このgooブログに越してきてかれこれ5年になるので、当初の記事をざっと読み返してみたら、文体も論旨もひどく強張っていてさっぱり面白くないんだけども、当時のぼくが「物語批判」なるモットーを掲げて意気盛んだったことだけはよくわかった。
ここで「物語」というのは多層な意味を含んでいて、「ぷちナショナリズム」みたいなものから、「ひとを思考停止に導くような、安っぽいセンチメンタルなお話」みたいなものまで射程に入る。あの頃はそういったものを一緒くたにして、かなり粗っぽい議論をしていた。その粗さについては、「物語の愉楽」というカテゴリのなかで、少しずつだが、この5年のうちにそこそこ詰めていけたと思ってますが。
ともあれ、かつてのワタシは「物語」を頑として否定しておった。その代わりに顕揚していたのが「純文学」だ。世に蔓延する「物語」を解毒するものは純文学を置いてほかにない。みなさんもっと純文学を読みましょう、という主張で、その情熱がブログを続ける動力だったといっていい。
それが今や、ネットから拝借したカラフルな画像をむやみやたらと貼っ付けて、嬉々としてアニメの話なぞをしている。純文学より、あきらかにそっちに力が入っている。理由はどうあれ、われながらこれは変節だなあと思う。物語のもつ魔性の力に、たあいなく屈しちゃったというか。
とはいえ、人生なんてのはそのときどきで「面白い。」と思えることをちまちまと掘り進めてくしかないわけで、当面はこのセンでいかなきゃしょうがない。
いうまでもなく、アニメというのは現代ハイテク日本が生んだ最高最大の「物語の器」だ。玉石混淆ながら、そこには膨大な蓄積があり、かつ、それを踏まえて日々また新しい作品が生み出されている。その全容を隈なく把握するのは誰にとってもたぶん物理的(時間的)に不可能であろう。むろん、べつに全容を把握する必要なんかないんだろうけどね。
ぼくはほとんどテレビを見ないので、全容どころか年にせいぜい2本か3本ていどのアニメにふれるだけだが、2016年の今頃は、映画『君の名は。』に熱を上げていた。劇場を出たのち数週間経っても覚めやらず、しばらくは酩酊に近い心持ちでいた気もするが、今にして思えば、じつは内容よりも映像美に魅了されていたようだ。
昨年(2018年)は、ほぼ夏を越すまでは『HUGっと!プリキュア』に、そのあとは『宇宙よりも遠い場所』に夢中になった。自分の中では、「いじめ」という題材を介して「HUプリ」が「よりもい」に上位互換された格好だった。
この2019年は、最新リメイク版『どろろ』だけれど、『スター☆トゥインクルプリキュア』も引き続き見ている。去年のやつが妙に大人っぽすぎたため、あからさまに、本来の視聴対象に合わせて作られている。だからそれほど熱心になれなかったけど、ここにきて、がぜん深みを増し、面白くなってきた。夏を越してから興味が高まりつつあるわけで、HUGプリとは逆になっている。
さて。「物語」と「純文学」との違いってのは、起伏にとんだストーリーとか、日常から懸け離れた冒険とか、ミステリーないしサスペンスの要素とか、色々と数え立てられるところだが、何よりもまず、「登場人物たちの感情のうねり」にこそ指を屈するべきではないか、という気が最近はしている。
それは、来年早々スピンオフの新作が放映されるとのことで、宣伝とおさらいを兼ねて8年ぶりに再放送された『魔法少女まどか☆マギカ』をみて痛感させられたことだ。全12話のこのテレビシリーズでは、年端もいかぬ娘さんたちが壮絶なディスコミュニケーション(関係不全)と葛藤のドラマを繰り広げ、そこに脈打つ愛憎の重量がただごとではない。前々回の記事にも書いたが、私の知るかぎり、ギリシア悲劇かシェイクスピア、あとはエミリ・ブロンテの『嵐が丘』を引き合いに出すよりないくらいである。
シナリオが無料でネットで見られるので、ひととおり読ませていただいたけれど、やはり字面だけではそこまでの迫真性はない。映像とBGMと音響、それに声優さんの芝居が重なってこその達成なのだ。
ことに、事実上の主人公というべき暁美(あけみ)ほむら(CVは斎藤千和さん)の造形がすごい。「タイムリープ」という、或る意味で使い古された素材を使って、よくぞこれほど鮮やかなキャラをつくったものだ。
ここで「物語」というのは多層な意味を含んでいて、「ぷちナショナリズム」みたいなものから、「ひとを思考停止に導くような、安っぽいセンチメンタルなお話」みたいなものまで射程に入る。あの頃はそういったものを一緒くたにして、かなり粗っぽい議論をしていた。その粗さについては、「物語の愉楽」というカテゴリのなかで、少しずつだが、この5年のうちにそこそこ詰めていけたと思ってますが。
ともあれ、かつてのワタシは「物語」を頑として否定しておった。その代わりに顕揚していたのが「純文学」だ。世に蔓延する「物語」を解毒するものは純文学を置いてほかにない。みなさんもっと純文学を読みましょう、という主張で、その情熱がブログを続ける動力だったといっていい。
それが今や、ネットから拝借したカラフルな画像をむやみやたらと貼っ付けて、嬉々としてアニメの話なぞをしている。純文学より、あきらかにそっちに力が入っている。理由はどうあれ、われながらこれは変節だなあと思う。物語のもつ魔性の力に、たあいなく屈しちゃったというか。
とはいえ、人生なんてのはそのときどきで「面白い。」と思えることをちまちまと掘り進めてくしかないわけで、当面はこのセンでいかなきゃしょうがない。
いうまでもなく、アニメというのは現代ハイテク日本が生んだ最高最大の「物語の器」だ。玉石混淆ながら、そこには膨大な蓄積があり、かつ、それを踏まえて日々また新しい作品が生み出されている。その全容を隈なく把握するのは誰にとってもたぶん物理的(時間的)に不可能であろう。むろん、べつに全容を把握する必要なんかないんだろうけどね。
ぼくはほとんどテレビを見ないので、全容どころか年にせいぜい2本か3本ていどのアニメにふれるだけだが、2016年の今頃は、映画『君の名は。』に熱を上げていた。劇場を出たのち数週間経っても覚めやらず、しばらくは酩酊に近い心持ちでいた気もするが、今にして思えば、じつは内容よりも映像美に魅了されていたようだ。
昨年(2018年)は、ほぼ夏を越すまでは『HUGっと!プリキュア』に、そのあとは『宇宙よりも遠い場所』に夢中になった。自分の中では、「いじめ」という題材を介して「HUプリ」が「よりもい」に上位互換された格好だった。
この2019年は、最新リメイク版『どろろ』だけれど、『スター☆トゥインクルプリキュア』も引き続き見ている。去年のやつが妙に大人っぽすぎたため、あからさまに、本来の視聴対象に合わせて作られている。だからそれほど熱心になれなかったけど、ここにきて、がぜん深みを増し、面白くなってきた。夏を越してから興味が高まりつつあるわけで、HUGプリとは逆になっている。
さて。「物語」と「純文学」との違いってのは、起伏にとんだストーリーとか、日常から懸け離れた冒険とか、ミステリーないしサスペンスの要素とか、色々と数え立てられるところだが、何よりもまず、「登場人物たちの感情のうねり」にこそ指を屈するべきではないか、という気が最近はしている。
それは、来年早々スピンオフの新作が放映されるとのことで、宣伝とおさらいを兼ねて8年ぶりに再放送された『魔法少女まどか☆マギカ』をみて痛感させられたことだ。全12話のこのテレビシリーズでは、年端もいかぬ娘さんたちが壮絶なディスコミュニケーション(関係不全)と葛藤のドラマを繰り広げ、そこに脈打つ愛憎の重量がただごとではない。前々回の記事にも書いたが、私の知るかぎり、ギリシア悲劇かシェイクスピア、あとはエミリ・ブロンテの『嵐が丘』を引き合いに出すよりないくらいである。
シナリオが無料でネットで見られるので、ひととおり読ませていただいたけれど、やはり字面だけではそこまでの迫真性はない。映像とBGMと音響、それに声優さんの芝居が重なってこその達成なのだ。
ことに、事実上の主人公というべき暁美(あけみ)ほむら(CVは斎藤千和さん)の造形がすごい。「タイムリープ」という、或る意味で使い古された素材を使って、よくぞこれほど鮮やかなキャラをつくったものだ。
冷ややかで沈着、どうしても必要とあらば人の命も奪いかねないほむら。「クールほむら」を略して、俗に「クーほむ」と称されるらしい
まだ初心で純真だった頃のほむら。「眼鏡ほむら」を略して「メガほむ」と称される。この人が数多の辛酸を舐めて上記のように変貌する
「♬交わした約束 忘れないよ」ではじまる主題歌「コネクト」は、タイトルロールのまどかじゃなく、彼女のことを歌ったものだ(それが視聴者にわかるのは10話を迎えたときだが)。いわば『君の名は。』で瀧くんがやろうとしたことを、彼女はあたかもギリシア神話のシーシュポス(シジフォス)のごとく、際限もなく幾たびも繰り返すのだが、それが「たった一人の友だちのため」というのが最大のキモなのである。
全体の骨格というか基盤をつくった脚本担当の虚淵玄の功績は疑うべくもないけれど、2011年の時点で虚淵さんがこのような構想を立てられたのも、2004年からの『ふたりはプリキュア』に始まる東映のプリキュアシリーズ、すなわち「戦う魔法少女」という日本ならではの不可思議なるフォーマットが広く浸透していたからだ、という点は見逃されてはなるまい。