ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

第5回・小川国夫「相良油田」その②

2015-04-21 | 戦後短篇小説再発見
 ええと。前回どこまでやったっけか。体調不良その他ですっかりあいだが開いちまった。あまり時間もないことだし、寄り道しないで先を急ごう。冒頭の、教室における先生と生徒との質疑応答はさらに十行ばかし続くのだが、話題はずっと石油のことである。小学校の授業でかくも石油にこだわるのは、これが戦時中(正確にはたぶん太平洋戦争開始まぎわ)のお話だからだってことは前回述べた。石油とはもっとも重要な戦略物資なのであり(石油がなければ軍艦も海に浮んだたんなる鉄のかたまりだ)、日本がアメリカとの開戦などという自殺行為に出たのも、あえて乱暴に言ってしまえば、ようするに石油の輸入を止められたからだった。

 この短篇がそのような緊張状態を背景としていることはぜひ頭に留めていただきたい。ところで、今いったようなことは、いうならば石油ってものの科学的・社会的側面である。歴史の勉強をしてるんならば別段それでいいんだけども、しかし「相良油田」はルポルタージュではなく小説であり、しかも小川国夫の小説なのである。つまり「石油」には日常の概念とは異なる象徴的な意味が込められていると見なければならず、そうでなければ作品の奥にひそんだ凄みが分からぬままで終わってしまう。石油とは、ドロドロしていて、濁っていて、何かしら暗いエネルギーに満ち、地の底から湧き上がってくるものだ。そして、「油田」というのはまさに石油が湧いて出てくるその場所なのだ。このことを弁えておかないと、作品の魅力は半減してしまう。

 「<石油>の課の授業は四、五時間続いた。理科を六年二組に教えたのは、主任の教諭ではなくて、上林由美子という若い女教師だった。先生は長野県の上諏訪というところで生まれました、と彼女は自己紹介したことがあった。」

 冒頭の対話部分がおわり、地の文に入って最初の文章がこれである。ヒロイン登場とでも申しましょうか、先生は若い女性だったのだ(おれなんかの齢からすると「女の子」という感じだけども)。でもって、このパラグラフにつづく一連の記述は、この短篇の主人公(正確には「視点的人物」と呼ぶほうがふさわしいけれど)が小学生(それも戦前の)であることを思うといささか生々しくてドキッとする。少なくとも、最初読んだ時にはぼくはドキッとさせられた。

 「浩たちの級に、高等科の生徒から伝わってきた噂があった。それによれば、上林先生の彼氏は海軍の士官だということだった。前の土曜日の夕方、彼女が彼と並んで、青池の岸を歩いていたのを、見たものがあるということだった。(…………中略…………) 浩は青池へ遊びに行き、そこを歩いた二人のことを想像した。二人が残していった温かみが感じられる気がした。」

 なかなかに早熟な小6ではないか。青池に行ったのがたまたまなのか、噂を耳にしてわざわざ出かけたのかが気になるとこだが、だけど、まあ、これくらいは普通かねえ。「浩」というのは初期の小川さんが自分の分身として愛用していた名で、「アポロンの島」に出てくる青年もやはり浩であった。それはともかく、浩少年が上林先生に憧れ以上の感情を抱いているのは確かだけれど、いきなりその感情が、いっしゅの「三角関係」として前景化されるあたりが鮮やかである。

 すべての恋愛は潜在的に三角関係を孕んでいる、とたしか柄谷行人が夏目漱石論のなかで言っていたけれど、恋愛ってものがエディプス・コンプレックス(女性のばあいはエレクトラ・コンプレックス)を基底としているのだとすればもちろんそれはそうだろう。ただ小学生が(男女を問わず)若くて見栄えのいい異性の教師に強い憧れを抱くのはよくあることだし(かく言うぼくにも覚えがある)、それを題材にしたお話もわりあい多いと思うけれども、あくまでも三角関係を前面に立ててその模様を叙述するのはなかなか例のないことで(だって何しろ子供なんだから、本来ならそんな関係なんぞ成立しないわけでね)、そこは小川国夫の非凡さであろうと思うわけである。

 むろん浩は、少年らしい潔癖さで、その噂をたいそう不快に思っている。「彼氏」という言葉さえ、浩には汚れたものと感じられるのだが、その感情はたんにジェラシーなのかというと、それだけじゃないとぼくは思う。海軍士官の彼氏うんぬんの話のあと、ようやく上林先生の外見および人となりが語られる(ふつうはこちらが先だろう)。ここの描写はじつに清冽で、小川国夫の女性描写の見事さの一端が窺えるので、全文を引用させてもらおう。

「浩は母親から、山家(やまが)の人は肌がきれいだ、と聞いたことがあったが、上林先生はその証明のようだった。味気ないほど白く滑らかで、きちんとした輪郭を持った顔をしていた。彼女の切れ長の眼のまわりが彫ったように整っていて、曖昧な影が一つもないのが、彼には不思議な気がした。生徒から質問されると、その眼は一瞬生(き)まじめな表情になって、かえって質問した者を緊張させた。こうして、ちょっと黙ってから、彼女はゆっくり質問に答えたが、その間の表情の動きに、自然に注意が集まってしまった。彼女の短い沈黙には、磁気の作用があるようだった。」

 ようするに、きりっとしていて、清潔で、やや堅苦しいくらいに真面目な人なのだろう。いますよね、こういう女性。そんなひとが先生なら、ぼくが浩くんでもきっと好意を持ちますよ。でも、いかに早熟であろうと小6の男子ならばまだ性的にも未成熟であり、先生に寄せる思いも、憧れ以上のものであっても恋愛とまではさすがにいかない。上林先生に向ける浩の視線には、聖女を仰ぎ見る信徒のような真率さが込められている……と、自らの経験からもぼくは思う。だから浩には、「彼氏」の存在は何よりもまず、彼女の清潔さを損なうものだと思えて許しがたいのである。大げさにいえば冒涜というか……。まあ、それも含めてジェラシーなのだと言われれば、それはたしかにそうなんだけどね。

 その③につづく。