ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

戦後民主主義について。21.01.31 天賦人権

2021-01-31 | 戦後民主主義/新自由主義

 今年(2021年)の1月にでた山本昭宏『戦後民主主義 現代日本を創った思想と文化』(中公新書)は、ぼくにとっては渡りに船だった。年末から述べているとおり、コロナ禍いこうに顕在化した中国の脅威のせいで、自分のなかの政治的信条(ってほどたいそうなものでもないけど)が転換を強いられたからだ。これまでのぼくは広い意味での「戦後民主主義」に依拠していたと思う。当ブログでも再三その用語(コンセプト)を使ってきたし、ずばり「戦後民主主義。」「「戦後民主主義。」の補足。」といったタイトルで記事も書いている。
 そんな自分が転換を果たすのであれば、おのずから、「戦後民主主義に限界をおぼえて脱却を図る。」ということになるわけだけども、それにしたって、「そもそも戦後民主主義とは何ぞや。」について自分なりの定義をもっておかないと、心許ないことになりそうだ。そんな折、山本さんのこの新書は格好の指針になる。


 しかし、5年前に「戦後民主主義。」と「「戦後民主主義。」の補足。」を書いた時にも感じていたが、戦後民主主義とはいくぶん模糊とした概念ではある。ウィキペディアの当該項目にも、
「この言葉は様々な文脈で用いられているが、「戦後民主主義」を説明する学問上の定説はまだ存在せず、その含意も使い手によって千差万別といってよいほど異なっている。」
 などと、心細いことが記してあるのだ(21.01.31現在)。
 とはいえ、
「日本国憲法に示された国民主権(主権在民)、平和主義、基本的人権」
 をできうるかぎり尊重する思想態度だとは明記してあり、これは正しい説明だろう。国民主権(主権在民)・平和主義・基本的人権。たしかにこれらは3本柱だ。
 もうひとつ「戦前の大正デモクラシーと対比して使われる。」とも書いてある。これは山本さんの本には書かれてなかった視点で、参考になった。
 大正デモクラシーと戦後民主主義とはどう違うのか。ウィキの述べるところはこうだ。




 「大正デモクラシーは天皇主権の大日本帝国憲法を民主主義的に解釈することに基づいていた(提唱者の吉野作造は政府の弾圧を避けるべく「民主主義」ではなく「民本主義」と呼んだ)ので、基本的人権は個人の生得の権利として規定されていなかった。つまり、ヨーロッパやアメリカで当然だった天賦人権説が日本には普及していなかった。また、議院内閣制も憲法上の規定がないため憲政の常道という概念で慣習的に実現していた。そのため、内閣総理大臣の指導性が確立しておらず、内閣を構成する他の国務大臣を任意に罷免できない弱い立場であった。軍の最高指揮権(統帥権)は天皇に属し、内閣にはなかったため、統帥権を楯にした軍部の暴走を抑える法的な力も内閣と議会にはなかった。」




 「ヨーロッパやアメリカで当然だった天賦人権説が日本には普及していなかった。」 つまり、明治いこうもわが国には人権の概念なり感覚がきわめて希薄だったというわけだ。私見によれば、それはわが国の伝統にかかわることである。キリスト教的な一神教の力が弱かったせいだ。絶対なる唯一神のもとでは国王も貴族も平民も等しく「僕(しもべ)」にすぎない。神の前ではみな平等なのである。キリスト教圏にあっては、揺るぎない身分制の中でも、その感性は下々までいきわたっていたはずだ。
 時代が進むにつれて、「それじゃあなぜ王様だけがろくに働きもせず取れるものだけ取って威張りくさってるんだよ。」って話に当然なってくる。王の側としては、当初こそ「王権神授説」なる強引な思想を発案して体制の維持をもくろんだものの、経済(商業)が発展して市民階級が育っていくといつまでもそれでは持ちこたえられない。かくて、王の専有物だった「権利」なるものが下のほうへと降りていく。まずは貴族、次いで裕福な土地所有者など、最後に平民、といったぐあいに。
 これが「自然権」である。
 先進国イギリスでは、17世紀の後半にもうこんな思想が唱えられていた。日本でいえばほぼ元禄の頃だ。こちらは「生類憐れみの令」で、犬を乱暴に扱った庶民が極刑に処されたりしてるんだから、その差は歴然としている。人権思想など萌芽すら見えない(むろん、欧州において非道な行為やら残虐な刑罰がなかったわけではない。向こうだって実態は酷いものである。ここでいうのはあくまでもイデオロギーの話だ)。
 イデオロギーの話をつづけると、日本のばあい、家康が死後に「東照大権現」として半ば神格化されたりして、とかく「神」が新たに増えていく(この傾向は21世紀の今もなお続いている)。一神教世界においては考えられないことである。これほどの冒瀆はないわけだから。


 「天賦」とは「天から与えられたもの」という含意で、明治の時に訳されたせいでこんな訳語になったんだろうけど、どうなんだろうか。「天賦人権」の原語はNatural human rightsで、「生まれながらに備わっている」といった感じだ。「生まれながらに備わっている」と「天から与えられた」とは、やっぱり違うものである。
 すなおに「自然権」といったほうがいい。
 いずれにせよ、「自然権」といい、「天賦人権」といっても、それらは所詮フィクションにすぎない。フィクションにすぎぬという点で、「王権神授説」と同断である。ただしそれは、社会を正しく導くうえで、とても有効なフィクションである。「社会を正しく導くうえで有効なフィクション」のことを、「理念」とよぶ。
 その理念に基づいて、王の権利を制限し、平民の権利をなるべく尊重するために制度化されたのが「議会」である。
 とりあえず議会がなければ民主主義もない。日本で初めて「議会」(帝国議会)が開かれたのは、1890年(明治23年)のことである。選挙権を与えられたのは「直接国税を15円以上納税した満25歳以上の日本国民男性(一部除外規定あり)」、被選挙権を与えられたのは「直接国税を15円以上納税した満30歳以上の日本国民男性(一部除外規定あり)」だけだった。












第164回芥川賞受賞作決定。

2021-01-20 | 純文学って何?

 前回の記事は、期間限定っていうより「時間限定」でしたね。お昼休みにぱぱっと書いてアップしたんだけど、発表までの数時間だけ有効だったという……。
 2020年下半期の芥川賞は、下馬評どおり宇佐見りん「推し、燃ゆ」(文藝秋季号)に決定。ちなみに直木賞は西條奈加『心淋し川』(集英社)に。話題となったクリープハイプの尾崎世界観、NEWSの加藤シゲアキ両氏は受賞を逸す。
 これで2011年以降の受賞作はこうなりました。





第164回(2020年下半期)- 宇佐見りん「推し、燃ゆ」
第163回(2020年上半期)- 高山羽根子「首里の馬」/遠野遥「破局」
第162回(2019年下半期)- 古川真人「背高泡立草」
第161回(2019年上半期)- 今村夏子「むらさきのスカートの女」
第160回(2018年下半期)- 上田岳弘「ニムロッド」/町屋良平「1R1分34秒」
第159回(2018年上半期)- 高橋弘希「送り火」
第158回(2017年下半期)- 石井遊佳「百年泥」/若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」
第157回(2017年上半期)- 沼田真佑「影裏」
第156回(2016年下半期)- 山下澄人「しんせかい」
第155回(2016年上半期)- 村田沙耶香「コンビニ人間」
第154回(2015年下半期)- 滝口悠生「死んでいない者」/本谷有希子「異類婚姻譚」
第153回(2015年上半期)- 羽田圭介「スクラップ・アンド・ビルド」/又吉直樹「火花」
第152回(2014年下半期)- 小野正嗣「九年前の祈り」
第151回(2014年上半期)- 柴崎友香「春の庭」
第150回(2013年下半期)- 小山田浩子「穴」
第149回(2013年上半期)- 藤野可織「爪と目」
第148回(2012年下半期)- 黒田夏子「abさんご」
第147回(2012年上半期)- 鹿島田真希「冥土めぐり」
第146回(2011年下半期)- 円城塔「道化師の蝶」/田中慎弥「共喰い」
第145回(2011年上半期) - 該当作品なし







 西日本新聞の文化欄およびQJWEBの「第164回芥川賞全候補作徹底討論&受賞予想。」から、各候補作のあらすじを抜粋させて頂きましょう。上が西日本新聞、下がQJWEBです。


西日本新聞
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/682526/







 ▽宇佐見りん「推し、燃ゆ」
 高校生のあかりは、「推し」のアイドル上野真幸の活動を全身全霊で追いかける。ある日、その「推し」がSNSで炎上した。ファンを殴ったという。あかりの人生も暗転していく。


 アイドル・上野真幸がファンを殴ったという事件が〈あたし〉こと山下あかりの人生を変える。人生のすべてをかけて「推し」ていると言っても過言でない真幸が、少しずつ遠くに行ってしまうようなのだ。その事実に順応できないあかりの人生は次第に壊れていく。


◎発表前、ぼくが参照したすべてのサイトで、みなが「推し、燃ゆ」を推してましたね。






 ▽尾崎世界観「母影(おもかげ)」
 母子家庭で育つ少女は、学校に友だちがいないため母が働くマッサージ店で放課後を過ごす。カーテンの向こうで客を「直す」母の仕事には、そこはかとない怪しさがにじんでくる。


 〈私〉のお母さんは、体のどこかが壊れてしまったお客さんをマッサージで「直す」仕事をしている。だが、お店に来る男のお客さんの中には変なことをさせようとする人もいるようだ。小学生の〈私〉にも、お母さんが嫌がっていることはわかり、不安な気持ちになる。


◎少女の一人称語りの手法について、書評家の方々のあいだで、微妙に賛否が割れてましたね。






 ▽木崎みつ子「コンジュジ」
 小学生せれなの父は自殺未遂を繰り返し、母は娘の誕生日に出奔した。複雑な家庭で暮らす11歳のとき、テレビで目の当たりにした既に亡き伝説のロックスター・リアンに魅了される。


 11歳のとき、せれなはリアンに恋をした。リアンは〈ザ・カップス〉というバンドのメンバーで、彼女が生まれる前に死んでいた。駄目男の父と息が詰まるようなふたり暮らしの中で、リアンについて調べ、夢想することがせれなにとっては唯一の生きる希望になっていく。


◎「コンジュジュ」とはポルトガル語で「配偶者」って意味とのこと。ただし作中にはその説明はないらしい。それにしてもこの内容、「推し、燃ゆ」と少し被ってませんか。「私にとっての偶像(アイドル)を探す。」ってのが今日における主題のひとつになってるのかな。






 ▽砂川文次「小隊」
 ロシアが北海道に侵攻し、戦後日本で初となる地上戦が現実味を帯びてきた。自衛隊の安達3尉は、住民への避難要請などに忙殺されながら、やがて過酷な戦端が開かれてしまう。


 突如ロシアの侵攻が始まり、北海道が交戦可能性のある地帯になる。第27戦闘団第1中隊に属する安達は幹部自衛官として小隊を率いる立場だ。連絡が取れない恋人のことをくよくよ考える安達だが、そんな彼の思いとは無関係にロシアとの戦闘は始まってしまう。


◎内容からすると直木賞向きのようだが、芥川賞候補になったということは、単純なシミュレーション戦記ものではないのだろう。三崎亜記の『となり町戦争』をよりハードにした感じなんでしょうか。






 ▽乗代雄介「旅する練習」
 中学入学を控えたサッカー少女と小説家の叔父は、コロナ禍の春休みに利根川沿いをドリブルしながら歩いて鹿島を目指す。途中で就職を控えた女性と出会い、3人の道行きが始まる。


 姪の亜美が希望する私立中学の受験に合格する。そのご褒美として、小説家の〈私〉は彼女を鹿島への徒歩旅行へと誘う。亜美は道々サッカーの練習に熱中し、〈私〉は見聞した風景の写生文書きに余念がない。順調に旅をつづけるふたりは、木下貝層でひとりの女性と出会う。


◎今回の芥川賞および直木賞の全候補作のなかで、唯一、コロナの影響を直接描いた作品とのこと。それでいて、いちばん穏健そうな印象ですね。




 どれも面白そうだけど、やっぱり、「推し、燃ゆ」をまず読みたいですね。純文学というのは内容もさることながら文体と手法で「最尖端」を表現するものなんで、その点においてこれはいちばん純文学らしい純文学という感じがします。





期間限定記事・第164回芥川賞発表まぢか

2021-01-20 | 純文学って何?


 今回の芥川龍之介賞、候補作は以下のとおり。


宇佐見りん「推し、燃ゆ」(『文藝』2020年秋季号/河出書房新社)初
尾崎世界観「母影」(『新潮』2020年12月号/新潮社)初
木崎みつ子「コンジュジ」(『すばる』2020年11月号/集英社)初
砂川文次「小隊」(『文學界』2020年9月号/文藝春秋)2回目
乗代雄介「旅する練習」(『群像』2020年12月号/講談社)2回目


 毎回ぼくが参考にさせて貰っている「西日本新聞」の文化部記者による座談会は、今回なぜか大学の先生お二人による対談書評となっていた。おおよその雰囲気はわかったものの、すこし物足りなかったので(失礼)、さらにネットを探したところ、決定版ともいうべきサイトを発見。




QJWEB クイック・ジャパン・ウェブ
https://qjweb.jp/feature/46167/





 ライター・書評家の杉江松恋、翻訳家(日→独、独→日)・通訳・よろず物書き業のマライ・メントライン(ドイツ人/女性)両氏による書評。こちらも対談形式だが、紙幅に余裕があるのでボリュームたっぷり。この記事を読めば5本の候補作について大体のところがわかる。
 ほかのサイトもざっと拝見したのだが、宇佐見りん「推し、燃ゆ」の評判がすこぶる良い。最有力といっていいかと思う。
 例えばこちら

R ea l Sound
第164回芥川賞は誰が受賞する? 書評家・倉本さおりが予想
https://realsound.jp/book/2021/01/post-693465.html





 この記事の中で倉本さんは、
「2010年代の芥川賞は30代~40代の、もはや中堅と呼ばれていてもおかしくなさそうな顔ぶれが集まることが多かった印象ですが、ここ数年はばらつきがあり、“新人”のイメージが強い書き手の選出が目立ちます。例えば今回でいえば、宇佐見さん、木崎さん、砂川さんの3名が90年代生まれ。同日に発表された直木賞は、全員が初ノミネート作家です。これは単純に話題性で選んでいるということではなく、同時代の感覚を切り出せるような作家が求められている結果なんじゃないかと思います。」
 と述べておられる。
 このことは、上記の記事の中でマライさんが、
「特に若い世代の書き手の「才気爆発」ぶりが印象に残りました。翻って言えば、批評界を含む読者の側が、従前の読み方のままでいいのか?という問題を突きつけられているようにも感じます。自分自身、候補作に「すごい!」と感じても、そのポテンシャルを果たしてどこまで汲み取れたのか、不安なのが正直なところです。
(……中略……)いま文芸業界は、そもそも「狭義」の文芸的な枠組をはみ出す作品の価値を捉え切れて(あるいは、うまく紹介し切れて)いない気がします。これは各文化ジャンルのタコツボ化やその中での情報過多といった要因により、ある意味仕方ない、一朝一夕ではどうにもならない話ではあるけれど、(……中略……)業界横断的で強力な審美眼・分析力を持つタイプの別ジャンル有識者の見解の掘り起こしによって、そのへんはある程度対応できるのかもしれない。そして文芸(eminus注・ここははっきり「純文学」といったほうがいいかと思う)の価値や定義そのものの拡大や、市場(eminus注・もちろん、純文学全般の売り上げのことである)の盛り上げを図れるのかもしれない、という感触を得ました。逆に、業界特化的な有識者の単機能っぽい見解を持ってきちゃうと、マズいかもしれない。
これは今後の文化的プロモーション全体に当てはまる話のように思えます……その結果、我々は候補作の順位づけに、より一層苦悩することになるでしょうけど(笑)。」
 と述べておられることとも密接につながってくるだろう。




 今回ノミネートされている尾崎世界観(ロックバンド「クリープハイプ」)、さらに直木賞のほうの候補者・加藤シゲアキ(アイドルグループ「NEWS」)といった異業種作家の方々についても(ちなみに直木賞では2017年に「SEKAI NO OWARI」の藤崎彩織も候補になっている)、けしてたんなる商業主義ってことではなく、倉本さんやマライさんが指摘する文脈において捉えるべきだろう。「純文学」もまた、サブカルはもとより、SNSなどの影響を受けて、否応なしに変質しつつあるわけだ(それでもなお「純」を名乗り続けられるか否かは議論の分かれるところかと思うが)。








 



天気の子・2021.01.03 テレビバージョン感想

2021-01-04 | 君の名は。/天気の子/すずめの戸締まり




 雨が横溢する。かつて『言の葉の庭』(2013)で新宿御苑の東屋(あずまや)のまわりをしめやかに濡らしていた雨は、『君の名は。』(2016)を経て、いま東京(≒セカイ)を覆う。覆い尽くす。水没させる。
 作品の主人公は帆高でもなければ陽菜でもない。雨だ。新海誠は雨に恋している。繊弱なものから暴戻なものまで、窓を伝い落ちる雫から、塊となって襲い掛かる豪雨まで、雨のもつさまざまな相貌、あらゆる様相、ほんのささいな変化も見逃さず、あますところなく描きつくす。リアルから虚構に昇華させ、映像として定着し、観客に向けて提示する。そのために持てる情熱と才能のありったけを傾けているようにさえみえる。
 雨に隈なく浸された画面はいうまでもなくロマン主義の舞台だ。ロマン主義の舞台にしかなりようがない。そこでは少年と少女とが青春を生きる。社会から断絶した2人きりのセカイ。しかし、あまりに純粋すぎてそこに性の匂いはない。だからこそ2人のあいだには、どこか両性具有的な「弟」がいる。彼(≒彼女)の存在が2人の純潔を保証する。性愛による合一にはけして至ることのない、硬質で清冽で、どこまでも青いロマンティシズム。これぞ新海誠ワールド。
 死別によって失われた。耐えかねて逃亡した。いずれにしても彼女と彼の傍に両親はいない。家庭がない。社会の中で自立するには若すぎる。社会との断絶、あるいは疎外。孤立の底で少女が少年にめぐんだマクドナルドのハンバーガーは、かつて千尋がハクから手渡されたおむすびにも似て、少年に社会とのかすかな繋がりを蘇らせる。
 帆高が須賀を頼ろうと決めるのは、陽菜からハンバーガーをもらった翌朝だ。
 須賀は、文字どおり「手を差し伸べる」者。フェリーの甲板で少年が海に投げ出されるのを救い、都会では、少年が進退窮まったところを救い(掬い)上げる。
 堅気とはいいがたい。しかしアウトローではない。離れて暮らす娘を想い、事故で(小説版では交通事故と明記)亡くした愛妻を一途に偲びつづけている。彼は少年と社会とのあいだに立つ者だ。リアリストとして少年の逸脱をたしなめ、法規の枠内に押し留めようとするけれど、最後の最後、ぎりぎりのところで少年の……すなわち「青春」のがわに付く。それは老練な刑事が「人生を棒に振ってまで会いたい相手がいるというのは、羨ましい。」と口にしたとき、彼が思わず涙を流した理由でもある。
 「青春」の純潔さは暴力との親和性をもつ。社会に満ちる「悪意」に抗して、愛するものを護る/救うためにはどうしたって力がいる。しかし少年はあまりに無力だ。無力すぎる少年が切実に欲する力は、摘発逃れで隠されていた拳銃として、作品の中に具現化され、彼の手に落ちる。それを使って少年は少女を「汚辱(現実)」の側から「純粋(ロマン)」の側へと引き戻す。
 剥き出しの暴力を目の当たりにした少女は混乱し、怒りを見せ、そのあと2人は和解する。
 2人+弟は仕事をはじめる。他人とかかわり、社会とかかわる。そうすることで少しずつ、社会に足場を築いていく。はかない足場ではあるが。
 されど、やまない雨をほんのひととき、かぎられた範囲で晴らす力は暴力ではないのか? それは誰かに笑顔をもたらし、ひとの流れを円滑にするものかもしれない。しかし、自然の理(ことわり)を捻じ曲げ、人間の営みに影響を与える強大な力は、理不尽なまでに強大なものというしかない。そして、悪意の有無にかかわらず、われわれは理不尽なまでに強大な力を暴力と呼ぶのだ。それは落雷というかたちで可視化されもする。
 力の行使には相応の代償を伴う。これは古今東西、あらゆる物語を貫く鉄則だ。
 少女は「人柱」として天に召される。『君の名は。』では鮮やかな成功をみた「現代と前近代との融合」だけど、彼女の「消失」は、劇場の大スクリーンならいざ知らず、お茶の間のテレビサイズではいささか苦しくみえた。全編が透明なロマンティシズムに染め上げられていなかったら、あるいは荒唐無稽の印象は拭えなかったかもしれない。
 しかし、ともあれ、もっとも大切なものが目の前から失われた。奪われた。もちろん少年は、少女を取り返さねばならない。
 かくして帆高(CV・醍醐虎汰朗)は、夏美(CV・本田翼)、須賀(CV・小栗旬)、そして凪(CV・吉柳咲良)の助力を得て、官憲の追走を背にひたすら疾走し、廃ビル(旧・代々木会館)まで辿り着き、屋上に行き、鳥居をくぐり、空を昇り、雲のうえの彼岸へと至って陽菜(CV・森七菜)を奪還する。「僕には、全世界よりも、君のほうが大切なんだ。」とはロマン主義的恋愛の要諦である。だから彼のその選択は当然至極であり、ここに賛否を分かつ余地はない。
 「異界」からの2人揃っての帰還は、物語のルールからすれば異例である。ふつうは「見るなの禁止」を侵すことによって失敗に終わり、奪還を目論んだ者は独りですごすごと、時には命からがら逃げ戻ってくるところだ。
 少年は少女を伴ってぶじ帰還した。その代償を払うのは2人ではなくセカイのがわだ。須賀と立花冨美(CV・倍賞千恵子)がそれぞれのことばで彼のその選択を肯ってやる。
 少年が愛する少女と引き換えにしたセカイは、雨の降り続く世界に戻った。ふたたび頭上を雨雲が覆い、青空は失われた。しかし滅びたわけではない。保護観察を終えた少年は「青年」となって都会へと戻り、高校生になった少女に再会する。少女は世界を改変してしまった責を負い、今も天に向かって祈りを捧げている。青年は涙を流し、「大丈夫。」と力強く告げて、彼女の背負った責を分かち持ち、ともに歩みだすことを決める。
 新しいドラマがそこから始まるだろう。




 コロナ禍のなか、テレビバージョンには特別なエンディングが附された。


世界はあっという間に変わってしまった。
もう元の世界に戻ることはないのかもしれない。
それでも、僕らは、この世界で生きていく――
生きていくしかない
だから、せめて、
食べて、
笑って、
恋をして、
泣いて、
怒って、
喧嘩して、
それでも、
ただ一瞬でも多く笑いあって、
その瞬間を愛おしく思えたら、
だいじょうぶ。
僕たちは、僕たちの世界をきっと、
乗り越えていける。




WEATHERING WITH YOU
(意味:あなたと嵐を乗り越える)




 2021年の幕開けにふさわしいアニメを見せて頂きました。そしてワタシは、読書と勉強に専念するため、しばらくアニメ断ちをいたします。