映像作品ってものは、ひとつのカット、一連なりのシーンが、重層的な意味をもつ。ストーリーラインを前に進めるためだけでなく、その裏側に、さらにべつの意味を隠し持ってるわけだ。それこそが作品ぜんたいの厚みとなる。優れた映像作品ほど、その「裏の内実」が分厚いのだ。
それを100%読み取るのは、ことに初見では大変だけれど、読み取れるものなら、なるべく多いに越したことはない。
べつに難しいことを言いたいんじゃない。ぼくたちがドラマやアニメを見るさい、それと意識することなく、ふつうにやってることである。
第1話の冒頭、散らかり放題の自室のベッドで寝汚(いぎたな)く惰眠を貪るキマリ。その枕元(?)に本が積み上げられており、そのなかに「ROMANCE」という少女漫画雑誌がみえる。
キマリの「ここではない何処かへ」という願望を「ロマンス」のひとことでまとめていいかどうかはわからないけれど、日常からの逸脱って点では、確かにそれはロマンスだろう。
キマリのなかにはロマンスがある。しかしそれは、この時点ではまだ、しかるべき位置に収まってはいない。受験やら何やら、ほかの色んな事とごっちゃになってる。そういうことなのだ。
こんなのはまさに「序の口」で、『宇宙よりも遠い場所』には至る所にそういった「暗喩」が散りばめられているのだが、この例からもわかるとおり、それはけっして難解なものではない。むしろ図式的といっていいほどで、あまりにあからさまな時は、ほとんどギャグとして機能する。1話Aパートでは、校内のポスターや標識、英語の授業のリーディングなどを存分に用いて、この手の小気味いいギャグが炸裂していた。それゆえ事件らしい事件は起きずとも、こちらもしぜんに話の中に引き込まれた。
キマリと報瀬との「ガール・ミーツ・ガール」のあともその趣向はつづいた。駅の階段で黒髪の美少女の落とした封筒を拾ったキマリが、中を確かめる場面で、背後のポスターがこれである。
そして翌日、それを落とし主に返すべく、けんめいに探索するキマリは、この科目の教科書でその封筒を隠し持っている。
まだまだあるが、いずれにせよ、こういうのは作り手の「お遊び」に属することで、微笑を誘われる。ところが、そうやって楽しく眺めているうちに、メタファーが少しずつ切実なものへと変わっていくのだ。
時系列としてはさっきの2例より前になるが、ささやかな「ロマンス」を求め、学校をサボって小旅行を試みたキマリは、怖くなって引き返す。その時のカットだ。表向きの意味は「雨が降ってますよ」だけど、これは「とほほほ……やっぱ私、できないや」というキマリの涙だろう。
ちなみにこのカット、報瀬から「呉に行こう」と誘われた日の夜、自宅にてさんざん思い悩むキマリの回想として再利用されるが、そのとき彼女がベッドから台所に移動したのに合わせ、このカットが挿入される。
「滴る雫」によってキマリの心情と二つの場所とが見事につながる。このていねいな作り込みを目にして、「ああ、これはきっと名作になるな。」と確信をもったものである。
いうまでもなく全編を通しての最大・最高の「暗喩」は第12話の例のアレに決まってるけれど、これまで述べてきたところだと、第3話の「窓のストッパー」も忘れがたい。第1話・第5話の「葉っぱの舟」ももちろんだ。第2話で、いちど腹を立てた報瀬が気を鎮めてキマリの所に戻ってくる際の、赤信号が青になるカットもよかった。
こういう技法は、ありふれた日常のシンプルな舞台だからこそ生きるので、異世界もののファンタジーだったら、舞台装置や、周りの小道具などがあらかじめ異化されてしまっているため、使いづらい。
シンプル・イズ・ベストということでは、ぼくなどはいつも、A・タルコフスキーの『ノスタルジア』(1983年)で、たった一本の蝋燭(ろうそく)に灯した小さな火があたかも全人類の救済の象徴のように見えてくるシーンを思い出すのだが、ほかにも適切な例はあるだろう。
こんな話を始めたのは、第8話「吠えて、狂って、絶叫して」には、「これって暗喩、もしくは象徴だよなあ……リアリズムとして見ちゃったら、ここだけはさすがに呑み込めんなあ。」というシーンがあるからだ。
それは全編を通じてのベストテンに入れてもおかしくない名シーンなのだが、ここまでていねいに保ってきた一定のリアリティーを台無しにしかねぬような、危ういシーンでもあった。
もちろん見返すたびに涙は出るし、4人が南極に辿り着く前にこのイベントがなかったら絶対ダメだぞと思いもするが、それでもやはり、「うーん……」という声が漏れてしまうのは如何ともしがたい。
ぼくたちの生きる「現実」と、「物語」との関わりというか、もっというなら「相克」のようなものを、そのシーンを見るたび、考えさせられてしまうのだ。