ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

第5回・小川国夫「相良油田」その⑤

2015-08-07 | 戦後短篇小説再発見
 ずいぶん空いてしまったが、芥川賞のことでいうならば、いま取り上げている小川国夫には、芥川賞の候補に選ばれること自体を辞退したという逸話がある。理由ははっきりわからないけれど、ようするにまあ、この手のバカ騒ぎ、空騒ぎに巻き込まれたくなかったのだろう。そんなドタバタは文学の本質とはなんら関係ない、という信念があった。小川さんは頑ななまでに自己の流儀を貫いたひとだが、そういった気概は昭和中期までの純文学作家たちには或るていど共有されていた節がある。文学とは自らの魂を刻む崇高な営みであり、社会に対して一矢を報いるものなのだから、ジャーナリズムとは一線を画さなければならない。おれたちはエンタメ(娯楽小説)系とは違うのだ。そんな心意気である。純文学の矜持といっていいだろう。そういった気概なり心意気なりが払拭されてしまったのも、80年代バブルの頃であったかと思う。そもそも今や純文とエンタメとの境界線がアイマイだ。

 ……さて。「相良油田」はここから夢の話になる。講談社文芸文庫版にて、ほぼ4・5ページ分が導入部で(これまで延々と紹介した分だ)、残りのほぼ14・5ページがじつに夢の話なのである。この「戦後短篇小説再発見」全18巻の収録作品は、リアリズムだけで貫かれたものが大半だけど、島尾敏雄の「夢もの」をはじめ、夢から着想を得たと思しき作品も多い。それらはおおむね「幻想小説」という括りで呼ばれる。幻想小説と「夢小説」とは厳密にいえば違うけど、面倒なのでここではひとまず一緒にしておこう。「夢」というテーマは現代小説の本質に関わるもの(のひとつ)で、まともに論じれば分厚い本が一冊書ける。日本の現代文学だと、安部公房、筒井康隆の作風は「夢」ととりわけ縁がふかい。掌編(15枚くらいの短編のこと)で有名なのは、残念ながらこのシリーズには入ってないが、吉行淳之介の「鞄の中身」だ。むかし丸谷才一が口をきわめて絶賛していた。この吉行さんの掌編は、「切り出しナイフが、鳩尾(みぞおち)のところに深く突刺さったが、すこしも痛くない。その刃は真下に引き下げられてゆき、厚いボール紙を切裂いてゆくのに似た鈍い音がした。」というショッキングな出だしで始まり、次の行で「夢の話である。」と、あっさり種明かしをする。

 いっぽう、いわゆる幻想小説のなかには、「夢」という単語を一切使わず、むしろ周到にその一語を排除するようにして創られたものも少なくない。「夢ですよ。」と断ったとたん、その箇所はほかの「リアリズム」の部分から切り離されて、いわば額縁に収められた格好になってしまう。「鞄の中身」はそこを逆手にとって、その「額縁」をことのほか巧みに用いた作品なのである。その逆に、「あ、ここから夢ですからね。」と断りを入れず、リアリズムからすううーっと幽明境を異にする感じで移行してゆき、結果として凄い効果を上げているのは、残念ながらこれも本シリーズに収められていないが、ぼくがこれまで読んだ中では河野多恵子の「骨の肉」および永井龍男の「秋」だ(日本文学に限る)。いずれもラストまで来て鳥肌が立つ名品である。

 「相良油田」はその点、拍子抜けするほどシンプルだ。ここまでの段落からわざわざ一行あけて、「浩は夢の中で彼女に会った。」とくる。淳之介と同じ額縁式だ。「火花」のamazonレビューに「純文学とか読むのってこれが初めてなんですけどぉー」などと臆面もなく書いてるいたいけな、頑是ない少年少女でも、これなら一目で「あ、こっから夢のハナシなんだあ」って分かるよね。よかったね。それでまあ、量からいっても内容からいっても、この「額縁」に収められた「夢」のくだりこそが「相良油田」のメイン、肝(きも)であるのは明白なのだ。油田の存在をめぐる上林先生とのやりとりを何度となく反芻し、悶々としながら床に就いたんだろう。浩はその夜、彼女との「道行」の夢を見るのである。

 「……なまぬるい埃が立つ焼津街道を、海の方に向って歩いていると、前を行く若い女の人があった。上林先生だった。髪にも、水色のスカートにもおぼえがあったし、歩く時の肩の辺の動かし方も、そうだった。彼は駆けて行き、息を弾ませながら、
 ――先生、と声をかけた。彼女は、彼が近づくのを待っていてくれた。彼は追い縋ると、自分でも思い掛けないことをいった。
 ――僕は物凄い油田を見ました。
 またいってしまった、と彼は思った。彼女はちょっと目を見張って、それなりに生まじめな表情になって、しばらく考えていた。彼には、なんだか癪にさわることがあったが、それを抑えなければ……、という自制も働いていた。彼は自分のことを、緑シジミの幼虫が、暗くみずみずしい葉陰で、一人で翻転しているように感じた。」

 「緑シジミの幼虫が、暗くみずみずしい葉陰で、一人で翻転しているように感じた」という比喩が何とも生々しいではないか。そこまで冷静に自己分析しながら、しかし浩は、「アメリカよりも、ボルネオやコーカサスよりも大きな、油田地帯です。」としつこく言い募ってしまう。このあたり、身体(感情)が内面(理性)を裏切って暴走する感じが如実に出ていて絶妙だ。ここのくだりはほんとに良くて、いくらでも引用を続けたくなる。

「……彼女は、浮世絵人形のような表情を動かしはしなかった。彼は、自分が無為に喋っているのを感じた。そして、なにをいってもいいのなら、いうことは一杯あるぞ、と思った。自分で自分に深手を負わせてしまい、血が止らなくなった感じだった。彼はまたなにかいおうとした。…………」

 大好きな異性を目の前にして、彼女と少しでも長く話を続けたい。できればもちろん、相手に熱中して欲しい。だけどそれはぜんぜん無理っぽくて、もう何を話していいかさえわからない。共通の話題が見当たらない。だって向こうは自立した大人の女性で、こっちはただの子供なんだから……。それで、とりあえず共有できる唯一のネタ(このばあいは油田の話)をずるずると引っ張ってしまう。それも、内容がないから口ぶりだけが誇大になって……。ひどく軽薄なことだとわかっていて、自己嫌悪にもかられるのだが、どうしてもそれが止められない。そのうちにだんだん、開き直った気分になってくる……。

 「オトナ」をまえにした「コドモ」の焦り。この焦燥をよりいっそう掻き立てるのは、彼女の恋人である(と噂されている)「海軍士官」の存在である。どうしても届かない、絶対に乗り越えることのできない強大な恋敵(ライバル)の存在(じっさいには出てこないけど)が、たえず少年の心にのしかかり、間断なく揺さぶり続けている。これぞまさしくエディプス・コンプレックスの典型である。

 ぼくのお父っつぁんは堂々たる社会的名士なんかじゃなかったし(むしろその対極に近い気がする)、ぼく自身も息子として母親とはなはだ折り合いが悪かったので、現実の家庭においてエディプス・コンプレックスを感じた覚えはない。だが、20歳になるやならずの時分にひょんなことからダンナのいる女性(つまり人妻。もちろん年上)に恋をしてしまったことがあり、もとより片思いで終わったんだけど、だから浩の感情の動きがイタいくらいにわかるのである。

 空転し、なかば自暴自棄となっていく浩。ところが事態はここから展開を見せる。冷ややかに聞き流していると思っていた上林先生が、彼の話に乗ってくるのだ。「彼はまたなにかいおうとした。」のあと、

「すると彼女が、いつもの口調できいた。
 ――それはどこなの?
 ――大井川の川尻です。」

 小川さんは節度を保ってこう書くが、本来ならばここはもう「――お、大井川の川尻ですっ。と浩は勢い込んで言った。」くらいのもんだろう。ここでようやく上林先生が、いまどきの用語でいえば「食いついて」きてくれたわけだから。

「――大井川の川尻……。あんなところだったの、と彼女は少し声を顫わせて、いった。浩には、彼女が胸をはずませているのがわかった。駄目だと思いながらも叩いた扉が、意外にも手応えがあって動き始めたようなことだった。彼は自分の嘘の効果が、怖ろしく美しく彼女に表れたことに呆然としていた。」

 いうまでもないとは思うが、大井川の川尻ってのは、ふたりが(夢のなかで)この会話を交わしている場所のすぐ近所で、むろんそんな所に油田なんかあるわけがない。「自分の嘘」とはそのことである。浩としては、あわよくばこれから二人でそこに行きたいと目論んでいるわけで、ほんとうに話はそんな具合に進んでいく。わりと嬉しい夢なのである。とりあえず途中まではね。ただその前に、ここで浩が、

「――僕はなにか海軍の士官のことをいったんだっけ」

 と内心で呟いているのがなんともおかしい。ここだけは何度読み返してもくすっと笑ってしまう。小川国夫は生真面目な作家で、その作品はあまり笑いとは縁がないけれど、それでもこんなふうにしてユーモアが生まれることもある。こういうのを「巧まざるユーモア」というんだろう。それはたいそう上質のものだ。

 その⑥につづく。

なぜ日本はアメリカと戦争をしたか。

2015-08-04 | 政治/社会/経済/軍事


 そもそもなぜニッポンは、アメリカという、当時の世界にあってもほぼ最強というべき国と干戈を交えるに至ったのか。本来これは戦後を生きる日本人ならば老いも若きも常識として知っておくべき事柄であり、中学校の歴史の授業で真っ先に教えられるべきことなのだ。縄文式土器がどうしたなんて話をやってる場合ではなくて(いやもちろん、縄文式土器の話もものすごく大事ですけどね)、何よりもまずアメリカと交わした太平洋戦争、およびその当然の帰結としての敗戦と、そこから始まる戦後ニッポンの流れからこそ、歴史の授業は始められねばならない。そこが分かってなければ歴史を学ぶ意義とてないし、現代社会がなぜこのような状態になっているのかも分からない。つまり日々のニュースが分からない。授業と現実の生活とが乖離してしまっているわけで、当然そんな授業が面白くなろうはずもない。明らかにこれは生徒にとって不幸なことだ。その生徒がやがて成長して社会を担っていくことを思えば、もちろん日本にとっての不幸でもある。さらに言えば、戦後日本が近代史をろくに教えぬことは、それだけでもう他の国々、とりわけ中国と韓国に対して礼を失しているといえる。ぼくは正直、どちらの国も好きじゃないけど、失礼なのはやはりよくない。

 太平洋戦争の前段となった日中戦争をも含め、1931(昭和6)年の「満州事変」から1945(昭和20)年の敗戦までの戦争を指して、ここでは「十五年戦争」と呼びたい。満州事変とは、当時その地に駐留していた日本陸軍すなわち関東軍が、中華民国を相手に起こした武力紛争である。「事変」とはいかにも特異な用語で、この「満州事変」とそのあとの「支那事変」のほかに目にすることはほとんどない(いや、「東京事変」ってのもあったな。椎名林檎はたいへんな才媛で、このネーミングにも相応の含みがあるんだろうが、とりあえずここでは関係ない)。「事変」とは、「地域的に限定された小競り合い」であり、原則として現地において早期解決を図るべきものだ。「戦争」となると、これはもう国家同士の総力戦であり、国際法上、第三国からの輸入ができなくなるし、また、最後通牒~宣戦布告というものを経ねばならない。それらの理由から、これを「事変」と称したのである。

 さて。「中華民国が相手の武力紛争」とは言え、その頃の中国はぜんぜん一枚岩ではなく、清朝末期以来の軍閥がまだ各地に割拠し、多くの地域がほぼ無政府状態に近かった。一大勢力たる国民党の「北伐」によって軍閥は次々と打ち倒され、統合されつつあったものの、1928(昭和3)年の時点で満州に勢力を張っていたのは軍閥の張作霖だった。その一方、国民党と並ぶもうひとつの勢力として、毛沢東率いる共産党が急激に力をつけてきていたが、とりあえずこちらは満州とは関係がない。関東軍は張作霖を利用して満州の支配を画策するも、うまくいかなかったため、乱暴にも爆殺してしまう(最近になって異説も出てきているようだが、ここでは通説に従う)。それが1928年のことである。しかし長男の張学良がただちに父のあとを継ぎ、日本に抗うために南京の国民党政府と手を組む。謀略が裏目と出た関東軍は、その3年後の1931年に、自作自演の「柳条湖事件」をきっかけとして戦闘を仕掛ける。すなわち満州事変であり、これこそが、血みどろの泥沼というべき「十五年戦争」の始まりであった。

 共産党との確執を抱える国民党には正面切って戦う余裕はなく、関東軍はたちまち奉天を占領し、半年ほどで東北地方のほとんどを制圧下に置いた。しかし、そもそもどうして満州の地に日本軍がいるのか。それを説明するには第一次大戦から日露、日清戦争にまで遡行しなければならないけれど、話が進まないので今回は割愛する。重要なのは、日本政府が駐留を是認していたということだ。何しろ韓国を植民地として併合している。そのような時代背景である。たとえば英仏独なども租界や租借地を持っている。しかし日本の主観や主張がどうであれ、中華民国の側がそれを「侵略」と捉えていたのは間違いない。軋轢を生じるのも当然であって、満州事変はその軋轢の中で起こった。そして満州全域を制圧下に置いた関東軍は、計画どおり、「宣統帝・溥儀」を皇帝とする満州国を建国した。

 この辺りの経緯は、日中両国のみならず、イギリス、フランス、ドイツ、ソ連といった当時の列強のパワーゲームの中で考えなければ分からない。とりわけ地政学的にきわめて緊張を孕んだ関係にあり、約30年前に(当時はまだ露西亜であったが)戦火を交えた記憶も覚めぬ(日露戦争のことですよ)ソ連の影響は見逃せない。満州はソ連と中国との間にある。たとえばイギリスは、ソ連の南下を抑えるためには日本と対峙させるのが得策だろうと判断していた。そのような思惑が絡み合っての満州事変~満州国建国であったわけだが、さすがに国まで建てたとなると、軋轢はますます強くなってくる。それは初めから予測できたことで、それゆえ本国の日本政府は事変の折には「不拡大方針」を打ち出していた。これを押し切る形で現地の関東軍が事を進めていったのだ。先の大戦が、「軍部の暴走から始まった。」と言われるゆえんである。

 アメリカはこのとき、「門戸開放」を訴え、日本に対してかなり強硬な通達を送った。日本だけが満州の特殊権益を独占するのはおかしいという主張であり、約めて言えば我々にも市場をよこせということだ。日本はもとより受け入れず、これが日米関係悪化の一因となったのは間違いない。しかし国際社会は必ずしも日本に厳しくはなかった。満州国建国宣言が1932(昭和7)年の3月1日で、国際連盟が派遣した「リットン調査団」が報告書を出すのはその7ヶ月後。その報告書は日本にとってそれほど不利ではなく、むしろ「名よりも実を取らせてもらった」といえるくらいのものだったが、「満州国の承認」に拘る日本は翌33年、国際連盟を脱退してしまう。なおこの年、日本の国連脱退の少し前に、ドイツではヒトラーが首相の座に就いている。

 1936(昭和11)年、日本国内で226事件が起こる。大陸では、満州国の存在感が大きくなるにつれ、中華民国の内部で「抗日」という主題において結束が強まっていく。そして1937年、ついに盧溝橋事件が起こった。これは柳条湖事件とは違って策謀ではなく偶然に戦端が開かれたものだが、結果としては日中戦争(支那事変、また日華事変とも呼ぶ)の端緒となった。日本が華北にまで版図を広げようとしていたのは確かだけど、これは「華北分離工作」、つまり満州国と中華民国とを切り離そうという企図であって、当面のあいだは本格的に事を構えるつもりはなかった。補給線が伸びきって戦い切れぬのが明白だし、むろんソ連の脅威も気がかりだ。しかし、いざ始まってみると兵力だけなら数倍の筈の国民党軍が意外にもろくて、後退に後退を重ねるために、奥へ奥へと深追いしていくことになる。しかもこのかん、上海においても戦闘が始まり、戦線はさらに拡大する。

 当初のうち、支那事変は満州事変とまったく逆の推移をたどった。つまり開戦のきっかけはまったくの偶発であり、現地の軍はなるべく早めに事を収めようとしていたにも関わらず、東京のほうがさっさと増派を決めてしまったのである。満州でうまく行きすぎたために、相手をなめていたのであろう。すぐにでも降伏してくると思っていた。この甘い観測は、時の政府(近衛文麿内閣)のみならず内地の軍人の大半にも共有されていた。大局に立ってこの戦争の全容を見きわめ、しかるべきビジョンを持って掌握していた人物は、内閣はもとより大本営(陸海軍の最高統帥機関)にすら誰一人としていなかった。これが日中戦争の特徴であり、あえて言うなら十五年戦争全体にわたる特徴だった。とりあえず首都である南京を落とせば有利な条件で講和を結べる、といったていどの目算でいたようである。

 しかし、内地から大挙して兵が送り込まれ、いったん追走が始まってしまうと、今度は最前線が現地軍を引きずり、現地軍が大本営を引きずる形で、日本軍はどんどん侵攻していった。そして同年12月、各師団が競い合うように、南京へなだれ込んでいく。そこで起こった惨劇は、現在に至るもなお暗い影を落とし続けている。しかし日本国民がそのことを知らされるのは、9年後、敗戦ののちの東京裁判の時である(ただし、そこで公表されたことのすべてが科学的な意味での「真実」だとは言い難いけれど)。まともな情報を与えられない当時の国民は、提灯行列で南京攻略を祝った。

 南京陥落に先立つ1937(昭和12)年10月、アメリカ大統領ルーズベルトは、世にいう「隔離演説」を行い、枢軸国による侵略行為を非難している。日本のみならず、ドイツとイタリアもこの時すでに欧州の地で周辺に手を伸ばしつつあり、そのことを伝染病にたとえて警戒を促したものだ。すでにこれら3国は、1936(昭和11)年に「日独伊防共協定」を結んで連携してもいた。言うまでもなくこの3国の共通点は、帝国主義的な植民地獲得競争に出遅れたことだ。第一次世界大戦後の世界情勢に……より露骨にいうなら他の列強による利権分割のありように不満を抱き、強引にそれを組み替えようとしているわけである。

 とはいえアメリカは、まだ対決姿勢をさほど明確に打ち出したわけではない。「介入すべからず」との世論の趨勢に従い、ほぼ中立を保っていた。しかしルーズベルト(を頂点とする首脳部)はとうぜん日米開戦の可能性を十分に視野に入れていたはずである。日本が中国との講和のチャンスを捨てて、南京以外にもあちこちの町を落とし入れながら戦線を拡げていくにつれ、参戦に反対する世論の趨勢とは裏腹に、アメリカ首脳部の警戒はますます強まっていったことだろう。現に1938年には、大規模な軍艦建造計画に着手している。

 もともと、対決姿勢を明確に打ち出していなかったとは言っても、けして事態を傍観していたわけではない。日本側の見通しに反して中国軍が徹底抗戦を続けられた要因のひとつに、複数の「援蒋ルート」の存在が挙げられる。アメリカは英仏ソと共にこれを通じて軍需物資を送り、ずっと蒋介石サイドを援助していたのだ。それは決して道義的な動機からではないし(なぜなら彼ら自身がすでにして侵略のエキスパートなのだから)、全体主義国家の膨張を妨げるため、という綺麗事だけでも説明できない。後発国たる日本が、大陸において突出した力を持つのを絶対に許してはならない、との企図が厳然としてあったのである。

 1938(昭和13)年は一つの分岐点だったと言われる。近衛首相は「国民政府を対手(あいて)とせず。」との悪名高き声明を発表、これはすなわち蒋介石との交渉は今後一切しないということで、当然ながら相手を本気で怒らせてしまう。「東亜新秩序」を宣言したのもこの年であった。ざっくり言えば、「もう西欧列強は手出しをするな。この地のことは日本、満州国、中国だけで執り行う」との宣言であり、これがのちの「大東亜共栄圏」にも繋がっていく。しかし中国にしてみれば、むろんそんな言い分を聞く筋合いはない。これで第三国の仲介による講和の可能性も消え、日中戦争はさらに収拾がつかなくなった。

 しかも大陸での日本の敵は中国軍だけではなかった。そもそも彼の地に侵攻したのは、ソ連(当初は露西亜)に対抗せんがためである。そこに満州国を建てたのだから揉めないほうがむしろおかしい。この年には満州東部とソ連側との国境において、翌39年には満州と蒙古との国境ノモンハンにおいて紛争が起こる。若い人にもこの地名は、村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』で強烈に焼き付けられていることだろう。ノモンハンではソ連軍の機甲部隊によって完膚なきまでに打ち破られた。また中国国内にあっても、国民軍ばかりか毛沢東率いる共産軍のゲリラ戦にも苦戦を強いられる。

 大陸での戦闘が長期戦の様相を呈するに伴い、日本国内では「国家総動員法」が発令されて様々な統制が行われ、国民の自由は圧殺されていく。アメリカの態度もますます硬化する。日米両国が、太平洋を挟んでいわば遠い隣国だということを忘れてはいけない。39年、日米通商航海条約の破棄(翌年の期限切れのあとは更新しない旨)が通告される。いっぽうヨーロッパでは、38年にナチス・ドイツがオーストリアを併合、翌39年にはチェコをも併合し、アルバニアを併合したイタリアと軍事同盟を結ぶ。

 さらにドイツは、ソ連と不可侵条約を結んで後顧の憂いを絶つと、同39年9月、ポーランドに侵攻し、3週間で占領してしまう。それまでずっと弱腰であったイギリスとフランスも、ついにたまりかねて宣戦を布告し、ここに第二次大戦が勃発した。ドイツはなおも電撃作戦と称してデンマーク、ノルウェーに進出、さらに西部戦線を破ってベルギー、オランダまでをも占領し、イギリスをダンケルクから撤退させ、1940(昭和15)年6月には戦わずしてフランスを降伏させる。欧州の地でナチス・ドイツに抗しうるのはもはやイギリスだけとなった。

 まさに電撃というべきこのドイツの侵攻を頭に入れておかないと、このあとの流れは理解できない。1940年1月、かねてからの通告どおり日米通商航海条約が失効、その後もさらなる追加措置でアメリカからの物資・資財・原料の輸入の多くが途絶えた。とうぜん日本は焦りを強める(ただ、石油はまだ禁輸されてはいない)。そこで浮上したのが南進政策である。この計画が現実味を帯びてきたのは、むろん、ドイツの占領によってフランスが弱体化したからだ。同年9月、日本軍は北部仏印(現在のベトナムのハノイ周辺)に進駐するも、予想どおりフランスはこれを阻止できなかった。これ以降、「南進」が日本の主要方針となっていく。

 南進すなわち南方進出は、それが必然的に日米開戦の契機となった点で最大のキーワードかもしれない。ようするに、イギリス、フランス、オランダ、そしてアメリカによって領有されている東南アジアに進駐し、あわよくばそこを傘下に収めんとする戦略であり、それを裏付ける理念として掲げられたのが「大東亜共栄圏」である。この理念は敗戦ののち長らく悪しき虚妄のイデオロギーとして厳しく指弾されてきて、ぼくなどもそういう空気の中で育った世代なのだが、どうも90年代の終わりごろから「白人種の支配からアジアを解放するための崇高な理念であった。」とする反動が始まり、今の若い人などはかえってそちらを信じているかもしれない。これら相反する見解のどちらがより実情に近かったのか。その答は、現地の人たちを日本軍および日本人たちがどう扱ったか、その結果として戦後の現地の人たちが日本に対してどのような感情を抱いてきたか、に掛かっているとぼく個人は思う。

 南進計画にはいくつかの目標があった。第一にはやはり、アメリカからの輸入に大半を依存していた石油の確保であろう。今だって石油がなければ文明生活は干上がってしまうが、当時の切迫感はあるいはそれ以上であったかもしれない。開国以来、無理に無理を重ね、国力のほとんどを傾けて建造した数々の軍艦が、石油がなければただの馬鹿でかい鉄の塊と化すのである。すなわち最大の戦略物資であり、果たして石油はのちに太平洋戦争開戦の主因となる。

 第二には、それと密接に関係するが、ドイツ、イタリアの席巻によってフランス、オランダ、そしてゆくゆくはイギリスが弱体化した際、それらの植民地をいち早く奪回せんがためである。もうひとつ、「援蒋ルート」の遮断も重要だった。援蒋ルートはぜんぶで四本あったとされるが、その内の一本、当時のフランス領インドシナ(現在のベトナム、ラオス、カンボジアあたり)に陸揚げされた物資を昆明まで鉄道輸送する「仏印ルート」を遮断したかったのである。むろんこちらは、出口の見えない日中戦争を終息に向かわせんがための手立てだ。

 1940(昭和15)年9月、松岡洋右外相によってベルリンで日独伊三国同盟が締結される。これは36年の「日独伊防共協定」からさらに進んで、はっきり米英と軍事的に対抗する姿勢を打ち出した点で、よりいっそう踏み込んだものであった。松岡外相はその帰途モスクワに寄ってスターリンに会い、それが翌41年4月の「日ソ中立条約」へと繋がる。この条約によってソ連は来たるべきドイツとの戦いに備えることができ(独ソ不可侵条約はまだ有効ながら、いずれ破られることは独ソとも織り込みずみだった)、日本は大陸での北からの脅威を抑えて南進に専念できると期待した。なお、もとより中国との戦争は引き続き膠着状態である。

 この松岡洋右外相は、当時の状況を理解する上でのキーパーソンの一人だろう。先に国際連盟を脱退した際の代表でもあったが、その力はわれわれが想像する今の「外務大臣」より遥かに強く、「日独伊三国同盟」にせよ「日ソ中立条約」にせよ、むろん本国の承認があってのこととは言いながら、この人の「豪腕」によるところがかなり大きかったようである。通説では、この人が独・伊、それにソ連との接近を強めて米英を蔑ろにしたからいよいよ日米関係が悪化した、とされているが、じつは松岡こそがもっともアメリカの怖さを知悉しており(若き日にアメリカで苦学した経歴を持つ)、アメリカとの交渉を少しでも有利に進めるための切り札として、あえて独伊ソと提携したのだという説さえある。

 それは買いかぶりすぎだろうけど、かといって、ドイツとソ連とがこのままずっとバカ正直に不可侵条約を守って仲良くすると考えるほどナイーブだったとも思えない。しかし、仮に彼が深謀遠慮を抱いていたとしても、その雄大なるプランは彼の胸のうちに留まり、政府や軍部に共有されることはなかった。これもまた、十五年戦争全体にわたる情けない通弊の一つであった。意志の疎通が図れず、ゆえに統一もなかなか図れない。こういった齟齬の積み重ねが、最終的には膨大な数の犠牲者を生むこととなるのである。いや、情けないでは済まない。身の毛のよだつ話である。

 いちおうここでは、松岡が独ソ不可侵条約を過信していた、として話を進めよう。日本の首脳部がその路線をとったのだから、そう仮定して支障はない。独伊と同盟を結ぼうと、ソ連と中立条約を締結しようと、つねに日本にとって最大の脅威がアメリカだったのは間違いない。日ソ中立条約の成立から3日後、ワシントンにて日米交渉が開始される。しかし前述のとおり欧州ではすでに第二次大戦が起こっている。アメリカとイギリスとは切っても切れない仲であり、対米対英協調と日独伊三国同盟とは両立しない。このとき、日米関係の好転を望む近衛内閣と、三国同盟を堅持して対米強硬を貫こうとする松岡外相とのあいだで食い違いが生じ、すったもんだのあげく松岡のほうの意が通った。とうぜん日米交渉は難航するが、そんななか、ドイツが不可侵条約を破ってソ連に侵攻する。同盟国たる日本には事前に何の通知もなかった。日ソ中立条約締結から、わずか2ヶ月あとのことである。日本側は動転した。

 「日独伊三国同盟にソ連を加えた4ヶ国による協商をつくり、その圧力によってアメリカをアジアから撤退させて日中戦争を解決し、それと共に武力南進によって東南アジアを制圧して、日本を盟主とする『大東亜共栄圏』を確立せん!」とする(今日から見ればあまりにも虫のいい)日本側の目論見は、ここにおいてその大前提を覆されたのである。それでもなお、「大東亜共栄圏」の理念は、侵攻を正当化するイデオロギーとして、敗戦の日まで生き続ける。

 ドイツのソ連侵攻からほぼ十日後の41年7月2日、情勢の急変を受けた日本は、御前会議にて「南方進出の態勢を強化」し、この目的の達成のためには「対英米戦を辞せず。」との決議を定める。いわゆる帝国国策要綱である。具体的には、北部に続いて南部仏印(現在のベトナムのホーチミン付近)にも駐留しようという趣旨であったが、これは太平洋戦争の可能性を明記した最初の記録として知られる。その一方、ドイツの侵攻に乗じ、あわよくばソ連を攻めるべく、関東軍特別大演習の名目のもとに大軍をソ・満国境に動員する。しかしこれはさすがに実戦にまでは至らず、結果として、のちに「日ソ中立条約を先に破ったのは日本だ。」という口実をソ連に与えただけに終わった。

 この頃もうアメリカは、日本側の決議を知っており、いちおう交渉は続けながらも、経済制裁を強化するほかに、中国への支援を増やしたり、太平洋艦隊をハワイに集結させるなどの措置を取る。それでも近衛内閣は、いったん総辞職することによって反米派の松岡外相を切り、それ以外はほぼ同じ顔ぶれで第三次内閣を組んでアメリカとの関係改善を図った。しかし7月28日、軍部は先般の決議にしたがい「南部仏印」への進駐を断行してしまう。アメリカ側から見るならば、これは日本が南方制圧のための軍事基地を確保したことを意味する。マニラからシンガポールまでが攻撃圏内に入った。アメリカはただちに在米日本資産の凍結令を発し、イギリスと、かなりの数の日本企業が進出していた蘭印(オランダ領東インド。現在のインドネシア)もこれに倣う。AMERICA/BRITAIN/CHINA/DUTCH。日本側の呼称でいうところの、ABCD包囲陣である。

 かなり圧迫されていたとはいえ、まがりなりにも政府がアメリカとの関係改善を図っている時に、軍部がそれを台無しにする行動を取るということは、当時の日本の意志決定機能がいちじるしく乱れていた証左といわざるをえまい。つまり先にも記した「意志統一の不徹底」による齟齬のひとつだ。そしてアメリカは、ついに8月1日「石油の対日禁輸」へと踏み切る。前回の繰り返しになるが、この頃の日本は石油のほとんどをアメリカに頼っていた。今だって石油がなければ文明生活は干上がってしまうが、当時の切迫感はあるいはそれ以上であったかもしれない。開国以来、無理に無理を重ね、国力のほとんどを傾けて建造した数々の軍艦が、石油がなければただの馬鹿でかい鉄の塊と化すのである。すなわち石油は最大の戦略物資であった。これが断ち切られたのである。

 周辺において石油が出るのは蘭印(オランダ領東インド。現在のインドネシア)くらいだ。日本が生き残りを画するならば、かねてからの計画どおり、一日も早く蘭印に南進するしかないが、そうなればとうぜん、フィリピンを領有するアメリカや、マレー/シンガポールを領有するイギリス、それにもちろんオランダ相手の全面戦争を余儀なくされる。南部仏印への進駐によって、逆に日本はそこまで追い込まれてしまったのである。

 それにしても、その国との交易が途絶えたら生きていけぬのに、当のその国と事を構えるなどというバカな話があるのだろうか。そもそもそのような国を敵に回すこと自体が根本的な矛盾ではないか。そう考えていくと、結局は黒船来航の時からすでに日本は、好むと好まざるとに関わらず、逃れようもない罠に捕らわれていたとしか言いようがない気もする。向こうが勝手にルールを決めた、しかもイカサマだらけのゲームの卓に、ずいぶん遅れて無理やりに座らされたようなもんじゃないかと思うのである。むろん太平洋戦争が必然であったなどとは思わぬし、いや、仮にそれが不可避であったとしても、あれほどの犠牲を出す前に講和に持ち込む方策があって然るべきであったとも思う。しかしそれでも、開国~維新~死に物狂いの近代化という一連の流れを思うにつけ、戦前・戦中のニッポンという国に対して、その忌まわしさ、愚かしさ、おぞましさをも含めて、一抹のアハレを覚えざるをえない。いわゆる修正史観、新自由主義史観に立つ者たちは、おそらくはそこを過剰に強調しているのであろう。ただし、被害を与えた国と地域の人たちに、そのような感傷を共有するよう強いることは決してできないはずである。

 もうひとつ大事なことを指摘しておきたい。繰り返すが、アメリカは、南部仏印(ベトナムのサイゴン。現ホーチミン付近)進駐の制裁として日本への石油輸出を禁止した。つまり南部仏印進駐は、日本にとっては「ルビコン河を渡る」ほどの選択だったということだ。それなのに、その重要さを理解して押し留める人物がいなかった。アメリカの出方を甘く見積もっていた。情報収集力および分析力の欠落。これもまた、十五年戦争全体にわたる情けない通弊の一つであった。このあとはもう、いうならば、奈落の底へと続く斜面をずるずると滑り落ちていったようなものである。

 「パール・ハーバー(真珠湾攻撃)はアメリカによる謀略の産物だった。日本はいわば乗せられたのだ」という言い方がある。これはさすがに粗雑すぎるとぼくは思うが、しかしルーズベルト大統領を初めとするアメリカ首脳部がそうとう早い時期から対日戦争を目論んでいたのは確かであろう。ぼくの手元にあるのは日本サイドの文献ばかりで、アメリカ側の資料がないので明瞭なことは言えないけれど、アメリカが恐れていたのはナチス・ドイツが一挙にソ連までをも陥れることだけで、日本などはどうにでもなると考えていたとしか思えない。だからスターリンのソ連がナチス・ドイツ軍を撃退しうると判明した時点で(それはわりあい早く分かったようだ)、日本に対しては徹底して強気に出たのである。

 「ハルノート」はよく知られているが、その前に「ハル四原則」というのがあった。当時のアメリカ国務長官で、日本との交渉の相手役だったコーデル・ハルによる「諒解案」である。諒解案とは、和平のための条件ではなく、「とりあえずそちらがこれを呑んだら当方は交渉のテーブルに着いてあげるよ。」という前提条件だ。それが初めて提示されたのは41年の4月、しかも当時の松岡外相とは別ルートからの打診であった。まったく同じ時期に「日ソ中立条約」を成功させて意気揚々と帰国した松岡外相がこれを知って激怒し、独伊との同盟に固執したのは無理からぬところもあったのだ。これもまた、「意志統一の不徹底」による齟齬のひとつであろう。その「ハル四原則」とは以下のようなものだった。

 日本は ①あらゆる国家の領土を保全し、主権を尊重せよ。 ②他国の内政に干渉するな。 ③通商上の機会均等および平等を守れ。 ④平和的手段に依らずに太平洋の現状を変更するな。

 ①はもちろん日本軍の中国からの撤退を意味し、場合によっては満州国からの撤退も含むとも取れる。④はもちろん武力南進政策の否定である。つまり当時の日本の政策をすべて覆せという話であり、しかもそれが「交渉のテーブルに着く」ための条件なのである。これでは進捗しないのも無理はない。「アメリカは本気で交渉するつもりなどなく、開戦のための引き伸ばしをしていただけだ。」という説もここから出てくる。実際そうだったとしか思えぬが、ただ、どの辺りからそうなったのかは前述のとおりはっきりとはぼくには分からない。

 さて。41(昭和16)年8月、石油の輸入を絶たれたあとも、近衛文麿首相はアメリカとの交渉を模索しつづける。アメリカと戦って勝てないことは、嫌というほど分かっている。それはむしろ政府より、海軍、陸軍こそが百も承知しているはずだが、しかし永野修身・軍令部総長は、「油の供給源を失うとなれば、2年の貯蔵量を有するのみ。戦争となれば1年半にて消費し尽くすこととなるを以って、むしろこのさい打って出るの外(ほか)なし。」と上奏をする。軍部の中にも慎重派はいたようだが、それらの意図とは反して、「開戦やむなし」の気運は高まりつつあった。座して死を待つよりも、むしろ死中に活を見い出せということか。確かに軍というのはそういうもので、いわば存在自体がすでにして「戦争」を指向しているものだと思わざるをえない。

 そんななか、近衛が一縷の希望をつないでいたのは、ルーズベルトとの首脳会談だった。いろいろと画策し、もし会談を実現させてもらえるなら、「ハル四原則」の受け入れに加え、「中国からの全面撤退」さえも独断で呑む気でいたほどだったが、しかしハル国務長官は、もはやまともに取り合ってはくれない。その間も、石油の枯渇を何より恐れる海軍を先頭にして、対米戦に向けての気運が盛り上がっていく。陸軍もむろん負けてはいない。そして1941(昭和16)年9月6日、御前会議にて「帝国国策遂行要領」が決議される。事実上これが、日米開戦へ至る運命の決議となった。

 近衛首相が文字どおり「身命を賭して」開戦を回避したかったのであれば、まずはこの9月6日の「帝国国策遂行要領」の決議をこそ断固阻止するべきであったろう。しかし彼の関心は、実現するかどうかも分からないルーズベルト大統領との首脳会談のほうに向いていた。いかに心から避戦を願っていたとは言っても、つまりは目の前の軍部と対峙して命がけで説き伏せることから逃げ、手の届かない彼方の希望を追っていただけじゃないかと評価されても仕方あるまい。

 とはいえ、9月6日の「帝国国策遂行要領」はまだ開戦そのものを決めたわけではなく、交渉の余地をも残していた。近衛首相はそれに縋って働きかけを続けるも、依然としてアメリカから捗々しい応答はない。9月25日、政府と大本営(陸海軍の最高統帥機関)との連絡会議の席上で近衛は、10月の半ばまでには開戦の決断をせよと迫られる。しかも、「対米戦を始めれば、当然ながら対ソ戦も覚悟せねばならない。」とこの席で軍部のトップは言明した。アメリカの戦力は日本のほぼ2倍強で国力は10倍、ソ連の戦力は11倍とされる。中国との戦争を抱え込んだまま、これら二国と事を構えようとは、いったい軍首脳部は、このとき何を考えていたのか……。

 対米交渉も座礁し、かと言って開戦の決定もできない近衛首相はとうとう辞任してしまい、後任として、それまで彼を責め立てていた東条英機・陸相が首相の座に座る。10月18日のことだ。とうぜん開戦および戦争遂行のための組閣かと思いきや、意外やそれがそうでもなかった。これは大日本帝国という、世界史レベルで見ても面妖きわまる政体のことを知らねば分からない。東条はむろん主戦派ではあったが、それ以上に純粋な天皇崇拝者であって、とりあえずのところ、9月6日の御前会議で決まった帝国国策遂行要領を速やかに履行するよう近衛に迫っていたわけなのである。天皇は一貫して非戦の意向であったが、じつはそのことが東条にうまく伝わっていなかった。だから首相就任に当ってその旨を知らされたとき、「自分の使命は目前の開戦を全力で回避することだ。」と東条はいちどは心に決めた。

 となれば交渉の継続だが、しかし先にも述べたとおり、肝心の交渉相手のアメリカにこの時もう戦争を避ける意志がなかったとすれば、これはいかにも詮無いことだ……。当時の日本としては最大限の譲歩であった「甲案」、さらには「乙案」までをも提示したものの、依然として態度は変わらない。しかもこの間の会議の模様や計略なども、外交電文の解読によって、向こうには筒抜けであったらしい。さらに日本は、交渉と並行して開戦のための準備も整えており、和平への努力とは言いながら、ありようは時間稼ぎと見なされていたことだろう。ただしその点はお互い様には違いない。11月5日の御前会議にて、「対米英蘭戦争を決意し」「武力発動の時期を十二月初頭と定め」、交渉の期限を12月1日午前零時とする帝国国策遂行要領を決議。11月26日、俗に「最後通牒」といわれるハルノートが突きつけられる。そして12月1日、御前会議にて「8日開戦」の決議がくだされた。

 「絶対とは申し兼ねます。…… 必ず勝つとは申上げ兼ねます。」

 「開戦二ヶ年の間必勝の確信を有するも…… 将来の長期に亘る戦局につきては予見し得ず。」

 「戦争の短期終結は希望する所にして種々考慮する所あるも名案なし。敵の死命を制する手段なきを遺憾とす。」

 これらは当時の軍の最高指導者たちの言葉である。勝てるなどとはまったく思っていないのがわかる。「吾人は二年後の見通し不明なるが為に無為にして自滅に終わらんより難局を打開して将来の光明を求めんと欲するものなり。二年間は南方の要域を確保し得べく全力を尽くして努力せば、将来戦勝の基は之に因り作為し得るを確信す。」というのもある。あれこれ言葉を連ねているが、要するに、「ここまできたら、一か八かやってみるよりしょうがない。今は八方ふさがりだけど、やってみたらどうにかなるかもしれない。」ということだ。「戦争に負ける。」というのが一体どういうことなのか、その過程で一般の兵士や国民たちはどんな目に合うか、何ひとつ分かってはいない。想像力がまるっきり働いていない。考えようとすらしなかったのかもしれない。ひとつ疑問に思うのは、この人たちはとりあえず安全な場所に身を置いて、命の危険はないわけだけど、もし指揮官として前線に立っていたならば、必敗と承知している戦をやる気になっただろうか、ということだ。

 開戦を決した12月1日の御前会議に先立ち、択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾に終結した六隻の空母と随伴艦は、いっせいに錨を揚げ、ハワイを目指して出航していた。1941(昭和16)年11月26日のことである。御前会議の直後、艦隊の司令に向けて「8日開戦」の指示が出された。ハワイの真珠湾から発してマレー沖、シンガポール、ミッドウェー海域、ガダルカナル島、アッツ島、サイパン島、レイテ島、硫黄島にまで及び、半島と諸島とをあわせた東南アジアの広大な地域を戦火にまきこみ、やがて本土では二発の原子爆弾と数次にわたる大空襲を含む壊滅的な空爆をもたらし、沖縄の地への上陸を招き、軍人・軍属・民間人を併せて300万人近い死者を出して、日本そのものを破滅の淵にまで追いやった3年9ヶ月に亘る太平洋戦争は、このようにして始まったのである。情報を与えられない日本国民、いや、大日本帝国の臣民たちはこのとき、長きにわたる閉塞状況が打ち破られたと歓喜して、喝采をもって開戦の報を迎えた。


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