ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

5年前の初心を苦々しく思い返しつつ、あらためて「まどか☆マギカ」のこと。

2019-10-31 | プリキュア・シリーズ
 このgooブログに越してきてかれこれ5年になるので、当初の記事をざっと読み返してみたら、文体も論旨もひどく強張っていてさっぱり面白くないんだけども、当時のぼくが「物語批判」なるモットーを掲げて意気盛んだったことだけはよくわかった。
 ここで「物語」というのは多層な意味を含んでいて、「ぷちナショナリズム」みたいなものから、「ひとを思考停止に導くような、安っぽいセンチメンタルなお話」みたいなものまで射程に入る。あの頃はそういったものを一緒くたにして、かなり粗っぽい議論をしていた。その粗さについては、「物語の愉楽」というカテゴリのなかで、少しずつだが、この5年のうちにそこそこ詰めていけたと思ってますが。
 ともあれ、かつてのワタシは「物語」を頑として否定しておった。その代わりに顕揚していたのが「純文学」だ。世に蔓延する「物語」を解毒するものは純文学を置いてほかにない。みなさんもっと純文学を読みましょう、という主張で、その情熱がブログを続ける動力だったといっていい。
 それが今や、ネットから拝借したカラフルな画像をむやみやたらと貼っ付けて、嬉々としてアニメの話なぞをしている。純文学より、あきらかにそっちに力が入っている。理由はどうあれ、われながらこれは変節だなあと思う。物語のもつ魔性の力に、たあいなく屈しちゃったというか。
 とはいえ、人生なんてのはそのときどきで「面白い。」と思えることをちまちまと掘り進めてくしかないわけで、当面はこのセンでいかなきゃしょうがない。
 いうまでもなく、アニメというのは現代ハイテク日本が生んだ最高最大の「物語の器」だ。玉石混淆ながら、そこには膨大な蓄積があり、かつ、それを踏まえて日々また新しい作品が生み出されている。その全容を隈なく把握するのは誰にとってもたぶん物理的(時間的)に不可能であろう。むろん、べつに全容を把握する必要なんかないんだろうけどね。
 ぼくはほとんどテレビを見ないので、全容どころか年にせいぜい2本か3本ていどのアニメにふれるだけだが、2016年の今頃は、映画『君の名は。』に熱を上げていた。劇場を出たのち数週間経っても覚めやらず、しばらくは酩酊に近い心持ちでいた気もするが、今にして思えば、じつは内容よりも映像美に魅了されていたようだ。
 昨年(2018年)は、ほぼ夏を越すまでは『HUGっと!プリキュア』に、そのあとは『宇宙よりも遠い場所』に夢中になった。自分の中では、「いじめ」という題材を介して「HUプリ」が「よりもい」に上位互換された格好だった。
 この2019年は、最新リメイク版『どろろ』だけれど、『スター☆トゥインクルプリキュア』も引き続き見ている。去年のやつが妙に大人っぽすぎたため、あからさまに、本来の視聴対象に合わせて作られている。だからそれほど熱心になれなかったけど、ここにきて、がぜん深みを増し、面白くなってきた。夏を越してから興味が高まりつつあるわけで、HUGプリとは逆になっている。
 さて。「物語」と「純文学」との違いってのは、起伏にとんだストーリーとか、日常から懸け離れた冒険とか、ミステリーないしサスペンスの要素とか、色々と数え立てられるところだが、何よりもまず、「登場人物たちの感情のうねり」にこそ指を屈するべきではないか、という気が最近はしている。
 それは、来年早々スピンオフの新作が放映されるとのことで、宣伝とおさらいを兼ねて8年ぶりに再放送された『魔法少女まどか☆マギカ』をみて痛感させられたことだ。全12話のこのテレビシリーズでは、年端もいかぬ娘さんたちが壮絶なディスコミュニケーション(関係不全)と葛藤のドラマを繰り広げ、そこに脈打つ愛憎の重量がただごとではない。前々回の記事にも書いたが、私の知るかぎり、ギリシア悲劇かシェイクスピア、あとはエミリ・ブロンテの『嵐が丘』を引き合いに出すよりないくらいである。
 シナリオが無料でネットで見られるので、ひととおり読ませていただいたけれど、やはり字面だけではそこまでの迫真性はない。映像とBGMと音響、それに声優さんの芝居が重なってこその達成なのだ。
 ことに、事実上の主人公というべき暁美(あけみ)ほむら(CVは斎藤千和さん)の造形がすごい。「タイムリープ」という、或る意味で使い古された素材を使って、よくぞこれほど鮮やかなキャラをつくったものだ。





冷ややかで沈着、どうしても必要とあらば人の命も奪いかねないほむら。「クールほむら」を略して、俗に「クーほむ」と称されるらしい





まだ初心で純真だった頃のほむら。「眼鏡ほむら」を略して「メガほむ」と称される。この人が数多の辛酸を舐めて上記のように変貌する


 「♬交わした約束 忘れないよ」ではじまる主題歌「コネクト」は、タイトルロールのまどかじゃなく、彼女のことを歌ったものだ(それが視聴者にわかるのは10話を迎えたときだが)。いわば『君の名は。』で瀧くんがやろうとしたことを、彼女はあたかもギリシア神話のシーシュポス(シジフォス)のごとく、際限もなく幾たびも繰り返すのだが、それが「たった一人の友だちのため」というのが最大のキモなのである。
 全体の骨格というか基盤をつくった脚本担当の虚淵玄の功績は疑うべくもないけれど、2011年の時点で虚淵さんがこのような構想を立てられたのも、2004年からの『ふたりはプリキュア』に始まる東映のプリキュアシリーズ、すなわち「戦う魔法少女」という日本ならではの不可思議なるフォーマットが広く浸透していたからだ、という点は見逃されてはなるまい。









『魔法少女まどか☆マギカ』について。

2019-10-04 | プリキュア・シリーズ
 中世の話はいったん置いて、本日はこのお題にて。




 『魔法少女まどか☆マギカ』は、プリキュアシリーズを見慣れた私にとってすら、ずっと敷居が高かったですね。全12話の放送が終わった2011年の10月に「ユリイカ」が特集を組んだんで(それも臨時増刊号だぜ)、いちおう買って読んだものの、なんせ本編を観てないもんで、個々の論考は面白かったけど、全体としてはよくわからなかった。ま、当たり前ですが。
 2011(平成23)年といえば、このgooブログに越してくる前で、私はまだ「物語の愉楽」に目覚めておらず、ガッチガチの純文学脳でしたしね。「社会現象」といえるくらいの話題をまいていたのは知っていたけど、どうしても見る気にはなれなかった。
 いや、なにが敷居高いって、まずキャラクターの造形ですよ。






 これですからね。もはや「萌え絵」ですらないという。ほぼ限界まで記号化された「女の子」像。そりゃ可愛いっちゃあ可愛いんだろうけど、ギャグをまぶした日常系4コマまんがのキャラデザですよね。
 とくに顔の輪郭がね。シンプルなのはいいとして、なぜこう横に広いのか。聞けば、テレビ画面の縦横比において、もっとも無駄がなく、表情を豊かに描けるサイズらしいんですよ。きちんと計算されてるわけだ。
 それにしても、歴代プリキュアのキャラだと、馬越嘉彦氏による『ハートキャッチプリキュア!』を除いて、ここまでシンプルなものはないよね。東映動画の伝統なのかもしれないけど、これと比べたら劇画チックにすらみえる。だからその分、アクションシーンでは動かすのが大変そうだ。
 「まどマギ」のキャラデザは、じつはアクションに向いている。とはいえここまで可愛らしいと、よほどメルヘンチックなものしかつくれない……はずなんだよね本来は。ところがそれで、思いっきりディープでハードなダークファンタジーをやった。そこがまず、制作陣の鮮やかな戦略であったと。
 むろん戦略だけではここまで売れません。ちゃんと裏打ちがある。その「ディープでハードなダークファンタジー」を支えるのは、緻密で堅牢な背景美術です。




















 こちらは劇場映画版の映像なんで、テレビ版よりずっと丁寧に造りこまれているけど、新海誠作品にも引けを取らない美麗さでしょう。これだけ切り取っても鑑賞に耐える。
 つまり、背景美術とキャラクターデザインとがそぐわないんだよね。でもそれは、けっして乖離してるってことじゃなく、その逆で、このミスマッチがただならぬ相乗効果を生んでいく。
 しかも、このリアリスティックな背景の中に、もうひとつ別の位相の空間が混入してくる。制作陣のなかに、「異空間設計」なるポジションがわざわざ設けられていた。これは放送当時から評判になってたようですが。







 主人公の鹿目まどかたちは、「魔法少女」に変身して「魔女」と戦うわけだけど、その魔女たちはそれぞれ固有の「結界」をもっており、その中に人を引きずり込む。その「結界」の中のイメージってのがこんな感じなわけです。こちらも映画版から引用させて頂いたものだけど、きわめて情報量が多い。上は「不思議の国のアリス」、下は「白鳥の湖」がモティーフになってるようですが、他にもぎっしり詰め込まれてて、たやすくは解読しきれません。
 影響関係については、マックス・エルンストの『百頭女』ほか、いろいろなものが連想されるとこだけど、私が読んだうちでもっとも詳しかったのは、『超解読 まどかマギカ』(三才ムック vol.421)中の、屋根裏☆3世氏による考察「シュルレアリズムと劇団イヌカレー空間」ですね(「劇団イヌカレー」というのが、この「異空間設計」を担当した工房です)。そこにはロシアのユーリ・ノルシュテイン、チェコのヤン・シュバンクマイエルといった有名どころに加えて、日本のflashアーティストのお名前なども挙がってます。
 シンプルでキュートなキャラデザと、緻密かつ堅牢かつ美麗なる背景、そして独特の「イヌカレー空間」。これら三層のレイヤーが織り成す空間造形はほんとに見事で、ほとんど幻惑的といっていい。
 そしてそこに、梶浦由記さんによるBGMが被さる。『歴史秘話ヒストリア』の音楽担当といえば「ああ。」と思われる方も多いでしょう。ミサ曲のように荘厳でありつつ、あくまでもポップな曲づくり。この方の存在ももちろん欠かせません。
 そしてもちろん、練りに練ったシナリオと、声優陣の熱演……。多くの人が魅了されたのも無理はない。


 さっきから劇場版劇場版といってますが、「まどか☆マギカ」は2011年に全12話が放送されたあと(東日本大震災の影響で、最終話の放送を巡ってはかなり曲折があったそうだけど)、劇場用映画として3部作が制作・公開されたんですね。2012年の10月に『[前編]始まりの物語』『[後編]永遠の物語』の2作。これはテレビシリーズを編集し、新たなカットを加えたり、アテレコをほぼ総入れ替えするなどして再構成したもの。
 そしてその続編として、『[新編]叛逆の物語』が2013年10月に公開。こちらは完全なる新作でしたが、テレビシリーズの結末を覆すもので、ファンの間で賛否が割れたと聞いてます。そういったことを配慮してか、総監督の新房昭之氏は、「新作は劇場版の続きであり、テレビシリーズの続きではない。」との趣旨の発言をされたとか。別の世界線……というやつでしょうか。テレビシリーズはテレビシリーズ、劇場版は劇場版。近頃はそういうのも珍しくなくなりましたね。


 『叛逆の物語』は、表層の次元においては、チャイコフスキーの三大バレエ「白鳥の湖」「くるみ割り人形」「眠れる森の美女」をモティーフにしてると思います。「白鳥の湖」は、上記の画像でも出てましたね。
 しかし、もっと深い次元では、あれはポスト・イギリス・ルネサンス期の大詩人ジョン・ミルトン(John Milton 1608 慶長13~1674 延宝2)の『失楽園』ですね。「叛逆」は、永井豪のあの問題作『デビルマン』を媒介として、『失楽園』につながっている。まさに至高の神に叛逆するルシファーの話なんだ。
 ルシファーは明けの明星と同一視される。明けの明星。暁に燃える美しい星。暁美ほむらじゃないですか。


「ああ、お前は天から落ちた/明けの明星、曙の子よ。/お前は地に投げ落とされた/(……中略……)/お前は陰府に落とされた/墓穴の底に。」
(「イザヤ書」第14章)
 エンディングテーマ後のあのショッキングなラストにしても、つまりはそういうことなのだと、私は解釈しています。もとより暫定的ですが。


 ……失礼しました。つい先走って、「まどか☆マギカ」を知らない方にもわかるように書く、という方針を忘れてしまいました。「暁美ほむら」とは、この作品のヒロインです。主人公はタイトルロールの「まどか(鹿目まどか)」で、これに対する「ヒロイン」が暁美ほむらなんですね。総勢5名の「魔法少女」が登場しますが、要となるのはこの2人です。映画のほうは、まどかのために自ら望んで「悪魔」となったほむらが、夜、断ち斬られたような偃月の下、これも同じく真っ二つに断ち斬られた丘の上で、ひとしきりバレエのステップを踊ったあと、ふっと微笑み、画面の右側へ倒れこむように身を投げる、という謎めいたシーンのロングショットで終わります。


崖ではなく、丘陵が真っ二つに断ち斬られて、こんな具合になっている



これも半月ではない。真っ二つに断ち斬られた月。本来ならば「まどか」がいる筈の側が「空虚」になっている


ふと立ち上がり、ひとりでダンスを


そして、ゆっくりと身を傾けて……


ラスト(の一つ手前の)カット





 ああそうか。もうひとつ補足が要りますね。テレビシリーズ全12話(および劇場版2作)のラストにて、主人公まどかはすべての魔法少女たちの悲惨なる末路を救済すべく、自分一人があらゆる因果を背負って「神」にもまがう存在となります。その代わり、人間であった時の記録はこの宇宙から抹消され、肉親の記憶からさえ消えてしまう。生まれてきたこと自体が「なかったこと」になってしまうわけですね。『叛逆の物語』は、そうして「神」となったまどかに対し、ヒロインほむらが「人間としてのまどか」を取り戻すべく叛逆に出る、文字どおり叛逆の物語でありました。


 『失楽園』と違うのは、こちらのルシファーは、「神」を心の底から「愛して」おり、その幸福だけを願っていること。そのためなら、我と我が身を犠牲にするのも厭わない。世界設定が「聖書」のそれより遥かに捩じくれているために、彼女の情念もより屈折して、ボルテージ高くならざるを得ない。うーん……ロマン主義の極北とでも申しましょうか。
 クライマックスシーンで、暁美ほむらはこう口にします。
「これこそが人間の感情の極み。希望よりも熱く、絶望よりも深いもの…………愛よ。」
 美しいけれど、「純文学」ではぜったいに書けないセリフですね。虚淵玄氏によるシナリオを読んでも、ノベライズ版を読んでも、コミック版を見ても、きっと心に響かないでしょう。「何のこっちゃ」という感じでね……。しかし、上で述べたような映像表現と音楽、そして声優(斎藤千和)さんの演技が加わると、それがまっすぐこちらに届く。どころか、そのまま突き刺さってきて、不覚にも、ひどく揺さぶれてしまう。まったくもってアニメってのは怖いメディアだなあと、今更のように感じますが。
 「文学」の領野でここまで激しい感情を描いて、こちらの心を揺さぶるものは、もうギリシア悲劇とシェイクスピア、あとはエミリ・ブロンテの『嵐が丘』くらいしか、私には思い当たりません。




 ところで、ギリシア悲劇やシェイクスピアをすら彷彿とさせるこの情念の劇を演じるのが、なぜ「少女」たちでなきゃならないんだろう。そんなギモンが浮かびました。もちろん、「少女」とはいっても現実の存在ではなく、抽象化され、純化されたイメージとしての少女なんだけど、それにしても、って話ですよ。
 すこし考えたんだけど、おそらくそれは、「(表象化された)少女」がほぼ「感情そのもの」の具現者たりうるからではないか。つまりまあ、まだ生活の重みを背負ってなくて、くたびれてないってことですね。それならば「少年」だってよさそうだけど、なにか足りない気がするのは、やはり奥底にひそむ「母性」の有無なのかなあ。
 冒頭でふれた「ユリイカ」の特集で、斎藤環さん(肩書は「表象精神分析」)はこう書いてます。






 漫画と、その派生物であるアニメという表現形式において、実質的に物語を駆動するのは「感情」にほかならない。より正確に言い換えるなら、意志も欲望も論理も、およそ人間の「動機」を構成するエレメントは全て、いったん「感情」として表出されねば物語が進行しない、ということである。






 それは実際そうなんで、コトバだったら「彼はこれこれこういう理由でこれこれの所業を行いました。」と地の文で説明できるけど、アニメだとそうはいかないからね。たいていのばあい、キャラたちは感情を剥き出しにしてぶつかり合う。そこが面白いわけね。しかもそれが、「宇宙の理(ことわり)を改変してしまうほどの愛」なんて壮大な感情であるならば(そういう物語なんですよ「まどか☆マギカ」は……)、それを担えるキャラクターは、どうしても「少女」のかたちをしていなければならないんじゃないか……。




 その意味では、「まどか☆マギカ」とプリキュアシリーズはまるっきり真逆のものですね。たんに深夜放送のダークファンタジーとニチアサの健全なポップファンタジーとの相違なんてレベルじゃない。
 プリキュアシリーズは児童文学なんですよ。リアリズムから飛躍はしても、つまりは近代の枠組のなかにある。明るい未来へ向かって「進歩」していくって前提がある。日々の暮らしの中で周りの人たちと協調して人格を陶冶し、それが社会人であるか、家庭人としての良きママ、良きパパであるのかはともかく、然るべき「未来の自分」へと成長する。そういう正の感性を育むお話なわけ。まさに「近代」ですね。
 いっぽう、「まどか☆マギカ」のほうは、プレモダン(前近代)でありポストモダン(近代以後)である。けして近代小説ではない。少女たちは少女の姿のまま、ひたすら時間をループする。こんな近代小説なんてない。だったら何か? 神話ですよね。
 しかも、本編および『叛逆の物語』においては、まがりなりにも「神」と「悪魔」の誕生を描いてしまった。だから、私が当ブログにて濫用する比喩としての「神話」ではなくて、文字どおりの神話なわけだ。




 私は昔からニーチェが好きなんで、「キリスト教とは?」みたいな本もすこし齧ったんだけど、理屈ではともかく、「身に沁みてわかる」という按配には結局ならなかった。いちばん響いてきたのは岩波文庫の『アベラールとエロイーズ 愛と修道の手紙』(旧版)だけど、『魔法少女まどか☆マギカ 叛逆の物語』は、あるいはそれを凌ぐかもしれない。「信仰」ってものが生まれ出る機微が、ほんの少しだけわかったような。そんな気さえしてます。やっぱりアニメってのは、怖いメディアですねえ……。