「これでやっと終わらせやがった」「いや、まだあるぜ。明日もう一度、ひと足違いで俺たちがあの店へ女を迎えに行って、それで何もかも完全に終りという訳さ」「その割にこの遊びは安く上ったな」
講談社文芸文庫の「戦後短篇小説再発見」シリーズ所収の作品をあたまから順に批評してみよう、と思い立ったのはじつは去年の暮れなのだが、それがここまでズレこんだのは、ひとつには、開始早々2本目にして、さっそくこの「完全な遊戯」が出てきやがるせいなのだ。こんなのを二番手に持ってくるなんて、編者たちはじつにいい度胸である。よく言えば野心的、もっとはっきりいうなら軽率だろう。それというのも編者の四人、すなわち井口時男、川村湊、清水良典、富岡幸一郎は、みな相当な目利きであり、読み巧者には違いないのだが、ご覧のとおり全員がオトコなのである。もし仮に女性の編者が混じっていたならば、果たしてこの「完全な遊戯」が選ばれたどうか、極めて疑わしいとぼくは思っている。
初出は1957年の「新潮」で、なんと半世紀以上も前なのだが、これは今読んでも問題作であり、「戦後短篇小説再発見」全18巻のうちでもたぶん一、二をあらそう問題作に違いない。前回の「眉山」を論じた末尾でぼくは、「青春とは常に傲慢な時期で、自らの傲慢さに気がついたとき、ひとはその分だけ大人に近づくのだと思う。」と書いた。しかしこの「完全な遊戯」に出てくる甘えくさったクソガキどもは、まったく大人に近づかない。これっぽっちも成長しない。他者を人間ではなく「モノ」としてしか見てないから、成長すべくもないわけだ。いくつになっても成長せず、傍若無人な子供のままで、欲望の赴くままに他人を傷つけ、社会の規範を踏みにじるこのような連中を指して「悪」と呼ぶ。そう。これは悪を描いた短編である。
前回の太宰「眉山」のように精妙な語りの芸があるわけでもなく、安手のハードボイルド調、としか言いようのない文体で胸糞わるい話が綴られているだけの代物なので、冒頭から順を追って解説をしていく気にもなれない。ばかばかしいので先にさっさと粗筋を紹介してしまおう。ようするに、金持ちのボンボンの不良青年どもがひとりの女性を監禁のうえ輪姦し、最後には面倒になって崖から突き落として殺してしまう、そんな内容の話である。慎太郎青年は当時25歳で、その前年にかの「太陽の季節」で芥川賞を受賞し(当時は史上最年少記録)、「戦後世代の旗手」として飛ぶ鳥を落とす勢いであった。その勢いに乗って弟の裕次郎が新人俳優として売り出され、あっという間にスターダムを駆け上がったことは、若い人でもぼんやりとは知っているのではないか。
誤解しないで頂きたいが、ぼくは作家たるものすべからくモラリスト(道徳家)であるべしと申し述べるつもりはないし、小説が「悪」を描いてはいけないと言っているわけでもない。むしろまるっきりその逆である。ぼくがいちばん信頼している大江健三郎にしたって、愚直なまでに「戦後民主主義者」を貫かんとするその姿勢とはうらはらに、小説のうえでは常に不逞にして不穏であり、その過激さは或る意味で慎太郎をすら凌駕するともいえる。「悪」を描くのは文学という制度に課せられた使命のひとつでさえあり、たとえばジョルジュ・バタイユの古典的名著『文学と悪』(ちくま学芸文庫)には文学史上のビッグネームがずらりと並ぶ。だからぼくは、けっして倫理性の欠如をもって「完全な遊戯」を指弾しているわけではない。
言いたいのはつまり、仮にも「文学者」として、ここまで頭が粗雑でいいのかよという問題である。この「完全な遊戯」にしても「処刑の部屋」にしても、さらには「太陽の季節」にしても、その設定の陳腐さといい、キャラ造形の安っぽさといい、文体の拙劣さといい、慎太郎作品の多くは目も当てられぬほどのものであり、今日ではとうてい読むに耐えない。それは改版された新潮文庫の『太陽の季節』に附されたamazonレビューの酷評の嵐を見れば明らかであろう。amazonレビューがいつも正鵠を射ているとは思わぬが、この件に関しては若い人たちの感性が正しいとぼくは感じている。発表から70年近くが経ってるんだからしょうがない、とは言えない。それは先にも名前を出した大江健三郎の初期短編が、ほぼ同時期のものであるにも関わらず、なお現代の少なからぬ読者の共感を集めていることからもわかる。普遍性を備えているということだ。慎太郎作品にはそれがない。そこに描かれた「反抗」のスタイルはあまりにもガキっぽすぎるのだ。いまどきの用語でいう中2、むしろそれ以下かもしれん。
いま私は中2と口走ったけれども、ここに出てくる不良たちの殺伐さ、荒廃ぶりは確かに物資にまみれて心を喪くした今日の青少年たち(の一部)の心象風景を先取りしてるといえるかもしれない。「完全な遊戯」の内容は、バブル期に綾瀬で起きたあの忌まわしい事件を思い起こさせるところもあるし、そそっかしい読者なら、さすがシンタロー、その鋭敏な感性で、来るべきこの国の病理をいち早く予見していたかっ、と肩入れしてしまうかもしれない。しかしそうではないのである。当時25歳の慎太郎青年は、「ほれ驚いたか。俺は価値紊乱者だぜアプレ・ゲールだぜ太陽族だぜ、日本のアンガー・ジェネレーションだぜ。てめえらこんなの読んだことねえだろ。こんなの初めてだろうがさあどうだ。目ン玉ひん剥いてよく見やがれってんだこのやろう。なあ吃驚しただろ吃驚しただろ吃驚しただろう凄ぇだろ俺」などと、完全な遊戯ならぬ完全な「どや顔」でこの作品を提出したに違いないけれど、こんなもんぜんぜん大したことないぞ、と私はかつての慎太郎青年に対し、声を大にして言ってやりたいわけである。
ここに描かれた犯罪はもちろん許しがたいもので、このクソガキどもは直ちに天からの雷(いかずち)に打たれて黒焦げになればいいと思うし、そうでなければ村上春樹の1Q84に出てくる青豆の手によってすみやかに全員暗殺されるべきだと切に私は思うけれども、とはいえしかし、あくまでも表象(虚構)として見るならば、ここに書かれた「悪」の造型はべつに騒ぐほどのものではない。なにも他国の作品に例を求めるまでもなく、たとえば馬琴の『南総里見八犬伝』には、悪漢どもによって酷い目に合い、あげく無残に殺される若い娘が何人も出てくる。むろん歌舞伎にもある。いずれも男性の書き手によるものだ。つまり、物語構造の面でいうならば、オトコのつむぐ妄想は、こういった話をすでにもう腐るほど生んできたわけである。それを戦後の風俗のなかに置いたので、「おおっ、新しい!」と真面目な人たちが錯覚をしただけなのだ。
しかも、だ。残念ながら私は詳しくないけれど、戦後のごたごたの中で徒花のように咲いた「カストリ雑誌」(カストリは安酒のこと。三文雑誌という意味)の中には、この手のエログロ通俗読み物がざらに転がっていたはずだ。外国の映画まで含めるならば尚更だ。だからほんとは、「完全な遊戯」が描いた「悪」なんてものは凄くもなんともなかったのである。
繰り返すが、悪を描くなというのではない。悪はどんどん描くべきだが、仮にも「純文学」を名乗るのであれば、もう少しアタマを使ったらどうかと私は言っているわけだ。じっさい明治からこのかた純文学作家はみんなそうしてきた。純文学ってのは地味なものなのだ。そこに戦後のどさくさに紛れて、まさしくナニで障子を破るかのごとく、石原慎太郎がばりっと登場してきた次第である(じつはあの名高いシーンにもすでに先蹤があるのだが)。それは慎みとは正反対の野蛮きわまる登場ぶりで、だからこの人は慎太郎ではなく蛮太郎と名乗るのが正しいとぼくは思っている。そんな蛮太郎氏の手になる「完全な遊戯」については、悪というよりたんに粗悪と呼ぶしかない。
ぼくの手元には昭和44(1969)年に出た「新潮日本文学」という全集の端本(第62巻)の「石原慎太郎集」があり、長めの短編(へんな言い方だけどしょうがない)「行為と死」、中編「星と舵」、そして短編「太陽の季節」「処刑の部屋」「完全な遊戯」「乾いた花」「待伏せ」が収録されている。これらを卒読して思うのは、どう見てもこの人はもともと通俗作家じゃなかったのかということである。この人を純文学作家として遇したことは、戦後日本文学の、ひいては戦後日本社会の錯誤のひとつであった。巻頭に置かれた「行為と死」は、アホらしいんでもう内容を紹介する気にもなれないんだけど、五木寛之がこれを書いたら100倍以上は面白くなるし、「読み物」としてもずっと上等なものになることは間違いない。また、スエズ動乱うんぬんという背景を抜いて、マッチョ気取りの下らねえ男とそんなダメンズにあっさり引っかかる間抜けな女たちとのどうしようもない痴話話として見れば、立原正秋のほうがはるかに巧みに描いたであろう。
「処刑の部屋」なんてほとんどもうお笑いの域で、これだったら筒井康隆の「懲戒の部屋」のほうがじっさいに笑える分だけずっといい。ベトナム戦争への従軍体験に基づく「待伏せ」にしても、同じ体験からあれだけ豊饒な作品を生んだ開高健に比べると、その貧寒さは歴然だ。長期にわたるヨットレースに実際に参加した経験から書かれた「星と舵」だけはちょっといいけど、ノンフィクションでなく小説として見るならば、冗長の感は免れない。ずっと後年、こういったさまざまな体験を凝縮して綴られた掌編集の『わが人生の時の時』(新潮文庫。いまは絶版)のほうが遥かに良くて、個人的には石原さんは、この『わが人生の時の時』一冊だけの作家であると考えている。ともかく、石原慎太郎という人は、いま名を挙げた同世代の作家たちと比べて(というか、ほかのほとんどの作家と比べて)文章、ストーリーテリング、キャラ造形、すべてにおいて救いがたく下手くそな書き手だということだ。下手すぎるがゆえに通俗作家になりえず、誤って純文学作家として遇されてしまった青年。それこそが、「太陽の季節」で一世を風靡したシンタローの真の姿であったと私は思う。
その②へつづく。
ここでいう「文学」とは「純文学」を指す。「純文学とは何ぞや?」という設問は、「通俗小説/大衆小説/娯楽小説と純文学との違いは何か?」という設問にほぼ等しいが、これに明快な答を与えることはたやすくはない。大塚英志のような人は、皮肉をこめて「文芸誌文学」という呼び方をする。「文學界」「群像」「新潮」「すばる」のいわゆる四大文芸誌に載る小説という含意である。むろんこれでは本質的な説明にはなっていないが、この件に関してはいずれまた色々な角度で扱うことになるだろうから深入りしないことにして、ひとまずここでは、「純文学とは、文學界や群像や新潮やすばるに載るような小説のこと」と、ぼくも大塚氏に便乗させていただこう(念のため言うと、「芥川賞」という権威によって選別されれば、晴れて『文藝春秋』に転載の栄誉にも浴するわけだが)。
ぼく自身はこの「純文学」にこだわっている。それにはいくつか理由があるが、ひとつには、「物語」に抵抗しうる手段として、この「純文学」が今でもおおいに有効であると信じるからだ。しかし、こんな言い方ではちょっと何言ってるんだかわからない。説明しよう。「物語」とは、昔むかしあるところにお爺さんとお婆さんが、とか、シンデレラがかぼちゃの馬車でうんぬんといったあの「物語」とは別の、さらにもっと大きな含意で使っている。「世界」に意味を付与するもの、もっと言えば、「世界(社会)のなかを寄る辺なく漂う私」に「生きることの意味」を与えるものが物語である。すなわち、宗教の教義なんかはいうまでもなく、ナショナリズムもまた「物語」たりうるということだ。それも十分に巨大かつ強固な物語である。
先に名前を出した大塚英志はこう述べている。
「だが、例えば、たった今、日本を呪縛しているのも戦争に負け、マッカーサーに《十二歳の子供》と定義された《日本人》が、《民主主義》という誤った《母性》から離脱し《憲法》や《歴史》を書き換え、そして《強い父》である《アメリカ》に認められ《一人前の国家》になる、という《日本》をめぐる《ファミリーロマンス》に他ならないことに気づいた時、《神話》や《昔話》に起源が求められる、《偽りの父母に育てられた子供が自分の来歴を書き換え、強い父性に統合される》という《ファミリーロマンス》的な枠組に、いかにこの国の半端な近代が依存しているかがわかるというものだ。ネット上のナショナルな気分のマッチョぶりを無自覚に規定するのも、このような近代的言説が抱え込んでしまっているファミリーロマンス的な偏差に他ならない。」
大塚氏にしては読みづらい文だが、言わんとするところはよくわかる。これは2000年代初頭、アメリカが仕掛けたイラク戦争の頃に書かれたものだが、2014年の現下のニッポンにおいていよいよ迫真性を増しているのは誰の目にも明らかであろう。ただ単にこれは、21世紀に入ってからの日本の歩みが構造的(物語論的)にそう分析しうるという話ではない。私どもの心性そのものが、「偽りの父母に育てられた子供が自分の来歴を書き換え、強い父性に統合される」という「物語の呪縛」に深いところで囚われてしまっているということだ。この辺りの心情を、保守派の論客の語法をもちいて露骨にはっきり言うならば、「押し付けられた平和憲法の下での戦後民主主義はすべて欺瞞であり、そこで語られた歴史も一方的な東京裁判に基づく自虐史観であった。すみやかに憲法をかえて自衛隊を軍に昇格させ、真にアメリカの盟友(実は子分なんだけど)にふさわしい一人前の国家になれ。そして歴史教科書も書き換えよ。」といったところか。
ところで、物語論になじみのない方には、「ファミリーロマンス」という用語がわかりづらいかもしれない。もともとはフロイトの概念で、エディプス・コンプレックスといえば何となく聞いた覚えがあるのではないか。「息子」は「父」を殺し、「母」を犯すことによって成長する、つまり一人前の大人になるというやつだ。もとよりここでの「殺害」なり「侵犯」とは象徴的な意味なのだが、この構造が古今東西、ありとあらゆる「物語」のなかに伏在しているのはぼくも認める。しかし「息子」はそうだとしてもじゃあ「娘」はどうなんだよ?という疑念もあり、今日の見地からはまだまだ考察の余地はありそうだ。ともあれ、ここでいう「ファミリーロマンス」とはそのような含意なんだけど、戦後ニッポンのばあい、父としてのアメリカは主神ゼウスのごとくあまりにも強大で「殺す」ことなど思いもよらぬので、せめて盟友(実は子分)として「承認」して貰おうと切望しているわけである。歪んで矮小化されたファミリーロマンスなのだ(泣)。
それが現下のこの国を覆っている「大きな物語」であり、安倍晋三なる人格は、そのような物語=ファミリーロマンスを肉体化・具現化した総理大臣である。私どもがそのような首相を高い支持率で支えていて、だからとうぜん政治日程はその物語に沿って進んでいる。この辺りの事情をもう少し微分するならば、新自由主義の進行によってアトム化し、希薄化した個々の「私」が拠りどころを求めて大きな「物語」に自らを委ね、平成ふうにアレンジされたナショナリズムへと回収されている、といった感じになろうか。図式的すぎて情けなくなるが、いろいろなことが図式的というかマンガ的になりつつあるのが「現代」のひとつの特徴かもしれないとは思う。
このような「物語」は戦後この方ずっと底流にはあって、政治家の「失言」とか、または「右派」の言説として定期的に浮上してはいた。それがここまでの力を持ち始めたのは90年代の半ばからで、その背景にはバブル崩壊以降の慢性的な不況、ソ連(理想的な未来像としての共産主義の幻想)の解体、阪神大震災とオウム事件、相次ぐ未成年の凶悪犯罪、北朝鮮による拉致問題の発覚、韓国における反日運動の激化、そして中国の経済的・軍事的台頭、といったような要素があった。小林よしのりというじつに分かりやすい扇動家=商売人もいた。しかし結局は、私どもの依拠していた(はずの)「戦後民主主義」が、さらにいうならそれこそ私どもの「近代(的主体)」が、それしきのことでグダグダになっちまうほど脆弱なものにすぎなかったって話で、これまた情けないかぎりだけども、そこは大塚英志に限らずとも、多くの心ある方々がさんざん指摘しているとおりだ。
先の引用は『更新期の文学』(2005年。春秋社)からのものだが(P126)、ほかにも大塚英志はその名も『戦後民主主義のリハビリテーション』(角川文庫)といった本などを出し、一貫して「戦後民主主義」、および歴史観も含めた「戦後民主主義的なるもの」を擁護する立場に立って発言している。ぼくはその多くに共感するけど、大塚氏が戦後民主主義ならびに日本の「近代」との絡みで論じる「純文学(文芸誌文学)」についての意見は首肯できない。冒頭部分に記したように、おそらく「純文学」だけが、今回縷々述べてきたような「大きな物語」に抵抗しうるメディアである、いや少なくとも、「抵抗しうる可能性をもつ」メディアなんじゃないかな、という感触をぼくは抱いており、大塚氏はそんなことぜんぜん思ってもいない。「純文学(文芸誌文学)」に向ける大塚氏の視線が頑なすぎるのか、ぼくが純文学に対して甘い理想を持ってるだけなのか、その点がいまいち分からなくて、次回以降もそういったことを問題にしていくことになると思う。