ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

教養って何? 02 生きた歴史をまなぶ

2017-10-26 | 雑読日記(古典からSFまで)。
 大岡信さんの『折々のうた』(岩波新書)全19巻は、いわば言葉の宝石箱だ。「教養」を育むには、こういう本に親しむに如(し)くはない。しかし、このせわしない現代社会にあって、終日(ひねもす)ただうっとりと、古典美の優雅な世界に耽溺してはいられないのも自明である。そう思えば、一冊の豊かな本を心ゆくまで読み耽るのは、東京ディズニーリゾートで朝から晩まで愉しむよりも贅沢なことかもしれない。
 日々のたつきを得るため出勤する。電車に乗ればすし詰めだし、車で行けば朝っぱらから渋滞だ。もちろん、勤め先に着いた後には、さらに苛酷な時間が控えている。仕事も8時間では終わらない。サービス残業が前提だ。消費税は上がる。物価も上がる。しかしこちとらの給料は据え置き。暮らしはどんどん苦しくなる。政治家たちは底知れぬほど無能で、笑えないドタバタ喜劇に明けくれている。この国はいったいどうなるのか。
 時間がない。カネもない。精神的なゆとりも乏しい。こんな日々のなかでなお、わずかな隙間を縫うようにして、教養を磨くためにはどうすればいいか。これもまた、今回のシリーズの主題である。
 教養の礎(いしずえ)は言葉(母国語)だ。ことばは文芸作品においてもっとも鮮やかに働く。だから古典から近代から現代まで、優れた文学はなるべく読んでおきたい。ただ、詩歌や小説ばかり読んでても、それだけで教養が身につくわけではない。
 次にたいせつなのは、歴史を知ることではないか。
 歴史といえば、わが国の戦後教育は一貫して近代史をまともに生徒に教えず、サザンの桑田佳祐がそれを揶揄して(もしくは嘆いて)歌ってるくらいだ。すこしまえ、ETVで「さかのぼり日本史」という企画があったが、本来はあれが、歴史を学ぶ態度だろう。そう思うと、文科省の制定している受験用のお勉強ってものがいかに貧しいものかがわかる。いや、内容が貧しいわけじゃない。ボリュームはたっぷりあるんだけれど、それを調理して学生に供する手際が拙(まず)すぎるのだ。わざと歴史をつまらないものに見せようとしてる気さえする。
 もっとも、「さかのぼり日本史」だって、「その時のもっともホットなトピック」(たとえば竹島問題とか)を取り上げ、「そこから問題の因って来る史実へと遡行していく」ものなんだから、万が一、文科省がこの方式を採用したって、そもそも学生の側が「ホットなトピック」に初めからなんの関心もなければ、これはどうしようもない。
 「好奇心」がなかったら、「学問」への取っ掛かりも生まれないのだ。
 しかし、裏返していえば、「好奇心」さえ生じたら、それは「学問」への、もっというなら「教養」への扉をひらく鍵を手にしたも同じってことになる。
 なぜアメリカはトランプ氏のようなひとを大統領に選んだのか。なぜIS(イスラミック・ステイト)は生まれたのか。なぜ日本は平和憲法をもっているのか。なぜ北朝鮮はミサイルに執着するのか。なぜ中国は民主国家ではないのにあれほど強くなれたのか。なぜ日本の政治(家たち)はこれほどまでにダメなのか。そもそも、なぜ日本はほぼ80年前アメリカと戦争を始めたのか。
 すべて学問への、教養への鍵だ。しかし、われわれの忙しすぎる日常は、それらのギモンを落ち着いて解きほぐすだけの時間を、なかなか与えてくれないのである。
 一般書籍で歴史を学ぶといえば、すぐに思いつくのは中公文庫のシリーズだ。『世界の歴史』は、むかし全16巻だったのをぜんぶ新たに書き下ろして全30巻となった。『日本の歴史』のほうは、よほどしっかりしたものだったらしく、約40年前のものが表紙を変え、詳しい「あとがき」を書き加えただけでそのまま出ている。全26巻。
 これらを図書館で借りて(財布やスペースに余裕があるならもちろん買って)頭から順に、あるいは、関心のある巻を中心に据えて読んでいく、というのがもっともオーソドックスな勉強法だろう。そのさい、カラー図版がふんだんに入った高校の授業の副読本がべらぼうに役に立つ。というか、これなしで字だけ読んでても、そりゃあアタマに入らない。
 印刷技術が格段に進歩してるから、眺めてるだけでも楽しい。amazonですぐ手に入る。だいたい1000円くらいである。
 そういう「図録」「図説」みたいなやつは世界史と日本史それぞれ一冊ずつ手元に置いといて損ではないとは思うが、しかし中公文庫の30巻+26巻併せて56巻は、とてもじゃないが読んでる間がない、とおっしゃる方も多かろう。
 ぼくもそうだ。いや古いほうの版は十数年かけて少しずつ読んでいったし、ことに日本史の「近代」以降は繰り返し読んだが、新しい版のほうの世界史は、まだ一冊も手に取っていない。
 じつはそういう向きにお勧めの文献がある。文藝春秋が年に何度か出してる臨時増刊「文藝春秋special」だ。季刊号とはいえ雑誌扱いなので、半年も経てば電子書籍で安く手に入る。
 最新号がこの8月に出た2017年秋号で、「世界近現代史入門」700円。
 3月に出た春号「入門 新世界史」が、なんと99円。
 2015年夏号「大世界史講義」が300円。
 2015年春号「大人の近現代史入門」が300円。
 ほかに中国を取り上げたものや、昭和史を扱ったもの、世界三大宗教にスポットを当てたものなどがあるが、なにしろ文藝春秋だから、どれもたんなるお勉強ではなく、「さかのぼり日本史」みたいに、その時点でのもっともホットなトピックに絡めて執筆・編集されている。面白い。
 忙しい現代人が「教養」を身につけるためには、こういうものを活用するのも手だと思う。




教養って何?

2017-10-22 | 雑読日記(古典からSFまで)。
 前回の記事を書いて、「教養ってのは何だろう?」とあらためて思った。高校の授業で古文や漢籍の代わりにプログラミング言語を教えようかというこの時代、ぼくなんかの学生の頃と比べても、「教養」ということば(概念)そのものが変質してるのは間違いない。
 たぶん、もっとも初歩的な用例としては、「これくらいは知っとかないと恥ずかしい」ような事柄を指すんだろう。「社会人としての最低限の教養」みたいな使い方で、ほぼ「常識」ということばで置き換えられる。しかしこれではいかにも浅い。
 広辞苑第四版にはこうある。「たんなる学殖・多識とは異なり、一定の文化理想を体得し、それによって個人が身につけた創造的な理解力や知識。」
 さすがに立派なものである。なるほど。「雑学」だの「豆ちしき」の集積ではないのだ。受験用のお勉強とも少し違う。それでクイズ王になれたり、ただちに東大に受かったりするものではない。
 もっと体系立っていて、より深く本質的なところで、それぞれの「世界観」や、さらにいうなら「人格」そのものにまで結びついている知見。それが本来の意味での「教養」だろう。
 だから例えば、「漱石は教養として読んどいたほうがいいよ」というばあい、「漱石くらいは読んでおかないと恥ずかしいよ」ではなく、ほんとうは、「君の世界観をより濃やかで奥深いものに練り上げるために、夏目漱石を読むことはきっと役に立つはずだよ」という含意が込められてなきゃだめなのだ。しかし、後のほうの意味で若い人たちにそんな助言ができる大人はどれくらいいるもんだろうか。それこそ「教養」の度合いが問われるところだ。
 いずれにしても、どうしたってプログラミング言語は「教養」とは呼べない。ただ、それじゃあやっぱり高校生には、そんな実用オンリーの技術ではなく、旧に復して、もっときちんと古文やら漢籍を教えよと主張するべきなんだろうか。なんだかそれも違う気がする。
 正直いって、ぼくみたいな本好きですら、10代のころに、教科書に載ってた古い文章が楽しくすらすらカラダに沁みこんできたわけではない。ましてやスマホ時代の今の学生たちにおいてをや。カラダに沁みこんでいかないようでは、「教養」にはならないんじゃないか。
 漱石もそうだが、文学にかぎらず、教養を身につけるうえで欠かせないのが「古典を読む」ことだ。近代政治学の始祖といわれる17世紀イギリスのホッブズ。日本では徳川幕府が盤石の封建体制を固めていった時期だが、先進国イギリスにおいては絶対王政が各層からの批判を受けて内乱によって倒され(ピューリタン革命)、そこで成立した共和制がすぐに行き詰まって王政復古~名誉革命を経て立憲君主制となる激動の時代であった(ただし名誉革命は1688=元禄1年、ホッブズは1679年に死去しているから、厳密にいえば名誉革命には立ち会っていないが)。
 自らもその激動に翻弄されながら生きたそのホッブズの主著「リヴァイアサン」(岩波文庫・全四冊)は、「万人は万人にとっての狼である。そんな《自然状態》の危うさは、各人が自己の権利を一人の主権者に譲り渡す社会契約によってのみ解消される。それが主権者としての国家である。ただし、国家と国家との間は《自然状態》にとどまり、それを超える存在はない。」と要約できる。
 それから3世紀近くの年月がすぎ、凄惨きわまる第二次大戦を経てようやく国連が形を整えたけれど、これが今なお「世界警察」と呼ぶに足るほどのものでないのは周知の事実だ。厳密には、いまも「国家と国家との間は《自然状態》にとどまり、それを超える存在はない。」
 今日はたまたま衆院選の投票日だけど、北朝鮮や中国、さらにはとうぜんアメリカとの関係性を踏まえたうえで、平和憲法について改めて思いを巡らせるとき、ホッブズの遺した思索はなまなましく我々のまえに迫(せ)り上がってくる。今も新しく、なまなましく、未来においても新しく、なまなましい。真の古典とはそういうものだ。
 しかし、そのホッブズにしても、ぼくがそれなりにあれこれ経験を積んでこの齢になったからこそ凄さがわかるわけであり、高校の「倫理社会」の授業で習ったときは、ただの古いガイジンのおやっさんであった。
 だいたいにおいて、人間ってものは、10代の時分にはまだ脳ができあがっていない。これは比喩的なことではなく、生物学的・医学的にみて、じっさいに脳がまだ完全ではないのである。発達途上なのだ。藤井聡太くんなんかを見ていると、人(個体)によってはかなりのところまでいけるもんだなあと感服するが、それでも総じていうならば、未成熟なのは間違いない。
 まして、このネット社会である。ぼくが小学生のころ、万博を機に「未来学」というのがかるく流行ったけれど、どんなSF作家も、未来学者(?)も、このような社会をクリアに予見できはしなかった(小松左京さんなどは、いま読み返すと、作品のなかでワールド・ワイド・ウェブに近いイメージを断片的に提示しているが)。
 放っていても「情報」(有益なものから有害なものまでひっくるめて)が洪水のごとく向こうから勝手にどばどば押し寄せてくるこの時代、若い人たちにとって、ひいては社会人たるわれわれにとっての「教養」とは、はたしていかなるものであるのか。
 よくわからないなりに、自分なりに考えてみようと思い、新しくカテゴリを立ち上げた次第であります。



いまどきのブンガクを考えるための10冊。

2017-10-20 | 純文学って何?
 「いまどきの、つまりポストモダン(苦笑)の文学について考えたいときに嫌でもまあ読んどかなけりゃしょうがない10冊。」というサブタイトルにしたかったんだけど、果たしてgooブログの字数制限に引っ掛ってしまった。べつにgooブログでなくてもどこのブログでも引っ掛かるとは思うが。

 芥川賞の放つ権威は、あれやこれやでジリジリと衰えつつもまだNHKニュースで報じられるくらいの余光を保ってはいる。ノーベル文学賞だって、発表されれば当の作家の本が在庫切れになるくらいの話題性はある。しかしそれらはごく限られた範囲の話で、全体としては、漱石・鷗外あたりから連綿と続いた「純文学」というシステムは、市場としてはほぼ30年前から気息奄々(きそくえんえん)、「もうダメなんじゃないの」などと言われつつ、一部有志(これは作家および編集者、そしてその周辺の人たちをふくむ)の奮闘によって辛うじて生き延びてるような状態である。そういう意味では、なんだかんだ言っても『火花』のヒットは良かったと思うし、村上春樹はえらいとも思う。業界ぜんたいを潤すわけだから。

 ありていにいって、働き盛りの中高年は忙しすぎて小説なんて読む暇がない。今も昔も、もっぱら小説を買い支えてきたのは比較てき若い世代だと思うんだけど、この人たちがさっぱり純文学を読まない。ただ、文字(ことば)で書かれた「物語」をまるっきり読まないのかというとそうでもなくて、イラストやマンガやアニメやゲームと連動した「ライトノベル」はけっこう読まれてるのである。ヒット作など累計100万部を超すそうな。どういうことじゃあ。

 と怒っていても始まらぬわけで、あくまでも「近代」のサイドに立って、「昨今の若者は劣化した。」だの「若いうちは本を読み、人格を陶冶し、教養を身に付けよ。」などと嘆いたり説教したって暖簾(のれん)に腕押し糠(ぬか)に釘、馬の耳に念仏。というのが偽らざる現実であるのだからして、ここは「それはそういうものなのだ。ニホンはそういう国になっちまったのだ」とすっぱり受け入れ、ポストモダンOK、ライトノベル上等と、そういう境地に達するよりほかないのであった。

 しかし私は長年にわたって純文学に「信仰」と呼べるくらいの思い入れを抱いてきたため、そこに達するまでにはなかなかの葛藤があった。とはいえ、よく考えてみたら10代終わりから20代はじめにかけてニーチェを熱心に読んでおり、じつにニーチェこそ、この「ポストモダン」状況を人間界にもたらした筆頭の人物ではないか。そうだったんだよなあ。これぞ灯台下暗し。(今日はコトワザが多いな)

 「ポストモダン」とは「大きな物語があちこちで機能不全を起こし、社会全体のまとまりが急速に弱体化する(ⓒ東浩紀)」時代のことだ。ニーチェは「神の死」という概念によってこの情況を的確かつ冷酷にあらわしたんだけど、そこでは社会(共同体)ぜんたいが挙(こぞ)って目指すべき「究極の目的」がなくなっちまったわけだから、極端にいえば、あとに残るのは「グローバル資本主義」の下で個々の競争者たち(私たちのことです)が自らの利害を賭して闘うラットレースのみ。ゆえに「人格」も「教養」も必要ないし、もっというなら「内面」や「自我」さえ余計であり、求められるのは効率よく勝ち抜いていくための「マニュアル」だけってことになる。わが国の純文学が明治このかた懸命に追求してきた数多のテーマが、ことごとく不要、というかむしろジャマにさえなってしまうのである。そう考えると、純文学が読まれないのはむしろ必然ってことにもなりかねぬ。なんてこった。

 むろんこのような時代でも、いやこのような時代だからこそ競争に疲れて精神の慰めをもとめる人々も少なからず出る。だがそういう層のためには、これもまたけっこう手際よくマニュアル化された「新宗教」とか「スピリチュアル系」が用意されていたりする。純文学の出番はなかなか回ってこない。

 そこでライトノベルなのだが、私はこの分野についてお勉強をはじめたばかりなので、まとまったことは今は言えない。これがたんなる「文字で書かれたマンガ」にすぎず、若い人たちが暇つぶしに消費しているだけなのか、あるいはもっと、本質的というかなんというか、より切実なリアリティーを希求して読み漁ってるのか、そこのところがわからない。今回のリストは、そんな私みたいな「純文学ならわりと読んできたけど、ライトノベルはよく知らない。でもちょっと興味はある」人に向けてのものである。でもそんな人がこの地球上に何人くらいおられるものか。


 01 ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2  東浩紀 講談社現代新書
 02 動物化するポストモダン 東浩紀 講談社現代新書
 03 ゼロ年代の想像力   宇野常寛 ハヤカワ文庫
 04 ニッポンの文学    佐々木敦 講談社現代新書
 05 戦闘美少女の精神分析 斎藤環   ちくま文庫
 06 物語論で読む村上春樹と宮崎駿    大塚英志 角川oneテーマ21   
 07 テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論 伊藤剛   星海社新書
 08 ユリイカ 2004年臨時増刊 西尾維新 青土社
 09 ユリイカ 2011年臨時増刊 涼宮ハルヒのユリイカ 青土社
 10 ユリイカ 2016年9月号  新海誠 青土社





カズオ・イシグロさんのノーベル賞受賞

2017-10-07 | 純文学って何?

 昨年のボブ・ディランにはびっくりしたが、カズオ・イシグロさんのノーベル賞受賞は妥当だと思った。ただ、これで春樹さんの目がまた遠のいたなあとも思う。イシグロ氏は英国籍で英国で暮らし英語で執筆するとはいえ長崎生まれの日本人なのだし、作風も、どこか通底しているところがある。少なくとも村上龍よりは明らかに似ているであろう。じっさいイシグロ氏とハルキ氏は親交もあり、お互いの作品のファンだと公言してもいる。会見の席でイシグロ氏は、「私よりも先に受賞すべき作家を思い巡らすと、まっ先に頭に浮かぶのは村上春樹さんだ」という意味のことを述べたという。かなりの気の使いようである。

 スウェーデン・アカデミーによれば、受賞理由は「力強い感情の小説により、私たちが世界とつながっているという幻想に隠されている深い闇を明らかにした。」ことだそうである。「力強い感情の小説」って何だ。意味はわかるが、こなれない日本語である。「世界とつながっているという幻想に隠されている……」のくだりもくだくだしい。原文ではどうなってるんだろう。いずれにせよ、「世界とつながっている」ことが「私たち」の「幻想」だというのだから、ここでいう「深い闇」ってのは70年代くらいまでなら「実存的な不安」と呼ばれたものに近いだろう。『わたしを離さないで』なんてまさにそうだ。

 ぼくは『日の名残り』と『わたしを離さないで』しか読んでいないのだけど、名優アンソニー・ホプキンス主演で映画化された『日の名残り』は、謹直な執事の仕える主人がじつはナチスの協力者だったのに、執事がそのことに目をつぶっていたばかりか、戦後になっても一切その事実と向き合おうとしてないところが最大のキモである。しかもそれが、長年にわたって自分にひそかな愛情を示してくれたミス・ケントンに対する彼の男性としての(もっというなら人間としての)鈍感さ、冷淡さと絡み合っている。そこが読者にやるせない余韻を残す。

 臓器提供というショッキングな題材をSF的な設定で描いた『わたしを離さないで』もハリウッドで映画化されたし、ここ日本でも去年、綾瀬はるか主演でテレビドラマにもなったのに、今になってハヤカワepi文庫版が大手通販サイトで在庫切れになっている(ほかの作品も軒並み在庫切れ)。遅くとも2ヶ月以内には増刷する筈だから慌てることはないけれど、それにしてもなぜみんなせめてドラマ化の際に買って読んどかないんだろうなあ。

  ぼくが読んだのは、2011年4月にETVが「カズオ・イシグロをさがして」という特集を組んだ時だった。自らもたいへんな名文家である生物学者の福岡伸一、女優のともさかりえといった方々が出て、イシグロ作品への熱い思いを語ったりなどしていたが、中でもぼくは、出演者の中のもうひとりの女優に目をひかれた。文学少女が美しく成長した、といった風情のひとで、硬質ですこし屈折した表情が印象に残った。いま調べたら、小橋めぐみという方だったらしい。イシグロ作品に限らず、よく本を読んでおられるようだ。こういう女性に愛読してもらえるような小説をおれも書きたいなあと痛切に思ったが、おそらく一生ムリだろう。イシグロ氏と違って、ぼくは育ちが甚だ悪く、どちらかといえば中上健次タイプだからである。

 「カズオ・イシグロをさがして」は早晩また再放送すると思うが、こちらのサイトが(NHKの公式よりも)巧みにまとめておられるので、興味がおありの方はご覧になってみてはいかがでしょうか。

 THE MUSIC PLANT 日記https://themusicplant.blogspot.jp/2011/04/etv.html

 映画といえば、イシグロ氏は小津安二郎の作品、とりわけ原節子主演の「東京物語」や「晩秋」がお好きとのことで、作品への影響を指摘する論考も多い。このことからも知られるように、とにもかくにもイシグロ文学は上品にして繊細で、ぼくが氏の代表作の2作しか読んでないのもまさにそこのところに起因する。氏の小説はぼくには高潔すぎるのだ。大江健三郎さんは、性にかんしても暴力にかんしてももっとずっと露骨に踏み込んでいく。村上春樹とて、イシグロ氏に比べればはるかに暴力的でエロティックであろう。

 しかし、それくらい抑制のきいた手法で人間と社会のかかえる深い闇を表現できるのならばそれに越したことはない。「これは面白いと心底思った小説100冊 and more」のリストに『わたしを離さないで』を入れておいたけれど、たんに面白いというのではなく、この作品が一生つきあえるだけの豊かさを湛えているのは間違いないことだ。

 それに、節度を保っているがゆえに幅広い読者を獲得できるという面は確かにある。ぼくは長らく「大衆的な人気」と「文学性」とは相反するものだと考えてきて、だから村上春樹に対する評価も低かったんだけど、このところ、やはり小説ってのは読まれなくては話にならないんだから、人気があるのは大事なことだとつくづく思うようになった。その点においてもイシグロ氏の受賞は喜ばしいし、冒頭ではああ書いたけれど、ハルキさんにもできれば取ってほしいと思っている。

 


あなたの世界の見方を変える(かもしれない)世界文学20冊

2017-10-02 | 物語(ロマン)の愉楽

 ネットで「おすすめ本サイト」を見てまわるのは楽しい。このあいだ、「あなたの世界の見方を変えるであろう名作世界文学おすすめ20冊」というのを見つけた。ずいぶん大きく出たもんだ。リストは次のとおり。


01.『審判』フランツ・カフカ 新潮文庫ほか
02.『神曲 地獄篇』ダンテ・アリギエーリ 集英社文庫ほか
03.『一九八四年』ジョージ・オーウェル ハヤカワepi文庫
04.『わたしを離さないで』カズオ・イシグロ ハヤカワepi文庫
05.『シャンタラム』グレゴリー・デイヴィッド・ロバーツ 新潮文庫
06.『崩れゆく絆』チアヌ・アチェベ 光文社古典新訳文庫
07.『指輪物語』J・R・Rトールキン 評論社文庫
08.『ボヴァリー夫人』ギュスターヴ・フローベール 新潮文庫ほか
09.『星の王子さま』サン=テグジュペリ 新潮文庫ほか
10.『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』ジュノ・ディアス 新潮クレスト・ブックス
11.『嵐が丘』エミリー・ブロンテ 新潮文庫ほか
12.『冷血』トルーマン・カポーティ 新潮文庫
13.『来訪者』ロアルド・ダール ハヤカワ・ミステリ文庫
14.『エミリー・ディキンソン詩集』エミリー・ディキンソン 岩波文庫
15.『アメリカーナ』チママンダ・アディーチェ 河出書房新社
16.『リア王』ウィリアム・シェイクスピア 新潮文庫ほか
17.『石蹴り遊び』フリオ・コルタサル 集英社文庫
18.『アンナ・カレーニナ』レフ・トルストイ 新潮文庫ほか
19.『変身物語』オウィディウス 岩波文庫
20.『百年の孤独』ガブリエル・ガルシア・マルケス 新潮社


 非・欧米圏によく目を配っている印象だ。あと、女性作家のものをちゃんと入れてるし、あるいは、男性作家が書いたものでも、女性を主人公にしたものを多く入れてる。そういう点では吟味されたリストだ。ただ、未読の作品もあるので大きなことは言えないが、やはり選者の好みが出すぎてる気がする。

 そもそも「あなた」が何歳くらいで、女性なのか男性なのか、どのような人生経験、読書歴を積んできたのか分からないんだから、ほんとはこんなこと一概にはいえない。つまりこれはお遊びである。お遊びで、好きにやってもいいのなら、ぼくだって選んでみたいぜ。しかし「あなたの世界の見方を変えるであろう」はいくらなんでもオーバーなので、もう少し控えめにしておく。


あなたの世界の見方を変える(かもしれない)世界文学おすすめ20冊


01.『シュルツ全小説』ブルーノ・シュルツ 工藤幸雄・訳 平凡社ライブラリー
02.『カフカ寓話集』フランツ・カフカ 池内紀・訳 岩波文庫
03.『神曲 地獄篇』ダンテ・アリギエーリ 寿岳文章・訳 集英社文庫ヘリテージシリーズ
04. 『夜の果てへの旅』上下 フェルディナン・セリーヌ 生田耕作・訳 中公文庫
05. 『チャンドス卿の手紙 他十篇』フーゴ・フォン・ホフマンスタール 檜山哲彦・訳 岩波文庫
06. 『シュルリアリスム宣言・溶ける魚』アンドレ・ブルトン 巌谷國士・訳 岩波文庫
07. 『若い藝術家の肖像』ジェイムズ・ジョイス 丸谷才一・訳 集英社文庫ヘリテージシリーズ
08. 『ロートレアモン全集』イシドール・デュカス 石井洋二郎・訳 ちくま文庫
09. 『日はまた昇る』アーネスト・ヘミングウェイ 高見浩・訳 新潮文庫
10. 『フォークナー短編集』ウィリアム・フォークナー 龍口直太郎・訳 新潮文庫
11. 『悪霊』上下 フョードル・ドストエフスキー 江川卓・訳 新潮文庫
12. 『荒地』 T.S.エリオット 岩崎宗治・訳 岩波文庫
13.『魔法の樽 他十二篇』バーナード・マラマッド 阿部公彦・訳 岩波文庫
14.『白檀の刑』上下 莫言 吉田富夫・訳 中公文庫
15.『伝奇集』ホルヘ・ルイス・ボルヘス 鼓直・訳 岩波文庫
16.『ブリキの太鼓』1~3 ギュンター・グラス 高本研一・訳 集英社文庫
17.『百年の孤独』ガブリエル・ガルシア・マルケス 鼓直・訳 新潮社
18.『イン・ザ・ペニーアーケード』スティーヴン・ミルハウザー 柴田元幸・訳 白水Uブックス
19.『懐かしい年への手紙』大江健三郎 講談社文芸文庫
20.『巨人たちの落日』上中下 戸田裕之・訳 ケン・フォレット ソフトバンク文庫


 どうしてもヨーロッパとアメリカ中心になるなあ。あと、オトコばっかだなあ。最後の2冊は捻じ込んだ感じだが、大江さんは紛れもなく世界水準だと思うので。ケン・フォレットは、エンターテインメントからも選びたかったから。総じて現代に寄りすぎたけど、古典を選んでたらそれだけで20冊になっちまうからしょうがない。「世界の見方を変える(かもしれない)」という点では、われながら悪くないリストだと思う。



 追記)19.12.11   アディーチェさんの『アメリカーナ』が文庫に下りてきた。版元は同じく河出書房新社。すなわち河出文庫。上下巻だからそこそこの値段になるが、これはぜひとも読んでおいたほうがよさそうだ。