ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

Burial その02

2020-10-26 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽




 BurialのつくるサウンドはEDM(エレクトロニック・ダンス・ミュージック)ってジャンルに属するんだけど、これがフロアで掛かったとして、みんなが夢中になって踊れるとも思えない。チルアウト・タイム専用ってことか? しかしそれよりもやっぱり、ひとり深夜に自室で聴く(それもヘッドホンで)のがふさわしいだろう。ひとことで言えば内省的。いや思索的とすらいっていい。
 EDMのコンピレーションならyoutubeでいっぱい聴ける。聴けばもちろん楽しいのだが、じぶんがそれを好きかっていうとちょっと違う。概していえばケーハクだったり、攻撃的だったりする(あくまでも個人の感想です)。だからジャンル分けってのは必ずしも当てにはならない。つまらない純文学もあれば、人間の深奥を問い直すような凄いSFもある。そういうことだ(ここハルキ調)。
 まだyoutubeがこんなに充実してなくて、ヒットチャート外の洋楽はCDで聴くしかなかったころ、どうも自分の好みはトリップホップと呼ばれる系統らしい……と目星をつけて、少しずつ買い揃えていったんだけど、「これ、絵になぞらえたら抽象表現主義だよな。」と感じていた。
 抽象表現主義絵画(アブストラクト・エクスプレッショニズム)ってのも、興味ない人には「どれも一緒じゃん。」と映るかも知れないが、むしろ具象より如実に描き手の個性があらわになるんじゃないかと思う。まるでロールシャッハ・テストみたいに。
 その伝でいけば、ぼくのばあい、大竹伸朗がだんぜん好きで、こちらもやっぱり「大竹伸朗は広義の抽象表現主義にカテゴライズされるが、ぼくはべつだん抽象表現主義が好きってわけでもなくて、ただ大竹伸朗(のつくる作品)が好きなのだ。」って話になる。Burialの件と同じだ。
 例として、ジャクソン・ポロックの有名な絵と、大竹伸朗の絵とを掲載させていただこう。ぼくの言ってることが文字どおり一目瞭然だと思う。わざとそういう作品を選んだってところもあるが、大竹さんのほうがずっと静謐である。




ジャクソン・ポロック



大竹伸朗



大竹伸朗


 「絵画」が「現実の模写」から離れてタブロー(表象)として「自立」していくプロセスについては以前に当ブログでも軽くふれたが、抽象表現主義の絵画をそういった「現代絵画」の代表とみるならば、「音楽」のジャンルでこれに類比されるのは「無調性」だろう。
 Googleで「無調性」と検索をかけて3番目にきた「現代美術用語辞典ver.2.0 – Artscape」から引用させていただく。





無調(Atonality)

調性および機能和声に依拠しない音組織と、その作曲様式全般を指す。音楽史上では12音技法やトータル・セリエリズムの前段階として位置づけられている。リスト、ヴァーグナー、ドビュッシーなどによって、19世紀後半から調性という一種の規範がゆらぎ始めた。こうした流れを決定付けたのはシェーンベルクである。しかし、彼が意味するところの無調は単に調性を回避するための機械的な操作ではなく、不協和音をより自由に用いるための方策だった。つまり、彼はあらゆる音や和音を合目的性から解放したのである。これが調性および機能和声からの逸脱となり、結果として無調の音楽が生まれることになった。その最初期の楽曲が《弦楽四重奏曲第2番 嬰ヘ短調 Op.10》(1907-8)だ。シェーンベルクと親交のあったカンディンスキーは、ほぼ同時期に無調の革新性を自身の透視遠近法の放棄と重ね、抽象画へと進んだ。この両者の転換の歴史的符合は、当時の思潮を知るうえで非常に興味深い例である。シェーンベルクら新ウィーン楽派による「調性の超克」とでもいうべき動機とはまったく異なる次元の音楽も、無調の域に入れてもいいだろう。西洋音楽とは異なった日本音楽独自の音階を使った音楽(eminus注。ここではとうぜん武満徹などが想定されているだろう)や、電子音楽も広義の無調音楽である。のちに無調は12音技法、そしてトータル・セリエリズムへと到達し、第二次世界大戦後のアカデミックな音楽の主流となった。今日の現代音楽における創作の現場では、もはや無調が当然のこととされ、調性の有無が議論されることはほとんどない。だが、ある種のミニマル・ミュージックや新ロマン主義のように、調性を感じさせる音楽が今なお生きていることも確かだ。
著者: 高橋智子




 ここでカンディンスキーの名が挙げられているのは、ぼくの言ってることを裏打ちしてくれるだろう。
 さて、ロックってものは基本的にドミソの音楽なんで、主旋律だけならリコーダーっていうか、小学生の縦笛でも吹ける。そこにギター・リフやベースやドラムが絡んでようやく「商品」になる。
 電気を通さないロックをわざわざ「アンプラグド」と称するように、ロックってものはエレクトリカルが原則で、それはどういうことかっていうと、「音が歪む」のが発祥以来の前提となってるってことだ。そうすることで従来の和声を無効化・もしくは破壊する。
 「前衛がどうの」なんて難しいことは考えず、「カッコよさ」を追い求めるうちに、クラシックとは別のルートをたどって「現代音楽」に達したわけだ。上に引かせて頂いた一文は、「電子音楽も広義の無調音楽である。」と、ちゃんとそこを抑えている。そして現在ではさらに、パソコンの進化に伴い、「音を加工する」のが常識となった。
 加工されたサウンドはリアリズムを超えてより深い表現になりうる。これは10.08.の記事「アニメとリアリズム(雑談的試論)」にも繋がる話だ。
 マーク・フィッシャーの論旨をぼくなりに咀嚼するならば、つまり彼は、「Burialの音は、優れた文学や映画がそうであるように、今の社会の憂鬱や病理や暴力などといったものを卓抜な皮膚感覚で捉えて鮮やかに表現している。」という意味のことを言っているはずだ。音楽は、たんに聴き流したり、踊って楽しんだりするだけじゃなく、ひとつの自立した表現になりうる。







Burial

2020-10-26 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽




 Burialの名はマーク・フィッシャーのブログで知った。
 ウィキペディア(日本版)には、「ブリアル(ベリアル Burial /ˈbɛɹɪəl/)は、イギリスのロンドン出身のミュージシャン、ウィリアム・ビヴァン (William Bevan) のソロプロジェクト。」とある。
 このプロジェクト名、日本語にすれば「埋葬」だ。おいおい……という感じだが、しかし今年(2020)の62回グラミー賞を席巻したビリー・アイリッシュのブレイク曲が“bury a friend”なんだから、今やこれくらいべつにアングラってほどでもないか。
 2006に出たファーストアルバム『Burial』について、「これこそまさに僕が何年も夢見ていたアルバムだ。」とマーク・フィッシャーは書いている。ぼくがその文章を読んだのはごく最近のことで(そもそもマーク・フィッシャーのことを知ったのがごく最近なのだ)、すぐにyoutubeで聴いてみて、彼からほぼ14年遅れで、ぼくも同じ感想をもった。
 2000あたりだったか、輸入CDをよく買っていた時期があり、そのころ好きだったのがトリッキー、マッシヴ・アタックなどのいわゆるブリストル・サウンド(トリップ・ホップとも称される。厳密にいえば微妙に違うんだけどね)で、ことにポーティスヘッドの2ndはよく聴いた。ひどく荒っぽくいうと、ホラー映画のサウンドトラックを知的に再構成したような音だ。1stのアルバム・ジャケットなんていかにもそんなイメージである。(ただしぼくはホラー映画じたいは大嫌い……というかコワくてぜったい観られないのだが)。
 ほかにナイン・インチ・ネイルズも好きだった。「ダウンワード・パラダイス」はじつは「ダウンワード・スパイラル」のもじりなのだ。しかし今このアルバムを聴き返すと、まるで歌謡曲みたいに聴こえちまうからえらいもんだ。音楽業界も進んだし、ぼくの耳も多少なりとも進んでるらしい。
 ドラムン・ベースも作業用BGMとしてよく聴いた。とはいえ、「このアーティストの音さえあればほかは要らない。」とまで思ったことはない。どれも少しずつ物足りなかった。
 Burialはほぼパーフェクトに近い。Burialのもつ暗鬱と官能、脱力感と疾走感との絶妙の兼ね合い、ブルージーとノイジー、メタリックなビート、どれもが「僕が何年も夢見ていた」ものだ。


 マーク・フィッシャーは、「これこそまさに僕が何年も夢見ていたアルバムだ。」のあとをこう続ける。試訳してみよう。


「(……前略……)Burialは音の偶発的な物質性を抑圧するのではなく、むしろ前景化して、クラックル(eminus注。パチパチいうノイズ音)からオーディオ・スペクトルを創り出している。かつてトリッキーやポール(eminus注。ベルリンを拠点に活動するダブ・テクノの大御所Stefan Betkeのソロプロジェクト名)のcracklology(eminus注。造語。パチパチ音の美学。みたいな意味)は、ダブの唯物論的な魔術をさらに発展させて、録音の継ぎ目を裏返しにして聴かせ、それがぼくたちを歓喜させた。ペンマン(eminus注。イアン・ペンマン。癖の強い文体で知られるイギリスの音楽批評家)が「録音の抑圧や歪みではなく、ノイズ音自体が、われわれが感知できぬなりに存在している何かの正しい表現であるかのように」と評してるとおりに。しかしBurialのサウンドは、トリッキーのブリストルの水耕栽培のような熱気や、ポールのベルリンのじめじめした洞窟じゃない。プレスリリースは、「近未来の水没した南ロンドンの街を連想させる。」と言っている。「パチパチというクラック音は、燃えている海賊ラジオからの音なのか、あるいは窓の外の水没した街の土砂降りの音だろうか。」と。


 引用をもうすこし続けよう。


「近未来か……なるほど。だけど、この不毛な春に湿った霧雨の降る南ロンドンの通りを歩きながらBurilを聴いてると、この音こそがまさしくロンドンの今なんだって気づく。過去だけでなく失われた未来に取り憑かれた街を暗示しているのだ。つまり、近未来じゃなく、手の届かない未来の痛みの疼きに悩まされている街を暗示してるんだ。」







 ちなみにこの「失われた未来」というフレーズは、マーク・フィッシャーの日本における紹介者の一人でもある木澤佐登志さんが気に入っていて、連載エッセイのタイトルにも採用している。




 マーク・フィッシャーの文章はこのあとも続いて、だんだんと凄いっていうか、深いところに入っていくんだけど、どうもgooブログにはそぐわないので、フィッシャーについてはまた気が向いたらnoteにでも書くことにして、次回はもう少しBurialの話をやりましょう。
















20.10.22 akiさんとの対話。ひきつづき、仏教のこと。

2020-10-22 | 哲学/思想/社会学


10.16の記事「バナナフィッシュと、まどマギ。そして仏教のこと。20.10.19 加筆」からの続き。

☆☆☆☆☆☆☆


20.10.18
ぼくからのご返事
「信念ってほどではないですが。」




 ぼくのほうは、「自分の信念」を述べているという程ではないんです。「わからない。わからない」と言ってるだけで(笑)。
 親鸞という僧は日本の文学者にことのほか人気がありますね。倉田百三、吉川英治、丹羽文雄といった方々の作品は有名だし、近年では五木寛之さんが長編を上梓しましたね。哲学者でも、西田幾多郎をはじめ、田辺元、マルクス主義に近かった三木清、明らかにマルクス主義者だった服部之総といった人まで、おおむね晩年になると親鸞に惹かれていくんですよ。
 三木清は投獄されて非業の死を遂げたんで、結果として遺稿になってしまったんだけど、彼の「親鸞」は素晴らしいエッセイです。
 前回名前を出した吉本隆明も、もともとマルクス主義者なんだけど、「いちばん影響を受けた思想家は親鸞です。」と講演ではっきり言ってますね。
 梅原猛が、こういったことを踏まえて、「親鸞は、日本人の精神的な故郷であると、私は思う。」と書いているほどで。
 ぼくなんの理解だと、親鸞の教えとは、仏教というものをできうるかぎりぼくたち庶民のふつうの暮らしに近づけた……というか、根付かせたというか、息づかせたというか、そういうものであろうと思っています。あと、阿弥陀如来が西方浄土におわして臨終の際に衆生を迎えに来てくださるとか、「本願」とは「大無量寿経」にある四十八願のうちの十八番目のもので、それが「絶対他力」の由来であるとか、そういったことも知識としては持ってはおります。
 もちろんまあ、すべては手当たり次第の雑読によるごった煮で、仏教にしても、原典を含めて体系的にきちんと学んだわけではなく、例によって入門書やら啓蒙書を読み漁っただけですが(さすがに薄い岩波文庫の『歎異抄』だけは読みましたけど)、どうも自分の傾向としては、わが日本の仏教よりも、より哲学的に堅牢なインド仏教のほうに興味がいっちゃうんですね。なぜなら理詰めで追いかけやすいから。


 そういったなかで少しずつ自分の裡に育っていったのが、前回書いた、




「広大無辺で崇高な宇宙意思のようなもの……というか現象……を指して「仏」と仮初めにお呼びしている。」




 というイメージなんですが、しかしこれもあくまで心象であって、とてものことに「信念」と呼べるほどのものではありません。あえて無理やりに分類するなら「華厳」の教えに近いかと思うし、ここでいう「仏」とは大日如来がいちばん近いかと思うんですが、まっとうな信徒の方からは「とんでもない。」と言われるだろうし、やはり「よくわからない。」というよりないですね。
 もし「無神論者」というのをもっともシンプルな意味での「唯物論者」だとするならば、自分はけっして無神論者ではないですが、「じゃあなに教? 宗派は?」と訊かれたら、「いや……えーと……」と口ごもるしかないという……なんというかまあ、そんな感じでずっとやらせてもらっておりますが。




 そういうわけで、「信念」というほど筋金の入ったものではまったくないんですけども、身体感覚っていうか、からだのなかにわだかまっている感じとしては、「死」を恐れるって気持ちは今はあんまりないですね。
 生噛りの仏教用語を使わせていただくならば、すなわち生命活動の終わりにともない「五蘊」が霧散して「空(くう)」に還るというイメージでしょうか。まさに無常です。ただしそれは全き虚無ってわけではなくて、「広大無辺で崇高な宇宙意思」の懐ろに戻るだけなので、しょうがないわなあ、という感じです。
 くどいようですが、それが信念ってわけではないんです。ばくぜんたる思いでしかなくて、それを「安心立命」と呼ぶわけにはいかぬだろうけども、今のところはそれで充分というか、とくに支障を覚えないんで、当面はこんな塩梅でいくのでしょう。
 「もとより教義も、聖典も、先導者もない。」というところは暁美ほむらさんに似てますが、「全身全霊を挙げて没入する。」わけではないというところは違っていますね。
 それでも、ユダヤ教やキリスト教やイスラームに比べれば、まだ「自力」よりは「他力」に近いと思うんですけども、そこはやっぱり、「一緒にするな。」と言われるかもしれません。
 とりあえずこちらからは以上です。


☆☆☆☆☆☆☆




20.10.18
akiさんからのコメント
「無常観と罪悪観」






>「広大無辺で崇高な宇宙意思」の懐ろに戻る




 ・・・アルティメットまどかによる「円環の理」ですね。間違いないw








 てなわけで、こんばんは。
 流石多読家でいらっしゃいますね。『歎異抄』も読んでおられましたか。確かに明治以降、多くの作家や思想家が親鸞聖人に魅せられていて、それは『歎異抄』に依るところが大きいんですが、この『歎異抄』は「剃刀聖教」と呼ばれ、仏法に縁の浅い者が読むと大きな誤解を引き起こし、危険である、という理由で、本願寺8代目の蓮如上人は「この書物は仏縁の浅い者に読ませるな」と注意書きを施しています。それが世に出てしまったものだから、さあ大変。親鸞聖人に関する誤解が世に蔓延してしまいました。




 とはいえ、自力の者にとって他力信心とは宇宙人の言語よりも理解不能なもの(そもそも人間の知恵で理解できるものなら「真の救い」にはならない)なので、親鸞聖人の教えの全象を理解することは、たとえ学者であっても難しいと思います。学者は人知を尽くして真理を探究するのが仕事ですから。人知によってわからないものはわからない。そういうものだと思います。




 今回お話しくださった、「円環の理」・・・じゃなかった、「宇宙意思」というのは仏教で言うと「曼荼羅」に近い考え方のことかな? 確かにこちらは大日如来が中心になってますね。まあ私は多読家どころか希読家なのでジャンルが少しずれるだけでたちまちわからなくなってしまいますw
 ただ、仏教で「他力」とは「阿弥陀仏の力のみ」を言うので、それ以外の一切は自力です。華厳も天台も真言もすべて自力仏教ですね。「宇宙意思」も自力に分類されるべきでしょう。
 ただそれも、仏教本来の目的・・・迷いからの解脱を果たし、涅槃に至る・・・を求める上ではじめて問題になってくるもので、やはり宗教的な教義はまずそれを求める者の心が出発点だと思います。




 仏道を求める者にとって、出発点となるものは「無常観」と「罪悪観」だと言われます。このうち「無常観」は現在でもよく言われますが、「罪悪観」の方はほとんど言われませんね。恐らく、「罪悪観」はそのまま「死後の地獄」に直結する考え方なので、死後を認めない現代文化の中では無視されてしまっているのでしょう。だから根本のところから仏教を理解することができない。その立場から親鸞聖人の教えを見たとしても、全象どころか「門の入り口」すらも見えないと思います。








 バナナフィッシュの話からえらく話題が飛んでしまいましたが、まあとりあえず。(^^)




☆☆☆☆☆☆☆


20.10.19
ぼくからのご返事
「それが信念と呼べるのならば。」




 まあ「懐ろに戻る」ってのは甘すぎましたかね(笑)。エヴァの旧劇場版とか、ポニョのラストみたいでね。母性原理にどっぷり、というね。胎内回帰願望の変種と見られても仕方ありますまい。ほんとはそっちは大事ではなくて……
 「私(/自己/自我)」が霧散する……というほうが肝なんですよ。いま自分を認識している「私」が無くなるんだから、べつに後はどうでもいい……というか、どうなっても知覚できないぞと。ただ、だからといって「虚無」ではないぞ、と。そんな塩梅なんですけども。
 「円環の理」となったまどかは「神」ってよりもむしろ「仏」……というか如来……のイメージだよなあ……というのは前々から思ってましたね。でも、彼女が救うのは「魔法少女」だけですからね。なんかムキになって言い募るのもアレですけども(笑)。
 「宇宙意思」なんて書いちゃったのは、苦し紛れというか、「筆が滑っちゃったな」って気分なんですが、なんらかの実体じゃないんです。あえていうなら現象ですね。
 曼荼羅を思い浮かべたら、図像としては確かに近いのかも知れませんけど、ぼくたちが一枚の静止した図版として見ているあれではなくて、ものすごい勢いで流動・変異・生滅を繰り返しているわけです。一瞬たりとも留まっていない。そもそも2次元で表されるものでもない。3次元、4次元、あるいはもっと上の次元まで絡まってくるかもしれない。
 そういう現象のごく一部というか、ほんの一局面として、いま自分が認識している「私」ってものがたまたまここに在る。でもそれは、全体からみればまさに「一刹那」でしかなくて、時が満ちればまた流動・変異・生滅のなかに巻き込まれて、全体のなかに還っていくわけです。
 こういうビジョンっていうか、「宇宙観」みたいなものは、セム教系(ユダヤ教、キリスト教、イスラーム)からは出てこないんで、やはりインド仏教……というかインド思想の影響ですね。そこに、よく分らぬまま読んでいる現代宇宙論なんかも混じってるんですが、もちろん「科学」ではまったくないし(実験によって観測/証明できないので)、かといって教義を形作るまでには至らないから「宗教」でもない。やはり「文学」と呼んでおくしかないのでしょう。埴谷雄高なんて人は、そんな調子の奇ッ怪な「小説」を書いてましたけども(ぜんぜんスケール小さいですけどね、言わせてもらえば)。
 それで、まあ、そんな「宇宙観」を持っていて実生活で何の役に立つのか、と言われたら、それはもちろん何の役にも立たないんですが(泣)、「葬式は無用。戒名は論外。墓も要らない。お骨は散骨。それが難しければ樹木葬で」ということはつねづね周囲に言っているし、口で言いおくのみならず、正式な書面にして残しています。もし「信念」という言葉を使うなら、これが自分の信念ですね。




 蓮如さんが封じた『歎異抄』を明治になって紹介したのは清沢満之ですね。江戸時代にも「秘本」というほどの扱いではなかったと聞いておりますが、これだけ広まったのは清沢満之の功績(?)でしょう。
 『教行信証』も岩波文庫で出てるんですが、ぼくはそちらを読んでないんで、大きなことはいえないんですけど、蓮如さんが危惧した理由というのは、主に①「ただ念仏を称えされすればよい、と安直に解されるから」と②「悪人正機説が混乱を招くから」ということでしょうか。
 「他力」ということは、もちろんぼくにもわからないですけど、これはおそらく『教行信証』を読んでもわからないだろうし、そのことで誤解なり曲解が広まることを危惧されたというようには思えないんですよね……。
 ともあれ、いちおう文学史や思想史に名を留めるほどの作家なり著述家たちならば、『教行信証』はもとより、基礎的な文献はきっちりと読み込んでると思います。ぼくとは違って。
 ところで、ぼくは清沢満之の書いた短い文章を目にしたことがあって、けっこう好感をもったんですけど、「拭いがたい煩悶苦悩がまずあって、それ故に信仰を求めた。」という意味のことを述べてましたね。これはakiさんの仰る動機にかなっていると思うんですね。
 「いろいろと思索するうちに、何が善でなにが悪か、何が真理で何が偽りか、何が幸福で何が不幸か、そういった事どもがわからなくなって、にっちもさっちもいかなくなった。」というようなことを、清沢満之は書いておりました。
 「死」とか「死後」への不安ということは、そこには書いてなかったです。だから、ゆくゆくはとうぜん、「死」の問題も織り込まれてくるとは思うんだけど、ひとが「信仰」を欲する際に、とりあえず「いかに生くべきか?」という切実なる問いが機縁になるのはけして珍しくないと思うんですよ。
 ちょっと話が後戻りして、申し訳ないんだけど、だから劇場版「叛逆の物語」の暁美ほむらが「円環の理」となったまどかに抱く感情を「信仰」と呼ぶのはアリなんじゃないかな……とはまだ思っています。まあ、ほむらのばあいは魔法少女になった時点で既に「死んで」いて、本人もそれを知ってるという特殊な状況なわけだし、それ以前にそもそも、フィクションのキャラクターにあまり入れ込んでどうこういうのもアレなんで、この件は保留にしておきましょうか(笑)。




 罪悪観ですか……。お釈迦様の説いた10悪とは、貪欲・瞋恚・愚癡、綺語・両舌・悪口・妄語、殺生・偸盗・邪淫ですね。これらがあんまり取り上げられないのは、誰にとっても身近すぎるせいではないでしょうか。こころでおもうこと、口でいうこと、それすらも悪であり罪でありというならば、これに抵触せずに社会生活を営むことはほぼ不可能のように思えます。さすがに殺生・偸盗・邪淫はいささかハードルが高い(?)ですけども、「殺生」が「生き物の命を取る」こと、「偸盗」が「他人の利益を何らかの形で奪うこと」、「邪淫」が「みだらな行為に耽ること」であると拡張解釈するならば、これもまた、誰しもが身に覚えのあることでしょう。これらの業を為す者たちがみな仏道に無縁というならば、ほとんどが「縁なき衆生」になってしまう。とても峻厳な教えだと思います。
 その厳しさを和らげて、ぼくたちみたいな凡夫凡婦にも近寄りやすくしてくださったのが、すなわち親鸞聖人であるとぼくは長らく思ってたんだけど、これは俗流の解釈だったんでしょうか。
 というわけで、自分なりの「宇宙観」から、仏教についてふだんギモンに思ってることまで、長々と書いてしまいましたが、ブログといえど、こういう折でもなければこんな話をすることはまずないんで……。質問については、差支えのない範囲でお答えいただければ結構ですので、またお暇なときにでも、よろしくお願いいたします。


☆☆☆☆☆☆☆


20.10.22
akiさんからのコメント


仏教の峻厳さ
 こんにちは。多忙にかまけてお返事遅くなりました。<(_ _)>


 どうも「信仰の対象」を重視する考えからか、「宇宙意思」の方に目がいってしまってましたが、なるほど、「私が霧散する」ですか・・・。
 確かに今私が知覚している「私」はこの肉体がなければ知覚できないものですから、死と共に消滅しますね。でも、それですべてが「無」になるわけではなく、仏教においては「阿頼耶識」と呼ばれる「輪廻転生する真の自己」は残り、自ら為した行い=業の力によって次の生へと転生する。この辺はeminusさんもご存じだと思いますが。
 同時に、今見ているこの世界は死と共に認知できなくなり、私にとってこの世界は死と共に消滅します。ここまでは、人知によっても想像できる。でも「死後の転生」となるともうお手上げ。人知によっては絶対に知ることはできないでしょう。
 だからこそ、人生にとって「死」こそが最大の問題事であることになるわけですが。


 『歎異抄』に関しては、名文であり、かつ親鸞聖人が高弟の唯円に対して(つまり教えを分かっている相手に対して)ご自身の信心を赤裸々に吐露された言葉が記録されているわけで、やはり抗いがたい魅力があるんですよね。「仏縁浅い者に読ませるな」ということは、「仏縁深き者は読んでよい」ことになりますので、「間違った教えが説かれている」ということではありません。
 ただ、誤解しやすい箇所がいくつもある。eminusさんがおっしゃった「ただ念仏して」とか「悪人正機」はその最たるものですが、他にも「親鸞は父母の供養のために念仏称えたことはない」とか「喜ぶ心が起きないのは煩悩のせい」とか、誤解を生じやすいところはいくつもあります。仏教を誤解させるということは、その人の「後生の一大事」に関わる重大事なので、「仏法をよく知らない人に見せてはならない」と言われたのだと思います。




>その厳しさを和らげて、ぼくたちみたいな凡夫凡婦にも近寄りやすくしてくださったのが、すなわち親鸞聖人であるとぼくは長らく思ってたんだけど、これは俗流の解釈だったんでしょうか。


 仏教の峻厳さはおっしゃる通りで、心まで見れば全人類、罪人でない人はいなくなります。
 親鸞聖人も、「罪悪深重」とか「極重悪人」とか、歎異抄にも我々凡夫の罪悪の深いことをはっきり言われています。この峻厳さが分からなければ、仏教は到底わかり得ず、当然親鸞聖人の教えもわかりません。
 「縁なき衆生」とおっしゃいましたが、仏教に照らせば全人類は縁なき衆生、助かる縁手掛かりの尽き果てた者です。
 そういう者を救う、というのが阿弥陀仏の本願なのですが、我々は自惚れて「いや求める心くらいはあるだろう」と錯覚し、「助かる縁なきお前をそのまま救う」という弥陀の呼び声をはねつけている。これが「自力の心」です。
 この自力の心を捨てた時(正確には阿弥陀仏の本願力によって捨てさせられるのですが)、弥陀の「そのまま」という呼び声が届き、他力の信心に生まれ変わるのです。
 この自力と他力が切り替わる時を「一念」と言い、あっという間もない一瞬のことだと言われます。


「一念というは、信楽開発の時尅の極促をあらわす」


 と、『教行信証』にあります。




 なんとまあ、凄まじい教えです。
 要するに「地獄しか行き場のない我が身」が徹見されると同時に、「極楽行きまちがいなし」と生まれ変わるわけですから、人知など軽く飛び越えて想像すら及びません。
 さらに、「地獄一定」であることは、他力の信心を得てからも寸分変わりません。生きている限り煩悩が消滅することはありませんから。すなわち、他力の信心の人にとっては、「地獄一定」と「極楽一定」が同時に明らかな事実として矛盾なく存在します。だから念々に懴悔と歓喜が同時に起こる。そして、「地獄一定」が徹見されていますから、最早どんな悪も恐れる必要はなく、往生の妨げにはなり得ない。これほど安らかなことはありませんから、「易行」と言われるわけです。ですが、「自力を捨てて他力に帰する」教えは難信であり、だからこそ親鸞聖人も真剣な聞法を勧めています。


「たとひ大千世界に満てらん火をも過ぎゆきて仏の御名を聞く人は永く不退にかなうなり」(浄土和讃)


 大宇宙が火の海になってもそこを突破する覚悟で仏法を聞け、ということです。


 これに対し、自力仏教は峻厳さを自分の修行によって乗り越えて行く教えですから、「難行道」と言われます。おっしゃる通り、凡夫にとっては遥か雲の上の教えであり、とてものことに実行できるものではありません。その意味で、親鸞聖人が「凡夫にも近寄りやすくしてくださった」というのは間違いではないと思いますが、ただし厳しさがないわけではない。もしかしたら、そこが一番誤解されている部分かもしれません。




☆☆☆☆☆☆☆




20.10.22
ぼくからのご返事
「峻厳さを和らげる。ということ。」




 ていねいなご返事をいただき恐れ入ります。込み入った話なので、1週間やそこらは空いて当然です。こちらもそのかんに色々と考えますんで(笑)、そこはお気遣いなく……。
 阿頼耶識ですね。ぼくの宇宙観(?)にはいくらか唯識論の影響もあるかもしれません。ただし、我流の工夫を加えることで、自分の口に合うよう味を調えているわけですな。禅でいうところの「野狐禅」ってやつでしょうか。褒められたことじゃないのは承知してますが、いかに伝統に裏打ちされた教えであっても、自分なりに料理しなければどうしても喉を通らぬ性分なので……。
 自己流だから、前にいったとおり「信念」ってほどではなく、流動性はあります。おおまかな方向はこの先も変わらぬと思いますが。
 「肉体」に対置されるものとして、「心」「意識(仏教用語ではなく、ふつうに使う意味での)」「真の自己」、あるいは、akiさんは周到にその語を避けてくださっているのかもしれませんが、「魂」、そういったキーワード(キーコンセプト)がありますね。むろんこれらはきちんと微分してゆけばそれぞれに異なる事象ですが、ここでは簡素化のために「ほぼ同じもの」として扱います。今回は「こころ」と名付けておきましょうか。
 前回アップしたカントの「超越的」の話にも関わってきますが、絶対不変の揺るぎない「本質」ってものが厳然として存在する。という考えは洋の東西を問わず普遍的にありますね。それともうひとつ、「心身」を截然と2つに分かつデカルト(1596 文禄5/慶長1~1650 慶安3)の「二元論」ってものもあります。これは哲学史においてもずっと批判されてきたし、近年では、60年代アメリカから起こったニューエイジの運動の中で、手ひどく攻撃されました。
 それでもやはり、ぼくたちがふだん物事を考えるとき、どうしたって、しぜんに依拠する発想であるのも確かです。基本的な前提というか。
 ぼくなりの宇宙観ってやつは、大胆不敵にも(笑)、これらの基本的な前提に抗うもので、「肉体」と「こころ」とは不可分というか、渾然一体なんですよ。別の名まえで呼んでいるのは、あくまでも便宜上でしかない。
 だから前回述べた「ものすごい勢いで流動・変異・生滅を繰り返している。一瞬たりとも留まっていない。」とか「それがたまたまここに在るのは、全体からみればまさに一刹那でしかなくて、時が満ちればまた流動・変異・生滅のなかに巻き込まれ、全体のなかに還っていく。」ってのには、いうところの「肉体」だけでなく「こころ」も自ずから含まれるわけです。
 「肉体」だけならば、仮に原子や、さらに素粒子のレベルまで降りても、所詮は(というのもヘンですが)3次元、せいぜい4次元までの世界でしょう。つまり「物質」だけで構成される世界の話。でも、ぼくなりの宇宙観においては、「こころ」もまたその流れのなかにあるわけだから、量子力学まで拡張しても、たぶん現行の物理学では説明がむずかしい。それで、「もっと上の次元まで絡まってくるかもしれない。」と述べた次第でして。
 いやいや、改めて振り返ると、これでは「唯識」の思想からもかなり隔たっていますね。「自分の口に合うよう味を調えている」なんてレベルではない。やはり「野狐禅」なんでしょう。とはいえ、今のところは、これがいちばん自分のからだに心地よくて、しっくり馴染む宇宙観であります。


 ぼくは正直、子どもの頃から「死への怖れ」というのははなはだ希少だったんだけど、「今ぽっくり逝ったらもう本が読めないなあ。もうちょっと経験を積んで本をたくさん読んだらもう少し利口になれるのになあ。残念なことだなあ。」というようなことは昔からしょっちゅう思ってましたね。でも、上に述べたような「宇宙観≒死生観」に思い至ってからは、そういう執着も薄れました。まあ、たんに齢を取っただけのことかもしれないんですが。
 とはいえむろん、ことさら達観してるってわけではなく、もし窮地に陥ったら浅ましくとことん悪あがきするでしょう。そういう意味では今もなお、「死」こそが最大の問題事であるには相違なく、だからこそ「文学」なんて迂遠なものにかかずらって、右往左往しているわけですが。


 前に述べたとおり、吉本隆明という人が「僕がいちばん影響を受けた思想家は親鸞です。」と生前に公言していて、ぼくは10代の半ばから20代のはじめにかけてこの吉本隆明に「いちばん影響を受けた」ので、岩波文庫の薄い『歎異抄』と、あと関係文献を何冊か読みました。まあ、「仏教史」なり「日本思想史」の入門書/啓蒙書をひもとけば、親鸞さんは必ずやお目にかかるお名前ですしね。『教行信証』にまで手が届かないのが、ワタシの甘いところなんですが。
 吉本さんはマルクス主義者で、60年代の「政治の季節」には大きな影響力をもちました。その著作はきわめて難解にもかかわらず、文章は独特の魅力を放っており(吉本さんは詩人でもあります)、過激なアジテーションとしても読まれたわけです。この人の本に感化されて激しい運動に身を投じ、命を落としたり、一生を棒に振るような傷を負ったりした人もおられたと聞いております。
 そのような吉本さんが、80年代後期、のちに「バブル」と呼ばれることになる時代になると、コム・デ・ギャルソンのスーツに身を包んで(もちろん編集部が用意したものですが)「アンアン」のグラビアを飾ったり、アニメやマンガやCMを論じたり(いま思うとサブカル批評の草分けの一人でもありました)、RCサクセションのライブに行って体験記を書いたりしたのです。「高度大衆消費社会」を完全に肯定したわけですね。古い左翼仲間の文学者などは、「何をやってるんだ。資本主義の走狗に成り下がったのか」などと、いかにもそういう際にそういう方々が言いそうなことを言って非難しました。
 吉本さんは『最後の親鸞』という論考を遺しており、これは今ちくま学芸文庫に入ってますが、文庫化されてからも20年近く版を重ねています。学芸文庫は売れ行きの芳しからぬものはすぐ品切れ扱いにするので、よく出ているんでしょう。ほかに、中公文庫で『親鸞の言葉』を出していますし、やはり政治運動から華麗に転身してバブル時代の寵児となった糸井重里氏と共に、新潮文庫から『悪人正機』という本も出しています。ぼくは『最後の親鸞』をずいぶん前に読んだきりで(いま手元になくて残念ながら読み返せないのですが)、ほかの本には目を通してないんですけども。
 ぼくが知ってるかぎりでは、吉本さんが自らの「転向」(と呼んでいいとぼくは思うんですが)を親鸞さんに結んで正当化したことはないです。でも、ふつうに見ている分には、吉本さん、ひいては糸井さんの親鸞に対する傾倒には、ニッポンが豊かになっていくのに合わせて、自分たちのかつての政治理念……すなわち、「オレたちの手で世の中(社会)を根底から革めるのだ!」という信条……を放擲してしまったことへの慚愧の念(という言葉は少し重いかもしれませんけど)がまったくないとは思えないんですよ。
 akiさんは吉本隆明にも糸井重里にもさして興味はないでしょうから、こんな質問はご迷惑かもしれませんが、とりあえず「悪」や「罪」というほどの話ではなく、いわば「責任」の問題として、上で述べたことにつき、どのようなご意見をお持ちになるでしょうか。

 最後になりますが、このたびのコメントの後半部分を読んで、やはり「他力」がわからぬことは同じですが、少なくとも理屈のうえではごく僅かながら理解が進んだように思います。吉本さんの話ともいくらか関係があることとして、自分なりの言葉にしてみると、こういう具合になりました。
 「大いなる存在に己を委ねたからとて、やすやすと安寧に陥り、怠惰を貪るのではなく、表向きは穏やかではあっても、内には常に適度の緊張感を保ち、身を慎んで日々を送るべし。」
 いかにも俗っぽい解釈になっちまった気もしますが……。上の件と合わせて、よろしければ回答をお待ちしています。1週間やそこら、いや別にもっと空いてもぜんぜん構いませんので。




この記事の続き。
20.11.05 akiさんからのコメントと、ぼくからのご返事「私という現象。あと少し吉本隆明のこと。」
https://blog.goo.ne.jp/eminus/e/21a83c31e85dbc41eeff7abdccabbf3c








超越的(transzendent)と超越論的(transzendental)について、できるかぎり自分のことばに訳してみました。

2020-10-21 | 哲学/思想/社会学

ごらんのとおり、たいそう真面目な人だったのだが、いっぽうではなかなかの社交家で、ひとかどの名士であったとか






 イマヌエル・カント(1724 享保9 ~1804 享和4/文化1)の用語。


 というわけで、まずはカント哲学のキーワード(キーコンセプト)から。






◎カントは人間の認識能力を3段階に分けた。


 ①感性……人間が自分の感覚(≒五感)を通じて事物対象を表象として受け取る能力(直観にもとづく能力)。
 ②悟性……上のごとき感性的直観による表象を統合して、判断へと結び付ける能力。
 ③理性……その判断された諸対象から、さらに推論を重ねて世界の全体像に迫っていく能力。


 さらにカントは、「物自体」なるキーワード(キーコンセプト)を措定する。
 これは、古代ギリシャのエレア派・プラトン・アリストテレスらによって紡がれてきた「イデア・形相」ないしは「ウーシア」(本質存在)の概念、また、それを継承した中世のキリスト教神学(スコラ学)における「神」の概念、すなわち、「じっさいに体験することはできず、ただ理性を働かせ、論理を突き詰めることでのみ接近し得る実体/本質」という西洋思想史に特有の伝統的な発想/概念の延長線上にあるもので、それを彼の哲学の枠内で表現したキーワード(キーコンセプト)といえる。
(他の文化圏でこれに似たものとしては、インドの説一切有部等の部派仏教における「ダルマ」(法)がある。)
 「人智の及びがたく、五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)によっては捉えられぬもの」、あるいは「《経験》によっては捉えられぬもの」といってもいい。


 《経験》によって捉えられる(経験の対象となりうる)のは、あらかじめ所定の形式(時間、空間、および何らかのカテゴリー)に即して構成されたもののみ。そして、この「構成されたもの」をカントは「現象」と呼ぶ。つまり上で述べたとおり、「物自体」はけっして知覚できないが、しかし人間の「感性」を通じて「現象」としてあらわれる。ってことになる。






 このように、「経験可能な領域を超え出ているもの/こと」をカントは「超越的」という(これはぼくたちの語感に照らし合わせてもわかりやすい使い方だろう)。いっぽう彼は、その超越的な事柄の「認識」そのもののありようについて考える自らの哲学的立場を「超越論的観念論」と称した。つまり、カントにおいては、どのようにしてわれわれは「超越的」なるものを「現象」として「経験」し、ひいては「認識」する/できるのか。というプロセスがとても大きな主題になった。ということだ。
 上で少しふれたとおり、一般に「ある領域を超えてその外にあること」を「超越的」という。今のばあい、「経験の領域を超えてその外にあること」を「超越的」といっている。その反対が「内在的」で、当の領域の圏内にあることを意味する。今のばあいは、経験できる範囲にあるということだ。
 だからこういっていい。「超越論的」とは、「内在的」でも「超越的」でもない、いわばその双方の関係性についての議論であり、「超越論的観念論」とは、「内在」のサイドから「超越」の彼方へとかかわる仕方をできるだけ綿密に考えるメソッドである。




 補足)
 「現象」というキーワード(キーコンセプト)を受け継いで発展させたのは同じドイツのフッサール(1859 安政6 ~1938 昭和13)で、彼はその名も「現象学」なる哲学上の一派を打ち立てた。現象学では、「ある対象がわれわれの意識を超えて外部に存在するありかた」が「超越的」と呼ばれ、「そのありかたが主体の意識そのものにどのように構成されるか」という一連の問題が「超越論的」と呼ばれる。







バナナフィッシュと、まどマギ。そして仏教のこと。(20.10.19 加筆)

2020-10-16 | 哲学/思想/社会学

 10月2日の記事「「謎解き・バナナフィッシュにうってつけの日」完結しました。」にakiさんから頂いたコメントへのご返事。


 akiさんから仏教の話をじっくりお伺いしたいなあとは以前から思ってるんですけどね。せっかくnoteにアカウントを作られたことだし、とりあえず雑談というか、エッセイ風の感じでもいいんで、よければひとつお願いします(笑)。
 前にもご返事のなかで述べましたが、サリンジャーは東洋思想にも浅からぬ関心をもってたんですよ。当時のカウンター・カルチャーの潮流の一環で、「造詣が深かった」といえるほどのレベルじゃなかったですけども。
 しかし、かつて河合隼雄氏と並んでユング思想を日本に紹介した秋山さと子さんが(秋山さんは実家がお寺です)、サリンジャーにずっと興味をもっていて、「サリンジャー・禅・ユング」という三題噺のようなエッセイを書いておられます。表層的な知識の多寡はともかく、サリンジャー文学と仏教とは、深層において相通じるところがあったのではないでしょうか。




 仏教には、ふつうに今ぼくたちが使う意味での「愛」の概念ってないでしょう。むしろ「愛」という語は否定的なニュアンスを帯びる。「仏の愛」とはいいませんもんね。そこは「慈悲」というところでしょう。
 ともあれ、仰るとおり「そもそもの定義は」ってところからして、「愛」を考えるのは難しい。ぼくがこれまで読んだなかでは、エーリッヒ・フロム『愛するということ』(紀伊國屋書店)の、




「愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることである。この積極的な配慮のないところに愛はない。」




 というのがいちばん得心いったんですが、理念としては明瞭でも、いざ、じっさいの生活で実践するとなるとね……。
 これを暁美さんと鹿目さんのケースに当てはめてみると、暁美さんのほうは、少なくとも彼女の主観においては、鹿目さんの「生命と成長を積極的に気にかけ」ていたはず。だからこそ映画版「叛逆」のラストにおいてあのような挙に出たわけですが、それが「正しい」行いであったのかどうかは誰にもわからない。むしろ「正しさ」の基準そのものが問われているような感さえあります。
 そこは暁美さん本人もそうとう悩んでるんですよ。悩んでる様子もちゃんと描きこまれてます。そのうえで、覚悟を定めて、「これがまどかにとっての幸せだ。と私が信じる世界にまどかを連れていく」と決断を下したんですね。




 ぼくはほぼ1年まえ、19.10.04にアップした記事の中で、「映画『叛逆の物語』に「信仰」の濫觴を視た。」という意味のことを書いたんですが、
https://blog.goo.ne.jp/eminus/e/223df2005c394e08ba482f8206525d71
それこそがつまり、今回akiさんの仰った「常人離れした一途さ」ですね。あるいは、そう、「思い込み」。だからほむらの「愛」は、仏教でいうほうの「愛」に近いんでしょう。
 あえて名付ければ「執着」とか、さらには「妄執」にすらなってしまうのかもしれないけれど、この情熱こそが、じつは「信仰」の根源じゃないか。ただもう激烈に「対象」を求め、あげくはそれを聖化して崇めるまでに高まった感情。もとより教義も、聖典も、先導者もない。何ひとつ頼れるものはない。そういったものとは関わりなく、自分の欲動の赴くままに、全身全霊を挙げてその対象に没入する。そうすることで己を支える。そうすることでしか、己を保持することができない。
 それくらい切羽詰まった思いのたけ。それが信仰のはじまりではないか。むろん、それは傍から見れば幻想でしかないんですけど、本人はそんなの知ったこっちゃないわけです。













 まあ、まどかのばあいは、お話のなかでほんとに「神」になっちゃってるわけですけども(笑)。








 しかし「救い」ということでいうならば、ほむら自身はぜんぜん「救われたい」なんて思ってないですね。むしろ自分から救いを拒んでますから(笑)。
 ほんらい「信仰」とは救いを求めるものではないと思います。というか、そもそも一切見返りを求めるものではない。信じなければ自分を支えられないから信じる。崇めなければ自分を保てないから、崇める。
 そういう点でも、ほむらのまどかに対する感情は、もっとも素朴な……言い換えればもっとも純粋な……「信仰」じゃないかと感じます。






 テレビ放映された全12話を踏まえたうえでの『叛逆の物語』の物語構造は、こじつけでもなんでもなしに、「バナナフィッシュにうってつけの日」によく似てます。「啓示」を受けて「再生」を果たし、めでたしめでたしかと思いきや、一転して「負」の方向に転げ落ちる……。アイロニーですね。それはすなわち、サリンジャーも虚淵玄も「現代のクリエーター」だということでしょう。軽々しく「救い」を描くことはできないわけです。








 それにしても、「もしいずれあなたと戦うことになっても、私はあなたの幸せ(と私が信じるところのもの)を守り抜く。」という信念については、これはもう「倒錯」としか言いようがなくて……依存しながら自立しているというか……極めて屈折・錯綜しています。これはもう人間が絶対者に対して取りうる態度ではないので、「叛逆」を成し遂げた後のほむらが「悪魔」と名乗るのも必然ってことになるのでしょうね。




☆☆☆☆☆☆☆


2020/10/16
akiさんからのコメント。
「信仰とは」



 こんにちは。返信興味深く拝読させていただきました。その結果、一つ得心できたことがあります。
「信仰」という言葉の定義が、私とeminusさんでかなり食い違っている、ということです。おそらくここは『バナナフィッシュ~』の理解においても存在した食い違いだと思いますが、ようやく言語化できそうです。




> ほんらい「信仰」とは救いを求めるものではないと思います。というか、そもそも一切見返りを求めるものではない。信じなければ自分を支えられないから信じる。崇めなければ自分を保てないから、崇める。
 そういう点でも、ほむらのまどかに対する感情は、もっとも素朴な……言い換えればもっとも純粋な……「信仰」じゃないかと感じます。


 eminusさんはこのように仰っていますね。私の乏しい知識ですが、これは原始キリスト教で殉教者と言われる人々に共通した信念であるように思います。そのそもキリスト教では「神に救いを求める」ということが(本来は)ない。なぜなら、天地創造の神は全知全能であり、世界の運行はすべて神の意思によるものであって例外はなく、今現に自分が受けている運命もまた神の意思によって与えられたものであって、そこから救い出してくれ、と神にせがむことは神の意思に反することになるからです。
 ただしこの論法だと、「救ってくれ」と今現に自分が神にせがむ思いを持つこともまた「神の意思」ということになり、さらには自分がどんな悪行を行おうともすべて「神の意思」ということになって、「いやいやこんな思いを持つことは良くない」と考えること自体が神への反逆であるということになってしまいます。要するに、「全知全能の神」を定義することは、そのまま「宗教的信念を持とうと努力することの否定」と同義です。
 この矛盾を解決するには、eminusさんのおっしゃるように「一切の見返りを求めず、ただ神を崇拝する」態度を採るしかありません。eminusさんがこのキリスト教的な「信仰」をどの程度意識なさっているかは分かりませんが、私の眼にはほとんど重なっているように見えます。違ったらすみません。




 ここまで読まれれば次に私が何を言うかは大体ご想像がつくと思いますが、私が思う「信仰」は、上記のものとははっきりと違います。




 信仰とは、「救い」を求めるところから生じるものです。それ以外のものは、「崇拝」「愛」とは呼べても、「信仰」とは呼べるものではありません。というか、「救いを求める」ことを否定する時点で、宗教としては欺瞞以外の何物でもないと思います。
 救いの中身がなんであるかは、教えによって違うでしょう。ぶっちゃけ「もうかりまっせ」という極めて俗物的なものから、eminusさんが「崇めなければ自分を保てないから、崇める」と今回おっしゃった「自己の確立、あるいはそれによってもたらされる安心・安らぎ」というものまで、神によって様々です。まあさすがに、俗物的な信仰についてはここでは無視でいいでしょう。「信仰による安らぎ」というものがどこから来るのか、ということについて論じてみますと・・・。


 eminusさんのお考えを拝見する限り、「それは自分の中から来る」とお考えのようです。(いやこれは多分、ほぼすべての宗教でもそうでしょうね)
 それだけでなく、「安心に至る方法論もまた、自分の中にある」とお考えのようです。そのことは、


>もとより教義も、聖典も、先導者もない。何ひとつ頼れるものはない。そういったものとは関わりなく、自分の欲動の赴くままに、全身全霊を挙げてその対象に没入する。


 というお言葉からも読み取れます。
 そういう「信仰」なら、宗教は必要ありませんね。ただひたすら自分の心を見つめ、思いを純化していくことで到達できることになります。


 ただしそれだと、当たり前ですが「人間にわかる範囲のことしかわからない」ことになりますね。そして当然、人間にとって最も身近で、かつ最も不可解である「死」については、「そう思い込む」以外の解決策は存在しないことになります。
 そもそも、人には「自分が死んだらどうなるかわからない」のです。死後、自分の意識が何らかの形で残るのか、完全に消滅するのかさえわからない。これは人類が「死」を意識した瞬間から、現代に至るまで一切変わりませんし、恐らくどれほど科学が発達しても変わらないでしょう。100%確実な自身の未来でありながら、その答えが存在しない、というより、存在し得ない。それが人知の限界です。


 ならば、宗教とは、その「死」の問題に100%の答えを与えるものでなければなりません。その「答え」とは、私たちが様々なものを考える脳も焼いてなくなることを考えれば、「知識」ではダメです。私たち自身も認識していない、「私自身(魂と言い換えてもいいですが)」に与えられる「真の答え」でなければなりません。


 この「真の答え」こそが、私が思う「信仰」です。
 そしてそれは、人知によっては到達し得ないものである以上、人を超える存在によってもたらされるもの、あるいはその教えに純粋に従うことによって到達できるものです。私にとってそれは「阿弥陀仏」ですが、さて、他の宗教においてはどうでしょうか。
 ご参考までに、「阿弥陀仏」と言えば「南無阿弥陀仏」の六字の称名念仏をすぐに連想されると思いますが、この「南無」は「帰命」とも言い、「絶対帰依」のことであって「相手の教えに完全に従う」ことを意味します。すなわち、私が思う「信仰」は、多分に仏教(中でも浄土仏教)の影響を受けてます。(というレベルでは、全然「南無」になってないんですけど)




 今回は「信仰」という一点について書かせていただきました。まどマギについては論じられてませんが、それはまた次の機会にでも。(と言って論じられた試しがないんですがw)





☆☆☆☆☆☆☆

20.10.17
 ぼくからのご返事。
「仏教はむずかしい。」




 盛り上がってきましたね(笑)。
 話がいまひとつ噛み合わぬように思えるばあい、議論の核となるキーワード(キーコンセプト)について、お互いが微妙に違う意味内容を想定していることが多いんですが、そうはいってもとりあえず話を始めてみないと、その「微妙な違い」も浮き彫りになってこないわけで、やはり対話ってものは大切であります。
 このたび「信仰」というキーワード(キーコンセプト)をめぐって差異が生じてるわけですが、akiさんは、「信仰とは、救いを求めるところから生じるもの」とお考えであり、ぼくのほうは、「救われるか否かとは関わりなく、ただただ唯一無二の絶対者(だと自分が見なしているもの)を崇拝すること」だと考えているわけです。
 こうなってきますと、議論をより実りあるものとするためには、さらに「救い(救済)」というキーワード(キーコンセプト)をも微分しておいたほうがよさそうです。
 今回いただいた文章をぼくなりに咀嚼してみると、akiさんの仰る救いとは「すべての人間にとって最大の課題でありながら、どうしても不可知である死(死後)というものを保証して、今を生きる自分に安心立命をもたらすこと」というように読めました。もし誤解なり、不十分なところがあったらまた訂正なり補正をお願いします。
 それでぱっと思い浮かんだのが、日本中世のいわゆる念仏僧で……この方々は浄土宗系とはいってもまた独特な一派だとは思うんですが……「疾く死なばや。」なんて言っていますね。大阪弁でいえば「早よ死にたい。」ですけども、つまりまあ、戦乱やら飢饉やら疫病やら災害やら、われわれ現代人の感覚からすれば理不尽きわまる難儀に日々絶え間なく晒されて、そのような境地になってしまっている。
 念仏僧たちの言行は『一言芳談抄』(岩波文庫)などで読めます。この書はよく吉田兼好の『徒然草』と比較されるのですが、むろん徒然草よりずっと悲観的であり過激です。吉本隆明という文芸批評家……まあ思想家と呼ばれたりもしますが……この方が生前、講演のなかでこんなことを喋ってます。


「ところが、『一言芳談抄』の中心的思想における死の観念というのは、とてもとてもそういうもの(吉田兼好のようなもの)ではないわけです。そうじゃなくて、早く死んでしまえと言っているわけです。生きているのは全部ダメだと、前世というのは徹底的にダメなんだ。だから、死んでしまえと言っているわけです。それから、生きているうちに解脱するなら、生というのを厭わなくちゃ、つまり、嫌がらなくちゃいけないというふうに言っているわけです。疾く死なばやとか、急ぎ死なばやということ、急ぎ死ななくちゃというのが、だいたい『一言芳談抄』の中心的な、あるいは、根源的な思想であるわけです。
 この『一言芳談抄』の思想というのは、当時における無常観、仏教における無常観と、現実のわりなさといいましょうか、つまり、戦乱と疫病と生活苦ということで、とにかくやりきれないよということで、そういう一般的な風潮というものをひとつ結集したところに『一言芳談抄』の非常にラジカルな思想が成り立っているので、たいへんラジカルなもので、生きていることは無駄、徹底的にダメっていう思想なわけです。」






 しかし、まあ、これをほんとに思想と呼んでいいのかよくわからないんですが、そういう考えってものは、ふつうは不健康というか、たぶん「病的」と評してもいいと思うんですけど、だけど吉本さんは(ちなみに、ばななの親父さんですが)、逆説的というべきか、そこに精神世界の豊かな可能性を見い出して、高く評価するんですね。こんなことも述べてます。






「(念仏僧たちは)いかにして死に近づこうとして身もだえしながら、血縁にたいする親和を捨て、きずなを捨てるところからはじまって、あらゆる所有をぬぎすてながら、最後には現世の衣食住を離れて、山野に隠れていった。」
「(そのことは)人間のこころが欲求する願望は、金銭、名誉、地位など、生の世界にとどまるだけでなく、境界を超えて死の世界まで拡がりうることを示している。」






 つまり、「疾く死なばや。」なんて発言は、ふつうに聞いたら「ああ、絶望してるんだな。」と単純に見なしてしまいがちだけど、そういうことではないんだと。今のぼくたちが安易につかう意味での「ゼツボー」とは違って、じつはもっと豊かなものであるのだと、そういうふうに吉本さんは言ってるんだと思います。
 その豊かさを裏打ちするのが、すなわち「信仰」ですよね。阿弥陀仏への信仰があればこそ、「疾く死なばや。」が、たんなる終焉ではなしに、「境界を超えて死の世界まで拡が」る豊かさをもつ。そこが無信仰の者とは決定的にちがう。
 ただ、そのような「人間のこころが欲求する願望」を指して「救い」とまで呼べるかどうかは難しいところですが、しかし、人間が絶望の谷底に堕するのを押し留めるものなのだから、やはり「救い」の一種には相違ありますまい。
 このように考えていくと、「死」を織り込んでいるか否かは、たしかに「救い」について考えるうえで大きいですね。




 ただ、いつも思うんですが、例えばこのばあい、同じように「阿弥陀仏」とお呼びしても、鎌倉時代の念仏僧たちの観念している阿弥陀仏と、今日のわれわれが観念している阿弥陀仏とはやはり違っているでしょう。さらに言うなら、akiさんの観念してらっしゃる阿弥陀仏と、ぼくなんかの観念している「仏」というものもまた違っていると思うんですよ。
 ぼくなんかが把握している範囲では、「仏教」というのはあくまで「空(くう)」の思想なわけです。むろん「空」は「虚無」とは違うので、仏教はニヒリズムとは無縁であって、ぼくの感覚ではむしろ「五感では捉えられずとも至る所に充溢している」イメージですが、いずれにしても、なにかしら実体を伴った存在が中枢に在(いま)す情態ではない。だから、「帰依」という境地にはなかなか至らないわけです。
 もとより、「実体を伴った存在が中枢にいる。」ということではなく、もっと広大無辺で崇高な宇宙意思のようなもの……というか現象……を指して「仏」と仮初めにお呼びしているのかもしれないんですけど、正直なところよくわかりません。


 順序が逆になりましたが、コメントの前半で言っておられた、キリスト教における「神」への態度の件は「自由意志」の問題ですね。森羅万象すべてが神の意志ならば、信徒ひとりひとりの意志はどうなるのか。という問題です。
 これは4世紀半ばから5世紀前半にかけて活躍した神学者アウグスティヌスが初めて本格的に取り扱ったテーマですね。そのご大小さまざまの教父やら学者たちによってさんざんに論じられ、中世神学の根幹をなすと共に、のちにイスラーム圏経由で逆輸入されたギリシア哲学と融合して、「西洋哲学」を涵養する土壌ともなりました。
 厳密にいえば、現代においてもまだ決定的な解決をみたわけでなく、いわば人間が世界を認識して再構成する存在であるかぎり、ほぼ永久に付いて回る問題じゃないかと個人的には思ってますが。
 ともあれ、このように、キリスト教神学は西洋的な「理性」の発達にともなって「哲学」に収斂されていったので(完全に吸収されたわけではなく、神学は神学で独自に変容を遂げていきましたが)、別の文化圏に属するぼくなんかでも脈絡を辿りやすいんですよ。いっぽう、仏教は、いっけん身近なようでいて、じつはけっこう捉えづらいです。そもそもインド仏教と中国仏教と日本の仏教とでもかなり異なってますし。
 いわゆる3大宗教のうちで、いちばん理解が届きやすいのはイスラームですね。もっとも後発であるぶん明快です。当然ながらこれもまた、神秘主義的ないし哲学的に深入りすれば際限ないですが。
 ともあれ、仏教については理屈のうえでしかわからないので、よろしければさらにご教示いただきたく思います。


☆☆☆☆☆☆☆

20.10.17
akiさんからのコメント
「浄土真宗と他力の信心 」


 こんばんは。お返事です。


>「すべての人間にとって最大の課題でありながら、どうしても不可知である死(死後)というものを保証して、今を生きる自分に安心立命をもたらすこと」


 前回のコメントで私が申し上げた内容はその通りで結構です。ただ、「なるべく多くの宗教に共通する書き方」を心がけたために、私自身が信奉する教義とはかけ離れた内容になってしまったことを、ここでお詫びせねばなりません。
 eminusさんがご自分の信念をお話しくださっているのに、こちらが「他宗教に忖度」して、信念を包み隠すのはフェアではないと思いましたので。


 表題の通り、浄土仏教にも様々な宗派があるものの、私が信奉するのは親鸞聖人の浄土真宗です。そして、その教義の中にある信仰は「他力の信心」と言い、「一切の自力の計らいを捨て、他力(阿弥陀仏の力)に全てをうち任せた信心」のことを言います。
 そこで、上記のお言葉を親鸞聖人の教えに従った形に改変してみると、


「すべての人間にとって最大の課題でありながら、どうしても不可知である死後の問題が弥陀のお力によってハッキリと解決され、今を生きる自分に安心立命がもたらされたこと」


 それが他力の信心である、となりますかね。
 「死」は解決できません(生物である以上死を逃れることはできませんし、死ぬことを恐れる気持ちは煩悩ですから、それもなくなることはありません)が、「死後」(死んだらどうなるか)を解決することはできます。そして、弥陀の力によって死後の問題(仏教では「後生の一大事」と呼びますが)を解決されれば、生きとし生けるものにとっての根本問題がはっきりと解決されますから、その後の生は「生きてよし、死んでよし」の幸せに生まれ変わるわけです。


 親鸞聖人が「いま、弥陀に救われた喜び」を述べられた文言は多くありますが、最も端的に述べられたのは、『歎異抄』にある


「念仏者は無碍(むげ)の一道なり」
(弥陀に救われ、喜びの念仏を唱えている者は、何物も碍り(さわり)とならない絶対の幸せの身になるのだ)


 でしょうか。
 このように書くと、「なるほど、そのように考える信仰なのだな」と思われるだろうと思います。現代人にとって、神や仏の存在は「人間の妄想」が生み出したものであって、「それが実在する」と言われても信じられないでしょうし、それを力説する人を見れば「おかしな新興宗教のたわごと」としか思えないでしょう。
 ですが、他力の信心を得た人(念仏者)にとって、阿弥陀仏は実在します。実在する弥陀によらねば、死後の解決は絶対にできません。


 前回、「南無阿弥陀仏」の「南無」は「帰命」であり、「絶対帰依」のことである、と申しましたが、これはすべての仏教に通用する言い方です。
 親鸞聖人はこの「南無」について、


「南無の言は帰命なり。(中略)帰命は本願招喚の勅命なり」


 と言い、意味を逆転しています。
 ここにある「本願」とは、阿弥陀仏の「一切衆生を救う」という誓いのこと。すなわち、
「南無=帰命とは、阿弥陀仏の『我にまかせよ。必ず救う』というご命令である」
 と親鸞聖人は解釈しているわけです。


 弥陀を信じる心も、任せる心も、すべて「自力の計らい」です。それが廃らなければ、絶対他力になることはできない。逆に言えば、他力になった人には一切の自力はありません。だから唱える「南無阿弥陀仏」も、「阿弥陀仏、お助けください」ではなく、「よくぞ助けてくださいました。阿弥陀仏、ありがとうございます」というお礼の念仏になるわけです。




 ほんの一部ですが、これが親鸞聖人の教えた信仰であり、救いです。私はその教えを信奉している、ということですね。
 今回は誤解を恐れず書かせていただきました。でも多分、様々に疑問が出てくる内容だとは思いますので、私の能力と労力が及ぶ限りは答えさせていただこうと思います。よろしくお願いします。<(_ _)>



この記事の続き。
20.10.22 akiさんとの対話。ひきつづき、仏教のこと。
https://blog.goo.ne.jp/eminus/e/98c9953412bb5f280e78c72edda94627








アニメとリアリズム(雑談的試論)

2020-10-08 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽

 それにしても、そもそも「アニメでリアリズムができるのか。」って問題はあるね。『アルプスの少女ハイジ』や『赤毛のアン』の時代からほぼ半世紀を閲して、作画の点でも内容の点でも、制作技術が長足の進歩を遂げているから、ひとくちに「アニメ」つっても同列には論じられないわけだけど、それでもやっぱりふつうの映画なりドラマ、すなわち「実写」に対してアニメのほうはワンランク軽くみられてる印象はある。さすがに「子どもの見るもの」とはもはや思われてはいないだろうけど(プリキュアシリーズみたく、もともと児童を対象につくられてるものは別ですよ)、総体として、視聴対象年齢は実写に比べてより低く見積もられてるのは間違いない。


 「演劇」ってものは古代ギリシアからの伝統があるんで、それに比べたら「近代」の産物である映画やドラマもぜんぜん「サブカルチャー」なんだけど、サブカルの中にも階層があって、アニメはさらに下ですよと。しかも「アニメーション」を「アニメ」と表記することで、ニュアンスとしてはさらにまたランクがひとつ下がるわけですが。


 その理由についてはいろいろなアプローチができると思うんだけども、煎じ詰めればアニメというのが結局は「記号」として表象されるってことに尽きると思うんだな。記号の集積なんですよね全部が。何よりもまず人物。つまりキャラ。これは1991年に公開された高畑勲監督の……まあ一種の実験作といってもいいと思うんだけど……『おもひでぽろぽろ』が逆説的に(もしくは確信犯的に)明らかにしたことですね。たとえばヒロインが笑うと口角や目元に「笑いじわ」ができる。それがラインとして(専門的には「マッハ線」というんだけど)描き込まれてみると、どうしても目についてしまう。違和感が残る。それは実生活においてわれわれの目が「明暗」ないし「光の濃淡」として捉えてるものをアニメでは「線」として描かざるをえないせいですね。


『おもひでぽろぽろ』より。(念のために言っときますが、これは行論のためにあえてこういうカットを切り取ったんで、むろんヒロインは基本的には可愛らしく描かれているし、『おもひでぽろぽろ』はとても良い作品ですよ)



 いうまでもなく、これでは萌えない。そういう意味では90年代以降の高畑監督の主題のひとつに「萌えの峻拒」ってものがあったとぼく個人は考えてるけど、これは高畑勲論になってしまうのでまたの機会に。ともかく、アニメのキャラってものはそういった「笑いじわ」やら何やらをカットして成立しているものだ、という前提が既にぼくたちのなかにはある。ようするにそれは「記号化」を受け入れてるってことだよね。つまり「へのへのもへじ」すら「顔」として認識してしまうような……いわゆるシミュラクラ現象……人間の知覚のありかたを最大限に利用した表現手段として大多数のアニメは製作され、流通し、受容されている。


 もうひとり、アニメ史に残る天才のなかで、高畑さんとは違って「描きたくても萌え絵が描けない」という……それもまた偉大な才能であるとぼくは思ってますけども……方がおられて、大友克洋さんですね。この方のつくるヒロイン像は、男性キャラと同じ顔をしている。

『AKIRA』より




 「2020年トーキョー・オリンピック(中止)」の件で再び注目を集めた『AKIRA』(アニメ版公開は1988/昭和63年)は、ハリウッド映画『ブレードランナー』(公開は1982年)と共に「サイバーパンク」の世界観をビジュアライズした傑作でしたが、その『AKIRA』の「普及版」ともいうべき『老人Z』(公開は1991年)においては、キャラデザインを江口寿史が担当したんですよね。



『老人Z』より




 一目瞭然(笑)。ぜんぜん違う(笑)。江口さんの絵は洗練度が高いんでイラストみたいにリアルっぽくも見えますが、それでも「可愛さ」のコードに合わせて記号化が施されているのは明らかでしょう。このヒロインが大友さんのキャラデザインだったら、動員数がかなり変わったんじゃないかな。「萌え」がユーキャン流行語大賞に選出されたのは2005年らしいんで、90年代でもまだ「萌え」という単語はさほど人口に膾炙してなかった。それでも既に80年代には、「萌え」要素の多寡が作品の売り上げに直結するってことは自明の理として作り手の側には行きわたってたと思う。『うる星やつら』のラムちゃんに対する当時の思春期の少年たちの熱の上げ方なんて、それを措いては説明できないもんね。ぼく個人は、その「キャラの記号化」のひとつの到達点が「まどか☆マギカ」(テレビ放映は2011年)だと想定してますが。


 今回のテーマに即して話を戻すと……「萌え」という用語をよりエレガントに「感情移入」と言い換えるならば……キャラクターの「記号化」は見る者の感情移入を妨げぬばかりか、よりいっそう感情移入に寄与する。という一見アイロニカルな、しかしよく考えてみれば「当たり前じゃん?」と言いたくもなる事実が明らかになるわけですね。何のことはない、そんなのはディズニーアニメを日本の文脈に換骨奪胎した手塚治虫御大が黎明期においてとっくにやってたことだぜ。という声も聞こえてくるわけですが。


 それで、2000年代いこう、「キャラを記号化しながら尚且つ一定のリアリティーをも付与する」……だって本物の「へのへのもへじ」には誰も「萌え」ませんからね……というテクニックが作り手サイドで飛躍的に高まっていった。とぼくは推察しているわけだけど(そんなにアニメを見てるわけじゃないんで、あくまで推察です)、いっぽう、それとは対照的に、記号化ではなくひたすら「実写」のクオリティーに近づいていった……というか、もはやフィルムやビデオ機材の捉える映像を超えて、より精緻かつ美麗になっていった。のが背景美術でしょう。


 それはもちろんCG技術の目覚ましい発達によるものだけど、撮影ののちいったんパソコンに取り込まれた上で光や色を足されるなどして加工・編集を経た都市や田舎の風景は、作品の内容いぜんにもう、ただそれを見ているだけで或る種の感動を覚えざるをえないほどの水準に達している。ぼくがそれに気づいたのは2013年に放映された『はたらく魔王さま!』ってアニメで、まったく何の予備知識もなくたまたま見つけて、ラノベが原作らしいんだけど、申し訳ないが内容については当時もぜんぜん興味をひかれなかったし、今ではまるで覚えていないんだけども、とにかく背景が綺麗でね。背景美術を見たいがために毎週チャンネルを合わせてましたね。



『はたらく魔王さま!』より


『はたらく魔王さま!』より




 だけど深夜アニメなんてのはそれこそ「サブカルの中でもワンランク下」で、冒頭の話に戻るけど、世間的には「ガキの見るもん」って扱いでしょう。ただ、そういう風潮に一石を投じた。というか、社会の通念をあるていど革めるのに大きく寄与した。といっていいのが2016年に劇場公開された新海誠監督の『君の名は。』ですよね。内容がセンチメンタルだとか、セカイ系じゃないかとか不平を述べる人がいたとしても、あの映像の美しさだけは認めざるを得ないと思う。ビジュアルの訴求力ってのはそれくらい圧倒的だからね。


『君の名は。』より


『君の名は。』より。ただしこの画像は本編にはない。



 ただね、ここでまた冒頭の話に戻るんだけども、こうやって表象されたものであってもやっぱりそれは「記号」なんだよね。ハイパーリアリズムばりの緻密さで迫ってくるからうっかりしてしまうんだけども、それが人の手によって改編されたものである以上、この風景は「記号」であると。あくまでも記号化された「現実」なんですよ。


 つまり、アニメにおいては「キャラ」も「風景」も同じように記号化されてるんだけど、いわばそのベクトルが両極に分かれちゃってるわけだ。キャラの「記号化」はもっぱらデフォルメと簡略の方向を目指して為され、風景の記号化は逆に緻密および美麗の方向を目指して為されるというね……。そして、現代の日本アニメの風景描写ってものは、ほとんど19世紀のロマン主義でいう「崇高」に近づいてると思うんだよね。だからそれは、リアリズムというよりロマンティシズムであると。


 『君の名は。』を劇場で見ての帰り道、いつもの都会の風景が妙に汚く見えちゃったのを今でも覚えてるんですよ。とくに裏通りに入った時なんか酷かった(笑)。ゴミとかさ。でもそれがフツーの現実なんだよね。あたりまえだけど。そういった夾雑物っていうか、ノイズをぜんぶクリアカットして、さらに修正を施したものが今のアニメの背景ならば、それもまた、「リアリズム」とは別種のものですよね。
















期間限定記事・ばらかもん

2020-10-06 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽


(この記事は20年10月06日付です。gyaoでの無料配信期間は終了しました。)



dig フカボリスト。口がわるい。




e-minor ……当ブログ管理人eminusの別人格。




☆☆☆☆☆☆☆




 どうもe-minorです。


 digだよ。


 本日は時間がないので立ち話ていどになると思うけれども。


 手短にやらせてもらうぜ。


 ギャグ満載のとにかく楽しい作品です。毎回毎回、たっぷり笑って最後にほろり。「笑いありナミダあり」ってやつ。『昭和元禄落語心中』、『坂道のアポロン』につづいて、gyaoでの期間限定・無料公開アニメのご紹介。


 どれも基本的にはリアリズムで描かれてる点が共通してるな。あと作者が女性であるところも共通……といいたいところだが、いま調べたら、『ばらかもん』のヨシノサツキ氏は男性とのことだった。


 「長崎県五島市出身・在住」とウィキペディアにあるね。それで、さらに「長崎県五島市」を引くと、「長崎港から約100キロメートルの位置にあり、11の有人島と52の無人島により構成されている。」とある。いわゆる離島なんだけど、これはそのような作者にしか描けないお話。


 「ばらかもん」とは現地のことばで「元気者(元気なやつ)」という意味らしい。ただこの主人公の青年・半田清舟(はんだ せいしゅう。これは書家としての号で、本名は半田清)は第1話の時点では「元気」とは程遠い。


 むしろ意気消沈してるよね。引き続きウィキ先生の記述を借りつつ補足すると、「23歳。身長は174センチ。かなりのイケメン。書道界の家元の後継ぎ。期待の新鋭として名を馳せていたが、入賞作品を書道界の重鎮に酷評されて逆上し、暴力沙汰を起こす。大事には至らなかったものの、父から“頭を冷やして来い”と命じられ、単身、五島に移り住む。」


 でもこれなあ、「酷評されて」って言うけども。


 「書道界の重鎮」って、美術館の館長なんだよね。受賞パーティーのさなか、自分の書いた作品を前にしてこう言われるんだ。「まだ若いのに、型にはまった字を書くね。手本のような字というべきか、賞のために書いた字というべきか。君は平凡という壁を乗り越えようとしたか? 長いこと運営していると、目が肥える。じつに詰まらん字だ」


 それで「基本に忠実で何が悪いっ」と言って殴り掛かる、というか、じっさいに殴ってしまうわけだけど、これは館長の言うのが正論だよな。修業時代ならともかく、プロだったら個性を出すのが当然だ。


 だよね。半田の生真面目さと、世間知らずでプライドの高い性格を示してるんだろうけど、いきなりここは「ん?」と思った。しかも目上の高齢者を殴るってのは尋常じゃなくて、これは書道界うんぬん以前に、社会人としてアウトでしょ、ふつうなら。


 だから最初は主人公の半田に感情移入できなくて、いまひとつ気持ちの据わりが悪いんだけど、なるが出てきた瞬間にもう……


 そうそう。いやでも、とつぜん「なる」っていっても読んでる人にはわからない。ではgyaoの公式コピーから。
「東京で“ある事件”を起こしたイケメン書道家・半田清舟(小野大輔)。雑音から離れ書道と向き合うため、身寄りのいない島に一人で生活することに。海と山がきれいで人口が少ない小さな田舎町。借りた家は、汲み取り式便所にバランス釜のお風呂、ネズミが走るボロ屋……そんな家には、元気過ぎる小学1年生のなる(原涼子)が秘密基地として遊んでいた。一人になりたいのに一人になれない、半田の慌ただしい島生活が始まる。」


 この「なる」のCVを務める声優さんがむちゃくちゃ上手いのな。


 原涼子さんという方らしいね。子役出身で、現在は15歳とか。アニメ版が放映されたのは2014年7月~9月だから、当時は9歳くらいってことになるけど、それでこの演技力……


 なにが凄いって、ずっと方言なんだよ、なるは。


 うん。だから、「現地というか、同じ方言圏の中からオーディションで選んだのか」なんて思ってんだけど、ウィキで肩書をみたら、神奈川県横須賀市出身なんだ、この方は。


 ウィキペディアの「原涼子」の項には、『ばらかもん』のことが特筆してあるよな。


 そうなんだ。原作者のヨシノサツキ氏は、「子どもには方言は無理だと思うので、なるは標準語でしゃべらせてほしい」と言っていたそうだ。しかし、あまりにも原さんが上手かったので、その懸念は払拭された。ちなみに原さん、最初に方言での台詞の入ったCDを貰って、それを何度も聞いて覚え、難しいところは現場で教わってこなしたとのこと。


 よほど耳がいいんだなあ。


 この「なる」がもし標準語で喋ってたら、このアニメの魅力は半減したろうね。


 半減っていうか、十分の一くらいかな。いや内容も音楽もいいんだよ。もちろんそれだって良作になったとは思うけど、それくらい、なるの方言の力は大きいってこと。


 半田の移住したこの家を「秘密基地」にしてたのはなるだけじゃなく、中学生の山村美和と新井珠子もいる。そこに同級生の木戸浩志や他の児童たち、もちろん島の大人の人たちも濃密に加わって、「一人になりたいのに一人になれない、半田の慌ただしい島生活」が繰り広げられるわけだけど。


 いやアニメでこんなに笑わせてもらって、いい気分になったのは久しぶりだわ。


 「都会の生活に挫折した男(いやもちろん女でもいいけど)が、何かのきっかけで田舎で暮らすこととなり、そこでの暮らしのなかで人間的に成長を遂げ、再生の手がかりを掴む」というモティーフはたくさん前例があるだろうし、そこに「子ども」が絡んでくるのもしぜんな設定だと思うんだけど、これはその中でも傑作だと思うな。


 このアニメについては、おれのほうから付け加えることはないんだけども、ひとつ言いたかったのは、こないだまで2人でやってた「バナナフィッシュ」の件な。記事はまとめてnoteに移動しちまったが。


 うん。


 あれも青年と子どもがかかわる話だった。『ばらかもん』の半田はこのあと立ち直るんだろうけど、バナナフィッシュのほうは、あのとおり残念な結果になっただろ。


 シーモアは彼なりの悟りに達して幸福だったかもしれないが、一般的には、そりゃ残念としか言いようがない。


 そこが第二次大戦の生んだアメリカの純文学と、平和を謳歌する泰平ニッポンでつくられたエンターテインメントとの違いだなあ、ということは思ったな。


 どちらも大事なものだし、その双方が揃って文化ってものは豊かになるとは思うけどね。


 たしかにな。


 というわけで、今回のお薦めアニメは『ばらかもん』、ぼくらも気づくのが遅かったんで、第2話だけは無料公開が終わってしまいましたが、1話とその他の話数にはまだ間に合うんで、よかったらご覧ください。



(この記事は20年10月06日付です。gyaoでの無料配信期間は終了しました。)