ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

島田雅彦という問題。

2014-10-19 | 純文学って何?

 「物語」との対比によって「純文学」の特質をあぶりだそうとする「純文学って何?」と、講談社文芸文庫「戦後短篇小説再発見」に収められた作品の詳しい解説を通して純文学を考察する「戦後短篇小説再発見」、これら二つのカテゴリをそれぞれ総論、各論として話を進めているわけだが、ここではいったん小休止して、雑談めかした切り口からこの問題に迫ってみたい。

 少しでも文学に関心を持っている人ならば、島田雅彦(1961~)という名前を知らない者はいないだろう。村上龍(1952~)と同じく、二十歳を超えるか超えないかといった年齢でデビュー、しかし村上が群像新人賞からいきなり芥川賞まで駆け抜けたのとは対照的に、その処女作『優しいサヨクのための嬉遊曲』は芥川賞候補にはノミネートされたものの受賞には至らず、その後も毎回ノミネートされては落選落選を繰り返し、ついには最多落選という名誉だか不名誉なんだかよく分からない記録を樹立、しかしいっぽう村上春樹のような幅広い支持こそ得られぬものの若者を中心にじわじわファンを増やしていき、「新世代の旗手」として玄人筋の評価も高く(あの中上健次さえ、一定の留保つきだが誉めていた。大江健三郎もずっと好意的だった)、「文壇」内に着実に地歩を築いていく。

 70年代の連合赤軍事件を経てすでに衰亡があらわになっていた学生運動のありさまを、「左翼」を「サヨク」へと変換することで風刺的にカリカチュアライズしてみせた『優しいサヨクのための嬉遊曲』に明らかであったように、その作風は当初から一貫してはなはだ策略的であり、従来の日本的リアリズムとはもちろん、春樹・龍のW村上に見られるようなニューウェーブ風リアリズムともまた一線を画していた。プロの学者や批評家には及ばないにせよ、ポスト構造主義などのいわゆる「現代思想」にもそれなりに造詣がふかく、あの浅田彰とも臆することなくサシで対談をしてみせるなど(とうぜん押され気味ではあったが)、その批評性は早くから若手作家の中で群を抜いていた。そして、スーパーヒットを放つこともなく、ロングセラーも持たないかわりに、一定の水準を落とさず大量の作品を書きつづけることで、つねに露出を保っていた。

 批評能力の高い作家は重用される。80年代バブルのなかで新鋭としての足場を固め、そろそろ中堅と目されるようになった90年代以降には「文學界」新人賞や朝日新聞の文芸時評を担当、そしてまた、芥川賞はダメだったけどいくらなんでもこれは取るだろうと噂されながらこちらもなぜか結局は取れずに終わった「三島由紀夫賞」の選考委員にもなる。そしてとうとう、芥川賞の選考委員にまで上り詰めたことはご承知のとおりだ。やはり積年の恨みを晴らしたってことになるんだろうか。

 すなわち島田雅彦は今や日本を代表する作家のひとりであることは間違いない。しかるにぼくは、この島田さんの作品と昔からずっと相性が悪い。今回の記事で書きたかったのはそのことである。『優しいサヨクのための嬉遊曲』が文庫になった(今は亡き福武文庫だ)のはぼくが大学生のときで、授業前に立ち寄った生協の書籍部で見つけて買い、教室のいちばん後ろの席に座って、講義のあいだに読み終わると、チャイムが鳴って教室を出たあと真ん中から二つに破って廊下のゴミ箱に捨てた。いかに文庫といえど書物に対してそのような蛮行をしたのは後にも先にもこれだけである。山田悠介の『リアル鬼ごっこ』を読んだ時でさえすぐに破り捨てたりはしなかった(ブックオフに売った。まあ、これはかなり後年になってからの話ですがね)。

 むろん、下らねえ、と思って腹を立てたわけだがその下らなさがなんというかこう、スカした嫌味な下らなさで、しかも、スカして嫌味なわりにはガキっぽくって、たとえば同時期に読んだ田中康夫の『なんとなく、クリスタル』(河出文庫)だってスカして嫌味で下らないんだけどしかしまあ、そこに描かれた「クリスタル」(笑)でファッショナブル(笑)なライフスタイル(笑)は、ド貧民の小倅(こせがれ)であったぼくにとってはけっこう魅力的でもあり、副業でモデルをやってる女子大生の一人称で書かれたそのお話は、いま読むともちろん笑止千万なのだけれども、当時のぼくには「オトナじゃん。お洒落じゃん」と思えたのである。嫌味ではあっても「ガキっぽい」とは感じなかった。

 「ネクラ」(80年代用語)な70年代から「軽薄短小」(というかおバカ)な80年代への移行を、「左翼」を「サヨク」へと変換することで捉えた島田雅彦の批評性というものが理解できたのは、前回の記事で挙げたような諸作、つまり柴田翔とか高橋和巳とか大江健三郎とか庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』とか三田誠広『僕って何』とか立松和平『光匂い満ちてよ』などの全学連小説・全共闘小説を系統立てて読んでいってからである。初期の島田雅彦の作品はそういった系譜のなかに置いて初めて理解できるわけで、これだけをポンと孤立させて読んだらそりゃ下らなくって読めたもんじゃない。しかし一般の読者がそんな系統立った読み方をするのは容易ではなく、ぼく自身、20代の頃は島田雅彦のどこがいいのかさっぱり分からずほとほと困り果てていたのである。

 ほとほと困り果てていた、というのは誇張ではなくて、それというのもぼくはその頃からもう小説を書き始めていたし、なるべく早くデビューしたいと焦ってもいた。しかし80年代初頭あたりの「新人」というと島田さんのほか高橋源一郎、小林恭二といったいずれ劣らぬ「ポストモダン」の策略的な書き手があまた台頭してきていて、しかも彼らの書くものは、ぼくが「これこそ文学だ」と信じて書いているものとは似ても似つかぬ代物だったのである。たとえば羽生善治の将棋を見れば、向こうが天才でこっちが凡才だってことは否が応でも一目でわかる。しかし、島田や高橋の小説を見てもぜんぜんそうは思えなかったし、そもそもどこがいいのかすらわからない。自分の進もうとする途上に、まるで得体の知れないものたちが立ちはだかっている光景ほど気色の悪いものはない。それで20代のぼくは泣きそうなくらい困惑してたし混乱していた。いま思うと、そんなことには委細かまわず自分の信じる「文学」をひたすら書き続ければよかったんだろうな。だって、どちらにしてもこの齢でまだデビューできてないんだからね。しかし後の祭りだ。しょうがねえこれからまた頑張ろう。

 それはともかく、島田雅彦の文学ってものを少しずつ理解できるようになったのは90年代後半、ぼくが30代に入った頃である。『僕は模造人間』が三島由紀夫『仮面の告白』の、『彼岸先生』が夏目漱石『こころ』の批評的パロディーであるというように、島田さんが文学史上の画期的な作品をポストモダンの文脈の中で換骨奪胎して再構築しているらしいってことがわかってきたのだ。確かにそれは意義のある仕事だ。むろん、「青二才」を標榜しつつも彼の作品がそれなりに成熟してきてガキっぽさが薄れ、比喩とアフォリズムに頼りすぎだった文体が潤いを増してきたことも大きい。昔よりはずいぶん読みやすくなった。ただ、それでもやっぱり根本的にスカして嫌味なヤローだなという印象だけは変わらない。なにをそんなに気取ってやがんだと読むたびに思う。これはもう文学がどうのといった話じゃなくて、いわば「生まれ育ち」に関わってくることだろうからどうしようもない。こっちの生まれが酷すぎるのだ。べつに島田雅彦にかぎらず、オペラやクラシックについて嬉々として語る輩を見るだけでいつも微かな殺意を覚えるのである。

 80年代バブルがはじけて90年代に入ると、町田康、保坂和志、川上弘美、堀江敏幸といった人たちがあらわれる。川上、堀江両氏の力量は早々ともう芥川賞の選考委員に抜擢されたことによっても明らかだろうけど、町田、保坂両氏の実力のほどもけっして引けを取るものではない。島田雅彦のデビューが早すぎたせいで後塵を拝したかたちにはなるが、これらの人たちは島田さんとほとんど年齢差がなく、保坂、川上さんに至ってはいくつか年長ですらある。相次いでこの四名が出てきたときに、ぼくはほんとにほっとした。その作品がどれも心に沁みたからである。全員が最初からちゃんと成熟していたし、スカしてもいなければ嫌味でもなかった。地に足が着いてる感じがした。20代のころにこういう作家たちが居てくれたならば、ぼくもあんなに混乱させられることはなかったと思うがしかしそれは言い訳だろう。ぼくに真の才能と信念があれば、自分自身がそのような作品を書いていたはずだから。それにつけてもバブルというのはつくづく異常な時代だったとは思う。

 島田雅彦の話に戻ると、この人は高橋源一郎と同じく根は批評家なんだと思うわけである。批評ではメシが食えぬから小説を書き始めたとしか思えなくて、今だってこの二人の書く「小説」と「批評」とを並べて見比べたなら明らかに批評のほうが面白い。「小説」のほうはいかにも拵え物というか、われわれがふつうに「小説」と呼んでいるものの精巧な模造品のような気がする。それは意図してそのように作ってるってこともあるんだろうけどそれも含めてやっぱり「根っからの小説家」ではないんじゃないかと思えてならない。そのような意味で、「根っからの小説家」だなあとぼくなんかが思うのは今回お名前を挙げたなかでは川上弘美である。このひとの紡ぐ物語の数々は、ほんとうに身体の奥から湧いてきてるんだなあと思える。じっさいにはどうだか分からないけれどそう思わせるところが重要なのだ。また、町田康は太宰治に匹敵するほどの「天性の語り部」だなあとも思う。いずれにしても今回の記事はコーヒーブレイクの雑談なので、なんかけっこう失礼な書き方をしてしまった島田雅彦をも含め、これら現役ばりばりの作家たちについてもいつか正面からちゃんと論じてみたい。


 追記 2019.11.14)  5年前の記事ですけどね……ほんとにまあ、失礼なうえにしょうもないこと書いてて、何だかなあという感じなんだけど、どんな検索ワードでヒットするんだか、けっこうこの記事、アクセス多い。だから消すのも忍びない。罪滅ぼしってわけでもないけど、島田さんが中上健次を語ったトークセッションのアドレスを貼っつけときます。中上ファンにも島田ファンにも面白いと思うよ。

「生誕70年!中上健次文学その意義と軌跡」をテーマに、島田雅彦×中上紀×高澤秀次がトークセッション……
https://pdmagazine.jp/background/nakagami-event-report/


さらに追記)
2020.11.21   とても有益な論文がネット公開されていたのでご紹介。ただしpdfファイルなんでアドレスが貼れない。「島田雅彦 高度資本主義時代の小説家  法政大学学術機関リポジトリ 儀部牧人」で検索のこと。この方の1999年の卒論らしいんだけど、いま読んでもたいそう面白いです。









第3回・大江健三郎「後退青年研究所」その④

2014-10-16 | 戦後短篇小説再発見

 その③からのつづき。

 「後退青年研究所」の主眼は、ゴルソンという固有名をもった28、9歳のアメリカの知識人青年と、20歳になったばかりのニッポンの大学生(東大生)「ぼく」との関わりにあると見るのが妥当だろう。それはいかにも希薄な関わりであって、その希薄さが、言い換えれば「ぼく」とゴルソンとのあいだの距離が、この短編を書いた当時の大江健三郎と「アメリカ」との距離を示しているとさえいえるかもしれない。この作品を発表した五年後の1965年に30歳の大江はハーバード大学のセミナーに参加するかたちで訪米し、帰国ののち、ねじくれた性的イメージを駆使して日米(米日)関係をメタフォリカルに描いた『走れ、走りつづけよ』を発表する。この短編は新潮文庫『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』に収められている。これはオーデンの詩の一節からの引用なんだけど、それにしてもすごいタイトルだねしかし。

 訪米体験から紡がれた思索は、またエッセイ集『鯨の死滅する日』(講談社文芸文庫)に所収のアメリカ論などにも結実するわけだが、齢をとって経験を深めていくにつれ、「飼育」や「人間の羊」の頃にはもっぱら暴力的な主体(加害者)として描かれていたアメリカ像が、相変わらずブキミで抑圧的な他者には違いないけれど、いくらかは熟(こな)れた感じになってくる。その過渡期に書かれた短編として、「後退青年研究所」は位置づけられる。……もしぼくが「大江作品におけるアメリカ像」といったテーマでレポートをつくるのであればそのように論旨を運ぶことだろう。つまり「後退青年研究所」は必ずしも、政治闘争に敗れて傷つき、「後退青年」となった当時の若者たちの群像を正面きって描いた小説じゃないのである。それをやってるのは前にも述べた柴田翔の芥川賞受賞作『されど われらが日々』(文春文庫)だ。

 とはいえむろん、「後退青年研究所」に後退青年たちの姿がまったく描かれていないはずはなく、この短編を締めくくるのはひとりの元活動家のエピソードである。そこに至る過程をかいつまんで述べると、「後退青年」としてインタビューに応じて謝礼をもらうのは学生にとっては割りのいいバイトで、最初のうちはそこそこ需要があったのだが、一人につき一回のみという制約もあり、数ヶ月も経つと来訪者は目だって減り始めた。とうぜん調査結果は貧弱になり、ゴルソン氏は米本国から叱責を受ける。いま調査を打ち切ってしまうと、学者としての信用を失くし、本国に戻っても良いポストに就けない。「ぼく」のほうも、これほど好条件のアルバイトをみすみす失うのは惜しい。深刻に悩むゴルソン氏から相談を受け、「ぼく」は彼に内緒でひそかに計画を立てる。

 それは、じっさいには無傷の学生を後退青年に仕立て、演技のうえでニセの告白をさせるというアイデアだった。「それは思いついてみればなぜ今までそれについて考えなかったかわからなく思われるほどの良いプランであると思われた。」

 こうすれば、インタビューの候補者に事欠かぬ上に、ただでさえ傷ついた青年の傷口をさらに開いて塩を揉みこむような罪悪感からも免れうるのである。「ぼくは教室のあいだを駆けまわり、また研究室やサークル部室にも顔をだして、ぼくの狙いを説明してまわった。任意の学生、それでも二三年前の学生運動についてくわしく知っている学生、そしていかにも挫折を体験したという印象を躰のまわりに立ちめぐらせている学生がよかった。」

 その計画というか詐略は思った以上にうまくいく。「アメリカ人ごときが日本のほんとうに《傷ついた青年》の傷に指をつっこんでひっかきまわすことができると思っているなら、とんだ料簡ちがいだよ、おれたちの気まぐれな告白遊びが、あいつらの学問の根本をかたちづくるとはね」といったノリでみんな愉快がり、むしろ悦んでこの作戦に加わるのである。ところで、高校時代に初めてこれを読んだ時に覚えた違和感のゆえんをもうひとつここで思い出した。後退青年研究所がこれほど反感を買っていたのなら、そこで働く「ぼく」もまたけっこう白眼視されていたはずで、キャンパスに帰ってきたらもっと軋轢を生じるんじゃないかなあと思ったのである。いま読み返してもやっぱりそこはおかしいと思う。リアリズムがいささか破綻を来たしている。「死者の奢り」における死体処理のバイトほど荒唐無稽ではないにせよ、「後退青年研究所」もまた若き大江さんの想像の産物だったに違いない。

 ともあれ作戦は大成功で、「ぼく」は選別した十人の候補者を一日ひとりずつ順番にインタビュー室へ送り込み、研究所はかつてない活気を呈する。ゴルソン氏は質量ともに充実した調査結果を得て上機嫌である。ところが七番目の学生の時にハプニングが起こる。仕事仲間の「女子学生」が(彼女は通訳兼タイピストなので、ゴルソン氏に同席し、学生たちの告白を聞かざるをえない)、「あんな恥知らずの日本人青年を見たくない」といって研究所を辞めてしまうのだ。ゴルソン自身は、その学生こそが日本で見つけた典型的な後退青年だと言い、彼の告白に基づく調査結果をGIOの最大の収穫として、本国での賞賛を確信し、研究所の閉鎖を決める。

 しかしこの一件はそれだけでは終わらなかった。閉鎖記念の打ち上げパーティーから一週間後、「ぼく」は、「日本で最大の部数をほこる新聞紙上」に、名前こそ「A」という仮名で伏せられてはいたものの、当の学生の写真とその告白の内容が洗いざらい紹介されているのを見るのである。このあたり、人権およびプライバシーにうるさい今日の感覚ではちょっと考えられないが、A君の顔写真および政治体験という重大な個人情報が思いっきり漏出しちゃったわけだ。むろん、取材に応じて得々とその情報を公表したのはゴルソン氏であり、それが偽の告白であることを知っていながらも、「ぼく」はそんなゴルソン氏の姿勢にショックを受ける。

 記事の内容はこうだ。「Aは日本共産党の東大細胞のメムバーであったが、仲間からスパイの嫌疑をかけられ、監禁されて拷問をうけ小指を第二関節から切りとられた。そして恋人から逃げられ、細胞を除名されたあと、自分からこころざして本富士署の某警官に情報提供をした。しかし、学生運動の外に出てしまったAの情報は有効でなかったためにスパイにも不合格で、現在Aは孤独な学生生活をおくっている。かれは自分を挫折に追いこんだ唯一の原因として、かつての仲間を憎んでいるが、スパイ嫌疑のもとになったのは裏切った仲間の密告によるものであったらしい。……」

 なんとも痛々しい、というか文字どおり痛い話であって、まさに政治活動の暗黒面というべきだろう。「深淵」だの「地獄」だのといった単語を濫用するのはよろしくないと前回書いたが、たしかにちょっと地獄の深淵かも知れんねこれは。そして何日かのち、授業を終えて正門を出た「ぼく」は待ち伏せしていたAにとつぜん話しかけられ、ひどく動揺しながらも、「いかにデタラメの告白とはいえ、あれを新聞に載せるのはひどい。一緒にゴルソンに抗議にいこう」といった意味のことをいう。しかしAの返答は驚くべきものだった。

 すでに自分は抗議に行った。でたらめの告白だから取り消してくれとも言った。しかし、仮にお遊びであれウソであれ、テープがちゃんと残っており、証人もいる以上、取り消すことなどできないとゴルソンは答えた。Aはそのように「ぼく」に告げ、そして「ぼく」の目の前に左手をぬっと突き出す。「ぼく」は、「その小指が第二関節から切りとられているのを見た。」

 つまりAの告白は、全部が全部ではないにしても、大筋において事実だったということだ。こうなってはもう「詰み」だろう。Aは「ああ、なぜおれはあんなに熱心にしゃべったか、わからないよ。」と言い、「ぼく」もまた、「おれにもなぜあいつが、そんなに熱心にしゃべったかはわからない」と考える。そして、こうやって解説を書いてるぼくもまた、Aがなぜそんなに熱心にしゃべったのかわからない。自暴自棄になってたとしてもちょっとなあ……。やはりこの短編、小説としては面白いけれど、随所でいろいろとムリをしているように思う。

 いっぽうゴルソン氏のことである。貴重な調査データを得た彼は、それまで転任先に想定していた南朝鮮(韓国)でも台湾でもなしに、ヨーロッパへの栄転が決まり、意気揚々と出発する。問題のテープだけはAに返すよう「ぼく」に託しはしたものの、結局、新聞に撤回なり訂正の記事を出すことはなかった。Aのその後についてはまったく触れられてないけれど、おそらく姿を消したのではないか。「ミスター・ゴルソンの淡灰色に澄んだ眼、細く高い鼻梁、桃色のぷよぷよした皮膚、それらがたちまち傲慢な統一をおびてぼくのまえにあらわれた、それは途方にくれ恐慌におちいっている猿のような青年の顔を冷酷につきはなしている。」……それが、「ぼく」の脳裏にうかんだゴルソンの最後のイメージだった。ようするにこの人も、けしてニホンの青年に同情的な良き青年ってわけじゃなく、結局はひとりの「戦勝国の男」だったってことだ。

 この短編が「群像」に発表されたのが1960年の3月。その2ヶ月後に例の60年安保闘争が激化するのだが、それも最後は学生側の敗北に終わる。あたかもそれを予見するかのようにこの陰鬱な一篇は書かれた。第一巻「青春の光と影」に収録された12篇のなかでこれはもっとも政治色が濃い。そして例えばこの作品の延長線上に、庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』、三田誠広『僕って何』、立松和平『光匂い満ちてよ』といった全学連小説、全共闘小説が書き継がれていく。そういった政治性を断ち切るかたちで70年代後半に村上龍の『限りなく透明に近いブルー』があらわれ、ついで村上春樹が『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』で青春小説から政治色をきれいさっぱり拭い去るわけである。


第3回・大江健三郎「後退青年研究所」その③

2014-10-15 | 戦後短篇小説再発見
 その②からのつづき。

 戦後の学生運動といえば60年安保が有名で、あと68年も「伝説の年」みたいに語られたりもするけれど、じつは、いわゆる全学連が結成されたのは戦後まもない1948(昭和23)年であり、運動そのものはほぼ敗戦直後からずっとあったわけである。学生運動の歴史に事実上の終止符をうったのは連合赤軍事件だろうと思うが、そこに至る道のりは複雑すぎてちょっとここには書ききれない。ただ、少なくとも70年代の前半までは、およそ学生ってものが今からは想像もつかないくらい「政治的」かつ「思想的」であったことだけは踏まえておいていただきたい。「後退青年研究所」の背景は1954年ごろで、これは学生運動にとって「中だるみ」の時期だった。作中の言い回しによれば「反動的な安定期」である。何しろ自衛隊が発足した年だ。

 「中だるみ」というのは後になって再び盛り上がったから回顧的にそう言えるわけで、その時代を生きる当事者にとっては要するに低迷期であり、もっとはっきりいえば敗退を余儀なくされたってことである。このあたりの様子は柴田翔の『されど われらが日々』(文春文庫)に詳しい。「後退青年研究所」は、闘争に敗北し、挫折し、《体制》からも《組織》からも切り離されて、思想的/政治的に(さらには肉体的にも)傷を負った学生たちをインタビューの対象として募集している。その陰鬱なる告白を聞き取り、調査データをまとめて本国アメリカに送るためだ。それがこの「研究所」の業務であった。そこでバイトをしている「ぼく」もまた、やはり内部に暗い鬱屈を抱え込んでいる。

 後退青年研究所の正式な名称はGIOという。こう書くとGHQ(連合国最高司令官総司令部)みたいでもっともらしいが何のことはない、ありようは「ゴルソン・インタヴュー・オフィス」の略で、ゴルソン氏の名前を冠しただけの中学英語的ネーミングである。このことからも分かるとおり、当の「研究所」の基盤ははなはだ脆弱なのだ。そもそもその目的にしてからが、おおまかにいえば冷戦構造の中での「極東における反共宣伝の基礎固め」の一環なのだろうと推測はできるが、それがどこまで有効なのかは疑わしいし、ゴルソン氏自身、べつにそれほど政治的な人にも見えないのである。

 正直なところ、「二十八、九のアメリカ人青年」ゴルソン氏は知識層には違いないにせよ傑出したエリートとはとてもいえない。赤貧白人(プア・ホワイト)の息子であり、奨学金をもらって大学を出た。朝鮮戦争のおかげでようやく景気がよくなった極東の敗戦国にやってきて、こんな仕事をしてるわけだが、それが果たして将来の有望なポストに結びつくのだろうか。温厚篤実で善良で、好もしい雇い主には違いないけれど、しかしそもそもふつうの精神構造をもった男が日本まで来てこんな研究をするだろうか。かくして「ぼく」はゴルソン氏を「深淵の主として見るよりも、この現実世界の深淵に吸い寄せられた最初の失墜者として感じ始める」。

 この「深淵」について少し注釈しておこう。じつはこの短編は、次のような文章で始まっていたのだ。

 暗黒の深淵がこの現実世界のそこかしこにひらいて沈黙をたたえており、現実世界は、そのところどころの深淵にむかって漏斗状に傾斜しているので、この傾斜に敏感なものたちは、知らず知らずのうちにか、あるいは意識してこの傾斜をすべりおち、深淵の暗黒の沈黙のなかへ入り込んでゆく、そして現実世界における地獄を体験するわけである。/ぼくはこの暗黒の深淵のひとつのそばに、いわば地獄の関守のような形で立ちあっていたことがある。……(後略)

 ワタクシは高2の夏に高校の図書室で大江健三郎と出会い、「死者の奢り」「飼育」「芽むしり仔撃ち」などを立て続けに読んで圧倒的な感銘を受けたが、この「後退青年研究所」からは、やや滑稽な印象を受けた記憶がある。のっけから「深淵」だの「地獄」だのと言われてしまうとさすがにキツい。これは大江さんの先行世代、一般に「戦後派」と呼ばれる野間宏、埴谷雄高といった人たちの影響である。今こんな文章を書いたらパロディーにしかならぬだろうが、時代背景を鑑みるなら当時25歳の大江青年はたぶん本気で書いたのだと思う。しかしやっぱりこのように大げさで生硬なコトバを小説に用いることは好ましくない。この短編に関していえば、ドラマ性に乏しいぶんだけ表現のほうが過剰になったきらいがあり、これが大江文学における過渡期の作品であることを示していよう。

 さて。ともあれゴルソン氏は、深淵の主というより深淵に吸い寄せられた最初の失墜者みたいな青年であった。だからこそ「ぼく」は彼に好意を寄せ、「傷ついている青年の傷口に指をいれて脂肪と肉のあいだをひっかきまわすような」、こんな仕事を手伝っているのである。

 やがて「ぼく」はゴルソン氏のなにげない動作のはしばしに同性愛的傾向すら見い出す。リビドー(エロチックな欲動)が異性に向かわないぶん同性に向かって軽く発動してしまうというのは大江文学の特質のひとつで、大江的世界における人間関係の粘っこさを増すことに寄与しているが、それはさすがに「傾向」に留まっていてクィア小説にまではならない。しかし、作中の半ばに見られる次のくだりはぜひ書き出しておきたい。

 ぼく自身にしてからが、現に面とむかって話しあっている相手の、ガラスほど無神経な感じに澄んでいる眼やぷよぷよしたゼリーに粉をふりかけたような顔と手の甲の皮膚、高く細い鼻、それに突然まったく予想に反した音を立てる脣などを見つめていると、その相手の人間の心情に深く入りこんでゆき、その相手の顔に人間的な統一感をとりもどさせるためになら、簡単にいえばぼくとその相手とに人間的つながりを発見するためになら、同性愛の関係に入りこんでもいいとさえ、発作的に考えることがあったものだ。

 さらに記述はこう続く。

 ぼくは二十歳になったばかりだったし、人間的なつながりを殆どこの現実世界のあらゆるものに求めていた。それに若い青年にとって性的関係とはそれが正常なものであれ倒錯したものであれ、奇怪な無秩序を感じさせる他存在に盲目的な没入をおこなうことで、それに意味づけをし秩序をあたえ、自分の躰の一部のように親しいものにかえる行為なのだ。……(後略)

 サルトル臭が顕著ではあるがそれでもこれは卓越した文章には相違なく、戦後15年を経て、日本文学というか日本語の散文の歴史にこういう表現があらわれたことは画期といっていいだろう。いまの私どもの生活につらなる「現代小説」は、やはり大江健三郎から始まったのだと改めて思う。

 その④につづく。

第3回・大江健三郎「後退青年研究所」その②

2014-10-13 | 戦後短篇小説再発見
 前回の「その①」にいただいたTOYさんからのコメントへのご返事にも記したのだが、この記事を書くために「死者の奢り」やら「芽むしり仔撃ち」といった大江さんの初期作品を読み返してたら、自分でも猛然と小説が書きたくなって、しかも書いてるうちに大江健三郎と自分との才能の差があらためてひしひし胸に迫ってきて、その圧迫感たるや、まるで羽生善治と平手で指してるような感じで、まるっきり手も足も出やしねえ。それですっかり気分が落ち込んで、自分自身が後退中年となって更新が途絶したのだが、せっかくコメントを頂戴したことでもあるし、いい加減に立ち直って続きを書こうじゃないか。

 ナショナリズムは悪しき「物語」であり、これに身を委ねることはとても危険だ、という趣旨のことをこのあいだからブログに書いているわけだが、その伝でいけば「戦後民主主義」もまたひとつの物語にすぎない。こうやってすべてを相対化するのは世に倦む日日に言わせれば「脱構築」ってことになっちまうのだろうが(そしてこの用語の使い方は完全に誤っているのだが)、どちらも所詮は物語とはいえ、「戦後民主主義」という物語は「ナショナリズム」という物語よりもはるかに風通しよく外部に向かって開かれていて、人間としての豊かさを導くものだと思うからこそワタシはこうして擁護しておるわけである。けっしてただの相対化には留まらない。

 「戦後民主主義」という評価軸でいえば、戦後日本文学における大江健三郎のポジションは、戦後日本マンガにおける手塚治虫に近い。しかしこういう譬えを出しても、いまの十代から二十代あたりにはどこまで通じるものか。心許なく思いながらもさらに譬えを続けるならば、「芽むしり仔撃ち」はおおむね「鉄腕アトム」に相当するだろう。戦後民主主義の理念を内包した「個」が、《体制》の側から受けるさまざまな苦難を描いた点で両者は似ている。その「世界観」や「人間像」は基本フォーマットとして次の世代の表現者たちに受け継がれ、いわば文化的DNAとして今日にまで繋がっているはずだ。そこは三島由紀夫でも安部公房でもだめで、だから大江のノーベル賞はじつに大きな出来事だったのである。

 だけどあんまり戦後民主主義戦後民主主義つってると、なんか石坂洋次郎みたいな爽やかに開放された若い男女の交流小説を思い浮かべてしまう。そう考えると村上春樹も石坂洋次郎のポストモダン風リメイク版みたいに思えてきちゃって笑ってしまうが、あまり脱線してるといつまで経っても進まないので本筋に戻ると、大江作品ってのは前回の「その①」でも書いたとおりおそろしく屈折・内向していて、いうまでもなく石坂洋次郎的な明朗快活とはほど遠い。初期の代表作「死者の奢り」や「他人の足」などに通低する主題はずばり「閉塞感」である。それはサルトルから直輸入されたものだが大江青年の才能によって見事に肉体化され、当時の日本の意識的な青年たちの生理と心情とを鮮やかに捉えたのだった。

 この閉塞感は形を変えて今の日本をも覆っていると思う。前回ぼくが「初期の大江作品は、かつてのぼくよりもむしろ今を生きる若者にとってこそ、よりいっそう痛切なものに感じられるはずだ。」と述べたのはそのことである。「後退青年研究所」もまた屈託を抱えた青年たちを描いているが、当時の政治状況をダイレクトに扱っている分だけ写実小説に近く、普遍性は薄いといえるかもしれない。しかし小説としてはけっこう面白いのである。

 「アメリカ東部の大学で極めて高度な教育を受けた新進気鋭の社会心理学者」たるゴルソン氏が、「大学(あきらかに東大だ)のそばの不動産会社のビルの三階」に構えた事務所(研究所)で、「学生運動を離れた旧活動家の学生」たちから話を聞く。これが「後退青年研究所」である(むろん正式名称ではない)。そこには日本人の「背が高すぎる痩せっぽち」の、つねに憂鬱な顔つきをした「通訳兼タイピスト」の「女子学生」がいる。その妙な研究所でバイトすることになった「二十歳にやっと達したばかり」の「ぼく」の回想の体裁を借りてこの短編は綴られる。大江作品の一人称は「僕」という表記が多いがなぜかこの短編では「ぼく」だ。

 時期は「朝鮮戦争の動乱のあとの一時期」となっている。1954(昭和29)年から55年あたりか。作品の発表が1960年で、このとき大江は25歳だから実年齢とも符合している。ぼくがこの短編で興味ぶかいと思ったのは、「ぼく」がこの若き社会心理学者ゴルソンにわりあい好感を持っているところだ。

 アメリカという存在は戦後ニッポンにとって最大の問題であったし、いまも最大の問題であり続けているわけで、とうぜん戦後文学はさまざまなかたちでアメリカ人と日本人との関係性を扱ってきたのだが、ぼくの見るかぎり大江作品において日常的な風景のなかで一人のアメリカ人と「ぼく」との交流が描かれたのはこの短編が嚆矢なのである。あのショッキングな「飼育」の「黒人兵」には名前がなかった。「人間の羊」や「不意の啞」に出てくる「外国兵」たちにも名前はなく、そこに繰り広げられるのは暴力に満ちた強烈で濃密な非日常的ドラマだった。「戦いの今日」にはアシュレイという固有名を備えたアメリカ兵が出てくるが、彼は朝鮮戦争の兵役忌避者で、やはり日常空間の住人とはいえない。

 「後退青年研究所」は、それらの諸作に比べればずっと日常空間に近づいており、ドラマ性が希薄になって、そのぶんだけゴルソンに注がれる「ぼく」の視線が濃やかになっている。そのことが小説としての膨らみを増しているのだ。「ぼく」がゴルソンに好感を持つのは、「日本にきている米人インテリには、奇妙に戦闘的で傍若無人な連中と、うってかわって温厚篤実な連中とがいるようだが、ぼくらがミスター・ゴルソンとよんでいたシカゴ生まれの社会心理学者は、その温厚篤実ながわの代表というべき人物であった」からだ。しかしただそれだけでもなさそうである。

 その③につづく。

第3回・大江健三郎「後退青年研究所」その①

2014-10-02 | 戦後短篇小説再発見
 講談社文芸文庫の『戦後短篇小説再発見』(全18巻)に収録された作品をアタマから順に論評していこうというこの企画、このペースではおれが死ぬまでに完結しない気もするが、とりあえず、当面は第一巻「青春の光と影」に入っている12篇を論じきることを目標にしよう。というわけで、河岸を変えての第1回目はぼくがもっとも尊敬している大江さん。ノーベル賞を取ろうが取るまいが、高2の夏(80年代バブル前夜)に学校の図書館で「死者の奢り」を読んで打ちのめされたとき以来、ぼくにとって大江健三郎は唯一無比の作家である。大江を読んだ時に初めて、「ああ、これが現代小説か」と思った。それはつまり、思春期の自分が抱える生理的なもやもやとか思想以前の青臭い観念とかいったものがリアルにそこに表現されていると感じられたということだ。大江はぼくの父よりさらに二歳年長であり、「死者の奢り」が書かれたのはぼくの産まれる十年近く前であったにも関わらずだ。

 時代を超えたその普遍性・現代性は、ぼくが学校の図書館の片隅にあって一人で勝手に盛り上がっていた時からさらに30年(!)の歳月を経て、今に至るも失われていない。この8月に岩波文庫から『大江健三郎自選短篇』が出て、さいわい好評を博しているようだ。ぼく自身は自分が齢を喰うにつれて「雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち」以降の円熟期の作品を好むように変わっていったのだけれども、あらためて読み返してみると作家が20代の頃に書かれた初期短篇もやっぱり凄い。バブル崩壊、湾岸戦争、阪神・淡路大震災、オウム事件、イラク戦争、リーマンショック、そして東日本大震災ののちフクシマの災禍(これは今なお進行中だが)を経験して、この国全体の地盤沈下(貧困化およびそれに伴う右傾化)が著しい昨今、初期の大江作品は、かつてのぼくよりもむしろ今を生きる若者にとってこそ、よりいっそう痛切なものに感じられるはずだ。

 ことに1958(昭和33)年、記念すべき長編第一作として発表された「芽むしり仔撃ち」は、「体制」に抗う「個」の闘いを描いた寓話として圧倒的なものである。私どもの生きた「戦後」という時代=社会が行くところまで行き着いて、「反動」の方向にひた走っている《現在》において、もっともリアルで生々しい作品をひとつ挙げろと言われれば、それは村上春樹でも龍でもなく、ほかのどんな作家でもなく、また「進撃の巨人」のようなマンガでも「エヴァンゲリヲン」のようなアニメでもなく、60年近く前に書かれたこの「芽むしり仔撃ち」になるだろう。テーマはもちろん、その文章のみずみずしさ、構成の緊密さは娯楽小説の参考にもなるので、小説を書こうと目論んでいる若いひとは何よりもまずこの一作から出発してほしいと切に思う。新潮文庫で長らく版を重ねているが、このたび改版が出たようだ。

 また前置きが長くなった。大江健三郎については旧ダウンワード・パラダイスでもずいぶん書いたがいくら書いてもこれで十分という気がしない。続きはまたの機会に譲って、「後退青年研究所」の話をしよう。

 これは1960年に発表された作品だが、初期から後期まで、50年近くに及ぶ短篇の代表作を集めたベスト版たる岩波文庫の『大江健三郎自選短篇』には収められていない。たしかにそれ以前の「死者の奢り」や「飼育」や「人間の羊」に比べると、ドラマ性および緊密度において明らかに落ちる。それらの作品は細部のみっちりした描写においてリアリスティックなんだけど、全体として概観すると寓話になっている(たとえば、「死者の奢り」で描かれる死体処理のバイトは、作者の創作であって現実のものではない)。いっぽう「後退青年研究所」は、「語り手が実際に体験した事実の報告」という体裁を取っており、そこで語り手が体験するバイトは死体処理ほど荒唐無稽ではなくて、いかにもありそうなものである。

 つまり「後退青年研究所」は寓話ではなく「写実小説」に近いせいで「死者の奢り」「飼育」「人間の羊」などの完成度に達していないということだが、この辺りを掘り下げていけば、初期の大江が直面していた問題の一端がうかがえるかもしれない。とはいいながら、「後退青年研究所」は、「写実小説」に近い分だけ風俗史料として興味ぶかいし、「小説」としてはけっこう面白かったりもするのである。

 全体の構造は「死者の奢り」と共通している。語り手の「僕」がちょっと変わったアルバイトをする。そこに「女子大生」が勤めているのも同じだし、「僕」とその「女子大生」がぜったいに恋愛関係にならないところも同じである。村上春樹の描く「僕」なら一週間以内にベッドインしていることだろう。これは冗談だけで言うのではなくて、女にもてない大江的「僕」から、「やれやれ」などと呟いてるうちになぜか「女の子」たちが向こうから寄ってくるハルキ的「僕」への変遷は、今にして思えばひょっとすると戦後文学最大の転換だったかも知れんのだ。それは文体における革新であり、時代を生きる気分そのものの革新であり、「万延元年のフットボール」から「1973年のピンボール」への革新であったわけである。大江健三郎や高橋和巳が担っていた60年代70年代の空気(アトモスフィア)を、村上春樹がいったん絶って80年代を切り開いたのだ。そのことは功よりも罪のほうが大きかったとぼくは思うがただその革新性だけは疑いようもない。『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』のレビュー(酷評)で評判を呼んだドリーさんのような若い人たちにも、文学史的な常識として、その点だけは承知しておいて頂きたく思う。

 その②につづく。