ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

どうせ読まないだろうな、と思いつつも若い世代にかなり本気で勧めたい純文学のこと。ほか。

2019-05-27 | 純文学って何?
 元はといえば「なんで純文学はこんなに読まれないんだろう😢」という切実なギモンを抱いて、大塚英志さんはじめ「物語」にかんする論考を読んだり、エンタメ小説を読みはじめたところ、これがむやみに面白くて、どんどん深入りしていった。それも、ケン・フォレットあたりに夢中になってるうちはまだよかったんだけど、
「いや、現代における真の《物語》とはエンタメ小説でもなればラノベでもない。つまり活字媒体ではない。むしろマンガやアニメこそが、現代社会の物語と……否、《神話》と呼ぶべきだ!」
 なんて逆上せあがってしまったもんで、気がつけばアニメ関連のカテゴリのほうが多くなり、ネット上から拝借した画像を貼りまくったりして、すっかりカラフルでポップなブログになってしまった。
 それはそれでまあ、かまわないんだけど、ふと我に返ってみると、「あれれ……?」という気分もある。
 たしかに今や自分の中の「純文学信仰」はかなり薄れてしまったが、むろん、「純文学など無用」「純文芸誌は出版社にとっての不良債権」「芥川賞なんて文芸春秋社のための単なるイベント。やめちまえ」とまで考えているわけではない。良質の純文学は、いつの時代にも、どんな社会にも必要だ……と思ってはいるが、とりわけ若い世代に幅広く純文学が読まれるような世の中は、よほどのことがないかぎり、もう二度とこない気がする。
 それでも、『火花』が芥川賞をもらえばベストセラーにはなる。ただのミーハー気分(死語?)もあろうが、「純文学ってなんかムツカシそうだけど、どんなんだろう? この機会にちょっと見てみたいな」という知的好奇心も少しは与っているはずだ。
 アマゾンを見ると、『火花』の文春文庫版には現時点において1500件弱のレビューが付いていたが、ふだん純文学を、というかおそらく小説自体をあまり読まないそんな若い人たちの赤裸々な意見がみられる。
 「くだらなすぎて呆れた。小説というものは、もっときちんと勉強をした、高い品性の持ち主が書くべきだ。」
 などという率直な感想もあって、おもしろい。じゃあ町田康や村上龍の受賞作はどうなるんだろう……とも思うが、これはもう、ノースロップ・フライというカナダの優秀な文芸批評家が述べているとおり、「時代が進めば進むほど、小説の主人公はますます卑小になっていく。」のだから、しょうがない。
 小市民的になるのだ。それこそ「物語≒英雄譚≒神話」から遠ざかっていくわけである。
 もし仮に、自分の身近にまじめで優秀な高校生がいて、
「ちゃんとした文学ってものを読みたいんだけど、何がいいですか」
 と訊かれたら、


 『三四郎』夏目漱石 新潮文庫ほか
 『若き日の詩人たちの肖像』堀田善衞 集英社文庫
 『迷路』野上弥生子 岩波文庫
 『野火』大岡昇平 新潮文庫
 『黒い雨』井伏鱒二 新潮文庫
 『豊饒の海』三島由紀夫 新潮文庫
 『流れる』幸田文 新潮文庫
 『芽むしり 仔撃ち』大江健三郎 新潮文庫


 あたりを挙げるだろう。社会や歴史の実相を学ぶ上での勉強になる、ということもあるけれど、これらの作品には、登場人物の「内面」「省察」「思想」がしっかり叙されているからだ。
 W村上よりも上の世代ばかりだが、やはり龍さんが華々しくデビューした1970年代半ば(昭和だとちょうど50年代)から、ニホンにおいては「小説の主人公がますます卑小になっていく」勢いが加速し、主人公たちからは内面や省察や思想がなくなって、薄っぺらになった。
 『限りなく透明に近いブルー』のリュウなんて、卑小どころか犯罪者である。麻薬及び向精神薬取締法違反。あと暴行罪も成立するか。
 ついでだから書いておくけれど、あの中にはヘロイン、モルヒネをはじめ「総ざらえ」といいたいくらいに各種の麻薬が出てくるが、違法薬物は、どんなことがあろうと絶対、絶対、やってはいけない。いけません。
 文学史には「薬物系」という流れがあり、20世紀にはバロウズという怪物的な人も出たけれど、それはそれ、これはこれで、「虚構」と「現実」とは厳正に弁別されねばならない。
 あと、村上龍という作家はその後、起業家などとの交流を広げ、作品をどんどん分厚く、大きくしていったわけだけど、それもまた別の話だ。
 話を戻そう。「小説の主人公がますます卑小になっていく」ことは、社会学のレベルでいえば、「モダン(近代)の終焉」「知識人の解体」と軌を一にしている。
 「目指すべき理想の社会(未来)」とか、それに伴う「目指すべき理想の人格」ってものが霧消してしまった、なくなっちゃった、ということだ。
 だから「内面」もなければ「省察」も「思想」もない。必要ない。むしろ邪魔かもしれない。
 いまは「なんでもいいからカネをいっぱい儲けた奴が勝ち」という社会で、それはまあ、世の中なんていつの時代でも、どこの地域でも蓋を開けてみりゃそうなんだけど、ただ、それでも昔はどこかに遠慮というか恥じらいがあって、ここまで露骨に、傍若無人にオモテに出すことは慎んだもんである。
 マイケル・ルイスの『世紀の空売り』(映画『マネー・ショート』の原作。文春文庫)は面白くてタメになる一冊で、ほんとうに優秀な高校生ならば、上に挙げた「純文学」より先にこちらを読むべきなのかもしれないが、この解説を藤沢数希さんが書いている。
 文庫版が出たのは2013年で、「解説者略歴」には、「ツイッターのフォロワー7万人超」とある。
 その続編の『ブーメラン 欧州から恐慌が返ってくる』も14年に文庫になっており、そこでの解説者略歴だと、「ツイッターのフォロワーは9万人」である。
 いま2019年現在、フォロワーは16万人半ばである。ツイッターのことはよく知らぬが、テレビにしょっちゅう顔を出すタレントでもないのにこの数は、かなり多いほうだろう。
 なぜそんなに読まれてるかは、じっさいにツイッターをみれば瞭然だ。
 5月25日時点だと、こんな具合である(時系列順に編集)。



みんなが思い描くキラキラのホワイトカラーって、有名大学の平均的な学生の卒論ぐらいのワークを会食とかがポンポン入ったりする環境で、毎週涼しい顔してやってくぐらいの情報処理量とアウトプットなんよ。マジで。こんな仕事みんなが目指すべきものなんかな、という気がする。


年収が高いキラキラのホワイトカラーって、まあ、有名大学の平均的な学生の2倍とか3倍ではなく、10倍オーダーの知的生産性で、はじめて平社員みたいな感じなんよね。これが。


日本でも有名大学のトップ1%ぐらいの学生の知的生産性は、同じ大学の平均的な学生の知的生産性の20~30倍ぐらいはあるな。


それで、なぜこうなってるかというと、何か意味のあるアウトプットをすることを、たとえばボールを壁の向こうに投げるゲームに例えると、その壁の高さがちょうどトップ1%ぐらいの人が必死で投げるとたまに超えるぐらいになってるんよ。平均的な人だと1000回投げても1つも壁を超えないのよ。


僕がサラリーマン時代に嫌だったことのひとつは複数の仕事を同時にやらないといけないことだった。研究者気質だったんでひとつの仕事に集中して片付けて次に行くほうが効率いいだろう、とずっと思っていた。しかし自営業になって誰からも指図されなくなってからも常に2つ3つの仕事を同時にやってる。


世界は自分を中心に回っていないので仕事は自分が一つずつ集中できるようにタイミングを合わせてやってきてくれない。で、サラリーマン時代に培った、マルチタスクでも質を落とさずやっていくスキルは、大変に役に立っている。


最近は親も学校の先生も会社の上司も厳しいことを言わなくなった。結果、多くの若者は、何も言われないまま、次の声がかからない、という穏当な方法でビジネス社会から見限られ、底辺に落ちていき、そこで暮らしていくことになる。




 おもしろい。
 これは藤沢さんではなく、「藤沢さんのようなタイプの人たち」として、あくまでも一般論としていうのだが、このような方々は端的にいって「成功者」であり、いまを存分に謳歌している。もし仮に安倍内閣がとんでもない失政をして、日本の国益を損なったとする。おおかたの大衆はまるで気づかず、一部の聡い人たちだけが気づく。もちろん「成功者」たちは「聡い人たち」でもあるから即座に気づく。
 ただ、こういう方々は気がつきはしても批判などしない。するはずもない。批判などしても一文の得にもならず、むしろ損になるからだが、もっと大きな理由がある。
 それは「ビジネスチャンス」に他ならないからだ。日本の国益が損なわれるということは、そのぶん誰かが儲けるということである。であれば、何食わぬ顔でその「儲ける人たち」の中に加わればよい。それで今回のゲームの勝者になれる。
 それでこの国の将来がめちゃくちゃになったら? もちろん、そんなことは構いやしない。潤沢な資金を蓄えて、海外の住みよい国へ移住すればいいだけのことだ。
 念のため繰り返すが、これは特定の方をさして述べているのではなく、いまどきの「成功者」たちの心性ってものを、ぼくが勝手に邪推して書いてるだけなので誤解なきよう。
 『世紀の空売り』『ブーメラン 欧州から恐慌が返ってくる』を読んでから、藤沢さんの一連のツイッターを拝見してたら、そんな妄想というか、邪念のようなものが黒雲のごとく脳裏にわきあがってきた。失礼の段はご容赦ください。
 ただ、ひとつだけかなりの確実性をもっていえるのは、藤沢さんも、その16万人超のフォロワーの方々も、きっと『若き日の詩人たちの肖像』も『迷路』も『野火』も読んでおられぬだろうな、ということだ。
 むろん、やっかみ半分でいうのだが、少なくともその点に関しては、ぼくはそんな人生はイヤである。














どろろとプリキュア。あるいはサブカルの教育効果について。

2019-05-25 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽
 平成の30年間は、この国が直接「戦争」に巻き込まれることこそなかったものの、必ずしも平穏無事な歳月だったとはいえない。もっとも、ニッポンの歴史において、任意の30年間を切り取ってみたらまるっきり平穏無事でした、なんて時期が在ったはずもないが。
 ぼくの記憶にあるうちで、かろうじて「無憂の時代」と呼べるのは、のちにバブルと呼ばれる1986(昭和61)~1992(平成4)年のあいだとその前夜……まあ70年代の終わりごろからだろうか。だからせいぜい10年ちょっとだ。しかもそんな時期には人の心が奢侈(しゃし)に傾き、後でろくでもないことになると決まっている。借金して遊びまくったツケを請求されるようなものだ。
 平成の初頭ってのはその「取り立て」の時期という感じで、いわゆる「失われた10年」のなかで、大震災もあればオウム事件もあった。さらにそれから平成の半ばにかけては、少年(および少女)による、思わず絶句させられるような凶悪かつ短絡的な事件が続発した。
 10代による犯罪発生率は全体として下がっているにもかかわらず、少年法の改正(厳罰化)が取りざたされたのも、そういった事件のもたらすショックゆえに違いない。
 昔であれば未成年による凶悪犯罪というと「金品欲しさの物取り強盗」が主であり、だから経済的格差(貧困)の是正が有効であったわけだが、あのころに起こった事件はそれとはまるで別のものだった。物質的な豊かさは十分に達成されているはずなのに、それでも起こってしまうのだ。これはもう、「心」の問題としか言いようがない。
 飢えに苦しんでるわけでもないのに、心だけが荒廃している。考えてみると怖いことではある。
 子どもの心を養うのは、まずは家族や近親者、それに学校や近隣などの地域社会とのつながり。むろん教育も大きくかかわってくる。
 教育もまた「文化」の一環だけれど、文化には、そういった正規のものとは別に、副次的なものもある。親や教師から強いられるのでなく、自分で選んで読む本なんかがそうなんだけど、もっと刺激が強くて惹きつけられるのは、テレビやマンガ、今日であれば加えてゲームにネット。これらのものは、「否応なく押し寄せてくる」といっていいくらいだ。
 ぼくは人並み以上に小説に親しんできたほうだと思うけど、それでも今になって振り返ると、心身の発達期において、ドラマやマンガやアニメなどのサブカルチャーから受けた影響は思った以上に大きかったようだ。70年代でさえそうだったんだから、今ならば尚のことだろう。
 ぼくがついついサブカルにこだわり、もともとは本の書評やなんかをやるつもりで始めたブログでサブカルの話ばっかやってるのも、たんに好きってこともあるが、「マンガやアニメの教育効果」ってものにつき、けっこうマジメに考えてるからでもある。
 それを称して「物語」とか「神話」とか、我流の用語で呼んじゃうもんで、いまひとつ論旨がわかりにくいな……と読み返してみて自分でも思うが、より一般的な物言いに直せば、だいたいそんな感じになる。
 本音をいえば、ぼくなんかが子供のころ毎週楽しみにしていた「世界名作劇場」(海外の良質な児童文学のアニメ化)を今の技術で復活させてほしいんだけど、これは諸般の事情でムリであろうと承知している。それで代替としてプリキュアにずっと注目している次第だが、これも本音をいうならば、変身したりバトルしたりがほんとに必要かなあとは思っている。つまり、あれをファンタジーじゃなくリアリズムでやれんもんかな……と考えてるわけだが、いや、結局これは同じことを言ってるだけか。

 プリキュアはなにぶん対象年齢層が低いので、基本、「お花畑」の世界である。ひとの心や社会の闇はもっぱら「敵」に投影されて造形される。プリキュアさんたちはそれを武力で「殲滅」するのではなく「浄化」する。浄化したあとは元の平穏な日常が戻る。
 ただ、ぼくが歴代の最高作と位置づける『GO!プリンセスプリキュア』では、ヒロインの春野はるかが、一年間の闘いの果てに、「夢(希望)は絶望があってこそ生まれる。つまり両者は表裏一体」という認識に到達し、ラスボスである「絶望の権化」を浄化するのでも追い払うのでもなく、未来の再会を約して淑やかに別れる……という結末を迎えた。その爽やかな苦みは、「お花畑」を超えて、ぼくたちの生きるシビアな「現実」につながっていくものであったと思う。





「またな」
「ごきげんよう……」




 『どろろ』のばあい、対象とする視聴者層がまるで違うので比べること自体おかしいのだが、およそ「お花畑」の対極に……すなわち作品の「世界観」においてプリキュアの対極に位置するものだ。
 戦乱の世の苛烈さなんて、暖衣飽食に慣れ親しんだぼくたちには想像さえつかないが、おおよそ1970年代から、網野善彦さんはじめ優秀な中世史家が台頭してきて、ふくざつで多層的な「中世像」が提示されてきた。
 ちなみにいうと、宮崎駿監督の『もののけ姫』は網野史学から多大な影響を受けており、「もののけ姫の原作者は網野善彦。」とまで言っている学者さんもいる。
 2019年MAPPA版リメイク『どろろ』にも、そういった勉強のあとは見えるが、そのような歴史学的というか、リアリスティックな面とは別に、何よりもこの作品は、まずはダークファンタジーとして在る。
 ファンタジーってのは、ぼくの用語だとすぐ「神話」だの「物語」だのと一緒くたにしてしまってよくないのだが、たんなる絵空事でも、消費されるだけのコンテンツでもなくて、やはり「そのときどきの現実社会の写し絵」であろうとぼくなんかは思っている。
 「心」を持たず、剥き出しの暴力装置として荒ぶる初期の百鬼丸は、冒頭でふれた「平成の御代の恐るべき子供たち」の姿にどうしても重なる。そんな彼が、どろろとの交流によって少しずつ心を育てていくさまが、平成を終え、令和を迎えるにあたっての、サブカル側からのひとつのメッセージのようにも視えてくるわけだ。









2019年版アニメ『どろろ』再説。

2019-05-24 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽



 このあいだ、押し入れの奥から秋田書店版の『どろろ』全四巻を引っ張り出して、ほぼ20年ぶりに読み直したんだけど、記憶に残ってた以上にひどくて、びっくりした。ここまで粗悪だったかなと。
 粗っぽいし、荒っぽい。ぶった切られたみたいに終わっちまうしさ。
 いくら60年代の作品とはいえ……。これ、ちゃんと構想練ったのか。「作品」と呼べるかどうかも怪しい。ほとんど習作か、「ラフスケッチ」といいたいレベルである。
 まあ、そもそも「未完」だという話もあるが、いずれにしても、このころの作品としては、例えば『バンパイア』とか『W3(ワンダースリー)』のほうがずっとよく仕上がっている。
 思えば鉄腕アトムの中の「地上最大のロボット」もそうだった。粗っぽいし、荒っぽい。ラストシーンでお茶の水博士が、「なんだか夢のように終わってしまったのう。」などと述懐するほどである。手塚さん自身が呆れて自嘲しているようにもみえる。
 あれを元にして『PLUTO』(小学館)を描き上げた浦沢直樹ってひとはつくづく凄い。
 それというのも、初期の『メトロポリス』や代表作の『ジャングル大帝』、さらには『ATOM』など、手塚作品のリメイク企画はいろいろあるが、「傑作」と呼べるほどのものは見当たらないからだ。
 (テレビアニメ『アトム・ザ・ビギニング』は最新のロボット工学の知見を取り入れた秀作だったが、あれはリメイクというよりスピンオフだろう。)
 大方の評価は知らないけれど、ぼくにとっては、手塚作品の優れたリメイクといったら『PLUTO』しか思い浮かばない。イラク戦争という今世紀初頭の大きな愚行を題材に、「地上最大のロボット」という長編の、さらには『鉄腕アトム』全体の抱えるテーマを現代に蘇らせた。
 まさに手塚治虫×浦沢直樹の時代を超えたコラボレーション。才能と才能とがぶつかり合って火花を散らす。リメイクとはかくあるべきだ。
 「神話」とは、繰り返し、巻き返し、さまざまな語り手のことばに乗せて語りなおされ、時代とともにどこまでも熟していくものなのである。
 ぼくはこの、「神話が語り継がれる営為」がむちゃくちゃ好きで、「なにを大仰なことを」と笑われるかもしれないが、『宇宙よりも遠い場所』の第12話を『古事記』のなかの「根の国下り」と重ね合わせて、やたらとコーフンしたりする。
 『どろろ』も「地上最大のロボット」も、ひとつの作品としては呆気にとられるほど粗っぽいし荒っぽいのだが、「物語の祖型」としては端倪すべからざるもので、いくつもの連載を抱えて描きとばしつつも、こういうものを生み出してしまうところが、手塚治虫の天才たる所以(のひとつ)だといえる。
 ことに『どろろ』である。
 時は室町末期。野心のために魔物と契約した領主の父親のため、生まれながらに身体の48ヶ所を奪われた少年(設定では14歳だからまだ少年だろう)が、拾い親の養父から武器を仕込んだ「義体」を授けられ、戦乱の世を流離いながら、死闘の末にひとつひとつ取り戻していく……。
 その名も百鬼丸。
 要約するだけで胸が痛く、また熱くもなるストーリーではないか。
 作品そのものの粗っぽさ、荒っぽさにもかかわらず、発表後すぐにアニメ化され、そのあともなお多くの読者を魅力してきたのも頷ける。
 かくいうぼくも、およそ文化とは縁遠い家庭に生まれ、近所の図書館に通ってひとつずつ「基礎的教養」を身に着けていくたびに、僭越ながら心のどこかで自らを百鬼丸になぞらえていた。
 『どろろ』は、上でもふれたアニメ版(白黒)のほか、柴咲コウ・妻夫木聡による映画版もあり、ノベライズされたり、ゲームになったりもしているが、そういった直截なリメイクではなく、「影響を受けた」「触発された」作品であれば、それこそ枚挙に暇がない。むしろそっちのほうが重要だろう。
 『鋼の錬金術師』も『犬夜叉』も、もとよりそれぞれ毛色は違うが、ずうっと系譜を遡っていけば、どこかで『どろろ』に行き着くんじゃないか。
 手塚の後継者のひとり石ノ森章太郎の『サイボーグ009』までをも併せるならば、このあいだハリウッド映画になった『銃夢』も、さらにはあの『攻殻機動隊』までも、射程に入ってくるかもしれない。
 それほどの作品なのである。あんなに完成度低いのに。粗っぽくて荒っぽいのに。
 つまりまあ、作品そのものよりも、そこで提示されたコンセプトが凄かったってことだろう。
 いうまでもなく「貴種流離譚」である。ほぼ全人類に共通の「英雄物語」の原型といえる。しかも、彼が「蛭子(ヒルコ)」であるということで、生々しく日本の神話につながってくる。
 その『どろろ』が、2019年、MAPPAによってリメイクされた(放映中)。これがほんとに素晴らしくて、往年のヅカファン(宝塚ではない。手塚ファンのこと)たるぼくにとっては『PLUTO』以来の胸アツ物件なのだった。
 MAPPAといえば、あの劇場映画『この世界の片隅に』をつくった制作会社だ。高い志と技術を備えた集団なのである。
 MAPPA版リメイク『どろろ』の、どこがそれほど素晴らしいのか。
 タイトルロールの少年(と見せかけてじつは少女。年齢は推定5~6歳)どろろと、百鬼丸とが出会うところからストーリーは始まるのだが、原作だと、百鬼丸は声帯もなければ耳の機能もないのに、当たり前のように喋っているし、周りの音も聴こえている。
 作中では「テレパシー」「腹話術」といった説明がなされる。そもそも義体の手足を動かすことも「念動力」でなければ不可能なので、一種の超能力者といえる。
 年齢相応の自我を備えてふつうに生活し、旅をしているという設定は、最初のアニメ版や実写映画版をふくむすべてのリメイクで踏襲されてきた。いま、士貴智志(しきさとし)さん(べらぼうに画力の高い人だ)による最新のマンガ版リメイク『どろろと百鬼丸伝』が連載中だけど、ここでもその初期設定はそのままである。
 MAPPA版リメイクはそこが違う。大きく違う。決定的に違う。
 どろろと出会ったとき、百鬼丸には周りの音が聞こえていない。喋ることもできない。だからとうぜん会話もできず、そもそも意思の疎通ができない。
 視界は、暗がりの中にぼんやりと事物の輪郭が浮かび上がる感じである。生き物かどうかは、「動くか否か」で本能的に判断してるだけだ。そのなかで、彼を襲ってくる魔物など、害意をもつものは赤く染まって映り、そうでないものは穏やかに白い。
 禍々しく赤く染まったものが、ふいに飛び掛かってきたりすれば、両腕に仕込んだ刀を抜いて容赦なく切り捨てる。剣の業前(わざまえ)は達人なのである。
 そうやってこれまで生き延びてきた。
 第1話をみて、この新しい設定にぼくはシビれた。「これだこれだまさしくこれだ。」と思った。そうなのだ。このお話は本来このように語られるべきものだったのだ。それでこそタイトルが『百鬼丸』じゃなく『どろろ』なのだ。
 運命的な邂逅のあと、どろろは百鬼丸にしつっこく付いていく。原作だと「腕に仕込んだ名刀が欲しいから」などとこじつけた理由になってるが、戦乱の世で親を失い保護者もなく、その日いちにちを生き延びられる保証とてない幼児が、おっそろしく腕の立つ兄貴分を見つけてくっ付いていくのは当然だろう。たとえ相手が言葉の通じぬ、得体の知れない不気味な妖気をたたえた存在だとしても、どろろが彼のそばを離れないのは生存本能のなせるわざである。
 心を持たない少年戦士と、心根の底に優しさをひめた、無力だが逞しい幼児。このふたりが相棒(バディ)になるからこそ、この物語は生きる。
 くどいようだが、この設定にはつくづく感心、というかはっきりいって嫉妬して、「なんでオレはこのコンセプトを換骨奪胎して自己流のストーリーを創らなかったんだろう。」とまで思った。アタマのどこかで、『どろろ』という作品はもともとそのように語られるべきだと思っていたのに、それをきちんと見据えて創作に結びつけなかった己の菲才が腹立たしい。
 百鬼丸が鬼神(このアニメ版では「魔物」は「鬼神」に変更され、奪われたのも48から12箇所になっている)のひとりを倒して「耳」を取り戻した後、ろくに返事もできない彼にどろろはひっきりなしに話しかける。そうやって百鬼丸も少しずつ「心」を育てていくわけだけど、じつはそのまえ、まだ彼が耳を取り戻す以前から、どろろは絶えず彼に話しかけているのだ。
 それはおそらく自らの寂しさや不安、人恋しさを紛らわせるためなんだろうけど、見ようによっては、あたかも乳飲み子に絶えず語り掛けている母親のようだ。
 耳を取り戻したのち、ある事件がきっかけで百鬼丸は「魔物」や「鬼神」ではない生身の人間たちを斬殺する。その相手は確かに許しがたい残虐行為を働いた荒くれ侍どもだったのだが、怒りに任せて彼らを次々と薙ぎ払っていく百鬼丸は、ある意味では彼ら以上のおぞましき怪物でもある。
 そのままであれば一個の「殺戮機械(キリング・マシン)」に堕しかねなかった彼を、必死になって「こちら側」へと引き寄せ、けんめいに繋ぎとめてくれたのもまた、どろろなのだった。
 まことに素晴らしい。何度でもいうが、『どろろ』とは本来、このように語られるべき作品であった。
 『PLUTO』を読んだ際にも思ったが、「本来この作品はこのように語られるべきだった」と痛感させられるほどのものこそが、本当の意味での「リメイク」であり、原作に対する最大級のリスペクトだろう。
 MAPPA版アニメ『どろろ』については、とにもかくにもこれだけは言っておきたかった。しかし、本作の凄いところは勿論そこだけではない。



追記 19.12.20) この記事がなんだか尻切れトンボで終わってるのは、ここから何本かまとめて集中的に「どろろ」のことを書くつもりだったからだ。いわばこれは前置きだったのである。ところが、6月26日の記事「2019年アニメ版『どろろ』完結。」でも述べたとおり、このあと「イマワノキワ」というアニメ専門の感想ブログを見つけて、そこの「どろろ」評が見事だったため、自分として書くべきことがなくなった。それでこんな半端なことになってしもうたのじゃった。2019年アニメ版『どろろ』についての論考としては、出色のものだと今でも思う。

 アドレスはこちら。
http://lastbreath.hatenablog.com/archive/category/%E3%81%A9%E3%82%8D%E3%82%8D








HUGプリ勝手に反省会。

2019-05-22 | プリキュア・シリーズ
 『スター☆トゥインクルプリキュア』は、前回(5月19日)放送の『目指せ優勝☆まどかの一矢!』にて16話まで消化。ついこのあいだ始まったばかりと思ってたら、早いもんである。思えば開始から4ヶ月ほどは平成だったのだ。
 第16話といえば、前年度(2018)の『HUGっと!プリキュア』だと、ルールーが破壊されたうえ回収、という大変なイベントのあった回になる。ニチアサの児童向けアニメの規範(コード)を踏み越えかねないぎりぎりの描写で、なかば衝動的にブログで取り上げてしまった。その時はまだ、あんなにいっぱい記事を書くとは思わなかったが。
 それくらい「HUGプリ」には感銘を受けたわけだけど、それもおおよそ夏ごろまでで、9月の声を聴く時分には、かなり気持が冷めていた。
 いま思い返すと、結局のところ、ほまれが最初の変身に失敗する第4話と、当の第16話だけが強く印象に刻まれて、あとの記憶は正直いってオボロである。あの2本にかんしては、内容・作画ともに「現代アニメの最高レベル」という評価は変わらぬし、よもや全編あそこまでとは望まぬが、あれに準ずる品質で統一されていたらなあと、残念にも思う次第だ。
 「スタプリ」の第16話は、メインキャラ4人のひとり「香久矢まどか」の成長をひとつ積み上げる堅実なエピソードで、この時期としてしぜんな流れだと思う。歴代のシリーズでもそんな調子であったろう。
 とにかく「HUGプリ」は、①展開が速すぎ、②イベント(登場人物の数も)を詰め込み過ぎ、③インパクト(話題性)を重視し過ぎていた。
 「スタプリ」と比べると、改めてそのことが際立つ。
 ただぼくは、夏ごろまでは、そこを「凄い」と感じていたのだ。
 しかしそれは、①ひとつひとつの過程(プロセス)の積み上げを省き、②肝心のメインキャラ同士の繋がりを希薄に見せ、③キャラの抱える過去(因縁)の説明をおろそかにする……ことと表裏一体でもあった。
 その弊害がだんだんとあらわになり、ついには全体の調和を乱すまでになったのが9月以降ではないか、と思うわけである。
 いちばんの問題は、どうやら野乃はなの未来の伴侶であり、「はぐたん」の実父でもあったらしきジョージ・クライ氏と、はなさんとの因縁が明確に描かれなかったことだろう。
 むろん、思わせぶりな示唆ならばたくさんあった。しかしそれは、本当にもう「思わせぶりな示唆」としか言いようのないもので、視聴年齢対象層の児童ならずとも、あれではさっぱりわからない。
 結果として、当初はそれなりに陰影を湛えた魅力的なキャラだった(ニチアサにあるまじき色魔ではあったが)クライ氏が、ラスト間際では完全にもう訳のわからんアブないオヤジになってしまった。
 ダンナがなんであそこまでこじらせた、というか、捩じくれ曲がってしまったのか。その主因は起業家となった野乃はなが「民衆に裏切られた」ことにあったようだが、はな社長はこの現代社会において一体どんな活動をしていたのか、やっぱりそこははっきりくっきりと、説得力をもって作中で提示しなけりゃあだめだろう。
 はな役の引坂理絵さんは実力派だと思うのだが、ラストのほうでは、演技に迷いがあったようにぼくの耳には聞こえた。はなとクライとの関係性が不明瞭だから、芝居もやりづらい道理である。だとしたら、気の毒なことだった。
 同じことは、ルールー・アムールと、その「父親」(製作者)たるドクター・トラウムにもいえる。
 それにしてもトラウム博士、声がスネイプ先生だからってわけでもないが、科学者というより魔法使いのようだったなあ。「十分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない。」(A・C・クラーク)というやつか……。
 ともあれ、仮にもしトラウムさんが愛娘を亡くして、アトムを造った天馬博士のごとく、その「代替」としてルールーを造ったのであれば、そこはやっぱり作中で、きちんと語っておかねばなるまい。
 「黙説(あえて語らないこと)」によって「行間を読ませる」ことと、たんなる「説明不足」とは違う。申し訳ないが、HUGプリにおけるシリーズ構成・坪田文さんのばあいは後者であったといわざるをえない。
 本年1月29日の記事でぼくは、「タイム・パラドックスが生じていてわかりづらかった」と書いたが、そんなテクニカルな話ではなくて、よりシンプルで、本質的な問題だったのだ。はなとクライ、ルールーとトラウム、重要な二組のキャラ相互の因縁が、ていねいに描かれないのがまずかった。
 そこに尽きる。
 ただ、本来ならばそういったエピソードに費やすべき時期に、第36・37話と二話数も使って秋映画のための「過去プリ・オールスターズ大集合」なんて販促イベントを打った、てぇ事情はある。全49話とはいえ、実質は47話だった。
 それで計算が狂ったか……とも思ったが、しかしああいうことはシリーズ構成者だけの裁量ではできない。制作サイドの上のほうからの差配だろう。それも、まさかシナリオを書き始めてから話が出たわけでもあるまい。当初からの予定であろう。
 だからそこはやっぱりシリーズ構成者の責任で、ぼくは坪田さんのほかの作品を見たことがないから知らないけど、ひょっとしたら、たんに説明が下手というより、「そもそも設定をしっかり練ってなかった」可能性もある。
 作品全体の完成度よりも、個別の話数、個別のエピソード、さらには個別のカットで視聴者を引っ張っていくタイプのライター。あるいはそういうことかもしれず、その意味ならば、たしかに個別の単位でみれば、鮮烈なものはいくつもあった。
 LGBTを思わせるキャラから「男子初のプリキュア」誕生という時事性もあり、はては「人類みなプリキュア」まで行った。インフレもここに極まれり、といったところで、この先どれだけプリキュアシリーズが続いても、あれ以上のことは起こりえない。
 ならば次作以降は原点に戻って、「大人のオトコとの恋愛沙汰」なんてどろどろは絡めず、明るく、かわいらしく、メインキャラたちの関係性を描いていく……という運びになると予想を立てたが、「スタプリ」の16話までをみるかぎり、それは外れてなかったようだ。
 『スター☆トゥインクルプリキュア』は『HUGっと!プリキュア』よりも地味だが手堅い。児童向けアニメなんだから、そりゃこっちのほうが本筋だろう。







戦後民主主義と近代的自我とあとまあいろいろ何たらかんたらで純文学。

2019-05-11 | 戦後民主主義/新自由主義
 いま中国のことをちゃんと知っておかなきゃいけないのは、それが「改憲」の話に直結するからだ。
 よく「反中」「嫌韓」などと一緒くたにするが、日本にとっての「中国」と「韓国」とではぜんぜんハナシが違う。
 日本に対しての韓国は、それこそ社会学でいう「オレたち」と「アイツら」の関係性で、いろいろと因縁のある、隣接した二つの共同体が軋轢を生じてるだけのことだけど、いっぽう、中国の台頭ってものは、まさに「世界史レベル」の現象なのだ。
 「中国はアメリカに代わって世界の覇権を握ろうとしている可能性が高い。少なくとも、そう観測するに足る資料は十分ある。」というのがナヴァロ氏の現状分析だが、本来ならばあの大国は、もっと早くそんなポジションに付いててもおかしくなかった。
 遅らせたのは毛沢東による文革(文化大革命)で、あれがなかったらたぶん30年早く時計の針は進んでいた。そうなれば日本は80年代にバブルで浮かれてられたかどうかわからない。その点においては、毛沢東さんに感謝すべきかもしれない。
 ともあれ、中国が(歴史の必然として)ここまで巨大になってきたことは、あるいは日本にとって「戦後最大」のファクターかもしれず、戦後75年近く持ちこたえてきた「日本国憲法」、とりわけその中の三本柱のひとつ「平和主義」がぐらぐら揺らぎつつあるかに見えるのも、今回ばかりは仕方がないかもしれないと、これまでずっと護憲派だったぼくでさえ思ってるわけだ。
 日本国憲法が見直しを迫られてる(かに見える)ということは、「戦後民主主義」もまたその理念を厳しく問い直されてるってことだけど、じつはこれに関しては、そもそも「戦後民主主義」がこの国にどこまで根付いてるんだろうというギモンが、今回の「令和の改元」に際してぼくのなかには改めて生じた。
 むろん、改元そのものは寿ぐべきだけど、そこに一抹の屈折というか、アイロニーというか、その手の心情が窺えないのが物足らない。シンプルであり浅薄すぎた。ぼくにはそう見えたのだ。「象徴天皇制」と「国民主権」というあからさまな二重性を抱えた憲法をもつ国民性は、本来ならばもう少し複雑であって然るべきではないか。
 まあ、こういうのは昭和が平成になった時には気にならなかったので、それだけこちらが齢をくったってだけのことではあるのだが。
 ともあれ、これまで漠然と感じていたことが、はっきりと輪郭をもって浮かび上がってくるのは悪い感じではなく、齢をくうのもまんざらマイナスばかりではないと思う。やはり「戦後民主主義」の理念は、どうしたって「近代的主体」ないしは「確固たる自我」と切り離せない。そのことを今回つくづく再認したのだ。
 「近代的主体」ないしは「確固たる自我」をもちあわせない国民性に、ほんとの意味で「戦後民主主義」が根付くわきゃない。
 こんなのはほんと、それこそ丸山眞男さんとか、昔からたくさんな人がいろいろな形でいっていることで、「何をいまさら」ってことなんだけど、しかし、この件がこれほどしつこく言い尽くされ、言い古されてきたってことは、「耳タコ」になるほどさんざ注意喚起してもなお、ほとんどの人が聞いてなかったってことでもある。
 今まではべつにそれでもよかった。でもこれからはどうかな、中国もなんか凄いことになったきたし……ということで、この話は冒頭からずっと繋がっている。
 それで、急に脇道にそれるようだけど、最後にはやっぱり繋がる話として、「純文学」と「サブカル」ってことがある。
 「純文学とサブカル」は当ブログのテーマのひとつで、2014年にこのgooブログに越してきた当初、もっぱらそのことばかりやっていた。いま読み返すとさほど面白くないが、あの頃のぼくは、今よりずっと唯美主義者で、芸術至上主義的で、「純文学」に対して信仰に近い思いを抱いていた。
 近ごろはすっかり「憑き物が落ちた」感じになって、やっぱりそれは又吉直樹さんの芥川賞が大きかったと思うが、「なんだ、所詮はビジネスだったんだネ」ってことが身に染みてわかったのである。
 ぼくも2度にわたって当ブログで論じた龍さんの『限りなく透明に近いブルー』と、今のところまだ本格的には論じてない村上春樹さんの登場以降、ニッポンの文学は、ざっくりいえば、純文学も含めてほぼ「ビジネス」だけの問題となった。
 しかしそれまでは、きちんというなら70年代前半まで(昭和でいうとちょうど40年代まで)は、必ずしもそうではなかったのである。
 「近代的主体」ないしは「確固たる自我」を涵養(かんよう)するための有力なる手立てとして、「純文学」が機能してたのだ。
 芸術作品であると共に、あるいは、芸術作品である以上に、ひとつの制度として、教育機関として「純文学」が機能していた。いわば社会的なシステムであった。
 「世間知を積み上げるため」のものだったといってもいいか。まあ教養ということですね。
 明治期いこう、長らく日本の純文学は、読者が「教養」を身につけるための手際よいマニュアルとしての役割を果たしてたのである。
 gooブログに越してきた当初、「純文学」と「サブカル」(当時は総称して「物語」と呼んでいたが)の違いについて、なんだかあれこれうだうだ書いてたけども、ようするにもう、「純文学」を読めば教養が身につくが、サブカルってのはそうじゃなく、ただたんに娯楽として、暇つぶしとして消費されるだけだよネ、と言っときゃそれでよかったんである。
 むろん、サブカル(物語)の側も市場原理のもと日夜キビしい競争にさらされ、ハイテク化の恩恵もあって高度に洗練されていき、「純文学」に勝るとも劣らぬ水準のものを生み出してもいる。そういった作品に関しては、『宇宙よりも遠い場所』のように、ぼくも最大限の敬意を払ってブログのなかで取り上げてきた。
 しかしそれでも、「物語」は「物語」である。宮崎駿さんの作品にしても、どこまでいっても物語であり、「純文学」としては機能しない。もちろんそれは、アニメだから、文字媒体だから、といったことではない。
 「純文学って何?」というQに対する回答は、「文学」の中では見いだせなかった。社会学の見地が必要だったのだ。



教養って何? 番外編 いまの中国を知る。

2019-05-11 | 雑読日記(古典からSFまで)。



 5月3日の憲法記念日に「九条の改憲について。」なる記事を書いたけれども、あれはもっぱら中東のこと(「イスラム国」とか)を念頭においた文章で、きちんといえば「集団的自衛権」にまつわる話だった。
 「集団的自衛権」の行使のためにはどうしても法の整備が必要なのだ、という理屈については、(ぼくが見つけた限りでは)このサイトにとても詳しく、わかりやすく書かれてある。
伊勢崎 賢治
いまさら聞けない「集団的自衛権って何ですか?」〜日本の常識は世界の非常識だった……

 こういう話を読んでると、安倍政権が改憲を唱えるのもけして「対米従属強化」のためだけはないんだなァと思わせられるが、とはいえそもそも「軍事」の話題は、それがぼくたちの暮らす日常からあまりにも隔絶しているゆえに難しいものである。
 ハリウッド映画の世界がとつぜん自分たちの暮らしと地続きになってしまうような違和感をおぼえる。
 それでも最低限の知識くらいはもっておきたいし、この先に起こるかもしれない事態を、あるていどはシミュレートしておきたいところだ。
 上にアドレスを貼った記事がアップされたのは3年前(2016年)だけど、ぼくは新聞もテレビも見ないからはっきりとはわからないにせよ、その頃と比べて「集団的自衛権」というワードを目にする機会は減ったはずである。
 「集団的自衛権」は、やはり中東の不穏さの度合いに付随して浮上してくるトピックなんだろう。この時節、情勢の変化は目まぐるしい。先日トランプ政権が中国製品の関税を25%に引き上げるぞと警告したが、いま目を向けるべきは中東じゃなく中国のほうだ。
 中国のことはむろん中東よりも日本にとって切実だ。ぼくがずっと考えてたのは「冷戦時代のソ連(当時)よりも脅威のレベルは大きいんだろうか?」ということなのだが、「大きい」という答えが、困ったことに、どうも正しいようである。
 だから中国について知っとくことは、もはや「教養」どころか「必須」かもしれない。
 いまの政治体制、および近現代史については、初版は2010年ながら、池上彰の『そうだったのか! 中国』(集英社文庫)がいちばんコンパクトだし、使える。
 そこに書かれた知識をざっとアタマに入れたうえで、ぜひ読んでおくべき一冊が出た。
 『米中もし戦わば 戦争の地政学』 文春文庫。
 原著は2015年。日本版の翻訳が出た(単行本)のは翌2016年。それが今年、2019年4月に文庫になった。かなり早い。
 著者のピーター・ナヴァロ氏はもともとは経済畑の研究者だが、現役の大統領補佐官である。つまり、このたびの関税の件にしても、この人の提言がトランプ大統領を動かしている可能性が高い。
 だからこれは、きわめてホットな、生々しいレポートなのだ。
 原著の出た2015年、トランプ氏はまだ大統領ではなく、ゆえにナヴァロ氏も補佐官ではなかった。このレポートによって注目され、トランプ陣営に招聘されて、選挙期間中からブレーンとなったのである。
 ひどく大雑把にいうならば、これも「中国脅威論」のひとつってことにはなるんだろう。しかし、凡百の「脅威論」を読むよりも、この一冊を読むほうがはるかにいい。
 情報量が桁違いで、論旨の流れがクリアなのだ。
 同時にこれは、「軍事学」「地政学」にかんする最良の入門書でもある。文庫化を機に、取り急ぎご紹介する次第である。



文化資本

2019-05-09 | 哲学/思想/社会学
 ぼくが「おっ、社会学ってのは使えるな。」と思ったのは、人文科学のほかのジャンルでは掬い取れない、それこそ「文学」でしか扱えないんじゃないかと思っていた問題を、きちんとワード=用語(あるいはコンセプト=概念)として定式化してくれていたからだ。
 いろいろあるが、もっとも切実に身に染みたのは「文化資本」であった。これについては、最近ネット上でも見かけるので、少しずつ人口に膾炙しつつあると思われる。
 辞書的な定義を記してもよいが、ここではひとつ、私的な思い出を綴ってみたい。
 うちの母は結婚を機に郷里を離れたのだが、母の姉は地元にとどまり、そこで家庭を持っていた。
 配偶者は高校の先生である。
 年恰好の似たイトコがいたので、ぼくも小学生の頃には夏休みなど何日も泊まり込みでお世話になった。自然のなかで泥まみれになって、楽しい日々を過ごしたものだが、もうひとつの楽しみは、朝食の時にこの先生(つまりイトコの父親)が、新聞で読んだ最新のニュースをわかりやすく解説してくれることだった。
 この家にはちゃんと書斎があり、書架にぎっしりの蔵書とクラシック・レコードのコレクションがあった。むろんステレオもあり、ピアノもあった。
 いっぽう、ぼくが生まれ育った実家には、書斎どころか各々の個別の部屋というものがなく(狭すぎるため)、活字媒体といえば父親が拾ってきた週刊誌くらい(極度に吝嗇なため週刊誌すら買わないのだ)、ステレオはおろかラジオすらない。
 仮にもしピアノを置いたら、一家全員がその上で生活せざるをえなかったろう。ビジュアルとしてはシュールで面白いかもしれぬが。
 いま思うと、姉妹でこれほど懸隔ある環境に嫁いだってことに笑ってしまうが、じっさい、うちの母親が根っからポコペンなのに対して、姉(つまりぼくの伯母さん)は評判の才媛だったらしい。
 そんな状況であるからして、父親による「ニュース解説」なんてイベントは期待すべくもない。今でもよく覚えてるのだが、「金大中事件」というのが起こり、これがどうにもさっぱり不可解なのでおずおず父に尋ねたところ、「あんなもん、さっさと死刑にしたらええんじゃあ!」と怒鳴りつけられて吃驚したものである。
 「わしにはわからん。」と素直に言える親父さんであればまだよかったのだ。ここでいきなりキレて怒鳴り返すところがアウトなのである。それは「この家で、わしにわからん小難しい話をするな!」という抑圧になっちゃうわけだから。
 しかも、用いる単語がはなはだしく物騒である。そういうご両親であり、そういうご家庭であり、そういう地域なのだった。
 こどもの知性・感性・品性ってものは日々の営みのなかで自ずと涵養(かんよう)されていくものであり、じつは学校の勉強なんてのは、そういった基盤があってこそ意味を成すものなのだ。
 早い話、土壌が荒れてて、日当たりが悪く、恵みの雨とて降らぬところに、どんな種をまいても花が咲くわきゃない。
 ぼくのばあい、歩いて行ける距離に図書館があったので、そこにせっせと通って何とかなったが、そうでなければマジでヤバかったかもしれない。
 そんなわけで、まあ、昔話はこれくらいで十分かと思うが、こういうのが「文化資本」である。いまの事例における姉の家庭は文化資本が豊かであり、妹のほうはそうではない。
 経済的な見地からみた「資産」とはまた別に、このように、幼児期から家庭のなかで育まれ、身体や頭脳の成長に直結した「資本」ってものは確かにある。
 数値化されず、可視化しにくいから往々にして無視されがちだが、そういうものが厳然としてあることは、社会がちゃんと認知しておかねばならない。
 本年(2019年)2月13日・14日の記事「生まれながらの不平等について。①②」で述べたけれども、大御所ロールズの『正義論』も、その大衆普及版たるサンデルさんも、このあたりを「機会の平等」と「結果の平等」という論点にのみ還元し、その切り口だけで議論をする。
 そのあたりにぼくは、政治哲学・法哲学の限界というか、「網目の粗さ」をおぼえる。たんに「不平等だからどうしろこうしろ」と言いたいわけじゃないのだ。まずは「そういうものがあるんだよ。」ってことをはっきり認めて、それに名前をつけなきゃだめなのだ。
 じっさい、政治哲学・法哲学には、これに相当する用語(概念)がない。「文化資本」なる用語(概念)を提起してるのは、社会学だけである。ぜひともこれは、ほかの人文科学・社会科学にも、さらに世間一般においても、もっともっと、共有財として広く分かち持たれるべきだ。

 改まってこんな話をするのも、「近ごろの東大生の中には、「貧乏なのはすべて本人の努力不足なのだ。」と考える者が多い。」って話題をネットで見かけたからである。ぼくには東大生の知り合いはないので真偽を確かめる術とてないが、「さもありなん。」とは思う。これだけ新自由主義の考え方が世間に浸透すれば、若い世代がそんな具合になっちまうのも当然だ。
 まして東大生なんて、ほとんどが「文化資本」に恵まれた良家の子女に決まっている。「下賤」のことなど知る由もなく、そもそも知る必要がどこにある、と思っていても不思議じゃない。
 そもそも「スタートラインがまるきり違う。」というシンプルな事実を知らないし、たとえ知っても「それがどうした。」としか感じない。
 そういう空気が蔓延している。
 やっぱりそれは、「日本」という同じ共同体のなかで暮らす成員として、不健全だし、良くないことだ、とぼく個人は思うわけである。
 東大で思い出したが、経済学部の出身で、教養学部の教授も務めた故・西部邁の『私の憲法論』(徳間文庫)にこんな一節があった。


「「法の下での平等」は、「機会の平等」をさすにすぎず、「結果の平等」までをも意味しないと理解するのが通常である。」


「そもそも「機会の平等」そのものが実はかなりに空語にすぎないのであって、その人の生まれた時期、育った環境および地域などによる「機会の不平等」を消去することはまず不可能である。というより、人間は不平等のただなかに生まれてくる、といったほうがよほどに正しいのであり、そして「理想への自由」としての積極的自由に内実が籠るとしたら、それはこの宿命ともいうべき不平等と抗い闘うことをつうじてだともいえる。」


 いかにも西部さんらしい文学的な物言いで、一読「なるほど。」と思わせられる。西部さんご自身が苦学生だったという事実を知っていれば尚更だし、現にぼくたち自身がそうやってどうにかやっているわけであり、この先もやっていくしかない。
 ただ、ようするにこれは「しょうがない。運が悪りぃんだから諦めろ。で、あとはせいぜい勝手に頑張れや。」ってことを体裁よく言い換えただけ……ではある。ことに「宿命」というのは重いコトバで、こういう単語を持ち出すあたり、「真正保守」の面目躍如という感じだ。
 この文庫本を大手古書チェーンで買って読んだのはもう10年以上前だが、「まあそうだよなあ……。」と思う反面、もういっぽうでは、割り切れぬ気分をずっと抱いていた。
 このたび『社会学をつかむ』(有斐閣)を読んで、ようやく積年のもやもやが晴れた。
 全編を締めくくる第34章「格差社会」の末尾で、著者のひとり、西澤晃彦さんはこう述べる。


「格差社会論を「突き抜ける」とは、排除や搾取、そして貧困について臆せず論じるということであるだろう。階級を論じることを引き受けるといってもいいかもしれない。日本の社会学者たちは、そのような地点にあって逡巡しているように見える。しかし、社会学は、「仕方がない。」とあきらめさせる力に抗して成立する貧者の連帯や、排除に対抗してなされる貧者を包摂しての社会・公共圏の再編成について、テーマ化していかなければならない。それがどのようにして可能あるいは不可能になるのかを明らかにしなければならない。宿命論をこえる言葉の生産は、社会学の任務である。」


 「宿命論をこえる言葉の生産は、社会学の任務である。」なんと小気味よいタンカだろうか。もちろん、それはまた「文学」の任務のひとつでもなければなるまい。そうだそうだまったくそうだ、よくぞ言ってくれました、とぼくは何度も膝を打ち、少しばかり膝が赤くなったのだった。







社会学をつかめ!

2019-05-05 | 哲学/思想/社会学

 

 有斐閣から出てる「大学生向けの教科書」なんてもんが面白いわけあるか、と長らく思い込んでいて、たしかにまあ、じっさいその通りなのだが、中にはとんでもない例外がある、ということを最近知った。西澤晃彦・渋谷望『社会学をつかむ』。2008年刊。
 ぜんぶで34のユニット(章)に分かれているのだが、のっけから「言葉」である。「私」「身体」「無意識」「意識」なんてのもある。
 いやもうこれは社会学ってより例のほれアレ、いやそう現代思想じゃないですか。
 さらには「旅」、はては「物語」なんてのまである。もはや完全に文学。それもワタシの管轄ではないか。
 むろん「社会」「社会学」「集団・組織」「ネットワーク」「学校」「工場・企業」「地域」「都市」といった真っ当(?)な項目がほとんどなのだが、その中にあって、「物語」の項目の記述が浮いてない。馴染んでいる。溶け込んでいる。すなわち、「物語」が「地域」やら「都市」と同じ水準のコトバで語られてるということだ。
 これはすなわち、「文学」と「社会学」とが同じ水準のコトバで語られているってことではないか。
 なめらかに。しなやかに。軽やかに。
 いや近頃の社会学はこんなレベルに達してるのか、侮れんな、と思って他の本に手を伸ばしたら、なんかぜんぜん旧態依然で、文章カチコチで、やっぱりそんなに面白くなくて、ああこれは、たんに西澤晃彦と渋谷望って人が凄いんだな、と気がついた。
 はしがき(前書き)に、「大学のテキストについては老舗の有斐閣が、入門教科書を西澤と渋谷に任せることは、10年前にはありえない人選だろう。」と書いてある。
 また、「この本を書くのに4年もかかってしまった。」「言いたいこと、伝えたいことは変わっていない。だが、ある言葉をどう語ればどう伝わるか、その文脈が激変したのだ。」とも書かれている。
 いずれも、本編を読めば得心のゆく揚言である。学者くさい文体を捨てて、あれこれと試行錯誤したあげく、この柔らかくも強靭な文体へと逢着した、ということだろう。
 ここ数年に読んだ中でも、「触発される」ってことにかけては一、二を争う本であり、ページを繰るごとに色々とアイデアがわいてくる。しばらくは座右から手放せない。
 ぼくが当ブログにてやってることも、どっちかというと文学ってよりむしろ社会学じゃないの?って気持は以前からあって、何冊か入門書・啓蒙書の類いを手に取ったこともあるんだけど、たいていは、コントがどうの、スペンサーがどうのといった「学史」にはじまり、あとは「たんなる印象に留まらず、学問と称するからにはきちんとデータを取らないと」みたいな話になって、あげくは「アルコールを大量に摂取する人はアルコール中毒になりやすい」だの、「社会に出て成功するひとの両親は高学歴で高収入である率が高い」だの、「わかっとるわいそんなこと!」と言い返したくなるような、アホみたいなことが(それもやたらと勿体ぶった口調で)述べられたものばっかりで、うんざりしたものだ。
 いやまあ、これはあえてふざけて書いたので、いくらなんでもそこまでひどくはないにせよ、とにかく、「学問としては立派なのかもしれないが、自分にはぜんぜん役に立たない」ってことは事実なのだった。
 ただ、アカデミックな専門分野はさておいて、いわゆる「ジャーナリズムに片足をかけた」著作家たちでいうならば、社会学者の活躍は今に始まったことではない。ひところ一世を風靡した宮台真司。その弟子筋にあたる鈴木健介。北田暁大。いずれも売れっ子である。
 たしかに、院に行って社会学の基礎を固めて、あとサブカルとネットにそれなりに通暁していれば、けっこう一般ウケする論考が書けてしまう気がする。宇野常寛なんてそんな感じだ。それくらい、いま社会学が手にしている用語(概念)は強力だ。よーく分かった。現代をてきぱきと解析する道具。むしろ武器か。
 それにしても、いまの時代に純粋な「文芸批評」なんてほんとに成立するんだろうか。結局それは「社会批評」の一種として綴られるしかないんじゃないか、もはや。
 まえに取り上げた斎藤美奈子の『日本の同時代小説』(岩波新書)にしても、「文学」に対する教養も敬意もまったく無しに書いてるんだから、あれは社会学の書というべきだろう。
 又吉直樹の芥川賞にしても、すでにもう文学がどうのといった話ではなく、社会学的な現象とみるのが正しいのだろう。そういえば「お笑いの社会学」といった研究をやってる人はいるんだろうか。吉本興業にしても、たけしにしてもタモリにしても、「お笑い」の影響ははなはだ大きく、とうてい「サブカル」の域に留まるものではない。いまの日本は「お笑い」というファクターを抜きには読み解けない。社会学としてぜひ取り組むべき課題である。
 もとよりアニメもしかり。
 というわけで、令和の「ダウンワード・パラダイス」は、けっこう「社会学」寄りになる気がしています。