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ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

25.03.02 ネット記事の紹介 一般国民にはデメリットばかりのインバウンド政策

2025-03-02 | 政治/社会

”爆益”ホテル業界も賃金は上がらず…国民には恩恵ナシの石破政権「貧乏日本人排除のインバウンド政策」が鬼すぎる

元記事のアドレス
集英社オンライン
https://shueisha.online/articles/-/253221

 


「中国には『一条龍(一匹のドラゴン)』と呼ばれ、消費者の囲い込みを目指すビジネスの慣習があります。観光業でいえば、航空券→宿泊→現地ツアー→ショッピングまで一貫して行なうワンストップサービスのことです。彼らは物流拠点まで日本に作り、アプリ上で決済まで済ませられるので、日本に外貨が落ちているとすら言えず、日本の税務当局が捕捉するのは難しいでしょう。ウィンウィンの関係などありえません」

 

☆☆☆☆☆☆☆

 

 先人が長年にわたって築き上げてきた観光資源を食い荒らされ、しかも外貨は国内に落ちず、国民には何ら利益はない。もはや売国政策と呼ぶしかないインバウンド政策。行政はいったい何を考えているのか。

 

 


25.01.31 がんばれ文春。雑記03

2025-01-31 | 政治/社会

 昨日からの続きで、とくに資料などを準備することなく、つれづれなるままに、思うところを書きとめておく試みの3回め。
 今回はX(旧ツイッター)ふうに、手短にいきましょう。手短なわりには大きな話になるけれど、前々回および前回の記事にもかかわりがある。
 「狼は生きろ」の記事にとぼけたコメントをよこした若者(たぶん)にも読んでもらいたいのだが、まあ無理だろうなあ。ああいう人はきっと、ここに書き込んだことももう忘れてるだろう。
 さて。
 いま世間を騒がせている例の一件は、一タレントの問題でもなければ、一テレビ局の問題ですらない。
 この国を長年にわたって蝕み、腐らせ、今日の国力衰退の主因となっている「利権」「癒着」「中抜き」構造の根っこに繋がっていく話だ。
 週刊文春は、それはいろいろ課題もあるだろうけれど、「社会の木鐸」としてのジャーナリズムの責務をよく果たしている。
 いま、ここぞとばかりに「文春叩き」にいそしんでいるいつもの顔ぶれは、大衆向け情報操作の実行部隊として、伍長から曹長くらいの格だろうか。
 がんばれ文春。
 この国の病巣が少しでも治療されて、国の力に勢いが戻り、少子化に歯止めがかかることを願ってやまない。

 


24.07.13 「ネトウヨ」と「ネオリベ」

2024-07-13 | 政治/社会
 2024(令和6)年7月13日朝、ふと思いたって「ネトウヨ ネオリベ」でgoogle検索を試みたら、知恵袋のQ&Aが上位にきた。
 日付は2021年となっているから、それほど昔ではない。
 以下、その質問を引用いたす所存なのだけれど、すこし文意が取りづらいところがあったので、ぼくなりに一部を編集させていただいた。関係者各位はあしからずご了承ください。




「ネトウヨは何故リバタリアンや新自由主義を志向する傾向があるのですか?


・国家を信用しない。
・自分の利益さえ確保できれば国がどうなろうが知ったことではない(自分の都合が悪くなったら海外に移住すれば良い)。
・これらの理由から、そもそも社会を改良するという発想をもたず、貧困や不平等などはあくまでもミクロ(経済学的)な問題として、すべて自己責任に帰する。


 といったところがリバタリアンや新自由主義者の特徴だと思うのですが、
 国粋主義な傾向をもち、「国家」という枠組を何よりも重んじるはずの自民支持者のネトウヨが、
 リバタリアンや新自由主義の思想と親和性がきわめて高いのは何故でしょうか?」




 これはシンプルなようで核心を突く問いかけである。ぼくも前から疑問に思っていた(だからこそ検索をかけたわけだが)。しかし残念ながら、ここに附された回答のほうは、ぼく個人としてはあまり納得のいくものではなかった。
 仕方がないので、どうにか自分なりに考えてみようと思った次第だが、ただ、そのまえにふたつ問題がある。
 ひとつは、「ネトウヨ」という概念が(これだけ一般に行きわたっていながら)、いまひとつ社会学的/政治学的にあいまいだということ。
 かくいうぼくにも、正直よくわかっていない。
 この質問のなかでは「自民支持者のネトウヨ」という使い方がなされている。
 これは「自民党支持者のなかのネトウヨ」ではなく、
 ずばり、「自民党支持者」≒「ネトウヨ」との含意であろう。
 たしかに、
「立憲民主党を支持するネトウヨ」
 という層はいる/ありうるのか?
 あるいは、
「自民党を支持しないネトウヨ」
 という層はいる/ありうるのか?
 と考えていくと、
 ほとんどもう「自民党支持者」≒「ネトウヨ」とみなしても、さほど大きな錯誤ではない気もする。
 ただ、自民党の支持者の中には、「ネトウヨ」と一線を画すひともいるだろう。だから「ネトウヨ」≦「自民党支持者」と書くべきかな?
 とりあえず、そういうことにしておきましょう。
 もうひとつの問題は、「ネオリベ(ラリスト)」≒「ネオリベラリズムの信奉者」≒「新自由主義者」という図式はまあ、よいとして、必ずしもそれが「リバタリアン」とは一致しない……ということだ。「ネオリベラリスト」と「リバタリアン」とは、むろん共通する点も多いけど、じつはけっこう違ったものなのだ。だからここを掘り下げていくと、また別の記事が必要になる。
 そこで細かい点には目をつぶり、
 上記の質問の中にあるとおり、
① 国家なるものをもともと信用せず、
② 「今だけカネだけ自分だけ」で、当面の利益さえ確保できれば国や他の国民がどうなろうと知ったことではなく、
③ 今はいろいろ都合がいいからニホンにいるけど、経済的な地盤沈下や、重税や、物価高や、治安の悪化やらでいよいよ住めなくなったら海外に移住すればいいや資産はあるし向こうに土地も買ってるし……などと考えており、
④ それゆえに、いま自分が住んでいるこの社会を改良するという発想を持たず(マスコミやネットに顔を出して「こうすれば良くなる」という提言をする論客も多いが、それらはじつは「ネオリベ」を加速するものばかり……)、貧困や不平等などはあくまでもミクロ経済学的な問題として、すべて自己責任に帰する……
 といった思想を、はなはだ乱暴ではあるがひとまずここでは「ネオリベ(ラリズム)」と呼び、そういう思想の持主を「ネオリベ(ラリスト)」と呼んでおくことにしましょう。
 「ネトウヨ」は(正直ほんとにぼくにはよくわからないのだけど)、痩せても枯れても「右翼」なのだから、「国家」という枠組みを重んじる人たちなのだろう……とは思う。だからやっぱり、ふつうに考えれば上記のごとき「ネオリベ」とは相容れない。
 ただ、上で述べたとおり、「ネトウヨ」≦「自民党支持者」と定義づけてしまえば、なんのことはない、「自民党の政策すべてを受容する層」ということで、ようするに、いまの(より正確にいえば小泉=竹中改革以降の)自民党の政策がまるっきりネオリベなのだから、結果として、「ネトウヨ」は「ネオリベ」を支持してるんですよ、という話になる。
 まことにどうも、拍子抜けするほど単純な話で、書いている私もびっくりしている。
 しかし本当にそれだけだったら、どうもあんまり情けないので(私ではなくこの国が)、もうすこしだけ考えてみたい。
 ひとつ思いつくのは、「国家」という概念に託しているものが、いわゆる「ネトウヨ」と「サヨク」とではまったく違うのであろう……ということ。
 なお、ここでいう「サヨク」とは、あくまでもネット用語としての「ネトウヨ」に相対するもので、これも社会学的/政治学的/文化史的にげんみつに定義されたものではない。ご了承のほど。
 ここからは、なんとも大雑把で、しかもやや観念的な物言いになってしまうが、
 「国家」なるものを、
 「サヨク」のほうは、
 〝「市民」たちが合意のうえで契約を結んで形成している共同体の総体〟
 とみる。
 それに対して、「ネトウヨ」のほうは、
 「国家」なるものを、
 〝もっともっと権威のある、位階秩序をもったシステム〟
 とみている……のではないかとぼくには思える。
 ここで重要なのは、「位階秩序をもった」という点で、こちらの国家観によれば、国家はけっして巨大な横並びの仲良しクラブではない。もともと不平等を前提としている。だから内部で弱肉強食の市場原理が猛烈に働くのも当然で、「勝ち組」と「負け組」とが分かれるのも自明、より極端にいえば「敗者には何もやるな」という話にもなる(じっさい、ここ10年くらいで、そういった内容のマンガやアニメがとても増えた気がする)。
 こう考えるならば、「ネトウヨ」と「ネオリベ」とが親和性を持つのは、まるで不思議ではない。どころか、むしろ当たり前……とも思える。
 しかし、こう考えてもまだ、いくつかの疑問は残る。そのことにつき、ここまでの3倍あまりの分量に当たる草稿を書いたのだけれど、うまくまとまらなかったので、投稿は見合わせ、また次の機会があれば……ということに致しましょう。やはり政治の話はむずかしい。




24.02.22 ちょっとだけ経済の話

2024-02-22 | 政治/社会
 日経平均株価の値上がりにつき、NHKのネットニュースは以下の要因を挙げてます。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240220/k10014364381000.html



1 アメリカの株高
2 日本企業の好調な業績
3 株価を意識した企業経営
4 円安による輸出関連への追い風
5 円安による日本株への割安感
6 中国からの資金シフト
7 日銀の緩和継続姿勢
8 NISA拡充による期待




☆☆☆☆☆☆☆




 いっぽう、「これで景気が好転し、暮らし向きが一挙に楽になり、日本がまたGDPで世界2位の座を(現在はドイツにも抜かれて4位)取り戻す!」なんて思っている人は、よほど楽観的な人の中にもいないでしょう。
 これは昨年あたりにネットに出回った図表らしいけど、ここ30年てぇものは、まあ、こんな按配でした。ふつうに見れば、やはりこれ、衰退と呼ぶのが自然でしょうね。いかに株価が急騰しても、この流れがとつぜん覆るとは思えないわけで。




 こういうのもありました。




 よく言われることだけど、いわゆる〝アベノミクス〟以降は、株価ってものが必ずしも景気の指標とはならない……。もちろん、上記の8項目の中にも「日本企業の好調な業績」や「円安による輸出関連への追い風」があるように、まるで無関係ってことはとうぜん無いんだけども、かつてのバブル時代のように、おカネがぐるぐる国民のあいだを回って、いろんなことが活性化する……という勢いにはなっていかない。問題はそこですよね……。






24.02.01 芦原妃名子さんの悲劇について考えるための2本の記事

2024-02-01 | 政治/社会
 芦原妃名子さんのご冥福を心よりお祈りいたします。








① ITmedia ビジネスオンライン
『セクシー田中さん』の悲劇で加速する 日本マンガ実写化ビジネスの海外流出
窪田順生
https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2401/31/news045.html





 「テレビ情報番組制作、週刊誌記者、新聞記者、月刊誌編集者を経て現在はノンフィクションライターとして週刊誌や月刊誌へ寄稿する傍ら、報道対策アドバイザーとしても活動」(記事末に付された肩書より)しておられる方が、このたびの事件の経緯をまとめ、問題点を指摘したうえで、このような事態を齎すに至った日本社会の構造的な欠陥までをも分析した記事。
 いちいち尤もであり、ことに、
「芦原さんが必死の思いで訴えたことについてはこのままフタをするべきではない。なぜこんな行き違いが起きたのかと日本テレビは第三者調査を実施、その結果を踏まえて、テレビドラマ業界、漫画原作者、そして代理人を務める出版社が知恵を出しあって、漫画の実写化で二度とこのような問題が起きないようにすべきだ、と強く思う。」
 といった提言にはふかく頷かされる。ただ、惜しむらくはこの記事、冒頭部分に誤解をうむ余地がある。事情を知らぬまま一読すると、あたかも先に原作者たる芦原さんがネット上(ブログおよびX。現在はいずれも削除)にて発言をされたようにみえてしまうが、じっさいはまったく逆であって、脚本家の側が先にインスタグラムで内部事情を暴露したのである(現在は閲覧不能)。そのため、火の粉が降りかかるかたちになった芦原さんのほうが、小学館の担当者とじっくり検討したうえで、そうなるにいたった経緯をていねいに説明せざるを得なくなったわけだ。
 この時系列をがっちりと抑えておかねば、肝心のところがぼやけてしまうし、芦原さんの名誉のためにもいかがなものかと思う。
 すでに原文が削除されているので、ぼくはスクリーンショットで拝見したのだが、芦原さんの文章は、とても誠実かつ繊細で、心を打つものであった。筋が通っており、関係各位への配慮も行き届いていた。『セクシー田中さん』というタイトルから、「どうせ軽薄なラブコメだろう。」と判断してこの件に無頓着だったぼくが、一転して関心をもつようになったのはその文章を読んだためだ。
 脚本家によるインスタグラムの投稿は、いまは閲覧不能になっているので、こちらもぼくはスクリーンショットで見たのだけれど、芦原さんの文章に比べてずっと見劣りがした。短いうえに曖昧なため、責任の所在が定かでないし、なによりも悪いことに、原作者への敬意が微塵も感じられない。むしろ不満がそちらに向かっているように読める。そこに付いている同業業者のコメントと併せると、原作者に非があるような印象操作をしているとしか映らないのだ。
 こんなものを出されたら、誰だって自らの立場を釈明せざるをえないではないか。そうせざるをえないよう先に仕向けたのは脚本家の側であって、それがこのたびの悲劇につながった。ふつうに時系列を追っていけばそう判断せざるをえず、だからこそこれほどの「炎上」を招いているのだ。
 むろん個人攻撃や誹謗中傷は厳に慎むべきだけど、少なくとも、多くのひとの目にふれるかたちであのような投稿をして火種を蒔いたからには、脚本家の方は、ご自身の口から何らかの言明をすべきだとぼくは思う。いまは混乱してそれどころではないのか、あるいは、日本テレビのスタッフや関係者や法務担当者などと協議してらっしゃる最中なのかもしれないが、いずれにせよ、このままずっと口を噤んでいられるものではない。文筆で口を糊しておられる方なら尚更である。










 とはいえ、繰り返しになるが、個人攻撃や誹謗中傷は厳に慎むべきものである。ぼくなどが義憤に駆られているのは、脚本家さんがインスタグラムに軽率な投稿をして先に火種を蒔いたことに関してであって、そもそもの原因は原作者サイド(小学館)とドラマ制作側(日本テレビ)との齟齬にある。その点においては脚本家もまた被害者なのかもしれない(その根本的な原因にしっかり向き合うことなく、不特定多数が閲覧できるインスタグラムで一方的に内情をぶちまけた非はやっぱりご本人にあるとは思うが)。
 そこでもうひとつの記事。




➁東洋経済オンライン
「セクシー田中さん」悲しい出来事の裏にある現実
ドラマ関係者のバッシング過熱に感じること
木村隆志
https://toyokeizai.net/articles/-/731303



 これは、「コラムニスト、人間関係コンサルタント、テレビ解説者」の肩書をもつ木村氏が、「漫画や小説をドラマ化する際、関係者の間などで問題になりやすいところなどを挙げつつ、考えられる対策などを探って」いくために書かれたもの。ちょっと微妙な書き方ながら、「脚本家のインスタグラムのあとで原作者の言明が出た。」という時系列についても明示してある。制作現場の内情を知悉しておられる方らしく、とても参考になるが、率直なところをいわせてもらえば、「やはり業界に近い方のご意見だから、そっちのほうに甘いなぁ。」とぼく個人は感じた。たとえばメディアミックスによる収益配分ひとつ取っても、すべての根源たるべきクリエーター……本来ならば誰よりも大切にされるはずの、「ゼロ」から作品を生み出す原作者その人……がとかく冷遇されているのは周知のことだ。まずはそのあたりから見直していかねばなるまい。
 いずれにせよ、ここで紹介させていただいたお二方がそれぞれのかたちで述べておられるとおり、日本テレビは、なぜこのような行き違いが起きたか、第三者機関を入れて徹底的に調査し、その結果をできうるかぎり公表したうえで、それを踏まえて、ドラマ業界、その代理人を務める出版社、そして原作者たちが知恵を出しあい、実写化のプロジェクトによって二度とこのような問題が起きぬよう、全力を尽くすべきだろう。










24.01.30 「松本人志問題」を考えるための3本の記事

2024-01-30 | 政治/社会


①反社会学講座ブログ
パオロ・マッツァリーノ公式ブログ
「松本人志さんの罪についての考察と提案」


https://pmazzarino.blog.fc2.com/blog-entry-451.html




 『反社会学講座』(イースト・プレス→ちくま文庫)などの著作をもつ覆面作家パオロ・マッツァリーノ氏(いかにもイタリア人っぽい筆名だが、じっさいにイタリアの人かどうかは謎)のブログ内記事。持ち前のユーモアあふれる筆致で、現時点での「松本人志問題」をめぐる状況をまとめている。


 冒頭部分を抜粋。


「ジャニー喜多川さんは、いい人でした。多くの芸能人を育て、テレビ界に貢献した功労者であり、育てられた芸能人にとっては恩人です。
 でも、ジャニーさんは犯罪者だったのです。
 24時間、つねに犯罪者でいる人などいません。犯罪者としての顔は、個人が持つ多くの顔のうちのひとつにすぎないのです。犯罪をしてるとき以外は、何食わぬ顔で暮らしてます。それはマジメな職業人の顔であったり、優しい父親・母親の顔だったり、情にあつい先輩の顔だったりします。
 でも、そういう「いい人」が、犯罪者の顔も持ってたりするんです。」
(eminus注 山下達郎氏におかれては、ここいらあたりを熟読玩味のうえ、紙に書き写してレコーディングスタジオの壁にでも貼っておいて頂きたく思う。)
「ジャニーズ問題から我々が学ばねばならないもっとも重要な教訓、それは、予断をもって犯罪告発の声を封じてはならない、ということです。」
「犯罪の告発は、明らかな虚偽が認められないかぎりはいったん信用して受理しなければなりません。その上で、双方の主張内容を比較検討し、どちらが正しいのかを考える。これが法治国家における正しい手順です。」


 ここから、


●的外れな人情論と損失論
●性犯罪に無関心なテレビ局
●週刊誌という入れ物を叩く人たち
●女性側の主張の信憑性は?
●携帯を取りあげる異常性
●もうひとつの罪・松本さんのパワハラ
●芸人のみなさんは河原者に戻りたいのですか?
●合意の有無でなく、合意の中身こそが重要
●記者会見の提案


 など、まことに尤もな意見がつづく。あらためて浮き彫りになるのは、口先だけで反省の弁を並べ立てつつ、ジャニーズ問題から何ひとつ学ぼうとせぬ(というか、端から学ぶ気とてない)テレビというメディアの異常性である。




②【独自】松本人志を切らないと「万博」「公的事業」「落札」を切られる…吉本興業のビジネスの生命線がヤバすぎるワケ
現代ビジネス編集部
https://gendai.media/articles/-/123611


 今やたんなる芸能事務所の枠を超え、「政商」と化した吉本興業が、いかに国政および地方行政に食い込んでいるか、その一端を明らかにした記事。




 一部を引用。

「吉本興業は、大阪府に横山ノック氏が知事に就任した際、国や自治体の仕事のうまみを実感しました。大阪府がお笑いの歴史的な施設とすべく開館した『ワッハ上方』には、吉本所有のビルを提供し家賃が入る。そこでは展示や劇場も手掛け、さらにカネがもらえる。」
「いまや、国や自治体の方から誘われて入札に参加するのが日常茶飯事です。金額さえ決まれば、わざわざ集金にいかなくとも確実に収入が入る。それに吉本のブランド力もアップする。一石二鳥どころか三鳥でした。」
「吉本が手がける公的事業は非常に幅広い。今年1月4日、吉本興業は外務省発注の「令和5年度開発協力工法動画の制作及びプロモーション事業」を約2400万円あまりで随意契約している。」
「昨年9月には、こども家庭庁発注の「令和5年度こどもまんなか社会機運醸成こどもの日イベント企画・運営等業務」を約590万円で落札。
吉本興業の地元、大阪府や大阪市に目を移しても、昨年9月に「大阪文化芸術祭(仮称)」の実施にかかる企画・運営等業務」を大手旅行代理店JTBとともに、19億8千万円あまりで受託。昨年6月には「大阪マラソン開催に関する企画調整・大会運営等業務」「介護職・介護業務の魅力発信事業」、昨年5月には「御堂筋オータムパーティー2023の開催に係る企画調整、警備及び運営等業務」……
数え切れないほど多くの公的なイベント、プロモーションの運営事業を吉本興業は多数受託し、いまや経営の中核となっているのだ。」


そして、


「国や自治体と吉本が「一体」になっている象徴が、何を隠そう2025年の「大阪・関西万博」である。」




 詳細はリンク先の元記事にて。




③もうひとつ、「現代ビジネス」の記事
#MeToo運動を連想させる松本人志の性加害疑惑
笹野 大輔(ジャーナリスト)
https://gendai.media/articles/-/123338?imp=0





 いわゆる「#MeToo運動」の発端となった「ワインスタイン事件」と、このたびの「松本人志事件」との類似性について述べた記事。「#MeToo運動」および「ワインスタイン事件」のかんたんなお浚いにもなっている。






22.03.02 緊急投稿・ウクライナのこと。

2022-03-02 | 政治/社会






 よもや『戦争と平和』の話をしている時にこのような事態が勃発するとは思わなかった。いやまあ「話をしている時」っつったって、実際にはほとんどしてないんですけども。なにしろ2022年に入って更新がまだ2回だけという。
 それはまあそれとして。
 ロシア軍がウクライナに侵攻した先月(2月)24日、NHKがBSプレミアムでたまたま『戦争と平和』……オードリー・ヘプバーンがナターシャ、ヘンリー・フォンダがピエールを演った1956年の映画……を放映して、「なんて皮肉な偶然だ」と一部で話題になったらしいんだけど、歴史ってものは何らかのかたちで繋がってるから、この手の巡り合わせってのもふつうに起こりうるんでしょうね。





 ところで、その大作『戦争と平和』はアメリカとイタリアの合作なので、ヘプバーンのナターシャも、フォンダのピエールも、メル・ファーラーのアンドレイ侯爵も、みんな英語で喋ってるわけね。そりゃハリウッドではモーゼだってクレオパトラだって古代ローマの剣闘士だってモーツァルトだって、ついでに銀河の彼方のジェダイたちだって、みんなアメリカ英語で喋ってきたわけで、べつにいいんだろうけど、東西対抗だの冷戦構造だのといっても、やはり戦後の世界ってものは圧倒的にアメリカを中心に回ってきたことは間違いない。その一端がこんなところにも伺えると思う。
 このたびのロシアによるウクライナへの侵攻は、「東西冷戦終結後の世界秩序を破壊する歴史的な暴挙」ということになっていて、また、「主権の尊重・領土の一体化・国際法順守などの原則に基づく国際秩序を揺るがす暴挙」ともいわれており、それはまったくそのとおりだと思うけれども、そういう論調を見ていると、だったらアメリカが2003(平成15)年に起こしたイラク戦争はどうなんだ、という思いがどうしても湧いてくるんだなあ……。
 この状況でそんなことを口にしたら「いま言うことか」「空気読め」といわれそうだけど、「ヨーロッパの秩序に対する強引な現状変更」がここまで非難されるのに、「中東の秩序に対する強引な現状変更」が何だかんだで罷り通って、いまだに有耶無耶になってるってのがどうもね……あれはやっぱりアメリカという国の歴史的な汚点のひとつであると思いますけどね。
 もちろん、いかにドストエフスキーとトルストイとをこよなく敬愛するとはいえ、ぼくはとうぜんロシアよりアメリカのほうがだんぜん好きだし、そもそも日本で生きる一国民として、選択の余地そのものが無いわけですが。アメリカが「イラクを攻めるから支持しろ。」と言ってきたら「畏まりました。」と言ってそれに従い、「ロシアに対する制裁に加われ。」と言ってきたら「畏まりました。」と言ってそれに従う。そんなふうにしてこの国は戦後80年近くを過ごしてきたわけで、ことさら卑屈だとも情けないとも思わない。それこそ「(太平洋)戦(争)後の世界秩序」というもので、仕方がないと思ってます。
 とはいえ、その調子でこれからも平穏無事でやっていけるかどうか、ちょっと怪しくなってきた気もしますがね……。いまひとつ議会制民主主義が機能してない覇権主義国家は、いつ暴走を始めるかわからない。そういった不安が顕在化した事例ともいえるわけだから……。














 それにしても、今この時期にウクライナへの侵攻とはなあ……。いやソ連時代の1979(昭和54)年にもアフガニスタン侵攻というのがありましたがね……。それは上で述べたアメリカによるイラク戦争にも深くかかわる話で、やはり因果がぜんぶ繋がってるんだけど、当時のアフガニスタンと比べたら、いまのウクライナはずっと安定した主権国家なんだからね……。NATOに加入されるのが嫌だったって……。なんだ、ぜんぜん冷戦構造終わってないじゃんって話ですよね。
 ただ、そんなこといっても、ぼくはこれまでウクライナのことはよく知らなくて、ここ4、5日くらいでネットを漁ってにわか勉強したクチなんで……そこは大多数のひとがそうじゃないかと思うんだけど。
 中公新書の「物語各国史」の一冊として、『ウクライナの歴史』というのが出てますね。簡潔な通史で、入門書として定評あるシリーズだけど、『ウクライナの歴史』の原本(紙媒体)の初版は2002年。副題が「ヨーロッパ最後の大国」。内容説明と目次はこうなってます。






ロシア帝国やソヴィエト連邦のもとで長く忍従を強いられながらも、独自の文化を失わず、有為の人材を輩出し続けたウクライナ。不撓不屈のアイデンティティは、どのように育まれてきたのか。スキタイの興亡、キエフ・ルーシ公国の隆盛、コサックの活躍から、1991年の新生ウクライナ誕生まで、この地をめぐる歴史を俯瞰。人口5000万を数え、ロシアに次ぐヨーロッパ第二の広い国土を持つ、知られざる「大国」の素顔に迫る。


目次
第1章 スキタイ―騎馬と黄金の民族
第2章 キエフ・ルーシ―ヨーロッパの大国
第3章 リトアニア・ポーランドの時代
第4章 コサックの栄光と挫折
第5章 ロシア・オーストリア両帝国の支配
第6章 中央ラーダ―つかの間の独立
第7章 ソ連の時代
第8章 350年間待った独立




 


 これは電子書籍化されてますね。きちんと基本を抑えるには、こういう書籍がいいんだろうけど、より手っ取り早く、背景をざっくり掴みたいというならば、こういうメディアもいいかもしれない。日本が世界に誇る(サブ)カルチャー、すなわち漫画なんですが。




コミックDAYS(講談社)
田素弘『紛争でしたら八田まで』ウクライナ編・全6話(単行本 2巻・3巻所収)
期間限定 無料公開
https://comic-days.com/episode/13933686331616212564




 イギリスに本社を置く企業に所属するリスク・コンサルタントの八田百合(この記事の冒頭に画像を掲げたメガネの女性)が世界各地に赴き、持ち前の行動力と格闘術、そして卓越した地政学の知識を生かして紛争を解決していく痛快ストーリー。その中の「ウクライナ編」が、今回の事態を受けて無料公開されてます。講談社さんの英断ですね。アクションものには違いないけれど、どぎつい描写はなく、楽しく読めて基礎がわかる。何よりも明朗で、ハッピーエンドなのがいい。ぼくもさきほど卒読しましたが、とても良かった。なにぶん期間限定なので、取り急ぎご紹介まで。







深掘り談義 20.07.19 akiさんへのご返事

2020-07-19 | 政治/社会






dig ……フカボリスト。毒舌家




e-minor ……当ブログ管理人eminusの別人格






☆☆☆☆☆☆☆




 どうもe-minorです。


 digです。今回はそっちが先に挨拶するんだな。


 うん。じつはakiさんからコメントを頂戴してね。例によって独立した記事としてアップさせて頂いたんだけど。


 ありがたいことだな。ちゃんとeminusが出てきてご返事しなくていいのか。


 相変わらず不調なんだよ。それでぼくに「代わりに頼む。」って。


 じゃあおれは引っ込んでたほうがいいな。


 いやそれだと、eminusが返事を書くのとどう違うんだって話だろ。たんに名前がちょっと変わっただけで。


 だったらこのままいくのか? こういう形式で返事を書くのが失礼に当たらなきゃいいが。


 かえってこのほうが誠実にお答えできると思ってね。それで、頂いた内容なんだけど、これが「あたたかい叱咤激励」とでもいうべきもので……


 こちらにプレッシャーを与えぬように配慮しつつ、当ブログの存続を望むというメッセージになってるんだな。


 先にそのことについて申し述べておくと、①.このgooブログでの記事の更新はやめるけれど、いずれまた別の場所でブログ的なものを再開する心づもりではいる、ということなんだ。gooブログは何ていうかやっぱ、「社交の場」みたいなところがあって……最近は運営サイドも、とみにそういう傾向を打ち出してるように思う。それで、ほんとに自分が書きたいような、ラディカルな話題は書きづらくなってきたわけだ。越してきた頃にはわりとディープな文芸ブログや政治ブログもあった気がするんだけどね。


 だったら最初からそう言やァよかったじゃないか。


 その「別の場所」ってのを模索中でね。このところ「note」というのをよく耳にするんで、どんなものかな、と思ってるんだけど、まだその段階なもんで。


 そういう考えなら確かにあっちのほうが向いてるよ。どうせ大したものは書けんだろうが。


 ここ、ほんとなら鼻白むところなんだろうけど、当たってるんで何もいえない。たしかに、ぼくはあまりにも文学や「物語」にかまけてて、「経済」や「国際政治」にまつわる基礎的な知識が不足している。今回のコロナ禍で中国のことを少しばかり学んで、今更ながら自分の無知を痛感した。それもまた不調の原因なんだな。


 それはもう、ほんとにじっさいまったくもって「今更ながら」としか言いようがないな。


 それで、充電期間じゃないけども、しばらくはインプットに専念したい。それで、②.次の落ち着き先が決まったらこのブログにて告知する、それまでのあいだ、1日に1回は編集画面をチェックするので、コメントは引き続き歓迎いたします。ということで、e-minor……じゃなく、eminusからのご返事とさせて頂きたいんだけど、どうだろう。


 「どうだろう」って、おれに訊かれてもなあ。まあ、おかしなことは言ってないと思うが。


 先に結論を申し述べておいて、さて、せっかく力のこもった長文のコメントを頂いたんだから、これについてもご返事したいんで、もう少し付き合ってくれ。


 早くしてくれよ。今日の昼は冷やし中華つくって食うんだから。


 コメントのなかでakiさんが、「ブログやめます。」といったぼくの心情を推し量って、
「今年に入って、これほど明らかにお隣中国の脅威がクローズアップされてきたにも拘らず、日本人は泰平の中で安穏としている自己を自覚せず、国家的危機に際しても眠りから覚めようとしない。こういう状況において、ブンガク談義なんぞという「正に泰平の眠りの中でやるべきようなこと」をのほほんとやっていく気にはとてもなれない。もしくは、そういう自分が許せない。ここはいっそ、自分が知る文学の中でも『泰平の惰眠を貪る愚民どもに警鐘を鳴らす劇薬』と言うべき最終兵器を投入して、それをもってブログを終わらせることにしよう。」
 ……と要約して下さったのは、91%まで正しいんだな。


 えらく数字を細かく刻んだな。なんだよ91%って。


 例によっての慧眼で、おおむね的を射てるんだ。ことに「そういう自分が許せない。」というくだりは「ビンゴ!」って感じなんだけど、『泰平の惰眠を貪る愚民どもに警鐘を鳴らす劇薬』は違うかなあと。たしかに20代の頃にはニーチェにかぶれたけれど、ぼくはそこまで僭越ではない。なにぶん自分がいちばんの「愚民」であると自覚しているし。


 まあ、白川静の学説によれば、「民」という漢字の成り立ちそのものに「愚か」って意味が含まれてるんだけどな。


 digはその点、自分のことをどう思ってるわけ?


 おれにそれを訊くな。


 まあdigのことはわからんけども、いわゆる「大衆」と呼ばれる層に対して、ぼくはけっして「愚か」とは思ってない。さっきも言ったが、何よりも自分自身が大衆のひとりなんだし。ただ、「暢気だなあ。」とは思ってるけどね。それにしたって、これまた自分自身がコロナ騒動まではひどく暢気であり、太平楽だったわけだしさ。だからこの情況に苛立ってることは、ほとんど自家中毒に似ているよ。


 そこで「そういう自分が許せない。」となるわけだな。まあ頑張ってくれとしか言いようがない。


 コメントはわかりやすく箇条書きになっていて、①は「中国の脅威恐るるに足らず。」という話で、②が「日本(人)は暢気にみえても事が起これば目を覚ます。」という話だよね。そう要約させて頂いていいと思うんだけれど、まず①に関しては、ぼくはそれほど楽観してはいないんだ。たとえば、いま話題になってる三峡ダムにしても、あれは2009(平成21)年に完成したんだけど、その前からもう「すぐにも決壊する。」って言われてたんだぜ。


 着工前からそういう声は上がってたな。


 それがしぶとく持ちこたえてきた。今回だって、何だかんだ言っても結局は凌ぎきるような気がしてるんだ。むろん、一般の人民の皆さんの災難を望むものではないんで、その点は誤解されると困るんだけど、つまりぼくが言いたいのは……


 あの国は驚くほどにしぶといってことだろ。


 つまりそういうことなんだ。洪水のほかにも問題山積のようだけど、それでもしぶとく凌ぐんじゃないか。


 それをいうならそもそも1989(平成元)年の天安門事件な。


 そのことはぼくも以前にここで書いた。あれを乗り切ったうえに、そのあと30年かけてついにあのアメリカに伍すほどの力を付けたんだからね。今回ようやく、そのアメリカを中心として「包囲網」っぽいものができつつあるように見えるんだけど、さてその効力たるや如何に……とはらはらしながら見守ってるところだ。だいたいトランプ氏が次期大統領に選ばれるのかどうか……もし民主党が政権を取ったら、対中姿勢がいっぺんに軟化するのは明らかだしな。


 おれはトランプ再選と予測してるよ。まあフカボリストは予知者ではないんで確言はできんが。


 だから①と②とは当然ながら密接に関連してるよね。どうやら2020年版の防衛白書では、従来よりも明確に「中国の脅威」について指摘されてるらしいけれども……


 ああ。コロナ禍を利用して「自らに有利な国際・地域秩序の形成や影響力の拡大を図っているとの見方がある。」と、婉曲な言い回しながら警鐘を鳴らしている。沖縄県と尖閣諸島周辺での領海侵入には「一方的な現状変更の試みを執拗に継続している。」と従来よりも強い口調で指摘してるし、感染が拡大している国に対して、医療専門家の派遣や医療物資の提供を行う傍ら、「社会不安や混乱を契機とした偽情報の流布などの宣伝工作も指摘される。」とはっきり言ってる。あと、南シナ海や東シナ海での活動拡大に関しても「各国が新型コロナ対応に注力する中、周辺国から反発を招いている。」とも述べてるな。各国軍の動向についても、中国軍にもっとも多くの紙面を割き、中国軍の予算は公表分だけでも過去30年間で約44倍となり、「軍事力の質・量を広範かつ急速に強化している。」さらには、新型の大陸間弾道ミサイル(ICBM)の開発、初の国産空母「山東」の就役のほか、宇宙やサイバー、電磁波といった新領域での展開についても触れている。


 ぼくはテレビを見ないから不案内なんだけど、いわゆるマスコミはどれくらいこの問題を扱ってるのかな。


 おれもテレビは見ないし新聞も取ってないが、仮に扱ったとしても、ほとんどサッと流してるだろうな。そりゃスポーツニュースのほうによっぽど力を注いでるだろうさ。


 それが現状であるのなら、やはりこの②についてもなかなか楽観はできない……。それで、とくに改憲……それも9条改憲に絞ってお答えしたいと思うんだけど、digのばあい、これについてはほとんど議論にならないんだよね。


 国が軍隊をもつのは自明のことだ。それ以上でも以下でもない。


 ぼくはやっぱりそこまで言い切れないんだけど、akiさんのおっしゃる平和主義についてはどうなんだ。


 未曽有の惨禍をもたらした第二次世界大戦が終わったあとで、まがりなりにも国際秩序らしきものが生まれた。それは各々の国がそれぞれの主権を保ち、ほかの国々がそれを尊重するという姿勢だ。この「主権」と並んで、「領土(および領海)」、そして「国民」という3つの概念が国家を国家たらしめる三要素だわな。ただこれについては戦後、あちこちで地域紛争や代理戦争が起こってずいぶんとアヤシイものになっちまったし、そういう意味ではいうまでもなくアメリカって国もろくなものではないんだけども、それでも中国よりはぜんぜんマシなのだ。それはともかく、他国の「主権」「領土」「国民」を尊重するという原則において、戦後ニッポンは一貫してそれを守ってきたし、それは向後もけして変わることはない。その態度を「平和主義」と呼ぶのであれば、おれもまたもとより平和主義者だ。


 兵力は持っても、それはあくまで自衛のためってことだね。


 そう。現に防衛省は……ってことは日本政府はってことだが……他国を直截に攻撃する兵器の保有を認めていない。具体的には大陸間弾道ミサイル(ICBM:Intercontinental Ballistic Missile)、長距離戦略爆撃機、攻撃型空母などだな。あくまでも専守防衛なんだ。されど問題は、これだけ周辺国が攻撃力を増強しているなか、はたして完全なる「自衛」なんてのが実際に可能かってことだ。たとえば、ある国の発射台から国土の一角に向けてミサイルが撃ち込まれることが確実に判明しているとき、ただ迎撃システムを準備して、それを黙って待ってりゃいいのか。なにかしら阻止する行動を取っちゃいかんのかいと。


 「敵基地攻撃論」ってやつかな。


 むろん発射準備しているのが確実に分かったからってこちらから攻撃するわけにはいかんので、「敵基地攻撃論」は厳密には成立しないんだけども、厄介な問題ではあるな。あと、現代の戦争ってのはたんに兵器でドンパチってんじゃなく、白書にもあったが、マネー、情報、ハイテク、その他人間活動の全般にあいわたる総力戦ってこと。これも言っておきたい。


 そのことはakiさんも以前のコメントで指摘してらしたよ。


 そうか。とにかく、そういう意味では今は平時じゃなく、すでに戦時だよ。言いたいことはまだまだ山ほどあるけども、あまり踏み込むのもアレなんだろ?


 うん。gooブログとしては、もう十分にリミット超えてる感じだな。


 じゃあもういいかな。早く冷やし中華つくって食いたいんだが。


 いやいやもうちょっと。③と④へのご返事がまだだよ。


 文学の話か。これについては、「深掘り談義 バナナフィッシュにうってつけの日」の続きを読んで頂ければ自ずと判然すると思うが。


 しかしこの分だといつ完結するのかわからんからね。いちおうこの場でお答えできるだけお答えしておきたい。そうだなあ。「アイデンティティ」の探究か……。これは「探求」という字を当ててもいいんだろうけど、それはつまり「私」の探究ってことだよね。たしかに純文学は……っていうか逍遥・二葉亭・漱石・鴎外いこうの近代日本文学は、「近代的自我」という名の「私」を確立しようと苦闘してきたわけだけども、それから幾星霜、たとえば戦後生まれの中上健次は、よく誤解されるように「最後(にして最大)の私小説作家」なんてものではなしに、「周囲(血縁・地縁の共同体)との関係性において否応なく存在してしまう私」を描いたわけだ。つまり「自我」ではなくて「関係」を描いたと。それが構造主義のテーマとも通底していたゆえに、盟友の柄谷行人のみならず蓮實重彥・浅田彰といったハイパーインテリな面々からの支持をあつめた。そう考えていくならば、「物語」をカタることに徹して「私」をほとんど溶融させてしまったかにみえる(それでも「作家性」だけは残るわけだけど)ラノベやアニメのほうがむしろ純文学の先を行ってるともいえる。だからこそぼくも、当ブログにて積極的にアニメを扱ってきたんだけども……


 とはいえ又吉直樹みたく、「お笑い芸人」という「私」性を担保することで、作品そのものの希薄さを補って「純文学」として流通する商品も出てくるわけだからな?


 だからあの人の作品はいわば純文学のパロディーだし、あの人自身も「作家」のパロディーとしてふるまっている。それは高度資本主義社会における「純文学」のひとつのありようかなあとは思う。


 だけどここでakiさんが述べてるのは、もっと高尚なことだろうぜ。


 うん。そうだな。たぶんそれは「人格の陶冶」みたいな話かもしれない。それはおそらく「倫理」、もっというなら「宗教」的なるものにも繋がっていく話で……


 ああ。だからここで仏教の話が出てきてるのは鋭いと思ったな。


 そう。サリンジャーのことをご存じないのにここで仏教に言及されているのは流石だ。『ナイン・ストーリーズ』の巻頭には、「両手の鳴る音を知る。隻手の鳴る音や如何に?」という禅の公案が刻まれているし、この短篇集の掉尾を飾る問題作「テディ」では、インド哲学がテーマになっている。「サリンジャーと禅」「サリンジャーと東洋思想」というのは、それだけで論文集ができるほどの主題なんだよな。


 「バナナフィッシュ」のシーモアが仏教を知らない、という指摘も鋭いな。「バナナフィッシュにうってつけの日」は、どこまでもキリスト教の文学だ。そして、キリスト教の文学としては、そうとうに優れたものでもあるんだが、そこが世間じゃ意外にきちんと読み解かれてない。そこでおれみたいなフカボリストの出番になる。


 この先の展開やショッキングな結末もふくめて、あとは次回以降のお楽しみ……なんだけど、最後にひとつだけ付け加えておきたい。サリンジャーはたしかに優秀な作家だけれど、「最終兵器」ってほどではないんだ。ぼくとしてもそういうつもりではなかった。そういうことなら例えばカフカのほうがよっぽど凄い。同じアメリカで言うならフォークナーのほうがやっぱり凄い。ただ、サリンジャーはとてもポップなんだよね。だから、アレン・ギンズバーグよりもボブ・ディランのほうが20世紀を代表するアメリカの詩人としてふさわしい……という意味でなら、フォークナーよりも、なんだったらヘミングウェイよりも偉いんだよ。


 そんなところでいいだろう。おれと冷やし中華とのランデブーをこれ以上邪魔するな。


 これでご返事になっただろうか。


 だからおれに訊かれてもなあ。まあ、おかしなことは言ってないと思うよ。





akiさんからのコメント。2020/07/18

2020-07-19 | 政治/社会

またまた長文すみません
 こんばんは~。お久しぶりでございます。
 藤井新棋聖の誕生は新時代の到来を象徴する歓迎すべき好事であるとは思うのですが、すみません。その話題ではないんですよね。


 eminusさんでなくe-minorさんとdigさんの「深堀り談義」が始まって、ああ、eminusさんもリハビリが必要なんだろうなあと思っていたら、前回のインターミッションで突然「ブログ更新停止」宣言が飛び出して、正直そっちの方が大いに面食らいましたw
 さて…これはどうお声掛けをしたものか、と私自身が長考状態(と言う名の「下手の考え休むに似たり」)に入ってしまった塩梅です。


 もちろん、基本的にはブログもネットもやるかやらないかは個人の自由で、他人の決断にとやかく言う権利は私にはさらさらないわけですが、ただまあ…今回eminusさん(e-minorさんかな?)がおっしゃった「やめる理由」から判断する限り、私には「それも仕方ないよね」とは思えないんですよね。正直、早計すぎると思うのです。


 例によって、e-minorさんのご発言から、私が受け取ったものを文章にすると、以下のようになりますか。


「今年に入って、これほど明らかにお隣中国の脅威がクローズアップされてきたにも拘らず、日本人は泰平の中で安穏としている自己を自覚せず、国家的危機に際しても眠りから覚めようとしない。こういう状況において、ブンガク談義なんぞという「正に泰平の眠りの中でやるべきようなこと」をのほほんとやっていく気にはとてもなれない。もしくは、そういう自分が許せない。ここはいっそ、自分が知る文学の中でも『泰平の惰眠を貪る愚民どもに警鐘を鳴らす劇薬』と言うべき最終兵器を投入して、それをもってブログを終わらせることにしよう」


 この「要約」に誤りがあれば申し訳ありません。以下、これに対する私なりの反論を述べさせていただきます。




①中国の脅威
 確かに今年に入って、武漢肺炎、香港問題で中国政府は大きな失態を犯し、全世界的に「中国ってやっぱヤバくね?」という認識が一気に広まった感はありますが、私に言わせればそんなものはもう何年も前から明らか過ぎるほど明らかなことであって、「何を今さら」とまでは言わないにしても、「ようやくここまで来たか」という思いの方がはるかに強い案件ではあるのです。
 思い起こせば5年前。2015年に、インドネシア政府がそれまで話を進めていた日本との「高速鉄道商談」をいきなり蹴って、ポット出の中国の提案に飛びついたことがありました。中国の提案とは、「インドネシア政府の保障を必要としない融資を行う」という世界の常識からかけ離れた、「商談」とはとても言えない代物であり、日本側からすれば「そんな計画で上手く行くはずがない」と目をむくようなものでした。しかも、中国の高速鉄道技術とは日本から提供を受けた「新幹線の技術そのもの」であって、それを「様々な改良を加えたから最早中国独自の技術である」とうそぶいて、堂々と他国へ売り出そうとしていたわけです。そういううさん臭さMaxの提案にインドネシアのジョコ政権は飛びつき、日本が受注前提で行っていた「鉄道敷設のための現地調査」の資料もそっくりそのまま中国へ売り渡すという背信まで行いました。
 この時点で中国は、南シナ海のいわゆる「九段線」への軍事拠点建設を始めており、「実力で領土を奪い取る」姿勢を鮮明にもしていました。日本に対しては、民主党政権時に日本の巡視船に中国船が体当たりを仕掛けてきたことは当時まだ記憶に新しく、それらも考え合わせて「中国は仲良くしてはいけない国なのか」との認識を持ったことを覚えています。
 今まで何度も書いている通り、「中国の文化に心酔している」私ですら、そうなのです。
 今や日本人の9割は、中国を信用できない国だと考えています。そしてその認識は全世界で共有されつつあります。(これまで莫大な資金援助のために中国を強力に支持してきたアフリカ諸国ですら、離反する国が現れ始めました)


 その認識に染まらない政界財界の重鎮がいることは確かですが、彼らも「国民の声」から自身が乖離していることを知れば口をつぐむでしょう。まあ2Fさんとか、「だいぶ耄碌して状況がわかってないんじゃないか」と思える人もいますけどね。
 日本人に危機意識が足りないことはその通りですが、それでも潮目は変わってきています。ここまで来れば、後は時代の流れに従っていれば、自ずと行き着くところに行き着くでしょう。


 アメリカでは今週、ポンぺオ国務長官が「南シナ海における中国の領土主張は完全に違法である」「インド、南シナ海、尖閣諸島など、中国共産党が起こす領土問題にはパターンがある」「アメリカは中国から領有権を侵害されているすべての国を支援するため、あらゆる手段を尽くす」と歴史的演説を行いました。香港問題で中国の要人のアメリカにおける資産凍結を行ったのみならず、アメリカの報道によると「共産党員9200万人のアメリカへの入国を禁ずる」法案まで、アメリカ政府は検討しているとのこと。「限定した範囲で中国を叩く」という方針を取ってきたトランプ政権は、ここに来て「中国共産党との全面対決」に舵を切りつつあるようです。




 何が言いたいかというと、「中国の凋落はもはや時間の問題」だということです。その種を中国共産党自身が大量にばら撒いている以上、この潮目が変わることは決してありません。その意味において、eminusさんが気に病まれることはさらさらない、というのが私の意見です。




②泰平の眠りを貪る日本人
 思い起こせば、江戸時代の安眠から日本人が目覚めたきっかけは、たった四隻の蒸気船の到来でした。
 それまでにも、林子平の『海国兵談』などに代表されるように、ロシアの脅威に警鐘を鳴らす論調はあり、渡辺崋山や高野長英などの開国論もあって、「一足先に眠りから覚めた」先覚者はいたわけですが、幕末に至って一気に気流が盛り上がり、明治維新へとつながりました。
 私は、島国に生きる日本人は、「単一民族国家」を形成できたがゆえに(つまり他民族とのせめぎ合いを経験することが少なかったために)基本的におおらかで保守的であり、平和を愛する国民性を持っていると思います。一方で実直で勤労を重んじる性格は、外から入ってくる文明物をすぐに自国の文化に合うように作り替え、独自の高度な文化を生み出しました。そういう国民性は、「なかなか腰を上げないが、一端腰を上げれば凄まじい勢いと力を生み出す」という特性を持っていると思います。明治維新が正にそうでしたし、戦後の高度経済成長もそうでした。
 今、日本は停滞期に入っているかもしれない。「失われた20年」と言われる景気後退期はそうでしたし、その余波は今でも払拭できていないでしょう。
 が、このままで日本は終わるのか。私は全くそうは思いません。必ず、日本人は立ち上がる時が来ます。遅いか早いかは別にして、です。


 憲法改正問題についてはいずれ貴ブログで書かせていただくつもりでしたが、今申し上げると、私も憲法第9条改正には賛成です。ただし私は、憲法第9条について、多くの改正論者の方が言うように否定的に捉えてはいません。むしろ肯定的に捉えています。
 様々な問題がある、というかそもそも「自国をどうやって守るのか」を全く無視した、言ってみれば無責任極まる条文にもかかわらず、日本国民の多くは、戦後70年以上、この条文を支持してきました。それは日本人が「平和ボケ」のバカだからでしょうか。
 「平和ボケ」と言われればそうかもしれない。しかし「バカである」とは私は思いません。この条文は、平和を愛する日本人の心そのものである、と言っていい。この条文は日本人の切なる願いに合致するものであり、だからこそ70年以上も支持され続けてきたのです。言い換えれば、日本であるからこそ、問題だらけの憲法第9条は護持され続けてきた。日本でなければ護持され続けることなど不可能であった。そのこと自体は、日本人は誰が何と言おうと誇っていいと思います。


 ただし、当たり前ですが自国を守る手段を放棄するという条文は、世界の基準から見れば異様です。また日本人に犠牲者が出たとき、この条文に従えば政府は指をくわえてそれを見ているしかない。政府の責任としては、それはあり得ないことです。さらに国際情勢の変化により、「第二次世界大戦のような全面戦争」は極めて起こりにくくなり、地域紛争も大国間においては限定的なものに限られます。「戦争ではないが自国の権益・自国民の安全が侵害されるような事態」が起こったときに、現行憲法下では政府は何もできない、という弊害が、覇権国家・中国の存在によって現実問題として表面化してきました。(もちろんこれまでにも、北方領土や竹島など領土問題、北朝鮮による拉致問題などがあったわけですが)
 こういう現実問題に対処し、日本が世界の中で責任ある国家として存立していくために、憲法第9条を改正することは必要だと思います。ただし、今ある「平和主義」の精神は堅持すべきである、というのが私の考えです。


 その点について、今現在自民党が決定している憲法改正案をご存知ですか?
 私は青山繁晴参院議員のご意見には共感するところが多く、よく彼の動画を拝見するのですが、彼の提言によって、極めてシンプルな自民党案が決定された、という話を何度もお聞きしました。それによると、


・憲法第9条第一項(戦争放棄)、第二項(戦力不保持)の条文はそのままに残す。(これは公明党が条文変更に反対しているため)
・第三項を新設、「上記の内容は自衛の措置を妨げない」の一文を付加する。


というものです。
 青山議員の原案では、「自衛権の発動を妨げない」だったのですが、自民党の部会で、「集団的自衛権の解釈で延々と国会が紛糾した経験から、『自衛権』という言葉にアレルギーがある」との意見(難癖に近いと思いますがw)を受けて、現在の文言になったそうです。
 この原案を青山議員の口から聴いたとき、涙が出るほど感動を覚えたことを思い出します。大げさでもなんでもなく、「これは神の一手だ」と思いました。平和主義を掲げる条文はそのままに、わずか一行の付加文言によって、条文の性格が根底からがらりと変わってしまう。「自衛のためならあらゆる手段を取れる」という、世界基準における普通の国になれる憲法に生まれ変わるのです。
 青山議員によると、この案を自民党の部会で発言したとき、早速その場で5名の議員が「賛成」の言を挙げ、その後の議論で自民党の憲法改正案として正式に決定されました。今安倍総理がこの自民党案を強調しないのは、「それでも難色を示している」公明党に配慮しているから。そして、たとえ国会を通ったとしても、その後の国民投票によって「必ず勝つ」という目途が立たないから、だそうです。
 ここに来ても、憲法第9条に対する国民の支持は高い、ということでしょう。それに各メディアも、憲法改正案が出されればすさまじい勢いでネガティブキャンペーンを張るであろうことが予想されます。その意味では、まだ日本国民は「重い腰を上げる」ところまで追い詰められていないとは言えると思います。が、それも時間の問題でしょう。ネット上ではすでに、各新聞社・テレビ局の偏向報道の正体は明るみにさらけ出されていますしね。ネットをやらない高齢者の方がいなくなれば、世論は大きく変わります。


 すなわち、日本国民の現状と日本の行く末について、悲観するならともかく、諦めるのはまだ早い。というか、諦める必要などさらさらない、と私は思います。




③のほほんとブンガク談義
 まあブンガクのことは私は全く分からないんですけどねw 泉鏡花も読んだことないし、ましてやアメリカ文学なんて「なにそれ食えるの?」状態。ヘミングウェイの『老人と海』は辛うじて読んだことがありますが、サリンジャーなんて「ゴレンジャー? 知らんじゃあ」てなところが関の山(爆)。『ライ麦畑でつかまえて』という本の題名くらいですか。知っているのは。
 …今ググってみたら、10年前までご存命だったんですね。もっと昔の方かと思ってました。


 まあともあれ、あくまでもざっくりとですが、文学の大目的とは、「良い暇つぶし」を除けば、「アイデンティティの探究」だと思うんですね。以前に「メロドラマ論」でそのような話題が出てきたと記憶してますが、実は古代の神話においても(というか神話こそ、と言うべきでしょうが)、「自らの民族がどこからどのように発祥したか」を紐解くことがその存在意義であって、それは個人としての自己の存立にも関わってくるわけです。で、その神話が「神の死」によって効力を失った後、それに代わる「アイデンティティの確立」を提供するべく、「小説」が生まれた。が、そういった文学の役割も、すでに時代遅れになっています。今や文学と言っても「気持ちよく泣ける媒体」でしかないかもしれない。なろう小説に代表されるように、裾野が広がることによって大衆化・低俗化を招くことは避けられないことなのかもしれません。
 文学にも二つの潮流がある、と考えればいいのかもしれませんけどね。大衆文学があれば、一方に高尚な純文学がある。芥川賞と直木賞の二つが日本に存在することはすなわち必然である、と言えましょうか。


 まあ何が言いたいかと言うと、「時代遅れ」とはいえ、人にとって「アイデンティティの確立」は自分自身の人生のために必要なことであって、そのために文学を探究する以上、その営みはいついかなる時においても止めるべきではない。それを止めるときとは、すなわち死と等価である、ということです。
「戦場(「無人島」という話もあります)に一冊の本を持っていけるとすれば何にするか」という問いに、かつて多くの日本人は『歎異抄』と答えたそうです。親鸞聖人の赤裸々な信仰を告白したこの名著は、正に「親鸞聖人のアイデンティティそのもの」であって、かつての日本人はそこから自己のアイデンティティをも読み取ろうとしたのでしょうか。


 敢えて申し上げます。
 戦場においてすら、人は自己の確立を求めるものなのに、やがて凋落する中国ごときのためにそれを止めるなんて、もったいないにもほどがある。
 むしろ、非常時であるからこそ、「文化の価値」はより輝くものだと思います。




④劇薬
 シーモアがどういう結末を迎えるのかを私は知りませんので、現時点でe-minorさんとdigさんがにおわせている範疇で何となく感じ取るしかないわけですが。
 ただまあ、どうやらシーモアは惰眠を貪る大衆に警鐘を鳴らすために奇天烈な(と他人に見える)行動を取り、それは「今日死ぬかもしれない」人の存在の根幹に関わるものらしい。で、そのためにやがてシーモアは破滅的な結末を迎えるんでしょうかね。


 この理解が正しいかどうかは分からないのですが、敢えてこの理解を基に感想を述べるなら、


「そんなことなら2600年も前に、お釈迦様がもっと上手に警鐘を鳴らしてますよ」


 となりますか。
「すべてのものは常住せず、生々流転を繰り返す」という「無常観」が仏教の出発点ですが、これは人の命も同様です。しかも仏教で教えられる「無常」とは「刹那無常」であり、一息一息の中に死が生と隣り合っている、すなわち、次の瞬間には自分は死を迎えるかもしれない、もっと言えば、次の瞬間には死を迎える存在こそ自分である、ということを突き詰めて観ていく教えなのです。そういう自己であることを明らかに観て、真の幸せである「菩提」を求め、得ることが仏教の目的ですね。今の仏教界はほとんど形骸化してしまっていますが。
 残念なことに、シーモアは仏教を知らなかった。もし仏教に出会えていたら、彼の無垢な精神は救われていたかもしれません。


 というわけで、「劇薬」とおっしゃいましたが、私はすでに服用済みですw




 まったくいつものことながら、今回も「煽り上等!」の内容で申し訳ないです。ただこうやって長文のコメントを書き込んでおくと、きっとeminusさんからのご返事を頂けるでしょうから、結果的にブログは更新されていくかもしれない…とか企んでいたりしてw(冗談ですw)
 ただし、私もぐーたらなので人のことは言えませんが、なんとなーく貴ブログを楽しみにしていることは確かですので、できれば続けていただきたいなあ…というメッセージは送っておきたいと思います。(^^;


 …今回の投稿は6700字超。またまた長くなってスミマセンです<(_ _)>







akiさんからのコメント 20.05.05 軍事とアニメ

2020-05-05 | 政治/社会




 akiさんからのコメントがほぼ20日ぶりに届きました。いやけっこう間があいたんで、「なんかおれ気に障るようなこと書いたかな。」と思って半泣きになってましたよ。それにしても、待っていた甲斐あって、とても充実した、面白い内容でございます。ではどうぞ。






☆☆☆☆☆☆☆






 お久しぶりです。「小池さんにステイホーム言われるより矢野さんにハウス言われたい」(※「矢野さん」はSHIROBAKOのお姉さんキャラ。劇場版の中で絵コンテの重圧から逃げ出そうとする監督に「ハウス!」と命令する場面がある)というネット上のコメントを見て深く頷きたいakiでございます。
 ゴールデンウィークも家にいないといけないので、きわめてのんびりまったりしておりますが、こうもまったりしすぎると社会復帰したくなくなりますねえ。それはさておき。




 記事本文と無関係で申し訳ないのですが、いくつか前のお話にお返事しようと思いまして。




>火砲の発達による軍事への影響について


 これは主にヨーロッパを念頭に置いた話ですが、「築城術」に関しては劇的な変化がありました。
 それまでの「高い城壁と円形の塔」が大砲の砲撃に対して極めてもろいことが明らかになると、城壁は低く、防御側の射線を確保するために星型に形成されるようになり、また濠の前面に分厚く盛り土が施されるようになりました。ただこれも大砲の発達にともなって次第に時代遅れとなり、ナポレオン戦争の頃になると城塞そのものの戦略的価値が低下します。やがて恒常的な城塞建築は部分的なものとなり、20世紀に入ると塹壕と有刺鉄線・コンクリート堡塁などによる「野戦築城」が主流となりました。
 星形城塞の例としては、函館の五稜郭が判りやすいですね。ただし五稜郭が造られたころには、大元の西欧では星形城塞はすでに時代遅れとなっていましたが。


 野戦に関しては、前に述べたグスタフ・アドルフによる「三兵戦術」も「歩兵で戦列を作り、弓・あるいは火砲によって敵を漸減し、騎兵による迂回包囲によって勝敗を決める」という基本戦術は古代から変わりません。これは19世紀半ばごろ(具体的には1870年の普仏戦争)まで一貫しており、こういう戦争形態が「指揮官の機知の閃きによる勝利」を多数生み出し、歴史上に英雄豪傑を輩出させて、「戦場と言えば男のロマンのあふれる場所」という幻想を生み出してきたと言えなくもないです。


 ただし前にも述べたとおり、火砲の発達は戦場における戦死者の数を増大させました。このことの影響は「戦術」というよりもむしろ戦争全体を含む社会そのものにあります。
 まず、17世紀の三十年戦争のころから、傭兵による戦争経営が縮小し、「国民軍」が主流となります。何しろ傭兵とは「戦争に勝利すること」ではなく「戦争に参加して稼ぐこと」が目的ですから、死ぬ可能性が高くなればなるほどやってられなくなります。また高額な火器をそろえることも、個人経営である傭兵には難しくなりますので、君主としては「戦力と戦意」の双方で傭兵を信用できなくなる。戦争の主体が「傭兵集団から国家そのもの」に移行したことで、次々に国民軍が設立されていきました。その最たる例、あるいは完成形ともいえる例が、ナポレオンによる「大陸軍(グラン・ダルメ)」でしょうね。
 また、「戦争には莫大な金がかかる」ようになったことで、「片手間に戦争する」ことができなくなり、国家を挙げて戦争に邁進する「総力戦」の様相を呈していきます。(ただし、普通「総力戦」とは第一次・第二次世界大戦の戦争形態を指して言うものです。ここでは、中世との比較においてこの言葉を使っています) またこの政治・社会の変化は「近代的な国家観」を形成させることに寄与し、「国民国家」の成立を助けました。そのことがフランス革命やドイツ・イタリアの統一につながっていきます。


 つまり、火器の発達は、ヨーロッパの歴史を前に推し進めることにつながりました。これは恐らく、というかまず間違いなく、「戦場での戦術」におよぼした影響よりも絶大であったと思います。




>軍事とアニメ


 巨大ロボットが兵器として信用できないことは多々言われていることですね。いくつか挙げてみますと。


1 まず物理的に実現不可能。(自重によって立ってられない。勝手につぶれるw)
2 よしんば実現できたとして、複雑な関節系は重大な故障の温床になる。メンテがめんどくて仕方がない。
3 脚を破壊されれば簡単に機能不全に陥る。で、その肝心な脚が結構脆弱な構造を持っている。膝をやられたら一発。
4 直立した姿勢は敵に対してさらす面積を増大させる。要するに「でっかい的」になる。集中攻撃で簡単に沈む。
5 そもそも「人体」というものが「汎用型」であり、速度や火力や装甲に特化させることに不向きである。なら他の兵器でいいじゃん、となる。


 これらの重大な欠点に対し、ロボット兵器の利点とは、「汎用性」と人体を模した構造による「直感的な操作が可能である点」の二つのみ。「それなら歩兵でいいじゃん」となる。もちろん歩兵よりは装甲・火力ともにはるかに強力だが、上記のとおり「それなら構造の簡単な戦車でいいじゃん」となるわけで、わざわざ莫大な予算を掛けて開発維持する理由がない。


 従って、「巨大ロボット」が実際の戦場で日の目を見ることは、科学の十分に発達した遠い未来においてもあり得ないでしょう。まあ大金持ちの道楽を除いて、ですが。
 ・・・・あ、一点のみ、実現する可能性がありました。戦争がサイバー空間で行われる「仮想試合」として行われる場合、ですね。これなら実際の死者が出ずに済みますから、実は結構実現可能性はあるんじゃないか、と思ったりしてw(まあないかw)
 そんなわけでSFにおける巨大ロボットの存在とは、ファンタジーにおける魔法と同じく、「あり得ないものに対する夢・あこがれ」の具現だと言えます。だから「巨大ロボットなどあり得ない」と言うことは、ファンタジーに向かって「魔法なんてあり得ない」と文句を言うのと同じことで、はっきり言えば「野暮」以外の何物でもありません。つまり見ている人は「これは実際にあり得ない」ことはきちんと理解して見ているわけで、そこを突っ込んでも仕方がないわけです。(この部分はeminusさんもご指摘でしたね)


 私が「アニメに軍事的な視点が欠けている」と言ったのは、ロボットや兵器の描写が緻密であるかどうかではなく(その点についてなら、オタッキーな専門家が現代日本にもいますので、かなり精密な描写をしている作品は存在します。戦車アニメの「ガールズ&パンツァー」はその代表例ですね)、「戦場」や「戦争」そのものに対する理解が決定的に不足している、ということです。戦争を知らない平和な日本に生まれた我々には仕方のないことではありますが(むしろそれは極めて幸せなことだと言うべきです)、戦争と言えば悲惨なもの、という一面しか知らない。だからそういう人がアニメを作ると、やたらと「戦争による犠牲」の部分を強調する作品になったりする。戦場で次々に人が死んだり(こいつら防御を知らんのかというレベルで)、上官がやたらと理不尽だったり(まあもちろんそういう上官も実際にいましたけど、それだけではない)、戦闘と言えば乱戦だったりする。
 「乱戦」というのは、「兵士が個々に独自の判断で戦い、指揮官の命令が届かない」状況を言いますので、まともな指揮官ならそういう状況を絶対に嫌います。戦場における戦闘とは「組織的戦闘」のことですから、戦列が崩れるような状況とはすなわち「敗戦」に他ならないのです。そういう「戦場の基礎」を分かっている人が作れば絶対にこうならないよなあ・・・という表現がしばしば見られるんですよね。日本のアニメには。
 ただし、上記の基本も、十分にスピードを持つ兵器の登場によって覆されました。具体的には戦車や戦闘機ですね。戦車戦術にはまだ「組織的戦闘」の要素が残ってますが、戦闘機による格闘戦は「乱戦」が基本です。あのスピードで戦列なんて保ってられませんから。もっとも、戦闘機でも戦車でも、最も基本的で確実な戦術は「相手を先に発見して先制攻撃」することですけど。じみ~で映えない戦法が一番確実で安全なのです。
 巨大ロボットによる戦闘とは、「戦闘機や戦車による戦闘」と見ることができますので、「乱戦」であっても全く構わないわけです。ただし味方同士連携して敵を罠にはめる、というような戦い方もできる。その辺のさじ加減が、「機動戦士ガンダム」においては(ただし初代のみ、ですが)戦術的に納得できるレベルでまとまっているのです。


 ああそうそう。『エヴァンゲリオン』の話が出ましたので、この作品で私から見て最も軍事的にすぐれた戦いと思えるものを述べておきます。
 テレビ版では「第五使徒ラミエル」劇場版では「第六使徒」である正八面体の敵に対する「ヤシマ作戦」がそれに当たります。
 eminusさんはご存知でしょうから詳細は省きますが、この恐るべき強敵を殲滅するために、葛城ミサトは
1)偵察機・偵察列車により情報を収集。敵の特性を把握。
2)「超長距離からの一点突破」という戦術方針を定め、それに対応できる陽電子砲を、コネと脅しで自衛軍より借り受け
3)エネルギーを確保するため日本全国の電力を作戦ポイントに回す
4)第一射が外れた場合を想定して防御手段も準備。(零号機に盾を持たせて待機させる)
5)作戦開始時、他の攻撃手段を総動員してこちらの主目的を秘匿(※劇場版での追加表現。これには見ていてうなりました)


 勝利のための作戦を明確に描き出し、それに必要なあらゆる要素を全力で用意。持てるすべての資源をつぎ込んで難敵を屠ることに成功しました。しかも準備時間はせいぜい10時間w それと、第一射で仕留めきれず、反撃を受けて恐怖に硬直するシンジ君を最後まで信じ切って任せたことも、指揮官として見事でした。
 この作戦に比べれば、他の作戦は不確定要素が大きすぎて、なおかつエヴァンゲリオンの性能に頼りすぎであり、「優れた作戦によって勝った」とは言い難い。まあそれでも勝てばよかろうなのですけど。




 ちなみに私は、私が知る限り最高のアニメ作品とは「機動戦士ガンダム(初代)」であると思っています。富野由悠季監督の代表作品には、他に「伝説巨人イデオン」がありますが、これを私は視聴していないので評価できないんですけど。(「SHIROBAKO」の遠藤さんと下柳さんに「なんだと!」と言われそうですがw) ガンダムと言えば「ニュータイプ」という設定を生み出したことでアニメ史に残る作品ですが、私はこれは、戦争という悲劇を通して表された、「それでも人は判り合える」という富野監督のメッセージなのではないかと思っています。私が勝手に思っているだけで、冨野監督がそう言っていた、とかいうことではないんですけど。ただ、ここまで根源的で全人類に共通するメッセージを、堂々と、しかしくどくならずにさりげなく表現している作品を、他の媒体も含めて私は他に知りません。・・・・唯一これに近いメッセージを持っているのは、宮崎駿監督の「風の谷のナウシカ」でしょうか。ただこちらは「人と人」ではなく、「人と自然」との関りがテーマですが。(マンガの方ではかなり異質なメッセージを表現していますし)
 ガンダムでは、物語の終盤でララァ・スンという少女が登場してからが本番です。何分古い作品なので、表現には古さが目立ちますし、作画も綺麗とは言えないのですが、見て損はない作品だと思います。(ただ劇場総集編では、上に述べたようなメッセージが弱いんですよねえ・・・・やっぱり冨野監督が意図したものではないのかもしれません)