ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

第2回・石原慎太郎「完全な遊戯」その②

2014-09-29 | 戦後短篇小説再発見
その①からのつづき。

 石原慎太郎はその本質において通俗作家であるにも関わらず、通俗作家(娯楽作家)に不可欠な読みやすい文体、流暢なストーリーテリング、魅力的なキャラ造形とそのキャラたちの織りなすドラマチックな絡み合い、といった美質を欠いていたゆえに、誤って「純文学」作家として遇されてしまった。前回ぼくはそう書いた。その代わりに彼が持っていたものは、マスコミ(大衆)受けする扇動性と、スター気取りのナルシシズム(自己愛)とヒロイズム(英雄主義)、この世代の男性としても露骨すぎるマチズム(男性上位主義)、そして、いまふうにいえばまさしく「思春期をこじらせちゃった」ような観念癖である。この観念癖は三島由紀夫とも相通じるものだが、もとより教養と知性に裏打ちされた三島の緊密さとは程遠く、ただただ臭いだけであり、やはり中2としか言いようがない。当時はもちろんそんなスラングはなかったが。

 弟の裕次郎は有名でも、慎太郎本人が映画監督を目指して東宝の入社試験を受けていたことは知らない人も多かろう。慎太郎の発想の源は文学ではなくアクション映画に存するのである。劇画的といってもいいかもしれない。ただし劇画的とはあくまでも比喩であって、すでに草創期に白土三平やつげ義春やさいとう・たかをを擁していた劇画業界はけっしてそんな甘っちょろいもんじゃなく、もし慎太郎作品を原作にして作画をしろと言われたら、「こんなもんが商品になるか。」と言って劇画作家は全員が断ることだろう。体質において似通ったところはあるけれど、劇画の原作者として見るならば、慎太郎は梶原一騎、小池一夫の足元にも及ばない。文学とりわけ純文学という、なんとも浮世ばなれした、生真面目で学究肌の人たちが寄り集まっている特殊な場だからこそ通用したのである。そして、そこで得た「芥川賞」という絶大なる権威(当時はそうだった)と、作品そのもののセンセーショナリズムによって、純朴な一般ピープルまでをも幻惑してしまったわけだ。それは「太陽の季節」からきっかり20年後に登場した「限りなく透明に近いブルー」の先駆でもあった。慎太郎における障子破りが、村上龍の乱交パーティーであったのだが、しかしそれこそ劇画世代、ロック世代の村上龍は、石原よりもはるかに小説づくりが巧い。

 なんにせよ、長期にわたって芥川賞の選考委員を務めるくらいならまだ実害も少なかったのだろうが、このような人格が政権与党の国会議員から、あまつさえ東京都知事などという要職を得て、今もなお現役の国会議員でおられるのだから実になんとも言いようがない(註・2014年現在)。ここは政治を語る場ではないから深入りをするつもりはないが、それにつけても昭和43(1967)年、36歳の石原青年に300万余りの票を与えた当時の民衆ってものは、果たして「完全な遊戯」を読んでいたのであろうか。あるいは、「太陽にほえろ」……じゃなかった「太陽の季節」をきちんと読み込んでいたのか? もし仮に、何かの間違いで大薮春彦や団鬼六が国会議員に立候補していたならば、それはやっぱりふつうの人は票を入れないと思うけど、「完全な遊戯」や「太陽の季節」の作者に投票するということは、ほとんどそれに近いのである。たぶん大半の人たちは、シンタローは芥川賞だし男前だし脚も長いしスポーツマンだし弟が裕次郎だし、なんか知らんが大きなことをやってくれそうだ、といったていどの理由で入れたんだろうが、それがどういう選択だったか、われわれは50年近くを閲した今でもまだよく理解してないし、「内省および再検討」という習慣を欠いたこの国の性情を鑑みるならば、この先も理解することはないだろう。

 いやいや。予期していたとはいいながら、作品論ではなく石原慎太郎論になってしまった。作品そのものが下らないんだから仕方がないが、今回の企画の趣旨にのっとり、いちおう技術的なことにもふれておこう。まず発端、クルマで夜道を走るふたりのクソガキ。「フロントグラスがいつの間にかまた薄く曇り始めた。」というト書きのような一行に始まり、あとは会話、ト書きの繰り返し。まるっきりシナリオそのものの記述法である。道路が穴だらけなのはそこが田舎であることを示すと共に、この二人のささくれだった内面をあらわしてもいる。こいつらはさっきまでブリッジをやっていて、どうやら片方が大負けしてきたらしい。そのことが会話を通して読者に伝えられる。

 通りすがりのバス停で、もう来るはずもないバスを待っている女を見かけ、声をかけて車内に誘い込む。耳元には真珠のイヤリング。着ているものも悪くない。目元は切れ長で、色白。そして、「一寸まくれた唇」。おお。やれやれ。恥も外聞もない紋切り型のキャラ設定。繰り返すけれど、「悪」を描くのがダメだと私は言ってるわけじゃない。いかに1957年であっても、かくのごとき描写がパロディーとしてしか成立せぬことに気づいていない鈍感さ、粗雑さが許しがたいと言っているのである。もっとはっきり言うならば、アタマわるいんじゃないの、と言っておるのだ。

 このような容姿が与えられた以上、この「女」がこの話にとって徹底して《都合のいい》ように創られていることは先を読み進めるまでもなく明白である。じっさい「女」は目の前で男どもが連れ込み先の相談を始めても意に介さず、ただぼんやりとしているし、いざ車内で強姦されそうになった時にも、はじめのうちこそ抵抗するが、殴りつけられると突然、「失神でもしたかのように」おとなしくなる。そして、代わる代わるに犯されるうちにやがて「腰を使い」出す。何から何までポルノグラフィーの常套どおりで、それを逸脱したり、超えていくところはない。

 「女」はいったん駅で降ろされるが、「夜はまだ長えぜ」と思い直したクソガキどもが車を戻して再び誘うと、懲りずにまた乗り込んでくる。ガキどもは「東京の兄貴夫婦が夏用に建てた別荘」の鍵をこじ開けて彼女を連れ込み、そこでまた情欲の餌食とする。どうでもいいので書かなかったが、クソガキの片割れには礼次、もう片方には武井という名前が与えられている。車内で殴ったのは武井のほうで、そのせいもあってか「女」は武井を嫌い、礼次には少し気を引かれているらしい。このていどの心理の綾も、べつに誰でも書けることで、特筆するほどのものではない。

 男どもは彼女をもてあそんで荒淫に耽り、彼女もまた、しばらくはさしたる抵抗もなしに応じる。ポルノグラフィーの常套であろう。わしゃよう知らんが。そして、物語の文法にしたがって、女が「辺りでは著名な精神病院」からこっそり抜け出してきたらしいことが彼女自身の口から明らかになる。このへんからだんだん陰惨なことになってきて、「パーティーに行く」ために外出する二人のクソガキが彼女を縄で縛ったり、留守番がわりに別のクソガキ仲間を三人連れてきたりして、もう粗筋を紹介するのも厭になってきたので止める。あげくの果てに女郎屋に売り払ったあと、そこからも追い出されると、前回の記事でも書いたとおり、面倒になって崖から突き落として殺してしまうのである。

 クソガキどもは、あとから加わる三人も含めて名前を与えられているし、礼次のガールフレンドなどは、いちども登場しないにも関わらず「康子」などと呼ばれているのに、彼女の名前は出てこない。作者からは「女」と呼ばれ、クソガキどもからは「お前」と呼ばれる。「眉山」のヒロインには「トシちゃん」という呼び名のほかに「眉山」という綽名(蔑称ではあるが愛称でもある)までが与えられていたけれど、この女性には名前がない。それはつまり、クソガキどもがいかに彼女と性交しようとも、ほんとうの関係性を取り結ぶことはなく、ついに彼女を「人間」として見なかったことの証拠である。

「これでやっと終わらせやがった」 
「いや、まだあるぜ。明日もう一度、ひと足違いで俺たちがあの店へ女を迎えに行って、それで何もかも完全に終りという訳さ」
「その割にこの遊びは安く上ったな」


 短編はこの二人の会話で幕を下ろす。これほど後味のわるい話というのもそうないが、聞くところによると、近ごろの若い子たちの書くホラー小説なんぞには、こういった、どうにもこうにも救いのないものが多いらしい。だとすると、ニッポンは「完全な遊戯」からほぼ60年かけて、「純文学」を滅ぼし、シンタローふうの歪んで荒んだ劇画チックな「青春」を蔓延させてしまったのかも知れない。どうにもまったくうんざりする。



第2回・石原慎太郎「完全な遊戯」その①

2014-09-29 | 戦後短篇小説再発見

 講談社文芸文庫の「戦後短篇小説再発見」シリーズ所収の作品をあたまから順に批評してみよう、と思い立ったのはじつは去年の暮れなのだが、それがここまでズレこんだのは、ひとつには、開始早々2本目にして、さっそくこの「完全な遊戯」が出てきやがるせいなのだ。こんなのを二番手に持ってくるなんて、編者たちはじつにいい度胸である。よく言えば野心的、もっとはっきりいうなら軽率だろう。それというのも編者の四人、すなわち井口時男、川村湊、清水良典、富岡幸一郎は、みな相当な目利きであり、読み巧者には違いないのだが、ご覧のとおり全員がオトコなのである。もし仮に女性の編者が混じっていたならば、果たしてこの「完全な遊戯」が選ばれたどうか、極めて疑わしいとぼくは思っている。

 初出は1957年の「新潮」で、なんと半世紀以上も前なのだが、これは今読んでも問題作であり、「戦後短篇小説再発見」全18巻のうちでもたぶん一、二をあらそう問題作に違いない。前回の「眉山」を論じた末尾でぼくは、「青春とは常に傲慢な時期で、自らの傲慢さに気がついたとき、ひとはその分だけ大人に近づくのだと思う。」と書いた。しかしこの「完全な遊戯」に出てくる甘えくさったクソガキどもは、まったく大人に近づかない。これっぽっちも成長しない。他者を人間ではなく「モノ」としてしか見てないから、成長すべくもないわけだ。いくつになっても成長せず、傍若無人な子供のままで、欲望の赴くままに他人を傷つけ、社会の規範を踏みにじるこのような連中を指して「悪」と呼ぶ。そう。これは悪を描いた短編である。

 前回の太宰「眉山」のように精妙な語りの芸があるわけでもなく、安手のハードボイルド調、としか言いようのない文体で胸糞わるい話が綴られているだけの代物なので、冒頭から順を追って解説をしていく気にもなれない。ばかばかしいので先にさっさと粗筋を紹介してしまおう。ようするに、金持ちのボンボンの不良青年どもがひとりの女性を監禁のうえ輪姦し、最後には面倒になって崖から突き落として殺してしまう、そんな内容の話である。慎太郎青年は当時25歳で、その前年にかの「太陽の季節」で芥川賞を受賞し(当時は史上最年少記録)、「戦後世代の旗手」として飛ぶ鳥を落とす勢いであった。その勢いに乗って弟の裕次郎が新人俳優として売り出され、あっという間にスターダムを駆け上がったことは、若い人でもぼんやりとは知っているのではないか。

 誤解しないで頂きたいが、ぼくは作家たるものすべからくモラリスト(道徳家)であるべしと申し述べるつもりはないし、小説が「悪」を描いてはいけないと言っているわけでもない。むしろまるっきりその逆である。ぼくがいちばん信頼している大江健三郎にしたって、愚直なまでに「戦後民主主義者」を貫かんとするその姿勢とはうらはらに、小説のうえでは常に不逞にして不穏であり、その過激さは或る意味で慎太郎をすら凌駕するともいえる。「悪」を描くのは文学という制度に課せられた使命のひとつでさえあり、たとえばジョルジュ・バタイユの古典的名著『文学と悪』(ちくま学芸文庫)には文学史上のビッグネームがずらりと並ぶ。だからぼくは、けっして倫理性の欠如をもって「完全な遊戯」を指弾しているわけではない。

 言いたいのはつまり、仮にも「文学者」として、ここまで頭が粗雑でいいのかよという問題である。この「完全な遊戯」にしても「処刑の部屋」にしても、さらには「太陽の季節」にしても、その設定の陳腐さといい、キャラ造形の安っぽさといい、文体の拙劣さといい、慎太郎作品の多くは目も当てられぬほどのものであり、今日ではとうてい読むに耐えない。それは改版された新潮文庫の『太陽の季節』に附されたamazonレビューの酷評の嵐を見れば明らかであろう。amazonレビューがいつも正鵠を射ているとは思わぬが、この件に関しては若い人たちの感性が正しいとぼくは感じている。発表から70年近くが経ってるんだからしょうがない、とは言えない。それは先にも名前を出した大江健三郎の初期短編が、ほぼ同時期のものであるにも関わらず、なお現代の少なからぬ読者の共感を集めていることからもわかる。普遍性を備えているということだ。慎太郎作品にはそれがない。そこに描かれた「反抗」のスタイルはあまりにもガキっぽすぎるのだ。いまどきの用語でいう中2、むしろそれ以下かもしれん。

 いま私は中2と口走ったけれども、ここに出てくる不良たちの殺伐さ、荒廃ぶりは確かに物資にまみれて心を喪くした今日の青少年たち(の一部)の心象風景を先取りしてるといえるかもしれない。「完全な遊戯」の内容は、バブル期に綾瀬で起きたあの忌まわしい事件を思い起こさせるところもあるし、そそっかしい読者なら、さすがシンタロー、その鋭敏な感性で、来るべきこの国の病理をいち早く予見していたかっ、と肩入れしてしまうかもしれない。しかしそうではないのである。当時25歳の慎太郎青年は、「ほれ驚いたか。俺は価値紊乱者だぜアプレ・ゲールだぜ太陽族だぜ、日本のアンガー・ジェネレーションだぜ。てめえらこんなの読んだことねえだろ。こんなの初めてだろうがさあどうだ。目ン玉ひん剥いてよく見やがれってんだこのやろう。なあ吃驚しただろ吃驚しただろ吃驚しただろう凄ぇだろ俺」などと、完全な遊戯ならぬ完全な「どや顔」でこの作品を提出したに違いないけれど、こんなもんぜんぜん大したことないぞ、と私はかつての慎太郎青年に対し、声を大にして言ってやりたいわけである。

 ここに描かれた犯罪はもちろん許しがたいもので、このクソガキどもは直ちに天からの雷(いかずち)に打たれて黒焦げになればいいと思うし、そうでなければ村上春樹の1Q84に出てくる青豆の手によってすみやかに全員暗殺されるべきだと切に私は思うけれども、とはいえしかし、あくまでも表象(虚構)として見るならば、ここに書かれた「悪」の造型はべつに騒ぐほどのものではない。なにも他国の作品に例を求めるまでもなく、たとえば馬琴の『南総里見八犬伝』には、悪漢どもによって酷い目に合い、あげく無残に殺される若い娘が何人も出てくる。むろん歌舞伎にもある。いずれも男性の書き手によるものだ。つまり、物語構造の面でいうならば、オトコのつむぐ妄想は、こういった話をすでにもう腐るほど生んできたわけである。それを戦後の風俗のなかに置いたので、「おおっ、新しい!」と真面目な人たちが錯覚をしただけなのだ。

 しかも、だ。残念ながら私は詳しくないけれど、戦後のごたごたの中で徒花のように咲いた「カストリ雑誌」(カストリは安酒のこと。三文雑誌という意味)の中には、この手のエログロ通俗読み物がざらに転がっていたはずだ。外国の映画まで含めるならば尚更だ。だからほんとは、「完全な遊戯」が描いた「悪」なんてものは凄くもなんともなかったのである。

 繰り返すが、悪を描くなというのではない。悪はどんどん描くべきだが、仮にも「純文学」を名乗るのであれば、もう少しアタマを使ったらどうかと私は言っているわけだ。じっさい明治からこのかた純文学作家はみんなそうしてきた。純文学ってのは地味なものなのだ。そこに戦後のどさくさに紛れて、まさしくナニで障子を破るかのごとく、石原慎太郎がばりっと登場してきた次第である(じつはあの名高いシーンにもすでに先蹤があるのだが)。それは慎みとは正反対の野蛮きわまる登場ぶりで、だからこの人は慎太郎ではなく蛮太郎と名乗るのが正しいとぼくは思っている。そんな蛮太郎氏の手になる「完全な遊戯」については、悪というよりたんに粗悪と呼ぶしかない。

 ぼくの手元には昭和44(1969)年に出た「新潮日本文学」という全集の端本(第62巻)の「石原慎太郎集」があり、長めの短編(へんな言い方だけどしょうがない)「行為と死」、中編「星と舵」、そして短編「太陽の季節」「処刑の部屋」「完全な遊戯」「乾いた花」「待伏せ」が収録されている。これらを卒読して思うのは、どう見てもこの人はもともと通俗作家じゃなかったのかということである。この人を純文学作家として遇したことは、戦後日本文学の、ひいては戦後日本社会の錯誤のひとつであった。巻頭に置かれた「行為と死」は、アホらしいんでもう内容を紹介する気にもなれないんだけど、五木寛之がこれを書いたら100倍以上は面白くなるし、「読み物」としてもずっと上等なものになることは間違いない。また、スエズ動乱うんぬんという背景を抜いて、マッチョ気取りの下らねえ男とそんなダメンズにあっさり引っかかる間抜けな女たちとのどうしようもない痴話話として見れば、立原正秋のほうがはるかに巧みに描いたであろう。

 「処刑の部屋」なんてほとんどもうお笑いの域で、これだったら筒井康隆の「懲戒の部屋」のほうがじっさいに笑える分だけずっといい。ベトナム戦争への従軍体験に基づく「待伏せ」にしても、同じ体験からあれだけ豊饒な作品を生んだ開高健に比べると、その貧寒さは歴然だ。長期にわたるヨットレースに実際に参加した経験から書かれた「星と舵」だけはちょっといいけど、ノンフィクションでなく小説として見るならば、冗長の感は免れない。ずっと後年、こういったさまざまな体験を凝縮して綴られた掌編集の『わが人生の時の時』(新潮文庫。いまは絶版)のほうが遥かに良くて、個人的には石原さんは、この『わが人生の時の時』一冊だけの作家であると考えている。ともかく、石原慎太郎という人は、いま名を挙げた同世代の作家たちと比べて(というか、ほかのほとんどの作家と比べて)文章、ストーリーテリング、キャラ造形、すべてにおいて救いがたく下手くそな書き手だということだ。下手すぎるがゆえに通俗作家になりえず、誤って純文学作家として遇されてしまった青年。それこそが、「太陽の季節」で一世を風靡したシンタローの真の姿であったと私は思う。

 その②へつづく。


戦後短篇小説再発見・第1回・太宰治「眉山」その②

2014-09-29 | 戦後短篇小説再発見
その①からのつづき。

 眉山ことトシちゃんが「小使いさん」の娘で、彼女が地元の小学校で生まれ育ったらしいということが語られるのは、前回も述べたとおり、地の文ではなくて、語り手をふくむ常連たちの噂話・陰口のなかである。ここがまた太宰のうまいところで、地の文だったら、それなりに作者が情報を整理して筋道立てて記述しなけりゃならぬわけだが、「」で括られた話しことばの中ならば、いくぶん論理が飛躍していたり、あいまいだったり、辻褄が合わなくっても構わぬどころか、よりリアリティーが増すのである。

 眉山が御不浄(トイレ)で盛大におしっこをこぼしたという一件は、ショッキングなラストにつながる重要な伏線のひとつなのだが、それは、眉山が自分は名門(貴族)の出だなどと生意気な法螺を吹くので、例によって誰かが彼女をからかい、貴婦人はトイレでしゃがまないのだとデタラメを教えて、それを彼女が真に受けたから、ということになっている。そのように誰かの口から語られている。しかし、作品を最後まで読みきってみれば、けっして彼女はこの見えすいたウソに引っかかってそんな真似をしたのではないとわかる。

 そもそも、たぶん彼女は、自分が名門(貴族)の出だなどと大口を叩いたわけではないように思う。彼女はただ、「私の生まれ育った家(?)はとても大きかった」と述べただけではないか(「帝都座と同じくらいの大きさだった」と言ったらしい)。それでよくよく問いただすと、静岡の小学校のことだった、という次第だったんだろう。貴族だの名門だのと法螺を吹いたなんてのは、常連たちの悪意まじりの歪曲じゃないのか。

 この「生まれ育った家が大きかった」件については、語り手の「僕」にも心当たりがあった。ここでまた、もうひとつの重要な伏線、《眉山は、階段を昇るときにはドスンドスン、降りる時には転げ落ちるようにダダダダダと、すさまじい音を立ててトイレに飛び込む》というエピソードが示される。その乱暴さを注意された彼女が悪びれる様子もなく薄笑いして「私は小さい時から、しっかりした階段を上り下りして育って来ましたから」と「むしろ得意そうな顔で」言ったというのである。語り手の「僕」は、たまたまその場に居合わせており、浅ましい嘘をつくものだと感じて、ますます彼女が嫌になった。じっさいにはまんざらウソでもなかったわけだが。

 ともあれ、さんざん陰で悪口を言い合い、嫌気のさした「僕」たちは何度も河岸を変えようとするが、すぐにまた若松屋へと足が向く。「借りがきくから」と語り手「僕」は言い訳するけれど、これも最後まで読みきると、けっしてそれだけじゃなかったとわかる仕掛けになっている。

 名手ダザイの筆は、このあとしばらく、眉山ことトシちゃんをさらに貶めるほうへと走る。たんに「無智と図々しさと騒がしさ」だけでなく、「不潔さ」までも強調して、作品内で彼女をいよいよ道化に仕立てるのである。その最たるものが、あの「盛大なおしっここぼし=眉山の大海」をさらにパワーアップしたエピソード、すなわち「ミソ踏み眉山」の一件だ。

 要するにまあ、読んで字のごとく、重箱に盛って床の上に置いてあった配給の味噌に、外からバタバタ駆け込んできた彼女がずぶりと片足を突っ込み、それをぐいとそのまま引き抜いて、血相を変えたまま爪先立ちでトイレに突進していった、という下らない話なわけだが、もちろん、「ミソ踏み」は「〇ソ踏み」の暗喩であって、しかも「お便所に点々とミソの足跡」というのだから念が入っている。とはいえ、「とにかく壮烈なものでしたよ。ミソ踏み眉山。吉右衛門の当たり芸になりそうです。」「いや、芝居にはなりますまい。おミソの小道具が面倒です。」というアホなやり取りともあいまって、汚さよりもユーモアのほうがいや増さる。どたばた喜劇のワンシーンといったところだ。祝祭的とまで言ったら誉めすぎだけど。

 この「ミソ踏み眉山」のエピソードののち、他の常連たちは後方にしりぞき、眉山と語り手「僕」との一対一の場面に移る。思えば「眉山」という綽名のきっかけとなったのも彼女と「僕」との一対一のやりとりだった。語り手「僕」はこの作品中でもっぱら「聞き手」かつ「読者への報告者」としてふるまうわけだが、やはり要所においてはきちんと前面に顔を出し、ヒロイン眉山と大事な会話を交わすのである。当たり前とは言いながら、こういうところもさすがに上手い。

 ミソ踏み眉山は、お銚子を持ってドスンドスンとやって来た。/「君は、どこか、からだが悪いんじゃないか? 傍に寄るなよ。けがれるわい。御不浄にばかり行ってるじゃないか。」

 このせりふは、きわめて重要で、残酷なものでもあったのだけれど、それはラストまで読み進めねばわからない。じつは眉山は本当に体を壊しており、まさにそのせいでトイレが近かったのだ。しかしここでの語り手は本気でそう気遣っているわけではなく、まるで心配しているわけでもない。しかも、トシちゃん本人がたぶん自分の病気に気がついていない。現に、「まさか。」と、たのしそうに笑い、「私ね、小さい頃、トシちゃんはお便所へいちども行った事が無いような顔をしているって、いわれたものだわ。」などと呑気な返事をかえしているのだ。

 さらに太宰はトシちゃんの不潔ネタをもう少し引っ張る。先のやりとりに続き、「しかし、僕のいつわらざる実感を言えば、君はいつでもたったいま御不浄から出て来ましたって顔をしているが、……」という返しがあって、そのあと彼女が爪の垢を人前で平気でほじくるとか、どうもあんまり風呂に入っていないらしいという話が入る。なにしろ終戦直後、今と違ってどこにでも内風呂があるわけではないし、銭湯もまだ整備されてなかったろうから、一般庶民はそうひんぱんに風呂に入れるわけじゃなく、身奇麗にするのも容易なことではなかったのだ。

 そのあとのシーンが、おそらくこの短編の山場といっていいだろう。眉山が、「私ね、さっき本屋へ行ったのよ。そうしてこれを買って来たの。あなたのお名前も出ていてよ。」と言って(それにしても彼女の口調は、育ちに似合わず、いまどきのJKなんかに比べてじつに品が良い。これは太宰がそのように脚色しているのか、それとも、昔の女性はみな貧しくとも上品だったのか……)、ふところから、新刊の文芸雑誌を取り出す。「僕」はそれを見て激昂してしまうのである。

 「……それには僕の小説を、それこそ、クソミソに非難している論文が載っているのを僕は知っているのだ。それを、眉山がれいの、けろりとした顔をして読む。いや、そんな理由ばかりではなく、眉山ごときに、僕の名前や、作品を、少しでもいじられるのが、いやでいやで、堪え切れなかった。いや、案外、小説がメシより好き、なんて言っている連中には、こんな眉山級が多いのかも知れない。それに気附かず、作者は、汗水流し、妻子を犠牲にしてまで、そのような読者たちに奉仕しているのではあるまいか、と思えば、泣くにも泣けないほどの残念無念の情が胸に込み上げて来るのだ。」

 このような、こんがらがった自意識のありようは、やたらと「、」で区切られた大袈裟な文体ともども、太宰の読者には先刻おなじみであろう。浄瑠璃なんかでいう「口説き」みたいなもんだろうか。ぼくなども十代の頃にはご多分に漏れずこの名調子にシビれたものだが、いつの間にやら、うかうかと、太宰が死んだ齢をはるかに超えちまった今の目で見ると、何を言うとるんだろうなあこの餓鬼は、という感じである。こんな埒もない屈折などは、それこそズブリと、片足で踏み抜いてやればいいのだ。

 「とにかく、その雑誌は、ひっこめてくれ。ひっこめないと、ぶん殴るぜ。」/「わるかったわね。」/ と、やっぱりニヤニヤ笑いながら、/「読まなけれあいいんでしょう?」/「どだい、買うのが馬鹿の証拠だ。」/「あら、私、馬鹿じゃないわよ。子供なのよ。」/「子供? お前が? へえ?」/ 僕は二の句がつげず、しんから、にがり切った。

 これが、眉山と「僕」との最後の会話である。これ以降、もう、彼女は作品のなかに現れない。正直なところぼくは、この「子供」ということばのニュアンスがよく汲み取れなかったのだが、これは「無垢」とか「純真」とか「すれてない」といった感じなのだろうか。だとしたら、たしかに彼女は子供だったんだと思う。「僕」が「しんから、にがり切った。」のは、それをまるきり信じていないからであり、つまり「僕」には、トシちゃんのことがなんにも分かってなかったのだ。少なくともこの時点では。

 それから十日あまりのあいだ、「僕」は飲みすぎのせいで調子を崩して寝込む。ようやく復調して新宿に出ると、例の「林芙美子」こと洋画家の橋田氏に出会う。あの「ミソ踏み事件」の現場に居合わせ、吉右衛門がどうこうという会話を交わした相手である。「僕」はさっそく「眉山軒」へと誘うが、なぜか橋田氏は元気がなく、あまり気も進まない様子だ。少し不審に思いつつも、何の気なしに眉山のことを尋ねた「僕」は、橋田氏の口から、彼女が重度の腎臓結核で、すでにもう先が永くなく、何日か前に若松屋を離れて故郷に帰されたのだと知らされる。

 「そうですか。……いい子でしたがね。」/ 思わず、溜め息と共にその言葉が出て、僕は狼狽し、自分で自分の口を覆いたいような心地がした。

 橋田氏はうなずき、トシちゃんが、冬の夜中の二時でも三時でも、二階から声をかけると「ハイッ」と気持よく返事をして、いやな顔ひとつせずにお銚子を運んでくれたこと、二階からダダダダと転げ落ちるようにトイレに駆け込んだのも、ミソを踏みつけるほど慌てなければならなかったのも、おしっこを盛大にこぼしたのも、みんな病気でトイレが近かったせいであり、しかも、トイレが近いにもかかわらず、少しでも自分たちの傍に居たくて、ぎりぎりまで我慢していたせいであること、そして、階段を登るさいのドスンドスンも、からだが大儀で、それでも無理して、自分たちのために務めていてくれたのだろう、と述べる。

 僕は立ちどまり、地団駄踏みたい思いで、/「ほかへ行きましょう。あそこでは、飲めない。」/「同感です。」/ 僕たちは、その日から、ふっと河岸を変えた。

 こうしてこの短編は終わる。ほかの常連たちはいざ知らず、少なくとも「僕」と「橋田氏」のふたりは、「眉山」のいない若松屋にはもう二度と行かなかった。彼女のことを思うとやり切れないし、今さらながら申し訳ない気持もあるし、また、彼女の面影がそこここに残っている場所で、笑ったり、騒いだりすることが忍びなかったのであろう。

 罪ほろぼしと呼べるのかどうかはわからない。たんなる自己満足だといわれたら、たしかにそれはそうかもしれない。しかし青春とは常に傲慢な時期で、自らの傲慢さに気がついたとき、ひとはその分だけ大人に近づくのだと思う。青春の傲慢さと残酷さ、そして、そのことに気がついた瞬間の苦さを一編のなかにまざまざと留めて、やはり太宰は名手であった。




戦後短篇小説再発見・第1回・太宰治「眉山」その①

2014-09-29 | 戦後短篇小説再発見
 引っ越しのあとの「ダウンワード・パラダイス」では、とりあえず二つのカテゴリを立てている。ひとつは「純文学って何?」で、これは文学についての「総論/概論」だ。もうひとつが、「戦後短篇小説再発見」で、これが各論ということになる。前のダウンワード・パラダイスから記事を引き継いでいるのは、今のところこれだけである。これまで書いた第一回分と第二回分とを転載する。読み返してみたら少し不備が目に付いたので、数ヶ所に手を加えた。

☆☆☆☆☆☆☆



 講談社文芸文庫の『戦後短篇小説再発見』は良い企画だった。2002(平成14)年に全10巻が出て、好評につき翌2003年に全8巻が追加された。計18巻のシリーズとなったわけである。いまは残念ながら売れ行きの芳しくない巻は品切れとなっているようだが、いやしくも純文学を志す者なら一度は目を通しておきたいシリーズであり、ことに第1期の全10巻は、できるなら手元に置いて繰り返し味読するのが望ましい。

 『戦後短篇小説再発見』はテーマ別編集になっている。その記念すべき第1巻のサブタイトルは「青春の光と影」。ご存じジョニ・ミッチェルの代表曲の邦題でもあり、同じ邦題をもつアメリカ映画も1960年代末期に公開されている。つまり、いかにも「あの時代」くさいタイトルであり、これは編者たち(井口時男、川村湊、清水良典、富岡幸一郎)がもろ「あの時代」に青春を過ごした世代ってこともあるし(富岡さんだけは少し下だが)、半分くらいは「狙って付けた」ということもあるかとも思う。本人たちは「狙った」つもりでも傍から見ると外してるケースはままあるわけだが、しかしぼくがアタマをひねっても、これに代わるサブタイトルは思いつかない。くさいけれどもしょうがない、といった感じで、ひょっとしたら「青春」ってものが元来そういうもんなのか……とも思う。

 この記念すべき第1巻の記念すべき巻頭作品、つまり全18巻の筆頭を飾るトップバッターは、やはりというか流石というかダザイであった。選ばれた作品は「眉山」。1948年の3月に発表された短編で、彼はその6月に入水自殺(心中)をしているから、まだ40歳前とはいえ、最晩年の作品ってことになる。

 眉山(びざん)とは徳島県徳島市に実在する山の名で、さだまさしがここを舞台に小説を書いた。絵柄としても綺麗だし、一般受けするお涙ちょうだいの素材だったので映画やドラマにもなって、今となってはこちらのほうが有名だろうが太宰の眉山はこの山とはまったく関係がない。明治時代の作家、川上眉山を指しているのだ。といってもべつに川上眉山その人が登場するわけでもなく、この作家にちなんだ綽名を付けられた飲み屋の「女中さん」を描いた話なのである。

 「これは、れいの飲食店閉鎖の命令が、未だ発せられない前のお話である。」

 この一行から小説は始まる。作品が発表された頃の読者にはすぐ分かったろうが、「飲食店閉鎖の命令」なんて言われても、ぼくらには何のことだか分からない。こんな話は学校の授業で教わらない。なんでも終戦から二年後の1947(昭和22)年に、食糧危機の対策として、外食券食堂などを除き、全国で約33万軒の飲食店が閉鎖されたらしいのである。戦時中の食糧難については知っていても、敗戦ののち二年経ってからそんなことになっていたなんて意外だと思う人も多いのではないか。しかし思えば、「焼け跡・闇市」といわれるのはこの時代である。つまり表のルートでは満足な食料が手に入らぬので、「闇」のマーケットが成立し、庶民はそれで露命をつないでいたわけだ。そして、太宰がこれを書いた1948年3月の時点で、どうやらこの「閉鎖」はまだ解かれてないようだ。いちおう回想ものだけど、ライブ感に満ちた話でもあるのだ。

 「新宿辺も、こんどの戦火で、ずいぶん焼けたけれども、それこそ、ごたぶんにもれず最も早く復興したのは、飲み食いをする家であった。帝都座の裏の若松屋という、バラックではないが急ごしらえの二階建の家も、その一つであった。」

 冒頭の一行に続くくだりがこれだ。してみると、1945年8月の敗戦のあと、裏ルートではわりあい早く、飲食店が開業できるくらいの物資が出回るようになったらしい。庶民の逞しさを感じるが、それがお上から閉鎖命令を受けたということは、ここでいったん統制を強めて、その種のルートを断ち切ろうという政策が行われたわけだろう。

 引用した一節のあとで、二行の会話が挿入される。「若松屋も、眉山がいなけりゃいいんだけど。」/「イグザクトリイ。あいつは、うるさい。フウルというものだ。」 ここで読者の前に表題の「眉山」という名が示されるわけで、この呼吸がいかにもダザイである。うまい。イグザクトリイだのフウルだの、わざわざ無理に横文字を入れるあたりも太宰調だが、ただしこれは、たんに気障ぶっているだけでなく、戦時中は「敵性語」として英語が禁じられていたので、そのことへの皮肉も含んでいるかもしれない。

 「眉山」という固有名詞は出たものの、それが誰のことを指すのかは示されない。すぐには説明しないのだ。「若松屋」という「飲み食いをする家」のほうが、先に説明されるのである。ツケがきくうえに、わがままも通るし、居心地がよいので三日にいちどはその店にいき、二階の六畳でぶっ倒れるまで飲んでそのまま雑魚寝する。若松屋とはそういう飲み屋で、ようするに溜まり場である。この語り手はわりと知られた物書きであるらしく、飲み友達にも著名な文化人が多い。むろん太宰本人がモデルなんだろうけど、それならもう三十も後半で、ちゃんと妻子もいるはずだ。なのにこの生活態度は家長というよりどう見ても若者のそれである。だからこそ「青春の光と影」の巻頭作品として選ばれたのだ。

 「眉山とは誰か?」という疑問を宙吊りにしたまま、舞台となる若松屋の紹介を手際よく済ませ、おかみさんをはじめ、そこの従業員が「小説家」に敬意を抱いている旨が述べられる。ちょっとしたスター扱いであり、わがままがきくのはそのせいだろう。娯楽の乏しい時代だから、そういうことはあったと思う。ことに「女中さん」のトシちゃんは、幼少の頃より小説がメシより好きだったとのことで、語り手の「僕」にはもちろん、「僕」の連れてくるお客たちにもいつも好奇の目を向ける。「僕」が連れてくるのは作家に限らず、画家などもいたりするのだが、トシちゃんは、みんな小説家だと決め込んでいる。ところが、憧れだけが先行し、知識が伴っていないので、「僕」は彼女を小馬鹿にして、でたらめばかり教える。

 「頭の禿げた洋画家」を「林芙美子」だと紹介し、トシちゃんが戸惑うと、だって「高浜虚子」も「川端竜子」も男性じゃないか、と言いくるめる(念のために言っておくと、これは本当だ。ただし「こ」ではなくて「し」と読むのだが)。インターネットやテレビはおろか、新聞や雑誌にカラー写真さえ載らない時代だ。トシちゃんはたしかに無学なのかもしれないが、それをこんなふうにからかうのは、ひどい。このあたりもまた、40近い妻子もちの男の所業ではなく、いかにも「若僧」(もっとはっきりいうなら、ガキ)だねえという感じだ。

 そしてトシちゃんは「僕」が連れてきたピアニストの川上六郎のことを、姓だけ聞いて「川上眉山」だと早とちりする(最初にも記したとおり、川上眉山は明治の作家で、その当時から見ても40年近く前に没している)。「僕」は彼女のあまりの無智にうんざりし、「馬鹿野郎!」と怒鳴りつけ、その日からトシちゃんの綽名は「眉山」になった。こうしてようやく、「眉山」のいわれが明かされるわけだ。

 「眉山の年齢は、はたち前後とでもいうようなところで、その風采は、背が低くて色が黒く、顔はひらべったく眼が細く、一つとしていいところが無かったけれども、眉だけは、ほっそりした三ヶ月形で美しく、そのためにもまた、眉山と言う彼女のあだ名は、ぴったりしている感じであった。」

 そんな女性はたしかに居る。けして美貌ではなく、垢抜けてもいないが、眉がきりりと整った女性。ぼくもひとり知っている。その女性はむろんこの眉山とはかなり違うが、けっこう似ているところもあった。今はもうこの世にはいない。あっ、こんな人のこと知ってるぞ……と思わせるのは、やはりこの短編が名作ってことなんだろう。

 「僕」の知り合いの常連のなかには、若松屋のことを眉山軒などと称する者も出てきた。それだけ眉山ことトシちゃんのキャラが立っていたってことだけど、しかし、キャラが立つのと「うざい」のとは紙一重なわけで、冒頭の会話からも知られるとおり、彼女の「無智と図々しさと騒がしさ」は、インテリ常連たちから軽蔑され、疎ましがられている。

 「下にお客があっても、彼女は僕たちの二階のほうにばかり来ていて、そうして、何も知らんくせに自信たっぷりの顔つきで僕たちの話の中に割り込む。」 ……それでたとえば、「基本的人権」という単語が出たら、「それはいつ配給になるんです?」などと口を挟んで一堂をシラケさせたりする。「人権」を「人絹」(ナイロン)と間違ってるわけだ。

 このあたりからしばらく、眉山ことトシちゃんの嫌われっぷりが、会話形式でテンポよく綴られる。誰がどの台詞を口にしたかはいちいち表記されない。語り手をも含む常連たちの雑談という体裁である。こういう呼吸を見ていると、やはりダザイってのは天性の語り部だったんだなあと改めて思う。作家っていうより手練れの落語家の話芸に近い。

 噂話・陰口という手法を用いて、しかしここでは眉山について、地の文よりもはるかに多くの情報がどっさり読者に提示されるのである。まず、彼女が御不浄(トイレ)で盛大におしっこをこぼしたという件。こういう下ネタが太宰は好きだ。あまりにも有名な『斜陽』の冒頭シーンを誰しもが連想するところだろう。

 これはたんなる悪趣味というのでなく、登場人物に生々しい肉体を与えるテクニックと解するべきで、小説を書くうえでの参考になるが、もちろん、多用しすぎると下品になる。太宰はこのあともういちどこの「おしっこ漏らし」の挿話をスケールアップして持ち出してくるが、それだけやってもぎりぎり下劣に堕さないあたりはたいしたものだ。

 もうひとつ、眉山の生家は静岡の小学校(!)で、彼女はそこの「小使いさん」の娘だという事実もここで語られる。この「小使いさん」という単語も、「女中さん」と同じく今は差別用語扱いになっている。今は「管理作業員」というのであろう。しかし作品の書かれた時代背景を考えるうえでは、現代の用語に置き換えてしまっては意味がない。昔はどうも、この「小使いさん」が夫婦で学校に住み込み、そこで子供まで成す、ということがふつうにあったようである。とはいえ、そうやって生まれた子供はたぶんもう十代のうちにそこを出て、早々に自分ひとりで生計を立てねばならないことは容易に推察できる。だからトシちゃんが少々がさつで無学だとしても仕方あるまい。それなのに、少しは名の知れた「文化人」たちが雁首を並べて彼女のことを笑いものにしてるんだからひどいもんである。

 その②へつづく。

「文学」の外側にあるもの。

2014-09-28 | 純文学って何?
 初訳からほぼ30年を経てこのほど文庫化された『文学とは何か』(岩波文庫 上下)のなかで、テリー・イーグルトンはこう書いている。「この本のなかで私たちは、文学理論の諸問題について考えてきた。しかし、すべての問いのなかでも、もっとも重要な問いが、まだ答えられないまま残っている。文学理論の意義とは何か、そもそもなにゆえに文学理論に頭を悩ませなければならないのか? コードやシニフィアンや読書主体といったことよりも、もっと深刻で切実な問題が、世界にはあるのではないか?」(下巻 P155 終章―政治的批評より)

 まったくもってそのとおりであり、ぼく自身、こうやって文学の話を書きながら、なんとも迂遠なことをしているなあ……というもどかしさはある。引っ越し後の「ダウンワード・パラダイス」は、当面のあいだブンガク専門サイトとして続けていくつもりだが、世の中には、もちろん、ほかにブログで取り上げるべき喫緊の事柄があまた犇いているのである。冒頭に掲げた一文のあとでテリー・イーグルトンは、全世界に配備された核ミサイルのことを述べているけれど、今の私どもなら、そうだなあ、原発の問題もあるし、集団的自衛権の問題もあるし、日本全体の貧困化という問題もあろう。文学について考察することが、いや、さらに言うなら、文学に携わる行為そのものが、そういった深刻なトピックから逃避するための知的遊戯に過ぎないとしたら、文学者はおしなべて高等遊民と見なされても仕方ないだろう。

 ご存知の方もおられようが、イーグルトンはイギリスの労働者階級出身の文芸批評家であり、マルクス主義に依拠している。『文学とは何か』は、近代西欧社会における本格的な文芸批評の誕生から、解釈学/受容理論、構造主義/記号論、ポスト構造主義、精神分析批評を経て、カルチュラル・スタディーズやフェミニズム批評までを総ざらいした好著だが、その根幹を、マルクス主義(的な問題意識)ががっしりと貫いているからこそ、本国はもちろん他の国でも、たんなるお勉強用の入門書に留まらぬ支持を集めたし、今も集め続けているのである。

 だからもちろんイーグルトン自身は、この著作のなかで、文学理論、ひいては文学という制度そのものが、現実の社会における生々しい政治的な力学の産物として私たちの前に形成されてきた/今も形成されていることを繰り返し強調する。そのようにして形成された「文学」は、誰しもが推察できるとおり、ほとんどのばあい既往の「権力」を補完し、その勢力をより強める方に働くというわけである。ところで、ここからはもう、イーグルトンから離れていくことになるけれど、社会への影響力でいうならば、いまの日本にあって、かつて「文学」が担っていた役割を務めているものは、「文學界」「群像」「新潮」「すばる」といった四大文芸誌に載る小説でもなければ、むろん大学の文学部で研究される作品群でもない。

 「文學界」「群像」「新潮」「すばる」といった四大文芸誌に載る小説(すなわち純文学)や、大学の文学部で研究される作品群(すなわち古典)は、とにかく哀しいくらい読まれないんだから社会への影響力を持つべくもない。「だから純文学の雑誌なんぞ廃刊しちまえ。大学の文学部だって、人間総合科学部とかなんとか、なんかよく分かんないけどそれっぽい、イマっぽい名前に代えて再編成すりゃいいだろう」と乱暴なことを言う人もおり、じっさいに、幸いにして文芸誌はまだ存続しているが文学部のほうは絶滅の危機に瀕してたりもする。もちろんぼくは、そんなのはとんでもない話であると思ってるわけだが。

 世に蔓延しているのはアニメでありマンガでありライトノベルである。ぼくはラノベのことはぜんぜん知らぬがアニメやマンガのなかには大好きな作品もあり、これらを一括りにして裁断するつもりはない。しかし、客観的にいってこれらのジャンルがほぼ95%以上ファンタジーに属していることは指摘せざるを得ないだろう。ファンタジーとはなにも、道をぽくぽく歩いていたらいきなり空から露出の大きい服を着た美少女が落ちてきて、なぜかその日から自分の部屋に同居することになる……といった類いの荒唐無稽で楽しそうな設定の話をいうのではない。私どもを取り巻く外面的・内面的な数々の「危機」を作品世界から排除し、ぬくぬくと自足(自閉)した「自分たちだけの空間」に甘んじているメディアのことをまとめて私はそう呼びたいのだ。

 その意味では「サザエさん」もファンタジーといえる。むろん慰みとしてそういうものがあってもいいが、芸術表現の95%以上をそればかりが占めるというのはやはりおかしい。また、この考えをもっと拡張することもできる。つまり、私どもを取り巻く外面的・内面的な数々の「危機」を排除し、ぬくぬくと自足(自閉)した「自分たちだけの空間」に甘んじているというなら、テレビのバラエティー番組などはまさしくそうだ。これは前々から思っていながら、「旧ダウンワード・パラダイス」では結局取り上げられなかった件のひとつだが、テレビのバラエティー番組は、紛れもなくひとつのイデオロギー装置として私どもの前にあるわけだ。このニッポンに大江健三郎を知らないバカが、いや失礼、ゆとりが、いや失礼、若者がもし居たとしても、タモリを知らないってことは考えられない。それは異常な事態なのだが、その異常さが当たり前のものになってしまったのが私どもの戦後社会なのである。

 「純文学」は、そのようなものであってはならない。ファンタジーであってはならない。それはSF的、ないし幻想的な手法をとっちゃいかんということではない。安部公房を思い浮かべればよくわかる。またもちろん、言語遊戯を伴ってはダメだという話でもない。現代文学はジェイムス・ジョイスから始まっていて、ジョイスは言語遊戯の達人であった。現代文学と言語遊戯とは不可分のものだ。だからぼくは、純文学はリアリズム(写実)でなければいけないなどと、ひところのプロレタリア文学理論のような素朴なことを言っているのではない。

 「純文学はファンタジーであってはならない」とは、私どもを取り巻く外面的・内面的な数々の「危機」を作品世界から排除し、ぬくぬくと自足(自閉)した「自分たちだけの空間」に甘んじていてはいけないよ、という含意である。直接に題材として取り扱うかどうかは別として、純文学は、今回の記事の冒頭でぼくがいくつか挙げたような切実な問題群と、必ずどこかで関わりを持っていなくてはならない。つねに「文学」という制度の外部とつながりを保っていなくてはならない。それこそが真のリアリズムである。逆にいえば、そのような「リアリズム」に支えられていなければ、現代における純文学の存在意義はそれこそ疑わしいものになるだろう。

 次回以降も引き続き純文学について考察していきたい。

「物語」の登場人物になることの危うさ。

2014-09-22 | 純文学って何?
前回の記事に対して、常連の「かまどがま」さんから、「つまり物語とは共同幻想のことでしょうか?」というコメントを頂いた。詳しいことは前回のコメント欄を参照して頂ければ幸いだが、あらためて繰り返すならば、「物語」とは確かに共同幻想に近いけれども、キャラやプロットや舞台設定などの点で、より緻密に構造化されたものだといえるであろう。何といっても物語ですからね。

 神話をはじめ、民話(昔話)、伝説、童話などといったものは典型的な物語だ。現代においても幅広い人気を集める娯楽作品は必ずやその構造を内包している。「冒険もの」でいうならば、「主人公」が「助っ人」の力を借りて「悪者」の魔手から「囚われの姫」を救い出すというのが分かりやすい例で、宮崎駿の『天空の城ラピュタ』は完全にその様式に則っている。

 だから、前回の記事でぼくが「物語」のことを、「《世界》に意味を付与するもの、もっと言えば、《世界(社会)のなかを寄る辺なく漂う私》に《生きることの意味》を与えるもの。」だと定義したのはやや説明不足であった。正確にいえば、ひとは自らが「物語」のなかの有力な登場人物(キャラ)として位置づけられた時に《生きることの意味》を与えられ、充足感に満ちるわけである。

 ナショナリズムが最大最強の「物語」たりうるというのはそれゆえだ。「国家」の成員として「祖国」を護って「敵」と戦うというのはこのうえもない生の動機づけになる。ただ、本当はさらにこれを凌駕する物語がないわけではない。この日本でもかつて、「人類全体の霊的進化」のために無差別殺人を実行した教団があった。その20年ほど前には、「革命=プロレタリアートの解放」の名の下に殺人を犯した集団もあった。

 そういった「教義」や「イデオロギー(政治的理念)」もやはり「物語」の変種である。しかも、自分たちをその物語の主人公として「歴史」や「社会」を主体的に変革していく担い手に擬しているから厄介なのだ。そこでは殺人さえも正当化される。宮台真司のような人は、90年代の後半において、「そのような《大きな物語》を希求することなく、いかに退屈で詰まらなかろうと、今のこの《終わりなき日常》をまったりと生きよ。」という意味のことを述べていたはずである。

 しかるにそれからさらに20年がすぎて、あらためてナショナリズムが「大きな物語」として立ち上がってきている。ぼくはそれに懸念を抱くが、「物語」を希求し、あわよくば自らもその中の有力なキャラになりたいというのが人間の本性である以上、やむをえないとも思う。しかし「物語」の蔓延を押し留めるのは難しいけれど、どうにかして、少しずつでも物語を「解毒」していく手立てはないか。微力ながらも「純文学」はそんな役目を負えないだろうか。

 じっさいには「純文学」はてんで読まれてないわけで、正直いって読まれないものに役目もヘチマもあるものか。しかしぼくにはもはやそれくらいしか「物語」に抵抗する手立てが見当たらぬのである。あとは、かまどがまさんへのご返事にも書いたが「フェミニズム批評」も含む「批評的言説」くらいだろうか。このブログなどもその一環のつもりなのだが、「読まれない」という点では「純文学」よりもさらに深刻なような気もする。ともあれ次回は「純文学」の特性について考えてみたい。


引っ越し後の最初の記事は、「物語」について。

2014-09-16 | 純文学って何?
 OCNのブログサービス打ち切りによる引っ越しを期に、2009年8月からの過去記事をすべて別のところに移して、本日からまた新たな気分でブログを始めることにした。これまではいささか雑然としすぎていたので(まあ、ブログってのはそういうものではあるのだが)、もう少しテーマを絞り込み、堅牢なものにできたらと思う。具体的には、「死んだ死んだ。」ともう30年近くにわたって言われながらもまだどうにか生き延びている「文学」という制度について、自分なりにきちんと考えてみたい。もういちど「文学」という制度について考察を深めるとともに、「文学」という制度を通して、今のニッポンについて考察を深めてみたいとも思うのだ。


 ここでいう「文学」とは「純文学」を指す。「純文学とは何ぞや?」という設問は、「通俗小説/大衆小説/娯楽小説と純文学との違いは何か?」という設問にほぼ等しいが、これに明快な答を与えることはたやすくはない。大塚英志のような人は、皮肉をこめて「文芸誌文学」という呼び方をする。「文學界」「群像」「新潮」「すばる」のいわゆる四大文芸誌に載る小説という含意である。むろんこれでは本質的な説明にはなっていないが、この件に関してはいずれまた色々な角度で扱うことになるだろうから深入りしないことにして、ひとまずここでは、「純文学とは、文學界や群像や新潮やすばるに載るような小説のこと」と、ぼくも大塚氏に便乗させていただこう(念のため言うと、「芥川賞」という権威によって選別されれば、晴れて『文藝春秋』に転載の栄誉にも浴するわけだが)。


 ぼく自身はこの「純文学」にこだわっている。それにはいくつか理由があるが、ひとつには、「物語」に抵抗しうる手段として、この「純文学」が今でもおおいに有効であると信じるからだ。しかし、こんな言い方ではちょっと何言ってるんだかわからない。説明しよう。「物語」とは、昔むかしあるところにお爺さんとお婆さんが、とか、シンデレラがかぼちゃの馬車でうんぬんといったあの「物語」とは別の、さらにもっと大きな含意で使っている。「世界」に意味を付与するもの、もっと言えば、「世界(社会)のなかを寄る辺なく漂う私」に「生きることの意味」を与えるものが物語である。すなわち、宗教の教義なんかはいうまでもなく、ナショナリズムもまた「物語」たりうるということだ。それも十分に巨大かつ強固な物語である。


 先に名前を出した大塚英志はこう述べている。
「だが、例えば、たった今、日本を呪縛しているのも戦争に負け、マッカーサーに《十二歳の子供》と定義された《日本人》が、《民主主義》という誤った《母性》から離脱し《憲法》や《歴史》を書き換え、そして《強い父》である《アメリカ》に認められ《一人前の国家》になる、という《日本》をめぐる《ファミリーロマンス》に他ならないことに気づいた時、《神話》や《昔話》に起源が求められる、《偽りの父母に育てられた子供が自分の来歴を書き換え、強い父性に統合される》という《ファミリーロマンス》的な枠組に、いかにこの国の半端な近代が依存しているかがわかるというものだ。ネット上のナショナルな気分のマッチョぶりを無自覚に規定するのも、このような近代的言説が抱え込んでしまっているファミリーロマンス的な偏差に他ならない。」


 大塚氏にしては読みづらい文だが、言わんとするところはよくわかる。これは2000年代初頭、アメリカが仕掛けたイラク戦争の頃に書かれたものだが、2014年の現下のニッポンにおいていよいよ迫真性を増しているのは誰の目にも明らかであろう。ただ単にこれは、21世紀に入ってからの日本の歩みが構造的(物語論的)にそう分析しうるという話ではない。私どもの心性そのものが、「偽りの父母に育てられた子供が自分の来歴を書き換え、強い父性に統合される」という「物語の呪縛」に深いところで囚われてしまっているということだ。この辺りの心情を、保守派の論客の語法をもちいて露骨にはっきり言うならば、「押し付けられた平和憲法の下での戦後民主主義はすべて欺瞞であり、そこで語られた歴史も一方的な東京裁判に基づく自虐史観であった。すみやかに憲法をかえて自衛隊を軍に昇格させ、真にアメリカの盟友(実は子分なんだけど)にふさわしい一人前の国家になれ。そして歴史教科書も書き換えよ。」といったところか。


 ところで、物語論になじみのない方には、「ファミリーロマンス」という用語がわかりづらいかもしれない。もともとはフロイトの概念で、エディプス・コンプレックスといえば何となく聞いた覚えがあるのではないか。「息子」は「父」を殺し、「母」を犯すことによって成長する、つまり一人前の大人になるというやつだ。もとよりここでの「殺害」なり「侵犯」とは象徴的な意味なのだが、この構造が古今東西、ありとあらゆる「物語」のなかに伏在しているのはぼくも認める。しかし「息子」はそうだとしてもじゃあ「娘」はどうなんだよ?という疑念もあり、今日の見地からはまだまだ考察の余地はありそうだ。ともあれ、ここでいう「ファミリーロマンス」とはそのような含意なんだけど、戦後ニッポンのばあい、父としてのアメリカは主神ゼウスのごとくあまりにも強大で「殺す」ことなど思いもよらぬので、せめて盟友(実は子分)として「承認」して貰おうと切望しているわけである。歪んで矮小化されたファミリーロマンスなのだ(泣)。


 それが現下のこの国を覆っている「大きな物語」であり、安倍晋三なる人格は、そのような物語=ファミリーロマンスを肉体化・具現化した総理大臣である。私どもがそのような首相を高い支持率で支えていて、だからとうぜん政治日程はその物語に沿って進んでいる。この辺りの事情をもう少し微分するならば、新自由主義の進行によってアトム化し、希薄化した個々の「私」が拠りどころを求めて大きな「物語」に自らを委ね、平成ふうにアレンジされたナショナリズムへと回収されている、といった感じになろうか。図式的すぎて情けなくなるが、いろいろなことが図式的というかマンガ的になりつつあるのが「現代」のひとつの特徴かもしれないとは思う。


 このような「物語」は戦後この方ずっと底流にはあって、政治家の「失言」とか、または「右派」の言説として定期的に浮上してはいた。それがここまでの力を持ち始めたのは90年代の半ばからで、その背景にはバブル崩壊以降の慢性的な不況、ソ連(理想的な未来像としての共産主義の幻想)の解体、阪神大震災とオウム事件、相次ぐ未成年の凶悪犯罪、北朝鮮による拉致問題の発覚、韓国における反日運動の激化、そして中国の経済的・軍事的台頭、といったような要素があった。小林よしのりというじつに分かりやすい扇動家=商売人もいた。しかし結局は、私どもの依拠していた(はずの)「戦後民主主義」が、さらにいうならそれこそ私どもの「近代(的主体)」が、それしきのことでグダグダになっちまうほど脆弱なものにすぎなかったって話で、これまた情けないかぎりだけども、そこは大塚英志に限らずとも、多くの心ある方々がさんざん指摘しているとおりだ。


 先の引用は『更新期の文学』(2005年。春秋社)からのものだが(P126)、ほかにも大塚英志はその名も『戦後民主主義のリハビリテーション』(角川文庫)といった本などを出し、一貫して「戦後民主主義」、および歴史観も含めた「戦後民主主義的なるもの」を擁護する立場に立って発言している。ぼくはその多くに共感するけど、大塚氏が戦後民主主義ならびに日本の「近代」との絡みで論じる「純文学(文芸誌文学)」についての意見は首肯できない。冒頭部分に記したように、おそらく「純文学」だけが、今回縷々述べてきたような「大きな物語」に抵抗しうるメディアである、いや少なくとも、「抵抗しうる可能性をもつ」メディアなんじゃないかな、という感触をぼくは抱いており、大塚氏はそんなことぜんぜん思ってもいない。「純文学(文芸誌文学)」に向ける大塚氏の視線が頑なすぎるのか、ぼくが純文学に対して甘い理想を持ってるだけなのか、その点がいまいち分からなくて、次回以降もそういったことを問題にしていくことになると思う。