ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

ブログ「世に倦む日日」さんの「瀬戸内寂聴の『美は乱調にあり』を読む – 青鞜の群像とスキャンダリズム」への反論

2021-11-28 | 純文学って何?
 ぼくがブログを始めたのは2006(平成18)年のことだ。ocnブログというサービスだったが、2014年にgooブログと統合され、こちらに越してきた。2006年にはまだnoteなんてものもなく、ブログ人口は今よりずっと少なかった。Twitterもなければ、むろんyoutuberなんて人々が存在すべくもなかった。
 ブログはもともと公開日記として出てきたメディアだが、ぼくは身辺雑記を書く気はなかったので、当初はコラムとも読書メモとも付かぬ短い文章を書いていた。Twitterをいくぶん長くしたていどのものだったろうか。クラウドというサービスもまだなかったが、今から思えばクラウド代わりの気分であった。自分のパソコンに保存していると、紛れたり、故障の際にデータ自体が失われたりする。ウェブ上に置いておけばその心配はないし、誰かの目にふれて何かの参考になるかもしれない。一石二鳥ではないか。
 「世に倦む日日」を見つけたのは2009年だった。映画『ダヴィンチ・コード』が初めてテレビ放映され、それを観たあとネットでこの作品について調べた。そのときに辿り着いたので、日付を覚えているわけだ。
 「世に倦む日日」氏は2004年にブログを始めておられるが、開始して間もない頃に『ダヴィンチ・コード』についての記事を上げている。映画ではなく原作のほうだ。さらに2006年には映画版についての記事も上げている。ぼくがそのとき辿り着いたのは2004年の記事のほうで、5年遅れで「世に倦む日日」を発見したことになる。ちなみにこれらの記事は今も閲覧可能だが、先ほど12年ぶりに読み返したらやっぱり面白かった。
 『ダヴィンチ・コード』(角川文庫)そのものは通俗小説に過ぎないが、キリスト教圏外のわれわれがキリスト教にふれるきっかけになるのは確かだ。手頃なところで、もっといいのは佐藤優の『私のマルクス』(新潮文庫)。マルクスと銘打ってはいるが、プロテスタント神学の勉強になる本である。
 「世に倦む日日」に出会ったとき、まず驚いたのはその長さで、「ブログでこんな長文がやれるのか。」と思った。迂闊にも、当時のぼくは「wordで下書きをつくってコピー&ペーストで移す」という方法を知らなかったため、編集画面の枠内にぽちぽちと文字を打ち込んでいたのである。手間もかかるし、途中で誤って送信したり、消してしまうことも度々だった。
 長さに一驚したあと、内容の濃さに感心した。冒頭で述べたが、当時まだnoteはない。個人ブログであそこまで濃厚なものはさほど多くなかったはずである。
 それからはぼくも、きちんと草稿を練って長めの記事を上げるようになった。
 「世に倦む日日」氏は誰の目にも明らかな左翼であり、それはブログの最初の記事から一貫している。対してぼくにはそういう意味での政治的定見はない。げんに去年(2020年)は、「コロナを全世界に広めた中共許すまじ!」の一念から、毎日のようにネットで「虎ノ門ニュース」を見て、トランプや安倍晋三に肩入れしていた。
 しかるに今年に入ってからは、コロナ禍での五輪強行開催に呆れ果て、さらに安倍・菅内閣の9年間でわがニッポンがいかに国際的に凋落したかを勉強し直して、がぜん「反自民・反安倍」へと急旋回した。近ごろは「猫のリュックくん」さんのtwitterを追いかけるのが日課になっている。
 ぼくは「自由」が好きなのである。さらにいうなら「民主主義」も「日本」も好きだ。その点に関しては揺るぎない。しかし、「では自由をいかにして実現するか?」となると、その道筋は簡単ではない。
 ひとつの国が国際的な独立(≒自由)を得るためには軍事力が不可欠(必要悪)だ。しかし、福利厚生をそっちのけにして、軍事にばかり傾きすぎたら国民が幸せになれるはずがない。その兼ね合いが難しいのである。むろん、特定の人物やら政党やら企業が縁故主義で結びついたり、陰に陽に権力を誇示して関連機関や個人に圧力をかけたりするのも論外だ。それくらい「自由」を蔑ろにする行為もない。
 そういう意味で、今のぼくは「自由」と「民主主義」と「ニッポン」を愛するがゆえに「反自民・反安倍」にならざるを得ないわけだけれども、どうもこの道理がなかなか通らないので困る。「自民党≒安倍≒ニッポン」といった感じのおかしな等式がまかり通っている。それは多分に「日本会議」のせいかもしれないが、この歪んだ等式を何とかしなければならない。このままでは二大政党制など望むべくもない。
 話が逸れた。「世に倦む日日」のことだった。
 「世に倦む日日」氏の博識と分析力には学ぶところが多いが、そのいっぽう、率直に言わせて頂ければ、意外なほどに知識が偏っているように思えて戸惑うことも少なくない。ことにぼくの専門である文学やサブカルにおいては首を傾げる……というより申し訳ないが思わず笑ってしまうこともある。もともと氏は嫌いなもの、敵対するものについては仮借ない罵詈を浴びせる反面、好きな対象については過剰なまでの称賛を惜しまないのだが、「村上春樹は神である。」という揚言を目にしたときは実際ほんとに笑ってしまった。村上さんは確かに重要な文学者ではあるが、いくらなんでも「神」はなかろう。いかに本邦が八百万の神々の賑わう国とはいえど、さすがにこれは言い過ぎだ。


村上春樹『職業としての小説家』を読む - あらためて村上春樹は神である2015-11-04
https://critic20.exblog.jp/24896979/



 氏がこの記事で引き合いに出しているのは辺見庸だが、辺見さんに留まらず、比較対象としてより多くの作家をもっていたなら、こんな過賞が出てくるはずがないのである。大江健三郎を(保守派を自認する連中がやるように)単なる戦後民主主義の擁護者として矮小化するのではなく、現代文学の巨人として時代を追って体系的に読み込んでいれば、間違ってもハルキさんにそこまでの評価を下せるはずがないのだ。
 「世に倦む日日」さんには文学の素養が乏しい。もっと言うなら、「文学とは政治に従属するもの」という古い社会主義リアリズム文学理論のシッポが残っていて、文学を軽く見ておられるようにも映る。そこが以前からぼくには不満だった。
 そのほか、よく気になるのは、「今の日本は社会のみならず論壇の隅々までもが新自由主義に毒されていて、もはや社会主義を奉じる学者がいない。」というフレーズ。いろいろな記事で氏はかたちを変えてこのことを強調されるのだが、たしかに東浩紀みたいな若手(とはいってももう50だが)を見ればそう言いたくなるのもわかるけれども、けしてそんなことはない。
 たとえば的場昭弘(1952/昭和27生)氏がいるではないか。ハードカバーの高価な専門書のほかに、新書や文庫サイズでマルクス主義の入門書や解説書をたくさん出している。祥伝社新書の『超訳「資本論」』全3巻などはとても面白かった。商売上手の内田樹さんのマルクス入門本はうまく毒気を脱色している感があるけれど、的場氏にはマルクスを武器に本気で新自由主義と切り結ばんとする気概が見られる。これだけ著作が多いということは、若い読者もそれなりに付いているのだろう。
 ほかにも、ぼくも最近知ったのだが、薬師院仁志(1961/昭和36生)という方もいる。光文社新書の『社会主義の誤解を解く』はおおいに勉強になった。
 つまり、新自由主義が猖獗を極める現代ニホン社会にあっても、社会主義を奉じる学者がいなくなったわけではない。「世に倦む日日」氏がよく名前を挙げられるのは、上野千鶴子、本田由紀といった「リベラル派」の方々である。しかし、そういったリベラルの他に、はっきりと社会主義を標榜している書き手もまだまだ少なくない。そういったあたりに目配りが及んでおられぬのではないか。


 さて。世に倦む日日さんの最新記事は、「瀬戸内寂聴の『美は乱調にあり』を読む – 青鞜の群像とスキャンダリズム」2021-11-26である。
https://critic20.exblog.jp/32389764/
 この記事の出だしに、先ごろ逝去された瀬戸内寂聴さんが、
「四百冊を超えているらしい自作の中で、ぜひ、今も読んでもらいたい本をひとつあげよと云われたら、迷いなく即座に、『美は乱調にあり』『階調は偽りなり』と答えるであろう。」
 と記していたという話が置かれている。ぼくはこれを読むまでそのことを知らなかったけれど、「やはりそうか。」と思った。つい先日、11月11日にアップした記事の中で、


「(……前略)……訃報を聞いてぼくが即座に思い浮かべたのは、伊藤野枝の生涯を描いた『美は乱調にあり』と『諧調は偽りなり』だ。」


 と書いていたからだ。瀬戸内さんでいちばんいいのはやはり伝記文学だと思うが、なかでもこの二作(前編・後編)が白眉といえる。もう一作というなら岡本かの子を描いた『かの子繚乱』だろうか。ほかに管野須賀子を描いた『遠い声』、金子文子を描いた『余白の春』もあり、「かの子」以外は岩波現代文庫に入っている。
 世に倦む日日さんは、訃報に接するまで瀬戸内さんにも近代女性史にもさほど大きな関心を払っていなかったようで、このたび初めて『美は乱調にあり』を読まれたらしい。その感想として、


「この小説で勉強になるのは青鞜社の歴史であり、青鞜に集まった個性的で魅力的な「新しい女」たちの群像である。私はこの周辺にほとんど無知同然だったので、大いに蒙を啓かれ、関心の端緒を持つこととなった。ジェンダーの時代、この時期の女性解放運動史と人間模様の理解は現代人の必須の教養の如くであり、それを仕入れることが読書の動機の一つだったと言える。もう残りの人生の時間も多くないから、とにかく、知るべきことで欠けていることは早く吸収して(自己満足であっても)養分にしないといけない。」


 と記事の中で述べている。じゅうぶんに博識でありながら、こうやって書生のように初々しい向学心を吐露されるあたりが「世に倦む日日」の魅力の一つであって、こういうところは見習わせて頂きたいものだ。そうお思いであればぜひ、ぼくが11月11日の記事で紹介した、まだ「晴美」であった頃の瀬戸内さんが編者を務めた「人物近代女性史」(全8巻・講談社文庫)をお勧めしたい。タイトルどおり、近代の日本をつくった女性たちの小伝を、簡潔かつ生き生きとまとめた列伝集である。著者のほうもすべて女性というのがポイントだ。
 瀬戸内さんは編者というか、「大看板」みたいな役どころで、各巻巻頭の解説のほか、ご自身が筆を執ったのは金子文子と田村俊子の小伝だけだが、他の書き手たちの文章もまったく引けを取ってはいない。1980年(親本となった単行本の出た年)にはノンフィクション界にこれだけの錚々たる才媛が揃っていたわけで、平成以降むしろ層が薄くなったようにさえ感じる。しかしそれは別の話だ。ともかくこのシリーズ、紙媒体は絶版で、電子書籍化もされていないので古書か図書館で読むしかないが、ここまでコンパクトで内容の詰まった「近代日本女性史」は今でも見当たらぬはずである。
 それはそれとして、ぼくが今回言いたかったのはまた別件なのだった。表題からも知られるとおり、この記事のテーマは「スキャンダル」なのだ。
 『美は乱調にあり』と『諧調は偽りなり』の主人公・伊藤野枝は1912(大正元)年、17歳で「青鞜社」の同人となり、ここから知的世界へと足を踏み入れていくのだが、その青鞜社の主宰者が9つ上の平塚らいてうだった。
 この「青鞜」内部のスキャンダルについてもあれこれ書かれているのだが、詳しいことは本記事のほうで読んで頂くとして(もちろん無料公開である)、ぼくがこの記事を看過できぬと思ったのは、夏目漱石に対する誹謗めいたくだりが見られたからだ。世に倦む日日氏はこう書く。




(……前略……)この時期、青鞜だけではないが、文芸雑誌は何やら今の女性週刊誌の中身を併せ持った気配があり、文士たちは恰も芸能タレントの如くで、自分たちのプライベートな自由恋愛を奔放に誌上に暴露し、醜聞の抗弁や批判や論評を演じ合う。恥も外聞もなく。平野啓一郞も怪訝に紹介していたが、現在とはずいぶん時代が異なっていて、不思議な感覚にさせられる。/それは、ある種、大衆の俗情に寄り添って市場の部数を稼ぐビジネスの論理と思惑からの必然性だったのだろうか。よく分からないが、彼らは絶え間なくそれをやり、痴情悶着の暴露応酬をエスカレートさせ、青鞜はおそらくその影響で本来の価値を減価償却して行ったと思われる。近代女性の理念理想にフォーカスした文芸同人誌から、よりラディカルな社会変革思想の方向に旋回し、政府官憲の治安上の干渉と取締りを受けたことに加えて、男女の醜聞ネタの要素が全開になったことが、青鞜が急速に支持を失って衰えた原因ではないか。寂聴の筆からはそう読み取れる。だが、実際、青鞜の女流文士たちだけでなく、自然主義や白樺派の文豪巨匠たちも同じことをやっていて、それが当時の文学文壇のリアリティそのものだった。




 「青鞜」にかんする評価はともかく、その余勢を駆っての「だが、実際、青鞜の女流文士たちだけでなく、自然主義や白樺派の文豪巨匠たちも同じことをやっていて、それが当時の文学文壇のリアリティそのものだった。」がまず勇み足である。論旨が飛躍しすぎている。「文学文壇」なる言い回しも変だが、何にせよ明治後期から大正にかけての文壇ってものをそう安直に片付けられては困る。西欧に学んだ「自然主義」が日本に土着して「私小説」へと変質していく過程はたいそう複雑微妙なもので、こんなふうに荒っぽく(しかも悪意を込めて)纏めてしまっては肝心なところを見誤ってしまう。
 しかも世に倦む日日氏は、この上さらに「不可解で倒錯としか思えない日本文学の悪習と病癖。なぜこんな奇態になっているのだろうか。どうも、そこには夏目漱石の影があるのだ。」と続けるのだ。おいおい、と思わず口にせざるを得ないではないか。
 平塚らいてう(当時はまだ女学生・平塚明(はる)であったが)は1908(明治41)年、22歳の時に栃木の塩原で心中未遂事件を起こす。相手は通っていた文学講座の教師・森田草平(当時27歳)。まぎれもないスキャンダルである。これはのちに塩原事件、ないし後述の理由から煤煙事件と呼ばれることになる。
 この森田草平が漱石の弟子のひとりだった。
 森田草平、今ではまったく読まれておらず、それこそ「漱石の弟子のひとり」として文学史に名前を留めているていどだが、当時はそこそこ有力な作家だった。このように「今ではまったく読まれていないが当時はそこそこ有力だった作家」というのが沢山いるから文学史というものは一筋縄ではいかぬのである。
 この辺の時代状況を知る上での最適かつ不可欠の資料は伊藤整(19巻からは瀬沼茂樹)の『日本文壇史』(講談社文芸文庫)なのだが、これは全24巻だから目を通すのも大変だ。若い人なら関川夏央/谷口ジロー(『孤独のグルメ』の絵を描いている人)のマンガ『坊ちゃんの時代』が手っ取り早いかと思う。電子書籍あり。
(注・ここまで書いて、2015/平成27年のNHK連続テレビ小説「あさが来た」で、当時の事情がかなり詳しく(むろん潤色がたっぷり加えられているのだろうが)描かれていたことを知った。だったら平塚明のこともお茶の間にわりと知られているのではないか。ふだんテレビを見ないのでこういうところが疎くて弱る)


 「世に倦む日日」氏の言い分はこうだ。




この事件を門下の弟子の森田草平に小説にして書けと指導したのは漱石だった。/なぜそのように指示したかというと、森田草平に才能がなく、創作の題材を見つけて物語を織り上げる力がなかったからである。手っ取り早く私的な情痴事件を書いてみいと指導した。漱石一門で東大文学部の文学エリート(文学官僚)である以上、売れない作家というわけにはいかなかったからだ。おそらく、こんな感じで「日本文学」の「業界」が組み上がっていて、太宰治は典型的にその延長上にある。それがスタンダードだったのだ。手頃な標的を見つけて恋文を書きまくり、返信を友人に見せびらかし、その後のラブゲームの波乱と顛末を小説化して売文する。新聞記者にリークして醜聞を囃させ宣伝する。という、それが文壇と業界の標準スタイルだったのだ。




 世に倦む日日さんが『美は乱調にあり』『諧調は偽りなり』以外にどのような資料に依拠しているのかはわからぬが、『日本文壇史』全24巻を読破しておられぬことは確かであろう。限られた情報を元に想像力を駆使して憶説を立て、その臆説がどんどん加速して膨らんでいくのがこのブログの真骨頂ではあるのだが、ぼくとしても、自分の専門分野でここまで放埓なことを述べ立てられたら黙っているわけにはいかない。
 森田草平が平塚明との心中未遂事件を元に小説を書いたのは事実だ。タイトルは『煤煙』。1909(明治42)年の1月から5月まで東京朝日新聞に連載された。ふつうであれば社会的に葬り去られるはずだった森田草平は、まさに起死回生というべく、この小説によって逆に新進作家として認められた。
 日本版wikiの「煤煙(小説)」の項には、「漱石は『東京朝日新聞』の文芸欄を担当していたことから草平にこの事件を書くことを勧め、森田は平塚家の許可を得て、小説として1909年1月1日から5月16日まで127回にわたって連載した。」と書かれ、出典は荻原桂子『夏目漱石の作品研究』(花書院)となっている。世に倦む日日氏はこのwikiの記述を参考にされたのだろうか。
 ぼくはさすがにこの本を読んではいないため、荻原さんがどんな資料に基づいてそう書かれたのかは不明だけれど、『日本文壇史』の13巻『頽唐派の詩人たち』の当該部分を見ると、漱石はけして森田草平に向かって「手っ取り早く私的な情痴事件を書いてみい。」などと指導も指示もしていない。森田草平が自らの意思でその体験を書こうと決めたのだ(むしろ最初からその気で道行きに赴いた節さえある)。漱石がしたのは朝日新聞に発表の場を設けてやったことと、明(はる)の母が苦情を言いに来たとき間に入って弁明をしてやったことくらいである。
 それはもちろん弟子なのだし、一時は家に居候までさせてやっていたらしいから、この体験を文学として昇華したらどうか、という示唆はあったのかもしれないが、だとしてもそれは、けして大衆の俗情に媚びて安っぽい人気を得ようというのではなかった。あくまでも「平塚明」という新時代の女性の個性が新時代の日本文学の題材として描くに値するものだと思ったからこそのことなのである。文学への敬意に乏しい世に倦む日日さんにはその辺の機微がわかっていない。これでは漱石がなにやらチンピラ文士の元締みたいではないか。
 大文豪だからといって神格化する必要はないが、その裏返しのように、殊更ちんけな俗物扱いするのもおかしい。
 じっさい漱石は、平塚明本人には一面識もなかったけれども、森田から聞いた彼女の印象をもとにあの『三四郎』の里見美禰子を造形している。『煤煙』はもう読まれないけれど、『三四郎』は美禰子の魅力もあって今もなお青春小説の名品として読み継がれているのは周知のとおりだ。また漱石は、「『煤煙』の序」という短文において、小説の出来に苦言を呈してもいる。この「『煤煙』の序」はタイトルどおり森田草平の『煤煙』が出版された時の序文なのである。序文で作品の出来栄えに苦言を呈するわけだから、いかに師弟とはいえ大胆な話だとは思うけれども、しかしそのこと一つ取っても漱石が、「一門で東大文学部の文学エリート(文学官僚)である以上、売れない作家というわけにはいかなかった。」などと、しょうもない思惑を持って弟子や作品や文学に向き合っていたわけでないのが知られるであろう。


「『煤煙』の序」
https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/4684_9470.html



 というわけで、ふだんは「あれ?」と思う部分があっても適当に読み飛ばし、勉強になる所、参考になる所だけを記憶に留めるようにしているが、今回はどうにも酷すぎたのでこのような記事を書いた。失礼の段はご容赦願いたい。ただ、漱石の意図は別として、この「煤煙事件」が「醜聞の作品化~商品化」というべき事態を結果的に招聘した。少なくともその端緒をつくった。かもしれぬ。という仮説であれば、それなりに頷けないでもない。そのことは改めて考えてみたい。
 いずれにせよ、ぼくがいちばん言いたかったのは、近代日本文学とスキャンダルとの関係うんぬんよりも、もっともっと重要なのは「近代の日本における文学と社会主義思想との関係」ではないかということだ。近代日本を解く鍵はむしろこちらのほうである。世に倦む日日さんならば、とうぜんこの主題をこそ追究されるべきではあるまいか。




タイトル考

2021-11-26 | 雑読日記(古典からSFまで)
 明治期の小説のタイトル(題名)は簡潔なものが多かった。たとえば夏目漱石(1867/慶応3~ 1916/大正5)のばあい、『倫敦塔』『坊ちゃん』『草枕』『夢十夜』『二百十日』『野分』『虞美人草』『坑夫』『三四郎』『それから』『門』『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』『道草』『明暗』といった塩梅だ。
 異色なのはデビュウ作の『吾輩は猫である』くらいか。これがもし『私は英語教師である』だったら面白くも何ともないわけで、いかにも当時の書生が愛用しそうな「吾輩」ときて、しかも語り手が「猫」だというのだから(それも比喩ではなくて本物の猫なのだ)、いかにホフマン(エルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマン。ドイツの作家・作曲家・法律家。1776/安永5 ~1822/文政5)の『牡猫ムルの人生観』という先蹤があったにせよ、卓抜なことをやったものである。
(注・19世紀末のフランスで『蚤の自叙伝』という春本がよく売れており、漱石はイギリス留学中、「牡猫ムル」ともども、その『蚤の自叙伝』をも英訳版で読んでいたのではないかとの推測がある。「蚤」の冒頭が「猫」のそれと酷似しているのだ。「牡猫ムル」と『蚤の自叙伝』では、ずいぶんと品が下がってしまうが、下品で通俗的だからこそ強いインパクトを受けるというのもよくある話だ。影響関係とは誠に複雑なものである。)
 その「猫」以外のタイトルは前述のとおり簡潔なのだが、では地味なのかというとそうでもなくて、こちらが内容を知っているせいもあるかもしれぬが、それぞれに陰翳に満ちた豊かな象徴性を湛えているように映る。詩的といってもいいかもしれない。
 とはいえ簡潔なのは間違いない。これは江戸期の歌舞伎の外題がどれも長くて賑々しかったことへの反動ではないか。西欧文化を規範と仰ぐ近代の小説家たちは、歌舞伎的なもの、戯作的なものからの脱却を(意識的にか無意識的にかはともかく)目指しており、そのあらわれがタイトルの付け方にも出たのではないか。ぼくはそう思っているのだが、このことについて権威ある筋の論文なり考察なりを読んだ覚えがないから定かではない。あくまでも私見であり、仮説である。
 もうひとりの文豪・森鷗外(1862/文久2~ 1922/大正11)はどうだろう。『舞姫』『うたかたの記』『文づかひ』『半日』『青年』『雁』『妄想』『百物語』『山椒大夫』『高瀬舟』『寒山拾得』『堺事件』『阿部一族』『大塩平八郎』『渋江抽斎』『北条霞亭』。
 やはり簡潔である。新政府の要職にある役人(軍医)という職業柄も与ってか、漱石よりも実証的で手堅い印象がある。詩的というより散文的だ。後年になると実在の人物の名をそのままタイトルに冠した評伝を手掛けるようになってその印象は更に強まるのだが、しかし作家・翻訳家としての鷗外は奇譚や怪奇・幻想ものも好んでおり、上記のホフマンやあのE・A・ポーなどを訳してもいる。実作では『百物語』や『寒山拾得』あたりにその薄気味悪さの片鱗がうかがえる。こういった奥行きの深さが文豪の文豪たる所以であろう。
 そんな中でぼくが面白いと思う鷗外タイトルは、『ヰタ・セクスアリス』『かのように』『じいさんばあさん』、並びに『興津弥五右衛門の遺書』『最後の一句』だ。
 ヴィタ・セクスアリスとはラテン語で「性的生活」の意味だが、明治42/1909年のニッポンで、これをそのまま日本語タイトルにしたら出版は不可能だ。初期の大江健三郎かよ?という話である。もとより内容はポルノなどであるはずもなく、極めて真面目に一男性の性欲のありようを描いた作品なのだが、それでも掲載誌「スバル」は発禁処分を受けたのだ。明治末あたりなら、一級の知識人にとっては、かえって今日よりもラテン語は身近だったかもしれないが、それでも大多数の読者にはこのタイトルは珍紛漢紛、それでいてハイカラに響いたろう。内容にふさわしい意欲的なタイトルではあった。
 『かのように』は、とても柔らかな表題で、これは当時はおろか今日でもなお新鮮に響く。故・森田芳光監督の劇場デビュウ作『の・ようなもの』(1981/昭和56)を思い起こさせる。
 『じいさんばあさん』も、ひらがなの表記と相俟って、どこか民話ふうの趣を持ったタイトルだ。
 『興津弥五右衛門の遺書』と『最後の一句』は、どちらも封建制の下での武家の悲劇を扱ったものだが、「〇〇の〇〇」と単語を二つ重ねると、がぜん劇的になって想像が膨らむ。単語(あるいは熟語)ひとつで構成されたタイトルは今でも数多いが、「〇〇の〇〇」というタイトルもそれに劣らぬくらい多い。だが「硝子戸の中」「趣味の遺伝」「琴のそら音」のような随筆めいた短編を除けば、漱石はその手のタイトルを付けなかった。








21.11.20 時事的放談07 久々に現代中国の話。

2021-11-20 | 戦後民主主義/新自由主義
2021年11月20日
消息不明の中国テニス選手、所在確認求める声 米仏など懸念表明
ロイター


[北京 19日 ロイター] - 中国共産党の幹部だった張高麗元副首相との不倫関係を告白し、行方が分からなくなった女子テニスの彭帥選手(中国)を巡り、各界から所在確認を求める声が相次いでいる。


米ホワイトハウスは19日、中国政府に対し、同選手の所在確認と安全確保について「独立した検証可能な証拠」を提示するよう要請した。サキ報道官は「彭帥選手が、中国共産党幹部による性的暴行を告発した後、行方不明になっているとの報道に深い懸念を抱いている」と述べた。


フランスのマラシネアヌ・スポーツ相も「わが国は人権の尊重に深くコミットしている。彭帥選手のケースのような性的暴行の告発には、透明性が絶対に必要だ」と表明した。


このほか、大坂なおみ選手やセリーナ・ウィリアムズ選手(米国)らトップ選手を始め、関係団体などからも彭帥選手の安全を確認するよう求めるコメントが出されている。


セリーナ・ウィリアムズ選手は「彭帥選手のニュースを受けて、とてもショックを受けている。一刻も早く彼女が無事に発見されることを願っている。この件は調査されるべきで、われわれは黙っていてはならない」と述べた。


大坂なおみ選手も「検閲はどんなことがあっても許されるものではない。彭帥選手とその家族が無事であることを願っている」とした。


彭帥選手は2日、中国交流サイトの微博(ウェイボ)で、張高麗元副首相から性行為を強要され、合意の上で不倫関係を持ったと暴露。その投稿は約30分後には削除されたが、投稿のスクリーンショットがインターネット上で拡散し、大きな話題となった。


張元副首相と中国政府からのコメントは得られていない。


 ◎このロイターの記事は「不倫関係を告白し」と書いているが、他のメディアではより明確に「性的関係を強要されたと告白し」と書いているものもある。
 さらに詳しい記事はこちら。ただし英文で、ちょっとサイトが重い。AP通信。


https://apnews.com/article/coronavirus-pandemic-sports-entertainment-health-beijing-d9aeeb571e4c1d4cb8f4efb469e9faa2?utm_campaign=SocialFlow&utm_medium=AP&utm_source=Twitter



(冒頭部分)
Jack Ma. Actress Fan Bingbing. Businesspeople and a scientist. And now a tennis star. All have vanished from public view in China for a time after running afoul of authorities. What drives such high-profile disappearances?


ジャック・マー。女優ファン・ビンビン。何人ものビジネスパーソンや科学者たち。そして今回のテニスの花形プレイヤー。いずれも中国では、当局の逆鱗に触れたあと、一時的に公の場から姿を消している。なぜ、このような失踪事件が起こるのか。




☆☆☆☆☆☆☆☆


 いまの中国はやっぱりとんでもない国だ。国際社会の面前において、これくらい露骨に人権蹂躙をやってしらばっくれていられる神経は尋常ではない。しかし最大の問題は、この巨大な隣国が、日本を抜いて世界第2位のGDPを誇り、軍事的にも膨張をつづけ、経済面でも技術面でもアメリカに迫りつつあるということだ。いったい日本(政府≒自民党首脳部)はこの国とどう付き合っていくつもりなのだろうか。そんな疑念を抱かざるをえない。
 ひとつにはこういうことがある。


世に倦む日日
@yoniumuhibi
去年から補正予算を46兆円注ぎ込んでいる。それでも日本経済はマイナス成長。いかに体力が衰え、内需・個人消費が落ち込んでいるか。マイナスになった要因は、ズバリ、中国人観光客だ。東京の商店街の賑わい、お店での買い物にいかに中国人のウエイトが高かったか。
世に倦む日日
@yoniumuhibi
46兆円も注ぎ込んだら、単純計算で8%から9%はGDPが上がらないといけない。東京五輪も経済のため景気のために無理やりやった。それでもマイナス成長。どうなってるんだろう。どう考えても中抜きしてますね。相当に。どこに消えてるんだろう。内部留保か。ケイマン金庫か。
世に倦む日日
@yoniumuhibi
コロナ前の銀座、覚えてますよね。中国人ばっかり。百貨店の中の客も中国人だけ。日本人は中高年女性が地下の食料品売り場にいるだけ。秋葉原も上野も中国人オキュパイ状態。千鳥ヶ淵の花見客も4割が中国人だった。奥日光は6割以上。それが消えたら、GDP、マイナス成長しますよね。納得だ。
世に倦む日日
@yoniumuhibi
コロナ前の山手線。車内で聞こえてくるのは中国語だけだった。3-4人の家族連れとか小グループはすべて中国人。キャスター付きバッグ転がして活発に喋っている。お金持ってるから元気なんですよね。日本人はお金がないんだ。お金がないから、みんな一人で静かに座ってるわけだ。お金は大事。
世に倦む日日
@yoniumuhibi
46兆円の補正の流れた先、使い道、経済学者、検証して欲しいですよね。どう考えてもカラクリがある。名目はコロナ対策だった。どこにぶち込んだんだろう。省庁の特別会計にかなり入ってるはずだ。電通とパソナの会計を洗わないといけない。暗号資産もあるかも。闇から闇へのルートと金庫があるはず。




 46兆円の補正予算の話はともかくとして、中国人観光客の件はぼくの生活実感に照らしても全くその通りとしかいいようがない。いっぽうでは中国の共産党を隠然と、ときには公然と敵視しながら、反面ではどっぷりと中国の購買力に依存する。この状況を指して、「この国の政府(や財界)は一体何を考えているのか?」とぼくは訝っているわけだ。




 あるいは、また別種の懸念として、このような事態もある。






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猫=リュック・ポンティ
@nasitaro
テニスの件はオリンピックボイコットの理由にはなり得るな。
猫=リュック・ポンティ
@nasitaro
しかし日本でも政府批判した人間は次々とテレビ番組降ろされてるからな。中国で何が起きてるかはわからないが、方向性は基本的に変わらない。
猫=リュック・ポンティ
@nasitaro
中国の人権問題は相当深刻だとは思うが、日本はマトモだと思ってたらとんでもないぞ。完全に同じ方向に向いてるのだから。反共だから逆だみたいな理解は馬鹿すぎる。日本政府が求めてるのは全体主義社会。










 これも確かにその通りで、「共産主義は悪。でも日本は新自由主義社会だからOK」という話ではない。ぼくが愛するのは何よりもまず「自由」だが、今の日本がやっている「新自由主義」はそもそも「自由主義」ではない。「持てる者たち」が何でもかんでも好き放題やれるという点では彼らにとっては自由なのかもしれないが、ふつうの「持たざる者」たちは可処分所得を減らされ、可処分時間を奪われ、むしろ不自由をかこっている。
 つまり、「民主主義」の理想から遠ざかっている点において、程度の差はあれ同じ(負の)方向をむいているということだ。日本のばあい、戦後このかた殆どの期間で自民党の「一党独裁」が続いているから猶更である。
 しかもそのような状況を正当化するための理由として、「中国の脅威」が使われる。げんに、先の選挙における自民党勝利の一因には、「外交・防衛」のテーマがあった。はっきりいえば、「立憲民主党では中国とまともに対峙できないだろう」との懸念を抱く有権者がそれだけ多かったということだ。
 しかし、怪物と闘おうとするものが、自らもまた怪物になってしまっては元も子もない。ニッポンはこの先どうするつもりなのだろうか。


◎引用元の方々には心よりお礼を申し上げます。


小松左京について 21.11

2021-11-18 | 純文学って何?
 TBSドラマ『日本沈没-希望のひと-』が映画『シン・ゴジラ』(2016)を下敷きにしているのは誰の目にも見て取れるだろう。≪シン・ゴジラと半沢直樹を足して10で割ったような≫という悪口すら見かけたが、さすがにこれは言い過ぎで、ぼくが脚本家だったら怒りまくる。「会議シーンがだらだら長くて退屈、『シン・ゴジラ』のあのテンポの良さと緊張感がない。」ってことだろうが、映画のほうは119分、対してテレビドラマは、今のところ公表されてはいないが仮に全10話だとして単純計算で約50分×10話で500分なのだから、ところどころ冗漫になるのも仕方がない。ぼくはふだんテレビを観ないが、このドラマだけはスイッチを入れてしまう。面白いのである。


 原作版の主人公は深海潜水艇の操縦士で、1973年映画版の藤岡弘も、1974年テレビドラマ版の村野武範も、2006年映画版の草彅剛も、その職業を踏襲していた。このたびの小栗旬は「日本未来推進会議」に在籍する環境省の若手官僚で、ここが大きな変更点である。この人が『シン・ゴジラ』の長谷川博己に当たるわけだが、ぼくの見るかぎり、この2人の役者の魅力に遜色はない。いちばんの相違は、ドラマの「日本未来推進会議」と、シン・ゴジラのあの素晴らしき「巨災対(巨大不明生物特設災害対策本部)」との隔たりだろう。

 組織に馴染めぬ変人ぞろいでありながら(いやむしろそれ故に?)おっそろしく優秀で有能だった巨災対の面々に比べて、「日本未来推進会議」のメンバーは省益優先で政治家の顔色をうかがってばかり、いかにも凡庸に見える。だいいち官僚ばかりで科学者がおらぬ。そこが「シン・ゴジラの劣化版」という酷評にも繋がるのだろうが、しかし思えばこのグダグダっぷりのほうが遥かにリアリズムではないか。それに、情報が不確定だった頃こそ半信半疑で右顧左眄していた彼ら(むろん女性も含む)にしても、じっさいに関東の一部が沈没するや、とたんに実務能力を発揮して対応に精魂を傾けるのだ。先の9・11を思い起こすと、むしろ理想化されているとも言える。現実の役人が本当にここまで的確かつ献身的に動いて下されば有り難いのだけれど。


 原作者はいうまでもなく日本SFのゴッドファーザー小松左京(1931/昭和6 ~ 2011/平成23)。小説は1973(昭和48)に光文社から刊行。空前のベストセラーとなり、SFというジャンルが広く市民権を得るきっかけともなった。同年に東宝で映画化され、こちらも大ヒット。


 青土社の「現代思想」が、生誕九〇年/没後一〇年ということで、この10月に「2021年臨時増刊号 総特集=小松左京」を出した。ユリイカではなく「現代思想」のほうというのがミソだ。文藝の枠には収まらぬ「思想家」として小松さんを捉えようという趣旨であろうし、今日においてはそれこそが正しい遇し方である。そうであればこそ盟友・高橋和巳との関係性も改めてクローズアップされるし、若き日のマルクス主義との……もっとはっきり言うなら共産党との……関わりについても、より高い視座から論じることができるというものだ。


 若き日の小松実(本名)青年は共産党に籍を置いていた。1950年から1952年頃まで、おおむね19歳から20歳くらいまでだ。これはべつだん珍しいことではなくて、当時のインテリ学生は大なり小なりマルクス主義に惹きつけられていたのである。小松さんとほぼ同年齢で、のちに保守派の論客(笑)として粘着質の厭ったらしい文体で丸山眞男や大塚久雄、さらには大江健三郎などの悪口をねちねちと書き綴ることになる谷沢永一も、それくらいの年齢で共産党に在籍していた。そこでいろいろ下らぬ事態に出会って(それはもう出会うにきまっているのだが)幻滅して脱党、あげく反対の極へと突っ走る。いわゆる「ヤメ共」の典型例だ。


 小松青年のばあい、入党の直接の動機は「戦争反対・原爆反対」であった。「悪の米帝に対する平和勢力のソ連」という幻想が成立していた期間が戦後の一時期にはあったのだ。しかし、1949(昭和24)にはすでにもう当のソ連も一回目の原爆実験に成功しており、この図式も危うくなっていたのだが、一部の者はそれでも「アメリカの武力は絶対悪。されどソ連の武力はそれに対抗するための必要悪」といった屁理屈を捏ねて正当化を図っていた。しかし、まともな知識人や学生ならば、この手の強弁が欺瞞であると気づかぬはずがない。かくして小松青年は(それだけが理由ではないが)ほどなく党を離れた。


 ついでだから、戦後政治史の一環として、当時の共産党について少しだけ触れておこう。ソ連が一回目の原爆実験に成功した1949年は、中国で共産党が内戦に勝って国民党を追い出し、政権を樹立した年でもある。日本では総選挙にて共産党が35議席をとった。戦後初の1946(昭和21)年の選挙では5議席どまりだったから大躍進である(念のため言うが、1949年当時の日本はまだアメリカの占領下だ)。そんな趨勢もあって、「議会制を通じて平和革命~人民政権の樹立は可能だ。」という見解を党是としていたのだが、そこで総元締めのソ連から(より正確にいえばソ連共産党を親玉とするコミンフォルムから)、「そんな甘っちょろいことでどうする。」と頭ごなしに叱責され、方針転換を命ぜられた。かくて当時の日本共産党は、ソ連に反発する「所感派(主流派)」と、その叱責を受け入れる「国際派」とに分かれた。のちに学生運動を担った「新左翼」もこのあたりに繋がるわけだ。さらにこのあとGHQによるレッドパージがきて、主なメンバーが公職追放、ヤケになった「所感派」もまたコミンフォルムの方針に従い、軍事方針に舵を切ることとなる。このあいだの選挙前、ワイドショー「ひるおび!」で八代英輝弁護士が行った発言は(後日、局アナによって訂正・謝罪された)、この時期の機微にかかわるものだ。本筋とは関係ないのでこれくらいにしておくが、ぼくは未読ながら、この6月に、池上彰と佐藤優による『真説 日本左翼史 戦後左派の源流 1945-1960』なる対談本が講談社現代新書から出たようだから、こういった話にもあながち需要がないわけでもないだろう。


 さて。京大生だった小松青年はけっしてただの政治青年ではなかった。そもそも、上から降りてくる活動方針のあまりのばかばかしさに呆れ、指示に従わずに「党活動停止」を早々に食らっていたほどだ。やはりその本領は文学にあった。「京大作家集団」という、いまふうにいえば「イタい」名称の団体の同人となって高橋和巳、近藤龍茂、三浦浩ほかの面々と日々議論に明け暮れていた(今と違って荒っぽい時代だから、議論はしばしば腕力沙汰にも及んだという)。それと同時に自然科学・社会科学にまたがる科学少年上がりでもあり、また、サブカル少年のはしりでもあった。むろん幼児期(戦前である)から小説はあまた読み漁っていたが、漫画も大好きだったのだ(ぼくはほぼ文献でしか知らないが、当時から漫画というジャンルはけっこう隆盛を誇っていたようだ。有名なのは「のらくろ」「冒険ダン吉」「タンクタンクロー」「猿飛佐助」といったところだが、他にもいろいろ面白いものがあったそうな)。


 こういった雑多な関心の赴く先にSFという表現様式をのちの小松さんが選び取ったのは当然というべく、どう考えても純文学に収まるタマではないし、文字を使っての創作となればどうしたってSFしかなかっただろうな、とは思う。


 現代SFの鼻祖といったらイギリスのH・G・ウェルズ(1866/慶応元・慶応2~1946/昭和21)だろう(フランスのJ・ヴェルヌはこの人よりさらに40歳ほど先輩だが)。『タイムマシン』『宇宙戦争』『透明人間』『モロー博士の島』など、その代表作はどれもみな汲み尽くせないネタ元として今なお無数のヴァリエーションを生み続けている。このウェルズもまた万学に通じた大知識人で、『世界文化史』というノンフィクションの著作もある。初版の刊行は1920(大正9)年。英語版wikiには「宇宙の誕生から第一次大戦までを記した歴史書」とあるから、今でいえばさしづめユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』といったところか。ほかに、専門の科学者たちとの共作として『生命の科学』なる大著もあり、「古本屋でタダ同然で譲ってもらったこの翻訳本が戦争中の僕のバイブルみたいなものだった。」と小松さんは対談の中で述べている。何であれ書物自体が貴重だった時代だから、「バイブル」はけして大げさな物言いではない。




 近代の日本がどのように海外のSFを受容し、そこからオリジナルの作品を創り出していったか。については、長山靖生の労作『日本SF精神史 幕末・明治から戦後まで』(河出ブックス)に詳しい。「日本SFの誕生から百五十年、“未来”はどのように思い描かれ、“もうひとつの世界”はいかに空想されてきたか―。幕末期の架空史から、明治の未来小説・冒険小説、大正・昭和初期の探偵小説・科学小説、そして戦後の現代SF第一世代まで、近代日本が培ってきたSF的想像力の系譜を、現在につながる生命あるものとして描くと同時に、文学史・社会史のなかにSF的作品を位置づけ直す野心作。」である。これまでの文学史はあまりにも「純文学」だけに偏していたので、より広い見地に立ったこの種の試みははなはだ意義深い。もっともっと多くの書き手が出来することを望む。




 とまれ、SF小説と呼ぶべきものはすでにして幕末から在ったわけである。むろんおとぎ話や神話まで含めれば人類の起源にまで遡行してしまうため、どこかで線を引かねばならないが、長山さんは幕末の儒学者・巌垣月洲の『西征快心篇』(安政4/1857頃)を「日本最初のSF」と評価している。このころにもう和製SFが誕生していたとなると、それから敗戦までの90年近く、当該ジャンルがそれなりに成熟しなかったはずがない。




 のちに星新一、筒井康隆と共に「日本SF第一世代の御三家」と並び称される小松さんだが、戦前~戦中、その小松少年を夢中にさせた和製SFが既にあったというわけだ。早川書房が1968(昭和43)年から1971(昭和46)年にかけて刊行した全35巻の『世界SF全集』の第34巻「日本のSF(短篇集)古典篇」には、江戸川乱歩、小酒井不木、平林初之輔、木津登良、直木三十五、渡辺温、海野十三、夢野久作、小栗虫太郎、野村胡堂、星田三平、牧逸馬、久生十蘭、木々高太郎、大下宇陀児、横溝正史、蘭郁二郎、城昌幸、渡辺啓助、北村小松、香山滋といった人たちの作品が収録されている(他に宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』、川端康成の『抒情歌』、稲垣足穂の『一千一秒物語』、内田百閒の『東京日記』などが入っているのも興味ぶかいのだが)。




 このなかで、ことにSFプロパーとして特筆すべきは海野十三(うんの じゅうざ1897/明治30~1949/昭和24)だろう。小松さんにとっては神戸一中の先輩にも当たる。1937(昭11)年の『海底大陸』では「宇宙線の遮断による生命体の進化への影響」というコンセプトを出し、1940(昭和15)年の『地球要塞』では「日本沈没」というアイデアを(!)出している。


 またこの作品では「四次元」という発想が取り入れられ、「オルガ姫」(手塚治虫『火の鳥2772 愛のコスモゾーン』はこれへのオマージュだった!)という名の美少女アンドロイドが登場したりもする(ちなみに少年時代の大江健三郎……小松さんの4歳下……もわりと海野十三は好きだったらしい)。このほか、山中峯太郎の軍事冒険小説『亜細亜の曙』も当時の少年たちの愛読書だった。漫画もそこそこ充実していた旨は前半で述べた。つまりぼくは、昔からサブカルに相当するものはあったと言いたいのだ。そういった蓄積のうえに戦後SFが花開いたので、けしていきなり降って湧いたわけではない。
『地球要塞』 青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/3239_15747.html







 書きたいことは色々あるが、これはいちおう「純文学って何?」のカテゴリなので、ここらで純文学サイドに寄せていきたい。これは小松さんに限らず、戦後のインテリ学生の定跡みたいなものだったのだが、マルクス主義と並んで小松青年が惹かれていたのはサルトルの実存主義だった。「『嘔吐』はやはり凄いものだったね。しかし小説として面白かったのはカミュの『異邦人』のほうだった。いちばん好きなのは『ペスト』。」との発言もある。たしかに、『果しなき流れの果に』や『神への長い道』などはエンタメ化された実存主義文学ともいえる。30代くらいまでの潔癖だったぼくにはそれが「通俗」と見えて軽侮の念を覚えたものだが、今は「実存主義をエンタメでできるなんて素晴らしいじゃないか。」と思っている。誰しもが面白く楽しく読めて深く考えさせられる。むしろそういうものこそほんとうの文学なのではないか。




 戦後に出てきた作家の中では、小松さんは安部公房を高く評価していた。安部さんは1924/大正13生まれなので小松さんより7つ先輩になる。ちなみに上記の『世界SF全集』には安部公房が一巻立てで収録されている。日本の作家で一巻立てはほかに星新一と小松さんのみ。筒井康隆・眉村卓・光瀬龍が3人セットで一巻だから、安部さんの待遇がいかに破格かわかる。『世界SF全集』についてはよく知らないのだが、ひょっとしたらこの人選と編集には小松さんの意見が反映されているのかもしれぬ……と想像するのは許されるだろう。




 日本の戦後文学者の中で小松さんが他に名前を挙げているのは埴谷雄高の『死霊』。いかにもという感はある。あと小説ではなく評論になるが花田清輝(シナリオライター花田十輝の祖父)の『復興期の精神』、野間宏の『暗い絵』、椎名麟三の『深夜の酒宴』、武田泰淳の『異形の者』、中村真一郎の『死の影の下に』など、いわゆる「第一次戦後派」と呼ばれる作家、あるいはその周辺の人たちのものだ。ちなみに小松さんの盟友・高橋和巳は年齢がかなり下なので「戦後派」とは呼ばれないけれど、あきらかにこの系譜に属する小説を書いた。初期の大江さんも近い。これらの方々の作品は今はもう殆ど読まれなくなってしまっているのだが、その精神がSFに受け継がれて現在のサブカルの繁栄に繋がっているかと思うといくらか救われる気がする。




 「そういった作家の作品群は、戦前の純文学と呼ばれた私小説、家庭小説、恋愛小説、心境小説と全然違うわけ。/非常にがっちりした構想と、観念的というか形而上的というか、ミステリとよく似ているんだね」(光文社『SFへの遺言』より)




 ここで「ミステリと似てる」というのが誉め言葉として使われているのが興味ぶかい。それはドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』が最上のミステリだという意味での「ミステリ」であろう(埴谷さんはもろにそのセンを狙ってたわけだが)。正直ぼくは古色蒼然たる私小説や家庭小説や恋愛小説や心境小説も好きなので困るのだが、とはいえ、その手の作品が夾雑物をとことん削ぎ落したあげく散文詩に似たものへと近接してしまうのは確かであって、「骨太の構想」「重厚なテーマ」「豊かな物語性」「観念的な奥行き」「全人類的な思想」を備えた西欧由来の長編こそが語の本来の意味での「小説」だろうと思ってはいる。やはり従来の日本文学史は、あまりにも既成の「純文学」の概念に囚われすぎていた。小松左京と大江健三郎とが、あるいは例えば松本清張と太宰治とが(この2人は同年の生まれである)同時代性のなかで語られる総合的で広やかな文学史が編み直されてもいい頃だ。




 思い立ってこんなエッセイを書き始めてみたが、純文学/エンタメ小説というジャンル分けの話に拘泥して(それが当ブログを貫くメインテーマではあるのだが)、小松左京その人についてはあまり紙幅を費やせなかったかもしれない。いずれまた、もう少し準備を整えて、小松文学と小松左京のことを書きたい。


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おまけ
戦後SF界の勃興期にかんしては、これをひとつの惑星に例えた石川喬司のことばが有名だ。引用者によって細部に異動はあるが、おおむねこんな感じである。
「星新一と矢野徹がこの惑星へのルートを開拓し、福島正実が青写真を描き、小松左京が万能ブルドーザーで地ならしし、光瀬龍がヘリコプターで測量し、眉村卓が貨物列車で資財を運び、筒井康隆が口笛を吹きながらスポーツカーで乗りこんだ……」。
 のちに小松さん自身が晩年の著書『SF魂』でさらに広げて「(近くに)漫画星雲の手塚治虫星系が発見され、半村良SF酒場開店、豊田有恒デパートが進出、平井和正教会が誕生、野田昌宏航空開業……」と加筆したそうな。
 ぼくが拝見したサイトの筆者さんは、さらにこう付け加えておられる。
「私なら、ここに海野十三さんをさらに付け加えます。『海野十三の星が孤独に輝いて、未来のSF民族をそのSF惑星に導いてくれた』と。」
 やはり海野十三は先駆者なのだ。




 ところで、ほかのところで石川さんは、こんな言い方もしておられる。人名リストとしてはこれがいちばん充実しているし、サブカル(漫画)に視野を広げている点で、より文化史的な見方といえる。
「漫画星雲の手塚治虫星系の近傍にSF星雲が発見され、星新一宇宙船長が偵察、矢野徹教官が柴野拓美教官とともに入植者を養成、それで光瀬龍パイロットが着陸、福島正美技師が測量して青写真を作成……。いち早く小松左京ブルドーザー(コンピューター付き)が整地してね、そこに眉村卓貨物列車が資材を運び、石川喬司新聞発刊、半村良酒場開店、筒井康隆スポーツカーが走り、豊田有恒デパートが進出、平井和正教会が誕生、野田昌宏航空開業、大伴昌司映画館ができ、石原藤夫無線が開局、山野浩一裁判所が生まれ、荒巻義雄建設が活躍。伊藤典夫通弁事務所ができ、浅倉久志大学も作られた……。」




 とはいえ筒井さん(今やSFというジャンルを超えて日本文学全般にわたる堂々たる大家なのだが)自身は、かつて『腹立半分日記』のなかで、
「こんなに気楽にやったわけではないのだ。SFは小松さんより早くからやっていて、同人誌は六年間も続けた。雌伏の期間がながく、ずいぶんつらい思いもしたし、雑誌から原稿を突き返された数はぼくがいちばん多い筈である。書くものが派手だからそう見えるのかもしれんが、この際弁明をひとこと。」とすこぶるマジメに自己注釈を加えていた。



21.11.14 時事的放談06

2021-11-14 | 戦後民主主義/新自由主義
 藤井聡太さん、竜王奪取および四冠達成おめでとうございます。豊島将之九段(前竜王)、激闘お疲れ様でした。捲土重来を期待しています。


 藤井さんの偉さは、「ソフトが人間の力を凌駕した」時代にあって、「人間の頭脳がソフトを使ってどれだけのことができるか」を身を以て実践している(将棋という極めて限られた分野において、だけど)ところにあるわけです。この話はいずれ時間があればゆっくりやりたいね。




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日本語の原郷は「中国東北部の農耕民」 国際研究チームが発表
毎日新聞 2021/11/13 12:50(最終更新 11/13 21:17)
https://mainichi.jp/articles/20211113/k00/00m/030/100000c





日本語の元となる言語を最初に話したのは、約9000年前に中国東北地方の西遼河(せいりょうが)流域に住んでいたキビ・アワ栽培の農耕民だったと、ドイツなどの国際研究チームが発表した。10日(日本時間11日)の英科学誌ネイチャーに掲載された。


 日本語(琉球語を含む)、韓国語、モンゴル語、ツングース語、トルコ語などユーラシア大陸に広範に広がるトランスユーラシア語の起源と拡散はアジア先史学で大きな論争になっている。今回の発表は、その起源を解明するとともに、この言語の拡散を農耕が担っていたとする画期的新説として注目される。


 研究チームはドイツのマックス・プランク人類史科学研究所を中心に、日本、中国、韓国、ロシア、米国などの言語学者、考古学者、人類学(遺伝学)者で構成。98言語の農業に関連した語彙(ごい)や古人骨のDNA解析、考古学のデータベースという各学問分野の膨大な資料を組み合わせることにより、従来なかった精度と信頼度でトランスユーラシア言語の共通の祖先の居住地や分散ルート、時期を分析した。


 その結果、この共通の祖先は約9000年前(日本列島は縄文時代早期)、中国東北部、瀋陽の北方を流れる西遼河流域に住んでいたキビ・アワ農耕民と判明。その後、数千年かけて北方や東方のアムール地方や沿海州、南方の中国・遼東半島や朝鮮半島など周辺に移住し、農耕の普及とともに言語も拡散した。朝鮮半島では農作物にイネとムギも加わった。日本列島へは約3000年前、「日琉(にちりゅう)語族」として、水田稲作農耕を伴って朝鮮半島から九州北部に到達したと結論づけた。


 研究チームの一人、同研究所のマーク・ハドソン博士(考古学)によると、日本列島では、新たに入ってきた言語が先住者である縄文人の言語に置き換わり、古い言語はアイヌ語となって孤立して残ったという。


 一方、沖縄は本土とは異なるユニークな経緯をたどったようだ。沖縄県・宮古島の長墓遺跡から出土した人骨の分析などの結果、11世紀ごろに始まるグスク時代に九州から多くの本土日本人が農耕と琉球語を持って移住し、それ以前の言語と置き換わったと推定できるという。


 このほか、縄文人と共通のDNAを持つ人骨が朝鮮半島で見つかるといった成果もあり、今回の研究は多方面から日本列島文化の成立史に影響を与えそうだ。


 共著者の一人で、農耕の伝播(でんぱ)に詳しい高宮広土・鹿児島大教授(先史人類学)は「中国の東北地域からユーラシアの各地域に農耕が広がり、元々の日本語を話している人たちも農耕を伴って九州に入ってきたと、今回示された。国際的で学際的なメンバーがそろっている研究で、言語、考古、遺伝学ともに同じ方向を向く結果になった。かなりしっかりしたデータが得られていると思う」と話す。


 研究チームのリーダーでマックス・プランク人類史科学研究所のマーティン・ロッベエツ教授(言語学)は「自分の言語や文化のルーツが現在の国境を越えていることを受け入れるには、ある種のアイデンティティーの方向転換が必要になるかもしれない。それは必ずしも簡単なステップではない」としながら、「人類史の科学は、すべての言語、文化、および人々の歴史に長期間の相互作用と混合があったことを示している」と、幅広い視野から研究の現代的意義を語っている。【伊藤和史】




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白石草
@hamemen
研究結果にキレる人がいそうですが、「自分の言語や文化のルーツが現在の国境を越えていることを受け入れるには、ある種のアイデンティティーの方向転換が必要になるかもしれない。」


猫=リュック・ポンティ
@nasitaro
てか普通に歴史学んでたら少なくとも日本文化がどこから渡ってきたかくらい知ってるわなぁ。




 ……いやいや、この記事のネット版に、「ユダヤ人と古代日本の繋がり」とかいう、例のアレ系の胡散くさい広告が貼ってあってちょっと笑えたんですが……。でもよく考えたら笑い事でもないわなあ。
 『ドラえもん のび太の日本誕生』を観た良い子のみんなだったら、小学生でも心得ている話なんだけども。
 すべて人類は元をたどればアフリカに行き着くわけで、民族的なルーツを根源まで遡ってアイデンティティーを求めようとするのは意味ないです。それに、言語から文化、律令や政治制度まで、国家としての骨格を整えるうえで、日本が大陸~半島の影響を決定的に受けてきたのも歴史的事実なんだから、そこを恥じる必要はまったくない。ましてや否定してかかるなんて論外で、それこそ恥ずかしく、愚かしい所業ですね。
 大陸~半島からの影響を色濃く受けつつ、これだけの独自の文化と文明を育ててきたのが日本なんだから、なにも卑下することはないし、もちろん、驕り高ぶる筋合いもない。ふつうに矜持を保っていればいいだけのことだ。


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【独自】「緊急事態条項」創設を優先的に、自民・茂木氏が方針…改憲論議を加速
讀賣新聞
https://www.yomiuri.co.jp/politics/20211112-OYT1T50355/
2021/11/13 05:00




 自民党の茂木幹事長は12日、読売新聞のインタビューに応じ、衆院選で憲法改正に前向きな日本維新の会や国民民主党が議席を伸ばしたことを踏まえ、改憲論議を加速し、緊急時に政府の権限を強化する「緊急事態条項」の創設を優先的に目指す方針を示した。


 茂木氏は「新型コロナウイルス禍を考えると、緊急事態に対する切迫感は高まっている。様々な政党と国会の場で議論を重ね、具体的な選択肢やスケジュール感につなげていきたい」と述べた。


 各党との協議では、「一般論で憲法を議論しようというよりも、どの項目の優先順位が高いかについてまとめ、国民に判断してもらう」とも語った。自民党は2018年、〈1〉自衛隊の根拠規定の明記〈2〉緊急事態条項の創設〈3〉参院選の合区解消〈4〉教育充実――の4項目の改憲案をまとめている。


 敵のミサイル発射基地などを自衛目的で破壊する「敵基地攻撃能力」の保有については、「ミサイル能力の向上で脅威が深刻化しており、厳密な言葉で言えば、『敵基地反撃能力』も含めて様々な選択を検討する必要がある」と強調。公明党が保有に慎重であることに関しては、「公明党もスタンド・オフ・ミサイル(長射程巡航ミサイル)能力には理解を示しており、認識は共有できるのではないか」と指摘した。


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なないろ
@nanairo0606
ほれ。きた。
緊急事態条項創設を優先的にだって。




Seisu_Ken
@Seisu_Ken
中国の脅威や、北朝鮮の脅威より、100倍もヤバイ脅威が今、我々の目の前にある。


それは、具体性を帯びてきた、憲法への「緊急事態条項」の追加と「人権条項」の削除。


死ぬぞ。
殺されるぞ。




森井 じゅん
@MORII_JUN
「緊急事態宣言」という言葉が身近になったことで「緊急事態条項」にも抵抗感が薄れ、ハードルが低くなっている。


緊急時とは何なのか。
コロナを口実に、権力者の暴走を抑える装置である憲法が、その暴走を可能とするものに。


このままでは取り返しがつかないことに。


青木正美
@aokima33
頭クラクラする。もうちょっと人権や自由や民主主義について真剣に考えてみましょう。あの人たちが何を奪おうとしているのか考えてみましょう。一度奪われたら二度と取り戻せないのですから。


憲法改正 「賛成」48%、「反対」31% 毎日新聞世論調査 | 毎日新聞




青木俊 新作「逃げる女」(小学館)発売中
@AokiTonko
新聞は世論調査ばかりやっている。その前にやるべきことがあるだろうに。改憲賛成の大半は、改憲の意味も意図も背景も、よく理解していない人たちだ。新聞記者はそのことを知っている。知っていながら理由を促すことも意図を知らせることもなく、ただ世論調査をしている。






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 日曜の朝っぱらから物騒な話で恐縮ですが……。
 たしかに、自民党の改憲案でいちばん気にかかるのは、「緊急事態条項」の追加とセットになってる「人権条項」の削除ですね。
 どういうことかというと、これはつまり、政府が「緊急事態」と判断した際には、個人の人権が制限され、国家の指示に従うことが強制される、ということね。
 それはふつう「戦時」というわけだけど、なにを「戦時」と見なすかは、お国の裁量なんだから、べつにミサイルが飛んでこなくても、そういう事態はいつでも起こりうるってことです。
 国民全員が熟慮の果てにニッポンをそういう国にしたいと真剣に望んでいるならそれでもいいけど、マスメディアがきちんと情報を与えないまま、何となくムードに流されてそうなってしまうのはまずいですね。











追悼 瀬戸内晴美  人物近代女性史 講談社文庫 全8巻 リスト

2021-11-11 | 純文学って何?
 瀬戸内寂聴さんは、本業の小説のほか、源氏物語の現代語訳、仏教の解説書など色々な仕事を遺されたが、訃報を聞いてぼくが即座に思い浮かべたのは、伊藤野枝の生涯を描いた『美は乱調にあり』と『諧調は偽りなり』だ。いまは岩波現代文庫に入っている。瀬戸内さんは荒畑寒村(1887/明治20 ~1981/昭和56)とも親交があり、「ガールフレンド」との「称号」をもらったこともある(年齢は瀬戸内さんのほうが35歳下)。
 荒畑寒村は、近ごろの若い人には馴染みの薄い名前だろうが、日本の社会主義者の草分けの一人である(洒脱な人柄で、小説も巧かった)。寂聴尼といえば筋金入りの反戦主義者でもあり、「社会派」であったのは間違いないが、いっぽうでは、櫻井よしこ、石原慎太郎といった人たちとの共著もあって、軽々に色分けできるような方ではなかった。
 連合赤軍事件の永田洋子死刑囚との往復書簡も有名だし、永山則夫とも文通をしていた。共著というと、梅原猛、五木寛之、加藤唐九郎、水上勉、永六輔、稲盛和夫、荒木経惟、安藤忠雄、日野原重明、山田詠美、玄侑宗久、鶴見俊輔、ドナルド・キーン、平野啓一郎、美輪明宏、田辺聖子、さだまさし、藤原新也、萩原健一……らの各氏とも共著を出しておられるらしい。正直これは、「幅が広い」とか「懐が深い」というより「節操がない」という言葉が当てはまるような気もするが、立場ではなく、とにかく「人間」に興味があったのだろう。人望が厚くなるのも道理だ。
 1953(昭和28)年の、いわゆる「徳島ラジオ商殺し事件」に際しての活動も有名だった。つまりは「社会の矛盾によって弱者が抑圧されること」に対して憤りを発する方であったのだと思う。かつての日本は(日本だけには限るまいが)、いま以上に女性ぜんたいが「社会の矛盾によって抑圧される存在」であったから、瀬戸内さんの文業の大半が「フェミニズム」と呼ばれるものに重なっているのは当然であろう。
 ぼくが20代の末に古本屋でセットで見つけて買い込んだのが、まだ「晴美」であった頃の瀬戸内さんが編者を務めた「人物近代女性史」(全8巻・講談社文庫)。タイトルのとおり、近代の日本をつくった女性たちの小伝を、簡潔かつ生き生きとまとめた列伝である。著者のほうもすべて女性というのがポイントだ。読み物としても面白いし、女性史としても、近代史としても勉強になった。残念ながらもう絶版で、電子書籍化もされておらず、古書でしか入手できないが、自分なりの追悼としてリストアップしておく。()内が各章の著者名である。







① 明治女性の知的情熱


 女の屈辱から生まれた「栄光の女医」第一号の苦闘と情熱・荻野吟子
(広池秋子)
 絹ひとすじに青春を捧げた「伝習女工」の輝ける日々・和田英
(安西篤子)
 密命を帯びた女教師が秘境にうちたてた教育の理想像・河原操子
(岩橋邦枝)
 芸術家・亡命政客のオアシス「中村屋サロン」の主役・相馬黒光
(太田治子)
 激しい忍ぶ恋と清冽な絵筆が描いた近代美人画の孤絶・上村松園
(落合恵子)
 スキャンダルの嵐を生きた「翔んでる」女の愛の虚実・宮田文子
(松原一枝)
 冬の時代に耐えて歩んだ婦人解放理論家の「持続した志」・山川菊栄
(江刺昭子)


② 反逆の女のロマン


 快然と絞首台に散った「大逆事件」の孤高のヒロイン・管野すが
(近藤富枝)
 爆弾をふところに潜行した女闘士の不屈の反骨精神・福田英子
(丸川賀世子)
 自分のために生きた「炎の女」の鮮烈な愛と思想・伊藤野枝
(池田みち子)
 薄幸な生い立ちを充実した「生」に変えたアナーキストの恋・金子文子
(瀬戸内晴美)
 革命家から家庭人への数奇な一生が刻んだ殉教者の肖像・九津見房子
(江刺昭子)
 動乱の中国大陸を駆けぬけた「男装の麗人」スパイ・川島芳子
(戸川昌子)


③ 自立した女の栄光


 女性解放のたいまつをかかげた「青鞜の女」のリーダー・平塚らいてう
(角田房子)
 娼婦から婦人運動家への数奇な転身を生んだ「時代」の奇蹟・山田わか
(保高みさ子)
 天才女詩人と内助の夫の愛がうちたてた女性史の輝く金字塔・高群逸枝
(中山あい子)
 離婚から出発して女子教育の鬼となった「精力絶倫」のクリスチャン・矢島楫子
(阿部光子)
 「終わりなき闘い」に殉じた婦選運動家のチャンピオン・市川房枝
(江刺昭子)
 家庭革命に挑戦した本邦婦人記者第一号の誇りと栄光・羽仁もと子
(田中澄江)


④ 恋と芸術への情念


 古いモラルとの闘いに命を賭けた恋のカチューシャ・松井須磨子
(河野多恵子)
 世界を駆けたプリマドンナの愛の遍歴・三浦環
(三枝和子)
 女王の座をすてて恋に生きた悲愁の歌人・柳原白蓮
(岩橋邦枝)
 明治の下町が生んだ粋で美貌の劇作家・長谷川時雨
(城夏子)
 狂気のうちにも夫を慕い続けた至純の愛の孤独・高村智恵子
(来水明子)
 美人芸者が新舞踏運動の旗手となるまでの情熱的生きかた・藤蔭静樹
(松原一枝)
 才女とうたわれたアララギ派歌人の華麗な恋の破局・原阿佐緒
(阿部光子)


⑤ 国際結婚の黎明


 さんざめくウィーンの夜に咲いた小さな伯爵夫人 クーデンホーフ光子
(角田房子)
 寄るべなき詩人の魂を定着させた「徳島の女」のぬくもり モラエス・ヨネ
(丸川賀世子)
 アメリカ富豪の玉の輿に乗った祇園の名花の愛と誠 モルガン雪
(安西篤子)
 愛する人を助けてつつましく燃えた献身的生涯のすべて ベルツ花
(近藤富江)
 絵の好きな下町娘が異国で洋画家になるまでの静かな道のり ラグーザ玉
(太田治子)
 「激動の時代」に旅立った混血女医の波乱の一生 シーボルト・イネ
(山本藤枝)


⑥ 新時代のパイオニアたち


 宰相をパトロンとした名妓から一躍国際女優第一号へ・川上貞奴
(丸川賀世子)
 妖女か才女か、謎と艶名につつまれた宮廷の花・下田歌子
(岩橋邦枝)
 鹿鳴館のシャンデリアの下に生まれた近代最初の令嬢作家・三宅花圃
(山本藤枝)
 彗星のように逝った天才女流作家の愛と文学・樋口一葉
(安西篤子)
 宮廷の才女、一転してわが国初の女流民権の闘士となる・岸田俊子
(田中阿里子)
 世界最年少8歳のアメリカ留学生、女子教育の一粒の麦ここに育つ・津田梅子
(来水明子)




⑦ 火と燃えた女流文学


 新しい時代の恋をひらいた情熱の歌人・与謝野晶子
(城夏子)
 奔放な恋の狩人の生涯・田村俊子
(瀬戸内晴美)
 ユニークな男性遍歴が告げた無明の世界・岡本かの子
(三枝和子)
 革命の文学に燃えつきた見事な生きかた・宮本百合子
(池田みち子)
 貧窮と放浪に負けずに歩んだ一筋の道・林芙美子
(中山あい子)
 すべての権威と闘い続けた反逆の子・平林たい子
(保高みさ子)


⑧ 人類愛に捧げた生涯


 孤愁と憂悶に耐えて底辺の救済を祈った美貌の歌人・九条武子
(田中澄江)
 貧困と忍耐が高らかに啓示した近代日本への告発・出口ナオ
(三枝和子)
 神への愛と信仰を苦難の同胞にそそいだコタンのマリア バチュラー八重子
(保高みさ子)
 「悲しい病」との闘いに限りない愛を捧げた白衣の戦士・小川正子
(阿部光子)
 日中友好の夜明けを生きた「緑の星」の嵐の青春・長谷川テル
(近藤富江)
 不幸な戦争が生んだ混血児2000人のすばらしき「ママ」・沢田美喜
(池田みち子)


◎ブログ内 関連記事
https://blog.goo.ne.jp/eminus/e/b04fabf7b52d60d95b6e3e793a149257





21.11.10 時事的放談05 批判的思考(21.11.17に一部加筆)

2021-11-10 | 戦後民主主義/新自由主義
 本日も、まずは皆さんのツイッターから……。






☆☆☆☆☆☆☆☆

山崎 雅弘
@mas__yamazaki
この国のジャーナリズム(NHKと東京の大手報道企業)は、いよいよ危険水域に達していると強く感じる。
朝日新聞も毎日新聞も「報道特集」以外のTBSも、明らかに様子がおかしい。半年前と比べても、論調が政府に追従的で、ただでさえ少ない批判的思考(クリティカル・シンキング)が姿を消している。




青木 俊 新作「逃げる女」(小学館)発売中
@AokiTonko
メディアの悪口ばかり言いたくないが、↑を日々実感する。どーしてこうなっちゃうのか。理由はいろいろあるのだろうが、「クリティカル・シンキング」を嫌がる時代の波にメディアも呑まれているということか。「クリティカル・シンキング」がなければ、何も前に進まず、何も生み出されないというのに。




山崎 雅弘
@mas__yamazaki
メディアは「最近の若者は『批判』にネガティブな印象を持っている」「だから野党は人気がない」などと傍観的に論評しますが、そもそも日本の学校教育自体、諸外国と比較して異様なほど「批判的思考」を育まず、無批判服従を良しとする調教を続けました。その成果が現状です。




Daydreamer
@HeadinCloudNine
圧力がかかっても横の連帯で対抗しようとはならないのですね、きっと。ジャーナリストである前に組織人になってしまっている人が多いのだろうと想像します。おそろしく危険です。










ダースレイダー
@DARTHREIDER
データがいつ、どこのものか?はさておき実感として納得度が高いです。「批判」という言葉にネガティヴイメージがセットで埋め込まれている。



青木 俊 新作「逃げる女」(小学館)発売中
@AokiTonko
それにしてもすごいな。「生徒の批判的思考を促す」率。欧米が軒並み90、80台、アジア諸国も70台、日本はなんと20台。
これでは授業じゃなくて調教と言われても仕方ない。結果、思考力そのものが低下する。




猫=リュック・ポンティ
@nasitaro
積極的に独裁国家を求める地盤が出来てるんだよな。これは最早諦めきった奴隷の心理状態。




山崎 雅弘
@mas__yamazaki
民主主義とは「強い力を持つ一部の人間の横暴に、弱い者が連帯・団結して対抗すること」でもあるはずですが、日本の教育は「上の人間に従順に従う」が主眼で、しかも受験競争とは他人を蹴落とした方が有利になる「競合」。子どもの頃から「連帯して対抗」を教わる機会がない。


☆☆☆☆☆☆☆☆

Newsweek日本版21.11.10
<日本で一番多いのは、年収100万円台で貯蓄ゼロの世帯という過酷な現実>


履歴書の見本に「パソナ太郎」
大阪市、委託企業名を記載
© 一般社団法人共同通信社
2020/11/18 18:56 (JST)





にゃんとま~
@nyantomah
「一部の既得権益者に利益が集中し、国民が高いコストを払わされるシステムをつくってきたのは、ほかでもない竹中氏であり、そして最大の既得権益者。そんな「小泉改革以降の新自由主義的政策」を象徴する人物を岸田首相が重用したことは、もはや笑うに笑えない」10日


猫=リュック・ポンティ
@nasitaro
まさか竹中平蔵嫌いな人たちが自民党や維新に入れてんの?馬鹿じゃね。



shinoda soshu
@ssoshu
これは僕らが反省すべきところだと思う。「自民党=竹中平蔵ですよ」っていうアナウンスが足りなかった。まさかそんなに知られてないとは。と言うか「竹中平蔵は嫌いだけど自民との繋がりは知らなかった」なんていう認識の仕方が存在するとは。皮肉とかでなく本気で不思議。逆に何を嫌ってたんだろう。




共同通信公式
@kyodo_official
GoToトラベル再開、1月以降に



Ame
@aamecandyrain
こんなのやらなければ何十兆円浮くことか。遊ぶ人の援助ばかりじゃなく、遊ぶ余裕のない人々に支援を。


中嶋 哲史
@J_J_Kant
日本が凋落する理由は、人を個人として大切にしようという規範が根本的に欠落しているからだろう。人を組織の一員としてしか見ることができず、組織の外の人間には敵対感情しか抱かない。これでは社会の中に対立が生まれるばかりで、個人と個人が結びつき、支え合いながら前進する社会は作れない。

kaz hagiwara(萩原 一彦)
@reservologic
戦中の話を読むと、この「日本が凋落する理由」が凝縮されているよね。安倍晋三氏はそういう「ニッポンヲトリモド」したいのだろうし、岸田文雄首相もその路線にいる。




Kazuo Uozumi(蘇民将来子孫家門&ANTI-FASCISM)
@forthman
何よりコワイのは、この状態がもう2~3年、ヘタしたらあと4年間も続く可能性があること。


猫=リュック・ポンティ
@nasitaro
そんな短期間とはとても思えないんですけど。

 
山崎 雅弘
@mas__yamazaki
批判的思考とは、何でもケチをつけて文句を言うことではない。物事が「本来あるべき状態」から外れているのではないか、皆が当たり前と思う何気ない言葉や慣習が、実は社会に悪い影響を及ぼしているのではないかと「気づく」能力。その能力を持つ大人の割合が高い社会は大きな脱線事故を起こしにくい。





☆☆☆☆☆☆☆☆




 「批判」criticismという語はたんに「難癖」とか「アラ探し」といったレベルに留まるものではない。自らを取り巻く情況を厳しく見極め、的確に判断を下し、自身が正しいとみなす方向へと進むよう促すことでもある。それはほとんど「考える」ことと同義ですらある。近代の基礎を形作ったE・カント(1724/享保9~1804/享和4年・文化元)の主著が『純粋理性批判』(英語でいえばCritique of Pure Reason)と名付けられていることを思い起こせばよい。
 そのような意味での「批判精神」を涵養しない(どころか抑圧する)傾向が日本の土壌に根づいているのは確かだ。たんに教育だけの問題とはいえない。それにしても、ここまで酷くなったのは安倍政権がはじまってからだ(もちろん今も「安倍政権」は続いている)。







21.11.09 時事的放談04 皆さんのツイッターから(11.10に一部追加)

2021-11-09 | 戦後民主主義/新自由主義
 そうか。国民民主が維新と組んで改憲勢に加わるのかあ。うーん。
 これはほんとにやってしまうかもわからんね。なにしろ4年間あるんだからな。4年という猶予を与えちゃったわけだからなあ、有権者が……。
 そのいっぽう、首相代われど「おともだち」間での血税山分け相も変わらず。リアルに給付が必要な層には行きわたらず。思い出そうぜ、情けは人の為ならず。
 いや、わけのわからぬラップをやってる場合ではなくて……。
 なんかもうばかばかしくて、自前の記事を書く気力が起きないので、皆さんのツイッターを貼らせていただきます。








☆☆☆☆☆☆☆☆


異邦人
@Narodovlastiye
一律10万円給付や学生支援給付金、そして家賃支援給付金。雇用調整助成金10割や非正規労働者への休業支援金に、事業規模に応じた協力金。そして無料PCR検査。これらは全て維新除く共闘野党が提案した政策。与党は必ず拒否から始めた。これで「野党は反対ばかり」というのは、本当に何も見ていない。




異邦人
@Narodovlastiye
今こうしている最中にも、愚策の象徴であった所謂「アベノマスク」の余剰分に対して、毎月7500万円もの租税が得体の知れない「保管費用」として浪費されている。生存権の重要な要素である居住の権利を奪われ住まいを失った人々が、公営住宅ならば毎月数千人が住まいを得られる金額。狂気の沙汰だ


☆☆☆☆☆☆☆☆


猫=リュック・ポンティ
@nasitaro
5万円の現金と5万円のクーポンを配るってことはわかるな?
処理が2倍になるってことだよ。
処理が増えて得するのは誰?
気がついちゃいましたか。




とみ
@meow164
テレビでアベノマスクやGoToを擁護してたような連中が「クーポンもいいと思いますよ」なんて擁護してきそう。もういい加減にしろや。自民党とその取り巻きどもはどれだけ日本の庶民をバカにするつもりだよ。

猫=リュック・ポンティ
@nasitaro
古市黙れ
三浦瑠麗うるせえよ
ほんこんおもんね
今のうちに言っておく




ナス美ナス女性の農業従事者消費税は悪税です
@VGxppyhkXhpd57L
5万円のクーポンってさ、誰のために作るの?
どっかの企業?
どこで何に使えるの?
現金が一番いいよ。
年内に、一律給付金みんなに配ろうよ。
10万円は少ないから、倍は配ろうよ。

猫=リュック・ポンティ
@nasitaro
竹中平蔵みたいな人のため




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朝日新聞デジタル
@asahicom
介護保険料払えず差し押さえの高齢者、初の2万人超 負担増も背景か
https://asahi.com/articles/ASPC87KGYPC8UTFL004.html?twico
介護保険料を滞納して預貯金や不動産などを差し押さえられた65歳以上の高齢者が、過去最多になりました。
介護保険制度が始まった2000年度と比べて、介護保険料は2倍近くに上がっています。

ぽてと動物の足あと@政治は未来への投資
@mirai_youme
『使途を限定した5万円相当のクーポン』という事は、電通パソナの事業中抜きから与党政治家支持団体への利益誘導までがセット。

丙ウマ・サーマン
@hinoeumathurman
次の選挙に覚えておくことは「国が子供に10万配った」ではなく「与党は払いたくなさのあまり、渋って渋って半分をクーポンにした。野党は前からとっとと払えと提案してたのに」という事実ですね。


判官
@LgE71H4oQlyrW1g
与党は牛肉券を配ろうとしたが野党の反対で10万円になった、ということを忘れる国民だから、今回のこともすぐ忘れる。

町山智浩
@TomoMachi
食糧のほとんどを輸入に頼る日本で、世界の物価上昇のために原材料価格が上がり、商品の値段を上げたいけど、賃金が上がらないので、値段を上げられず、量を減らすしかないからです。つまり賃金が上がらず物価だけが上がるスタグフレーションが密かに進行しているのです。

Dr.ナイフ
@knife900
どうせクーポン5万円に、80万円くらいのコスト(税金)をかけるんやろ。
しょーがねーな、自由公明党は。



☆☆☆☆☆☆☆☆


ぽてと動物の足あと@政治は未来への投資
@mirai_youme
世界60ヵ国以上で消費税(付加価値税)が減税されてるのに、25年以上不景気の日本が消費税減税しないのって不思議。




井上純一(希有馬)
@KEUMAYA
四半世紀も経済成長しない国なんていまだかつて存在しないんですよ。こんなガラパゴス政策がその前代未聞の記録を支えているのです。
しかもそのガラパゴス政策を掲げる政党が選挙で勝ち続ける。




井上純一(希有馬)
@KEUMAYA
すみません「現在存在する国で」ですね。普通そんなデフレが続くと国が無くなるので。25年以上デフレに耐える日本すごい。かつての日本人の積み上げた富すごい。


☆☆☆☆☆☆☆☆



愛国心の足りないなまけ者
@tacowasabi0141
社会負担重きこと北欧が如く
福祉の薄きこと米国が如く
相互監視の強きこと北朝鮮が如く
政権腐敗すること中共が如し




愛国心の足りないなまけ者
@tacowasabi0141
いくら日本の愛国者がチベットやウイグルがどうたらいったところで、戦前の超人権侵害大国の大日本帝国が大好きで、しかも戦後もまともに反省せず過去に一度も真摯に人権外交なんかしたことない政府を盲目的に支持してるような輩が何を言ったって何の説得力も無いよな。




愛国心の足りないなまけ者
@tacowasabi0141
「誰でも良かった」っていう無差別襲撃犯って、ヤクザの事務所とか、警察署とか、自衛隊の基地みたいな、屈強の男が沢山いるのが確実なとこは絶対襲撃しないよな。
実際に被害にあった人も大抵は女子供か年寄りという、つまり自分より弱ければ誰でも良かった、が正解だよね、その手の輩の標的って。


☆☆☆☆☆☆☆☆


 最後のやつはあれですね、テロ用語でいう「ソフト・ターゲット」ですね。社会の暗部から噴き出す悪意は真っ先に弱者を襲う、という言い方もできるかもしれない。格差が広がれば広がるほど、セキュリティ・リスクも増大するわけです。

 今回はわりと過激な表現が多かったかな。必ずしも内容すべてに賛同するわけではないんだけれど、でも選挙のあと予想以上のスピードで状況が悪くなってるんで、これくらい言ってみたい気持はありますね。引用元の皆さんには心よりお礼申し上げます。





21.11.07 時事的放談03

2021-11-07 | 戦後民主主義/新自由主義
 中国も昔とは比べものにならないほど国力を上げ、しかも年々歳々軍事費を増強しているし、北は北でぼんぼんぼんぼん物騒な花火を打ち上げてくるし、やっぱりこっちも、そろそろ九条の改正を検討せねばいかんのかなあ、そもそもこの憲法じたい、日本人が自分たちで創ったものではなく、戦勝国のアメリカ様から下賜されたもんだしなあ……と薄々感じていた人たちであっても、まさかここにきて、


「浪速のやんちゃなヤンキーおじさんたちがキャスティングボードを握るイケイケ改憲」


 が視野に入ってくるとは予想してなかったんじゃないかなあ。日本史というのは「西」と「東」との鬩ぎ合いで動くという面も確かにあるんだけどもね。じっさい「明治維新」という名の政権簒奪は、あからさまにいえば「西国雄藩(の若手官僚たち)が朝廷の威を借りて(捏造して)江戸幕府を倒した。」わけだし。
 「大坂」は天領(幕府の直轄都市)だったんで、維新前夜にはもっぱら幕府側の要人が出入りする土地だったんだけどね。慶喜が大阪城を拠点に軍勢を京に差し向けたりね。でもこのたびの「令和維新」においては、改憲勢力を思いっきりアシストして、わがニッポンを「戦争のできる国」へと力強く押し出すことになっちゃったわけですね。そうかそうか。これも歴史の悪戯か。







☆☆☆☆☆☆☆☆


 そうかそうかで思い出したけど、「18歳以下のこどもに一律10万円を給付する」とか言い出してるんだね。これは公明党の公約そのままだけども、選挙まえ、野党の政策に「ばら撒き」「無責任」「財源はどうすんだ」と騒いでたマスコミ、これには何て言うのかな。
 と思ってたら、昨日付でこんな記事が出てますね。






コロナ対策予算22兆円が未執行 1兆763億円は不用額 検査院
2021/11/6 11:19(最終更新 11/6 20:47)毎日新聞


 新型コロナウイルス対策で国が2019~20年度に計上した総額65兆4165億円の予算のうち、使われたのは65%の42兆5602億円にとどまったことが、会計検査院の調査で明らかになった。22兆8560億円が未執行で、大半の21兆7796億円が翌年度に繰り越され、1兆763億円は不用額とされた。検査院は適切な執行と国民への十分な説明を国に求めた。
 各省庁がコロナ関連と分類した854事業のうち、コロナ対策に充てられたことが明確で分析可能な770事業の執行状況を調べた。未執行が最多だったのは経済・雇用対策(296事業)で、46兆1529億円のうち13兆円余が繰り越された。地方自治体向けの地方創生臨時交付金(3事業)は7兆8792億円が計上されたが、執行率は約33%にとどまり、5兆2640億円が繰り越しだった。【山崎征克】




 どうしてこういう話が選挙の後で出てくるかなあ。投票前の公表ならば、野党の現金給付案に対しても、「ばら撒き」「無責任」「財源はどうすんだ」の大合唱は起こらなかったはずだよね。ていうか、自公政権の無責任さが有権者の前にあらわになったはずだよね。




☆☆☆☆☆☆☆☆




日本に潜む分断 衆院選分析、40歳未満で自民支持率高く
2021年11月7日 日経新聞


米国などでみられる政治の分断が日本にも潜む。衆院選は事前予想を上回る自民党の勝利だった。出口調査や自治体ごとの得票のデータをひもとくと40歳未満の層で強さが顕著で、高齢者と溝がある。東北や信越の農業が盛んな県で集票力を高める一方、大都市や女性層は勢いがなく、様々な断絶が浮かび上がる。(以下略)




町山智浩
@TomoMachi
日本の経済が成長し、日々生活が豊かになっていく時代を体験した世代は現在の自民党の経済政策に疑問を感じるが、物心ついた頃には既に「失われた30年」の中にいた世代は、豊かな体験がないから現状に不満がない。


猫=リュック・ポンティ
@nasitaro
不満がないってのは正しくない表現かと。不満はものすごくあるけど、もう諦めてて、何がよい社会なのかもわからないんだよ。今よりもっと悪くなるぞ、と脅されてるから自民を選ぶ。








 これまでにもブログで何度かいってきたけど、どうしたもんかな、この風潮。「平成生まれのための現代政治史」みたいなカテゴリでも作るか……と思ってみたりもするんだけど、しかし、ほとんどアクセス来ないのがわかってるからなあ……。






21.11.06 時事的放談02

2021-11-06 | 戦後民主主義/新自由主義
 まずは皆さんのツイッターから。


☆☆☆☆☆☆☆☆


ぽてと@政治は未来への投資
@mirai_youme
東京オリンピックで一気に有名になった電通や竹中平蔵パソナの公金中抜きですが、大阪でパソナの中抜きを推進したのが維新。維新の目的は全国に竹中式中抜きを広げる事。
橋下徹さんも移民推進を堂々と言い始めたけど、維新はパソナ外資に日本資産を売り飛ばす売国政党。わずかな教育支援等は目眩し。


☆☆☆☆☆☆☆☆


 そうなんだよなあ。こういうことは、「新自由主義」についての知識をしっかり持ってて、そのうえで日々のニュースを注意深く見てれば自ずとわかることなんだけど、その大切な認識が、いっこうに大衆レベルに浸透しないから困ったもんだ。
 「日本資産を売り飛ばす売国政党」というのはいささか過激な物言いだけど、ニッポンの中間層を豊かにする政党でないのは確かですね。
 しかし「移民推進」となると、これはネトウヨ案件じゃないの?と思いますけどね。このあたり、どうなんだろう。改憲勢力の維新がいうんだったら、何でもかんでも大賛成ってことなのかな。


☆☆☆☆☆☆☆☆


猫=リュック・ポンティ
@nasitaro
維新信者など、新自由主義のロジックなら
頑張ってるのに報われない→自己責任、自分が悪い。
のはずなのに、
頑張ってるのに報われない→頑張ってない奴が搾取している。
になっているわけ
これを竹中平蔵や橋下徹が爆笑しながら見てるのだよ。


☆☆☆☆☆☆☆☆


 強者に対してはひたすら平身低頭、道端に這いつくばって土下座、いっぽう自分たちのあいだでは少しでも立場の弱い者を見つけて苛め抜く、というわれわれのもっとも醜悪な一面ですね。たぶん江戸幕府の270年間、および薩長の簒奪政権80年間の呪いだと思う。


☆☆☆☆☆☆☆☆


hana
@ap1bzr
そっか。最近戦時中の映画テレビでやらないなと思ってたけど、改憲の邪魔になるからなんだ。若い世代に戦争がどんなものか知られちゃマズイと思ってるんだ。


☆☆☆☆☆☆☆☆


 「戦時中の映画」とは、「戦時下に撮影・公開された映画」との謂ではなくて、「戦時下のニホンを描いたドラマや映画」ということでしょうか。ぼくはテレビを見ないから不案内だけど、たとえば2020(令和2)年のNHK朝ドラ『エール』は誠実に太平洋戦争下の庶民生活を描いていたようですね。ただ、全体として戦争ものが減っているのは事実だと思う。とくに民放の地上波においては。
 しかし戦時下の空気を追体験するにはなにも映像作品だけがすべてではないんで……前に当ブログで紹介した、堀田善衞の『若き日の詩人たちの肖像』(集英社文庫 上下)と井伏鱒二の『黒い雨』(新潮文庫)だけは10代の人にぜひとも読んでもらいたいなあ。もちろん、10代でなくてもいいですが。
 『若き日の詩人たちの肖像』には、語り手の青年がふつうに街を歩いていたら、警官に「ちょっと来い。」と連れていかれて、そのまま逮捕状どころか説明すらなしに留置所に放り込まれるエピソードが出てきます。「基本的人権がない社会」とはそういう世の中です。








☆☆☆☆☆☆☆☆

東京新聞 2021年11月5日


税金の無駄遣い2108億円、会計検査院が報告 「アベノマスク」などのずさんさ指摘
会計検査院は5日、官庁や政府出資法人を調べた2020年度決算検査報告を岸田文雄首相に提出した。税金の無駄遣いを指摘し、改善を求めたのは210件、総額2108億7231万円。新型コロナウイルス対策費を検証し、国が調達した布製マスクの大量保管や持続化給付金事業の再委託など、ずさんな契約や管理の実態が判明した。(以下略)


ケイ
@ESmdcre
まるで『箝口令』をしかれているかの如く、『Dappi』に関して報道したのは(私の調べた限りでは)TBSテレビ系列の『報道特集』だけのよう。他の民放各局は口をつぐみ、NHKは『受信料』で自民党の広告塔を努めている。政治がマスコミに介入すると国民の知る権利が奪われる。




週刊文春
@shukan_bunshun
同姓同名で大混乱 2人の「亀井あきこ」を直撃した

日本国黄帝
@nihon_koutei
やはり文春だけか。以前ならば、このネタは新聞やTV、特に朝昼の情報番組が大喜びで追っかけるような話。Dappiのネタもそうだったが、自民党の選挙を担う電通によって、もはや広告頼みのTVや新聞は完全にグリップされ、自民党に不都合なネタは取り扱わないようになっていると考えるしかない。





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 最後に、『サピエンス全史』で著名なユヴァル・ノア・ハラリ氏の『21世紀の人類のための21の思考』(河出文庫)よりフレーズをひとつ引用させて頂きましょう。
 ちなみに『サピエンス全史』(英語版のタイトルは Sapiens: A Brief History of Humankind)は発祥以来の歴史(過去)を通じて人類の本質とは何かを考える名著で、次著の『ホモ・デウス』は人類のこれから(未来)を考察したもの、そしてこの『21世紀の人類のための21の思考』は、今まさにわれわれの直面しているテーマについて扱ったものです。
 読みやすくするため、改行を施しておきます。




 民主主義は、「すべての人を一時、一部の人をつねに騙すことはできるが、すべての人をつねに騙すことはできない」というエイブラハム・リンカーンの原理に基づいている。
 もし政府が腐敗していて、人々の生活を向上させられなければ、いずれ多くの国民がそれに気づいて、政権を交代させる。だが政府がマスメディアを統制すれば、リンカーンの論理が崩れる。
 国民が真実に気づけなくなるからだ。
 寡頭制政権はマスメディアの独占を通して、失態をすべて他者のせいにすることを繰り返し、外部の脅威(それが実在のものであれ架空のものであれ)へと注意を逸らすことができる。
 そのような寡頭制の下で暮らしていると、医療や汚染といった退屈な事柄に優先する、何かしらの危機が絶えず存在するかのように思い込まされる。国家が外部からの侵略や極悪非道な破壊活動に直面していたら、病院の混雑や河川の汚染を気に病む暇がある人などいるだろうか?
 腐敗した寡頭制政権は、次から次へと危機をでっち上げ、いつまでも支配を続けることができる。


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 これ、2012(平成24)年から続く第二次安倍内閣いこうの自民党政治にそっくりそのまま当てはまるとまでは言わないにせよ、まるっきり遠い国の話とも思えませんね。ぼくが中国を警戒するのはその体制がぼくのいちばん大切に思う「自由」を抑圧するものだからなんだけど、べつに脅威は外から押し寄せると決まったものではないんで、何のことはない、自国の政府こそが抑圧の総元締めになるケースが多い、というか日本のばあい敗戦まで大体ずっとそうだったんだよね。豊かな時期は抑圧が小さくなるけども、ビンボーになるとたちまち強まる。で、今はどんどんそっちに行ってると。だからやっぱりワタシは二大政党制を希求しますね。