ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

村上春樹がもっとも影響を受けた3冊。

2019-12-31 | 純文学って何?










 自らが翻訳した中央公論新社版のフィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』(2006年)のあとがきで、村上さんはこう書いている。


「もし『これまでの人生で巡り会ったもっとも重要な本を三冊あげろ』と言われたら、考えるまでもなく答えは決まっている。この『グレート・ギャツビー』と、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』と、レイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』である。」(333ページ)


 ノーベル賞を取りざたされるほどの作家がここまで手の内を明かすのは珍しくて、げんに大江健三郎さんにせよ、川端康成にせよ、こんなに明快に影響関係を語ってはいない。村上春樹の研究者は恵まれている。かもしれない。
 名翻訳家でもある春樹さんはこのあとチャンドラー『ロング・グッドバイ』も訳して、ハヤカワ文庫から出ている。さすがにロシア語まではアレなんで、『カラマーゾフの兄弟』には手を付けてはおられぬが(ハルキ訳の「カラマーゾフ」や『悪霊』を読んでみたい。という妙な欲望が正直ぼくにはあるのだけども)。
 もちろん、誰であろうと3冊の本だけで作品を書くことはできない。まして作家になることはできない。ざっと思い巡らせても、すぐにカート・ヴォネガット、リチャード・ブローティガンの名が浮かぶ。『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』という初期の2作はこの2人の影響下で書かれた。ことにヴォネガットは大きい。
 さらにはフランツ・カフカという巨人もいる。偉くなってからはあまり公言されなくなったが、一時はエッセイの中でスティーブン・キングの名前もよく見かけた。あのユニークな不条理感とホラーテイストは、「カフカとキングの幸福(?)なマリアージュ」と呼んでみたい気もする。
 そんななかで、ことさら「ギャツビー」「グッドバイ」「カラマーゾフ」を挙げるんだから、これはたんなる好みや趣味の問題じゃないのだ。ハルキ文学の根源にかかわる話なのである。

 『もういちど村上春樹にご用心』(文春文庫)というハルキ論をもつ内田樹さんはこう書く。


村上春樹の系譜と構造
http://blog.tatsuru.com/2017/05/14_1806.html


(一部を抜粋して引用)


 『羊をめぐる冒険』を書いた時に、村上春樹はある「共通の基層」に触れた。それは世界文学の水脈のようなものだったのではないかと僕は思います。時代を超え、国境を越えて、滔々と流れている地下水流がある。それがさまざまな時代の、さまざまな作家たちを駆り立てて、物語を書かせてきた。それと同じ「水脈」を『羊をめぐる冒険』を書きつつある作家の鑿(のみ)は掘り当てた。

 『羊をめぐる冒険』の「本歌」は『ロング・グッドバイ』です。勘違いして欲しくないのですが、それは村上春樹がレイモンド・チャンドラーを「模倣した」ということではありません。物語を書いているうちに、登場人物たちがそのつどの状況で語るべき言葉を語り、なすべきことをなすという物語の必然性に従っていたら「そういう話」になってしまった。それだけこの物語構造は強い指南力を持っていたということです。


 『ロング・グッドバイ』の「訳者あとがき」で、この二作品(「グッドバイ」と「ギャツビー」)の相似について村上春樹は言及しています。
「僕はある時期から、この『ロング・グッドバイ』という作品は、ひょっとしてスコット・フィッツジェラルドの『グレード・ギャツビー』を下敷きにしているのではあるまいかという考えを抱き始めた。」(レイモンド・チャンドラー、『ロング・グッドバイ』、村上春樹訳、早川書房、2007年、547頁)

 村上はこの二人の作家の共通点として、アイルランド系であること、アルコールの問題を抱えていたこと、生計を立てるために映画ビジネスにかかわったこと、「どちらも自らの確かな文体を持った、優れた文章家だった。何はなくとも文章を書かずにはいられないというタイプの、生来の文筆家だった。いくぶん破滅的で、いくぶん感傷的な、そしてある場合には自己愛に向かいがちな傾向も持ち合わせており、どちらもやたらたくさん手紙を書き残した。そして何よりも、彼らはロマンスというものの力を信じていた。」(同書、547-548頁)といった気質的なものを列挙していますが、もちろんそれだけのはずがない。二つの物語には共通の構造があることも指摘しています。

 「そのような仮説を頭に置いて『ロング・グッドバイ』を読んでいくと、その小説には『グレート・ギャツビー』と重なり合う部分が少なからず認められる。テリー・レノックスをジェイ・ギャツビーとすれば、マーロウは言うまでもなく語り手のニック・キャラウェイに相当する。(……)ギャツビーもレノックスも、どちらもすでに生命をなくした美しい純粋な夢を(それらの死は結果的に、大きな血なまぐさい戦争によってもたらされたものだ)自らの中に抱え込んでいる。彼らの人生はその重い喪失感によって支配され、本来の流れを変えられてしまっている。そして結局は女の身代わりとなって死んでいくことになる。あるいは疑似的な死を迎えることになる。

 マーロウはテリー・レノックスの人格的な弱さを、その奥にある闇と、徳義的退廃をじゅうぶん承知の上で、それでも彼と友情を結ぶ。そして知らず知らずのうちに、彼の心はテリー・レノックスの心と深いところで結びついてしまう。」(同書、550-551頁)

 「主人公(語り手)はとくに求めもしないまま、一種の偶然の蓄積によって、いやおうなく宿命的にその深みにからめとられていくのだ。それではなぜ彼らはそのような深い思いに行き着くことになったのだろう? 言うまでもなく、彼ら(語り手たち)はそれぞれの対象(ギャツビーとテリー・レノックス)の中に、自らの分身を見出しているからだ。まるで微妙に歪んだ鏡の中に映った自分の像を見つめるように。そこには身をねじられるような種類の同一化があり、激しい嫌悪があり、そしてまた抗しがたい憧憬がある。」(同書、553頁)

 この解釈に僕は付け加えることはありません。でも、村上春樹はこの「語り手」と「対象」の鏡像関係がそのまま『羊をめぐる冒険』の「僕」と「鼠」のそれであることについては言及していません。故意の言い落としなのか、それとも気づいていないのか。たぶん、気づいていないのだと思います。でも、どちらであれ、それは『羊をめぐる冒険』という作品が世界文学の鉱脈に連なるものであるという文学史的事実を揺がすことではありません。
むしろ重要なのは、なぜこの物語的原型がさまざまな作家たちに「同じ物語」を書かせるのかというより本質的な問いの方です。

 これについての僕の解釈は、これらはどれも「少年期との訣別」を扱っているというものです。

 男たちは誰も人生のある時点で少年期との訣別を経験します。「通過儀礼」と呼ばれるそのプロセスを通り過ぎたあとに、男たちは自分がもう「少年」ではないこと、自分の中にかつてあった無垢で純良なもの、傷つきやすさ、信じやすさ、優しさ、無思慮といった資質が決定的に失われたことを知ります。それを切り捨てないと「大人の男」になれない。そういう決まりなのです。けれども、それは確かに自分の中にあった自分の生命の一部分です。それを切除した傷口からは血が流れ続け、傷跡の痛みは長く消えることがありません。ですから、男子の通過儀礼を持つ社会集団は「アドレッセンスの喪失」がもたらす苦痛を癒すための物語を用意しなければならない。それは「もう一人の自分」との訣別の物語です。弱く、透明で、はかなく、無垢で、傷つきやすい「もう一人の自分」と過ごした短く、輝かしく、心ときめく「夏休み」の後に、不意に永遠の訣別のときが到来する。それは外形的には友情とその終わりの物語ですけれど、本質的にはおのれ自身の穏やかで満ち足りた少年期と訣別し、成熟への階梯を登り始めた「元少年」たちの悔いと喪失感を癒すための自分自身との訣別の物語なのです。



 引用ここまで。

 つまり、物語論的にも主題論的にも、ハルキ文学は『グレード・ギャツビー』≒『ロング・グッドバイ』の強い影響下にある、というか、「同じ水脈」を分かちもっている。と内田さんはいっている。ぼくもそう思う。
 『カラマーゾフの兄弟』が等閑視されているけれど、あれは「神」との絡みが大きいし、登場人物も多いし、「少年期との訣別」という括りにも収まらず、論旨にそぐわないから内田氏も外したんだろう。「カラマーゾフ」については、春樹さんも別の場所で幾度か言及しているが、ドストエフスキーと村上春樹とをきっちりと関連付けて論じたエッセイをぼくはまだ読んだことがなく、自分でしっかり考えたこともない(本音をいうと、どうみてもドスト氏のほうがハルキさんより深いよな……との思いが拭えず、なかなか真剣に考える気になれぬのだが)。
 これはあくまで1982(昭和57)年に出た『羊をめぐる冒険』をめぐる話であって、そのあともちろん村上文学はさらなる発展を遂げ、広がりと厚みを増してはいくんだけれど、「おのれ自身の穏やかで満ち足りた少年期と訣別し、成熟への階梯を登り始めた「元少年」たちの悔いと喪失感を癒すための自分自身との訣別の物語」という基幹のモチーフは変わっていないとぼく個人は思う。
 『海辺のカフカ』(2002年)『1Q84』(2009~2010年)においてはここに「父殺し」「《治癒者》としての母性(女性)」などのエディプス的なテーマが絡まり、世界文学の伝統へつながる普遍性がいっそう高まっていく(『騎士団長殺し』は未読です)のだけれど、それでもやっぱり、ハルキ文学の根底にあるのは「少年期との訣別」にまつわる透明で切ない哀しみであって、小説好きの中にも「ハルキだけはちょっとなあ……。」と仰る方が少なくないのはそのせいもあるんじゃないか。
 だからぼくとしては、「3冊」のうちで、20世紀アメリカを代表する2人の作家のものではなく、あの19世紀ロシアの大作家の作品による影響こそが、もっともっとハルキ文学に顕現してくれないものかと願う。春樹さんの訳した『カラマーゾフの兄弟』は読めずとも、「村上春樹の書いたカラマーゾフの兄弟」をこそ読んでみたいと願ってるのだ。


おまけ
 「WIRED」による最新インタビュー
2020.01.02 THU 18:00
村上春樹、井戸の底の世界を語る:The Underground Worlds of Haruki Murakami



『スター☆トゥインクルプリキュア』第45話 ④「メロドラマ」としてのBパート

2019-12-30 | プリキュア・シリーズ

 今年(2019年)は『魔法少女まどか☆マギカ』全12話がテレビ放映され、8年まえの本放送の時は敬遠していたぼくも、初めて全編を通して鑑賞させてもらった。
 このテレビ版・全12話と、再編集/総集編たる『[前編] 始まりの物語』と『[後編] 永遠の物語』、および完全新作の『[新編] 叛逆の物語』の3本を併せた「まど☆マギ・サーガ」は、10年代アニメ、もっというなら平成アニメの金字塔といっていいんじゃないか。
 「セカイ系」をとことんまで突き詰めたその構想の訴求力はすこぶる大きく、これ以降につくられたサブカル・エンタメ作品で、何らかの形で影響を受けていないものを探すのは難しい。この26日に最新刊(9巻)が刊行された浅野いにおさんの傑作『デッドデッドデーモンズデデデデストラクション』にも、その痕跡はうかがえた。
 「影(シャドウ)」という用語(概念)を使うなら、「まど☆マギ」はまさしくプリキュア・シリーズの陰画(ネガ)であり、影だろう。
 プリキュア・シリーズが(商業主義の枠組みの中で)訴えてやまない希望と友愛。
 まど☆マギが残酷に突きつけてくる絶望とディスコミュニケーション(関係不全)。
 それらは表裏一体、不可分のものだ。どちらを欠いても、ぼくたちの生きるこの「世界」を十全に把握することはできない。
 来期のタイトルは『ヒーリングっど♡プリキュア』とのことで、ビジュアルやキーコンセプトやメインスタッフや声優さんが公表された。
 栄えある主役・桃キュアのCVは、かつて「鹿目まどか」を演じた悠木碧さん。すでに劇場版には妖精役で出演経験がおありらしいが、「まどかがとうとうプリキュアに!」と、感無量のファンも多いのではないか。
 プリキュアとまど☆マギ双方に出た声優は、これまで蒼乃美希(キュアベリー)/美樹さやか役の喜多村英梨さんのみ。しかしこうなりゃいっそ、暁美ほむらこと斎藤千和さんをのちに追加戦士となる敵幹部役で起用して、前半いっぱい桃キュアさんと愛憎渦巻く確執を……などと思ったりもしてしまうが、もちろんそんなベタなことは起きない。出演者リストに斎藤さんの名前はない。
 正直いうと、ちょっと残念ではあるんだけどもね。


 「神」としてのまどかを愛しすぎたあまり自ら望んで「悪魔」となって叛逆を仕掛けるほむら。ミルトンの『失楽園』(岩波文庫)を彷彿とさせるこの設定が至極ぼくには気に入って、「悪魔ほむらの聖性」てなことをずっと考えている。
 とうぶん答えは出そうにないが、考えるうち「メロドラマ」に興味がわいて、11月のアタマ頃にはその話ばかりやっていた。
 この「メロドラマ」ってのは「昼メロ」みたいなやつとは違って、れっきとした文芸用語で、奥行きが深く、汎用性も高い。
 主な項目を(ぼくなりに編集のうえで)書き出してみると、


(1)喜怒哀楽の「激情」に「ヒロイン」が見舞われる。
(2)すべての人物が、つねに劇的な、誇張された行動をとる。
(5)日常生活のなかで起きるドラマを美学化する。どんな出来事も、さまざまな手法を駆使して「崇高」なものに仕立てる。


 といった具合になる。あらためて字に起こすと「なァんだ……。」といった感もあるが、映画・ドラマ・アニメ・マンガ、およそサブカル/エンタメに属するジャンルはおおむねこれに当てはまる。
 つげ義春とか、近藤ようことか、こうの史代とか、高野文子とか、この定義から外れる作家のマンガを読んで「まるで純文学みたいだ。」と新鮮に感じるのは、逆にそれだけ「メロドラマ」が蔓延してる証左なのだ。
 児童向けファンタジー・エンタメ・アニメたるプリキュアは、まどか☆マギカともども、もとより広義の「メロドラマ」だ。それゆえに、前回の記事で述べたような、ふとしたはずみで「純文学」になってしまう瞬間が、みずみずしく映るわけである。

☆☆☆☆☆

 フワを抱き、天文台を出てララたちの待つロケットへと向かうひかるはまだ浮かぬ顔。冷たい雨も降りやまない。そこにカッパードが襲来するのは定跡どおりの展開だ。かくして「純文学」の時間帯はおわり、ここからはメロドラマへと突入する。
 プリキュア・シリーズは、バトルアクションであると同時にじつは対話劇でもある。プリキュアたちは50回近い話数のなかで、敵と物理で激しくやり合いながら、作品の根幹にかかわるテーマについて必ず何度も問答を交わす。
 多くの場合、敵たちは彼女らにまったく耳を貸さないし、彼女たちのことばそのものにもさほどの重みが伴わぬため、対話としては成立せず、堂々巡りの水掛け論に終始する。だが、幾たびとなく折衝を繰り返すうちに、プリキュアたちは成長し、強くなり、そのことばにも説得力が増していく。
 本作のカッパードも、初回での登場いらい、ひかる、およびララと繰り返し問答を重ねてきた。かつて命の源である水を奪われて母星を滅ぼされた彼には、異星人同士が分かり合えるなどとは信じられぬし、そんな理想を無邪気に口にするひかるのことが許せない。他者とのコミュニケーションを認めず、ただ恐怖によって相手を従えるのを是とする彼は、裏返していえば、つねに相手を恐れてもいるわけだが……。




 ではここから、耳コピで文字に起こしていきましょう。



 「ここで決着をつける」との意気込みで、自らの歪んだイマジネーションを増幅させるカッパード。その禍々しい力を籠めると、手にした武器が沙悟浄のもつあの半月型の刃の宝杖にかわる。
 迷いを払拭できないひかるは大苦戦。キュアスターに変身するも、「背水の陣」(文字どおり)で臨むカッパードは強い。一方的にやられ、地に倒れ伏す。


「この星の水……。思い出す。俺の故郷を。旅人に分け与えるほどの豊かな資源。麗しき星を。そして、思い起こさせる。あの惨劇を! われらの善意は、奴らの悪意を増長させたのだ。すべて、奪われた! この憤りが、お前には理解できまい。ぬくぬくと生きている、お前にはな!」




 フワのワープでかろうじて窮地を逃れるも、すぐに追撃され、さらなる攻撃を食らって、ついに変身が解除されてしまう。


「ひとは変わる。イマジネーションなどすぐ歪む。それなのにお前は、大好き、キラやば、いつもいつもそればかり。そんなものは無力! ……終わりだ。」


 そこに、間一髪で、仲間たちが宙を走って駆けつける。
 えれな(キュアソレイユ)、まどか(キュアセレーネ)、ユニ(キュアコスモ)は戦闘員たちと交戦。ララ(キュアミルキー)が一人でカッパードの行く手を阻む。
 かさにかかったカッパード氏、キュアミルキーを意に介せず、倒れたままのひかるを見下げる。
「いい目だ……恐怖に……歪んでいる。」




 キュアミルキー、バリアを張ってひかるを守るも、宝杖の一撃によってあえなく破られ、背中から地面に倒れこむ。


ひかる「私のせいだ……私が……トゥインクル・イマジネーションを見つけられないから……。みんな……ごめん。」


「ふっ。見つけられるはずがないだろう。お前ごときが。この宇宙の現実も知らず、異星人同士が理解できるなどと、綺麗事を言っている、お前ではなーッ。」


 そのときララが、よろよろと立ち上がりながら……
「そんなこと……ないルン。……綺麗事なんかじゃ……ないルン。」
「ミルキー……」
 ……怯むことなく、カッパードと対峙する。
「ちゃんと、仲良くなれたルン。ひかるやえれなや、まどかたち。それだけじゃ……ないルン。あなたも見たルン? 2年3組のみんなを! みんなが、受け容れてくれたルン。私らしくしてても、ちゃんと理解しあえるって、ひかるが、教えてくれたルン。」
「ララ……」
「ひかる……(振り向いて、ほほえみ)ひかるは、ひかるルン。」


 遼じいの言葉が蘇る。「デネブは変わらず、輝き続けるんだろうねえ」




 ひかる、立ち上がる。
「わたし、知りたい。宇宙のこと、みんなのこと……もっと知りたい! (生身のまま、カッパードに向かって、すたすたと歩み寄りながら)……それに、カッパード、あなたのことも!(決然たる面持ちで)」


「知るだと! ぬるい環境で育ったお前に、何がわかる!」


「……うん、そうだよ(悲しげに)。わからない(瞳がうるむ)。でも、だから私、あなたの輝きも、もっともっと、知りたいの!(きっぱりと顔を上げる。溢れる涙がこぼれて、ペンダントに落ちる) みんな星みたくさ、キラキラ輝いてる(この台詞ではもう涙はない)。その輝きが、教えてくれるの。輝きはそれぞれ、違うんだ、って。……わたしはわたし、輝いていたいんだーっ」
 かくて、ひかるは覚醒し、トゥインクル・イマジネーションが発動する。





 このとき、えれな、まどか、ユニがその様子を遠目から見て安堵の表情を浮かべるところがよい。プルンス氏などは感涙にむせぶほどである。表立っては描かれなかったが、彼女たちがひそかにひかるを慮っていたことがよくわかる。


 ひかる、再変身。その全身はトゥインクル・イマジネーションの輝きをまとって眩い。


 カッパード、絶叫しながら渾身のパンチを叩きつけるも、キュアスターは難なく片手で受け止める。


「怖くない。あなたのことが少し、わかったから!」
「ほざけ! お前らに、なにがわかる!」
 剣先を三叉の矛にかえ、それを繰り出すカッパード。キュアスターはその斬撃をかるがると躱す。躱し続ける。
「カッパード、ほかの星の人のこと、信じられないかもしれない。でもさ、私のことや、みんなのことも、わかってほしい。知ってほしいの。」
「黙れーっ。」
「怖がらないで……。」
「俺が、恐れているだとぉぉぉーっ。」


 カッパード、大量の水を集めて空中に巨大な球体をつくる。
「砕け散れーっ。」
 キュアスター、身構える4人を手で制して、







「スターパンチ」で粉砕。


 最後はみんなの力を借りて、ついにカッパードの、歪んで捩れて膨れ上がったどす黒いイマジネーションを打ち破る。


 雨も上がって晴れ間ものぞく。





 ひかるは右利きだけど、「スターパンチ」はいつも左腕で打つ。決め技に使うのは左手と決めているようだ。しかし、相手に差し伸べるのは右手なのである。






 しかし、その手を掴もうとしたカッパードは、無理やりダークネストに召喚され、背後に開いたワームホールの彼方に吸い込まれてしまった。


 ラストカットは、4人の祝福を受けたあと、ふっと気づかわしげな表情になって夜空に浮かぶ遠い星を見つめるひかるのアップ。年明けはどうやら、最終決戦の幕開けのようである。





















『スター☆トゥインクルプリキュア』第45話 ③「純文学」としてのAパート

2019-12-28 | プリキュア・シリーズ

 話を冒頭に戻しましょう。








 ひかるがこんな具合になってるのは、5人のうちで自分だけ、「トゥインクル・イマジネーション」が発動しないせいだ。35話でその前兆はあったのに、本格的な覚醒にまでは至らず、ユニ、ララ、まどか、えれなに先を越されて、取り残される格好になった。
 プリキュアは丸1年、ほぼ50話に近い長丁場なので、定型としてステップアップが織り込まれている。つまり、初期設定では各々のキャラが何らかの欠陥……が言いすぎならば「課題」を抱えている。引っ込み思案だとか、姉に対して強いコンプレックスを持ってるとか。
 そんな娘さんたちがプリキュアになって、戦いの中で仲間との絆を強めて成長し、それぞれの課題を乗り越える。そして新しい力を得る。おおむね中盤から終盤にかけて、そういう階梯が用意されてるわけだ。
 その際に「新アイテム」が出現し、スポンサーたる玩具メーカーの販促に直結したりもするわけだけど……そのへんはいわゆる大人の事情というやつで、あまり突っ込まぬのが礼儀でしょう。
 ともあれ、今作においてはそれが「トゥインクル・イマジネーション」なのである。
 うろ覚えだが、過去タイトルでも、桃キュアさんの覚醒がラストにくるのは珍しくなかったはずだ。だが今作はとくに印象ぶかかった。
 ひかるの課題がわかりにくかったからだ。
 今作のばあい、「わかりやすさ」の順にきれいに並んでたと思う。


 ユニは、恩讐を超えて仇敵のアイワーンを許し、仲間たちはもとより、そのアイワーンまでをも含めた「みんな」と共に未来へ向かって歩いていくと心を決めて、トゥインクル・イマジネーションを得た(38話)。
 ララは、「異星人同士がわかりあえるはずなどない」と言い募るカッパードに対し、「私のことはわかってもらえなくてもいい。ありのままの私を認めてくれた、クラスのみんなを守りたい。私はみんなと一緒にいたい。そして私は私らしくいたい」と宣言することで、トゥインクル・イマジネーションを得た(40話)。
 まどかは、家格を守るために自らを滅して組織に奉じる父の影を、同じ境遇のガルオウガの姿に見て、「お父様。私は、自分で自分の未来を決めます!」と父からの自立を果たし、トゥインクル・イマジネーションを得た(41話)。
 この3名はまずまず見やすい。視聴対象たる児童の皆さんにも、すんなり呑み込めたと思う。


 えれなはいささか込み入っていた。笑顔はすべて虚飾と断じるテンジョウに対し、一度は心を折られながらも、「私、あなたを笑顔にしたい。だって、笑顔を見るのが嬉しいの。大好きなの、みんなの笑顔が、笑顔が、私の笑顔になるの! だから、だから……私は、みんなを笑顔にしたいんだ!」と魂の叫びを正面からぶつけてトゥインクル・イマジネーションを得た(43話)。
 いつも笑顔でいるのは自己犠牲ではない。私がそうしたいからそうしてるんだ。そして笑顔はけして仮面じゃない。相手のことをよく知って、気持ちを通じ合わせるためならば、涙を見せることだってある。
 第43話ぜんたいを見ると、おおよそそんな感じであった。たしかに一回り成長した……のだとは思うが、前のお三方ほどは、すっきりと割り切れるふうではない。複雑にして濃やかな感情の動きであった。
 で、ひかるはもっと難しい。


 ベッドで物思いに沈むひかるをララが迎えに来る。冬の到来に伴ってなのだろう、ユニがロケットでの同居を決めたので、みんなでその仕度を手伝う約束をしてたのだ。
 ロケットでは、えれなが留学の話をする。まどかはまだはっきりと決めてはいないとは言うが、態度はすこぶる落ち着いたものだ。ひかるはユニの部屋のドア用のプレートを描く。出来栄えは好評。でも、いつものように溌溂とふるまい、にこにこと笑みを浮かべてはいても、内心の屈託は拭えない。


 OP明け。足りない物を買いに出たらしく、雨の中を並んで歩くひかるとララ。そこにぐうぜん、クラスのみんなが通りかかる。たちまち取り囲まれ、ちやほやされるララ。隠し事なしで腹蔵なく話せることが嬉しくてならない。40話のラスト以来、クラスメートとの交友が描かれることはなかったので、この「後日談」は貴重なものだ。
 しかし、ひかるはその輪の中からすっと身を引き、真顔になってララたちを見つめている。





 ロケットに戻るララと別れ、フワをふところに抱いて、ひかるはひとりで天文台へ。そこには「遼じい」こと遼太郎がいる。幼いころからひかるのことを見守ってきたこの人には、彼女が屈託をかかえてるのは一目瞭然だ。にこやかに「(冬の星座教室の準備を)ちょっと、手伝ってくれんかね?」と声をかけ、迎え入れてくれる。





 幼いころ、ここでひかるは星と星とを結んで星座を紡ぐ楽しさを知った。その思い出を蘇らせつつ、彼女はフワに話しかける。
「……だから私、オリジナルの星座をつくるようになったんだよね。年にいちど、お父さんは七夕に帰ってくるでしょ? 私がデネブで、織姫のベガがお母さん。彦星のアルタイルがお父さんだって。繋がってるって思えたり」


 遼じいがプラネタリウムに誘ってくれる。並んで星空を見上げながら……。
「私さ、いつも自分が楽しければ、一人だって平気だった。」
「そうだねえ。ひかるは小さいころから、ひとはひと、自分は自分、って感じだったもんねえ。」
「うん。でもね、今は、ララたちが、みんなが、とっても気になるの。自分だけ進んでない、取り残されてるって思ったり。焦ったり。なんか、わたし、おかしいんだよ。」





「友達ができるというのはそういうことさ。」
「え……?」
「おかしなことなんてないよ。」
(遼太郎の回想。はるか遠い日々、ひかるの祖父母(春吉・陽子)と遊ぶカット。次いで、成人したのち天文台に勤めることが決まった頃。社会人になった春吉と陽子が祝いを述べに訪ねてくる。陽子の指には、春吉との婚約指輪が光る。それをみて静かに微笑む遼太郎)




若き日の遼太郎


今の遼太郎


「友達と、時には比較してしまうよ。……時の移ろいと共に、周りは変わる。焦りや戸惑いだってあるさ。」
「うん……。」
「夏と冬では、デネブの周りで輝く星、……星座は違う。デネブは、およそ8000年後には、北極の近くで輝く。」
「たしか、北極星になるんだよね。」
「ああ、そのとおり。環境や状況が変わっても、デネブは変わらず輝きつづけるんだろうねえ。」


 ……ひとりで充足していた子供(いや子供とも限らぬが)が友達を得ることでかえって「寂しさ」や「戸惑い」や「焦り」をおぼえるってのがそもそも結構高度な心理で、エンタメの域を超えている。しかも、それはまだ今話の半ばにすぎない。




「わたし、ララたちのところに行くね。」
「ああ。行ってらっしゃい。」


 この対話によって、ひかるの鬱懐がいっぺんに晴れたわけではない。しかし、確実にここで心は動いた。他人は他人、自分は自分。その厳然たる事実を受け容れて、では、そんな「個」としての自分が、「個」としての他者とどう関わるか。どう関わることができるのか。
 どんな関係を結べるのか。どんな星座を紡げるのか。
 そう考えを進めるための準備が、ここで整ったのだ。

 ユニにとってのハッケニャーン師がそうだったように、遼じいはひかるのメンター(導き手。先達)だ。メンターがきっちりと良い仕事をする作品は必ず良作になる。

 このAパートで描かれたひかるの感情の繊細にして濃密な流れは、「物語論」では収まらない。それは「純文学」と呼ぶに足るものだったと思う。







『スター☆トゥインクルプリキュア』第45話「輝くキラキラ星☆ひかるのイマジネーション!」② 敵キャラたち

2019-12-25 | プリキュア・シリーズ

 このところの当ブログは「物語を考える」ってことで、題材としてアニメを使わせてもらってて、「スタプリ」も例外ではないんだけども、この45話に限っては、もう純文学として扱いたい気分ですね。それくらい繊細にひかるの内面が描かれてたと思う。
 まどかが進路に悩んでた回は、月に暗雲がかかってた。えれなの時は日が没する前の夕暮れの情景が目立った。ひかるはさすが主役だけあって、作品のなかに(おそらく)初めて雨を降らせちゃったというね。
 降りしきる12月の冷たい雨。それは彼女の相手役たるカッパード氏襲来の予兆でもあって。


カッパード(CV・細谷佳正)。今作の敵は日本古来の妖怪がモチーフになっている。この人はご覧のとおり河童。移民を受け入れた故郷の星が、生命の源である水を根こそぎ収奪されて滅び(今のニッポンも他人事ではないが)、ダークネストの下に身を投じた。当初は「キザな二枚目半」のステレオタイプかと思ってたけど、細谷さんの好演もあってどんどん深みを増してきた。「異星人どうしが分かり合えることなど決してない。甘いことを言うな」と、ひかる及びララに対して執拗に訴えかけるのは、心のどこかに「それを否定して見せてくれ」という願望が潜んでいるからだろうか。部下の戦闘員たちに非情になり切れぬところからも、根っからの悪人でないのが伺える


 これまでぼくは、


 ララ→カッパード
 えれな→テンジョウ
 まどか→ガルオウガ
 ユニ→アイワーン
 ……だから、ひかる→ダークネスト


 という一対一対応を想定して、各々が各々の影(シャドウ)であるとの見立てを述べてきたけども、これは図式的すぎたようだ。
 影(シャドウ)はユング派の概念で、物語を読み解くうえで大切だし、プリキュアシリーズの過去タイトルでも重んじられてきた。今作は敵陣が首魁のダークネスト(正体は12星座に入れないへびつかい座のプリンセスでは?との説が有力だ)を含めてぴったり5人なもんで、プリキュアひとりひとりに各1名が照応する……とみてきたが、そこに囚われすぎても、話が粗くなってしまう。
 そう簡単には割り切れない。ひとつには、それぞれの組み合わせで、因縁の深浅にかなりの差が生じているからだ。
 たとえばユニとアイワーンのばあい、共に過ごした時間が長く、互いに抱く感情の総量も大きい。
 いっぽう、まどかとガルオウガには、そこまでの関わりはない。ひかる(たち)の前にまだ本体を現してさえいないダークネストとなると尚更だ。


アイワーン(CV・村川梨衣)。一つ目小僧がモチーフ。詳しくは語られないが、孤児だったらしきことが示唆されている。まだ少女といっていい年齢のようで、誇張されたギャル口調で喋る。ダークネストの下に身を寄せたのち、科学者としての天分を発揮。たしかに天才と呼ぶに足る頭脳の持ち主だが、それだけにプライドが高い。かつてユニの故郷の星を住民ごと石にしてしまった。実験の失敗による事故ではあったが、ここまでのところ反省の色を見せてはいない。かつてユニは敵情を探るべく執事「バケニャーン」としてアイワーンの傍に侍っており、アイワーンは彼(?)にだけ心を許していたため、裏切られたと思っている




ガルオウガ(CV・鶴岡聡)。青鬼をモチーフとした魁偉な巨漢。ダークネストが復帰するまでは全軍の指揮を執っていた。やはり母星を滅ぼされて身を寄せたのだが、彼の場合はより直截な武力によって憂き目を被ったらしく、「力」への信奉の度合いがカッパードたちの比ではない。自分に絶大な力を与えてくれるダークネストに身も心も捧げている。「誰かを守るための力」というサブテーマを巡り、プリキュア勢全員と(物理で激しくやりあいながら)問答を交わした


 なお、もうひとりのテンジョウについては、「プリキュア・シリーズ」のカテゴリにて過去記事を参照してください。



 カッパードは、なにしろ初回からしばらく出ずっぱりで、ひかる、次いでララがプリキュアになるきっかけを作ったわけだし、そのあとは上記のように「異星人(他者)との相互理解の(不)可能性」について、そのふたりと(物理で激しくやりあいながら)幾たびも問答を重ね、今作のメインテーマたる「イマジネーション(想像力)」の真価を問い続けてきた。いわば「受け役」として作品を裏側から支えてきたわけで、その蓄積は他のキャラとは比較にならない。
 「異星人どうしが分かりあえるか否か?」は、考えてみればララだけじゃなく、ひかるに課せられた宿題でもあるわけだ。それを鑑みても、かんたんに「一対一対応」なんて図式を当てはめるのはよろしくない。





『スター☆トゥインクルプリキュア』第45話「輝くキラキラ星☆ひかるのイマジネーション!」① 冷たい雨

2019-12-24 | プリキュア・シリーズ




 今話、ユーミン(荒井由実)の「12月の雨」じゃないけど、冒頭から雨が降ってるんだよね。ぼくは35話(ひかるが委員長に立候補したやつ)までさほど真剣に観てなかったし、ビデオも録ってないもんで、あやふやなんだけど、そもそもこれまで「スタプリ」のなかで雨が降ってたことあったかな? けっこう「星空界」での冒険が多かったし(ほかの惑星で骨の雨……なんてのは見たけど)、いちども降ってないと思うんですよ、地球上(笑)ではね。まどかさんのトゥインクル・イマジネーション覚醒回でも、曇天までだったでしょ。

(追記。このあと調べたら、20話で激しい降雨の叙景がありました。ただしその時、ひかるたち一行は地球の外にいたんですけども。)




 風景ないし天候がキャラの心情とシンクロするのは近代文学(小説)の発明ですね。で、それはとうぜん映画に援用された。今じゃドラマでも漫画でもアニメでも、完全にデフォルトになってて、当たり前すぎて逆に誰も気に留めないという。
 今話はひかるが珍しく沈んでるんだ。笑顔が売り物のえれなさんに気を取られがちだけど、星奈ひかるって人も、思えばそうとうの元気者だし、ムードメーカーでもあるんだよね。まどか・えれな両先輩がフューチャーされたここ数話では、ほぼ「キラやば~」としか口走ってなかったような気がするけども。
 日常生活でずっとあの調子だったら、うるさいかな、とも思うよ正直なとこ(笑)。だけど、未知の空間に飛び出す時なら、ああいう人が傍にいてくれるのは心強いはずだ。
 ぼくは観てないけど、信頼できるサイトによると、この秋公開された劇場版で、ひかるはこの口癖をたった一度しか口にしないとか。それがどのシーンなのかはわからないけど(観てないもんでね)、やっぱりそこは見せ場なんだろうし、その「キラやば~」はいやがうえにも「決めゼリフ」として響くと思いますね。
 さんざ言いまくってるコトバをたった一度しか使わない。そこに大きな効果が生まれる。ふだんやたらと元気なのに、アンニュイな姿を見せるってのも同じこと。えれなの泣き顔もかなりキタけど、ひかるのこんな様子ってのも、なかなかに切ないもんですよ。




 前作の『HUGっと!プリキュア』では、主役の野乃はながフクザツな人格でね。気丈なくせに自己評価は低いという。序盤じゃかなり脆さも見せてた。ぼくは魅力的だと感じたけど、児童向けファンタジーアニメとしては、重かったかもしれない。
 星奈ひかるはそこまでロコツに脆さを見せたことはない。ただ、一人っ子で、父親がずっと留守してて、母親は家にはいるけど仕事やってて(漫画家)、じっしつ祖父母に育てられてて……と、つぶさに見ればそこそこ大変そうでもあるんだな。
 もともと一人でいるのが好き……というか、一人っきりがぜんぜん苦にならないタイプ。夢中になれる事に向き合ったら、どこまでも追っかけていく。友達なんて別に要らない。でも変わり者ってほどでもなくて、人付き合いはそれなりにこなす。ただ、クラスの中では微妙に浮いてた……かもしれない。ララと出会う前までは、おおむねそんな塩梅だったんじゃないか。
 こういうの、見てる人にはどうなんだろうね。ぼくなんかナミダが出るほど(苦笑)よくわかるんだけども。
 でもその情熱ってのは、好奇心から来てるわけだ。外に向かってるんですよ。だから1話ではララやフワやプルンス氏ともすぐ親身になったし、プリキュアにもなっちゃう。さらには、「さとり世代」の代表みたく合理性だけで判断を下して、はなっから諦めきってたララを勇気づけて(「思い描くの! なりたいララちゃんを!」「できないなんて決めつけは、無しだよ!」)二人目のプリキュアにまでしちゃうというね。
 そういう女の子が、ここにきて、意気消沈してるわけですよ。



☆☆☆☆☆

 参考として、他の考察サイトから、ひかるのセリフを引用させて頂きましょう。26話、みんなでパジャマ・パーティーをやった回より。

「わたしさ、友達と遊ぶよりひとりで天文台行ったりする方が楽しかったから。星座とか宇宙人とかUMAを調べてる方がさ。でも分かったんだ。ひとりでいるのも楽しいけど、みんなとこうしているのもすっごく楽しいんだって。みんなで新しい世界を知ったりとかさ、とっても、とーっても、キラやば~なんだよね!」












ジャン・リュック・ゴダールについての《架空の》インタヴュー

2019-12-16 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽



 これはぼくが20代の終わりに書い(て純文芸誌の新人賞に送って落ち)た「小説」の一部です。ほかのブログにアップしてましたが、アンナ・カリーナさんの訃報に接して、こちらに転載いたします。


☆☆☆☆☆




 「探偵」はマイクを片手に街をうろつき、誰彼かまわずインタヴューして回る。目星をつけた相手に片っ端からだ。相手が男性だろうと、女性だろうと、忙しそうだろうと短気そうだろうと関係ない。直感が、「こいつからは面白い話が聞きだせそうだぞ。」と告げればそれに従うのみ。ところで、彼の直観はまるで当てにはならない(これ探偵として大丈夫なのか?)。だからよく警察に通報されるし、時には殴られたりもする。しかし稀に、ほんとうにもう、ごくごく稀に、対話が成立することもある。これはその僥倖というべき成功例を採録したものである。前置きここまで。




◎探偵が次に選んだ相手は「日曜作家」だ。それはかつてない長尺インタヴューとなった。中身はともかく、とりあえず長さにおいては、もっともうまく運んだ対話に違いない。理由は単純。ようするに相手が暇人で、自分のこと(より正確にいえば自分の小説のこと)を語りたくて語りたくて仕方のない男だったからである。しかも探偵は、彼の難解な(より正確にいえば意味不明な)作品に事前に目を通し、面妖なことに、そこそこ感銘を受けていた(!)。だから自ずと熱も入ったわけである。インタヴューは、ある晴れた金曜日、街路に面したオープン・カフェの一隅で行われた。




――あるいはそれが戦略なのかと疑いたくなるほどの無邪気さで、あなたはご自分の作品すべてにおいてゴダールの影響を隠そうとしません。だからあなたの作品について訊くことは、とりもなおさずゴダールについてのあなたの考えを伺うことになるかと思うのですが……。




「ええ、事の起こりはゴダールでした……20歳のときに『マリア』を映画館で観て……あとにも先にも、あれに匹敵する衝撃は思い出せません。通過儀礼とでもいうべきもので……。私は成人式に行かなかったので、まあ、あれがその代わりだったのだと思います。あの時の興奮を言い表すには、以下のような、いささか≪文学的≫にすぎるレトリックを用いるほかにないでしょう。すなわち私は、革命という言葉の意味を、マルクスでもトロツキーでもゲバラでもなく、ゴダールから教えられたのだ、と。映画(作品)を創るということは、同時にそれを破壊することであるというテーゼを、スクリーンの上で披瀝することで、彼はそれを、20歳の私に開示したのです……。




 日曜作家はこのあと、まさに取り憑かれたように喋りはじめた。以下の文書において探偵の発言が残っていないのは、記録を省略したのではなく、日曜作家が彼に合いの手すら挟ませぬくらい、熱心にまくしたてたからである。




「それ以来、ゴダールのことばかり考えてきました。ボルヘスも言うように、≪世界と同じ大きさの地図は役には立たない。≫のです。第一、神そのものでもないかぎり、そんなもの創れやしないでしょう。だからわれわれは、誰しもが、自分なりの小さな地図を持ち歩いているはずですが、私にとっては、ゴダールこそが模範とすべき地図の作り手と思えました。20歳の地図、というわけですかね(苦笑)……




「多くの場合ゴダールは、ひどく単純なシチュエーションを選びます。彼の映画のほとんどは、その時代のパリを舞台とする、極めて日常的な環境の中での、平準的な人物たちの相関関係を描いています。初期のジム・ジャームッシュなども真似をしていたこのやり方は、ハリウッド的な物量主義の対極にあるものです。この方法の最大の利点は……身も蓋もないことをいうならば……撮影を短い時間で安くあげられることですが……それよりも重要なのは、作り手が形式上の実験に専念できることでしょう。題材そのものが魅力的ならば、それを語ることに気を取られて、冒険ができなくなるからです……




「そう……ゴダールは最高無比の冒険者です。彼の基本姿勢は、制度的な撮影、演出、話法、編集などのノウハウを知悉したうえで、ことごとくそれらをはぐらかしていくところにあります。観客を面食らわせ、時にはすっかり困惑させてしまうような様々な仕掛けを、彼は次々に繰り出すでしょう。もとよりそれは従来の映画に対する、ひいては映画そのものに対する批評となります。まったく新しい試みが、まさにいま自らの目の前で行われつつあることを、彼の映画を観る者の多くが、感じ取らずにはいられないのです……




「だから彼の作品は、≪芸術作品≫ではなく事件そのもの、つまり観客の感性を組み替えてしまうことを意図したメタ・アートといえます。もとよりこれは、20世紀の芸術が、各々のジャンルで試みてきたことに相違ありません。ピカソ、ブランショ、ウェーベルン、ベケット……いずれもみな、彼ら自身が依拠している表現手段へのラディカルな問い直しによって創作を始めました……要するに、まあそれが、モダニズムということの真意なのですが……




「しかし、映画というジャンルでそれをやってのけたのはゴダールが空前であり……そして、あるいは絶後かもしれない。彼の作品は、そのすべてが、映画という表現手段の可能性に対する考察の記録なのです。これは、映画という芸術がすぐれて総合的なものであり、しかも一から十まで商業主義の規制のなかで作られるのを考えるなら驚くべきことです。さらに驚くべきは、彼が映画において行ったことが、絵画・文学・音楽・演劇といったジャンルでそれぞれの巨匠たちがやったことに比べて、よりいっそう緻密で、徹底しており、しかも射程が広いように見えることでしょう……




「ゴダールは、映画という表現手段を、詩ではなく、あくまでも散文と見なしています。この場合の散文とは、小説ではなくむしろ批評のことですが……。小説というものは、いかにそれがリアリスティックに書き込まれた代物でも、つまるところ叙事詩であり、そうでなければ抒情詩にすぎませんからね……。ゴダールの目的は分析であり、それは批評の仕事です。それでいながら彼の作品が、異様なまでに鮮烈で、豊麗で、瑞々しく……つまりはもう、あられもなく≪詩的≫という言葉で表現せざるをえないものへと昇華されていることこそが真の驚きなのですが……




「……話を戻しましょう。ゴダールの作品とは、映像と音声を用いた、世界~現実~社会~政治~権力~さらには認識そのもの……の分析なのです。しかも彼は、新作を撮るごとに、つねに過去の問題を発展させ、それまでの解決策をかなぐり捨てるか、あるいはいっそう複雑にします。それどころか、一本の作品それ自体の中で、そういった革新をやってのけることさえ稀ではありません。それも、つねに自身の手の内を晒しながら……。彼は現在の自分が依拠する芸術的・精神的・政治的な規範や典拠や概念、そして雑多な関心のすべてを無造作な手つきで作品の内に取り込み、そうすることでさらなる前進を図っていきます。≪永久革命≫とでも呼ぶ以外にないこの不断の弁証法が、彼の作品に野放図なまでのエネルギーを与えるのです……




「≪私はとにかく色々なものを並べるのが好きなのだ。≫とゴダールは言います。あるいは、≪映画には何でもぶちこまなければならない。≫とも。彼の映画は、秩序を持たない現代版百科全書ともいえます。……そう……異質な要素を次から次へと放り込むことで、彼は、映画という形式のもつ出来合いの統一性を壊そうとしているのです。彼の考えでは、どのような素材であれ、映画に摂取できないものはありません。むろん、監督の手による再構成を経てのことですが……。前衛演劇、ヌーヴォー・ロマン、ミュージカル、政治演説、ロック、哲学、ポップアート、詩(!)……こういった貪婪な折衷志向は素材のレベルに留まりません。文体・調性・主題・話法・形式・技法・視点……すべての位相で、彼はさまざまな要素を混淆し、共存させます。




「コラージュ? たしかにそうとも言えるでしょう。しかし、ただ色々なものを並べるだけなら誰にだってできます。問題は、ゴダールの映画を貫くスピードとリズムの見事さです。彼の映画には、テオ・アンゲロプロスのような手堅い構築性はありませんが、それでいて調和が取れ、造形的にも論理的にも(ほぼ)過不足はなく、全編くまなく緊張感がみなぎっています。さきほどの表現を繰り返すならば、それはまさに≪詩的≫としか言いようのないもので……彼の映画の難解さや独善性をあげつらう者でさえ、彼の映画が、独自の≪美≫に溢れていることは認めざるをえないでしょう。あの手捌きの鮮やかさは……やはりベンヤミンの好んだ用語を借りて、≪天使的≫とでも呼ぶほかなさそうですね。≪天才的≫というよりも、そちらのほうがゴダールにふさわしいように思えます……




「コラージュとならぶゴダール映画のもうひとつの特徴は……これはもう、何をいまさらの感もありますが……観念性です。いつだって彼は、観客の感覚や情緒に訴えるのを拒むかのように、ひたすら観念と概念化とを追求します。ふつうの監督たちが文体やテーマを介して行うことを、遥かに露骨で単純な、あるいは野蛮とも言うべき仕方でやってのけるのです。彼の作中人物たちときたら、自らが作品の内部で果たすべき役割をものともせず、またストーリー展開さえも顧みることなく、衒学的な引用に満ちたアフォリズムふうの独白、あるいは煩雑な議論や論争に耽るのが常です。実在の哲学者や作家や監督が登場してインタヴューを受けることも珍しくないし(ちょうど今の私のように、というべきでしょうか?)俳優がカメラに向かって直接セリフを述べることさえあります! また、作品のクライマックスで、愛だの永遠といった剥き出しの概念が唐突に語られ、それによって物語が呆気なく急転したり、終局してしまうこともあります。否応もなく観客たちは、ただ単にお話を享受するのではなく、従来とはまったく違った意識をもって、作品へと関わっていくことを余儀なくされるのです。




「だからといって、ゴダールが観念的な映画監督だというわけではありません。むしろその逆であるというべきでしょう。このようなゴダールの手法を見れば、彼が、通常の作家や監督と異なり、作品の中でひとつの思想を体系立てて叙述することに関心がないのは明らかでしょう。彼の映画は≪観念的≫ではありますが、彼自身は≪観念≫をまるで信じてはいません。ゴダールにおいては、観念はあくまで形式上の一要素、つまり観客の感覚と情緒とを刺激する単位にすぎないのです。それはいつでもアイロニカルな韜晦の手段……いわば観客の感情的なベクトルをはぐらかすための道具として使われるのです……




「アイロニカルな韜晦? あるいはそれは、≪ゴダール的なるもの≫を的確にあらわすキーワードかも知れません。そう……闊達な感受性の横溢する彼の作品は、いつだって軽快で、ウイットに富み、時に軽薄で、ただ単にバカバカしいだけのこともあります。まったく……バカボンパパに付き合わされるようなものです……暴露的な即興性からなるドキュメンタリーの手法、そして、それと相反する極度の様式化ないし単純化との往還が、彼の映画の遊戯性をさらに助長しています……




「彼の作品は断片の集積から成っている、と言っていいのかもしれません。プロット自体が演劇の骨法を周到に外しているため一見支離滅裂なうえ、カッティングは短すぎるし、異質なショットが並列されるし、モンタージュやフラッシュ・ショットは次々と入るし、明暗は目まぐるしく交替するし、ポスターだの絵画だのが唐突に挿入されるし、音楽は不意に始まって途中で切れるし、リアルな場面と荒唐無稽な場面とが交錯するし、映像の中に前触れもなく字幕やら黒い画面が現れるし、会話の途中に朗読が割り込んでくるし、登場人物の行為は往々にして不分明で何の帰結にも至らないし、時には会話も聴き取れないし、アクションシーンで急にインタヴューが始まってしまうし、説明過剰のナレーションが織り込まれるし、かと思うと説明が欲しいシーンで誰もなにも言わないし、ゴダール自身の感想や私的な述懐や創作上の注意書きまでが無造作に混入されるし……要するにそこでは、教科書どおりの話法を分断するあらゆる手だてが間断なく駆使されるのです。これが高じると、個々のシーンが一つの話に収斂していくのか(もちろんそれが、ふつうの映画というものですが)、ビデオクリップを垂れ流しているかのように、ただ別々のタブローを続けて見ているだけなのかさえ、観客はわからなくなってしまいます……




「ゴダールは何をしているのでしょうか? ありあまる才能を弄び、観客を煙りに巻いて喜んでいるわけではありません(そういう部分がまったくない、と言ったらたぶん嘘になるでしょうけれど。なにしろバカボンパパですからね)。彼は、≪映画≫を≪人生≫に、≪作中人物≫を≪人間≫に、ともども近づけようとしているのだと思います。それはすなわち、文学のジャンルにおいて完成された(そして、20世紀を代表する表現手段としての≪映画≫がそれを忠実に模倣してやまない)19世紀的リアリズムからの(/に対する)逃走(/闘争)にほかならないでしょう。




「そう……19世紀的リアリズムの主要な方法論は、物語の因果的連鎖と、登場人物の心理描写とによって代表されます。ゴダールは、20世紀における優れた小説家たち同様、この2つの規則を軽やかに破壊してみせたのです。ゴダールの映画にあっては、個々のショットが自立しており、他のショットとのあいだに深刻な関係を取り結びません。それは確固たる統一体ではなく、外に向かって開かれた集合体なのです。そこには本質的なものとそうでないものとを区別する絶対的、または内在的な根拠もなければ、必然的な結末というものもありません。彼の登場人物たちは往々にしてラスト・シーンで簡単に死んでしまいますが、それはたいてい偶発的で、突発的な死に方です。事件と事件とのあいだに、純粋に有機的な繋がりはない……そして、人生とはまさにそういったものではないでしょうか?




「ゴダールはまた、観客の感情移入を促すような心理描写を徹底して退けます。作中人物の内面生活が描かれることは滅多にない……観念と心理と行動とが、完全に分離されてしまっているのです……ヴァレリーのあの有名な宣言以来、心ある作家たちはみな人間を、≪作者という名の神≫の操り人形ではないものとして、すなわち、物語と心理と因果関係との奴隷ではないものとして、描こうと腐心してきたのですが、そのひとつの達成がここにあるといえるでしょう。ゴダールは人間を、≪物≫のように……そう……資本主義社会の中で疎外されている一個の物象のように撮影します。彼の映画に登場する人々は、みなどこかしらぎこちなく、不自然で、世界との違和を体現しているかに見える……そして、そのさまは異様なまでにリアルなのです。20世紀における人間とは、まさにそのようなものではないでしょうか?




「最後にどうしても述べておかねばならない要素は、ゴダール作品のもつポリフォニー性です。彼の映画には、つねに複数の声が響き渡ります。一人称の語りであるナレーションと、三人称の語りとしての作中人物の科白……そして、もちろん、これだけではありません。作品の外部にあって話法構造の全体を統一しているはずのゴダール自身が登場するなどは序の口で、テクスト内部に回収しきれない主体、すなわち先ほども述べたような実在の固有名詞がゲスト出演し、さまざまな意見を表明する。これになお字幕や引用、映像自体のシニフィエまでをも含めれば、そこにはいったい幾種類の言説が、視点が、時間が、行きかっていることでしょう。しかもそれらは互いに補い合うどころか、相反したり、時にはまるで無関係だったりするのです。そして、世界とは、まさにそういったものではないでしょうか?




「『勝手にしやがれ』からすでに顕著であったこのような方法論は、俗に「商業映画に回帰した。」といわれる80年代以降、つまり『パッション』以降、映像そのもの、音声そのもの、言語そのものに内在する政治性を問い直す形で、より洗練され、ラディカルさを加えているように思われます。五月革命当時のような大文字の≪政治≫は語られず、それに代わって撮影の現場それ自体や、ひいては日常の生活にひそむ政治的なるもの一切が、いわば微分されるようにして、暴き出されていると思えるのです。




「むろんゴダールは急進的な革新家であり闘争者ですが、個々の事例についての明確な態度決定は拒否してきました。ある特定の概念なり、物の見方にコミットすることを求められると、アイロニカルな否認で応じるのです。しかし、それを責任回避や怠惰のあらわれとするのは適切ではありません。≪ゴダール的≫と名付けるほかない内在的な統一性が、紛れもなく、この世には存在するのだから……つまり彼は、固着したイデオロギーに従属するには聡明すぎる、というだけのことです……




「結論に移りましょう。今も昔もゴダールは、自らが武器として選んだ≪映画≫という表現手段を、動的な有機体と見なしています。それはプラトン的な意味でのイデアリスティックな存在ではなく、つねに社会性・歴史性・今日性を持った事件であり、そしてまた、いずれは未来の事件によって凌駕されるべき運命にあるものだと。だからこそ彼は、自作の中にその折々の政治的な出来事を挿入したり、時にはそれを映画の枠組みとすることさえも厭わないでしょう。私が指針として学んだのは、そのような一人の映画作家なのです……」








 ……このあと、「日曜作家」は、「いかにして自分がゴダールの影響のもとに小説を書きあげたか。」をとうとうと語り尽くしたが、さすがにもう、ばかばかしいので以下は割愛。









『スター☆トゥインクルプリキュア』第44話「サプラ~イズ☆サンタさんは宇宙人!?」について

2019-12-15 | プリキュア・シリーズ



 今回は、これだけを単話でみても大したことはない。1年48話(ときに49話)の長丁場だから、こんな回もある。41話から三回にわたって続いたお姉さん2人の進路にまつわる怒涛の展開が一段落して、ややトーンダウンの趣。
 前半パートは毎年恒例のクリスマス回。プリキュア勢5名のうち2名までをも異星人が占める今タイトルにあって、「サンタさんの正体は異星人だった」はむしろ自然な着想といえる。トナカイのほうがじつはヒューマノイド型の本体で、サンタに見えるほうがロボットだった、というのは星新一のショートショートふうの楽しいひねり。
 プリキュアたちがサンタさんを手伝ってプレゼントを配って歩くのは、前作『HUGっと! プリキュア』の踏襲。たんにクリスマスパーティーをやってるだけよりはプリキュアらしいと思うけど、今後はこれがフォーマットになるかな?
 あと、橇の中で、来たるべき別れの予兆というべき会話あり。ひかるが今のところ、ララとの別離をさほど深刻に考えていないのが切ない(意識の底に押し込んでる。というべきか。だとしたらもっと切ない)。
 後半パートが、敵の首魁がみなの前に初登場する「ラスボス顔見世回」。ただし今回はアーマースーツを戦闘員に着せた影武者だったようだが、それですらあれほどの強さ……ってことで、その端倪すべからざるパワーの一端を示し、最終決戦に向けての緊迫感を高めていく。
 個人的には、えれなの留学宣言にちょっとびっくり。12月3日の記事『スタートゥインクル☆プリキュアについて08 仮面としての笑顔を超えて。』へのコメントで、「多分、えれなは留学する(笑)」と予測を立てたakiさんが的中。ここは完全に読み負けましたねェ。
 「自分と向き合うために留学を保留にしたまどか」と「自分と向き合った結果留学を選んだえれな」という対比は面白いかも……というのがakiさんの読みの根拠だったようだけど、なるほどなあ。
 まどかのほうは、冬貴パパの口から「ロンドン」って地名が出てたけど、えれなさんはどこになるのかな。英語圏ではなく、パパの母国のメキシコじゃないかと思うけど、作中でそこまで明かされるかどうかはわかりません。
 あと、次回がついに星奈ひかるの「トゥインクルイマジネーション」覚醒回になるようだけど、その際の相手役はカッパード氏のようですね。だとすると、この人はララの影(シャドウ)ってだけじゃなく、ひかるの受け役としての立場も担っているわけだ。
 じっさい、敵の先鋒として第一話に登場するひとは大体において最終話まで重要視されるのが基本。『GO! プリンセスプリキュア』のクローズなんて、結局ラスボスにまでなっちゃったもんね。
 あのときは、作品のメインテーマである「希望」と「絶望」を巡って、キュアフローラ春野はるかとクローズとが闘争と問答をさんざ積み重ねたあげく、お互いがお互いの「影」であることを認め合い、再会を約して別れるという哲学的なエンディングを迎えた。
 本作のカッパード氏も、メインテーマである「イマジネーション」を巡っては、ひかると表裏の関係ではあり、これまであれこれ問答も重ねた。とはいえ、異星人どうしの友愛を体現するララと、異星人どうしが分かり合えることなど絶対ないと信じるカッパード……との対比でいけば、そりゃあこっちのほうが重いだろう。
 それにひかるは、「大切なものを守るための力」というサブテーマを巡って、かつてガルオウガとも(物理で激しくやり合いながら)問答をした。そこではガル氏がひかるの受け役を担ったわけで、さすが主人公だけに、それくらい彼女には課せられた仕事が多いってことだ。 
 ララの影(シャドウ)はカッパード、ユニの影はアイワーン、まどかの影はガルオウガ、えれなの影はテンジョウ、そしてひかるの影はラスボスのダークネストという読みは、とくに修正することもないでしょう。








トポス

2019-12-13 | 純文学って何?





 「ここで取り上げた話、どれにしても、きちんと《土地》があります。その土地の性格があり、そこでの人の暮らし、それが土台になって話が始まる。そういう、話の土台としての土地、《トポス》は、とても大事です。それがないままに話を広げると、結局のところそれは、ファンタジーにしかならない。世界文学では、或る土地と人との仲を書きながら、そのうえに《移動》という原理が重なってくる。この点はやはり、忘れることはできないと思います。今の時代、マスコミが発達して、世界はずいぶん狭くなったように思います。しかし実際には、あちらこちら、みんな違うことを考え、違う文化を持ち、違う言葉をしゃべり、違う悩み方をしています。それら世界全体を見るために、これらの本を読んで、言ってみれば、書物の中で旅をしてみてください。」(池澤夏樹)



 今からちょうど10年まえ、2009年の10月から11月にかけて、NHK教育テレビの「知る楽」枠で放映された「探究この世界 池澤夏樹の世界文学ワンダーランド」の最終回の〆の口上。
 「知る楽」はいわゆる生涯学習番組で、2005年から2010年までやっていた。1982年から1990年までの「NHK市民大学」、1992年4月6日から1999年までの「NHK人間大学」、1999年から2005年までの「NHK人間講座」が前身になっている。
 見てのとおり、改変のたびにタイトルが少しずつ軟化していき、内容もそれにつれて柔らかくなっていった。やがてNHK教育テレビ自体がETVから「Eテレ」になり、今や「講座」と銘打つほどの大人向け学習番組はやってないようだ。
 池澤さんは長らく芥川賞の選考を務めたベテランだが、世界文学通としても知られ(作家なんだから世界文学にも通じていて当然だと思うかも知れぬが、そういうわけでもないのである)、この小説不振、出版不況のなか、河出書房新社から個人編集の世界文学全集を出して、そこそこ売れている。


 この講座ではその中から、
 ミルチャ・エリアーデ『マイトレイ』
 ジーン・リース『サルガッソーの広い海』
 ミシェル・トゥルニエ『フライデーあるいは太平洋の冥界』
 バオ・ニン『戦争の悲しみ』
 カルロス・フェンテス『老いぼれグリンゴ』
 ジョン・アプダイク『クーデタ』
 メアリー・マッカーシー『アメリカの鳥』。
 の7作が取り上げられた。
 7作いずれも、「きちんと《土地》がある。その土地の性格があり、そこでの人の暮らし、それが土台になって話が始まる。」わけである。


 この口上、ぼくは耳コピしてノートに書きとったんだけど、のちに番組テキストを加筆・修正して出された『現代世界の十大小説』(NHK出版新書)には見当たらない。それもあってこの記事を立てた。
 トポスとは、場所を意味するギリシャ語だ。
 ウィキ先輩は、「日本で小説を論じる文脈でこの語が使われる場合、歴史や神話が畳み込まれ、特別な意味を持ち、物語を発生させる場所という意味になる。例えば、大江健三郎の『四国の谷間の森』や中上健次の『紀州』『熊野』がそれである。」
 といっている。
 トポスというと常にこのお二方が引き合いに出される。外国の例ならば、ガルシア=マルケスの「マコンド」、フォークナーの「ヨクナパトーファ」が出る。いやこうやって4例を並列するのはじつはおかしくて、系譜でいえばフォークナーがすべての源流であって、あとの面々はみなお弟子さんみたいなものなのだが。
 「歴史や神話が畳み込まれ」がミソで、藤沢周平の「海坂(うなさか)藩」なんか、よく作品の舞台になるけどなかなかそうは呼ばれない。阿部和重の「神町」も、トポスと呼ばれないことはないけれど、大江さんの谷間の森や中上の熊野に比べるとやっぱり軽い。


 ファンタジーにもむろん、舞台としての「場所」はある。だが、その土地の風土や自然、あるいはそこで暮らす人々の生活が科学的な、あるいは身体的な意味で精確に造り込まれているかというと、それは怪しい。それでは「文学」にならないぞと、ここでの池澤さんは仰っている。ぼくもそう思う。


 池澤夏樹・責任編集の河出版・世界文学全集からは、『現代世界の十大小説』のほか、もう一冊、『池澤夏樹の世界文学リミックス』(河出文庫)という本も派生している。こちらは夕刊フジに連載されたもの。くだけた口調で、よみやすい現代世界文学ガイドになっている。
 おおむね一貫してるのは、ポスト・コロニアリズム、アンチ・アメリカニズムの精神だ(それだけではないが)。
 旧植民地から、あるいは、アメリカという強大な国家に冷遇される生活圏から発せられた言葉。そんな言葉によって紡がれた作品が多く取り上げられているのである。




 池澤さんは読書家であるのと同じくらい、熟練の旅行家でもある。
 冒頭に掲げた引用文では、トポスのほかに、「移動」も重んじられている。
 ファンタジーにもまた、旅はつきものだ。ただ、いかに奇想を凝らして風変わりな町やら村やらを描いても、そこで暮らす住民の息づかいがしっかりと捉えられていなければ、想像力のお遊戯に留まってしまいかねない。
 今ぼくたちが享受している「現実」を照射し返すだけの力を持ちえない。それだけの力を持ちえないものは、消閑の具としては楽しめても、「文学」とは呼べないのだ。









文学とは。

2019-12-12 | 純文学って何?
 文学とは、個たる人間の根源においてその社会・世界・宇宙とのつながりを全体的に把握しながら、人間であることの意味を認識してゆこうとする言葉の作業である。


 岩波書店『ゲド戦記』第1巻「影との戦い」のあとがきで、訳者の清水真砂子が書いている言葉。清水さんはこの一文に続いて「……といわれます。」と、あたかも引用のように記してらっしゃるけれど、とくに出典があるわけではないようだ。ご自身がふだんの読書と思索から導き出されたもので、この方のオリジナルといっていいと思う。
 見事な定義だが、「社会」のまえにまず身近にいる個々の相手とのつながりが生じるはずだし、「全体的」だけだと何だか『戦争と平和』クラスの大長編を思い浮かべてしまう。梶井基次郎のあの散文詩みたいな美しい掌編なんかが零れてしまう気もする。
 こうしてみたらどうだろう。


 文学とは、個たる人間の根源において、他者および社会・世界・宇宙とのつながりを、全体的に、かつミクロ的にも把握しながら、人間であることの意味を認識してゆこうとする言葉の作業である。




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 ガルシア=マルケスと並び称されるラテンアメリカ文学の大物で、ノーベル賞も取ったバルガス・リョサさんの文章で、こんなのもあった。


 小説を書くということは、現実に対する、神に対する、神が創造された現実に対する、叛逆行為に他ならない。それは真の現実を修正、変更、あるいは廃棄することであり、それに変えて小説家が創造した虚構の現実をそこに置こうとする試みに他ならない。小説家とは異議申し立て者であり、あるがままの(もしくは彼ないし彼女がそうだと信じる)生と現実を受け入れ難いと考えるが故に、架空の生と言葉による世界を創造するのである。人がなぜ小説を書くのかといえば、それは自分の生に満足できないからである。小説とは一作、一作が秘めやかな神殺し、現実を象徴的なかたちで暗殺する行為に他ならない。






 何しろ言ってる当人が超弩級の作家なんだから、たんなる現実逃避とか、願望充足のための手慰みみたいなことではない。ラストの一行がおそろしく利いている。仮にもキリスト教圏のひとが「神殺し」なんてセリフを口走るのは、よっぽどの覚悟がある時だけなのだ。







12月14日・南極の日、よりもい一挙生放送!

2019-12-10 | 宇宙よりも遠い場所



◎これは2019(令和1)年12月の記事です。日付にご注意ください。


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 『宇宙よりも遠い場所』については、カテゴリ内の記事数がたまたまぴったり70件になったこともあり、もう書く機会もなかろうと思ってたけど、そんな杓子定規になる必要もないか。来たる12月14日が「南極の日」とのことで、ニコニコ生放送で全13本が一挙配信されるとか。今度の土曜日だよね。告知もかねて記事にしておきましょう。


 「南極の日」って、いやたしか「古い怪獣映画好き」さんが年明けの1月末くらいにそんなようなことをコメントで教えてくれたけど、あれ何だったっけ……と再確認したら、1月29日の「昭和基地開設記念日」だった。そうかそうか。でもその日を「南極の日」と呼んだりもするそうで、紛らわしいけど、12月14日は有名なノルウェーの探検家・アムンセンが4人の隊員と共に人類で初めて南極点に到達した日。1911年。なんと明治44年ですよ。いっぽうの1月29日は、1957(昭和32)年、南極大陸に昭和基地が開設された日。それならば、そりゃ12月14日のほうが由緒正しい……というか、世界的に「南極の日」と呼ばれるにふさわしいわなあ。


 ニコニコ放送のことはよく知らぬのだが、どれくらいの視聴数があるんだろうか。ニューヨークタイムズにまで認められたんだし、ほんとはテレビでやってほしいんだけど、それでもこの名作がより多くの人に知られる契機にはなるんだろう。名作ってのは左から右へと消費されてお終いではなく、こうやって何度も再放送されて然るべきだとつねづね思ってるんで、うれしい。できれば毎年の恒例にならんもんかなあ。


 思えば去年の今ごろは毎日せっせと「よりもい」論をやってんだった。どうにか年内に「上陸」まで至り、年明けから南極での話を始めたかったんで、年越し蕎麦も食わずに励んで大晦日に3本まとめてアップした。おかげさまでいっぱい有意義なコメントもいただき、「貴子が末期にみた光景は何だったのか?」とか「昭和基地から『内陸基地』までの日数はどれくらいなのか?」とか、「あの狭い雪上車の中で、4人はどうやって寝ていたのか?」とか、いまひとつ自分でも曖昧なままだった疑問に納得のいく答も貰えた。これがブログのいいところ。


 ネット上の考察や論考や感想やルポもとうぜん参考にさせていただいたけれど、ぼくのばあい、どんな作品を取り上げるうえでも「物語論」として扱うもんで、どうしても少々毛色の変わったものになる。読み込みすぎて、濃すぎるというか、過剰な感じになった部分もあったかと思うが、自分としては今読み返しても不満はありません。


 「物語」としての『宇宙よりも遠い場所』については、ほぼ語り尽くしたので、より社会的な話題を持ち出しましょう。
 2018年の1月だから、まさに「よりもい」の本放送がテレビで流れていたころ、オーストラリアの女子高生、ジェイド・ハマイスターさんが、南極点に到達していた。
歴史的偉業達成の16歳女子高生が南極で「サンドイッチ」を作った理由に降参
2018-01-31


 このときハマイスターさん16歳。この年齢での到達はもちろん史上最年少。だからとうぜん女性としても最年少。しかもこの方、その前の2016年に14歳で北極点までスキーで到達して最年少記録を打ち立て、さらに翌17年にはグリーンランド氷床をもスキーで踏破している。それで、この南極点到達により、3箇所の極点を制覇する「Polar Hattrick(ポーラー・ハットトリック)」を成し遂げたのだった。





 『宇宙よりも遠い場所』に対する批判的な声の中には、「キマリたちって、ようするに大人たちの計画に便乗させてもらっただけじゃん。ぜんぜん冒険してないじゃん。」というのもあって、たしかに広い世界にはハマイスターさんのような女子高生も(ごくごく稀に)いるわけで、そういう意味ではその手の批判もけして的外れではないとは思う(具体的にこの方がどれくらい周囲の支援を受けたのかについては不明だけど、スキーで行ったわけだから、キマリたちより大変だったのは間違いあるまい)。


 しかし、もし仮に報瀬がハマイスターさんみたいな冒険家で、キマリたちがその強烈な熱意に巻き込まれ……みたいな設定だったら、この日本ではなかなかリアリティーを確保できないし、視聴者の共感を得るのも難しかったろう。「よりもい」は、「どこにでもいるフツーの女子高生が、ふとした出会いをきっかけに、どうしても踏み出せなかった最初の一歩を踏み出す話」なんだから、あれくらいでいいのだ(いや、あれくらいってこともないな。高校生の時のぼくだったら、とうてい無理だったろう)。


 それはそれとして、ぼく個人は、ハマイスターさんみたいなティーンエイジャーの冒険者を主人公に据えたリアリスティックなお話を、往年の「世界名作劇場」みたいなタッチでアニメ化した作品を見てみたい……と思ってはいるけれども。