ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

スタートゥインクルプリキュア第49話(最終回)「宇宙に描こう!ワタシだけのイマジネーション☆」について。おまけ。

2020-01-30 | プリキュア・シリーズ

 ファンタジーは社会性を捨象することで成り立っている。それが児童向けアニメであればなおさらだ。あえてそこに社会的な要素を持ち込み、リアルに考察したらどうなるか。野暮なこととは承知のうえで、ちょっと試みてみたい。


 最終話(49話)Bパートは今から15年後の設定らしい。2035年。その時代に日本初の「有人ロケット」計画が遂行されることの意味を考えてみたいのである。ただ、これはぼくたちの暮らすこの世界ではなく、あくまでも「スタプリ」というSFふう児童向けファンタジーアニメの「世界観」の中での話だ。それに、「宇宙開発」に関するぼく自身の知見たるや誠にお粗末なもので、それこそ『宇宙兄弟』から得たていどの知識しかない。それやこれやで、野暮どころか滑稽なことになるやもしれぬけれども、頭の体操ないしは一種の知的(?)ゲームとしてお読みください。


 「宇宙開発特別捜査局」に属する香久矢まどかがリーダーとなって推し進め、星奈ひかるがパイロット(のひとり)として搭乗する「日本初の有人ロケット」計画。このふたりが、いわば同志としてタッグを組み、片や国家機関の中枢で、片や現場の最前線で、プロジェクトの立ち上げから推進に至るまで、それぞれに尽力してきたことは想像に難くないけれど、打ち上げの中継でアメリカ合衆国大統領(女性であり非白人でもある)からのお祝いの声明を通訳している天宮えれなもまた、たんに通辞に留まらず、卓抜なコミュニケーション能力を生かして築いた人脈によって対外的にプロジェクトの地固めをしてきたのであろうとぼくは思う。宇宙開発はじつは軍事の領分でもある。技術面での協力関係もさることながら、周到な根回しもなしに、一国だけで軽々に進められるものではない。その貢献あってこその、晴れ舞台での同時通訳なのだろう。


 つまりこの3人はプリキュア活動卒業以降、それぞれの夢を着実に追いかけながら、「宇宙に行く。/(ひかるを)宇宙に行かせる。」という一事に向かって力を合わせて邁進してきたわけである。その情熱および連帯感、そこに費やされた努力(むろん彼女たちはそれを楽しんでいたには違いないけれど)に思いを致せば、あの秒読みのシーンがいっそう感慨深くなる。


 ところで、ぼくたちの暮らすこの世界においては「国際宇宙ステーション」なるものがあり、たんに「宇宙へ行く。」だけならわざわざ自前のロケットを飛ばさずともそこに滞在する資格を獲得すればよい。たぶん児童向けにわかりやすくした、ということなのであろう。しかし、そこで話を済ませずに、スタプリの世界観に即してあえて深読みするならば、もうひとつの可能性が考えられないか。どうしても日本が独自に宇宙へアプローチをかけねばならぬ理由である。


 この手の計画には莫大なコストがかかり、いかにまどかの父君・冬貴氏の総理大臣としてのバックアップがあろうと、生半可なことでは進められるはずがないのである。相応の理由がなければならない。いうまでもなく、ひかる個人の「ララたちに会いたい。」という思いのたけなど、国家レベルの思惑の前では物の数にも入らない。


 スタートゥインクル☆プリキュアの世界観(世界設定)においては、宇宙には「宇宙星空連合」なる機関がある。地球における国際連合に相当するもので、一定以上の文明をもつ惑星は基本としてこれに加入することになっている。加入資格については作中では語られずじまいであったが、いずれにしても要件を満たしておらぬようで、地球は未加入なのである。それどころか、何らかの打診すらなくて、その存在を知っているのはかつてプリキュアであったひかるとえれなとまどかだけなのだ。


 しかし、まどかと冬貴氏との信頼関係の厚さから見て、おそらくこの現職の総理は「宇宙星空連合」のことを娘から聞き、その存在を確信するに至ったと思われる。のみならず、調査員として長期滞在しているP.P.アブラハム氏(地球での職業は映画監督)と何らかの接触をもったのかもしれない。仮にそうだとするならば、表向きは他の名目を押し立てているにせよ、日本が「初の有人ロケット」を飛ばす真の理由が「いずれ星空連合に加入するためのワンステップ」だということは十分に考えられるのではないか。


 むろん現実のニッポンはつねにアメリカの顔色を窺わなければ何もできない国であり(言いすぎかな? まあいいや)、自国だけでそこまでの深慮遠謀を描けるほどの才腕と覚悟を備えたリーダーが現れるはずもないけれど(それこそ中学生女子が変身して敵と戦うくらいありえないことだ)、少なくともこのアニメの世界設定に即すかぎりは、そのような憶測は成り立ちうるとぼくは思う。


 じっさい、そうとでも考えなければひかるたちの苦労が報われない。ひかるの乗ったロケットがどこを目指していたかは不明だけれど、現在の科学技術では有人ロケットの到達範囲として想定しうるのはせいぜい火星までであり、それはスタプリの描く2035年でもさほど大差はないはずなのだ。どちらにしても、ララのサマーンやユニのレインボーには行き着けるはずもないのである。それを承知で「自分の力で宇宙に行く。」という約束にそこまで拘るならば、やはり「星空連合」という介在者を措定しないわけにはいかぬのだ。


 作中では、覚醒したフワ(結局、声だけで姿は見せないままだった)の不思議な力によって約束は果たされるのだけれど(公式ツイッターによると、「感謝祭プレミアム公演の朗読劇は、再会したひかるたち5人の15年ぶりの同窓会が舞台になります!」とのこと)、そのようなかたちで非科学的な奇跡が起こったのも、ひかるたち3人が熱い想いを失うことなく力を合わせて精進を重ね、自分たちのできるかぎりのことをやったあげくの結果なのだ。だから、「ファンタジーに逃げたな。」という感じはぜんぜんなくて、後味はひたすら爽やかだった。






参考画像。ひかるたちの地元であり、本作の主な舞台となった観星町。中央に「P.P.アブラハム」氏がいる。ルックスは、髭を蓄えていた頃のマイケル・ムーア氏にも似ているが、たぶんF.F.コッポラ氏がモデルではないか。じつはこの姿(外殻)はロボットで、本体はトカゲていどの大きさしかなく、内部で操縦している。つまり『メン・イン・ブラック』に出てきたアレである。宇宙星空連合から監視のために派遣された調査員で、数百年に渡って隠れ住んでいたが、百数十年前に地球人が生み出した映画文化に魅了され、ハリウッドで映画監督として活動を続けている














スタートゥインクル☆プリキュア第49話(最終回)「宇宙に描こう!ワタシだけのイマジネーション☆」感想②。

2020-01-26 | プリキュア・シリーズ

 CM明けのBパートにていちばんに登場するのはえれな。テレビ中継で、合衆国大統領のスピーチを同時通訳していたのは彼女だった。
「……日本の、宇宙への第一歩を、祝福したいと思います。」
 いったん休憩に入ったところに、両親ら家族が「スタードーナツ」を手土産に訪ねてくる。弟妹たちもみんな立派に成長している。





 続いて、スーツ姿で打ち上げ間近のロケットを見上げるまどか。内実の乏しい部署だった「宇宙開発特別捜査局」を立て直し、プロジェクトリーダーとして今回の計画を強力に推し進めたようだ。両親もその場に居合わせている。父の冬貴は総理大臣に(!)なっている。とうぜん、プロジェクトの実現に尽力してくれたのだろう。






 そのあとまどかは控室にひかるを訪ねる。





「やっと……ひかるの夢が叶うのですね。宇宙に、また行くという夢が。」
「うん……。」
「よく休めましたか?」
「ばっちり。久しぶりに、ララやみんなの夢を見てさ。プリキュアになって、フワもいて。いい夢だった。」





 カメラは地球の外に飛び出して、ユニの惑星レインボーへ。高台から眼下を見おろすユニとララ。荒蕪地だったレインボーは、アイワーンの技術で肥沃な土壌に生まれ変わった。
 服装から察するに、ユニはどうやらオリーフィオの後継者として次期リーダーに目されているらしい。ララは調査員として多忙な日々を送っている。あちこちの星を巡ってロケットにはガタが来ているが、みんなとの思い出の残るロケットを廃棄はできず、修理を重ねて使い続けている。パーソナルAIもその判断を是としている。
 カッパード、テンジョウ、ガルオウガほかノットレイダーたちも「星空連合」の認可のもとに新しい星に入植し、花と緑と水の溢れる美しい土地に育て上げた。そのことが、ララの口から語られる。
 アイワーンはびっくりするほど背が伸びた。金髪をすっぱりセシルカットにして、スーパーモデルさながらだ。子どもたちにも慕われて、すっかり溶け込んでいる。







ユニとアイワーンとの身長差が入れ替わったのは、かつての「バケニャーンと少女アイワーン」との対比だろうか



 調査でたくさんの星を回ったが、地球には行けない、とララがいう。フワのワープ能力がなければ、地球はあまりに遠すぎるのだ。
 会えるわ、とユニ。レインボーが石化されて死の星だった頃、ひかるはユニに「わたしも会って、話してみたい。この星の人たちと!」と力強く告げた(それがどれだけ彼女を勇気づけたことか)。ひかるなら、きっと、あの約束を果たしに来る、とユニはいう。
 流れ星が夜空をよぎる。ララが瞑目して祈りのポーズをとる。
「流れ星に願ったら、願いが叶うルン。」
 それは合理主義の貫く惑星サマーンにはなかった習慣。ララがかつて地球でひかるたちから教わったことだ。ユニも微笑み、ララに倣う。
「もういちど、会いたいルン。」



「会いたいなあ。」



「会いたいルン。」



ララ「みんなに……」





ひかる「会いたい。……みんなに……」



このBパートでは、ついにフワは姿を見せぬままだった。そのこともまた深い余韻をもたらした





ひかる&ララ「みんなに……会いたい(会いたいルン)!」



 そのとき通信機を内蔵したララのグローブに着信が入り、「スターパレスより連絡です。」というAIからの通知に続いて、「ララー、フワが、フワが……」と、プルンス氏の慌てふためく声が飛び込んでくる。



「およ?」




 アナウンサー「ニッポン初の有人ロケット、発射の準備が整ったようです。カウントダウンに入ります。」




「10!」ひかる一家。
「9!」えれな一家。
「8!」観覧席にて、まどかの両親と観客たち。
「7!」姫ノ城さん、カルノリ君ほか観星中の旧友たち及び観星町のみなさん。
「6!」カッパード、テンジョウ、ガルオウガ以下ノットレイダーのみなさん。
「5!」惑星レインボーのみなさん(含むアイワーン)。
「4!」スターパレスのプリンセスたち。
「3!」えれな。
「2!」まどか。


 そして。



「1!」




 遼じい。いつものように(まさにそう、北極星のデネブのように)天文台の前で掃除をしながら、上空の航跡を見上げて「ひかる……行っといで。」








「来たんだ。ララ……私……来たよ。……宇宙に。」




 暗黒の空間のなかを、まるで流れ星のように一条の光が横切って、はっと目を輝かせるひかる。わずかな間ののち、船の窓から差し込む眩い光が、彼女の全身を包み込む。同乗している隣席の飛行士が、「え?」と呟くことから、これがひかるの幻想ではなく、「作品の中で実際に起こっている事実」だとわかる。


そして、あの声が。
「フゥゥゥワァァァアアアーッ!」







 立花隆氏の『宇宙からの帰還』(中公文庫)などでも見るとおり、宇宙空間に出た飛行士の多くが一種の神秘体験をすることはよく知られているけれど、そんなことを彷彿とさせる荘厳なシーンではあった。
 ひかるたち同様に成長を遂げたフワに願いが届いて覚醒し、「奇跡」が起こった。きっとそういうことなんだろう。しかしその先において何があったかは、作品の中では描かれない。「リアル」を「ファンタジー」で塗り潰すことはせず、このあとの顛末は、大人たちをも含む視聴者の「イマジネーションの力」に委ねた。鮮やかなエンディングだった。




 しかしそうはいっても最後はやっぱりこのセリフである。




「キラやば……。」






 いい作品でした。シリーズ本来の「メロドラマ」としての醍醐味をたっぷり満たしつつ、「純文学」としての繊細さから、「神話」としての壮大さまで、ファンタジーのもつ魅力を余さず楽しませてくれた。個人的には、「プリキュア・シリーズ最高作」に認定することになんら躊躇はありません。












スタートゥインクル☆プリキュア第49話(最終回)「宇宙に描こう!ワタシだけのイマジネーション☆」感想①。

2020-01-26 | プリキュア・シリーズ
 歴代タイトルにおいて「別れ」という主題を初めて前面に打ち出したのは2015年の『Go!プリンセスプリキュア』で、やはりあれは画期であったと思う。10周年記念の翌年で、スタッフにも期するところがあったのだろう。プリキュアさんたちの成長後の姿が描かれたのもあの時が嚆矢だったが、「成長後の姿」とはいってもメンバーのうち3人までは後ろ姿だけの止めカットで、桃キュアの春野はるかでさえ口元までに留まっていた。
 大人になって遠く離れてそれぞれの道を歩んではいても、全員の心はいつも繋がっている。そう示唆されてもいたけれど、とはいえ「再会」のもようが綴られることはなかった。とても潔く、いっそ清々しい終幕だったが、それでも寂寥感は否めなかった。
 ぼくとしては、「ロス」という感覚を初めて味わって、おかげで翌2016年の『魔法つかいプリキュア!』にはどうも乗れないままだった。ほかに私的な事情もあって、結局「まほプリ」は全編の半分ほども見られなかったのだけれど、あとで調べたところによると、ラスト間際でじっくりと時間をかけて、メインキャラ3人の、「別れ」にまつわる悲哀と、「再会」の歓びとがすこぶる丁寧に扱われていたようだ。やはり「Goプリ」のラストについて、「いくら何でもあっさりしすぎてたんじゃないか。」との反省があったのではないか。
 「まほプリ」では、ダブルヒロイン・朝比奈みらいとリコ(人間界での名は十六夜リコ)の成長後の姿がしっかり描かれた。そこも大きな前進だったと思うが、ただし、みらいはまだ女子大生、リコは「魔法学校の教師」ということで、いずれも「社会人」とは言い難い。
 2017年の『キラキラ☆プリキュアアラモード』も、じつはぼくは半分ほどしか見られなかったが、最終話だけは気になったので視聴した。ヒロインの宇佐美いちかはスイーツが大好きで、それが作品のモチーフでもあった。彼女の母・さとみは(NPОに属しているかどうかは明言されぬが)医師であり、「世界中の小さな村を診療のために飛び回っている」設定。いちかはずっと母の不在を淋しく思っていたけれど、いっぽうでは心から慕ってもいた。その最終話では、成長したいちかが、どうやら紛争地域と思しき異国の疲弊した小村で「みんなを笑顔にするため」店を開いてスイーツをふるまっている様子が描かれた。
 現実の生々しさをファンタジーの糖衣でコーティングするこのような手法についてはあるいは意見が分かれるかもしれない。ぼく個人は、平和なニホンで作られる「児童向けファンタジーアニメ」にこういった形で社会との接点を導入するのは有意義だと思う。ともあれここで、成長を遂げ、社会人として活躍するプリキュアが初めて登場した。これもまた大きな前進であろう。
 前作2018年の『HUGっと!プリキュア』は、前半の24話までは熱心に、後半のほうは違和感を覚えながらではあったが、ぼくは全話通して視聴した。ここでは主人公・野乃はなと「はぐたん」、愛崎えみるとルールー・アムール、それぞれ二組の「別れ」が叙された。どちらの別れも悲痛なのだが、ことにまだ小学生で、祖父からの束縛に悩むえみるのほうは深刻で、41話では失語症にまで陥ってしまう。むろん、回復して一回りタフにはなるけれど、それで完全に辛さが払拭されるはずもない。じつにていねいに、周到に、「愛別離苦」が扱われていたと思う。
 その最終49話Aパートで、汽車の形のタイムマシンに乗って、はぐたんやルールーたちは未来へと帰る。こらえきれずに追いすがっても、もちろん追いつくことはできない。いかに心の準備をしていても、悲しいものはやっぱり悲しい。映画史のなかで繰り返し用いられてきたスタイルを使って、存分に別れの悲哀が綴られた。
 Bパートでは、一挙に2030年まで時間が跳ぶ。はなはスーツを着て、町のランドマークとなるほどの立派なビルで社長を務めている(職種は不明)。立ち居振る舞いはあくまでも明るく、社員とともに仲間感覚で邁進しているのが見て取れる。臨月にも関わらず、周囲の忠告を聞かずに出勤していた彼女は、ふいに産気づいて病院に担ぎ込まれる。
 そこにはかつてのプリキュア仲間・女優への道を思い切って産婦人科医を選んだ薬師寺さあやがいる。飛行機を降りたって駆けつけたもうひとりの朋友(とも)・一度は諦めかけたフィギアスケーターへの道を進んで金メダルを得た輝木ほまれと3人で、はなは女の子を産み、「はぐみ」と名付ける(児童向けファンタジーどころか、テレビアニメであそこまで真に迫った出産シーンが描かれること自体珍しいと思う)。そしてそれは、11年前に未来に帰った「はぐたん」との再会でもあった。
 社会人として活躍し、そのうえで、信頼できる朋友や仲間に支えられて「母」となる。これもまたポリティカルには意見の分かれるところかもしれないが、「成長」のモデルとしてはひとつの完成形といえるのではないか。
 いっぽう、おそらくそれと同じ頃、成長してロッカーとして成功している(と思しき)愛崎えみるもまた、幼児の姿で新しく生まれたアンドロイドのルールーと再会を果たす。かつて2人で愛唱した歌を、蘇ったルールーはなぜか覚えていた。本来ならば覚えているはずのない記憶。みんなで過ごした楽しい日々。意識の表面からは抜け落ちても、身体の奥に刻まれたもの、ほんとうに大切なものは、忘れることなどできない。そういうことなんだろう。
 別れ。成長。そして再会。それはあるいは児童向けファンタジーにとってもっとも難しい課題かもしれない。いつまでもファンタジーの中に留まっているわけにはいかない。といって、ファンタジーをすっかり忘れてしまってもいけない。ひとはファンタジーだけでは生きられないが、ファンタジーなしでも生きられない。
 というわけで、『スタートゥインクル☆プリキュア』、平成末から令和にかけての1年間を締めくくる最終話である。


☆☆☆☆☆



 OP前の導入部、いわゆるアヴァンにて、①スターパレスではしゃぎ回るフワと、ふり回されて手を焼くプルンス氏らの様子が描かれ、それに続いて、②ユニの故郷(ほし)レインボーがアイワーンの発明で元に戻ったこと、③ララの故郷サマーンがAIへの過剰な依存を脱し、より人間味の豊かな社会に移行しつつあるエピソードが綴られる。それともうひとつ、プリンセスたちの会話として、④フワの能力がそう容易くは戻らない、ひょっとしたらずっとこのままかもしれない、ということも。
 これらは作中における「事実」で、前48話のラストを受けての後日談だ。
 OPが明けて、自宅の居間で、ひかるの祖父母がテレビを見ている。テレビからは、アメリカの大統領(女性であり非白人でもある)が「日本で初の有人宇宙旅行」を歓迎するニュースが(同時通訳付きで)流れている。「ほんと長生きするもんだわ。」と祖母がいう。「ひかるはどうした。」と祖父。ひかるの母・輝美が「ああ、ひかるなら……。」と言いながら画面左側からフレームイン。ここではまだ、三人とも顔は映らない。
 このくだりもまた、作中における「事実」で、じっさいに起こっていることだ。
 問題はこのあとである。
 シーンが変わって、あの懐かしい水辺で、ひかる、えれな、まどかが「みんな……元気かなあ……。」としんみりしていると、「フゥゥゥワァァァアアアーッ!」と、あの懐かしい声が響き渡って、とつぜんララのロケットが空から現れ、フワ、ララ、ユニとの再会が呆気なく果たされてしまう。そのご次作の主役キュアグレースさんの顔見世があり、ついで5人揃っての変身~バトル。
 このくだりは、いわばカーテンコール、ないしはエキシビションだ。
 あとでわかるが、このパートはすべて、「日本初の有人ロケット」に乗り込む直前に睡眠をとっているひかるの見ている夢なのだ。ひかるが「スターパンチ」を右手で打つのはそのせいだろうし、ほかにもいろいろ変なところがある。ただし、その夢のなかで語られた、「まどかは留学せず、えれなは父の祖国(メキシコ)に留学をした。」という件だけは事実と思われる。


 近未来っぽい電話の呼び出し音が鳴り響き、作中における「現実」がはじまる。薄暗い部屋のベッドで寝ているひかるのようすがちらっと映り(この時点では視聴者にはまだよくわからないのだが)、画面はふたたび、ひかるの実家の居間へと戻る。
 さきほどのシーンの繰り返し。テレビの中で、アメリカの大統領が、
「日本で初めての有人ロケットの打ち上げを、われわれも喜ばしく思います。」
 それを見ながら、「ほんと長生きするもんだわ。」と祖母。「ひかるはどうした。」と祖父。あらためて輝美が「ああ、ひかるなら、」と言い、「今頃、発射の準備でしょ。」とすぐに後の台詞がつづく。そこでアップになった輝美の顔が、短からぬ歳月の経過を示している。「まったく……連絡すると言ったのに。うーん……。」と祖父。
 居間にはもう一人、父の陽一もいる。ひかるにコールしていたのはこの人だった。
「もしもしぃ……」
「やっと出た。」(CVを務める大塚明夫さんのまろやかな美声がいい。ほんの僅かなやり取りなのに、この一風変わった父親の娘に寄せる思いが伝わってくる)
「ごめん、寝てて。」
「寝てたって……(笑)。もうすぐ宇宙へ行くっていうのに。ひかるらしいなあ。」
「あ……はは……」





「よーし!」



 成長を遂げ、「日本初の有人ロケットの飛行士」となったひかるのアップで、Aパート終了。



『スタートゥインクル☆プリキュア』第48話「想いを重ねて!闇を照らす希望の星☆」②さよならは言わない。

2020-01-21 | プリキュア・シリーズ



 キャンベルさんの『神話の力』、手元にあるのは文庫版じゃなく単行本なんだけど、読んでいて、妙にシンクロするんだなァ。ちょうどジョン・レノンに言及しているくだりへ差しかかった時に付けっぱなしのラジオからビートルズの曲が流れてきたりね。今回だって、年明けからのスタプリの展開のことを考えながらページを繰ってると、「12に1を足して13になると世界が動き出す。」だの「古い女神はよく蛇を伴った姿で描かれる。」だの、そんな文章がぱっと目に飛び込んできて……。本を読んでりゃ、そういうことはよくあるし、さほどフシギとも思わないけれど、こうやってエッセイを書くうえでは、重宝は重宝ですね。


 この本は単著じゃなくて、すでに大家となったキャンベルさんにジャーナリストのビル・モイヤース氏がインタビューしたものなんだよね。で、前回の記事をアップしてから、「じゃあ続きを。」ってんで本を手に取ると、モイヤース氏が、
「おとぎ話は、われわれを現実に適応できない人間にするんじゃないでしょうか?」
 なんて訊いている。キャンベル先生答えていわく、
「おとぎ話は楽しみのための話です。社会と自然の秩序という点から見ての人生の重大事を語る神話と、たとえ神話と同じモチーフを持っているとしても、娯楽のためのおとぎ話とは区別しなくはいけません。」
 だそうな。
 さらに、「おとぎ話は子供のためのものです。おとぎ話には、おとなの女性になりたくない女の子の話が大変多いですね。」とも仰っていて、どうも先生、おとぎ話にキビしいぞ……なんて考えてると、次のページで、
「おとぎ話は子供の神話です。人生の節目節目にふさわしい神話がある。年をとるにつれ、より強固な神話が必要になってきます。」と、くわしく敷衍している。やっぱり、おとぎ話をアタマから否定してるわけじゃないんだな。そこには大事なものがたくさん詰まっている。ただ、聴き手の年齢に応じて、お話のほうも、それなりに深まっていかなきゃいけない。そういうことでしょう。インタビューだから、相手の質問に合わせつつ、少しずつ核心に迫っていくわけね。




☆☆☆☆☆


 プリキュア・シリーズも、16年間の積み重ねの中で、ちょっとずつ「より強固」なものにバージョンアップしていってると思う。ことにここ数年は、各タイトルの締めくくりに際して、「別れ」と「成長」をいかに描くか。に心を砕いてるようだ。


 「ひとつの望みを叶えるためには、それだけの対価を払わねばならない。」
 ってのは、いちばん幼い子どもに向けたおとぎ話(ファンタジー)においてさえ外してはならないルールだろう。それに縛り付けるのもどうかとは思うけど、ここだけは押さえとかないと、やりたい放題になっちゃうもんね。


 フワを復活させるには、プリキュアの力を対価にせねばならなかった。もう変身することはできない。それに、フワが蘇ったとしても、ワープの能力も失っているし、記憶もなくしているだろう、とプリンセスが告げる。


 ひかる「それって……(手にしたトゥインクル・ブックを見つめながら)もう……宇宙には……」
 ララ「それでも……(トゥインクル・ブックの上に、そっと手を置いて)フワに会いたい。ひかるなら、そういうルン。」
 ひかる「ララ。でも……。」
 えれな「(その手に自分の手を重ね)プリキュアになれなくても、大丈夫。」
 まどか「(そこに自分の手を重ね)ええ。この宇宙には、キラやば~なイマジネーションがありますから。」
 ユニ「(さらに自分の手を重ね)私も……」
 ひかる「ユニ?」
 ユニ「故郷(ほし)のことなら大丈夫ニャン。アイワーンが、元に戻す方法を研究したいって。」
 ひかる「みんな……うん(最後に手を重ねる)。」




 「宇宙に行けなくなる。」のは、冒険好きのひかるにとっては辛いこと。それより何より、ユニ、そしてララ、異星からきたふたりの朋友(とも)との別れを意味する。
 ことに相方のララ。
 歴代タイトルにおいて「別れ」という主題を初めて前面に打ち出したのは2015年の『Go!プリンセスプリキュア』で、やはりあれは画期であったと思う。翌2016年の『魔法つかいプリキュア!』は、「別れ」にまつわる悲哀と、「再会」の歓びを、とても丁寧に扱っていた。
 2017年の『キラキラ☆プリキュアアラモード』の宇佐美いちかは、母の崇高な志と自らの「大好き」とを「まぜまぜ」して、稀にみる職業を選び取った。成長を遂げ、社会人として活躍する後日談がここで初めて描かれた。
 そのうえで、2018年の『HUGっと!プリキュア』は、「別れ」の後に「成長」を経て「ふたたび邂逅する。」までを見事に描いてみせた。シリーズとしては、ひとつの達成を果たした……といえるかもしれない。
 前半に肩入れしすぎて、後半の展開が不満だったせいで、ぼくは「HUGプリ」にとかく辛辣な意見を述べてきたけれど、ここにきて、「別れ」と「成長」の観点から、再評価すべきかなあ……と思い直してます。
 「HUGプリ」でも、最終話、幼児の姿で蘇ったルールーが、えみると過ごした楽しい日々の記憶を保っていた(それもまた「歌(デュエット)」で表現されていたけれど)。本来ならば覚えているはずのない記憶。いや、本当にそうなのか。意識の表面からは抜け落ちたとしても、身体の奥に刻まれたもの、ほんとうに大切なものは、忘れることなどできぬのではないか。


 「忘れるはずがありません。」と、ララのAIがまるで人間みたいな情感のこもった声音でいう。それに呼応するかのように、「ひ……か……る……?」とフワがつぶやく。ワープの能力は失っていても、ひかるたちの記憶は、フワのなかにちゃんと残っていた。




 いっぽうで、ペンダントの光が薄らいでいく。夢の時間は間もなく終わる。別れの時が迫っている。




 まずユニが。

「みんな……今まで、ありがとうニャン。……みんなと一緒にいられて、とっても、キラやば、だったニャン。」
まどかさんに続き、ここにきてユニも「キラやば」に陥落(あるいは彼女のことだから、別れに臨んだらこの言葉をいおうと前もって決めていたのかも知れない)


 そして……。




「私も、サマーンに帰るルン。私、地球で学んだことを、サマーンのみんなに伝えたいルン。」
ここではまだ気丈にふるまっているが……




「私、また、きっと行くよ。自分の力で……宇宙に。」




「ひかる……。」



 「また、きっと行くよ。……宇宙に。」を脳内にて直ちに「ララに会いに。」と正しく変換して滂沱の涙をながすララ。しかしペンダントの力が薄らいだため、もう言葉による滑らかなコミュニケーションはできない。
 それでも、この2人には、真情を伝え合う手立てがある。




「ひ……か……る……。ア・リ・ガ・ト」





「うん……ありがとう。」







 へびつかい座の残した力を(ガルオウガ経由で)使って穿たれたワームホール(的なもの)を抜けて地球へと帰還し……。







「またね……。」




 だれひとりとして「さようなら。」とは言わなかった。言ったのは、「ありがとう。」と「またね。」だけだ。まだ一回、最終話が残っている。スタプリは、どのような「再会」と「成長」を描いてみせるのだろう。











『スタートゥインクル☆プリキュア』第48話「想いを重ねて!闇を照らす希望の星☆」①最終バトル

2020-01-19 | プリキュア・シリーズ

 このところのスタプリがむやみに面白いんで、手元にあるジョーゼフ・キャンベルの『神話の力』(ハヤカワ文庫)を久方ぶりに読み返してるんだけど、いかに自分が、当ブログにおいて「神話」という用語(概念)を軽率に濫用していたか……をあらためて思い知って粛然たる気分になりましたね。やはり何だかんだいっても「近代文学」が沁みついた人間だから、「神話」をどっかで侮ってる面があったんだろうね。あきまへんなあ。


 「神話とはけっして絵空事でも、たんなる古いお話でもなく、ひとが成長するために不可欠な、いわば内面の儀式のようなもの。だから現代人にとっても……いや現代人にとってこそ重要なのだ。」とキャンベルさんは強調する。若い頃は「そりゃ神話学者なんだからそれくらい言うわな。」くらいの感じで読み流してたけど、今はつくづく「あーほんとにそうだなー。」と思いますね。


 あと、「神話」と「民話」とは違うんだよ、ということもキャンベルさんは言っている。「民話」は娯楽のために語られるが、「神話」はじっさいに精神的な教化を目的としている。裏返していうと、それが語られること/それを聞くことによってぼくたちが深いところで教化されるほどのものでなければ、「神話」と呼ぶに値しないわけ。いま世間にはファンタジーが溢れかえってて、映画もアニメも「むしろファンタジーしかない。」といいたいほどの状況だけど、そのなかで、たんに娯楽ではない真の意味での「神話」と呼べるレベルに達してるのがどれくらいあるのかはギモンですよね。


 そういう意味では、『スタートゥインクル☆プリキュア』だって、「神話」と呼べるまでの水準に届いてるかどうかは難しい。とはいえそれが、「神話的なファンタジー」なのは確かだし、とても優れた作品であることも間違いないでしょう。


 『神話の力』の中でも、「12という数字は調和がとれているが、そこに1が加わって13になることで世界が再創造へと動き出す。」とか、「女神はよく蛇を伴った姿で描かれる。」とか、示唆に富むフレーズがいくつもあってね。本作のシリーズ構成・メイン脚本の村山功さんがこの本に目を通してるかどうかは知らないし、読んでてもちっともフシギじゃないけど、もし読んでおられなかったとしても、それはそれで驚きませんね。そこがすなわち「物語の力」ってもんなんだ。そもそも「星座」をモチーフにした時点で、否も応もなくユング的なイメージは全編に瀰漫してるわけでさ。




☆☆☆☆☆




 へびつかい姫の闇の力が解放され、全宇宙が暗黒に呑まれて、四囲に何もない虚無のただなかに5人で放り出されたあと、「プリンセスたちから貸し与えられたものではない」自分たちのイマジネーションの力で再変身を果たすのは予想どおりだったけど、そこでひかるが歌いだし、ララ、ついでえれな、まどか、ユニが唱和してハーモニーを奏でるっていう演出までは読めませんでした。シリーズで初めて変身シーンに歌を導入したのはこの時のためだったのかな、と思えるくらいの名シーンになりましたね。




トゥインクル・ブック。思えばすべては、(幼い日に遼じいから貰った)この一冊のノートに詰まったひかるの「イマジネーションの力」から始まったのだ


フワはちゃんとここにいる






 「歌」は大事だよね。たんに演出ってだけで済ませちゃいけないのかな。歌はメロディーとリズムとを伴っていて、ここではさらにハーモニーも重なる。それは世界を震わせるもので、「生命」そのものの胎動にかかわっているのかもしれない。


☆☆☆☆☆


 さて。プリキュアシリーズはバトルアクションであると同時に対話劇でもある。つまり物理バトルの裏では観念論争が繰り広げられてる。とぼくは以前に書いたけど、とうぜん今話もプリキュア勢は、ラスボスたるへびつかい姫と(物理で激しくやりあいながら)対話を交わします。ここでは5人の思いがひとつになってるんで、ひとつの台詞を5人がそれぞれの言葉で繋いでいくわけだけど……。


 アクションは文字に起こしきれぬので、台詞だけを抜き出しましょう。


へび「ふん。おまえたちのイマジネーションは、所詮プリンセスたちの借り物。……そんなものでは!我には勝てぬ。」
ひかる「違うよーっ!」
へび「なにが違う。」
ララ「もとは、プリンセスの力かもしれないルン。」
えれな「でも今は、あたしたちのイマジネーションなんだ!」
へび「たわけ!」
まどか「わたくしたちは、自分たちで考え、思いを巡らせ、」
ユニ「イマジネーションを、育てていったニャン!」
ひかる「だから、私たちのイマジネーションなんだ! (とびっきりのスターパンチを打つ)」
へび(さらに禍々しき形相に。もはや蛇遣いというより自身が蛇神と化した格好だ)「すべてのイマジネーションは、我の闇に消したはずなのに。…………私だけの、イマジネーション……だと? その独りよがりが、ノットレイダーを生んだのだ。不完全なイマジネーションなど、我の宇宙にはいらぬ。そんなものが蔓延るから、宇宙は歪むのだ。我の宇宙こそが美しい。我の宇宙こそが、完全なのだ!」
ひかる「……そんなの、つまんないじゃん!」
ララ「そうルン。みんな、違うイマジネーションを持ってる。だから、だから宇宙は……楽しいルン!」
ユニ「それがあるから、苦しむこともあるニャン!」
えれな「でも、だから、わかりあえた時の笑顔が輝く!」
まどか「イマジネーションがあるから、わたくしたちは未来を創造できるんです!」

  5人の力を合わせた総攻撃に、さすがの蛇姫も押されていく。

ひかる「私は知りたい、あなたの……イマジネーションも……。」
へび「なにを……戯れ言を……消え失せろーっ。」
ひかる「イマジネーションはさ、消すよりも、星みたく、たっくさん輝いていたほうが、……キラやば~、だよ。」
へび「(息を飲み)……なんだ……この……光は。」
 暗黒に呑まれたはずの宇宙に、これまで作中に出てきた人々の数多の輝きが「あまねく」満ちる。演劇用語でいうところの「コロス」(コーラスの語源)である。
コロス「プリキュア、プリキュア」
フワ(みんなの想い、重ねるフワ。)
ひかる「はっ。 フワ……うん!」
フワ(イマジネーションの輝き。)
5人「想いを重ねて。プリキュア、スタートゥインクル・イマジネーション!」


 いや迫力たっぷりのバトルシーンだったけど、へびつかいさん、やはり「唯一神」になる気でいたみたいですね。「多様性の尊重」の対極として措定されてるわけだ。わかりやすい。ただ、「蛇神」本来のありようから見ると、ずいぶん単純化・矮小化されちゃいましたね。そこは致し方ないか。


(中略)




 戦い済んで、宇宙全域に流星が降り注ぎ……。




へびつかい姫「なぜだ……なぜ、大いなる闇だけを消し、我を消さなかった?」
ひかる「(笑って)消すわけないじゃん。」
おうし座のプリンセス「彼女たちのイマジネーションは、われわれの想像をはるかに超えて育ちました。へびつかい座のプリンセス、私たちと共に、彼女たちを見守りませんか?」
へびつかい姫「今さら戻れぬ。プリキュア。では見せてみろ。キラやば、な世界とやらを。」
ひかる「うん。」
へびつかい姫「もしその世界が誤っていれば、我は再び現れよう。」


 創造主相手でもタメ口を通し、ついには「キラやば~」思想に染めてしまったひかるはほとほと立派だけども、ここで「もしその世界が誤っていれば、我は再び現れよう。」と宣言して去っていく蛇姫が好きだなあ。2015年の『Go! プリンセスプリキュア』でも、絶望の権化たるラスボスのクローズと、希望を体現するキュアフローラ・春野はるかとが、1年にわたる闘争および問答の果てに「希望と絶望とは表裏一体。すなわち自分たちは互いが互いの影。」であることに気づいて再会を約して別れた。あれがいまだにぼくは忘れられないんだけど、それを継ぐようなシーンとなりましたね。









スタートゥインクル☆プリキュア 47話 その② フワのこと。

2020-01-14 | プリキュア・シリーズ

 前回の記事の末尾でぼくは、


 蛇遣い姫は一見すると紛うことなき「悪魔」に見えますが、じつは人間たちから「想像力≒能動性≒自由意志」を奪い、あまつさえ他の12柱を滅し、ひいては宇宙そのものを虚無に呑ませて破壊し尽し、何もかもをゼロから創り直そうとしている。つまりは、「唯一神」になろうとしているわけです。

 なんて述べたけど、改めてビデオをよく見返すと、すこし言い過ぎた気もしますね。
 彼女が、人間たちの「想像力≒能動性≒自由意志」を疎ましく思って、宇宙ごと消そうとしてるのはほんと。そこは間違いない。問題はそのあと。
 「宇宙創造と同様、宇宙の消去にも、我ら13星座の力が必要。」
 と、へびつかいさんは言っている。この方が、「宇宙の消去」を目論んでるのは事実だけど、その前に「他の12柱を滅」するわけにはいかない。消去するためにはとりあえず他の12柱の力も借りなきゃいけないから。
 だとすると、また「ゼロから創り直」すためにも、とうぜん他の12柱の力が必要って理屈になりますよね。
 「消去」と「再創造」を済ませたのち、他のプリンセスたちを手にかけるつもりなのかもしれないけど、そこまで明言はしていない。
 へびつかい姫が、他の12柱を捻じ伏せて、この作品世界のなかの「唯一神的な存在」になろうとしているのは確か。ただ、他の12柱を完全に滅して、真の唯一神になろうとしてるのかどうかまではわからない。そこはちょっと言い過ぎたかもですね。


 なぜ、そこにこんなに拘るのか。それは、へびつかいさんと、他の12柱とを冷静に見比べたとき、「悪神」と「善神」とが相克している……ようには必ずしも見えないから。つまり、この方々はひかるたちとは別の次元、遥かな高みにおられて、そこから人間たちを見下ろしている。神なんだから当然っちゃあ当然だけど、はっきり言うなら、ずいぶん傲慢であらせられるわけです。その点においては、じつはどちらも変わらない。プルンス氏がショックを受けてたのもそのあたりだと思いますね。
 その傲慢さは、クライマックスシーン直前における以下の会話に端的にあらわれています。



 ひかる「フワは器なんかじゃない!」
 へびつかい座「器だよ、正真正銘。なあ、プリンセスたちよ? 奴(フワ)はプリンセスの力を入れる儀式の場。このスターパレスの一部!」
 プリキュア勢「えええっ!」
 プルンス氏「なに言っているでプルンス? どういうことでプルンス? プリンセスーっ」
 プリンセス(のうちの誰か)「フワと、トゥインクル・イマジネーションで、儀式を行うのです」
 プリンセス(のうちの誰か)「プリキュアとフワで思いを重ね、彼女の闇を止めるのです」
 プリンセス(のうちの誰か)「止めねば、宇宙が消えます」
 ひかる「止めるって……」
 プリンセス(のうちの誰か)「止めるには、プリンセスの力が必要」
 プリンセス(のうちの誰か)「プリンセスの力の半分はフワのなか」
 プリンセス(のうちの誰か)「残りの半分は」
 プリンセス(のうちの誰か)「ひとびとに授けたイマジネーション」
 プリンセス(のうちの誰か)「その結晶こそが、トゥインクル・イマジネーション」
 へびつかい座「闇を止める、か? 奴らがお前たちを動かしていたのは、我を消すため」
 ひかる「えっ……消すっ……て……」
 プリンセス(のうちの誰か)「すべては、宇宙を守るため」
 へびつかい座「ふふっ。言っておくが、消えるのは我だけではないぞ。……その力を使えば、器はこのパレスに戻る。存在は確実に消える」
 ひかる「フワが……消える……」



 情報量が多すぎて、ひかるたちはもちろん、見てるこちらも混乱しそうなやり取りですが、へびつかい座も含めた13星座の女神たちが、フワを「器」としか見ていないこと、そして、ひかるたちプリキュアを、いささか言葉は悪いけど、「へびつかい座のプリンセスを消すための手段」、いわば宇宙の自浄装置のように見なしていることは明らかです。
 だから、プリンセスたちは「pre-cure」なんて、妙な言い方をしてました。歪んだイマジネーションを「前へと戻し、浄化する力」だと。「pre-」が「前へ。」で、「cure」が「浄化する。」ってわけですね。
 紛らわしいけど、この「前へ。」は「前方へ。」じゃないんだ。たんに元に戻すってこと。後戻りなんだよね。


 もうひとつ重要なのは、「プリンセスの力の半分はフワのなか。残りの半分は、ひとびとに授けたイマジネーション。その結晶こそが、トゥインクル・イマジネーション」というくだり。
 そしてそのトゥインクル・イマジネーションは、いまキュアスターたち5人のプリキュア勢の身の内にある。
 これはいささか寂しい話ですよね。ここまで5人でいろいろな経験を積み、それぞれに成長を遂げて身につけたはずのトゥインクル・イマジネーションは、じつは「創造主から授けられた力」の発現でしかなかったという。
 いや、やっぱ、かなりがっかりでしょこれ。



 でも、さすがは神の御言葉だけあって、そこに偽りはなかった。呆然とするキュアスターたちの隙を突き、へびつかいさんが創出した恐るべきブラックホール(的なもの)が、今まさに5人を虚無の底へと呑み込まんとする……






 ……その刹那、
 「だいじょうぶフワ」という耳慣れた声が、ひかるの心にとどく。
 そして……。




「フワが、みんなを、守るフワーっ」
これまでずっと守られて続けてきたものが、「守る」立場に回る。しかしその代償はあまりにも……




変身解除


変身解除


5人のトゥインクル・イマジネーションを結集して……




「みんな、今まで、ありがとうフワ」




「だめーっ。」
いやほんとにダメだろうこれ


「ああっ。」「だめルン!」「そんな……。」「フワーっ。」こんな時でもララの台詞はひかると対になっているのだが、そんなこと言ってる場合ではない



「フワああああーっ。」これまで身命を賭して寄り添い続けた有能かつ忠誠無比な守り人の叫び



「想いを重ねるフワーっ。  スタートゥインクル☆イマジネーション!」
「想いを重ねるフワ」は毎週の浄化シーンのお約束のせりふ、いわゆる「バンク」というやつで、正直たいがい見飽きてたけど、それがここでこんな形で使われちゃうとはね……。劇場版における(ぼくは観てないけど)ひかるの「キラやば……」と同じで、ルーティン化した決まり文句が文脈を変えて「ここ一番」で活用されると、いかに多大な効果を発揮するか。というお手本ですね








 ひかるをはじめ、まどか、ララ、ユニ、えれなの変身が解けるのは、フワがみんなのトゥインクル・イマジネーションを回収したから。つまり、プリキュアの強大な力がプリンセスたちから貸し与えられたものであること、もっと言うと、貸し与えられたものに過ぎなかったことが、ここで証明されたわけ。そしてフワは、自分の中のトゥインクル・イマジネーションと併せて(つまり半分+半分で、すべてのトゥインクル・イマジネーションを結集して)、「大いなる闇」としてのへびつかい座に正面からぶつかっていった。






 こうして「大いなる闇の力」はフワと共に消滅し、フワの貴い犠牲によって、全宇宙は救われました。めでたしめでたし。
 ……というわけにはもちろんいかない。そんなもん、ハッピーエンドでもなんでもない。



 そもそも、この『スタートゥインクル☆プリキュア』という作品において、フワはいかなる存在なのかって話ですよ。


フワ(CV・木野日菜)。藤子・F作品に出てきそうな愛らしさ。正式な名前は「スペガサッス・プララン・モフーピット・プリンセウィンク」。第1話の冒頭にて、自室で望遠鏡を覗いて天体観測をしているひかるのもとに吹き抜けの窓から落ちてきた……わけではなく、ノートブックから飛び出してきた……のだけれど、やはり「落ちもの」には違いあるまい。いずれにせよ、じつにストレートな導入部だった。本作のテンポの良さはあそこから始まっていたと思う。名前については、当人(?)もめんどくさかったらしく、ひかるが「フワ」と呼んだらすっかり気に入って、プルンス氏やララがいくら訂正しても、以後は自分でもそうとしか名乗らなかった





フワ。第31話にて、すべてのプリンセススターカラーペンが揃ったことでこの形態に。正式名称に「ペガサス」がちゃんと入ってたんだな……と思ったけど、よく見るとこれ、ペガサスってよりユニコーンだな。中盤にて「成長」を遂げて容姿が変わるのはシリーズ初じゃなかろうか




 思い出してみましょう。主人公の桃キュア星奈ひかる(1話でプリキュアに覚醒)はもちろん、プルンス氏とともにフワを守るべく敵から逃げ回って宇宙船で地球まで来たララ(2話で覚醒)も、もともと何ら関係のない天宮えれな(4話で覚醒)、さらには父の職務上フワの存在を看過できない立場だったはずの香久矢まどか(5話で覚醒)の両先輩までも、プリキュアになった動機は「フワを守りたい!」という一心だった。
 全員の動機が一緒なんですよ。ここまで明快なのは歴代タイトル初ですね。
 なお、追加戦士のユニだけは少し事情が違ったけど、プリキュアに覚醒(20話)するまえ、ちゃんとフワと一対一で心の交流をもってます。そのへんのシナリオにぬかりはありません。




 すなわち『スタートゥインクル☆プリキュア』とは、愛らしき宇宙妖精フワを5人のプリキュアたち(とプルンス氏)がひたすら守り抜くお話……でもあったわけですよ。




 そのフワが、消滅した。いかに宇宙が救われても、これではなんにもめでたくない。
 かつて鉄腕アトムは地球を救うべく単身ロケットに乗って太陽に突っ込んでいった(別ヴァージョンの最終回もあり)。けど、そのような自己犠牲こそ、プリキュア・シリーズがその当初から周到に、しかし頑として否定していたことなのであって。
「地球のため、みんなのため それもいいけど忘れちゃいけないこと あるんじゃないの?」
 という、第一作『ふたりはプリキュア』のEDの歌詞のとおりですよ。






 だからひかるは、ララは、えれなは、まどかは、ユニは、創造主たるプリンセスたちから付与された力ではなしに、今度は自分たちの力で、自分たちがプリキュア仲間やクラスメートや家族や先達や社会や異星の住民たちやノットレイダーとの関わりのなかで得た力……本作の趣旨に即していえば、自分たちの「イマジネーションの力」でもって、プリキュアに変身しなきゃいけない。
 それこそが、「歪んだイマジネーションを元に戻す」だけの「pre-cure」、「宇宙の秩序を回復する」だけの「pre-cure」、後戻りする「pre-cure」ではなしに、「みんなと一緒に未来へ進む」ほんとうの「プリキュア」なんだってことですね。
 そうしてフワを取り返す。そんなことはありえない? それがどうした。「ありえない」を可能にするのが、イマジネーションの力じゃないか。
 創造主たちの定めたルールがなんだ。「運命」がナンボのもんだと。
 すなわちこれは「神」からの自立の話。ニーチェ以降のモダン(近代)の生んだおとぎ話ですね。プリキュア・シリーズは、モダン(近代)というもののもつもっとも良質な部分をあつめてつくった麗しいファンタジーなのだと、あらためて今回思い知りました。















『スター☆トゥインクルプリキュア』第47話「フワを救え!消えゆく宇宙と大いなる闇!」考察。①

2020-01-12 | プリキュア・シリーズ


(ひか&ララ)×カパ


えれ×テン


ユニ×アイ


まど×ガル


プルンス氏とノットレイダーたち


 内容紹介のほうは、ひとまず上掲の尊い4(+1)枚の画像を以てこれに代えることとしまして、サブカル&神話マニアの立場から、(旧)へびつかい座のプリンセスさんの意図するところを考察します。


 蛇神というのはほぼすべての民族の神話にあらわれますが、1月6日の記事「蛇神必ずしも邪神に非ず。」で述べたとおり、もともと「禍々しきもの」といった意味合いはありません。
 総じて蛇は、「原初の根源的な宇宙の力」をあらわします。そこから「再生を司るもの」にもなる。ギリシア神話の名医アスクレピオスはその力を借りて死者をすら蘇らせてしまう。そこで冥界の王ハデスがゼウスに苦情を言い、人間同士の相互扶助を快く思わないゼウスが雷霆で彼を殺める。のちにそれを反省し、天界にあげて神々の列に加え、星座にした。それが本来の「へびつかい座」です。


 本作『スタートゥインクル☆プリキュア』は、ほかの12星座ともどもこの「へびつかい座」に「女神」の姿を与え、さらに日本古来のヒュドラ(多頭蛇)である八岐大蛇のイメージを重ね合わせて、魅力的なキャラを造形しました。これまでプリキュアたちの前に立ちはだかってきた敵がみな改心して和解を果たした今、本作における最後の「悪」(つまりはラスボスですね)の役割を担うものとして、申し分のない存在感でしょう。




 もちろん、今作のスタッフは、彼女に「ウロボロスの蛇」のイメージを重ねることも怠りません。




ウロボロスの蛇とは……

ウィキペディアより


ウロボロス (ouroboros, uroboros) は、古代の象徴の1つで、己の尾を噛んで環となったヘビもしくは竜を図案化したもの。


語源は、「尾を飲み込む(蛇)」の意の「古代ギリシア語: (δρακων)ουροβóρος」(〈ドラコーン・〉ウーロボロス)。その後は、同じく「尾を飲み込む蛇」の意の「ギリシア語: ουροβόρος όφις」(ウロヴォロス・オフィス)と表現する。


◎象徴的意味
ウロボロスには、1匹が輪になって自分で自分を食むタイプと、2匹が輪になって相食むタイプがある。2匹のタイプの場合、1匹は何も無い素のままの姿だが(王冠を被っているタイプもあり)、もう1匹は1つの王冠と1対の翼と1対の肢がある。


ヘビは、脱皮して大きく成長するさまや、長期の飢餓状態にも耐える強い生命力などから、「死と再生」「不老不死」などの象徴とされる。そのヘビがみずからの尾を食べることで、始まりも終わりも無い完全なものとしての象徴的意味が備わった。


古代後期のアレクサンドリアなどヘレニズム文化圏では、世界創造が全であり一であるといった思想や、完全性、世界の霊などを表した。
錬金術では、相反するもの(陰陽など)の統一を象徴するものとして用いられた。
カール・グスタフ・ユングは、人間精神(プシケ)の元型を象徴するものとした。
他にも、循環性(悪循環・永劫回帰)、永続性(永遠・円運動・死と再生・破壊と創造)、始原性(宇宙の根源)、無限性(不老不死)、完全性(全知全能)など、意味するものは広く、多くの文化・宗教において用いられてきた。


◎歴史
ウロボロスのイメージは、アステカ、古代中国、ネイティブ・アメリカンなどの文化にも見受けられる。


中国では、新石器時代の北方紅山(ホンシャン)文明(紀元前4700年 - 紀元前2900年)の遺構から、青色蛇紋石で作られた「猪竜(ズーロン)」または「玉猪竜(ユーズーロン)」と呼ばれる人工遺物が発掘されている。これは、ブタのような頭とヘビの胴体を持ち、みずからの尾をくわえた姿をしている。


今日見られるウロボロスの起源となる、みずからの尾をくわえたヘビ(または竜)の図の原形は、紀元前1600年頃の古代エジプト文明にまでさかのぼる。エジプト神話で、太陽神ラー(レー)の夜の航海を守護する神、メヘンがこれに当たり、ラーの航海を妨害するアペプからラーを守るため、ウロボロスの様にラーを取り囲んでいる。これがフェニキアを経て古代ギリシアに伝わり、哲学者らによって「ウロボロス」の名を与えられた。


◎宗教とのかかわり


ヒンドゥー教での自らの尾をくわえる竜
北欧神話では、ミッドガルドを取り巻き、みずからの尾をくわえて眠る「ヨルムンガンド」が登場する。詳細は当該項目参照。
キリスト教や一部のグノーシス主義では、ウロボロスは物質世界の限界を象徴するものとされた。これは、環状の姿は内側と外側とを生み出し、そこに境界があるととらえたため。また、みずからの身を糧とすることが、世俗的であるとされた。ハンガリーやルーマニアのユニテリアン教会では、教会堂の棟飾りにウロボロスが用いられている。
ヒンドゥー教では、世界は4頭のゾウに支えられており、そのゾウは巨大なリクガメに支えられ、さらにそのリクガメを、みずからの尾をくわえた竜が取り巻いているとされている。
トルテカ文明・アステカ文明では、ケツァルコアトルがみずからの尾を噛んでいる姿で描かれているものがある。






 ぼくのほうから付け加えると、「ウロボロスの蛇」は宇宙そのものの成り立ちおよび構造を解くモデルでもあって、村山斉さんの『宇宙は何でできているのか』(幻冬舎新書)の巻頭にも引用されてます。「宇宙という頭が、素粒子という尾を飲み込んでいる。広大な宇宙の果てを見ようと思って追いかけていくと、そこには宇宙が口を開けて待っているというわけです。」
 スタッフはぜったいこの本読んでますよね。




 さて。キリスト教の文脈では、「蛇」はイブをそそのかして知恵の実である林檎を食べさせ、「楽園追放」の原因をつくったものとして忌まれています。唯一不可侵の絶対神を奉じる宗教においては、当の神以外に「原初の根源的な宇宙の力」なんてのを認めるわけにはいかないんですね。
 それで、「蛇」が「禍々しきもの」となり、果ては「悪魔」にまでなってしまう。
 しかし、上記の引用の中にもあった(前にこのブログでも取り上げました)「グノーシス派」では、「蛇=悪魔」は、「人間に知恵を与えたもの」として、むしろ貴ばれました。ゆえにこの派閥は「異端」として厳しい迫害を受けます。




 「蛇=悪魔」は、キリスト教的神話体系において、堕天使ルシファーとも重ね合わされますが、有名な神秘主義者ルドルフ・シュタイナー(1861 文久1 ~ 1925 大正14)は、このルシファーのことを、「悪の二大原理の一つ」と裁断し、「その影響によって人間は能動性と自由意志を獲得したが、同時にそれは悪の契機となった。」と論じています。ほんとうはもっと細かい議論なんですが、ここでは簡単のためにそう要約しておきましょう。








遠目にはやはり十字に見えるようだ。黙示録的なイメージなのだろう




 でも考えてみてください。「絶対者」としての「唯一神」がいて、その下には、ただ唯々諾々とその命じるところに従うだけの「人間たち」がいる、そして他には何もない……という構図だったら、きっと世界は動かぬし、「物語」も動かないのではないでしょうか。そこに「悪魔」が介在してこそ、森羅万象に息が吹き込まれるのではないか……とぼくは思います。




 本作のメインテーマは「イマジネーションの力(=想像力)」なので、すべてがそのキーワード(キーコンセプト)に収斂されますが、言い換えればこれはシュタイナーのいう「能動性と自由意志」でもありましょう。「12星座のプリンセス」たちは宇宙創成のさいにそれを「人間たち(あらゆる知的生命体)」に与えた。しかし、へびつかい座のプリンセスは、それが「歪んだイマジネーション」の源になると、つまりは「憤り」や「悲しみ」や「妬み」、さらには「争い」の源になると言って強く反対し、スターパレスを去ったわけです(あけすけに言ってしまうと、ぼくにはこの方が「まるっきり間違っている」とは思えません)。




 ここが面白いんですね。蛇遣い姫は一見すると紛うことなき「悪魔」に見えますが、じつは人間たちから「想像力≒能動性≒自由意志」を奪い、あまつさえ他の12柱を滅し、ひいては宇宙そのものを虚無に呑ませて破壊し尽し、何もかもをゼロから創り直そうとしている。つまりは、「唯一神」になろうとしているわけです。
 本当に面白い。「現代サブカルの粋を集めて神話を語り直した」ものとして、ぼくにとっては忘れがたい作品となりました。この段階でもう「自分にとってのプリキュアシリーズ最高傑作」に認定したいほどですが、ここはいったん落ち着いて、次週の放映を待ちたいと思います。












『スター☆トゥインクルプリキュア』第46話 前回記事の補正・蛇神必ずしも邪神に非ず。

2020-01-06 | プリキュア・シリーズ


akiさんからのコメント
2020/01/06
蛇神、ナーガ、八岐大蛇


 ダークネスト様、男っぽい合成音声が女性声に変化した辺りから、「おっ!」と思いましたよ。鮮やかに予測的中ですね。(^^)


 元蛇遣い座のプリンセスにどんな絶望があったのかは次回以降のお楽しみというところでしょうが、まあちと身も蓋もないことを言うと、現在の宇宙物理学では、この宇宙は膨張と共に冷えていき、やがて各恒星はそのエネルギー源である核融合の材料を使い果たして(つまり軽い水素などの物質がなくなってしまう)、ブラックホールを除いて宇宙は暗黒の空間となり、やがてそのブラックホールもエネルギーを放出し尽くして消滅し、宇宙は真の暗黒世界となる、と推測されています。プリンセス、気長に待ってりゃ願いは叶うのにw


 まあそうなるまでには10の何十乗年という気の遠くなるような長い時間が必要ですが。さらにこの宇宙にはまだ解明されてないダークエネルギーの存在が予測されてますので、それら未知の力がどんな振る舞いをするのかも全く分かっていません。実は「宇宙が冷え切る」ことはないのかもしれない。創造神たるプリンセスであればその辺は判っているでしょうから、「こんなんやったら壊したれ!」と思ったのかもしれませんけどね。


 それと、彼女が身にまとっている蛇ですが、八岐大蛇との解釈は妥当だと私も思うんですが、実は世界には、純粋に神聖な存在として蛇を崇めている例も結構あるんですよ。
 例えば中国古代の「三皇五帝」の「三皇」に数えられる伏羲と女媧は「蛇身人首」の神ですし、インドの神話では「ナーガ」と呼ばれる蛇神が複数登場します。日本でも白蛇が祀られた神社が多数ありますし、蛇が脱皮した後の抜け殻は「ラッキーアイテム」としても知られています。wikiで調べてみると、ギリシャ神話でもヘルメスやアスクレピオスが持っている杖に蛇の姿が意匠されており、(アスクレピオスはまさに「蛇使い座」の主人ですがw) 蛇は神性を持った生き物として見られていたことが判ります。
 キリスト教では、イブを誘惑して知恵の実を食べさせたのが蛇ということになっていて、蛇と言えば悪魔の化身と見なされますが、この蛇も実は堕天使ルシファーだと見る説もあるそうですね。とすると、元は神聖なる存在であった蛇遣い座のプリンセスが、なんらかの理由で堕天(≒スターパレスから去る)した結果、禍々しい邪神となって現れてしまった、という結果を表すために「蛇」というモチーフはうってつけである、とも言えそうです。


 さらに彼女が憎んでおられる想像力についても、突っ込もうと思えば突っ込めるんだけど、さすがにそこまでやるのは野暮てなもんですね。まずは彼女の言い分を聞いてみないことにはw
 というわけで、次回も楽しみにしたいと思います。・・・・今回は意地悪なツッコミコメントになっちゃいました。(笑)




☆☆☆☆☆

ぼくからのご返事。




(旧)蛇遣い座のプリンセス。「すべて消し去る。」と言い切った時の目。いっちゃってますね


侮蔑


嘲り。たまりませんね






 今回たまたま記名欄が空白だったんですが、文体と内容ですぐakiさんだと確信できるのがすごい(笑)。
 いやプリキュアのラスボスは数あれど、いくらなんでも「創造神(の一柱)にして破壊神を兼ねる」ほどの傑物は前代未聞なんで、コーフンしてしまいました。さすが宇宙を舞台に据えるだけあるわー。
 本来であれば、いっけん「正義」にみえる「星空連合」の艦隊と、いっけん「邪」にみえるノットレイダー軍とが、いずれも「歪んだイマジネーション」に囚われた同じ立場に過ぎないことを見切って、「みんなみんな、同じ宇宙に住む宇宙人でしょ!」と割って入るキュアスターの器のでかさを取り上げるべきなんだろうけど、蛇遣いさんの存在感と、あとアイワーンちゃんの可愛らしさに思考の大半をもってかれちゃって(笑)。
 宇宙の末期については、ぼくは長らく「ようするにエントロピーが増大して熱的死でしょ?」と思ってたんですが、近ごろの理論ではそんなシンプルな話でもないらしく、いまいち理解が及んでないです。リサ・ランドールの本をちょこっと齧りかけたんだけど、「えっこれって何のSF?」みたいな感じで、近年稀にみる珍紛漢紛でしたねえ(もちろん、ランドールさんが悪いんじゃなく、こっちの頭がザルなんですが)。
 そのあたりのことは、このたびのコメントの中の「ダークエネルギー」と関わってくるんじゃないかと思うんだけど、これはこれで大変な話になるんで、宇宙の件はいずれまた何かの折につっこみを入れて戴くとしまして、今回はなんといっても蛇ですよ蛇。


 そうそう。中国神話の伏羲と女媧ですね。こういう話を補足としてつっこんで頂けるからありがたい。兄妹とも夫婦ともいわれ、いずれも下半身が蛇体で、絡み合った姿でよく描かれる。龍もそうだけど、中国では蛇体のものを聖化する傾向がありますね。
 「上半身が人間で下半身が蛇」というビジュアルは面白いと思ったんで、まえに調べたんですが、ギリシア神話の「アテーナイの初代の王ケクロプス」、同じくアテーナイ王の「エリクトニオス」という人(正確には半神ですが)たちがそれに該当するようです。ほかには残念ながら見当たりませんでした。いや別に残念ってこともないけど。
 中村光のギャグマンガ『聖☆おにいさん』で、何かにつけてブッダに絡む「かまってちゃん」のマーラがこの姿で描かれるんだけど、仏典には特にそう明記されてるわけではなく、これは「ナーガ」を模して中村さんがそのようにキャラ設定したみたいですね。
 コメントにもあったそのナーガですけども、ウィキ先輩の記述には、
「上半身を人間の姿で表し、下半身を蛇として描く構図を用いる例もあるようだが、一般的なものではなく、経典等の記述においては、コブラなかんずくインドコブラ自体の容姿を思わせる記述としてあり、インドや南伝仏教圏においては純粋に蛇として描かれることの方が多い。東南アジアのインド文化圏では、頭が7つある姿が多い。(……略……)釈迦が悟りを開く時に守護したとされ、仏教に竜王として取り入れられて以来、仏法の守護神となっている。特に法華経の会座に列した八大竜王は有名で、その多くがもとはインド神話でも有名なナーガの王(ナーガラージャ Nāga Raja)であった。」
 とありました。たしかに蛇神ナーガは、けっして負の存在ではなく、釈迦を守護するものとして仏教にも取り入れられたわけで。
 日本だと、仰るとおり、白蛇をご神体とする神社がたくさんあるし(うちの実家のそばの神社にも、楠の大樹にシロヘビが棲んでいて、よく拝みに行きました)、何といっても三輪山の大物主神というお名前どおりの大物がいらっしゃいます。
 崇拝の対象ということでは、アステカ神話の文化神・農耕神たるケツァルコアトル。この方はテスカトリポカと並ぶ二大主柱ですが、「羽毛を持つ蛇」の姿で描かれることが多い。ほかにもおられるんだろうけど、いま思いつくのはこれくらいかなあ。


 そう。ギリシア神話の医学の神・アスクレピオスはまさに「へびつかい座」ご本人ですね。いやご本人ってのも変か。この方は蛇の巻き付いた杖を自らの象徴として手にしており、この「蛇杖」は今日でも医療・医術のシンボルマークとして世界的に広く用いられているとか。そこはさっきウィキ先輩から教わったばかりですが。
 みんな知ってるメデューサとか、ヘラクレスに退治されちゃうヒュドラとか、ギリシア神話には「蛇」が否定的に扱われるケースも多いけど、いっぽうでは上記のケクロプスやエリクトニオス、それにこのアスクレピオスさんの例もあって。

 総じていえば、蛇は「原初の根源的な宇宙の力」をあらわすのでしょう。そこから「再生を司るもの」にもなる。だからアスクレピオスはその力を借りて死者をすら蘇らせてしまう。そこで冥界の王ハデスがゼウスに苦情を言い、人間同士の相互扶助を快く思わないゼウスが(どうもこの主神は料簡が狭いように思います)雷霆で彼を殺める。のちにそれを反省し、天界にあげて神々の列に加え、星座にするという流れですね。
 「原初の根源的な途轍もない力」ってことでいえば、北欧神話のヨルムンガンド、そのまま劇画(アニメ)のタイトルにもなりましたけど(好きな作品です)、これは世界を取り巻くほどの大蛇ですね。たしかケルト神話にクロウ・クルワッハというのもいたかな。似たようなイメージは他の神話にもあるんじゃないかと思うけど、正直ちょっと気色わるいんで(笑)、なかなか調べにくいです。でも、こういった大蛇のイメージが、底知れぬ力としての「蛇」に対する人類の畏怖を端的にあらわしてると思います。

 問題は、いや問題ってこともないけど、やっぱりキリスト教なんですが、こちらはなにぶん厳格なる一神教なんで、断じて他に神を認めない。それで、本来ならば「大いなる力」「再生を司るもの」の具現化として、文化圏によっては聖性をもったり、崇められたりもする「蛇」のイメージが貶められて、「悪魔」になったり、「禍々しきもの」にもなってしまう。それで、キリスト教を奉じてるわけでもないのに、イメージ論的には明らかにその影響下にあるぼくたちも、ついそんな感覚で見てしまうのかもしれません。
 大蛇(ドラゴン。竜)にしても、聖人としての英雄によって退治されるていどの怪物に矮小化されちゃうし。


 知恵の実の林檎をイブに食べさせた蛇は、あの手の「大蛇」とはまた別系統かな。絵画では、人間めいた顔もあって、手足もついてて、ヘビってよりも大きめの人面トカゲみたく描かれることも多いですが。
 劇場版まどか☆マギカ『叛逆の物語』で、自分が魔女化したことを悟って絶望した暁美ほむらが自らを紫色の蜥蜴(とかげ)に仮託する場面があるけど、あれってほんとは「蛇」じゃないかと思うんですよね。



 そのあと何やかんやあって、ようやく円環の理としてのまどかが迎えに来てくれたとき、ほむらは口からソウルジェムを吐き出し、それを噛み砕いて別のもの(ダークオーブ)に再構成しちゃう。




 ある種の蛇は口から卵を産む。との俗信がありまして、あのエピソードはそれをなぞってるようにも思えます。「蛇」だったらロコツすぎるんで「蜥蜴」にしたけど、結局は同じことなんじゃないか。いずれにせよ「悪魔」のシンボルでしょう。
 旧約聖書に出てくるあの蛇は、「人間を神の言いつけに背かせた。」点で「悪」と見なされるけれど、見方を変えれば、「神が無垢(愚か)なままに留めおこうとした人間に知性を授けた。」ともいえる。それが不幸の始まりといやあ、そうなんだけど、恩人っちゃあ恩人ですよね。
 それで、聖書に基づく「キリスト教的神話体系」みたいなものが作られていく過程において、堕天使ルシファーと同一視されたりもして、だんだんと話がフクザツに、つまりは面白くなってくわけですが。


 有名な神秘主義者ルドルフ・シュタイナー(1861 文久1 ~ 1925 大正14)は、ルシファーのことを、「悪の二大原理の一つ」と裁断し、「その影響によって人間は能動性と自由意志を獲得したが、同時にそれは悪の契機となった。」と論じている……とウィキペディアには書かれてますけど、ぼくの知ってる限りでは、シュタイナーはそこまでシンプルな言い方はしてないです。でも、シュタイナー氏の言説は控えめに言って「ぶっ飛んでる」んで、それくらい要約しちゃっても仕方ないかな……とも思います(怒る人は怒るでしょうけど)。
 もう少しこちら側に近い人だと、ニーチェが『善悪の彼岸』の中でこう述べてます。
「悪魔は神にたいしてもっとも広大な視野をもっている。だから悪魔は、神からはるかに身を遠ざけているのだ。――すなわち悪魔こそ、もっとも古くからの認識の友である。」(ちくま学芸文庫版・134ページ)
 ぼくとしては、このフレーズが、「叛逆」における「再改編後」の世界でのほむらの立ち位置にダブって、泣けてくるんですが(苦笑)。大好きなまどかから、無理して身を遠ざけちゃってね……。
 いずれにせよ、「絶対者」としての「唯一神」と、それに従うだけの「人間たち」……という構図だったら、きっと世界は動かないし、物語も動かない。そこに「悪魔」が介在してこそ、森羅万象に息が吹き込まれるのではないか……と思うわけです。


 こう考えていくと、ここにきて満を持して登場した蛇遣い姫はその禍々しき容姿からして、さらには「スタプリという物語を終結へと向けて推進するもの」として、まごうかたなき堂々たる「悪魔」といっていいはずですが、しかしよくよく推察すると、ひょっとしてこの方は、結果としては「神」に、それも「唯一神」になろうとしているのか……という気もします。
 本作は「イマジネーション」という用語(概念)にすべてを収斂させてますが、それはすなわち上記の引用に即して言い換えるなら、人間のもつ「能動性」であり「自由意志」でしょう。それがあるから人間は……というか、宇宙における知的生命体はみんな不幸になっているのだと、蛇遣いさんは信じてるんだと思います。だからそれを「忌々しい」と切り捨てる。
 すべての生命体が「能動性」や「自由意志」を……「想像力」を持たない宇宙のなかでは、「憎しみ」や「悲しみ」や「争い」もない。それこそが望むべき世界のありようなのだと、どうやら彼女は信じているのではないか。
 これはぜひ、ひかるたちのほうから彼女に訊いてもらいたい……それこそ「小一時間問い詰めて」もらいたいところですけども、今のところ、ぼくはそのように憶測しています。
 でも、そのために、いったんすべてをご破算にして、一から創り直そうというんだから、ほんとに桁が違いますよね(笑)。たまりません。「そこにシビれる、憧れる~」というやつで、これ元ネタ知らないんだけど、使い方あってますよね?
 なんかあれこれ書きましたけど、とにかくもう、蛇遣い姫さん、「サブカル&神話好き」にとっては美味しすぎるキャラなんで、あと3話、児童向けファンタジーアニメの臨界点ぎりぎりいっぱいまで、「哲学的」にひかるたちとバトル&問答を繰り広げていただきたいです。その顛末によってはほんとこれ、ぼくのなかでの「プリキュアシリーズ最高傑作」になるでしょうね。









『スター☆トゥインクルプリキュア』第46話「ダークネスト降臨!スターパレスの攻防」

2020-01-05 | プリキュア・シリーズ


何を置いてもこの画像だけは外せない。アイワーンの「デレ」顔



それともちろんこの人。ついに正体をあらわした「(旧)蛇遣い座のプリンセス」



この貫禄。今作における「悪」の表象を一身に担う勢い



 日本は正月休みでも、世界情勢は容赦なく動く。googleニュースのトップは、にわかに不穏さを増す中東の地のこと。宗教(宗派)、民族、路線、さまざまな不安定要因が十重二十重に絡み合う火薬庫のような情況のなかに、アメリカが燃え盛る松明(たいまつ)を投じた……という印象。いや勉強不足で詳しいことは知らないんだけど、予断を許さぬ事態だろうなとは思います。もともとぼくは心配性だし。
 そんな折でも日曜の朝8時半になると滞りなくプリキュアさんがはじまることはきっと幸福なのでしょう。アニメーションは平和と豊かさのもたらす果実(戦時中にも国策アニメが作られてたとか、制作現場はブラックだとか、そんな話はいったん脇に置いといて)。だとすれば、とりあえず今は、そのたわわな果実を味わうことにいたしましょう。



 最終決戦の始まりというより、その除幕というべき回でしたね。しかし宇宙空間を舞台に善と悪とが壮絶な戦いを演じるとなると、どうしてもこれは、もはや「メロドラマ」では収まらず、ぼくの大好きな例のほらあれ、そう「神話」ってことになっちゃうんだけど。
 ダークネストの正体は蛇遣い座(EDテロップにはこう表記されていた)のプリンセスで正解だったけど、彼女はスターパレスに「入れなかった」のでも「追い出された」のでもなく、自らの意志で信念をもってそこから「去った」とのこと。この違いはでかい。
 蛇という存在はほとんどすべての民族の神話において「禍々しきもの」と捉えられていて、ぼくの知るかぎり例外はネイティブ・アメリカン(いわゆるインディアン)やアフリカ、あとオーストラリアとか、そのくらいじゃないかと。これも掘っていけばキリのない話題ですけど。
 この女神様があやつるのは、ただの蛇じゃなくヒュドラ(多頭蛇)ですね。どう見ても邪まですな。蛇神であり邪神です。なるほどたしかに、鬼と河童と天狗と一つ目小僧なんだから、八岐大蛇のイメージが重ね合わされてもいるのでしょう。深いです。なんというか、民俗学的に、深い。


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 CVを務める園崎未恵さんの公式コメントです。


ダークネスト・へびつかい座のプリンセス役:園崎未恵さんから公式コメント到着!
https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1578131411


(一部を引用)

(へびつかい座は)12星座のホロスコープが誕生した当時には黄道からは外れていた星座で、地球の自転軸の傾きで太陽が通るようになって、新しい星占いといったような形である時期登場しましたが、あまり世の中には馴染まなかったといういわくのある星座です。

実はダークネスト初登場の際に「ダークネストの正体はへびつかい座のプリンセスです。」と早々に衝撃の説明を受けてしまい、ダークネストは“ダークネストという存在”だと思っていたわたしは、びっくりしてしばらく言葉を失ってしまったのですが、へびつかい座のプリンセスが何故そうなったのか、イマジネーションの力をどうして忌々しいと思っているのか、お話を聞くにつれ、星座占いでのへびつかい座や、わたしの中で推察された“ダークネストの部下たちの姿が日本の妖怪を模して描かれている理由”が、今回のシリーズの根幹のテーマ『多様性』に一気に結びついて、ざあッと鳥肌が立ってしまったのを覚えています。


☆☆☆☆☆


 そうですね。ぼくだって、「正体はへびつかい座だよね。」と早くに予測はしてたけど、いざこうやってご本人に登場されると「おおっ。」となりましたからね。ついにユニに対してデレちゃったアイワーンはじめ、ほかにも見どころ満載だったのに、なんか蛇遣いさんにばっかり目がいってたという。


 台詞がまたよくってね。


「我は、蛇遣い座のプリンセス。かつてはそう呼ばれていた。」
「我は、奴ら(12星座のプリンセスたち)とともにこの宇宙をつくった。だが、忌々しき想像力が蔓延るこの宇宙は、完全なる失敗作。よって、すべて消し去る。」
「本気で宇宙を乗っ取れるとでも? 見捨てられし日陰者たちが、おこがましい。」
「儀式により、大いなる闇を広げる。 (大いなる……闇?) 鈍いな。あの闇は我の力だ。(あの……ブラックホールが……)」()内はガルオウガ氏による合いの手。




 ブラックホール。この用語が一般にいきわたったのは1970年代くらいからじゃないかなあ。アニメでも漫画でもSF調のものなら必ずといっていいほど出てきた。「光さえ吸い込む」ということで、何もかもを虚無の底に飲み込んでしまう破滅の代名詞みたいに使われたけれど、最近の理論ではまた別の見方も出ているらしい。いずれにしても、「飲み込まれたら只では済まない。少なくとも現状を保ったままではいられない」のは間違いないようですが。




「忌々しき想像力が蔓延るこの宇宙は、完全なる失敗作。よって、すべて消し去る。」
 なんなんだろう。まったく訳がわからない。大丈夫かこの人。中2なのか。いやこの無茶苦茶さがたまらない。久々に痺れるキャラに会いました。神話好きにとっちゃ、このキャラはあまりに美味しすぎるよ。
 「すべて消し去る。」つってんだから、破壊神でもあるわけですね。それも破壊しっ放しってんじゃなく、「失敗作」をいったん壊して再創造するつもりなんだから、さながらシヴァ神に近い立ち位置なんだ。その方が「想像力」を激しく憎んでおられる。理由はまだわからないけれど。
 これはもう、今作の根幹テーマが「イマジネーション」だからね。そこに全編の命運がかかってくるのは当然ですが。
 だんだんと帰趨が見えてきました。これまでの数多の経験を踏まえ、それぞれの課題を乗り越えて成長を果たし、ついにカッパード、テンジョウ、ガルオウガ、アイワーンと和解を果たしたプリキュア勢が、奪われし「希望の象徴」フワを奪還すべく彼女のもとに乗り込む。
 そこで「イマジネーションの力」の真価を、その素晴らしさを、この蛇神=邪神=破壊神に知らしめることができれば「勝ち」なんだけど、さて、そのプロセスがどれほどの説得力をもって描かれるのか。そもそも彼女は、なぜ想像力を「忌々しい」と断ずるのか。まずは話はそこからですが。
 来週も楽しみです。


 訂正) コメントでもご指摘がありましたが、文中の「蛇という存在はほとんどすべての民族の神話において「禍々しきもの」と捉えられていて」というくだりは勇み足で、正確とは言えません。詳しくはこの次の記事「前回記事の補正・蛇神必ずしも邪神に非ず。」や、1月12日の記事「『スター☆トゥインクルプリキュア』第47話「フワを救え!消えゆく宇宙と大いなる闇!」考察。」をご参照ください。









謹賀新年。

2020-01-01 | プリキュア・シリーズ

 あけましておめでとうございます。
 新年早々お詫びというのもどんなものかと思うんだけど、これだけは書いておかねばなりますまい。
 前回の記事にて、「あるブログにコメントを投稿したのに、削除されてしまった。」という愚痴をマクラに振ったんですけども、これは完全なるぼくの早とちりでした。
 ブログの仕様はサービス会社ごとに異なっていて、そちらのばあいは、このgooブログとは異なり、コメントを送った直後に一時的に全文が表示されるんですね。そして、いったんページを閉じると、情報が更新される。
 それで、次にページを開いた際には、送ったコメントが見えなくなっている。
 ブログ主さんからの承認を受けると、再び全文が表示されるんだけど、ぼくはそれまでの間に当該ページをみて、「削除されちゃった。」と勘違いしたわけです。
 ぼくみたいにそそっかしい人は滅多にいないだろうけど、同じような勘違いが起きることが皆無とは言えないと思うので、ひとつの事例として書いておきます。
 昨日、そのブログ主さんから直接コメントをいただきました。eminusというハンドルネームからここを探し当ててくださったそうで、丁重なお詫びの言葉に重ねて、ぼくの記事についての感想まで書かれてあり、「こちらこそ失礼なことを」と、たいへん痛み入った次第です。
 すぐにこちらからもブログを訪ねたところ、ぼくのコメントは再表示され、ていねいな返信コメントも添えてありました。
 「大みそかのお忙しい時に、お手間とご心労をおかけして申し訳ありません。」と再度コメントを投稿しておきましたが、この場を借りて、あらためてお詫びいたします。申し訳ありませんでした。
 akiさんからは、『「この人なら……」と見込んだ人が予想外の人でがっかりするより、自分の想い違いだった方がずっといいと思います。』と慰めのコメントをいただき、そのとおりなんだけど、今回のばあいは、早とちりそのもの以上に、その旨をブログに書いてアップしちゃったことが最大の反省材料ですね。私的な日記に綴ったんならまだしも……。
 なんにせよ、最低でも1週間くらいは待ってみて然るべきところでした。いかにブログの仕様に不案内だとはいえ、いろいろな可能性があるわけだから。
 というわけで、今年のモットーは「自重」です。「癇性」ともいうべき根っからの性急さを戒め、軽挙妄動を慎むことに努めたいと思います。
 前回の記事は、前半部分を削って、村上春樹さんにかんするところだけ残しました。なんか『1984年』の話が取ってつけたみたいになってますけど、これはまた、直せるときに直しときます。
(このあと、晩になってから、『1984年』のくだりを削って全面的に改稿しました。)

 それで、まあ、こんなことの後では、なんとなく気が引けるんだけど、ほんとに素敵なんで、そのブログをご紹介させていただきましょう。
 「金色の昼下がり」さんです。『不思議の国のアリス』の巻頭を飾る詩篇から取られているのでしょうか。
 アドレスは、

 とかく「メロドラマ」だの「影(シャドウ)」だのと、物語論の枠組みに当てはめがちなぼくとは違って、プリキュアシリーズそのものへの愛に満ちた緻密で楽しい考察が繰り広げられています。
 ぼくが見つけたのは、たしか12月の半ばくらいだったけど、「こんなブログがあるんなら、ぼかぁもうスタプリのこと書かなくていいかな。」と思いましたね正直なところ。だけど、いちおうそこは、自分には自分なりの書き方もあるか……と思い直して、あと一ヶ月、最終話まで付き合ってみることに致します。


☆☆☆☆


 akiさんからは昨日2本のコメントをいただき、それぞれ、漢籍からの引用がキーになってました。
 ひとつは、「知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼れず。」
 これはさすがにわかります。『論語』ですね。でもそれ以上はわからないので(昔いちおう通読したけど、ほぼ忘れている)、調べてみると、
「子罕(しかん)第九」が出典でした。金谷治・訳注の岩波文庫版では「三十」、貝塚茂樹・訳注の中公文庫版では「二十九」になってますけども。
 こうやって、頂いたコメントをきっかけに、腐海の底に沈んだ書物を引っ張り出して、いわば知識の「煤払い」ができる。これもまたコメントの功徳の一つかなあと。
 もうひとつが、周の武王(殷の紂王を討って王朝を開いた中国古代の聖王)が、殷との最終決戦となった「牧野の戦い」で、左手に黄鉞(こうえつ)を杖として臨んだ、という半ば伝説のような故事。
 これは私、まったく知らなかったので、ネットで検索してみると、『史記』が出典なんですね。
 鉞(えつ)とは斧の大きなもので、天子が将軍に征討を命ずる時そのしるしとして授ける。天子が自ら征討に赴くときは、黄金で飾った鉞を用いる。それがすなわち黄鉞とのこと。
 『史記』は8冊セットの全訳がちくま学芸文庫で出てますが、あいにく書店で手に取ったこともない。横山光輝氏のものをはじめ、古代中国を舞台にしたエンタメは数あれど、そちらのほうにも疎い。あ。ひとつだけ例外があった。『蒼天航路』。これはもうほとんど座右の書で、何度読み返したかわからぬほどだけど、三国志なんで、ずっと時代は新しくなります。
 『スタートゥインクル☆プリキュア』のキュアスターこと星奈ひかるが、つねに決め技の「スターパンチ」を利き腕ならざる左手で打ち、両膝をついたカッパードには右手を差し伸べる……というくだりから、先の武王の「左手に黄鉞」の故事を連想した、との趣旨のコメントだったんですが、このように、現代サブカルの粋を尽くした児童向けファンタジーアニメと、遥か古代の異国の故事とが、その本質において通底してしまうところが、「物語」の醍醐味であり、ひいては人類の「文化」の豊かさだなあ……と思いました。
 本年も「物語」や「文学」を軸に、思いつくまま綴っていきます。よろしくお願いいたします。