ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

昭和元禄落語心中

2020-07-25 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽






(gyaoでの無料配信期間は終了しました。)


 原作は雲田はるこ。少女マンガの文法にのっとった筋運びと見世方で、落語という芸道の魅力を存分に伝える。講談社刊。全10巻。
 アニメ版の本放送は、第1期が2016年の1~4月。第2期が2017年の1~3月。ぼくはこちらは見逃していて、今回が初視聴でしたが。
 たとえば圓生(もしくは文楽)と志ん生……「秀才型」と「天才肌」といったら単純すぎるけど、ともあれ、端正で筋目の通った芸風と、豪快で破天荒な芸風とのライバル関係は誠に興趣の尽きぬものであり、キャラづくりの「王道」といってもいいけれど、まァこれはそのモチーフを使った作品のひとつの完成形でしょうなァ。
 アニメ版は、原作の細かいところを思い切って刈り取り、そのぶんメインの落語をたっぷり聴かせる。これが絶品。ジャズを基調にした音楽も凝ってる。音楽担当は澁江夏奈。さらに主題歌の作詞作曲は椎名林檎、歌うは芸妓の「みよ吉」役で出演もしている林原めぐみ。これまた絶品。
 端正で筋目の通った(そして陰性の色気の滴る)落語家・八雲のCVは石田彰。
 豪快で破天荒な(そして陽性の色気に満ちた)落語家・助六のCVは山寺宏一。
 いやァ、おふたりとも滅法うまい。いや声優としてむちゃくちゃ上手いてぇのは何も今更アタシなんぞが云々するこっちゃないんだけども、落語が滅法うまいんだな。ニッポンの声優のレベルの高さにゃいつも脱帽ですよ。




☆☆☆☆☆☆☆






 落語ってものは脚本(ほん)を読んでも仕方ないんで、だったらテレビで……ってのもぬるくて、寄席ェ行って生(なま)の噺家の演ってるとこを聴かなきゃしょうがない。だから出不精のうえにカネが入ったらすぐ本につぎ込んじまうぼくなんぞにはなかなか味がわかんないんだけども、それをいったら芝居の舞台も、歌舞伎も能もろくすっぽ観たことないし、踊りや小唄も知らないねえ……こんなんでにっぽんのブンガクがどうの……なんつってンだから肝が太てぇや。そりゃ谷崎はおろか三島由紀夫だってピンとこないはずだよ。ミシマ文学には芸能の血が流れてンだから……。
 思えば、米朝師匠のマクラなんてのは、司馬さんの随筆とタメを張るくらい勉強になったもんだけど、ああいう方が亡くなるてのは、大きめの図書館が焼失しちまうようなもんだね。談志なんて人もね……あのシトの落語で笑ったことは一度だってないんだけども、いや大体テレビでしか観たことないんですがね、なんか好きでね。まあ毛色の変わった喋る図書館みたいな人でした。あと、噺家じゃないけど小沢昭一とかね。凄いひとがいっぱいいたなァ、昭和には。いやみなさん平成ンなっても活躍されてましたけどね勿論。でもぼくンなかではみんな昭和のひとですよ。
 落語ってのは、アハハと笑って気持ちよくなってさっぱり忘れりゃそれで全然いいんだけども、ふと立ち止まって考えだすとコワい芸だ。ひとりで喋ってあれだけの客を引きずり込んで、長い時だと1時間あまりも酔わせちゃうんだから……。一人芝居だもんな、つまりは。しかも座布団のうえェ座ったまんまでさ。
 北村薫の上質のミステリ「円紫さんと私」ってシリーズでは、大学教授が勤まるくらいモノ識りで、人間や世間の裏表にも精通してる大変なひとがホームズ役なんだけど、このひとの生業(なりわい)が落語家なんだなあ。なぜその道を選んだのかは、いちおう作中で語られてるけど、ぼくにはそれだけだとは思えなかった。心の底の深いところでいったい何があったのか。それがいっとう謎かもしれん。
 余談が長くなっちゃった。ともあれ、昭和元禄落語心中、いまどき珍しい大人向けの名作アニメでございます。

  追記 20.07.29)「アニメ版は、原作の細かいところを思い切って刈り取り」と上のところで書いたけれども、それはとりあえず第1話のことで、全体としては、むしろ原作が端折ったり、駆け足で通り過ぎてるところをじっくりと映像とセリフで補ってますね。原作に対する深い愛着と敬意がうかがえる。ほんとうに良質のアニメ作品ですよ。

(gyaoでの無料配信期間は終了しました。)







深掘り談義 すこしだけ、大江さん。

2020-07-21 | 純文学って何?




 dig フカボリスト。「毒舌上等!」がモットー


 e-minor 当ブログ管理人eminusの別人格。digより気が弱い




☆☆☆☆☆☆☆




 どうもdigです。


 e-minorです。


 なんだこの「たまらなく、アーベイン」みたいなサブタイトルは。


 あー、田中康夫さんのエッセイ集な。あれもバブルを体現するような一冊だったけど……


 レコード・ガイドだ。最近になって復刊されたぜ。菊地成孔の推薦文付きで。


 へえ、そうなのか。当時は「アーベイン」の意味がわかんなくてねえ。


 それで今日は何なんだ。「バナナフィッシュ」の続きはやんなくていいのか。


 その前にちょっとね。前回の記事をアップしたあとで、大事なことを言い落したのに気付いた。


 それが大江健三郎のことってわけかい。


 うん。akiさんからいただいたコメントのなかの、「文学の大目的とは、アイデンティティの探究」って話ね、あれがたいへん示唆的だったんだけど、ぼくはその「アイデンティティ」を「自我」さらには「私」と読み替えて、「中上健次いこう、村上龍・村上春樹あたりから、文学はそれまでの『近代的自我』を手放すようになってきた。」というようにお答えしたわけだ。


 いや違うだろ。龍だのハルキだのって名前は出てなかったぞ。


 まあそうだな。そこもついでに補足しとくわ。とにかく、70年代末から、80年半ばのそれこそバブル期にかけて、「文学」は漱石・鴎外以来の課題であった「私=近代的自我」から離脱していくようになった。今日におけるアニメやライトノベルの……つまりは「物語」の隆盛にしても、たんにエンタメ業界内部のジャンル的な成熟ってだけではないんだ。より高次もしくは中枢にあると思われていた「(純)文学」の側でそのような激動が起こったために、「物語」がいわば暴走しはじめたわけだよ。


 ようするにそれはポストモダンってことだろ。前回聞いててそう思ったよ。めんどくさいんで言わなかったけど。


 いやそういうことは思ったときに口添えしてくれよ。


 けど高度成長期が過ぎて生活が豊かになってモダン(近代)が終焉したからポストモダンがはじまったなんて、ほとんど同義反復だからな。いちいち口に出すまでもなかろうぜ。


 うん。それでしばらくのあいだ「なんとなく、クリスタル」「たまらなく、アーベイン」とわがニッポンは浮かれてたわけだけど、それからバブルが弾けて失われた10年があって平成大不況があって、こういう状況が来てみると、『日本の同時代小説』(岩波新書)の斎藤美奈子さんなんかが、「いまいちどブンガクは『個』を確立して『社会』と向き合うべし。」みたいなことをおっしゃるわけだ。


 みんなが貧しくなったから「近代(モダン)」の課題が復活してきたってのも、これまた同義反復だよ。それ自体は退屈な話だ。だがこのご時世、若くて文才のある連中はよっぽどのことがなければ純文学になんか向かわんだろう。「近代(モダン)への回帰」とはいっても、それはかつての「近代(モダン)」とは違う。情報化された高度資本主義ってものができあがってるんだから、カネに結び付くほうへ流れていくのが当然だ。


 ライトノベルを書いて、それがメディアミックスされて売れれば、そりゃ純文学よりカネにはなるよね。


 かくして当該ジャンルはますます爛熟していくだろう。しかし、そんな現状を指して「ラノベやアニメのほうが純文学の先を行ってる。」と言ってのけるのは荒っぽすぎたぜ。これも前回聞いてて思った。めんどくさいんで言わなかったけど。


 それはジャンルの総体として「先へ行ってる。」と言ったんだよな。ラノベ作家ひとりひとりの力量が純文学作家のそれを上回ってるってことじゃないよもちろん(笑)。たとえば宮崎駿とか高畑勲とか富野由悠季とか押井守とか細田守とか新海誠といったビッグネームはいるにせよ、そもそもサブカルチャーにどこまで「作家性」が求めうるか。もちろん個々のラノベ作家にコアなファンが付いている、ということはあるかも知れぬが、それがもしアニメ化された作中キャラへの「萌え」に起因するものだとしたら、その熱狂は当の作者だけの手柄かどうか疑わしい。ましてやアニメなんてのは監督ひとりの手でできるものではないし。


 だいたいの流れはわかった。いってみりゃ書き手と読み手との関わり方の話だな。「私」というテーマに即していうならば、一人称語りの「私」ないし「僕」に対して読み手を強く感情移入させる、というのは今もなお純文学に残された数少ない強みの一つだわな。それも、作中の「僕」と書き手(作者)自身とがダブッてくりゃあいよいよもって効果は増す。


 うん。村上春樹があそこまで支持をあつめる理由の一つは、韜晦を重ねて高度に虚構化されたものとはいえ、基本的に「僕」という一人称で書くせいだし、又吉直樹の『火花』にしても、「…………徳永と相方は花火大会の会場を目指し歩いて行く人達に向けて漫才を披露していた。」なんて冒頭だったら興ざめだろう。これ、だれが語っとんねん、という感じになる。徳永と又吉さんとはずいぶん違うけど、読んでるほうは、やはり「僕」の背後に芸人・又吉のあの戸惑ったような笑顔を思い浮かべつつ作中に引き込まれていくわけだから。


 わかったから、そろそろ大江の話をしろよ。


 うん。まさに大江健三郎こそ、日本の現代小説における「僕」の淵源というべきひとだ。東大在学中のデビュー以来ずっと、基本的には「僕」の作家だった。1957(昭和32)年に『東京大学新聞』に掲載されたそのデビュー作いこう、2013(平成25)年発表の「最後の小説」たる『『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)』まで、1994(平成6)年のノーベル賞をはさんで50年近くにわたって営々と続けられたその文業のなかで、あのひとは「僕」を途方もなく豊かなものに育て上げた。


 そのことは前にもブログに書いてたよな。なんかぐちゃぐちゃ読みづらい文章なんで、さっと流し読んだだけだが、大江のことはこれまでたびたび書いてるだろ?


 うん。「純文学」における「私」という大事なテーマをakiさんから提示されたのに、それくらい心酔してる大江さんのことを書き漏らしたんで、こうやってdigをまた呼んだんだ。


 こっちはいい迷惑だぜ。で、それは失念してたのか? あえて口にしなかっただけか?


 まるっきり失念してた。あとで自分でびっくりした。


 それはあれだろ、前半で軍事がどうのって話をやったからだろ。ああいう話題ほど大江文学から隔絶したものはないからな。


 そうか。アタマの切り替えができなかったのか。digは大江さんが苦手なんだよな。


 だからそこだよ。軍事の話をしたらアタマからすっ飛んじまうような作家だから苦手なんだ。それはおれがこの国の「戦後民主主義」を苦々しく思ってるのと同じことなのだ。


 だけどそれは、裏返せば、すごく認めてるってことでもあるよね。いうならば、ニッポンの戦後精神そのものだと見なしてるわけでしょ。


 戦後精神というか、中国がここまで台頭してくる前の、古き良き時代のニッポンの象徴だな。しかし一方、そんな括りでは収まりきらぬ偉大な作家だとわかってもいる。しかしその偉大さはこの国の戦後民主主義のなかでこそ涵養されたものなのだ。このあたりの絡み合いがうまい具合に解析できなくて苛々する。個々のテキストを単体でピックアップして深掘りしていけば、もっと具体的なことが言えるがね。


 「私」ないし「僕」の話に戻ると、デビュー当時の大江さんの「僕」は東大生とはいえアルバイターであり苦学生であり、しかも「死」に対する蠱惑めいた恐怖に囚われ続けるちょっとアブない青年だったわけだね。時代背景は1960(昭和35)年の安保闘争前夜から、まさに「政治の季節」へと突入していく頃だが、「僕」はどこにも帰属先を見出すことができず、いかにも寄る辺ない。


 そのあたり、「バナナフィッシュ」のシーモアと通底するな。


 うん。たしかに似てるね。年長の旧友でもありのちに義兄ともなる伊丹十三(伊丹氏の妹が大江さんの伴侶)をモデルにしたクセの強い青年とバディ(相棒)を組むことはあっても、初期大江文学の「僕」はいかにも社会の中で孤立……とうじの用語でいえば疎外……されている印象がつよい。そんな青年が作家としての地位を固めるなかで結婚し、障害をもつ息子が生まれて「父」としての責任を引き受けることで少しずつ成熟=成長していく。


 家長になってくわけだな。それも自覚的に。


 いっぽうで世界および日本の正系につながる大きな文学への親炙も怠りなく、最先端の思想や理論も自家薬籠中のものとして、その作品は世界文学へとまっすぐに連なる普遍性を獲得していく。


 そのぶん作品が知識人くさくなってきて、一般の読者がだんだん離れていくんだけどな。


 その壮大な軌跡は2018(平成30)年に刊行のはじまった『大江健三郎全小説』全15巻によってつぶさに辿ることができるわけだけど、それはそのまま大江的「僕」の歴史でもあるんだ。家族との営みを中心に据えて、もろもろのしがらみや雑事を含めた実生活と、巧緻につくりこまれた虚構とを綯い交ぜにして、ときには自作そのものへの批評も取り込みながら、大江さんがほぼ半世紀をかけて育てあげた「僕」の奥行きと厚みと複雑さは、世界全体を見わたしても、20世紀のあらゆる作家の中で最高のものだ。そのことはぼくのすべての知見を賭けて断言できる。ノーベル文学賞選考委員の目は確かだった。これは前にも書いたと思うけど、あらためてこの機会に言っときたかったわけだ。


 それを言うのにいちいちおれを召喚せんといかんのか。さっさとeminusに復帰してもらえ。


 まあまあ……(笑)。


 でもそれは、最初の話に戻っていえば、大江健三郎は「ニッポンの近代(モダン)の最後の作家」ってことだからな?


 たぶんそういうことなんだろうね。モダンうんぬんをいうなら、大江さんと同世代でもうひとり、古井由吉という巨匠がいる。お二人による対談集も出ているが、この方のばあい、デビュー作からすでに「私」が蜃気楼のごとく妖しく揺らめいていた。それはホーフマンスタールの「チャンドス卿の手紙」(1902=明治35)に源をもつと思うけど、「私(近代的自我)」の揺らぎがすでに生理的な前提としてあるわけだね。今や古井文学は日本語の極限に挑むかのような境地に達しているが、大江さんと古井さん、このお二人によって現代日本文学の水準が達成されてきたとはいえると思う。このお二方が厳然として聳えておられるから、ほかの作家たちは自分なりの器に応じて好きなことをやってられるってところはあるよ。


 おまえもさっさと小説書けよ。理屈ばっか言ってないでさ。eminusに言っとけ。


 そうするよ。


 にしても、やめるっつっといて「深掘り談義」が妙に続くな。ひょっとしてこれ、面白くなってきてんじゃないか?


 だな。ふつうに書くより興が乗って話が弾むね。


 でもおれはいつまでも付き合ってやらないからな? 早いとこ「バナナフィッシュ」やっつけようぜ。


 うん。なるべく早く再開しよう。





深掘り談義 20.07.18 祝・藤井聡太棋聖誕生

2020-07-18 | 雑(youtube/パソコン/将棋。ほか)


 dig ……フカボリスト。毒舌家




 e-minor ……当ブログ管理人の別人格。聞き手役だが、今回はよく喋るもよう


☆☆☆☆☆☆☆


 どうもdigです。


 e-minorです。


 藤井聡太くんが棋聖位を取ったな。


 屋敷伸之さんの最年少タイトル記録を更新したのも凄いが、18歳の誕生日の間際だっていうのがまたねえ。明日の19日が誕生日だからね。17歳で初タイトル!っていうのと、18歳で……では、響きがぜんぜん違うよね。コロナ禍のために対局日程が延びてた中でこれをやってのけたんだから、まさにマンガかラノベさながらの鮮やかさだな。


 駒の動かし方もろくに知らないパンピーたちが大騒ぎするってもんだよな。


 またそういう言い方を。どうしてそう反感を買うようなことばっかし言うかな。


 いいじゃんか。どうせもうやめるんだろブログ。


 そりゃそうだけど、だからってそう毒を吐くもんじゃないよ。めでたい話題なのに。


 安穏たる日常を揺さぶり、あわよくば亀裂を生ぜしめて、その裏側に広がる底知れぬ深淵を覗かせようってのがフカボリストたるおれのモットーだからね。そのためには挑発的な発言も辞さんさ。


 べつに将棋の話題でまでそれをやらなくたっていいんだよ。話を戻すと、ふつうのプロ棋士の計算能力を、6桁×6桁の掛け算をすらすらと暗算で解くレベルだとしたら、いわゆるトッププロは7~9桁×7~9桁くらい。それが藤井新棋聖のばあい、10桁×10桁を、延々と精確に解き続けられるレベルって気がする。あくまでもぼくの印象だけど。


 ラマヌジャンみたいなもんかな。知り合いの数学者が、「1729」と記された車のナンバープレートをみて、「何の意味もない数字だな。」といったのを受けて、「そんなことはありません。1729は、2つの異なる立方数の和で表すことのできる数の中でもっとも小さな数ですから。」と即座に答えたというね。


 いわゆるタクシー数のエピソードだな。立方数とはひとつの数字の3乗のことだけど、1729は、1の3乗+12の3乗としても、9の3乗+10の3乗としても表すことができる。このように、ふたつの数字の3乗の和で二通りに表すことのできる数は、1から1728までの間には他にないんだな。


 むろんこんなのは些細な例で、ラマヌジャンはほかにも瞠目すべき業績を山のように残している。彼がノートに書きつけた定理や公式の数々は、いまだ解明途上だ。


 ラマヌジャンのことは人間の脳ってものの底知れなさを測る貴重な事例だと思うけど、藤井聡太というひとも、そういう意味では似てるところはあるかもね。


 そうかもしれんが、こんな話ばっかじゃ昼飯がどうの和服がどうの賞金がどうのと与太ばかり言ってるワイドショーと大差なかろう。肝心の将棋の話をしようや。棋聖位を奪取した7月16日の対渡辺明戦はどうだった?


 じゃあここで画像を貼ろうか。

 これは51手目、先手の渡辺棋聖が26桂と持ち駒の桂馬を打ったところだね。飛車の利きを遮っての桂打ちは異筋といえるが、これが好手だった。もちろんまだまだ難しいんだが、先手のほうが攻勢に入ってるのは確かだ。仮に後手が44金とかわせば、▲55銀左とぶつけていく。それで金気が手駒になったら、そうとう攻めが続きそうだ。


 細かい攻めを繋ぐテクでは渡辺って棋士は天下一品だからな。消費時間も、ここではかなり先手有利だったろ?


 詳しくは知らぬが、中盤あたりでは1時間近く差が開いたこともあったようだ。ありていにいって、「藤井くん押されてるな。」って印象だったね。この局面にしても、44金とかわす以外に、ぱっと見て思わしい手がない。△36歩と伸ばしてるんじゃ遅いし……。


 遅いうえに、先手の玉まで遠いわな。アマの感覚だと、後手の角が使えてないのが痛い。ここで△13角と覗いても仕方ないしな。


 35歩が塞いでるからね。それに、ここで角がどいたら▲55銀左がよけいにきつくなりそうだ。


 おれだったらここでもう諦める。


 得意の深掘りはしないのかい(笑)?


 しない。おれの深掘りはきわめて局所的なのだ。わからん分野のことはわからん。


 藤井挑戦者は、ここで金を逃げずに45歩。この手にもかなり考慮時間を使った。それだけに、なかなか思いつかない手ではあるが、だからって先手もさほど慌てはしなかったろう。5段目の歩打ちだからねえ。さほど時間も使わずに、当たりになった銀を55銀右とぶつけていく。


 ▲34桂が角当たりにもなるんだから、先に金を取る手もあったんじゃないのか?


 △34同銀で後手の角道が開くし、早々と桂馬を渡すのもちょっとな……というところだったのかな。強い人ほどこういう手には飛びつかぬもんだが、しかしこの金が結局取り切られぬまま先手陣ににじり寄っていって、ついには詰みにまで関わってくることを思うと、「ここで取っておけばなあ」という気持は確かにあるね。


 もちろんその時はその時で、藤井くんのほうは対策を用意してたんだろうけどな。


 銀を引くわけにはいかんから▲55銀右は当然だろうけど、後手にすれば、先手の角道を二重に止めたのが大きいのかな。


 で、ここからの2手が棋聖の意表をついたわけだ。


 うん。まずは△86歩と飛車先の歩を一本入れて、これはとうぜん▲同歩。そこで飛車を走らず△94桂と、ここから打つのが藤井挑戦者の狙い筋だった。


 △45歩の前に後手がかなり時間を使ったのはこの後の変化を読んでたんだろうが、しかしその桂……どれくらい先手陣に響いてるんだ。


 ぼくにはなんとも言えないけども、じっさいの指し手をたどっていくと、ここから攻守が入れ替わったのは明らかなんだ。この手以降、渡辺棋聖は長考を繰り返すことになる。そして、ずっと進めて76手目、ここで△89歩成とと金を作ったところでは、逆に後手がよさそうにみえる。




 「なんでこうなった。」という感じだな。あの金がここまで来ちまった。挟撃態勢になってるな。


 このあたりでは、すでに消費時間も逆転していたかと思う。


 全盛期の羽生善治ってひとは、局面がやや不利になると、盤面を混沌とさせる手を指し続けて逆転に結び付けたんだけど、あれを髣髴とさせるな。


 そういう勝負術とはまた違う気がするんだ。羽生さんもインタビューなんかでそのことを訊かれると、「とくに意識はしていません。いつもその局面での最善手を指しているつもりです。」と答えてらしたけど、藤井くんもそうじゃないかと思うんだよなあ。


 その辺の機微は、ソフトの助けを足りてもなお、おれたちには伺い知れんところがあるわな。


 今日はばかに謙虚だねえ。


 言ったろう。おれは不得手な分野に関しては謙虚なのだ。


 さっきの△89歩成のあと、▲53桂不成。これは王手だから同桂と取って、▲73角成。飛車当たりだ。後手の陣形は飛を取られちゃあひとたまりもないんで、ぼくらだったら取り合えず逃げるところだけども。


 ここで飛車を逃げるなら△42飛しかないが、それだと先手からそうとう絡まれそうだ。


 藤井くんは飛車を逃げずに△38銀。これがほとんど決め手級の一手だった。


 これだと▲82馬、△29銀成……まあ不成か……△29銀不成と、先に飛車を取られて▲71飛などと先に打ち込まれそうだが。


 それには△51歩と底歩がきく。これがさっき▲53桂不成と5筋の歩を桂で取らせた効果で、ここに底歩が打てるのがむちゃくちゃ大きい。これで後手玉がすぐには寄らない。いっぽう、その時点で先手玉は△79飛までの一手詰めになっている。


 怖いねえ。


 だから渡辺棋聖は▲59飛と逃げた。玉がえらく狭くなったが、と金はいても、まだ78玉と上がれば左辺が広いと思ってたんだろうね。しかしそこで、△86桂の追い打ち。


 いわゆる「縛り」ってやつだな。先日の木村一基王位との王位戦第二局でも……あれもなかなかの逆転劇だったが……最終盤でそんな手が出てたが。


 あそこではもう形勢が逆転していて、余裕をもっての縛りだったけど、本局は飛車が当たりになってるわけだからね。前もってそうとう読んでなきゃ指せない。


 飛車を取り合ったら先手玉はほぼ必至になっちまうから、先手からは結局取れないんだな。そういう仕組みになってるわけだ。


 うん。とにかく51に底歩がきくのが大きい。飛車を取られたらおしまいだから、渡辺棋聖は△47桂を防いで▲48歩。そこでようやく後手は△42飛と逃げる。このやり取りはどう見ても先手が苦しいね。それでもまだ難しいところはあって、ぼくたちだったら後手を持って確実に負ける自信があるけど、むろん藤井くんは逃さない。……というわけで109手目。もう渡辺棋聖も読み切ってたと思うんだけど、それでも最善の追撃をずっと続けて▲89竜。



 もう後手に歩はないな。


 代わりに桂馬が入ってるんだ。桂馬がなければ41金と合駒するしかなくて、金を使わされると先手玉が詰まなくなるから先手勝ちなんだけど、ここできっちり桂馬が持ち駒になってるわけだね。△41桂打ちまで、先手投了。かくて17歳の新棋聖が誕生した。


 獲得までの経緯もマンガかラノベばりに劇的だったが、将棋そのものも劇的だったと。


 まさにアンファン・テリブルだよね。いや物腰や言動はまことに穏やかで、いっそ老成と言いたいほどなんだけど、盤上においてはただただ怖ろしい。終わってみれば挑戦者側から見て3勝1敗。渡辺さんもびっくりしてたみたいだ。渡辺二冠は棋士の中でも早いうちにブログを始められた方で……ちなみのこのgooブログなんだけど……わりと率直に心中を文章にされるんで好感をもってるんだけど、こんなにも驚いている様子を見るのはあまりない気がする。


 「すごい人が出てきた。」「負け方が想像を超えてる。」だっけ。じっさいに盤を挟んで対戦した棋士が……それもこれほどの強豪が言うんだからよっぽどだわな。


 とにかく藤井新棋聖、このまま順調に行ったら羽生善治永世七冠を超える大棋士になるのは間違いないんで、大人たちはあまり営利目的で擦り寄ったりせずに、できるだけ本人のことを尊重しながら節度を保って接してほしいね。


 そっちのほうが、むしろ将棋そのものよりも難敵じゃないかって気さえもするな。大きなお世話だろうけど。













深掘り談義 20.07.14 インターミッション(20.09.27改稿)

2020-07-14 | 雑(youtube/パソコン/将棋。ほか)


 dig フカボリスト。口がわるい。
 

 e-minor 当ブログ管理人eminusの別人格。


☆☆☆☆☆☆☆


 どうもdigです。前回はdigがdisになっちゃってちょっとだけ反省してるぜ。ちょっとだけだけど。


 e-minorです。いや、あとで読み返したらあんまりひどかったんで、2020年9月27日付けで全面的に改稿したよ。ついでに冗漫なところも削って3分の2ほどの分量にした。読みやすくなったと思うよ、「謎解き・バナナフィッシュにうってつけの日 第1幕」。


 そうなのか。じゃあもう反省しなくていいんだな。


 まあ、そっちもずいぶん丸くなってきたからね。もうあんな荒っぽい発言はしないでしょ。


 で、おれたちふたり、なんか時間を遡行してきたタイムトラベラーみたいになってるわけだが、ブログの流れの整合性を保つため、ここからは2ケ月前と同じ会話をするわけね。


 うん。なんだかお芝居みたいだけど、よろしく頼む。


 誰もそんな、ブログの過去記事をさかのぼって順に読んでいったりしないんだから、そんな律義にしなくていいと思うがね。まあ性分だから付き合ってやるか。じゃあいくぞ。「で、今日はなんか告知があるんだろ?」


 うん。じつは「深掘り談義・バナナフィッシュにうってつけの日」を最後に、ブログをやめようと思ってね。


 あっそう。閉じるの?


 閉じるわけではない。このまま置いておくけれど、更新はしないってこと。


 今までだってそんなことよくあったろ? 1年近く放りっぱなしにしてたり。


 たしかに事情があって更新できなかったことは何度もあったけど、続ける意思は持っていた。書く気が起らなかっただけでね。でも今回は、はっきりと自覚をもって打ち切るってこと。


 理由はやっぱりあれか? 今年の2月くらいからぐちゃぐちゃ言ってたあの国のことか?


 あの国のことはむちゃくちゃ大きい。日本にとっては戦後最大の脅威だと思う。そして、それほどの脅威に晒されてるのに、相も変わらず太平楽なこの国の現状につくづくうんざりした。


 太平楽ってのもあるが、もう食い込まれちゃってんじゃないの? あちこち。


 それも含めてうんざりなんだよ。どさくさに紛れて言うようだけど、日本は一日も早く憲法を改正して「ふつうの国」にならなきゃいけないね。もう手遅れかもしれないが。自分がこんなことを言い出すなんて、ブログを始めた14年前には夢にも思わなかった。そのご少しずつ考えは変わってきたけど、今年の1月くらいまでは、それでもそこまでは考えなかった。この半年ほどでがらりと状況が変わったよ。


 たしかに状況も変わったろうが、これまでは、見るべきものから目を背けてただけだね、おれに言わせりゃ。


 まあフカボリストの目から見たらばそうかもしれない。とにかくそれがいちばんの理由。他にもいくつかあるけども。


 この際だから言っとけば? 言える範囲で。


 プライベートな事情については差し控えるとして、インターネットっていうか、webの現状そのものへの違和感かなあ。ぼくがブログを始めたのは2006年で、OCNブログというのを利用していた。記事を書いてアップするだけで、たいそう素朴なもんだったよ。SNSもそれほど充実してないし、twitterもまだない。そもそもスマホがさほど普及してなかった。ブログ同士のつながりといえば、コメントを付けたり、相互リンクを貼ったりね。


 古き良き時代?


 そこまでは言わんが、まあ素朴なもんだったよ。そのことはweb空間そのものにもいえて、概しておおらかな雰囲気だったね。まあ、あくまでぼくの体感だけども。


 いまは窮屈になってきてるっての?


 窮屈っていうか、とうぜん予期してたことなんだけど、結局はぜんぶコマーシャリズム(商業主義)に囲い込まれてくわけだな。「誰しもが自由に情報にアクセスできる」ってのがweb本来の理想なんだけど、そういうものが衰えつつある。質のいいコンテンツが次々に管理されていって、「アクセスしたけりゃカネ払え。」となる。直截に「カネ払え。」とは言わずとも、アフィリエイトで小遣い稼ぎが常識になってくる。YouTubeが顕著な例だけど。


 そりゃそうだろ。「余白」なんてものを認めない。すべてを余さずカネに換算するのが高度資本主義だ。


 うん。だから予測された事態なんだけどもね。2014年にOCNブログがサービスを停止したんで、このgooブログに移ってきたんだけど、「そんな時代になったらブログやめようか……」とは思ってたわけ。その潮時がいよいよ来たって感じはあるね。


 そもそもが甘い理想主義者だからな。


 なにしろ14年前にブログを始めた目標というのが、「高校生の時の自分が読んで勉強になる記事を書こう。」だからね。それほど高い志ではない(笑)。だから自分がほんとに関心のあることしか書けない。ありていにいって風変りだし、偏ったブログであるとは思うよ。世間には、もっと楽しいブログや為になるブログがいっぱいあるよ。


 あたりまえだ(笑)。


 それでもキーワードによってはいくつかの記事がgoogleの検索上位にきてるみたいで、来訪者は大半が検索経由なんだけど、googleさんの検索順位が変動しただけでアクセス数がどーんと増えたり減ったりする、ってのもなんか嫌なんだよ。


 アクセス数なんか気にしてんの?


 かつてのOCNブログにはアクセス解析機能なんてなかった。だから自分の書いたものがどれだけ読まれてるかわからない。まさにメッセージ・イン・ア・ボトル、壜に手紙を入れて海に流してる具合で、むろんほとんど読まれてなかったんだろうが、それだけに、たまにコメントが付いたら嬉しかったね。だからその頃の初心のままでいたいのは山々なんだけど、そこが凡夫の悲しさでね。


 そんなしょーもないことで一喜一憂してストレスになるなら、そりゃ止めたほうがいいな。


 いやだから、そっちはあくまで二次的な理由で、いちばんの理由はあの国のことなんだよ?


 まあいいさ、べつにこのブログが更新を停止したところで世界にとっては葉っぱがひらりと地上に落ちたほどの影響もない。“Do as you like”というしかないな。


 14年のあいだには、何人か熱心にコメントを下さった方もおられて、ありがたいことだと思ってます。あと、gooブログの機能でフォロワーになって頂いてる方々、何しろこういう性格なもんで、こちらからはブログに伺うこともほとんどなくて、たいへん失礼しましたが、もちろん感謝しております。


 うん。で、おれもう帰っていいの?


 いやいや。最初に言ったろ? 「深掘り談義 バナナフィッシュにうってつけの日解読」シリーズだけは仕舞いまでちゃんとやるんだよ。


 ああそう。律儀なことで。


 だいたい、「そろそろやめよう。」と思ったからこそdigみたいな劇薬くんを招聘したんだからな。


 おれは危険人物扱いか(笑)。じゃあ、今の調子でがんがん行っていいんだな?


 「バナナフィッシュにうってつけの日」というのはそれくらい覚悟を決めなきゃ取り扱えない作品だ。正直、ここまでのところでも「これはどうかな?」と懸念を覚える表現はあったが、あえて踏み込んでるからね。あと何回にわたるのかわからんけども、右顧左眄せず、存分に論じるとしよう。


 今回はそっちのほうがヒートアップしてたな。ま、しょうがないか。









謎解き・バナナフィッシュにうってつけの日 第1幕

2020-07-04 | 純文学って何?






 dig フカボリスト。口がわるい。




 e-minor ……当ブログ管理人eminusの別人格。




☆☆☆☆☆☆☆




 初めまして。digだよ。


 e-minorです。


 もとがeminusだからe-minusでe-minorってか。見えすいた洒落だ。


 シャレなんてそれくらいがいいんだよ。


 そもそもだけど、なんでeminusに代わってe-minorが出てきたわけ?


 eminusがここんとこずっと、「何を見てもあの国のことを思い出す」といった心情でね。いよいよ香港もあんなことになったし、滅入ってるんだな。といって、ブログでその話をやるのも億劫だと。このままだといつまで経っても更新できない。それで別人格のぼくを召喚して、君を相手に、世界情勢とは無関係な閑談をさせてみよう、という企画らしい。だから君がメインで、ぼくが聴き手だ。


 でもおれが語ると長いよー? 本家のeminusより長くなるよ。


 内実が伴ってれば長くてもいいさ。


 題材は、サリンジャーの『バナナフィッシュにうってつけの日』だったな。「バナナフィッシュ日和」とか「バナナフィッシュにもってこいの日」なんて邦題もあるが。


 うん。作品の書かれた背景とか、サリンジャー論とか、彼の全作品のなかにおける「バナナフィッシュ」の位置づけなんてのはさて置いて、純粋にひとつのテキストとして、「バナナフィッシュ」をとことん深掘りしたい。そこで自称フカボリストのdigを読んだんだ。


 了解。じゃあさっそく冒頭な。読んでくれる?


 ホテルにはニューヨークの広告マンが97人も泊まり込んでいて、長距離電話は彼らが占領したような恰好、507号室の婦人は、昼ごろに申し込んだ電話が繋がるのに2時半までも待たされた。


 あー、すでにしてここから仕掛け満載だわな。


 数字が目立つよね。ぼくのほうから補足しておくと、本作は1948(昭和23)年のアメリカが舞台。だから国内であっても長距離電話は交換手に繋いでもらわなきゃできない。隔世の感があるけども。


 うん。それで数字のことだけど、「広告マンが97人」ってなんだよ、とまず思う。「たくさん」でいいんじゃないんかいと。誇張法にせよ、「100人ばかし」とかさ。


 それはいわゆるティーンエイジ・スカースでしょ。「ガキの語り口」ってやつ。サリンジャーの得意技だ。それこそ「ライ麦畑」が全編そうだし、ここでも、「百人もの広告マンが……」って書くより、「97人」と神経質に区切ったほうが笑えるよね。


 ああ。だが、それだけじゃないんだな。


 そうこなくちゃね。


 「97人」はいわば見せ球っていうか、釣り球でな。これに気を取られちゃだめなんだ。ポイントは「507号室」のほう。


 ふーん。主人公のシーモアと、新妻のミュリエルが泊ってる部屋の番号だけど。


 これ、「507号室」じゃないんだ。「5〇7」なんだ、じつは。


 ん? 6が飛んでる?


 というか、隠蔽されてる。その次読んでくれる?


 でも彼女はそのあいだをたっぷり活用した。ポケットサイズの女性誌の「セックスは楽しみ? それとも地獄?」と題した記事を読み、櫛とブラシを洗い、ベージュのスカートの染みを取り、サックスで買ったブラウスのボタンの位置を付け替え、ほくろに生えてきた2本のムダ毛を抜いた。オペレーターがつないだ時には、窓際の作り付けの椅子に座って、左手の爪にマニュキュアをほぼ塗り終えたところだった。


 うん。それでだな、いきなり際どい話になっちまうけども……


 ああ。セックス、サックスが韻を踏んでるわけね。サリンジャーほどの名手にして、これが偶然ってことはないね。サックス(Saks)はニューヨーク五番街にある高級デパートで、今でも営業してるけど、わざわざこの店名を選んだわけか。なるほど。それでさっきの「5〇7」なんだ。


 そういうこと。シックスが巧妙に隠されている。というか、じつはこの短編、冒頭からラストまで「6」って数字に支配されてるって言ってもいいくらいなんだわ。


 さっそくフカボリストの面目躍如だね。そこは後ほどじっくりやろう。ミュリエルの暇の潰し方だけど、俗悪な雑誌の俗悪な記事を眺めて、美容品の手入れをして、服をいじって、自分のからだをとりつくろう。実生活なら、「まあそんなもんでしょ?」だけど、これは小説だからね。創作物なんだから、彼女のこの描写にも意味があるわけだ。


 それこそ俗っぽいっていうか、外見ばかりに気が行って、自分や他人の内面にはまるで目を向けないタイプって含意だな。


 そうして窓際のソファに座って左手の爪にマニュキュアをほぼ塗り終えたときに、やっと交換手からの呼び出しがくる。


 でもすぐには出ないんだよな。


 うん。「彼女はしかし、電話のベルが鳴ったからといって、やりかけたことを慌てて止めるような女じゃない。年頃になってからというもの、家の電話は鳴りづめだったといわんばかりに悠然としたものだ。」 こういうの、いかにもアメリカ文学っぽい言い回しだよねえ。春樹さんが日本文学に輸入したわけだけど。


 アメリカ文学っていうか、アメリカっぽい言い回しだわな。子供のころ、親父さんの隣で「日曜洋画劇場」とか見てると、たいてい登場人物の誰かれがこんな喋り方するもんで子供ながらひとりで興がってたわ。


 そのまま小指の爪にアクセントをつけて、おもむろにエナメル瓶のふたをしめ、それから左手を宙にぶらぶら振って風に当て、乾いてるほうの右手でソファの上から灰皿を取り上げ、それを持ってナイトテーブルのほうへ歩いていき、整えられたツインベッドの片側に腰を下ろして、そうしてやっと受話器を取る。


 「はよ出んかい!」って言いたくなるけどな。


 電話の向こうが交換手で、まず切られる気遣いがないから落ち着いてるんだろうけど、鷹揚ってより、どうもずぼらなふうがある。そういうふうに書いてある。


 ソファのうえで煙草吸ってるからなあ。その灰皿ってのがすでに吸い殻でいっぱいだし、しかも「白い絹の化粧着のほか、なにも身に着けてない。指輪もバスルームに置いたまま」ってんだから。


 自堕落ってほどじゃないにせよ、かなり緩んではいる感じだね。


 細かいとこを深掘りすると、マニキュアのくだりで、「爪半月の輪郭をくっきりと仕上げ」が面白いな。爪半月って、爪の根元の白い部分だけど、これ、原文だと“moon”なんだよ。“line of the moon”なんだ。


 「月」なのね。


 ここでの「月」はとりたてて重要じゃないんだけども、たんに「爪にマニュキュア塗りました」じゃなく、ここで「月」という単語を挟み込んでくるのがじんわり効いてくるんだな。というのも、この先「太陽」にまつわるくだりがあるんでね。


 ふーむ。深いねえ……。とりあえず次いくよ。「グラース様でいらっしゃいますね」と交換手の声が聞こえて、「お申し込みのニューヨークへお繋ぎいたします」。ミュリエルは「どうも」と応じ、そこで母親との会話がはじまる。


 その前に、もうひとつ言っときたいんだが。


 うん。


 この作品ではキャラの名前が重要なんだよ。その呼ばれ方も含めてな。


 ふむふむ。


 ミュリエルのばあい、地の文においては一度もその名で呼ばれない。「a(the) girl」もしくは「she」なんだ。これは後で出てくる主人公のシーモアも同じで、終始一貫、「a(the) young man」ないし「he」なんだよ。


 「ミュリエルがどうした。」「シーモアはこうした。」みたいな書き方を周到に避けてるってことね、作者が。


 うん。だからじつはこの時点ではわれわれ読者は彼女の名前を知らないんだよな。電話がつながり、母親が「ミュリエル、あなたなの?」と呼びかけたとき、初めてそれと知るわけさ。


 なるほど。


 いっぽう、主役ふたりに負けず劣らず重要なキャラである少女シビルは、第2幕の登場シーンでいきなり「シビル・カーペンターは言った。」とフルネームで作者(語り手)から呼ばれている。まるでふつうの小説のように。でもって、このシビルってのがおっそろく意味深な名なのな。これは彼女が出てきたときにしようか。


 そうだね。


 ミュリエル(Muriel)と打ち込んで検索をかけても、めぼしい情報はヒットしない。でも、一字違いのMarielなら、なかなか面白いものが見つかる。


 どれどれ、あー、「Mariel。メアリー(Marry)やマリー(Marie)の愛称から。あるいはゲール語の「輝く海」から来たミュリエル(Muriel)の変化形。」とあるな。「輝く海」であり、しかもマリア様なのか。これは大したもんじゃない? そんなに俗物って感じではないね。


 だろ? 巷間、「ミュリエルの俗物性にシーモアがうんざりして……」みたいな意見をよく見かけるけど、たしかに彼女はひどく低俗な面もあるにせよ、戦場に行ったシーモアの帰還をずっと待ってたんだぜ? それほど蓮っ葉とか、ケーハクな女の子であるはずはないんだ。じつは彼女が不倫してたんじゃないかって説もあるけど、作者のこのネーミングからして、おれはそうは思わない。


 もしそうなら、ずいぶん皮肉な名前を付けたってことになるが、本作におけるサリンジャーは、もっと真摯にキャラを命名してるってことだね。


 とにかくぜんぶの名前に意味があるんだ。会話の端々に出るエキストラみたいな連中にもな。ミュリエルが例外なはずがない。で、そのなかで、電話をかけてきた彼女の母親にだけ名前がない。


 うん。それはぼくも気づいてた。まあ娘が母親を名前で呼んだりしないから、そこはしょうがないかとも思ったが。


 そういうテクニカルなこと以上に、この母親には名前は不要、と作者が見なしたんだよ。


 巷では、この母親についてはとかく評判わるいようだけど……(笑)


 そうだな。でもその話の前にもう一つだけ言っとこう。電話が鳴って、ミュリエルが吸い殻でいっぱいの灰皿もって受話器のとこに行ったときの描写な。彼女、「よく整えられたツイン・ベッドの片方」に腰を下ろすんだぜ? ここ、おかしいと思わんかった?


 ほかはけっこう散らかってる感じだけど、ベッドだけ妙に整ってるってこと?


 うん。こんなところから、ふたりのあいだには新婚夫婦らしい営みはなかった、という説がでてきて、さらにはシーモアの(おそらくは戦場で受けたショックによる)不能説なんてのも出てくる。これは今でも議論の分かれるとこみたいだな。おれ自身は、そんなことないと思ってるがね。


 なるほどね。ヘミングウェイなんかも思い出されるところだが……


 ヘミングウェイはきっかり20歳年上だから、かんたんに比較はできないけどな。


 そろそろお袋さんの話に戻ろうか。「ミュリエル、あなたなの?」から頼むよ。


 うん。おまえさんも言ったが、巷ではこの母親はとかく評判がわるい。たしかに名前すら与えてもらってないし、作品内ではミュリエル以上の徹底した俗物として描かれるんだけど、結果からみると、この人べつに的外れなこと言ってないのよ。


 ぜんぜん杞憂じゃなかったよね。最後にはこの人が恐れてたとおりになった。


 この母親は世間の(良識の)代表であるとともに、おれたち読者の代表っていうか、ほとんど読者そのものなんだよ。シーモアの内面を何一つ理解できず、そもそも理解しようともせず、表面に現れた言動だけで判断し、恐れ、忌避する。「バナナフィッシュ」を読んだひとのうち、どれだけの数がそのレベルに留まってることか。


 それはでも、仕方ないとこあるでしょ。


 そう。それはけっして間違ったことでもないんだ。そうでなきゃ毎日を送ることなどできないし、それに、結果としてその判断は正しいんだからね。じっさい、戦場で精神的に傷ついたことを差し引いても、シーモアは率直にいってヤバいやつだもの。


 ほんとに隣に来られたら困る(笑)。


 でも幸い、彼はテキストのなかのキャラだからね。おれたちは、しかるべき距離を保ちつつ、それでいて誰よりも身近なところで、彼の内面に迫っていくことを許されてるわけだが……


 うん。でもそろそろ先に進もうか。このままだと、いつまで経っても海辺に行けない。そのシーモアが登場しないよ。


 そうでもない。


 ん?


 だからね、作品はこのあとほぼ11ページにわたって母娘のやりとりだけで綴られるんだけど、シーモアが登場しないわけじゃない。というか、この通話はほとんどがシーモアにかんする話なんだ。そういう意味では、シーモアはここから読者のまえに姿をみせるといっていい。


 なるほどね。小説ならではの手法といってもいいのかな。


 ともあれ、ミュリエルと母親との電話でのやりとりは、逐一たどっていくんじゃなくて、要点だけピックアップしていくか。


 ああ、いいね。


 ポイントは、この会話の中で、この姑さんの目からみたシーモアの不審な挙動がリストアップされてくことだ。だからそれ中心にまとめていこう。まず、回線が繋がった直後はこのひと、ミュリエルの話をろくに聞かずにまくしたててて、かなり切迫してるのな。


 大声でね。


 それでこっちは――こっちってのは、おれたち読者のことだけど――「なんか知らんがヤバいことが起こってるらしい」とわかる。次いで、フロリダまで車を運転したのがシーモアだと聞いて、「あの人に運転させたんだって?」と吃驚する。その後のミュリエルとのやり取りによると、どうもシーモアという青年は、ドライブ中に樹木に車をぶつけて事故った前歴があるらしい。それもどうやらただの不注意じゃなく、わざわざ樹木に近づいていってぶつかったみたいなんだな。


 運転中に木を見ると、接近せずにはいられない性癖みたいのがあるらしいんだよ。


 うん。なぜシーモアは、そんな性癖をもってるのか。これをまず謎①とする。あと、ミュリエルのことを、なんだか変ちくりんな名前で呼ぶらしい。これ、新潮文庫の野崎孝訳だと「へんちくりん」だけど、原文じゃawfulだからね。


 「ひどい」なんだな。「まだ彼はあなたのことをあのひどいあだ名で呼んでるの?」って気にかけてるんだ姑さんは。


 その「ひどいあだ名」ってのは不明なんだけど、「こっちにきて、また新しいのを発明したわ」とミュリエルはいう。それが「miss spiritual tramp of 1948」。


 野崎訳だと「1948年のミス精神的ルンペン」だけど、trampって……。


 チャップリンの『放浪紳士チャーリー』の原題が『THE GENTLEMAN TRAMP』。だから「ルンペン」「放浪者」でもいいんだけど、ここでは「売春婦」だわな。「1948年度のミス・スピリチュアル売春婦」。ミュリエルは「おかしいでしょ?」なんてくすくす笑うんだけども、そりゃ姑さんのほうは「ひどい」「悲しい」を連発するってもんだぜ。


 奥さんをそんなあだ名で呼んでるシーモアも、そんなふうに呼ばれて可笑しがってるミュリエルもいまひとつぼくにはよくわからん……っていうか、そもそもこの二人がなんで一緒になったのかもじつはよくわからんのだけども。


 同じ疑問を抱いた読者が多かったんで、サリンジャーはその後、続編というべき「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」と「シーモア―序章―」を書くんだけど、その2作を読んでも、じつはいまひとつよくわからんのだよな(笑)。とりあえずおれたちは、目の前の「バナナフィッシュ」を深掘りしていくしかないな。


 がんばっていこう。


 さて、そこでミュリエルが話題を変えて、「彼がドイツから送ってくれた本あるでしょ? あれどうしたの?」っていう。「こっちに来る車の中で彼に訊かれたんだけど、どうしても思い出せないの。」つまり、ぜひ君も読みたまえ、といってシーモアが戦地から送ってきた本を、そのままどこかにやっちゃったというね。


 でもそれ、しょうがないんだよ。なにせドイツ語の詩集だから。ぼくだって困るよ、そんなの送ってこられても。


 その本を書いたのは、シーモアによると「今世紀唯一の大詩人」らしい。これが謎の②なんだけど、e-minorは誰だと思った?


 最初に読んだ高校生のときは読み飛ばしてたね。それで、ちょっといろいろ知恵がついてから読み返した時は、ツェランかな?と思ったんだけど、それはないか。この小説の背景は1948年だけど、ツェランが世界的に詩名を響かせるのは、もっとずっと後だもんな。ブレヒトってこともないだろうし……。


 そんな若いわけないさ。これはリルケだ。それ以外にない。


 あ……。でもリルケはオーストリアだろ?


 それは関係ない。「ドイツ語で書かれた本」なんだから。


 そっか。じゃあリルケでいいのか。


 それで、これは謎①とセットなんだよ。リルケは「樹木」のイメージをすごく重視しているからな。「あらゆる存在をつらぬいて一つの空間がゆきわたる、世界内面空間だ。鳥たちは静かにわれわれの内部を飛び過ぎてゆく。わたしが育とうと思えば外へと目を向ける。するとわたしの内部に樹木が育つ。」とか、あるでしょ?


 えっ、ああ……。うん。


 e-minorってドイツ文学科じゃなかった?


 うん、まあ、そうなんだけどね。はは。いやまあね、細かいことはともかくとして、ニュアンスはわかった。たしかにリルケは、剥き出しの魂が露出してるような詩や散文を書いたからね。シーモアが共鳴するのはよくわかる。なんていうか、存在の本質っていうか、根幹にかかわるようなものを感知してるってことだよね、シーモアは。樹木に対して。


 だな。だから否応なしに惹きつけられてしまうんだ。


 だけど、そりゃ凡人にはやっぱ迷惑でしかないな。そんなの理解できるわけないし、ましてや車をぶっつけられちゃねえ。


 うん、だから母娘は、「修理に400ドルかかった」とか、そんなことばかり言ってる。ところで、ミュリエルが実家に置き忘れてきたその詩集を、「あんなの置いとく場所ないもの」ってことで、「フレディの部屋にありますよ」と母親はいうわけだけど、この「フレディ」ってのはフレデリックの短縮形。フレデリックはドイツ語で言うと……


 ああ、フリードリヒだ。


 そう。いうならば、ドイツを代表する名前といっていい。なにしろフリードリヒ大王に……


 ニーチェもそうだな。


 フレディってのがミュリエルの弟だか何だか知らないけど、ドイツ語の詩集なんで、フリードリヒの部屋に置いてあるわけだな。これは別にたいしたことじゃないけど、サリンジャーがいかに命名に気を遣っているかの一例になるな。


 細かいねえ。


 細かいところを深掘りしてくときりがないんで、もう少し絞るか。「シーモアが妻の実家の姑さんたちのまえで何をやらかしたのか?/なぜそんなことをやったのか?」に絞ろう。それと、第2幕の海辺のシーンの伏線になっている事柄を拾っていく。


 うん。


 「窓に何かやらかした。」件。これを謎③とする。あと、「おばあちゃんが亡くなる時にはああしてこうしてって、いろいろ計画を立ててらしたのに、それに対してひどいことを言った」件。それと、これはもう少しあとで語られるんだけど、どうやらシーモア青年、そのおばあちゃんの椅子に対しても、なんかひどいことしたらしい。これらを併せて謎④とする。そして、「バミューダ土産のきれいな絵」……ここのpictureは「写真」だと思うんだけど、それに対しても何かをやった……ま、破ったんだろうな。これが謎の⑤。


 「木にクルマごとぶつかっていった」ってのがふつうに見れば破滅衝動にすぎないように、これらのケースも、表層だけみれば看過しがたい不作法であり、暴力衝動であり、破壊衝動ってことになるけど……


 そこを深掘りしなけりゃおれが出てきた甲斐がない。ただ、言うまでもないが、これからやるのは意味論的体系としてのテクストの深掘りだからな。現実社会でのじっさいの精神分析とか、精神療法とか、そういうこととは一線を画すべきものなんで、そこんとこよろしく。


 それはみんなわかってると思うけどね。


 いちおう念押ししたうえで、深掘りに移ろう。大前提となるのは、シーモアという青年が極めて鋭い感受性を持って、まあさっきのe-minorのコトバを借りるなら「剥き出しの魂」で以てこの現実社会と向き合ってるってことだ。もともと頭がよくて、繊細な青年だったんだろうさ。それが故国を離れて海を渡ってヨーロッパの戦場に行って、そりゃ危ない目にも会ったろうし、戦友たちが死ぬのも見たろうし、彼自身が人を撃ったかもしれない。そういう体験を経てここにいるわけだ。たんに甘やかされた若者が自意識を肥大させて荒れてるのとは違う。


 そういう背景はいまの日本の若い子がぱっと読んでもなかなか伝わらないだろうけどね。でも、だからこそ普遍性をもってるともいえる。しぜんに共感できるんだな。


 そうなんだが、上っ面だけを掻い撫でしてちゃもったいないんでな。それでおまえさんもおれを呼んだわけだろ?


 もちろん。


 むろん「戦争に行って鬱になった」とか「強迫神経症」とか、そんな言い方もありうるだろうがね。そんな浅薄な症名で片づけてもらっちゃ困るぜってところはあるね。祖国アメリカに戻ってからのシーモアは、生来の感じやすさをよりいっそう研ぎ澄まし、深化させて、常に「死」というものに向き合った情態でいる。いつも精神がぎりぎりまで張りつめている。とりあえず、そういうふうに言っておこうか。


 うん。


 いずれにせよ、そこを踏まえておかないと、なぜラストでいきなりあんなことになっちまうのかわからない。たんにこの短編の表層で描かれたエピソードだけでは、あれを説明するのは無理だ。


 だからこそフカボリストの出番だよ。そろそろ謎解きのほうよろしく頼むよ。


 うん。だからここに出てきたぜんぶの謎は、「常に死と向き合っている」シーモアの情態ってものから演繹しなけりゃ解けないんだよ。逆にいうと、そこから演繹してやれば、けっこうたやすく解けてくる。


 「おばあちゃんの臨終プランに対してどうこう」なんてのは、そう考えてけば何となくわかるかな。


 うん。ミュリエルの実家は、小市民的で平凡で、いかにもふつうの家庭なんだろう。そこに招かれたシーモアには、それが耐えがたき俗物性、許しがたき欺瞞に思えたんだろうさ。おばあちゃんは、「結婚したら早く孫の顔を見せておくれ。孫たちに看取られて臨終の日を迎えられたらどんなにか幸せだろうねえ。」くらいのことを言ったんじゃないかな? それでおそらくシーモアは、むろんおばあちゃんが席を立っている時にだとは思うが、「そんな話は馬鹿げてますよ。」ってんで、おばあちゃんがいつも腰かけている愛用の椅子を蹴っ飛ばしたんじゃないか。椅子ってものは安逸のシンボルだからな。


 とんでもないなあ。じゃあ窓は?


 そりゃ、ぶっ壊したんだろうさ。「もっときちんと外の世界と向き合え」ってね。


 「バミューダ土産のきれいな写真」を破った(?)ってのは?


 「こんな過去のきれいな思い出に浸ってちゃだめだ。今を直視し、今を生きろ」。


 なるほど。いちおうぜんぶ解けるねえ。しかしどうにも激しいね。やっぱりまともに交際できる相手じゃない(笑)。


 「剥き出しの魂が露出してる」ってのはそういうことだろ。


 そうなんだけど、やっぱりなあ……。こういったことの諸々を「お父様が精神分析医に相談なさったのよ。」と姑さんはミュリエルに告げる。この精神分析の先生の名にも意味があるんだろうけど……


 あるよ。


 長くなるからそこは割愛ね(笑)。伝聞で事情を聞いただけなのに、先生はこう述べたという。「陸軍が彼を退院させたのが完全な犯罪行為。シーモアはすっかり自制を失う可能性が大きい。」これって……


 当たってたよな。


 当たってたんだよ。伝聞で事情を聞いただけで、これだけ正確な診断が下せたってことは、やはり周りの目に映るシーモアの像がそれだけ異様だったってことだね。でもミュリエルはそんな母の言葉に取り合わず、「ここのホテルにも精神分析の先生はいるわ。」という。この先生も名前が出てるけど、これも割愛(笑)。でミュリエルは、すぐにでも戻って来いという母に向かって、「ここ数年で初めて休暇を取って、はるばる旅行してここまで来たのに、そんな急には帰れない。日焼けしちゃって、動けないし」みたいなことを答えるんだね。日焼けしちゃって動けない、というのはぼくにはよくわからんのだけど(笑)。


 体があちこち痛くってめんどくさいってことだろ。それで母親は「あの日焼け止めクリーム使わなかったの?」なんて言う。ただ、日焼けってのはミュリエルの健康さというか、もっというなら俗物ぶりを示唆する記号ではある。それはあとで出てくるシーモアが、さかんに「pale(青白い)」と形容されることの対比になっている。そこは注目しておきたい。


 ここからミュリエルがこの投宿中のホテルで知り合った精神分析の先生夫妻の噂になって、それこそ俗っぽいっていうか、下世話な話題になってくんだけど……


 そこもこの母娘の俗物性をあらわすものとしてよく参照されるくだりだな。


 ミュリエルのお袋さん、「日焼け」ってワードに反応して、「鞄に入れてあげた日焼け止めクリーム使わなかったの?」なんていう。でもって、ここから話がいかにも下世話なぐあいになってくんだ。ファッションに、ヘルスケアに、ゴシップ……これであとグルメのネタでも入れたらまんまワイドショーか女性週刊誌だよね。


 そんな雑談のさなかに、ミュリエルが「このホテルにも精神分析の先生はいる」って言って、たまたま投宿中の精神分析医の夫妻と知り合いになった話をする。大事な話とどうでもいい閑話がごっちゃになっちゃってるんだな。


 その先生ってのは娯楽室みたいなとこでビンゴゲームやってる時に向こうから話しかけてきたんだけど、そのときシーモアは「大洋の間(オーシャン・ルーム)」でピアノを弾いてた……ホテルに着いてからこっち、シーモアはずっとピアノ弾いてるらしいんだ。それで先生は、シーモアは体の具合でも悪いのかとミュリエルに尋ねる。専門家とはいえ、初対面のひとが遠くから観察しただけで「なんか変じゃね?」と思うなんてのは、どうなんだろうね。


 ああ。とうぜんそこを電話口の母親もつっこむわけだが、ミュリエルは「さあ。顔色があんまり悪かったりする(pale)からじゃない?」なんて応じる。他にも挙動不審な点はあるんだろうが、「pale(青白い)」がシーモアの特異さをあらわす記号だというおれたちの見地からして、ミュリエルのこの推測は正しいと思うな。


 このへんの母娘の会話は創作としてもほんとに巧くて、いつ読み返しても笑うなあ……。その分析医の奥さんの着てたドレスがどうのって話から、ミュリエル自身の服の話になって、ぐだぐだぐだぐだ、ほんとうにリアリティーがあるよ。


 結局のところミュリエルは、もっぱら奥さんのほうと雑談しただけで、分析医の先生にはろくにシーモアのことを相談していない。そこがミソだな。


 うん。とにかくミュリエルは「大丈夫よ」の一点張りなんだ。「90ぺん訊かれても帰る気はない。」なんて言う。さらに母親が、「帰ってくるのが嫌だったら、旅費くらいいくらでも出すから、ひとりで船旅でも楽しんだら?」と勧めても、「けっこうよ。」と一蹴する。無頓着っていうか、危機意識が乏しいというか、あるいは、こうみえてシーモアをすごく信頼してるのか、前にもいったが、どうもぼくにはミュリエルって子がよくわからないんだよ。


 そりゃ、はっきりいえばミュリエルは愚かなんだと思うよ。その愚かしさゆえにシーモアを受け入れてるし、シーモアもそのことは有難く感じているはずなんだ。けれども、それはシーモアが真に求めるものではない。そこが悲劇の源なんだよ。


 悲しい話だな。


 あたりまえだよ。どんな話だと思ってたんだ?


 いや、あらためて言葉にしてみると、いっそう悲しさが迫ってくるってことだ。そう思うと、このやりとりがいっそう胸にこたえるな。ここは原文からひとつぼくが訳してみるか。
「あなたが戦争の間どんなふうにあの人を待ってたかと思うと……だって、よくあることでしょう? 待ちきれなくなった若い奥さんが……」
「母さん、もう切らなきゃ。シーモアがそろそろ戻ってくるわ」


 うん。そうなんだ。戦争の間ずっと待ってたんだよ。だからミュリエルを見くびらないでほしいとは思うね。たしかに愚かで俗っぽいけど、それだけじゃないよ。


 「マリア様」だっけ。それと、「輝ける海」?


 そう。そういう名前をサリンジャーから賜った女の子なんだからな。


 上で訳した会話を受けて、母親が「あの人いまどこにいるの?」と訊く。ミュリエルが「浜よ。」と答えて、さあいよいよ、ここから第2幕へと繋がってくわけだが……


 ここのポイントは、ビーチでひねもす寝そべってるシーモアが、頑としてバスローブを脱がないとミュリエルが述べたのを受けて、母親が「なぜ?」と訊く。ミュリエルは「肌があんまり白いせいじゃない?」と答える。ここだな。


 またしても「pale(青白い)」が出てくるわけだ。


 ああ。そこで母親答えていわく、「まあ、だからこそ陽に当たらなきゃいけないのに!」。これ、野崎孝訳ではこのとおりだけど、原文は“He needs the sun.”なんだ。


 「彼には太陽が必要なのに!」か。ああ、ここで出るんだな、「太陽」が。


 太陽とは人間が生きる上でもっとも必要なもののひとつ。それがシーモアには欠けている。これは第2幕の浜辺で幼い少女シビル・カーペンターがシーモアに告げるひとつの台詞と対になっている。だからぜひ心に留めておいてほしい。


 うんうん。


 続けて「そのバスローブ脱がせてやれないの?」と訊く母親に、「だって、大勢のバカどもにタトゥーを見られるのが嫌って言うんだもの。」とミュリエルが答え、「えっ、タトゥーなんてないでしょあの子? それとも軍にいたとき入れたの?」と母親。「いいえ、違うのよ。」とミュリエル。


 この「タトゥー」もよく俎上に載せられるやつだけど。


 それこそ俗っぽい解釈ならば、たんなる自意識過剰のあらわれってことになるけどね。あと、じっさいに戦地で何らかの傷を受けたなんて説もあるけど、そうじゃない。あくまでも精神的なもので、シーモアがもう、昔のような無垢なからだではなくなってしまったという意味だ。シーモア自身が強くそう自覚してるってことだ。


 そう考えれば自意識過剰の一種のようではあるが。


 いや、戦場体験ってものがあるからな。やはりその言葉では収まりきらない。


 で、それまでソファに座って脚を組んだり、ほどいたりして喋ってたミュリエル、ここできっぱり立ち上がり、「ねえ母さん、明日また電話するわ……たぶん」


 そこから第1幕の収束だ……ちょっと訳してみてくれよ。


「ミュリエル、待って。わたしのいうことよく聞いて」
「ええ母さん」娘は右脚に体重をかけながらいった。
「すぐに電話してね。あの人が少しでも妙なことをしたり、言ったりしたら。……意味はわかるわね。……ねえ、聞こえてる?」
「母さん、わたしシーモアのこと怖いなんて思ってないのよ」
「ミュリエルお願い、約束して」
「わかったわ母さん、約束する」娘はいった。「父さんに愛してるって言っといてね」そして受話器を置いた。


 うん、いいんじゃないか。ミュリエルの登場シーンはこれでほぼおしまい。このあともう、シーモアと会話を交わすことはない。それでわざわざ訳してもらったわけだが。


 そう考えるといよいよしんみりするけどね。


 でもって、これで第1幕もおしまい。


 けっこう長くなったな。


 こんなもんだろう。


 でも第2幕はもっと大変でしょ。


 そりゃ、表層においてリアリズムで描かれているエピソードの奥底で、凄まじいことが起こってるからな。それも西欧文学……っていうか、西欧なるものの根幹にかかわる最重要のテクストを下敷きにしてな。


 それってつまりは聖書だよね。


 そう。それこそがこの謎解きの主眼だな。


 ではまた次回に。


☆☆☆☆☆☆☆

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