ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

21.12.19 来年の計は歳末にあり。

2021-12-19 | あらためて文学と向き合う。
 「一年の計は元旦にあり」というけれど、じっさいに1月1日の朝になってから「さて今年の目標は」などと頭を捻っている場合であろうか。これまでのぼくの経験から推して、「それではとうてい間に合わぬ」というのが正直なところである。遅くとも今くらいの時期に計画を立て、そのための準備を整えてから新年を迎える、といった按配でいくのが望ましい。とはいえ誰しも歳末は忙しいのが常で、とりあえず眼前の業務に追われて走り回るのがこの時期でもあり、なかなか思うに任せぬわけだが、むりやりアタマをひねって計画を拵えるというのでなしに、いわば自然な衝動として、「ここらでひとつ、あらためてまじめに文学と向き合ってみたい」という気持が熟してきたので、来年はこれをブログの方針にしたいと思う。


 いちおう「文芸ブログ」を標榜していながら、思えばこれまで体系立てて文学の話を繰り広げてきたわけでもなく、むしろ「物語」やらサブカルの話題に傾くきらいが強く、ことに今年はコロナ禍やらアホ五輪やらのせいで政治向きの記事も多かったし、晩春から初夏にかけては「民主主義の淵源としての民衆自治について考える。」と称して「応仁の乱」のことを超スローペースで書き継いだりもしていたのだけれど、そういったことどもの集大成……ってほどのもんではないにせよ、まあひとつの決算として、自分なりに、現代ふうに、文学というジャンルについて、文芸プロパーの狭い枠組に捉われず、もう少し豊かで幅広い視野から書けるんじゃないかな?という気がしてきたので、ちょっと試みてみたいのだった。


 もうひとつ、最近になってようやくユヴァル・ノア・ハラリ氏の『サピエンス全史』(柴田裕之 訳 河出書房新社 ちなみに英訳タイトルはSapiens: A Brief History of Humankind)を電子書籍できちんと読み、他愛もなく啓蒙されて随分とアタマがクリアになったので、これについても書いてみたい。むろん、文学についての話と『サピエンス全史』についての話はぜんぜん別物であるはずはなく、むしろ『サピエンス全史』の感化を受けて「人類史ぜんたいにおける文学の役割」へと連想が及んで「あらためてまじめに文学と向き合ってみよう」と考えるに至ったわけで、この二つの主題は緊密につながっている。


 なお、日本版の翻訳が出て大きな話題になったのを知っていながらこれまで『サピエンス全史』に手を出さなかったのは、たんに、高価だから文庫になるのを待っていたのと、もうひとつは、クリストファー・ロイド氏の『137億年の物語』(文藝春秋 原題はWHAT ON EARTH HAPPENED?)と混同していたせいである。ロイド氏のほうももちろん好著だけれど、こちらはつまり「よくできた人類史の要約」であり、大胆かつ説得力あふれる仮説によって一種の「思想書」と呼ぶべき『サピエンス全史』とは似て非なるものだった。これを今までごっちゃにしていたのは不明の至りだが、しかしこの5年のあいだ自分なりにあれこれと考えを巡らせていたからこそ『サピエンス全史』がこれほど響いたということもあり、たぶん邂逅すべき時期に邂逅したのだと思う。書物ってのはたいていそのようにして自分の手元に訪れるものである。


 という次第で、「あらためて文学と向き合う。」という新カテゴリを作ってみた。生来ひどく気まぐれなのでどうなるのか定かでないが、しばらくこちらに力を入れたい。






 



21.12.13 久しぶりにアニメの話。

2021-12-13 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽
 今年(2021)は新年そうそう『パラサイト 半地下の家族』『天気の子』と、「ほんとなら劇場に足を運んで観たかったけど諸般の事情で行けなかった映画」を地上波で放映してくれて、「ありがたやありがたや」と手を合わせながら鑑賞させてもらった。「半地下」について書きたいことは勿論あるが、そのばあい、どうしても韓国論になってしまう(ぼくは当ブログにてまだ韓国のことを正面から書いたことがない。まあ中国についてもきちんと論じたことはないが)。だからこれには結局手を着けられず、「天気の子・論」だけをアップした。1月3日の記事だ。


◎天気の子・2021.01.03 テレビバージョン感想




 そしてその記事の末尾で「アニメ断ち宣言」をやった。このところアニメに耽溺しすぎて、肝心の文学をはじめ他のことがおろそかになっているので、今年はアニメは観ないしアニメ関係の記事も書きませぬ、という趣旨だ。別にそんなことわざわざ宣言せずとも勝手にやっておればよさそうなものだが、外部から当ブログを訪問される方はおおむね「ジブリ」とか「プリキュア」とか「宇宙よりも遠い場所」とか、そちら方面がもっぱらなのである。自分としては「政治記事多めの文芸ブログ」のつもりでやっているのだけれども、成り行きからするとアニメの記事が看板になっている。それもあってそういう断り書きをしたのであった。


 たしかにアニメは控えたけれども、すっかり断ったわけではない。テレビでは、『鬼滅の刃 無限列車編』を観た。劇場版の地上波放送も観たしそれをTV用に再編集したシリーズも観た(今は引き続き「遊郭編」も観ている)。あと、金曜ロードSHOWでは『アナと雪の女王』の1と2を観た。1を観るのは2回目(最初に見た時はオラフの吹き替えはピエール瀧だった)、2のほうは今回が初見だ(地上波放送はこれが初めてだから当たり前だが)。テレビで見たアニメはそれだけである。


 ネットでは、gyaoの無料配信をこまめにチェックして、「どうしてもこれだけは」という作品だけを観た。『ヨルムンガンド』と『攻殻機動隊』だ。ヨルムンガンドは大好きだから、本放送はもとより、ビデオに撮って何度か観ている。しかしそのあと手違いで消してしまった。いっぽう攻殻は、本放送を見逃し、その後も観たい観たいと思っていながら機会を逸していた作品である。いまは第2シーズンの後半に差し掛かったあたりだが、噂に違わぬ傑作だ。第1級のサイバーパンク。作品のテーマをひとことでいえば「デカルト的懐疑」、すなわち「自我とは何か?」「«私»とは何か?」という問題に尽きるのだけれど、それをこれだけのエンターテイメントに仕立てる手腕が凄いのである。


 ぼくにとって、『ヨルムンガンド』と『ブラックラグーン』、それにこの『攻殻機動隊』を加えた3作が、アニメにおける「わがベスト3」といってよさそうだ。3作にはいくつか共通点がある。①日本の枠を突き抜けた国際的なスケールを備えていること。②「少しでも気を緩めたら命がない。」といった緊張感が全編に漲っていること。それと関連して、③「戦争」や「軍事」を含めた「暴力」を作品の主題に据えていること。などだ。傭兵やマフィアや諜報・工作機関のような現実に即した社会や国家の裏面のネタがぎっしりと詰まっている点も挙げておくべきか。もちろんこれらの要素はどれも絡み合っており、同じことを色々な面から述べているようなものだが、つまりは、さいとう・たかを(この方も今年逝去された)の『ゴルゴ13』が道筋をつけた「日本版・国際謀略エンタメ」の系譜に連なる作品群といっていいだろう。「世界名作劇場」も好きだけれど、ぼくが心底アニメに期待するのはそちらのほうなのである。


 それとは別に、社会現象となった「鬼滅」についてひとこと述べておくと、これはやっぱり歌舞伎~時代劇につらなる日本的エンタメの血脈を引く作品であろう。大ヒットの要因は数々あろうが、そこはかなり大きな要素だと思う。かなり早い時期からぼくは「プリキュアは歌舞伎だ。」という趣旨のことを書いてきたけれど、近ごろはさらに拡張して、「日本のアクション系アニメそのものが歌舞伎の血脈を引いている」と考えるようになっており、チャンバラ劇である鬼滅はその最たる例だといえる。先ごろ逝去された2代目吉右衛門ならば、あの方はとても真面目なひとだったから、「なにを戯言を……」と苦笑いされるであろうけれども、やはり大衆芸能ってものは幅広く人口に膾炙してこそのものであり、「鬼滅」のような作品こそが本当の意味で「現代の歌舞伎」と呼ぶべきものであろうと思っている。

◎雑談・プリキュアの系譜をたどって歌舞伎に至るhttps://blog.goo.ne.jp/eminus/e/f535d10b82cc384209c9bd0d86fc46cf


 ところで、ふと思えば洋邦問わずここ10年以上「実写映画」からすっかり縁遠くなっている。これはおおむね「時間」と「経費」のせいである。余暇と小遣いはほとんど本に費やすため、劇場に足を運ぶことができない。今年観た映画といえば冒頭で述べた「パラサイト」のほか、これも夏場にgyaoで無料公開していたフェリーニの『8 1/2』と『アマルコルド』、タルコフスキーの『ノスタルジア』、それとデンマーク映画の名品『バベットの晩餐会』くらいのものだ。もちろんどれも初見ではなく、それどころか、20代のころに夢中になって大いに滋養にさせてもらった作品たちだ。見返してみて新発見も沢山あったし、「若すぎて全然わかってなかったな」と反省することしきりだったが、それでもやっぱり、古いものを見返すのもいいが、いま第一線にいる活きのいい監督たちの新作を観たいなあという気持も当然ある。しかし今のところは見通しが立たず、ネットであらすじを見て頭の中で試みにカメラを回してみたり、あとはせいぜい町山智浩の映画評を読んで憂さ晴らしをしているばかりなのだった。