独立し、クリミアもまたロシアの手から離れることとなる。返還交渉をしていれば……と同書を読みながらぼくはふと思ったが、考えてみれば当時の新生「ロシア連邦」はクーデター騒ぎなどもあって、とうていそんな余裕はなかった。
 「かつての強大なソ連の威信を取り戻す」ことを目標とするプーチン氏にとっては、クリミアの(事実上の)奪還は一つの所定のステップだったのかもしれない。世界はあのときもっと危機感を抱くべきだったのかもしれないが、今回みたいな正規軍を動かしての軍事侵攻ではなかったから、つい甘く受け止めてしまったのだろうか。
 それにしても、さらに時代を遡っていくと、この地域……というより所謂「西欧」からロシアに及ぶ(さらには北欧やらオスマン帝国やらイスラム圏やら中央アジアの草原までをも含めて)……に暮らす諸民族と諸国家が入り乱れての存亡を賭けた大曼荼羅には目が眩むようである。四方を海で隔絶された島国の住人にとっては、よほど想像を逞しくせねば届かないものだ。英国も島国ではあるが、アイルランドを抱えているし、何よりも大陸との緊張の中でアイデンティティーを形成してきた国であるから歴史が違う。
 ぼくたちに親しい作家のなかで、ロシアについてもっともふかく考察したのは司馬遼太郎だと思う。近代日本の形成を振り返るうえで避けては通れぬ「日露戦争」を描いた『坂の上の雲』は有名だけど、そのあとに書かれた『菜の花の沖』はそれほどの知名度はない。しかし、両作はいわば不可分であり、近代(明治)における日露関係を描いたものが「坂の上」だとすれば、それ以前、江戸期から幕末にかけての日露の関わりを描いたものが「菜の花」なのである。『菜の花の沖』はエッセイふうの叙述が多くて物語的な興趣に乏しいと評されたりもするけれど、「近代(明治)以前の日露交渉史」の解説とみるならこれほどわかりやすくて面白い読み物もない。そういう観点から読まれるべきものだろう。
 さらに、この『菜の花の沖』でみられた司馬さん流のロシア観、ロシア論の濃密な集成として、『ロシアについて ―北方の原形』というエッセイがあり、読売文学賞をとっている。これらはいずれも文春文庫に入っていて、電子書籍化もされている。
 『物語 ウクライナの歴史』を読むまでは、ロシアにまつわるぼくの知見はもっぱらこの『ロシアについて』に負っていた。






22.03.02 緊急投稿・ウクライナのこと。

2022-03-02 | 政治/社会/経済/軍事






 よもや『戦争と平和』の話をしている時にこのような事態が勃発するとは思わなかった。いやまあ「話をしている時」っつったって、実際にはほとんどしてないんですけども。なにしろ2022年に入って更新がまだ2回だけという。
 それはまあそれとして。
 ロシア軍がウクライナに侵攻した先月(2月)24日、NHKがBSプレミアムでたまたま『戦争と平和』……オードリー・ヘプバーンがナターシャ、ヘンリー・フォンダがピエールを演った1956年の映画……を放映して、「なんて皮肉な偶然だ」と一部で話題になったらしいんだけど、歴史ってものは何らかのかたちで繋がってるから、この手の巡り合わせってのもふつうに起こりうるんでしょうね。





 ところで、その大作『戦争と平和』はアメリカとイタリアの合作なので、ヘプバーンのナターシャも、フォンダのピエールも、メル・ファーラーのアンドレイ侯爵も、みんな英語で喋ってるわけね。そりゃハリウッドではモーゼだってクレオパトラだって古代ローマの剣闘士だってモーツァルトだって、ついでに銀河の彼方のジェダイたちだって、みんなアメリカ英語で喋ってきたわけで、べつにいいんだろうけど、東西対抗だの冷戦構造だのといっても、やはり戦後の世界ってものは圧倒的にアメリカを中心に回ってきたことは間違いない。その一端がこんなところにも伺えると思う。
 このたびのロシアによるウクライナへの侵攻は、「東西冷戦終結後の世界秩序を破壊する歴史的な暴挙」ということになっていて、また、「主権の尊重・領土の一体化・国際法順守などの原則に基づく国際秩序を揺るがす暴挙」ともいわれており、それはまったくそのとおりだと思うけれども、そういう論調を見ていると、だったらアメリカが2003(平成15)年に起こしたイラク戦争はどうなんだ、という思いがどうしても湧いてくるんだなあ……。
 この状況でそんなことを口にしたら「いま言うことか」「空気読め」といわれそうだけど、「ヨーロッパの秩序に対する強引な現状変更」がここまで非難されるのに、「中東の秩序に対する強引な現状変更」が何だかんだで罷り通って、いまだに有耶無耶になってるってのがどうもね……あれはやっぱりアメリカという国の歴史的な汚点のひとつであると思いますけどね。
 もちろん、いかにドストエフスキーとトルストイとをこよなく敬愛するとはいえ、ぼくはとうぜんロシアよりアメリカのほうがだんぜん好きだし、そもそも日本で生きる一国民として、選択の余地そのものが無いわけですが。アメリカが「イラクを攻めるから支持しろ。」と言ってきたら「畏まりました。」と言ってそれに従い、「ロシアに対する制裁に加われ。」と言ってきたら「畏まりました。」と言ってそれに従う。そんなふうにしてこの国は戦後80年近くを過ごしてきたわけで、ことさら卑屈だとも情けないとも思わない。それこそ「(太平洋)戦(争)後の世界秩序」というもので、仕方がないと思ってます。
 とはいえ、その調子でこれからも平穏無事でやっていけるかどうか、ちょっと怪しくなってきた気もしますがね……。いまひとつ議会制民主主義が機能してない覇権主義国家は、いつ暴走を始めるかわからない。そういった不安が顕在化した事例ともいえるわけだから……。














 それにしても、今この時期にウクライナへの侵攻とはなあ……。いやソ連時代の1979(昭和54)年にもアフガニスタン侵攻というのがありましたがね……。それは上で述べたアメリカによるイラク戦争にも深くかかわる話で、やはり因果がぜんぶ繋がってるんだけど、当時のアフガニスタンと比べたら、いまのウクライナはずっと安定した主権国家なんだからね……。NATOに加入されるのが嫌だったって……。なんだ、ぜんぜん冷戦構造終わってないじゃんって話ですよね。
 ただ、そんなこといっても、ぼくはこれまでウクライナのことはよく知らなくて、ここ4、5日くらいでネットを漁ってにわか勉強したクチなんで……そこは大多数のひとがそうじゃないかと思うんだけど。
 中公新書の「物語各国史」の一冊として、『ウクライナの歴史』というのが出てますね。簡潔な通史で、入門書として定評あるシリーズだけど、『ウクライナの歴史』の原本(紙媒体)の初版は2002年。副題が「ヨーロッパ最後の大国」。内容説明と目次はこうなってます。






ロシア帝国やソヴィエト連邦のもとで長く忍従を強いられながらも、独自の文化を失わず、有為の人材を輩出し続けたウクライナ。不撓不屈のアイデンティティは、どのように育まれてきたのか。スキタイの興亡、キエフ・ルーシ公国の隆盛、コサックの活躍から、1991年の新生ウクライナ誕生まで、この地をめぐる歴史を俯瞰。人口5000万を数え、ロシアに次ぐヨーロッパ第二の広い国土を持つ、知られざる「大国」の素顔に迫る。


目次
第1章 スキタイ―騎馬と黄金の民族
第2章 キエフ・ルーシ―ヨーロッパの大国
第3章 リトアニア・ポーランドの時代
第4章 コサックの栄光と挫折
第5章 ロシア・オーストリア両帝国の支配
第6章 中央ラーダ―つかの間の独立
第7章 ソ連の時代
第8章 350年間待った独立




 


 これは電子書籍化されてますね。きちんと基本を抑えるには、こういう書籍がいいんだろうけど、より手っ取り早く、背景をざっくり掴みたいというならば、こういうメディアもいいかもしれない。日本が世界に誇る(サブ)カルチャー、すなわち漫画なんですが。




コミックDAYS(講談社)
田素弘『紛争でしたら八田まで』ウクライナ編・全6話(単行本 2巻・3巻所収)
期間限定 無料公開
https://comic-days.com/episode/13933686331616212564




 イギリスに本社を置く企業に所属するリスク・コンサルタントの八田百合(この記事の冒頭に画像を掲げたメガネの女性)が世界各地に赴き、持ち前の行動力と格闘術、そして卓越した地政学の知識を生かして紛争を解決していく痛快ストーリー。その中の「ウクライナ編」が、今回の事態を受けて無料公開されてます。講談社さんの英断ですね。アクションものには違いないけれど、どぎつい描写はなく、楽しく読めて基礎がわかる。何よりも明朗で、ハッピーエンドなのがいい。ぼくもさきほど卒読しましたが、とても良かった。なにぶん期間限定なので、取り急ぎご紹介まで。