これは『宇宙よりも遠い場所』というアニメをきちんと論じるエッセイであり、「物語をより深く楽しみたい」「自分でも物語をつくりたい」という若い人のために、この優れたアニメを素材として、「物語」とは何かを考えるエッセイでもある。
ここまで書いたなかで、わざと言及を避けてきた重要なキャラクターがいる。キマリの親友、幼なじみの高橋めぐみ(CV・金元寿子)だ。キマリは終始一貫「めぐっちゃん」と呼ぶので、ここでも踏襲させてもらおう。
「物語論」の観点からすると、ぼくには、めぐっちゃんがとても興味ぶかく思える。肝心の4人をさしおいて、めぐっちゃんのためのメモを書いたくらいだ(9月30日の記事)。
報瀬とキマリ、そして日向、結月。この4人は解析しやすい。ここまでやってきたとおりだ。だが、めぐっちゃんはどうか。
キマリはなにしろ主人公だから、第1話の冒頭から登場する。それも、まず幼い頃の姿で登場する。短いカットで詳細は定かじゃないが、幼稚園の砂場で遊んでいるらしい。そこで、とても大切なモノローグが映像にかぶせられるのだ。
澱んだ水が溜まっている。
それが一気に流れていくのが好きだった。
決壊し、解放され、走り出す。澱みの中で蓄えた力が爆発して、すべてが動き出す。
砂で台地をつくり、中央を陥没させて水を溜め、そこに葉っぱの舟を浮かべて一角を崩すと、どっと流れ出る。そんな遊びをやってるようだ。ただ、この時は視聴者にはその意味はまだわからない。
それで場面はすぐにかわって、現在のキマリになる。散らかり放題の自室のベッドで寝汚(いぎたな)く惰眠を貪って、母親から顔に濡れタオルをかぶせられる(コワい母親なのである)。
じつは冒頭の砂場では、傍らに幼い頃のめぐっちゃんがいたんだけど、これも第5話にくるまでわからない。
これも5話まできてはっきりすることなのだが、だらだら、うだうだしていたキマリは「澱んだ水」のなかにいたわけだ。大半の高校生なんてそんなもんだと思うし、げんにぼくだって完全にそうだったけれど、キマリは根が立派な娘さんなので、敢然とそこから脱出をはかる。
キマリにとって「澱んだ水」とはめぐっちゃんだった。いや、この言い方は正確じゃない。めぐっちゃんとの関係性、めぐっちゃんと共に在ることの安逸こそが、キマリにとっての「澱んだ水」だった。
だからキマリの「ここではない何処かへ」は、「めぐっちゃんのいない何処かへ」でもあった。キマリがこれから向かう先には、めぐっちゃんはいない。
ただ、(ここがとても大事な所なんだけど)それはけっしてめぐっちゃんとの訣別ではない。めぐっちゃんが嫌いとか、ダメとかいう話じゃないんである。あくまでも、自分とめぐっちゃんとの「関係性」、それを変えたいと切望しているわけだ。
だから、日本を離れて南極に行こうと、めぐっちゃんはずっと大切な友達であり続ける。先のことはわからない。自分はまた帰ってくるし、帰ったあとで自分とめぐっちゃんとの関係性がどうなるか、それはぜんぜんわからない。でも今は、自分は行く。旅に出る。
キマリとしては、そういう気分のはずである。
ここをしっかり押さえておかないと、オーラス、あの第13話のすばらしいオチの感動があやふやになってしまう。
めぐっちゃんは、そんなキマリの姿勢を受けて、自分なりのサイコーの答えを返したのだ。そうか。オマエは南か。だったら私はこっちだよ、と。
これでまた、ニッポンで顔を合わせた時に、友達として、良き「ゲームの相手」として、お互いがどんな関係性を築けるか、それが楽しみだよな、と。
つまりはそういうことなのだ。そうでなきゃ、めぐっちゃんの壮挙は、たんなるイヤミに見えかねない。
13話より。すべてを締め括るラストカット。めぐっちゃんも髪を切っている。
キマリは、「ここではない何処かへ」というテーマを担っている。
前に述べたとおり、これは青春ものの王道というべきテーマである。脱出願望といってもいい。もうこんな所にはいられない、だから此処とは違う場所に行く。ただ、従来の「物語」であれば、主人公が「もうこんな所にいられない」と愛想をつかす理由というのは、ひどい貧困だったり、古い因習に縛られた村落共同体だったり、抑圧的な父親であったり(往々にしてそれらは一緒くたになってたりもするのだが)したわけだ。
キマリみたいな現代のティーンエイジャーならば、「べたべたと纏わりついてくる過干渉の母親」なんかもじゅうぶん「脱出願望」のきっかけになりうる。これは女子のみならず現代の男子においても切実な話だ。しかし、キマリの母はけしてそういうタイプではないし、父親も物分かりのよさそうな人だし、家もまあまあ中流なので、とりあえず、それは理由にならない。
そもそもこのアニメでは、「家族」がさほど前面に出てこない。EDのビリングを見ても、キマリの妹には「リン」という名が与えられてるのに、両親は「キマリの母」「キマリの父」である。バカボン一家じゃないんだからさ。
報瀬の家族も祖母だけで、父親のことは語られないし、日向の家族も一切出ない。結月も、マネージャーを兼ねる母親が出るだけだ。
「家族」という要素をできるだけ捨象しているのだ。そうすることで、散漫になるのを防いでいる。
その代わりに、徹底して照射されるのが「友達」だ。友達とは何か。その問いを前面に押し立て、友達どうしの関係性を突き詰めた。だからこそこれだけの凝縮度を得たのだ。
だから『宇宙よりも遠い場所』においては、ぼくたちが生きる現実の人生よりも、さらにまた、他のふつうの物語よりも、「友達」の占める比重が大きい。本来ならば「家族」が果たすべき任務まで背負う。
めぐっちゃんは、容姿に似合わずぶっきら棒な口調なので、なんだか荒っぽい彼氏みたいにも見えるけど、やはり娘を甘やかし、知らず知らずに支配してしまう「母親」の代理とみるべきだろう。
だからキマリの「ここではない何処かへ」は、「分離」を経ての「自立」のための旅でもある。
めぐっちゃんは、第1話のアタマからすぐ登場する。これは物語論というより「作劇術」といったほうがいいが、能でいう「シテ」と「ワキ」というやつで、「シテ(主役)」であるキマリの相手となって会話をしたり、行動したりすることで、キマリの心理や、これまでの経緯、現在の状況といったものを視聴者に提示していく役回りだ。
キマリの脱出願望は、ここではまだ不定形で未熟なものだったけど、彼女はそれをめぐっちゃんに向けて訴えることで、ぼくたち視聴者に伝えたわけだ。
「一度だけ学校をサボって旅行したい」とキマリがいうので、めぐっちゃんは「とりあえずやってみればいだろう」と協力する。しかしキマリは、朝早く私服をバッグに詰めて家を出たまではいいが、いざ、いつもとは逆方向の電車に乗ろうとすると、怖くなって引き返してしまう。
めぐっちゃんはそんなキマリに「だめだなあ」「仕方ないなあ」と呆れ顔をするが、そんなやり取りを繰り返すことでこのふたりは、「澱んだ水」のなかを心地よく漂っているわけである。
参考画像。1話より