ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

あらためて、純文学について。その02 「物語」について、もう少し緻密に。

2018-05-27 | 純文学って何?
 「物語」を批判して、「純文学」を持ち上げよう、てな趣旨でブログをやってるわけだけど、「物語」って用語はいかにも射程が広すぎて、ほんとは整理が必要なんである。たとえば、「ポストモダンとは、≪マルクス主義≫に代表される≪大きな物語≫が無効になった時代のことだ。」なんていうばあい、ここでの≪物語≫とは「人類全体がそれを目指して進みゆくべき理想の未来……を示すに足るだけの精密かつ壮大な理論体系」みたいな含意であって、ものすごくでっかい。バカでかい。
 とりあえず、これを「物語①」としておこう。
 いっぽう、「ロシアの民俗学者ヴラジミール・プロップは、物語を31の機能に分類した。」というばあい、まあ厳密にはこれは「ロシアの魔法昔話」に限定されるんだけど、ここでの「物語」とは、いわゆる「説話」である。「説話」にはおおよそのパターンがあって、いちばんわかりやすい例だと、「勇者」がいて「お姫様」がいて「ドラゴン(悪者)」がいて「勇者がピンチに陥ったとき助けてくれる奇特な人」がいて……みたいなことだ。
 「ドラゴン(悪者)」が「お姫様」を迫害し、むやみに追っかけ回したり、捕まえて塔とかに幽閉したりする。「勇者」はそれを敢然と救い出そうとするけれど、いかんせん力不足で、なかなか思うに任せない。反撃を食らって一敗地にまみれたりする。そこで、例えば「老師」であったり、「かつてのライバル(最初の敵)」であったり、なんかまあ、そういったような人たちが、何らかのかたちで力を貸してくれる。それによって勇者はふたたび立ち上がり、恐るべき「ドラゴン(悪者)」に再挑戦して勝利を得、「お姫様」を救出するわけだ。
 現代アニメでいうならば、宮崎駿のテレビアニメ『未来少年コナン』と、それを濃縮して映画版にしたような『天空の城ラピュタ』が典型的だけど(これをルパン三世の基本設定を借りてやったのがご存知『カリオストロの城』)、この基本パターンを変奏すれば娯楽作品の無限のバリエーションが得られる。スターウォーズももちろんそうで、こちらのばあい、さらに「父殺し」という本質的な物語要素も加わってくる。
 この「説話」のことを、「物語②」と呼んでみる。
 「物語①」と「物語②」とはもちろん違う。だからほんとは別個の名まえで呼ぶのが望ましいのだが、どうもいまいち、適切な用語が見つからなくてそのままになってる。これはこのブログだけのことじゃなく、世間に出ている評論なんかでもそうだ。たとえば宇野常寛さんの『ゼロ年代の想像力』(ハヤカワ文庫。とても有益な本だ)なんかでも、これらの「物語」がけっこう混在して使われている。
 これら二つと通底してはいるけれど、またちょっと別の意味の「物語」もある。前回のリストで二番目にあげた内田樹さんの『映画の構造分析』(文春文庫)21ページにあるやつだ。


「物語を語るな、ということは、知ることも、批評することも、コミュニケーションすることも、すべてを断念せよということです。そんなことできるはずがありません。
 私たちはどのような出来事についても、そこから「有意なデータ」を選び出し、「どうでもいいデータ」を棄て、ひとまとまりの「情報」単位を構成します。私たちはかならずデータの取捨選択を行っています。
 私はただそのデータの選択のことを、「お話を作る」というふうに言い換えているだけのことです。」


 ここで内田さんのいってる「お話」はもちろん「物語」と同じで、ようするに、「世の中にあふれる情報の海の中から取捨選択して、意味のあるひとつらなりの単位にまで再構成されたデータ」を「物語」と呼ぼうということだ。
 これを「物語③」とする。
 「物語③」は、より根本的で、一般的な「物語」だ。いちばん汎用性が高い用法である。そしてまた、日々の暮らしを送るうえで、意識してか無意識のうちにかに関わらず、誰しもがやってることでもある。このカオスのような世界から、適切な情報を抜き出し、それを再構成して自分にもっとも使い勝手のよい「ひとつらなりの単位」をつくる。むろん人生における経験値が増すほど、その「物語」は膨れあがり、複雑さの度を加えていくだろう。
 「物語」とひとくちにいっても、ざっと見ただけでこのとおり幾つも用例がある。それらはむろん、根底では繋がり合っているけれど、しかしやっぱり違うものではあるわけで、使うほうは自分のなかで仕分けてるからいいけれど、読むほうがぼんやりしていると、混乱を招くおそれもある。
 当ブログでもこれらの用法を一緒くたにしていて、それぞれに、なんか適切な言い換えはないもんかなあと思ってるのだが、そうやすやすとは見つからない。
 さて。冒頭へと戻って、「《物語》を批判して、《純文学》を持ち上げよう」というばあい、この《物語》ってのは、上で述べたいろいろなものを含むのだけれど、身近なところで、どうしても、「エンタメ小説」を指すことにもなる。
 エンタメ小説とは、たんじゅんにいえば「芥川賞」系に対する「直木賞」系だ。しかし直木賞受賞作なんて、一年を通じて最多でも4作までだから、ラノベまで含めた膨大な量の作品群をとうてい包摂しきれるものではない。
 ぼくは純文学を愛するあまり、ずっとエンタメ小説を敵視していた。ところが、現代史を描いたケン・フォレットの大作を読んで、それまで持っていたエンタメ小説への偏見がなくなり、熱心に読むようになった、という話を去年の夏くらいにした。
 定期的にブックオフを回って、100均の棚を漁り、目ぼしいやつをごっそり買いこむ。
 知っている名前も当然あるが(それこそ直木賞作家のものも)、まるっきり初見の名前のほうがはるかに多い。この100均の棚で出会わなければ、あるいはずっと知らないままに終わったかもしれない面々だ。
 それでまた、そんな作家たちの作品がめっぽう面白いのである。まあ「面白い」って形容の定義にもよるが、「どんどんページを繰ってしまう」という点においては、どう考えても「文學界」「群像」「新潮」「すばる」に載ってる小説とくらべて面白い。純文学バカのぼくの目から見てもそうなんだから、そりゃ一般の読者がこっちにばかり惹きつけられるのは当たり前だ。
 昨年の8月30日にやった「これは面白い。と心底思った小説100and more」には盛り切れなかったけれど、ほかにもエンタメ小説で、「めちゃオモロい」と思ったものは少なからずあるのだ。
 とはいえ、「これはぜったいエンタメ小説には逆立ちしてもできんぞ」という、純文学だけの「面白さ」もある。好きすぎて、これまで当ブログでもきちんと論じたことはないんだけれど、古井由吉さんの小説(というか文章)を読み進めるときの高ぶりは、ほかのいかなる小説からも、けっして味わえないものだ。
 ずいぶん前にも書いたけど、エンタメ小説と純文学とは鳥の両翼、どちらが欠けても一国の文芸はうまく飛べない。双方が補い合ってこその出版業界だと思う。「近代小説の成立からほぼ150年、純文学は終わった。」という説の可否をもふくめ、純文学について書くべきことは、まだ色々とあるはずだ。



物語/反物語をめぐる50冊 2018.05 アップデート版

2018-05-22 | 物語(ロマン)の愉楽
 昨年の5月に掲載した「物語/反物語をめぐる100冊」を大幅にヴァージョンアップしてお届けします。フィクション(小説)は避け、おおむね「評論」に分類されるものを中心に、100を50まで減らして……。多けりゃいいってもんじゃないからねえ。この1年、「物語」ってのは自分にとっての最大のテーマで、まあけっこう読んだですよ。その中から、学術的にどうこうはさておき、ほんとうに面白く、血肉になったと思えるものだけを精選。なるべく安価で、新刊で入手しやすいリストにすべく努めたけど、そうでないのも混じってます。



 01 世界神話事典 大林太良ほか 角川選書
 これだけは外せない。情報量がダントツ。

 02 映画の構造分析 内田樹 文春文庫
 600円ちょっとでさらさら読めて内容たっぷり。お買い得。

 03 物語の哲学 野家啓一 岩波現代文庫
 内田さんのをもっとアカデミックに哲学的に厳密に……という感じ。

 04 物語論 基礎と応用 橋本陽介 講談社選書メチエ
 正直、高い割にはそこまで充実してるとも思えぬのだが、プロップとかトドロフとかジュネットとか、基礎を知るには便利。

 05 物語論で読む村上春樹と宮崎駿 大塚英志 角川oneテーマ21
 大塚さんのはどれも有益だけど、もし一冊だけというならこれか。ただしたぶんもう新刊では売ってない。

 06 批評理論入門 廣野由美子 中公新書
 ロングセラー。「フランケンシュタイン」を素材にして現代批評理論を簡明に紹介。物語論というより、「物語る技術」を知るために。

 07 文化と両義性 山口昌男 岩波現代文庫
 かつて70年代半ば頃の大江健三郎さんを夢中にさせた一冊。今ぼくらが読んでもむろん面白い。とにかく情報の密度が高いのだ。

 08 ファンタジーを読む 河合隼雄 講談社α文庫→岩波現代文庫
 河合さんの著作から学んだことは計り知れない。ユングより、ぼくら日本人は結局のところ河合さんを読むほうがしっくりくるんじゃないか。海外の児童向けファンタジーをやわらかいことばで分析した一冊。
 09 昔話の深層 河合隼雄 講談社α文庫
 河合さんからもう一冊。こちらはおなじみグリム童話の分析。

 10 グリム童話の深層を読む 高橋義人 NHK出版
 グリム童話は物語の宝庫。河合さんのと併せ読むことでより多層的に楽しめる。鈴木晶『グリム童話』(講談社現代新書)もいい。

 11 決定版 世界の民話事典 日本民話の会(編) 講談社α文庫
 12 世界昔話ハンドブック 稲田浩二(ほか編) 三省堂
 13 日本昔話100選 稲田浩二・稲田和子 講談社α文庫
 14 ガイドブック 日本の民話 日本民話の会(編) 講談社
 この4冊でたいていのお話は網羅されてると思う。物語のあらゆるパターンは近代以前に出尽してるってことがよくわかる。もっぱら要約されてるけれど、読めばやっぱり面白い。ただ、新刊での入手が難しいものも。

 15 ヨーロッパの昔話 その形と本質 マックス・リュティ 小澤俊夫 訳 岩波文庫
 昔話研究の泰斗による古典。さきごろ文庫になった。上の4冊とあわせて読みたい。

 16 図説 金枝篇 上下 フレーザー 原著 マコーマック 編著 吉岡晶子 訳 講談社学術文庫
 こちらは民俗学の古典的名著。実証が甘いとの批判もあるが、興味ぶかい読み物であることは間違いない。原著を要約した編集版。

 17 定本 昔話と日本人の心〈〈物語と日本人の心〉コレクションVI〉 河合隼雄 岩波現代文庫
 18 神話と日本人の心   〈〈物語と日本人の心〉コレクションIII〉 河合隼雄 岩波現代文庫
 ここでまた河合さん。これほど柔かいことばで深いところまで連れてってくれる書き手はほかにいないのだ。似たようなモチーフの話なのに、やはり日本人には日本のものが沁みるのはなぜだろう。

 19 共同幻想論 吉本隆明 角川文庫ソフィア
 かつては「政治の書」として読まれたが、いま読めば、柳田国男「遠野物語」に依拠した豊かな物語論だ。

 20 熊野集 中上健次 講談社文芸文庫
 中上さんはじつは物語作家として下手くそだったと思う。ただ、「現実」と「物語」との関係について実作者の立場で終生考え詰めた。これはその記録というべき短篇+エッセイ集。

 21 官能美術史 池上英洋 ちくま学芸文庫
 泰西名画を素材に取り、「エロス」を軸にまとめた本。「ファム・ファタル(運命の女)」など、物語の基本要素がぎっしり。『残酷美術史』『美少年美術史』『美少女美術史』もあり。

 22 千の顔をもつ英雄 新訳版 上下 キャンベル 倉田真木ほか訳 ハヤカワ・ノンフィクション文庫
 「スターウォーズ」の創作に決定的な影響を与えたことで有名。ハリウッドではシナリオ・ライターの必読書とか。

 23 世界史の誕生 岡田英弘 ちくま文庫
 「歴史」もまた物語の一種ではある。「西洋史」「東洋史」「日本史」という(よく考えてみるとおかしな)区分を取り払い、チンギス・ハーンのモンゴルを基軸に「世界史」を語り直した好著。

 24 中国化する日本 増補版 與那覇潤 文春文庫 
 「歴史」を再編集して「物語り」直すという点では、これはぼくが読んだ中でもっとも明快でわかりやすい「日本史」だ。ただし著者の持論を受け容れるかどうかは別。

 25 ホラー小説大全 風間賢二 双葉文庫
 「恐怖」を軸にお話のパターンを考察した一冊。ドラキュラ、狼男、フランケンシュタイン(の怪物)についての考察付き。薄い本で、やや物足りぬが、意外と類書がない。

 26 ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2 東浩紀 講談社現代新書
 27 ゼロ年代の想像力 宇野常寛 ハヤカワ文庫
 東さんのも宇野さんのも、ぼくはここに挙げられてるアニメやドラマをほとんど見てないし、ましてゲームとなるとやったことも見たことも触ったこともなく、金輪際やる気もないけれど、それでも、というか、だからこそ、一応は目を通しとこう、と思って読んだ。それなりに面白かった。

 28 ニッポンの文学 佐々木敦 講談社現代新書
 佐々木さんは東さんや宇野さんよりも年上だし、話題も「ブンガク」に限られてるんで読みやすく、もちろん参考にもなったけれども、その論旨に全面的に賛同できるわけではもちろんない。

 29 テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ 伊藤剛 星海社新書
 マンガ大国ニッポン。しかし個々のマンガ作品をきちんと論じたテクストは少なく、使い勝手のよい方法論もぜんぜん確立されてない。ましてやアニメとなるとまるっきり手つかずに近くて、「ユリイカ」あたりが定期的にやる特集でも、それぞれの書き手が手さぐりでやってる状況だ。むしろネットのうえに、思いがけず優れた批評が転がってたりする。マンガやアニメは映像なんだから、ふつうの物語論とはべつに、視覚記号の束として作品を解析するための方法が必要なのである。『テヅカ・イズ・デッド』は、さほど読みやすくないが、その足掛かりとして評価できる。

 30 柄谷行人講演集成 思想的地震 柄谷行人 ちくま学芸文庫
 柄谷さんはおよそ「物語」が嫌いな方だと思う。歴史から政治から都市論から文学まで、幅広く示唆に富む本だが、「反‐物語」の書としても読める。

 31 カイエ・ソバージュⅠ 人類最古の哲学  中沢新一 講談社選書メチエ
 32 カイエ・ソバージュⅡ 熊から王へ    中沢新一 講談社選書メチエ
 33 カイエ・ソバージュⅢ 愛と経済のロゴス 中沢新一 講談社選書メチエ
 34 カイエ・ソバージュⅣ 神の発明     中沢新一 講談社選書メチエ
 35 カイエ・ソバージュⅤ 対称性人類学   中沢新一 講談社選書メチエ
 大学での講義録を元につくられたシリーズ。中沢さんの文章にはいつも途方もない豊饒さと、その裏返しの危なっかしさがつきまとう。半ば「ライブ盤」たるこの5冊には、その魅力と危うさとがいっそうよく表れている。

 36 増補 黒澤明の映画 ドナルド・リチー 三木宮彦 訳 現代教養文庫
 シェイクスピアの翻案をはじめ、『隠し砦の三悪人』がスターウォーズの元ネタのひとつになったりと、ひょっとしたら戦後最大の「物語作家」であったのかもしれない巨匠の作品群をくわしく論じた分厚い一冊。絶版なのが惜しい。

 37 監督 小津安二郎〔増補決定版〕 蓮実重彦 ちくま学芸文庫
 「作品」を織りなす映像のつらなりを、「生きた記号の束」としてていねいにていねいに読み解いていく評論。しかしなにしろ蓮実さんだから文章は晦渋、そもそも論の対象たる小津映画を観ずにこれだけ読んでもわからない。そういう意味では、今回あげた本の中で、いちばん敷居の高い一冊ですね。

 38 東京大学のアルバート・アイラー 歴史編/キーワード編 菊地成孔 文春文庫
 39 憂鬱と官能を教えた学校 バークリー・メソッドによって俯瞰される20世紀商業音楽史 上下 菊地成孔 河出文庫
 菊地さんの文章はやたらと面白いんですよ。ふつうのエッセイでも面白いのに、この4冊では「歴史」と「楽理」とが学べるわけ。でもって、楽理ってのは物語論に応用できる。こりゃ読むわな。もちろん、楽器もできないぼくみたいのがただ読んだだけで会得できるはずもないけど、とりあえず「なるほど。楽理ってこういうものか」と、とっかかりは得られますね。

 40 科学哲学への招待 野家啓一 ちくま学芸文庫
 野家さん二冊目。われわれの文明が依拠している「科学的言説」でさえも、絶対不変の「真理」ではなくやはり「物語」の一種、ということがわかる。

 41 聖書入門 小塩力 岩波新書
 欧米における最大の「物語」といえばいうまでもなく聖書であり、文明そのものから日常生活、ものの考え方に至るまで、聖書の影響ははかりしれない。しかし、ぼくらはどれだけ聖書について知ってるだろうか。これは1955年に出たものだが、いまだに版を重ねている。それはこの本の堅牢さを示してるんだろうけど、反面、60年以上もこれを超えるコンパクトな「聖書入門」が書かれてないのかと思うと、どないなっとんねん、という気もする。

 42 文学とは何か 上下 テリー・イーグルトン 大橋洋一 訳 岩波文庫
 ここから4冊は物語論というより文学(小説)論。いま手ごろな値段で買える文学論のうち、もっとも理論的完成度の高いのがこれ。

 43 アメリカ講義 イタロ・カルヴィーノ 米川良夫ほか訳 岩波文庫
 現代イタリアを代表する作家カルヴィーノ(故人)の講義録。すばらしい。この人が、小説のみならず物語のことを考え詰めてたことがよくわかる。

 44 小説の技法 ミラン・クンデラ 西永良成 訳 岩波文庫
 「実存の発見・実存の探求としての小説の可能性を問う、知的刺激に満ちた文学入門」と文庫版の表紙に書いてある。ぼくもそう思う。

 45 書きあぐねている人のための小説入門 保坂和志 中公文庫
 「どうすれば、小説は小説たりうるか。つまり、物語になってしまうことを避けられるのか」について考察したエッセイ。とぼくは読みました。

 46 忠臣蔵とは何か 丸谷才一 講談社文芸文庫
 「討ち入り」という一つの事件がいかにして同時代の「物語」となり、さらに後世に受け継がれていったか、についての(推理小説のように面白い)考察。

 47 ある神経病者の回想録 シュレーバー 渡辺哲夫 訳 講談社学術文庫
 徹底してロジカルに狂った人の、いわば「オレちゃん神話」とでもいうべき回想録。奇怪な妄想をここまで理路整然と語れることに驚く。ひとが「物語」に呑み込まれてしまうメカニズム(の一端)を可視化した一冊。

 48 わが闘争 上下 アドルフ・ヒトラー 平野一郎ほか訳 角川文庫
 これもまた、すこぶる頭のいい男による「オレちゃん神話」なんだけれども、先のシュレーバーと違うのは、この「物語」がこの人物ひとりの妄想に終わらず、爆発的に広まって、同時代のほぼ全国民に浸透し、「共同幻想」となってしまったこと。そして世界に未曽有の悲劇を招き寄せる。「物語」の恐ろしさを知らしめる一書。そしてまた、これを読んで本当に一抹の魅力も同意も感じないのか、ぼくら自身も試されるのだ。

 49 シュルリアリスム宣言・溶ける魚 ブルトン 巌谷国士 訳 岩波文庫
 「溶ける魚」は、おとぎ話のフォーマットで「言語実験」をやった作品。体調の悪い時は、ただの訳の分からぬ戯言の羅列としか見えない。しかし波長の合う時に読むと、ほとんど麻薬的な快楽に見舞われる。いや麻薬をやったことはないが。

 50 百物語 杉浦日向子 新潮文庫
 マンガ。46歳で惜しまれながら逝去した天才が遺した、『百日紅』(ちくま文庫)とならぶ代表作。江戸の怪談にヒントを得ているのだとは思うが、どれもが杉浦さん自身の色に染め上げられて、汲めども尽きぬ物語の井戸ともいうべき恐るべき作品。




HUGっと!プリキュア 16話のラストについて

2018-05-22 | プリキュア・シリーズ









 HUGっと!プリキュア 16話「みんなのカリスマ!? ほまれ師匠はつらいよ」のラストで起こったショッキングな件につき、すこし混乱があるようなので、かんたんに整理してみます。
 ルールーは、回路がショートしたのでも、なんらかの方法で爆破されたのでもありません。キュアエール姿のはなを庇って突き飛ばし、彼女のかわりに、頭上からの赤い光線(おそらくはレーザービームのような)に撃たれたわけです。
 きわめて分かりにくいけれど、一連のアクションを起こす直前、ルールーの眼球がほんの僅か上に向きます。それは彼女じしんの真上ではなく、キュアエールの上方なんですね。コンマ何秒という話だから、助けるためにはああするよりなかった。
 ルールーの計算能力なら、ポジションからいって、自分がかわりにビームの直撃をくらうのを避けられないとわかったでしょう。はなの眼前で、くちもとが小さく開く。あれはおそらく、「さようなら」の「さ」を言おうとしたのだと、私は解釈しています。
 ダメージを受けて両膝を付くとき、ガシャンと、かなり鋭い金属音がしますね。これまで、顔の辺りに電子基板みたいなイメージが浮かぶことはあっても、彼女が「アンドロイド」であることを露骨に示す描写はなかった。しかもそのあと、画面がルールーじしんの視界になって、ぼやけて歪んでブロックノイズが入り、ついにはぷつんと暗転してしまう。ニチアサの児童向けアニメとしては、ぎりぎりまで踏み込んだ描写でしょう。
 これまでのコミカルなイメージから、ここにきて一気にホラーチックなまでの極悪ぶりをみせたパップル(CV 大原さやか)は、意識のないルールーの頭を小突いて突き倒しながら、「できそこないの機械人形が、あたしの邪魔をするなんて、調整し直しね」と言いますが、あの「あたしの邪魔」というのは、キュアエトワールに変身アイテムを返したことではなくて、「キュアエールを狙った攻撃をルールーが妨害したこと」を指しているわけです。
 エトワールにアイテムを返した時は、まさに「何やってくれちゃってんのよー」という感じで、事情がいまひとつ呑み込めなかったんですが、身を挺してエールを助けたことで、ルールーがはなたちを好きになってしまったのを確信したわけです。
 いずれにせよ、クライアス社に対する裏切りが発覚した時点で、ルールーの回収~初期化はとうぜん予期しうることなので、遅かれ早かれこうなったとは思うんですが、それにしても、こちらの予測をはるかに超える演出でした。
 そもそも今回の作画・演出そのものが、「光と影」「晴天と曇りと雨」「花」「足元のアップ」などを十全に駆使した魔術的なまでの素晴らしさで、日常パートもバトルパートもよく動いており、仲直りした「じゅんな」と「あき」の遠景に向かって手を差し伸べたエトワールが、(彼女のキーイメージである)「星」を掴みとるくだりなど、ただ舌を巻くばかりでした。そんでもって、そのあとがアレですからね……。
 15周年の節目を飾る今年のプリキュア、われわれは毎週、すごいものを見せてもらっているのかもしれません。


18.05.18 VS船江恒平六段戦の棋譜鑑賞

2018-05-20 | 雑(youtube/パソコン/将棋。ほか)
 長々書いたが、じつは昨日の記事は前置きである。七段に昇った事実もさることながら、それを決めた藤井くんの指し回しが見事で、これはぜひブログに書きたいと思った。昨日よりもずっと専門的なので、将棋に興味をもたない方にとってはもう完全に「なんのこっちゃ」という話になるが、よろしかったらお付き合いのほど。

 



 51手目、2一にいた馬を▲3一馬と敵玉にすり寄ったところ。先手(手前の側)が船江六段、後手が藤井六段だ。この局面、すでに6‐4で後手の藤井六段がよい。AbemaTVで解説を担当した3人のプロもそう言ってたし、うちのソフト(技巧2)もそう評価している。
 ただ、ぼくていどのレベルでは簡単に勝てぬのも確かで、げんにここから後手をもってソフトと指したら何度やってもボロ負けする。いろいろと落とし穴があるわけだ。解説のお三方にしても、「とりあえず△5七に銀を成って飛車を取りにいきますよね。それで悪いとは思えない」という感じで、明快な勝ち筋を提示できるふうではなかった。
 というのも、△5七銀成のときに▲5八香と打つ手がある。後手陣の弱点は5三の地点で、ここに成香をつくられては勝てない。王手で飛車は取れるのだが、これには▲同玉で、意外と先手玉が広い。そのあとで後手は△5二玉といったん受けねばならないが、そこで▲4二と、と、にじり寄られると、すでに逆転ムードなのである。
 だから▲5八香には飛車を取るのでなく、△4七成銀左、と遊んでいるこちらの成銀を寄せる。これで後手は優勢を維持できて、正確に指せば勝勢へともっていけるはずだが、悲しいかな、そこまで進めてもまだ、ぼくレベルでは何度やってもソフトに負ける。たとえば▲5七香△同成銀のあと▲1八飛とさっと逃げ、そこでもし後手が緩い手を指したら5七を守るべく▲1三馬と引いて粘りにいくとか、けっこう紛れをもとめる手はあるのだ。
 さて。51手目▲3一馬の局面。藤井六段は銀を成らずに△6五桂と打った。これにはAbemaの解説陣もいささか意表をつかれたていで、「悪い手じゃないだろうけど……うーん……」という感じであった。船江六段は15分ほど考えて▲6六香。最善の応手だろう。藤井六段の継続手は△7三桂。働きのなかった右の桂馬を活用する。





△7三桂まで。

 この「遊び駒の活用」の巧さが藤井将棋の魅力のひとつで、たとえば朝日杯の決勝・VS広瀬章人八段戦でも、77手目▲4九飛という意表の手があった。隠居の飛車を活用した手ではあるけれど、金銀が頭上を塞いでいるからすぐに働くわけではない。この瞬間に相手から仕掛けられたらと思うと、怖くてなかなか指せないが、しかしここに飛車を持ってきたことで、93手目、あの伝説の4四桂(打)が実現するのだ。この飛車は終局までずっとこの位置で、敵玉にダイレクトにかかわったわけではないが、じつは勝利をもたらす陰の功労者だった。20手近くも前にここまで読んでるんだから、構想力が桁違いだ。

VS広瀬章人八段戦 77手目▲4九飛

VS広瀬章人八段戦 93手目▲4四桂(打)



 船江戦に戻ろう。△7三桂のあと、先手は▲5六桂。次に6四桂からの両取りを狙う。このあたり、解説のプロ棋士の方たちも、「んんんー?」という感じだったように思う。むろん逆転とまではいかないが、かなり差が縮まってきた、そういう顔色にもみえた。じっさい、ソフトの評価値を見ても、たしかに差は縮まっている。
 何回か試してみたのだが、うちの技巧2はここで△5七桂成と指す。しかしそれでは▲6四香と走られて角と金との田楽刺し、もつれにもつれて本当に逆転してしまう。あかんではないか。
 藤井六段は△4五角と指した。序盤早々に打ったあと、ここまで逼塞していた角が飛び出す。二度目の「遊び駒の活用」である。これが好手だった。この△4五角の局面から、技巧2×技巧2で対戦を続けさせてみると、あれこれと変化はあっても後手が勝つ。もう逆転しないのだ。
 だとすれば、△4五角は技巧2をしのぐ手、いわゆる「ソフト超え」の一着ということになる。より高性能のエンジンで走らせてみたらどうなるかは不明だが、少なくともうちのパソコンでの「技巧2」は超えている。なんと。
 ここで予定どおり▲6四桂の両取りに、後手はいったん△6三金とかわす。▲7二桂成と銀を取って、とうぜん△同金。▲4二馬の王手に、△6二玉と逃げる。▲5二銀と絡んで、△7一玉の早逃げ。
 負けを覚悟したほうがあえて「一手負け」の手順に踏み込んでいくことを、将棋用語で「形づくり」というのだが、ここでの船江六段に「形づくり」のつもりがあったのかどうか。すくなくとも解説の棋士たちは、「これは形づくりですねー」と宣告を下したわけではない。後手よしは揺るがないにせよ、まだアヤがあるんじゃないか、という感じにもみえた。
 ▲6三銀成と金を取り、△同金。先手は金を一枚剥がしたが、後手のほうにも銀が入った。数手後にわかるが、この銀の入手が藤井六段の狙いであった。
 ▲5一馬。ほかに後手玉にせまる手立てはない。△3六角と、ついにあの角が先手玉の急所を睨む位置にきた。▲6五香と桂を取り、△同桂で7三に空間ができる。そこに、取ったばかりの桂を打つ。この▲7三桂が、次に6一馬までの1手詰めを見ている。あれほど安全そうだった後手玉に、「詰めろ」がかかったわけだ。
 ここでたしか、解説者のひとり橋本崇載八段が、「後手玉に詰めろがかかりましたが、おそらく先手が詰みます。」と言いながら、画面の右手から入ってきたと思う。
 そうなのだ。この局面が藤井六段の想定図だった。さほど間を置かず△4八銀。前回の記事で書いたとおり、船江六段もまた詰将棋の達人だ。着手と同時に「負けました」と頭を下げた。すなわちこれが投了図である。

 






 ここからの詰みは、長手数だし、一本道というわけでもなく、アマ二段くらいでも一目ではわからないだろう。3六の角はもとより、香を取って6五に跳ねた桂まで働いているのが素晴らしい。それにしても、十数手も前からこの局面を読んで、そこに誘導していくことができるのは、プロの中でも本当に限られた人だけだろう。
 ぼくが感動したのは、この投了図がほんとうに美しいからである。あの△4五角の局面から、ソフトどうしで戦わせてみると、後手が勝つには勝つのだが、ごちゃごちゃと駒が入り乱れ、けっしてこんな図面にはならない。一流のプロ同士、それも詰将棋の達人同士がやりあってこその投了図だとぼくには思え、それでブログに書く気になったのだった。


祝・藤井聡太くん七段昇段

2018-05-19 | 雑(youtube/パソコン/将棋。ほか)
 藤井聡太くんが七段に昇った。15歳9ヶ月での七段はもちろん新記録。「400年に一人」とまでいわれる天才の快進撃を寿ぎたい。

 「七段」という段位にかんしていえば、これまでの記録はこのようになっているらしい。

 加藤一二三 17歳 3ヶ月
 谷川浩司  18歳11ヶ月
 羽生善治  20歳 0ヶ月
 渡辺明   21歳 5ヶ月

 いずれも「中学生棋士」出身者である。偶然にも、キャリアの順に並んでいる。昔は昇段規定が厳しかったので、加藤さんのすごさがわかる。
 ただ、羽生さんは19歳で「竜王」のタイトルを取り、それは翌年失冠したものの、すぐに「棋王」という別タイトルを奪取して、以後、こんにちまでずっと何らかのタイトルを(複数)保持し続けているために、かつて七段を名乗ったことはない。名乗った段位は「五段」までである。
 それは渡辺明さんも同じで、羽生さんより15年のちの話だが、20歳のときに「竜王」への挑戦権をえて六段になると、そのまま一気に奪取して七段となり、そのまま連続9期にわたって竜王位を保持し続けた。失冠ののちも他のタイトルを持ちつづけ、やはり段位を名乗ったことはない。だからこちらも、名乗った段位はほぼ「五段」までということになる。
 羽生・渡辺の両者は「タイトル獲得」の規定によって昇段したためそうなった。口のわるい将棋ファンが、「スピード昇段なんて言っても、段位を名乗ってるようじゃまだまだだよね」などと、不遜なジョークを飛ばすのは、これをふまえているわけだ。ただ、このお二人のタイトル挑戦~獲得は20歳くらいのことなので、藤井くんの早熟ぶりは(今さら言うまでもないことながら)瞠目に値する。
 なお、タイトルといえば、かつて18歳6ヶ月で「棋聖」をとった屋敷伸之(現九段)さんは、それを失冠したあと「六段」となった。今日では、「タイトル一期獲得」で七段となるが、当時はその規定がなかったのだ。しかし18歳でのタイトル獲得は羽生さんをしのぐ記録であり、本来ならここに名を連ねていてもおかしくない。ちなみにいま、将棋ファンがもっとも注目しているのは、藤井聡太七段が、この屋敷さんの最年少タイトルを破れるか否か、だ。

 ことのついでに、将棋連盟が公表している「昇段規定」も転載しておこう。


四段(プロの仲間入り)
三段リーグでの優勝・準優勝
三段リーグ次点2回


五段
竜王ランキング戦連続2回昇級または通算3回優勝
順位戦C級1組昇級
タイトル挑戦
全棋士参加棋戦優勝
公式戦100勝


六段
竜王戦2組昇級
五段昇段後竜王ランキング戦連続2回昇級または通算3回優勝
順位戦B級2組昇級
五段昇段後タイトル挑戦
五段昇段後全棋士参加棋戦優勝
五段昇段後公式戦120勝


七段
竜王挑戦
竜王戦1組昇級
六段昇段後竜王ランキング戦連続昇級または通算3回優勝
順位戦B級1組昇級
タイトル1期獲得
六段昇段後全棋士参加棋戦優勝
六段昇段後公式戦150勝


八段
竜王位1期獲得
順位戦A級昇級
七段昇段後公式戦190勝


九段
竜王位2期獲得
名人位1期獲得
タイトル3期獲得
八段昇段後公式戦250勝

 おもしろいのは、昇段のタイミングだ。条件を満たした時点で即日昇段なのである。年度末とか年度初めとか、公式日程がおわってからとか、そういう保留期間がない。藤井聡太四段は2018年2月1日、順位戦C級2組の9回戦で勝ち、成績を単独1位の9勝0敗として、最終戦(10回戦)を待たずに1位通過を確定させ、C級1組への昇級を決めた。いわゆる「一期抜け」である。そして同日付で五段に昇った。
 さらに3月15日の10回戦でも勝ち、全勝での通過を決める。ちなみに、C級2組の「一期抜け」はたいへん難しく、羽生さんでさえ2期かかっている。初参加での全勝となると、藤井くんを含めて史上6人しかいない。
 それはともかく、ここで重要なのは、2月1日の時点で「五段昇段」を果たしていた点だ。これを3月15日まで持ち越していたら、話がかわってくるのである。というのも藤井くんは「朝日杯将棋オープン戦」の本戦に進み、2月17日午前の準決勝で羽生善治竜王に勝ち、同日午後の決勝戦で広瀬章人八段(現役A級・元王位)を破って優勝したからだ。
 この「朝日杯将棋オープン戦」は、「全棋士参加」の棋戦だ。ゆえに、五段になってからの「全棋士参加棋戦優勝」により、六段となったわけである。
 昨年の話になるが、2017年5月25日、藤井聡太四段は「第30期竜王戦6組決勝」において、若手俊英のひとり近藤誠也五段を破って優勝し、5組への昇級を決めていた。社会現象となった「デビュー以降負けなしの29連勝」のさなか、19連勝めの勝利だった。
 そして昨日、2018年5月18日、「第31期竜王戦5組ランキング戦準決勝」にて船江恒平六段を破り、4組への昇級を決めた。そこで、「六段昇段後竜王ランキング戦連続昇級」の昇段規定により、同日付で七段に昇段した次第だ。
 このたびの対戦では、マスコミは、「井上慶太九段一門VS藤井聡太」なる構図を、面白おかしく強調していた。将棋ファン以外の方には何のことだかわからぬだろうから(そんなこと言ったら今回の記事はまるごとそうだが)、すこし説明させて頂こう。
 昔ながらの伝統で、将棋界は師弟関係を重んじる。プロ棋士になるには、必ず棋士の門下に入らねばならない。藤井七段の師匠は杉本昌隆七段で、よくテレビにも招かれているのでご存知の方も多かろう。
 井上慶太九段は、谷川浩司九段の弟弟子にあたる関西のベテランで、かつてはA級に在籍していたこともある。この方には三人のお弟子さんがいて、みな優秀なのである。
 稲葉陽八段(30)は、順位戦最高ランクのA級に在籍し、昨年は名人に挑戦したほどの棋士。
 菅井竜也王位(26)は、昨年、羽生善治さんからタイトルをもぎ取り、「平成生まれ初のタイトルホルダー」となった棋士。どちらもたいへんな強豪だ。
 藤井総太くんは、プロになってから公式戦で12敗しかしていないのだが(勝ち数は76)、そのうちの2敗を、このお二人に喫している。菅井さんには2017年8月、王将戦の一次予選にて。稲葉さんには2017年12月、NHK杯のトーナメントにて。こちらはテレビ放映なのでご覧になった方もいるかもしれない。
 ぼくはどちらの棋譜も見たけれど、序盤から中盤の入り口にかけて早々と藤井くんのほうが悪くなり、そのまま押し切られた感じで、プロレベルでは完敗といっていい。
 しかしそれは「藤井四段」の頃の話であって、少なくともその時点においては、やむをえない結果だったともいえる。
 ただ、そのあと僅かな期間に藤井くんはめきめき強くなり続けた(もちろん今もだが)。そして朝日杯で優勝し、六段に昇ってなお16連勝を継続するさなか、井上慶太さんご本人と当たった。今年の3月28日、「王将戦1次予選」だ。そして敗れた。結局これは、「藤井聡太六段」が喫した唯一の黒星ということになる。
 むろん井上さんは、かつて全盛期の「羽生世代」とわたりあった棋士で、甘い相手ではないのだが、率直にいって、下馬評では藤井持ちが多かったはずだ。「番狂わせ」とまでいったら失礼だけど、ぼくなども、「6‐4で藤井だろう。」と思っていた。
 この将棋は完敗どころか、むしろ藤井六段が押しているようにも見えたが、終盤に差し掛かったあたりで珍しく失着が出て、形勢を損ねたように思う。
 なんにせよ、この勝利によって、一部のマスコミやら何やが、井上一門を「藤井キラー」と呼ぶなどして、面白おかしく盛り上げにかかったわけである。そこにもってきて、たまたま「七段」がかかった一戦に、一門の最後のおひとり船江恒平六段が登場したので、ちょっと悪乗り気味になった。「刺客」とか、穏やかならざる単語も目についた。
 船江六段(30)は、まえのお二人と比べると実績の点では見劣りするが、藤井くん同様、詰将棋の名手として知られ、解くのはもちろん、創作のほうに天賦の才をみせている。テレビなどで拝見すると、じつに明朗な印象で、解説などもわかりやすい。文章もうまく、NHK将棋講座のテキストでエッセイを連載していたこともある。人柄のにじむ好エッセイだった。
 それにつけても、「藤井キラー」だの「刺客」だの、どうにも趣味がよろしくない。ぼくが「悪しき物語」と呼ぶのはまさにこういうやつであり、この手の安い「物語」を好むマスコミ(とそれを支える大衆)ってぇものは、ほんとになんとも、どうにもこうにも、オッペケペーのペッポッポーだ。
 昨日の勝負でも、決着がついた直後、押しかけた記者のひとりが「一門がどうこう」と、やはりこの話を持ち出した。そりゃ記者のほうにも「読者のニーズを満たす」という責務があるから仕方ないんだろうし、答える船江さんも、もちろんそつなく応じてたんだけど、心なしか、声音がこわばってるようにも聞こえた。
 記者たちの波がひき、「感想戦」がはじまると、負けた船江六段は一転していつもの爽やかな顔になり、あかるい声で検討にうつった。「ここ、こうしてたらどうだったかな」「あー、それだったらこうですかね」「あ、なるほどなるほど。なら、こうだったらどうですか」「それだと……まあ、こうでしょうか……」さっきまで盤を挟んで対峙していた両者が、さながら共同研究者のように、熱っぽく、しかもどこか愉しげに、指し終えた一局を分析していく。
 勝負はとうぜん勝負であって、それはとことん厳しいものだが、プロ棋士とは勝負師であると同時に「将棋」というロジックの体系を究めんとする研究者であり、探究者なのである。将棋というゲームの神髄はそこにこそ存するわけで、その前にあっては、シロート衆の思いつく安い物語なんぞ、なにほどの値打ちもないのだった。


あらためて、純文学について。その01

2018-05-18 | 純文学って何?
 「ダウンワード・パラダイス」は、2014年の9月に、今は亡きocnブログからここgooブログにお引越ししたのだけれど、その頃の記事を読み返してみると、当時はまだまだ「純文学」を信頼してたなあ……と思う。
 当節は「純文学」が衰え、「物語」が世を覆っている。しかし物語とは、(ハリウッド映画によく見られるとおり)個別の人間をかんたんに「キャラ付け」して「味方」と「敵」とを分かち、じっさいには豊かでふくざつな「現実」を、陳腐にストーリー化してしまう。これはよくない。
 と、いったようなことを力説していた。
 「物語」は面白い(これもハリウッド映画を思い浮かべればわかる)。そのパワーは絶大だ。ただ、そんな「物語」にばかり浸っていると、状況に流され、きちんと自分でものを考えなくなってしまう。
 そんな「物語」の威力に抗うために、やはり「純文学」は必要なのだ。みなさん純文学を読みましょう。
 おおむねそういう論旨である。
 間違ったことを言ってはいない……と今でも思うが、なんか空回りだなあ……との感は否めない。すくなくとも、今のぼくは、どのような形であれ、そこまで「純文学」を顕揚(けんよう)したい気分ではない。
 たんじゅんな話、もし「物語」に対する免疫力をつけたいなら、べつに「純文学」ならずとも、「教養って何?」で紹介しているような、他のジャンルの優れた本を読んでもいいわけで。
 ともあれ、2014年の9月にそういうことを書いて、いま2018年5月。「純文学うんぬん」というテーマにつき、このかんに起ったもっとも大きな出来事といえば、村上春樹の新作『騎士団長殺し』の発売……ではなくて、結局のところ、2015年下半期の又吉直樹『火花』芥川賞受賞だと思う。
 小説としての『火花』については、2015年の9月7日に記事を書いた。読み返してみると、言うべきことはぜんぶ言ってて、とくに付け加えることはない。言っちゃなんだが、もともとそこまでたいそうな小説でもないのだ。
 ただ、この作品はドラマになった(さらにそのあと映画化もされたが、そちらの話は割愛し、ここではドラマ版についてのみ述べる)。
 製作から放映の経緯は、wikipediaによれば以下のとおりである。

「 2015年8月27日、有料動画配信のNetflixと吉本興業によって映像化されることが明らかになる。
 同年11月上旬にクランクイン。全10話のドラマとなり、2016年春から、Netflixにて全10話一挙配信された。2017年2月26日から4月30日までNHK総合にて、約45分(最終回のみ50分)に再編集して放送された。」

 ぼくは全話通して見たんだけれど、これがほんとに良い出来だった。原作を読んで感じた「物足りなさ」がことごとく丁寧に埋められ、情感あふれる青春ドラマに仕上がっていた。脚本も監督も、複数の方が分担で担当されていたらしいが、全体に筋が一本通って、冗漫なシーンはまったくなかった。主演の林遣都という青年がことのほか良くて、これまで見たテレビドラマの中でも五本の指に入ると思ったほどだ。
 先輩芸人の神谷は、原作ではちょっと掴みどころがなく、芥川賞選者のひとり小川洋子さんなど、「天才気取りの詐欺師的理屈屋」とひどいことを言っておられたけれど、ドラマ版では、「才能はあるのに、性格が詰屈していて、客に媚びることができず、自分のスタイルにこだわりすぎて売れない」ところがきちんと出ていた。
 ただ、波岡一喜という役者さんは、ぼくの思い描く神谷とはやや違っていた。ぼくの感じだと、あんなに鋭くはなくて、それこそ「天然ボケ」というか、もうちょっととぼけた空気を漂わせているように思うのだ。それでいて、滴るような色気がある。正直なところ、ぼくのなかでは、町田康さんのイメージが最初に読んだ時から確立していて、ほかのひとが浮かばないのである。これはまあしかし、極私的な思い入れです。波岡さん、スタッフの皆さん、ファンの皆さん、すいません。
 ともあれ、よいドラマだったのだ。へんな話、あれを見たことで、原作に対する自分の評価が跳ね上がったのである。あのドラマを生む母体に、核(コア)になったのならば、『火花』はやはり名作だ。そう思った。
 しかし、裏返していえば、それは小説としての『火花』が、あらためて弱さを露呈した、ということでもある。いわば大勢のスタッフやキャストたちとの「合作」によって初めて「作品」となりえた。文学作品として、独り立ちできてはいなかった。
 版元の文藝春秋社にとって、『火花』は慶賀すべきヒット作であったろう。そのご、第二作をゲットした新潮社にも、その恩恵は及んだであろう。しかし、又吉直樹という作家の登場によって、ジャンルとしての「純文学」が息を吹き返した、というものではない。
 ぼくとしては、失礼ながら、又吉さんの生みだす「小説」にはさほどの関心はない。むしろ、マスメディア(というか、テレビ業界)における又吉さんの受容ぶりのほうに興味をひかれる。
 又吉サイドからいうならば、芥川賞作家となった芸人・又吉直樹の、テレビ業界における振舞い方、ということになるわけだが。
 ぼくはめったにテレビを見ないので、はっきりしたことは言えないのだが、テレビの中の又吉さんは、和服を着て、長髪で、けっしてはしゃいだりはせず、ぼそぼそと、口ごもるように発言する、という印象がある。
 その発言はことさら面白いわけでもないのだが、どこかしらユニークで、人情や世相の機微にふれている……。周りのひとは、ああ、やっぱりこの人は、ふつうの人とはちょっと違うな、作家なんだな、という目で彼を見直す……。
 正鵠を射ているかどうかは不明ながら、ぼくが又吉という人に抱いているイメージはそんな感じだ。
 これがもし当たっているとするならば、又吉さんは、この純文学不振の時代にあって、「文豪」のパロディーを演じることで、独特の存在感を放っている、ということになる。
 「パロディー」というのもいささか荒い言い回しだけれど、「世間のもっているステレオタイプを弁えたうえで、それを自己流に演じ直して見せる」ことをパロディーと呼ぶなら、それはまさしくパロディーだろう。
 文豪といっても、谷崎潤一郎や志賀直哉のごとく、「文壇に君臨する」といった感じではなく、このばあいは、人気はあっても終生ずっと異端者であり、けっして「権威」にはなりえなかった太宰治タイプである。繊細で、ナイーブで、青くさい。そのくせ結構したたかで、人を食ったところもある。
 いいかえれば、それは「純文学」というジャンルそのものに対して、今も昔も世間が抱くパブリックイメージなのかもしれない。
 そういう点では、おかしな話、村上春樹や村上龍や島田雅彦といった人たちよりも、又吉直樹ははるかに「純文学作家」ぽくって、少なくとも外見としてこれに匹敵するのは、世代としてはずうっと上の筒井康隆だけだ。
 なお、筒井さんもまた、まさしく「文豪」と呼ばれるに足る業績の持ち主であると同時に、芸能プロに籍を置く俳優であり、自覚的な演技者である。
 この高度ハイテク大衆消費社会にあって、「純文学」というジャンルの存在のありようを文字どおり「体現」しているのは、案外と又吉直樹(くどいようだが、その作品ではなく、ご本人そのもの)かもしれない……。
 これもまた、「純文学は救いようのないところまで衰えた」といういつもの嘆きを、べつの表現で言いなおしているだけなんだけれども。