ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

『HUGっと!プリキュア』について 09 ここまでの総括。

2018-10-22 | プリキュア・シリーズ





 『HUGっと!プリキュア』の36話・37話は本編のドラマをほぼ度外視しての壮大なお祭り回。「さすがは15周年の記念シリーズ。」と狂喜乱舞するファンがいる一方、ドラマ重視派のファンの中には、「なんたる空騒ぎか。」と激怒・落胆する向きもあったようで、なんでも10年あまり続けたプリキュア専用ブログを閉じてしまった人もいるとか。お気の毒というかなんというか。
 その方のばあい、たんに今回のことで愛想をつかしたわけじゃなく、「キャラクター相互の心の交流がおろそかになっている」ことや、「それぞれの成長に繋がる過程がきちんと描かれない」こと、そして、「育児・仕事とただでさえ重いテーマを抱えてるところに、いじめやLGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー、すなわち性的少数者の問題)など、次から次へと社会問題を持ち込んで、子ども向けアニメの域を逸脱している」ことについての不満をかねがね訴えておられたようだ。
 そんな不満が募っていたところに今回のお祭り騒ぎで心がぽっきり折れちゃったらしい。ぼく自身はその方とは違って、子ども向けアニメで社会問題を扱うことが不適切とは思わないけれど、その他の点については共感するところもあった。あくまでもメインはプリキュアさん達なんだから、サブキャラ(具体的にいえばアンリ君ですね)にあまり深刻なテーマを課すな、という意見もわかる。
 36話・37話について、ぼく自身の感想を率直にいうと、はじめ見たときはアタマが痛くなり、録画をただちに消そうと思った。しかし気を取り直して見返したら、「いや結構すごい」と思えた。これ、劇場版の別バージョンといってもいいんじゃないか。いや劇場版は一度も見たことないけど、たぶん、ほとんど遜色ないんじゃないかと思う。たしかに本編のドラマの流れはむちゃくちゃになっちまったけど、封切り前の宣伝を兼ねたお祭りとしては、よかったんじゃないか。
 過去のプリキュア衆の性格や属性を知悉しているオールド・ファンたちは細部をあれこれ愉しめたろう。そして本来の視聴対象である子どもさんには、馴染みの薄い先代たちとの「顔つなぎ」ができた。あとは視聴率、新商品の売り上げ、映画の動員数がどう出るか、だ。もはや作品全体としての統一性をどうこういっても仕方ない。
 思い返せば、ぼくのばあい、輝木ほまれがスケーターとしての挫折の記憶から最初の「変身」に失敗する04話をみてこの作品に刮目したんだった。まさか毎回このクオリティは無理だろうけど、このスタッフだったらかなりの水準をキープしたまま大団円まで完走するのではないか、と思った。
 新商品のお披露目回だった11話も忘れがたい。新アイテムとして出現した武器を巨大な敵に振り下ろそうとして、寸前で止め、「……違うよ、必要なのは、剣じゃない。」と自分に言い聞かせるように呟くキュアエールこと野乃はなの姿は、「女性原理に基づくヒーロー」という相矛盾する概念を昇華しているように思えた。
 「光と影」「天候の推移」を繊細にとらえてルールーの心の動きを描いた16話も見事で、このとき初めてブログに取り上げた。さらに、はなが「いじめ」にあっていた事実が明かされた23話と、それを受けての24話をみて、ブログに「HUGっと!プリキュア」というカテゴリを設けた。
 ドタバタに終わった夏休み最後のエピソード30話でがっかりして、そのカテゴリは取り払ってしまったけれど(註 このあと復活させました)、あの回はじっさい、「えみるの寂しさ」を浮き彫りにした以外、ストーリーの進展にまったく寄与していなかった。
 とはいえ、今になって思い直すと、「えみるの寂しさ」はそれくらい大きなことだから、わざわざ一話を割いて取り上げ、かつ、重苦しくならないように紛らわせた……とも取れる。
 あけすけにいうと、「ルールー・アムール」と「愛崎えみる」というふたりのキャラは、いわゆる「愛着障害」を抱えた児童の暗喩なんだろうとぼくは見ている。
 ルールーはなにしろアンドロイドだし、「父」(ドクター・トラウム。CVはハリポタシリーズのスネイプ先生で知られる土師孝也)によって作られたんだからとうぜん「母」を知らない。愛崎えみるは、実態はよくわからないけれど何やら18世紀あたりの西欧貴族を思わせる資産家の両親のもとで生まれ育った。西欧の上流階級は子どもの養育を乳母に任せて自分たちは手をかけない。これは『ボヴァリー夫人』なんかを読んでもわかるところだ。
 だから、えみるはおそらく生まれてこのかた両親に「HUG」されたことがない(それは彼女の兄である正人も同じだ)。そこのところが野乃はなとまったく違う。ゆえに今、ルールーという対象を得て(ルールーはえみるという対象を得て)、二人して、むやみやたらとじゃれ合ってるのは極めて真っ当であり、また健やかなことなのである。
 (正人のばあいは、年長だし、男性でもあるのでそこまでストレートに自身を解放できない。彼の持つ課題はアンリの持つそれと併せてそれこそ純文学の管轄だ)。
 ただ、えみる&ルールーにしても、その蜜月がこのままずっと続くわけじゃない。それは「時を止める。」ことであり、『HUGっと!プリキュア』という作品そのものの禁忌に抵触する行いになってしまう。いつまでも一緒にはいられない。いずれは必ず「別れ」がくる。つまりこの作品はテーマの中にそういう残酷さを内包しているわけで、あとはその「別れ」(とそれに伴う成長)がどこまでていねいに描かれるかに注目すべきところだろう。
 ところで、唯一ぼくが01話から最終話まで観た2015年の『GO!プリンセスプリキュア』においてもラストは全員が別れ別れになって巣立っていったんだけど、今回の放送では何事もなかったかのようにみんな揃って参集していた。まあそれはそれ、これはこれで、お祭りってのはそういうものか。それをいうなら毎年の映画だってそうなんだし。





『宇宙よりも遠い場所』のこと。

2018-10-12 | 宇宙よりも遠い場所
『宇宙よりも遠い場所』(そらよりも とおい ばしょ  A Place Further than the Universe)。略称は『よりもい』。
 「極上の青春アニメにして、物語のエッセンスを残らず詰め込んだ傑作」だと個人的には思っている。そこまで惚れ込むに至った所以は、18年の11月から翌19年の2月まで、64回にわたって画像付きで述べた。感想を記すだけでは飽き足りず、本気で「論考」を書いたのである。アニメについてここまで長大な論を立てたのは初めてだ。

 テレビアニメ作品。2018年1月から3月まで、AT-X、TOKYO MX、BS11、毎日放送、熊本放送にて放映。時間帯は遅い。いわゆる深夜アニメである。同時期にネット配信もされた。
 監督・いしづかあつこ。脚本・花田十輝。製作はマッドハウス。
 2018年12月、ニューヨークタイムズ紙において「2018年の最も優れたテレビ番組(The Best TV Shows of 2018)」の海外番組部門のベスト8に選出された。なお、これはアニメにかぎらず、実写をも含めたすべてのドラマを対象とした賞だ。
(この冒頭部分は2019年2月に追記しました。)

 ぼくがこの作品を知ったのは、2018年の9月ももう終わりかけの頃だった。もともとテレビを見ないせいもあり、本放送の時にはまるで知らなかったのである。ネットでえらく褒められていて、それだけだったら「ふーん」で済ませたかもしれないが、「そらよりもとおいばしょ」というタイトルの響きに惹きつけられた。詩的で、静謐で、ふかい奥行きを感じさせる。
 とくに11話が絶賛の的だったので、「邪道かなあ」とは思いつつプライムビデオでその回だけ観てみた。終了後、びっくりしてきちんと第1話から順番にみた。13話のラストシーンまで達したあと、やや呆然としながらまた1話の冒頭へと戻り、一気呵成に13話まで行った。用事があったので急いで済ませ、それからまた、ノートを取りながらラストまで行った。いきなり2周しちゃったわけである。それからまた、日を改めてもう1周した。
 レンタル期間中は見放題だから、そんなこともできるわけだけど、しかし実際にやるとなったら話は別だろう。ふつうは1回、多くとも2回通して観れば飽きるところだ。
 高額ゆえにかなり迷ったのだけれど、思いきって4枚セットのディスクを買った。アニメたると実写たるとを問わず、映像作品のディスクを購入したのは初めてだ。
 たしかに世評も高いのだが、あくまでぼくの好みだから、誰彼かまわずお勧めするつもりはないけれど、仮にもし、この作品が深夜ではなく(あるいはアニメ専用チャンネルではなく)、NHKでゴールデンタイムに放映されていたならば、2年前の『君の名は。』に劣らぬ社会現象になっていたと思う。そのくらいは申し上げたい。
 設定ははなはだシンプルである。シンプルすぎるくらいだ。
 「4人の女子高生が南極をめざす。」
 以上。
 いや「めざす。」だけじゃなく、ほんとうに観測隊の同行者となって彼の地まで行ってしまうし、そこでの生活もていねいに描かれるわけだけれども、いずれにしても、「女子高生×南極」というのが、作品のコンセプトなのだ。
 「女子高生 × ◎◎」。
 この「◎◎」のところに「軽音楽サークル」「競技かるた」「キャンプ」など、さまざまな題材を代入することによって今日のアニメ業界はあまたのヒット作を生みだしているわけだけど、『宇宙よりも遠い場所』においては、それが「南極」なのである。
 じっさい、監督のいしづかあつこさん+シリーズ構成・脚本の花田十輝さんへのインタビューによると、着想の段階では、そのていどの感じだったようだ。
 ところがそこに、才能と経験から成るアイデアをどっさり注ぎこみ、筋金の入ったプロットを構築し、綿密な取材とロケを敢行し、劇場映画はだしの画面をつくり込み、音響効果をも含めた演出技術の粋を凝らし、さらに人気と実力を兼備した声優たちの演技が加わったことで、涙あり、笑いあり、友情あり、「青春」そのものを凝縮したような、とてつもない名作ができあがってしまった(ただし恋愛要素だけは皆無)。
 テレビで放映し、ネットで配信してるってだけで、いわばこれ、24分×13話=312分、つまり5時間あまりの劇場映画といっていい。
 13回(12回のばあいもある)というのは、テレビ業界でいうところの「ワンクール」で、連続ものの基本単位である。『君の名は。』の上映時間は1時間52分だけど、これはいかにも短すぎ、カップルの恋愛譚はできても、なかなか群像劇はやれない。といって、1年の長尺ものとなると、どうしても散漫な回が出る。「完成度」と、「尺」との兼ね合いでいえば、たぶん、13話くらいが最適の話数なのではないか。
 かねがねぼくは、ばくぜんとそう考えていたのだけれど、このアニメによって、その仮説を裏打ちされた。無駄なカットが1秒もない。そう思えるくらいの完成度だ。
 メインキャラの4人は以下のとおり。なお一人は高校を中退しているので、げんみつには「女子高生4人」ではない。

 玉木マリ(たまき まり)。愛称は「キマリ」。CVは水瀬いのりさん。高2。「ここではない何処か」に向かいたいと思いつつ、最初の一歩を踏み出せないまま日々を送っていたが、報瀬と出会ったことですべてが動き出す。かなり子供っぽいのだが、主人公らしく、その名のとおりキメる時はばしっとキメる。



 小淵沢報瀬(こぶちざわ しらせ)。CVは花澤香菜さん。高2。3年前、母が南極で消息を絶ち、それ以来バイトに明け暮れ100万円貯める。「南極に行く。」という強い意志を持ち続け、この人の存在が全員の駆動力であるのは間違いない。事実上の主人公といってもいいが、本人はかなり世情に疎く、見かけによらずドジな面もある。というか、総じてドジな面のほうが多い。




 三宅日向(みやけ ひなた)。CVは井口裕香さん。キマリや報瀬と同じ16歳だが、現在は高校には行かず、コンビニでバイト中(ただし高卒認定は取得ずみで、大学も受験する予定)。小柄。元気で明るく、コミュ力も高いしっかり者。しかし高校中退にまつわる暗い過去があり、「内面の複雑さ」という点ではこの人がいちばんかもしれない。




 白石結月(しらいし ゆづき)。CVは早見沙織さん。高1。北海道在住(ほかの3人は群馬・舘林近辺在住)。子役出身のアイドルタレント。「女子高生の南極レポート」との企画で極地行きが決まっていたのだが、「友達が作れない」からと渋っていた。3人と出会ったことで、「みんなと一緒なら」と乗り気になる。この人がいなければ報瀬の情熱も空回りで、ただの夢想に留まっていた。ひとつ下だが、芸能生活が長く、仕事であちこち行っているので経験値は高い。けっこう毒舌。


 キャラ設定そのものは、さして斬新というほどでもないように思う。つまりはこれも、シンプルといえばシンプルだ。
 それは各話の構成も同じで、タイムスケジュールのみ挙げていくならば、

 01話。キマリ、報瀬と出会う。
 02話。日向、くわわる。
 03話。結月、くわわる。
 04話。訓練。
 05話。旅立ちの前夜と当日の朝。
 06話。中継地のシンガポール。
 07話。オーストラリアのフリーマントル(観測船の寄港地)。船に乗り込む。
 08話。出航。船内での生活①。
 09話。船内での生活➁。南極到着。
 10話。基地での生活①。
 11話。基地での生活②。
 12話。「内陸基地」へ。
 13話。隊員たちとの別れ。帰国。

 と、きれいに1話ずつ完結している。シンプルなんである。
 土台がシンプルなればこそ、4人の感情の絡み合いが細やかに、それはもう「微分」といいたいくらい細やかに描かれ、室内楽のアンサンブルみたいに豊かにふくらんでいく。4人の織りなす「感情生活」こそがこのアニメの主役だ。時としてそれは、漫才ばりのコメディにもなれば、時として、「魂の迸り」としか言いようのないカタルシスともなる。
 すべてのエピソード、すべてのシーン、すべての台詞、すべてのカットは全編のクライマックスたる12話に向かって収斂していくのだけれど、だからといってそれまでの各話が「つなぎ」ってことではまったくないし、ラスト13話が付け足しってことももちろんない。「それぞれに輝きの違う13粒の宝石」と形容している方がいたが、そのとおりで、どの回もそれぞれ面白い(し、泣ける)。
 あまたの先人たちが営々として積み上げてきた映像表現、アニメ表現のテクニックが、ここにはほとんど詰まっているのではないか。むろん、当ブログの眼目である「物語論」の点からみても、とても興味ぶかい作品でもある。