ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

合掌。

2023-03-13 | 純文学って何?


 思えばバブル前夜の80年代初頭、放課後の高校の図書室で見つけた気色わるい表紙の新潮文庫版『死者の奢り・飼育』一冊が、それまでふつうの理系志望であった私を「文学」などという冥府魔道に引きずり込んだのであった。サルトルに学んだあの文体はあまりに強烈すぎて、下手に真似すると自分を見失いそうだから模倣したことこそなかったが、しかし大江健三郎という存在はつねに私にとっての文学宇宙の中心にあった。いわば巨大な北極星だった。このところ「純文学」に疑念を抱いて「物語(ロマン)」に傾斜しつつあるのだけれど、それでも大江さんの小説のことを忘れたことはない。中上健次があれだけ野放図に自らの文学を追求することができたのも、大江健三郎という先達があってのことだ。また村上春樹にしても、『1973年のピンボール』なるタイトルが『万延元年のフットボール』のパロディーであることからも知られるとおり、大江文学の軽妙な裏返しという面がある。大江さんなくして今日の日本の現代文学はなかった。ご冥福をお祈りいたします。



23.02.10 サイト紹介「平成文学総括対談」

2023-02-10 | 純文学って何?

 いろいろと書きたいことは溜まってるんだけど、ばたばたしていて纏まった時間が取れない。もどかしいけどしょうがない。そんななか、ぐうぜんに、とても良質なサイトを見つけたのでご紹介します。「ひつじ書房」さんのウェブマガジンで、「平成文学総括」という対談シリーズ。4年まえに掲載されたものですが、今日に至るまで、まるで気がつかなかったなあ……。全10回で、新書にしたら、そうだなあ、まず三分の一冊ぶんくらいのボリューム。いや勉強になりました。




2019.02.15
平成文学総括対談|第1回 文芸豊穣の時代|重里徹也・助川幸逸郎
https://www.hituzi.co.jp/hituzigusa/category/rensai/heisei/page/2/





震災後文学

2022-11-17 | 純文学って何?
22.11.19

 追記・訂正)
 本文中に、「(ヒロインであるすずめが)福島に立ち寄ることはない。」とありますが、これは完全な事実誤認で、すずめは、東京から東北へと向かう途中、福島県を通過していました。双葉町近辺とのことです。その場所で、わりと重要な会話が交わされてもいます。ぼくはその会話のことは印象に残っていたのですが、そこが双葉町であることはまったく見落としておりました。しかも、カメラが移動すると、遠くに第一原発が映りこんでいるとか……。それはぜひ、2回目の鑑賞で確認しようと思ってますが……。いやはや……。新海誠監督の「覚悟のほど」を甘く見積もっておりました。お恥ずかしい。この見落としによって、この記事そのものの立脚点も危うくなるわけで、削除しようかと迷いましたが、それでもやはり、『すずめの戸締まり』がファンタジーであり、エンターテインメントであることは確かなので、こうやって事実誤認の訂正だけして、記事そのものは残すことにします。「うかつな観客ならば見逃すほどの慎重さで、フクシマが描かれていた。」ということでご理解ください。超弩級のスペクタクルに気を取られがちですが、さりげない日常パートの細部にも、隅々まで気が配られているわけですね……。

☆☆☆☆☆☆☆

23.02.06

 さらに追記)

 これですね。右側の遠景に注目。




☆☆☆☆☆☆☆


 『すずめの戸締まり』は本当に素晴らしかった。ファンタジーとして、エンターテインメントとして、脚本から映像美までひっくるめて、現代アニメ表現の最高の水準に達していると思う。
 しかし同時に、それはあくまでもファンタジーであり、エンターテインメントであるゆえに、とうぜんながら限界はある。どうしても越えられない一線がある。
 たとえば、本作はロードムービーなので、ヒロインのすずめは、宮崎→愛媛→神戸→東京→東北へと旅をしていくのだが(熱心なサイトでは、具体的な地名も特定されている)、福島に立ち寄ることはない。
 新海誠監督は、覚悟を決めて3・11と向き合い、アニメ作家としてぎりぎりのところまで踏み込んで本作を創ったのだと思うが、それでもフクシマの地に立つヒロインの姿を描くことはできなかった。




 それは新海監督の限界ではなく、ファンタジーの限界であり、エンターテインメントの限界というべきだろう。
 フィクションというジャンルにおいて、「ファンタジー」なり「エンターテインメント」なりの対蹠にあるのは「純文学」だ。
 このダウンワード・パラダイスはもともと「純文学ブログ」であるはずだが、ときに「サブカル上等」の物語論ブログであったり、政治ブログであったりもする。
 それでも、「本分は純文学にあり。」という信念を失ってはいない(つもりでいる)。
 純文学は、アニメに比べて遥かに小さな訴求力しか持てないが、その代わり、もろもろのタブーに縛られる割合が少ない。
 だからもちろん、フクシマのことを正面から描いた作品もある。
 新海監督は、劇場用特典の「新海誠本」に収録されたインタビューのなかで、
「(本作は)震災文学の流れの中の、数ある作品のうちの一つに過ぎません。」
 と謙虚に述べておられるのだが、ただ文学サイドでは、「震災」そのものを描くというのではなく、「震災によって変貌してしまった日常や生活」を描く小説の総称として、「震災文学」ではなく、「震災後文学」という言い方がすでに確立され、多くの作家や批評家によって採用されている。




作家たちは「3.11」をどう描いてきたのか
多和田葉子、桐野夏生、天童荒太……
〜「震災後文学」最新作を一挙紹介!
文・木村朗子(津田塾大学教授)
https://gendai.media/articles/-/48063





今こそ読みたい「日本とドイツの震災後文学」
お話を聞いた人 クリスティーナ・岩田=ワイケナントさん
http://www.newsdigest.de/newsde/features/11808-katastrophenliteratur/







 とはいうものの、ぼくはこれまで、「震災後文学」をきちんと追ってきたわけでもなく、大半の作品はこれらのサイトによって教えられた。知っていたのは、


いとうせいこう『想像ラジオ』
天童荒太『ムーンナイト・ダイバー』
多和田葉子『献灯使』
和合亮一『詩の礫(つぶて)』(これは小説ではなく、詩集)
川上弘美『神様2011』
岡田利規『現在地』


 ……くらいのものだ(もし中上健次が存命ならば、間違いなくここに加わったろうな、と埒もないことを思ったりする)。
 それにしても、作家・重松清の2013年の発言として、上掲サイトの中で引用されている、
「(いわゆる「ビッグデータ」を集めるのは有意義なことだが、しかし)『ビッグ』とは『無数のスモールの集積』であるということを忘れてしまうと、その途端、解析の網の目から大切なものがこぼれ落ちてしまうだろう。(中略)『震災ビッグデータ』では、死者の記憶を追うことはできない。死者の声を記録することもできない。だが、人間はそのために想像力を持ったのではないか。(中略)ここからは文学の出番だよなあ、と痛感する。」
 という一節は、文学の本質を突いたものとして、印象ぶかいものである。
 そして、この精神は、ファンタジーといい、エンターテインメントといいながら、『すずめの戸締まり』にも共有されているはずだ。
 とはいえ、上にも書いたが、アニメを享受する層に比べて、小説を読む層はずっと少なく、ましてや純文学となると、文字どおり「数えられるほど」だというのが現状ではないか。
 若い人たちの中から(べつに若い人でなくてもいいが)『すずめの戸締まり』の鑑賞を機に、ことばで紡がれた「震災後文学」にも目を向ける人が出てくれればいいなァ……と思ってはいる。









22.07.23 リンク先紹介・芥川賞について

2022-07-23 | 純文学って何?
 コロナ第7波の到来に元首相暗殺と、とかく落ち着かない日々が続き、「こんなとき(純)文学には何ができるのか?」と疑わしい気持ちにもなるが、そんななか、第167回芥川賞・直木賞が発表された。
 ここ数年、当ブログでは上半期・下半期の選考に合わせて記事を上げてきたけれど、いつも参考にさせて貰っていた西日本新聞さんの「芥川賞予想座談会」が、第165回の分から有料記事になってしまったので(世知辛い世の中である。まあ仕方ないか)、そちらはもう当てにできない。
 今のところ、無料で閲覧できる関連サイトでもっとも充実しているのはREAL SOUNDさんだと思う。
 ここまで飛ばしていた分も併せて、まとめて紹介しておきましょう。




2021(令和3)上半期 発表前
https://realsound.jp/book/2021/07/post-813839.html
2021.07.14 08:00
千葉雅也、李琴峰らがノミネート「第165回 芥川賞」はどうなる? 候補作を徹底解説


2021(令和3)上半期 発表後
https://realsound.jp/book/2021/07/post-813935.html
2021.07.14 20:00
第165回 芥川賞&直木賞、各受賞作の評価のポイントは? 受賞会見レポート


2022(令和4)下半期 発表前
https://realsound.jp/book/2022/01/post-948172.html
2022.01.17 16:00
第166回芥川賞は混戦の予感? ボディビル小説から古書にまつわる物語まで候補5作品を徹底解説


2022(令和4)下半期 発表後
https://realsound.jp/book/2022/02/post-964497.html
2022.02.09 07:00
芥川賞受賞作『ブラックボックス』は日本の暗部を映し出すーースカッとしない勧善懲悪劇


2022(令和4)上半期 発表前
https://realsound.jp/book/2022/07/post-1079977.html
2022.07.19 07:00
第167回芥川賞は女性作家の力作揃い 候補5作品を徹底解説





ブログ「世に倦む日日」さんの「瀬戸内寂聴の『美は乱調にあり』を読む – 青鞜の群像とスキャンダリズム」への反論

2021-11-28 | 純文学って何?
 ぼくがブログを始めたのは2006(平成18)年のことだ。ocnブログというサービスだったが、2014年にgooブログと統合され、こちらに越してきた。2006年にはまだnoteなんてものもなく、ブログ人口は今よりずっと少なかった。Twitterもなければ、むろんyoutuberなんて人々が存在すべくもなかった。
 ブログはもともと公開日記として出てきたメディアだが、ぼくは身辺雑記を書く気はなかったので、当初はコラムとも読書メモとも付かぬ短い文章を書いていた。Twitterをいくぶん長くしたていどのものだったろうか。クラウドというサービスもまだなかったが、今から思えばクラウド代わりの気分であった。自分のパソコンに保存していると、紛れたり、故障の際にデータ自体が失われたりする。ウェブ上に置いておけばその心配はないし、誰かの目にふれて何かの参考になるかもしれない。一石二鳥ではないか。
 「世に倦む日日」を見つけたのは2009年だった。映画『ダヴィンチ・コード』が初めてテレビ放映され、それを観たあとネットでこの作品について調べた。そのときに辿り着いたので、日付を覚えているわけだ。
 「世に倦む日日」氏は2004年にブログを始めておられるが、開始して間もない頃に『ダヴィンチ・コード』についての記事を上げている。映画ではなく原作のほうだ。さらに2006年には映画版についての記事も上げている。ぼくがそのとき辿り着いたのは2004年の記事のほうで、5年遅れで「世に倦む日日」を発見したことになる。ちなみにこれらの記事は今も閲覧可能だが、先ほど12年ぶりに読み返したらやっぱり面白かった。
 『ダヴィンチ・コード』(角川文庫)そのものは通俗小説に過ぎないが、キリスト教圏外のわれわれがキリスト教にふれるきっかけになるのは確かだ。手頃なところで、もっといいのは佐藤優の『私のマルクス』(新潮文庫)。マルクスと銘打ってはいるが、プロテスタント神学の勉強になる本である。
 「世に倦む日日」に出会ったとき、まず驚いたのはその長さで、「ブログでこんな長文がやれるのか。」と思った。迂闊にも、当時のぼくは「wordで下書きをつくってコピー&ペーストで移す」という方法を知らなかったため、編集画面の枠内にぽちぽちと文字を打ち込んでいたのである。手間もかかるし、途中で誤って送信したり、消してしまうことも度々だった。
 長さに一驚したあと、内容の濃さに感心した。冒頭で述べたが、当時まだnoteはない。個人ブログであそこまで濃厚なものはさほど多くなかったはずである。
 それからはぼくも、きちんと草稿を練って長めの記事を上げるようになった。
 「世に倦む日日」氏は誰の目にも明らかな左翼であり、それはブログの最初の記事から一貫している。対してぼくにはそういう意味での政治的定見はない。げんに去年(2020年)は、「コロナを全世界に広めた中共許すまじ!」の一念から、毎日のようにネットで「虎ノ門ニュース」を見て、トランプや安倍晋三に肩入れしていた。
 しかるに今年に入ってからは、コロナ禍での五輪強行開催に呆れ果て、さらに安倍・菅内閣の9年間でわがニッポンがいかに国際的に凋落したかを勉強し直して、がぜん「反自民・反安倍」へと急旋回した。近ごろは「猫のリュックくん」さんのtwitterを追いかけるのが日課になっている。
 ぼくは「自由」が好きなのである。さらにいうなら「民主主義」も「日本」も好きだ。その点に関しては揺るぎない。しかし、「では自由をいかにして実現するか?」となると、その道筋は簡単ではない。
 ひとつの国が国際的な独立(≒自由)を得るためには軍事力が不可欠(必要悪)だ。しかし、福利厚生をそっちのけにして、軍事にばかり傾きすぎたら国民が幸せになれるはずがない。その兼ね合いが難しいのである。むろん、特定の人物やら政党やら企業が縁故主義で結びついたり、陰に陽に権力を誇示して関連機関や個人に圧力をかけたりするのも論外だ。それくらい「自由」を蔑ろにする行為もない。
 そういう意味で、今のぼくは「自由」と「民主主義」と「ニッポン」を愛するがゆえに「反自民・反安倍」にならざるを得ないわけだけれども、どうもこの道理がなかなか通らないので困る。「自民党≒安倍≒ニッポン」といった感じのおかしな等式がまかり通っている。それは多分に「日本会議」のせいかもしれないが、この歪んだ等式を何とかしなければならない。このままでは二大政党制など望むべくもない。
 話が逸れた。「世に倦む日日」のことだった。
 「世に倦む日日」氏の博識と分析力には学ぶところが多いが、そのいっぽう、率直に言わせて頂ければ、意外なほどに知識が偏っているように思えて戸惑うことも少なくない。ことにぼくの専門である文学やサブカルにおいては首を傾げる……というより申し訳ないが思わず笑ってしまうこともある。もともと氏は嫌いなもの、敵対するものについては仮借ない罵詈を浴びせる反面、好きな対象については過剰なまでの称賛を惜しまないのだが、「村上春樹は神である。」という揚言を目にしたときは実際ほんとに笑ってしまった。村上さんは確かに重要な文学者ではあるが、いくらなんでも「神」はなかろう。いかに本邦が八百万の神々の賑わう国とはいえど、さすがにこれは言い過ぎだ。


村上春樹『職業としての小説家』を読む - あらためて村上春樹は神である2015-11-04
https://critic20.exblog.jp/24896979/



 氏がこの記事で引き合いに出しているのは辺見庸だが、辺見さんに留まらず、比較対象としてより多くの作家をもっていたなら、こんな過賞が出てくるはずがないのである。大江健三郎を(保守派を自認する連中がやるように)単なる戦後民主主義の擁護者として矮小化するのではなく、現代文学の巨人として時代を追って体系的に読み込んでいれば、間違ってもハルキさんにそこまでの評価を下せるはずがないのだ。
 「世に倦む日日」さんには文学の素養が乏しい。もっと言うなら、「文学とは政治に従属するもの」という古い社会主義リアリズム文学理論のシッポが残っていて、文学を軽く見ておられるようにも映る。そこが以前からぼくには不満だった。
 そのほか、よく気になるのは、「今の日本は社会のみならず論壇の隅々までもが新自由主義に毒されていて、もはや社会主義を奉じる学者がいない。」というフレーズ。いろいろな記事で氏はかたちを変えてこのことを強調されるのだが、たしかに東浩紀みたいな若手(とはいってももう50だが)を見ればそう言いたくなるのもわかるけれども、けしてそんなことはない。
 たとえば的場昭弘(1952/昭和27生)氏がいるではないか。ハードカバーの高価な専門書のほかに、新書や文庫サイズでマルクス主義の入門書や解説書をたくさん出している。祥伝社新書の『超訳「資本論」』全3巻などはとても面白かった。商売上手の内田樹さんのマルクス入門本はうまく毒気を脱色している感があるけれど、的場氏にはマルクスを武器に本気で新自由主義と切り結ばんとする気概が見られる。これだけ著作が多いということは、若い読者もそれなりに付いているのだろう。
 ほかにも、ぼくも最近知ったのだが、薬師院仁志(1961/昭和36生)という方もいる。光文社新書の『社会主義の誤解を解く』はおおいに勉強になった。
 つまり、新自由主義が猖獗を極める現代ニホン社会にあっても、社会主義を奉じる学者がいなくなったわけではない。「世に倦む日日」氏がよく名前を挙げられるのは、上野千鶴子、本田由紀といった「リベラル派」の方々である。しかし、そういったリベラルの他に、はっきりと社会主義を標榜している書き手もまだまだ少なくない。そういったあたりに目配りが及んでおられぬのではないか。


 さて。世に倦む日日さんの最新記事は、「瀬戸内寂聴の『美は乱調にあり』を読む – 青鞜の群像とスキャンダリズム」2021-11-26である。
https://critic20.exblog.jp/32389764/
 この記事の出だしに、先ごろ逝去された瀬戸内寂聴さんが、
「四百冊を超えているらしい自作の中で、ぜひ、今も読んでもらいたい本をひとつあげよと云われたら、迷いなく即座に、『美は乱調にあり』『階調は偽りなり』と答えるであろう。」
 と記していたという話が置かれている。ぼくはこれを読むまでそのことを知らなかったけれど、「やはりそうか。」と思った。つい先日、11月11日にアップした記事の中で、


「(……前略)……訃報を聞いてぼくが即座に思い浮かべたのは、伊藤野枝の生涯を描いた『美は乱調にあり』と『諧調は偽りなり』だ。」


 と書いていたからだ。瀬戸内さんでいちばんいいのはやはり伝記文学だと思うが、なかでもこの二作(前編・後編)が白眉といえる。もう一作というなら岡本かの子を描いた『かの子繚乱』だろうか。ほかに管野須賀子を描いた『遠い声』、金子文子を描いた『余白の春』もあり、「かの子」以外は岩波現代文庫に入っている。
 世に倦む日日さんは、訃報に接するまで瀬戸内さんにも近代女性史にもさほど大きな関心を払っていなかったようで、このたび初めて『美は乱調にあり』を読まれたらしい。その感想として、


「この小説で勉強になるのは青鞜社の歴史であり、青鞜に集まった個性的で魅力的な「新しい女」たちの群像である。私はこの周辺にほとんど無知同然だったので、大いに蒙を啓かれ、関心の端緒を持つこととなった。ジェンダーの時代、この時期の女性解放運動史と人間模様の理解は現代人の必須の教養の如くであり、それを仕入れることが読書の動機の一つだったと言える。もう残りの人生の時間も多くないから、とにかく、知るべきことで欠けていることは早く吸収して(自己満足であっても)養分にしないといけない。」


 と記事の中で述べている。じゅうぶんに博識でありながら、こうやって書生のように初々しい向学心を吐露されるあたりが「世に倦む日日」の魅力の一つであって、こういうところは見習わせて頂きたいものだ。そうお思いであればぜひ、ぼくが11月11日の記事で紹介した、まだ「晴美」であった頃の瀬戸内さんが編者を務めた「人物近代女性史」(全8巻・講談社文庫)をお勧めしたい。タイトルどおり、近代の日本をつくった女性たちの小伝を、簡潔かつ生き生きとまとめた列伝集である。著者のほうもすべて女性というのがポイントだ。
 瀬戸内さんは編者というか、「大看板」みたいな役どころで、各巻巻頭の解説のほか、ご自身が筆を執ったのは金子文子と田村俊子の小伝だけだが、他の書き手たちの文章もまったく引けを取ってはいない。1980年(親本となった単行本の出た年)にはノンフィクション界にこれだけの錚々たる才媛が揃っていたわけで、平成以降むしろ層が薄くなったようにさえ感じる。しかしそれは別の話だ。ともかくこのシリーズ、紙媒体は絶版で、電子書籍化もされていないので古書か図書館で読むしかないが、ここまでコンパクトで内容の詰まった「近代日本女性史」は今でも見当たらぬはずである。
 それはそれとして、ぼくが今回言いたかったのはまた別件なのだった。表題からも知られるとおり、この記事のテーマは「スキャンダル」なのだ。
 『美は乱調にあり』と『諧調は偽りなり』の主人公・伊藤野枝は1912(大正元)年、17歳で「青鞜社」の同人となり、ここから知的世界へと足を踏み入れていくのだが、その青鞜社の主宰者が9つ上の平塚らいてうだった。
 この「青鞜」内部のスキャンダルについてもあれこれ書かれているのだが、詳しいことは本記事のほうで読んで頂くとして(もちろん無料公開である)、ぼくがこの記事を看過できぬと思ったのは、夏目漱石に対する誹謗めいたくだりが見られたからだ。世に倦む日日氏はこう書く。




(……前略……)この時期、青鞜だけではないが、文芸雑誌は何やら今の女性週刊誌の中身を併せ持った気配があり、文士たちは恰も芸能タレントの如くで、自分たちのプライベートな自由恋愛を奔放に誌上に暴露し、醜聞の抗弁や批判や論評を演じ合う。恥も外聞もなく。平野啓一郞も怪訝に紹介していたが、現在とはずいぶん時代が異なっていて、不思議な感覚にさせられる。/それは、ある種、大衆の俗情に寄り添って市場の部数を稼ぐビジネスの論理と思惑からの必然性だったのだろうか。よく分からないが、彼らは絶え間なくそれをやり、痴情悶着の暴露応酬をエスカレートさせ、青鞜はおそらくその影響で本来の価値を減価償却して行ったと思われる。近代女性の理念理想にフォーカスした文芸同人誌から、よりラディカルな社会変革思想の方向に旋回し、政府官憲の治安上の干渉と取締りを受けたことに加えて、男女の醜聞ネタの要素が全開になったことが、青鞜が急速に支持を失って衰えた原因ではないか。寂聴の筆からはそう読み取れる。だが、実際、青鞜の女流文士たちだけでなく、自然主義や白樺派の文豪巨匠たちも同じことをやっていて、それが当時の文学文壇のリアリティそのものだった。




 「青鞜」にかんする評価はともかく、その余勢を駆っての「だが、実際、青鞜の女流文士たちだけでなく、自然主義や白樺派の文豪巨匠たちも同じことをやっていて、それが当時の文学文壇のリアリティそのものだった。」がまず勇み足である。論旨が飛躍しすぎている。「文学文壇」なる言い回しも変だが、何にせよ明治後期から大正にかけての文壇ってものをそう安直に片付けられては困る。西欧に学んだ「自然主義」が日本に土着して「私小説」へと変質していく過程はたいそう複雑微妙なもので、こんなふうに荒っぽく(しかも悪意を込めて)纏めてしまっては肝心なところを見誤ってしまう。
 しかも世に倦む日日氏は、この上さらに「不可解で倒錯としか思えない日本文学の悪習と病癖。なぜこんな奇態になっているのだろうか。どうも、そこには夏目漱石の影があるのだ。」と続けるのだ。おいおい、と思わず口にせざるを得ないではないか。
 平塚らいてう(当時はまだ女学生・平塚明(はる)であったが)は1908(明治41)年、22歳の時に栃木の塩原で心中未遂事件を起こす。相手は通っていた文学講座の教師・森田草平(当時27歳)。まぎれもないスキャンダルである。これはのちに塩原事件、ないし後述の理由から煤煙事件と呼ばれることになる。
 この森田草平が漱石の弟子のひとりだった。
 森田草平、今ではまったく読まれておらず、それこそ「漱石の弟子のひとり」として文学史に名前を留めているていどだが、当時はそこそこ有力な作家だった。このように「今ではまったく読まれていないが当時はそこそこ有力だった作家」というのが沢山いるから文学史というものは一筋縄ではいかぬのである。
 この辺の時代状況を知る上での最適かつ不可欠の資料は伊藤整(19巻からは瀬沼茂樹)の『日本文壇史』(講談社文芸文庫)なのだが、これは全24巻だから目を通すのも大変だ。若い人なら関川夏央/谷口ジロー(『孤独のグルメ』の絵を描いている人)のマンガ『坊ちゃんの時代』が手っ取り早いかと思う。電子書籍あり。
(注・ここまで書いて、2015/平成27年のNHK連続テレビ小説「あさが来た」で、当時の事情がかなり詳しく(むろん潤色がたっぷり加えられているのだろうが)描かれていたことを知った。だったら平塚明のこともお茶の間にわりと知られているのではないか。ふだんテレビを見ないのでこういうところが疎くて弱る)


 「世に倦む日日」氏の言い分はこうだ。




この事件を門下の弟子の森田草平に小説にして書けと指導したのは漱石だった。/なぜそのように指示したかというと、森田草平に才能がなく、創作の題材を見つけて物語を織り上げる力がなかったからである。手っ取り早く私的な情痴事件を書いてみいと指導した。漱石一門で東大文学部の文学エリート(文学官僚)である以上、売れない作家というわけにはいかなかったからだ。おそらく、こんな感じで「日本文学」の「業界」が組み上がっていて、太宰治は典型的にその延長上にある。それがスタンダードだったのだ。手頃な標的を見つけて恋文を書きまくり、返信を友人に見せびらかし、その後のラブゲームの波乱と顛末を小説化して売文する。新聞記者にリークして醜聞を囃させ宣伝する。という、それが文壇と業界の標準スタイルだったのだ。




 世に倦む日日さんが『美は乱調にあり』『諧調は偽りなり』以外にどのような資料に依拠しているのかはわからぬが、『日本文壇史』全24巻を読破しておられぬことは確かであろう。限られた情報を元に想像力を駆使して憶説を立て、その臆説がどんどん加速して膨らんでいくのがこのブログの真骨頂ではあるのだが、ぼくとしても、自分の専門分野でここまで放埓なことを述べ立てられたら黙っているわけにはいかない。
 森田草平が平塚明との心中未遂事件を元に小説を書いたのは事実だ。タイトルは『煤煙』。1909(明治42)年の1月から5月まで東京朝日新聞に連載された。ふつうであれば社会的に葬り去られるはずだった森田草平は、まさに起死回生というべく、この小説によって逆に新進作家として認められた。
 日本版wikiの「煤煙(小説)」の項には、「漱石は『東京朝日新聞』の文芸欄を担当していたことから草平にこの事件を書くことを勧め、森田は平塚家の許可を得て、小説として1909年1月1日から5月16日まで127回にわたって連載した。」と書かれ、出典は荻原桂子『夏目漱石の作品研究』(花書院)となっている。世に倦む日日氏はこのwikiの記述を参考にされたのだろうか。
 ぼくはさすがにこの本を読んではいないため、荻原さんがどんな資料に基づいてそう書かれたのかは不明だけれど、『日本文壇史』の13巻『頽唐派の詩人たち』の当該部分を見ると、漱石はけして森田草平に向かって「手っ取り早く私的な情痴事件を書いてみい。」などと指導も指示もしていない。森田草平が自らの意思でその体験を書こうと決めたのだ(むしろ最初からその気で道行きに赴いた節さえある)。漱石がしたのは朝日新聞に発表の場を設けてやったことと、明(はる)の母が苦情を言いに来たとき間に入って弁明をしてやったことくらいである。
 それはもちろん弟子なのだし、一時は家に居候までさせてやっていたらしいから、この体験を文学として昇華したらどうか、という示唆はあったのかもしれないが、だとしてもそれは、けして大衆の俗情に媚びて安っぽい人気を得ようというのではなかった。あくまでも「平塚明」という新時代の女性の個性が新時代の日本文学の題材として描くに値するものだと思ったからこそのことなのである。文学への敬意に乏しい世に倦む日日さんにはその辺の機微がわかっていない。これでは漱石がなにやらチンピラ文士の元締みたいではないか。
 大文豪だからといって神格化する必要はないが、その裏返しのように、殊更ちんけな俗物扱いするのもおかしい。
 じっさい漱石は、平塚明本人には一面識もなかったけれども、森田から聞いた彼女の印象をもとにあの『三四郎』の里見美禰子を造形している。『煤煙』はもう読まれないけれど、『三四郎』は美禰子の魅力もあって今もなお青春小説の名品として読み継がれているのは周知のとおりだ。また漱石は、「『煤煙』の序」という短文において、小説の出来に苦言を呈してもいる。この「『煤煙』の序」はタイトルどおり森田草平の『煤煙』が出版された時の序文なのである。序文で作品の出来栄えに苦言を呈するわけだから、いかに師弟とはいえ大胆な話だとは思うけれども、しかしそのこと一つ取っても漱石が、「一門で東大文学部の文学エリート(文学官僚)である以上、売れない作家というわけにはいかなかった。」などと、しょうもない思惑を持って弟子や作品や文学に向き合っていたわけでないのが知られるであろう。


「『煤煙』の序」
https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/4684_9470.html



 というわけで、ふだんは「あれ?」と思う部分があっても適当に読み飛ばし、勉強になる所、参考になる所だけを記憶に留めるようにしているが、今回はどうにも酷すぎたのでこのような記事を書いた。失礼の段はご容赦願いたい。ただ、漱石の意図は別として、この「煤煙事件」が「醜聞の作品化~商品化」というべき事態を結果的に招聘した。少なくともその端緒をつくった。かもしれぬ。という仮説であれば、それなりに頷けないでもない。そのことは改めて考えてみたい。
 いずれにせよ、ぼくがいちばん言いたかったのは、近代日本文学とスキャンダルとの関係うんぬんよりも、もっともっと重要なのは「近代の日本における文学と社会主義思想との関係」ではないかということだ。近代日本を解く鍵はむしろこちらのほうである。世に倦む日日さんならば、とうぜんこの主題をこそ追究されるべきではあるまいか。




小松左京について 21.11

2021-11-18 | 純文学って何?
 TBSドラマ『日本沈没-希望のひと-』が映画『シン・ゴジラ』(2016)を下敷きにしているのは誰の目にも見て取れるだろう。≪シン・ゴジラと半沢直樹を足して10で割ったような≫という悪口すら見かけたが、さすがにこれは言い過ぎで、ぼくが脚本家だったら怒りまくる。「会議シーンがだらだら長くて退屈、『シン・ゴジラ』のあのテンポの良さと緊張感がない。」ってことだろうが、映画のほうは119分、対してテレビドラマは、今のところ公表されてはいないが仮に全10話だとして単純計算で約50分×10話で500分なのだから、ところどころ冗漫になるのも仕方がない。ぼくはふだんテレビを観ないが、このドラマだけはスイッチを入れてしまう。面白いのである。


 原作版の主人公は深海潜水艇の操縦士で、1973年映画版の藤岡弘も、1974年テレビドラマ版の村野武範も、2006年映画版の草彅剛も、その職業を踏襲していた。このたびの小栗旬は「日本未来推進会議」に在籍する環境省の若手官僚で、ここが大きな変更点である。この人が『シン・ゴジラ』の長谷川博己に当たるわけだが、ぼくの見るかぎり、この2人の役者の魅力に遜色はない。いちばんの相違は、ドラマの「日本未来推進会議」と、シン・ゴジラのあの素晴らしき「巨災対(巨大不明生物特設災害対策本部)」との隔たりだろう。

 組織に馴染めぬ変人ぞろいでありながら(いやむしろそれ故に?)おっそろしく優秀で有能だった巨災対の面々に比べて、「日本未来推進会議」のメンバーは省益優先で政治家の顔色をうかがってばかり、いかにも凡庸に見える。だいいち官僚ばかりで科学者がおらぬ。そこが「シン・ゴジラの劣化版」という酷評にも繋がるのだろうが、しかし思えばこのグダグダっぷりのほうが遥かにリアリズムではないか。それに、情報が不確定だった頃こそ半信半疑で右顧左眄していた彼ら(むろん女性も含む)にしても、じっさいに関東の一部が沈没するや、とたんに実務能力を発揮して対応に精魂を傾けるのだ。先の9・11を思い起こすと、むしろ理想化されているとも言える。現実の役人が本当にここまで的確かつ献身的に動いて下されば有り難いのだけれど。


 原作者はいうまでもなく日本SFのゴッドファーザー小松左京(1931/昭和6 ~ 2011/平成23)。小説は1973(昭和48)に光文社から刊行。空前のベストセラーとなり、SFというジャンルが広く市民権を得るきっかけともなった。同年に東宝で映画化され、こちらも大ヒット。


 青土社の「現代思想」が、生誕九〇年/没後一〇年ということで、この10月に「2021年臨時増刊号 総特集=小松左京」を出した。ユリイカではなく「現代思想」のほうというのがミソだ。文藝の枠には収まらぬ「思想家」として小松さんを捉えようという趣旨であろうし、今日においてはそれこそが正しい遇し方である。そうであればこそ盟友・高橋和巳との関係性も改めてクローズアップされるし、若き日のマルクス主義との……もっとはっきり言うなら共産党との……関わりについても、より高い視座から論じることができるというものだ。


 若き日の小松実(本名)青年は共産党に籍を置いていた。1950年から1952年頃まで、おおむね19歳から20歳くらいまでだ。これはべつだん珍しいことではなくて、当時のインテリ学生は大なり小なりマルクス主義に惹きつけられていたのである。小松さんとほぼ同年齢で、のちに保守派の論客(笑)として粘着質の厭ったらしい文体で丸山眞男や大塚久雄、さらには大江健三郎などの悪口をねちねちと書き綴ることになる谷沢永一も、それくらいの年齢で共産党に在籍していた。そこでいろいろ下らぬ事態に出会って(それはもう出会うにきまっているのだが)幻滅して脱党、あげく反対の極へと突っ走る。いわゆる「ヤメ共」の典型例だ。


 小松青年のばあい、入党の直接の動機は「戦争反対・原爆反対」であった。「悪の米帝に対する平和勢力のソ連」という幻想が成立していた期間が戦後の一時期にはあったのだ。しかし、1949(昭和24)にはすでにもう当のソ連も一回目の原爆実験に成功しており、この図式も危うくなっていたのだが、一部の者はそれでも「アメリカの武力は絶対悪。されどソ連の武力はそれに対抗するための必要悪」といった屁理屈を捏ねて正当化を図っていた。しかし、まともな知識人や学生ならば、この手の強弁が欺瞞であると気づかぬはずがない。かくして小松青年は(それだけが理由ではないが)ほどなく党を離れた。


 ついでだから、戦後政治史の一環として、当時の共産党について少しだけ触れておこう。ソ連が一回目の原爆実験に成功した1949年は、中国で共産党が内戦に勝って国民党を追い出し、政権を樹立した年でもある。日本では総選挙にて共産党が35議席をとった。戦後初の1946(昭和21)年の選挙では5議席どまりだったから大躍進である(念のため言うが、1949年当時の日本はまだアメリカの占領下だ)。そんな趨勢もあって、「議会制を通じて平和革命~人民政権の樹立は可能だ。」という見解を党是としていたのだが、そこで総元締めのソ連から(より正確にいえばソ連共産党を親玉とするコミンフォルムから)、「そんな甘っちょろいことでどうする。」と頭ごなしに叱責され、方針転換を命ぜられた。かくて当時の日本共産党は、ソ連に反発する「所感派(主流派)」と、その叱責を受け入れる「国際派」とに分かれた。のちに学生運動を担った「新左翼」もこのあたりに繋がるわけだ。さらにこのあとGHQによるレッドパージがきて、主なメンバーが公職追放、ヤケになった「所感派」もまたコミンフォルムの方針に従い、軍事方針に舵を切ることとなる。このあいだの選挙前、ワイドショー「ひるおび!」で八代英輝弁護士が行った発言は(後日、局アナによって訂正・謝罪された)、この時期の機微にかかわるものだ。本筋とは関係ないのでこれくらいにしておくが、ぼくは未読ながら、この6月に、池上彰と佐藤優による『真説 日本左翼史 戦後左派の源流 1945-1960』なる対談本が講談社現代新書から出たようだから、こういった話にもあながち需要がないわけでもないだろう。


 さて。京大生だった小松青年はけっしてただの政治青年ではなかった。そもそも、上から降りてくる活動方針のあまりのばかばかしさに呆れ、指示に従わずに「党活動停止」を早々に食らっていたほどだ。やはりその本領は文学にあった。「京大作家集団」という、いまふうにいえば「イタい」名称の団体の同人となって高橋和巳、近藤龍茂、三浦浩ほかの面々と日々議論に明け暮れていた(今と違って荒っぽい時代だから、議論はしばしば腕力沙汰にも及んだという)。それと同時に自然科学・社会科学にまたがる科学少年上がりでもあり、また、サブカル少年のはしりでもあった。むろん幼児期(戦前である)から小説はあまた読み漁っていたが、漫画も大好きだったのだ(ぼくはほぼ文献でしか知らないが、当時から漫画というジャンルはけっこう隆盛を誇っていたようだ。有名なのは「のらくろ」「冒険ダン吉」「タンクタンクロー」「猿飛佐助」といったところだが、他にもいろいろ面白いものがあったそうな)。


 こういった雑多な関心の赴く先にSFという表現様式をのちの小松さんが選び取ったのは当然というべく、どう考えても純文学に収まるタマではないし、文字を使っての創作となればどうしたってSFしかなかっただろうな、とは思う。


 現代SFの鼻祖といったらイギリスのH・G・ウェルズ(1866/慶応元・慶応2~1946/昭和21)だろう(フランスのJ・ヴェルヌはこの人よりさらに40歳ほど先輩だが)。『タイムマシン』『宇宙戦争』『透明人間』『モロー博士の島』など、その代表作はどれもみな汲み尽くせないネタ元として今なお無数のヴァリエーションを生み続けている。このウェルズもまた万学に通じた大知識人で、『世界文化史』というノンフィクションの著作もある。初版の刊行は1920(大正9)年。英語版wikiには「宇宙の誕生から第一次大戦までを記した歴史書」とあるから、今でいえばさしづめユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』といったところか。ほかに、専門の科学者たちとの共作として『生命の科学』なる大著もあり、「古本屋でタダ同然で譲ってもらったこの翻訳本が戦争中の僕のバイブルみたいなものだった。」と小松さんは対談の中で述べている。何であれ書物自体が貴重だった時代だから、「バイブル」はけして大げさな物言いではない。




 近代の日本がどのように海外のSFを受容し、そこからオリジナルの作品を創り出していったか。については、長山靖生の労作『日本SF精神史 幕末・明治から戦後まで』(河出ブックス)に詳しい。「日本SFの誕生から百五十年、“未来”はどのように思い描かれ、“もうひとつの世界”はいかに空想されてきたか―。幕末期の架空史から、明治の未来小説・冒険小説、大正・昭和初期の探偵小説・科学小説、そして戦後の現代SF第一世代まで、近代日本が培ってきたSF的想像力の系譜を、現在につながる生命あるものとして描くと同時に、文学史・社会史のなかにSF的作品を位置づけ直す野心作。」である。これまでの文学史はあまりにも「純文学」だけに偏していたので、より広い見地に立ったこの種の試みははなはだ意義深い。もっともっと多くの書き手が出来することを望む。




 とまれ、SF小説と呼ぶべきものはすでにして幕末から在ったわけである。むろんおとぎ話や神話まで含めれば人類の起源にまで遡行してしまうため、どこかで線を引かねばならないが、長山さんは幕末の儒学者・巌垣月洲の『西征快心篇』(安政4/1857頃)を「日本最初のSF」と評価している。このころにもう和製SFが誕生していたとなると、それから敗戦までの90年近く、当該ジャンルがそれなりに成熟しなかったはずがない。




 のちに星新一、筒井康隆と共に「日本SF第一世代の御三家」と並び称される小松さんだが、戦前~戦中、その小松少年を夢中にさせた和製SFが既にあったというわけだ。早川書房が1968(昭和43)年から1971(昭和46)年にかけて刊行した全35巻の『世界SF全集』の第34巻「日本のSF(短篇集)古典篇」には、江戸川乱歩、小酒井不木、平林初之輔、木津登良、直木三十五、渡辺温、海野十三、夢野久作、小栗虫太郎、野村胡堂、星田三平、牧逸馬、久生十蘭、木々高太郎、大下宇陀児、横溝正史、蘭郁二郎、城昌幸、渡辺啓助、北村小松、香山滋といった人たちの作品が収録されている(他に宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』、川端康成の『抒情歌』、稲垣足穂の『一千一秒物語』、内田百閒の『東京日記』などが入っているのも興味ぶかいのだが)。




 このなかで、ことにSFプロパーとして特筆すべきは海野十三(うんの じゅうざ1897/明治30~1949/昭和24)だろう。小松さんにとっては神戸一中の先輩にも当たる。1937(昭11)年の『海底大陸』では「宇宙線の遮断による生命体の進化への影響」というコンセプトを出し、1940(昭和15)年の『地球要塞』では「日本沈没」というアイデアを(!)出している。


 またこの作品では「四次元」という発想が取り入れられ、「オルガ姫」(手塚治虫『火の鳥2772 愛のコスモゾーン』はこれへのオマージュだった!)という名の美少女アンドロイドが登場したりもする(ちなみに少年時代の大江健三郎……小松さんの4歳下……もわりと海野十三は好きだったらしい)。このほか、山中峯太郎の軍事冒険小説『亜細亜の曙』も当時の少年たちの愛読書だった。漫画もそこそこ充実していた旨は前半で述べた。つまりぼくは、昔からサブカルに相当するものはあったと言いたいのだ。そういった蓄積のうえに戦後SFが花開いたので、けしていきなり降って湧いたわけではない。
『地球要塞』 青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/3239_15747.html







 書きたいことは色々あるが、これはいちおう「純文学って何?」のカテゴリなので、ここらで純文学サイドに寄せていきたい。これは小松さんに限らず、戦後のインテリ学生の定跡みたいなものだったのだが、マルクス主義と並んで小松青年が惹かれていたのはサルトルの実存主義だった。「『嘔吐』はやはり凄いものだったね。しかし小説として面白かったのはカミュの『異邦人』のほうだった。いちばん好きなのは『ペスト』。」との発言もある。たしかに、『果しなき流れの果に』や『神への長い道』などはエンタメ化された実存主義文学ともいえる。30代くらいまでの潔癖だったぼくにはそれが「通俗」と見えて軽侮の念を覚えたものだが、今は「実存主義をエンタメでできるなんて素晴らしいじゃないか。」と思っている。誰しもが面白く楽しく読めて深く考えさせられる。むしろそういうものこそほんとうの文学なのではないか。




 戦後に出てきた作家の中では、小松さんは安部公房を高く評価していた。安部さんは1924/大正13生まれなので小松さんより7つ先輩になる。ちなみに上記の『世界SF全集』には安部公房が一巻立てで収録されている。日本の作家で一巻立てはほかに星新一と小松さんのみ。筒井康隆・眉村卓・光瀬龍が3人セットで一巻だから、安部さんの待遇がいかに破格かわかる。『世界SF全集』についてはよく知らないのだが、ひょっとしたらこの人選と編集には小松さんの意見が反映されているのかもしれぬ……と想像するのは許されるだろう。




 日本の戦後文学者の中で小松さんが他に名前を挙げているのは埴谷雄高の『死霊』。いかにもという感はある。あと小説ではなく評論になるが花田清輝(シナリオライター花田十輝の祖父)の『復興期の精神』、野間宏の『暗い絵』、椎名麟三の『深夜の酒宴』、武田泰淳の『異形の者』、中村真一郎の『死の影の下に』など、いわゆる「第一次戦後派」と呼ばれる作家、あるいはその周辺の人たちのものだ。ちなみに小松さんの盟友・高橋和巳は年齢がかなり下なので「戦後派」とは呼ばれないけれど、あきらかにこの系譜に属する小説を書いた。初期の大江さんも近い。これらの方々の作品は今はもう殆ど読まれなくなってしまっているのだが、その精神がSFに受け継がれて現在のサブカルの繁栄に繋がっているかと思うといくらか救われる気がする。




 「そういった作家の作品群は、戦前の純文学と呼ばれた私小説、家庭小説、恋愛小説、心境小説と全然違うわけ。/非常にがっちりした構想と、観念的というか形而上的というか、ミステリとよく似ているんだね」




 ここで「ミステリと似てる」というのが誉め言葉として使われているのが興味ぶかい。それはドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』が最上のミステリだという意味での「ミステリ」であろう(埴谷さんはもろにそれを狙ってたわけだが)。正直ぼくは古色蒼然たる私小説や家庭小説や恋愛小説や心境小説も好きなので少し困るのだが、とはいえ、そういった作品が夾雑物を削ぎ落したあげくに散文詩に似たものへと昇華してしまうのは確かであって、「骨太の構想」「重厚なテーマ」「豊かな物語性」「観念的な奥行き」「全人類的な思想」を備えた西欧由来の長編こそが語の本来の意味での「小説」だろうと思ってはいる。やはり従来の日本文学史は、あまりにも既成の「純文学」の概念に囚われすぎていた。小松左京と大江健三郎とが、あるいは例えば松本清張と太宰治とが(この2人は同年の生まれである)同時代性のなかで語られる総合的で広やかな文学史が編み直されてもいい頃だ。




 思い立ってこんなエッセイを書き始めてみたが、純文学/エンタメ小説というジャンル分けの話に拘泥して(それが当ブログを貫くメインテーマではあるのだが)、小松左京その人についてはあまり紙幅を費やせなかったかもしれない。いずれまた、もう少し準備を整えて、小松文学と小松左京のことを書きたい。


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おまけ
戦後SF界の勃興期にかんしては、これをひとつの惑星に例えた石川喬司のことばが有名だ。引用者によって細部に異動はあるが、おおむねこんな感じである。
「星新一と矢野徹がこの惑星へのルートを開拓し、福島正実が青写真を描き、小松左京が万能ブルドーザーで地ならしし、光瀬龍がヘリコプターで測量し、眉村卓が貨物列車で資財を運び、筒井康隆が口笛を吹きながらスポーツカーで乗りこんだ……」。
 のちに小松さん自身が晩年の著書『SF魂』でさらに広げて「(近くに)漫画星雲の手塚治虫星系が発見され、半村良SF酒場開店、豊田有恒デパートが進出、平井和正教会が誕生、野田昌宏航空開業……」と加筆したそうな。
 ぼくが拝見したサイトの筆者さんは、さらにこう付け加えておられる。
「私なら、ここに海野十三さんをさらに付け加えます。『海野十三の星が孤独に輝いて、未来のSF民族をそのSF惑星に導いてくれた』と。」
 やはり海野十三は先駆者なのだ。




 ところで、ほかのところで石川さんは、こんな言い方もしておられる。人名リストとしてはこれがいちばん充実しているし、サブカル(漫画)に視野を広げている点で、より文化史的な見方といえる。
「漫画星雲の手塚治虫星系の近傍にSF星雲が発見され、星新一宇宙船長が偵察、矢野徹教官が柴野拓美教官とともに入植者を養成、それで光瀬龍パイロットが着陸、福島正美技師が測量して青写真を作成……。いち早く小松左京ブルドーザー(コンピューター付き)が整地してね、そこに眉村卓貨物列車が資材を運び、石川喬司新聞発刊、半村良酒場開店、筒井康隆スポーツカーが走り、豊田有恒デパートが進出、平井和正教会が誕生、野田昌宏航空開業、大伴昌司映画館ができ、石原藤夫無線が開局、山野浩一裁判所が生まれ、荒巻義雄建設が活躍。伊藤典夫通弁事務所ができ、浅倉久志大学も作られた……。」




 とはいえ筒井さん(今やSFというジャンルを超えて日本文学全般にわたる堂々たる大家なのだが)自身は、かつて『腹立半分日記』のなかで、
「こんなに気楽にやったわけではないのだ。SFは小松さんより早くからやっていて、同人誌は六年間も続けた。雌伏の期間がながく、ずいぶんつらい思いもしたし、雑誌から原稿を突き返された数はぼくがいちばん多い筈である。書くものが派手だからそう見えるのかもしれんが、この際弁明をひとこと。」とすこぶるマジメに自己注釈を加えていた。



追悼 瀬戸内晴美  人物近代女性史 講談社文庫 全8巻 リスト

2021-11-11 | 純文学って何?
 瀬戸内寂聴さんは、本業の小説のほか、源氏物語の現代語訳、仏教の解説書など色々な仕事を遺されたが、訃報を聞いてぼくが即座に思い浮かべたのは、伊藤野枝の生涯を描いた『美は乱調にあり』と『諧調は偽りなり』だ。いまは岩波現代文庫に入っている。瀬戸内さんは荒畑寒村(1887/明治20 ~1981/昭和56)とも親交があり、「ガールフレンド」との「称号」をもらったこともある(年齢は瀬戸内さんのほうが35歳下)。
 荒畑寒村は、近ごろの若い人には馴染みの薄い名前だろうが、日本の社会主義者の草分けの一人である(洒脱な人柄で、小説も巧かった)。寂聴尼といえば筋金入りの反戦主義者でもあり、「社会派」であったのは間違いないが、いっぽうでは、櫻井よしこ、石原慎太郎といった人たちとの共著もあって、軽々に色分けできるような方ではなかった。
 連合赤軍事件の永田洋子死刑囚との往復書簡も有名だし、永山則夫とも文通をしていた。共著というと、梅原猛、五木寛之、加藤唐九郎、水上勉、永六輔、稲盛和夫、荒木経惟、安藤忠雄、日野原重明、山田詠美、玄侑宗久、鶴見俊輔、ドナルド・キーン、平野啓一郎、美輪明宏、田辺聖子、さだまさし、藤原新也、萩原健一……らの各氏とも共著を出しておられるらしい。正直これは、「幅が広い」とか「懐が深い」というより「節操がない」という言葉が当てはまるような気もするが、立場ではなく、とにかく「人間」に興味があったのだろう。人望が厚くなるのも道理だ。
 1953(昭和28)年の、いわゆる「徳島ラジオ商殺し事件」に際しての活動も有名だった。つまりは「社会の矛盾によって弱者が抑圧されること」に対して憤りを発する方であったのだと思う。かつての日本は(日本だけには限るまいが)、いま以上に女性ぜんたいが「社会の矛盾によって抑圧される存在」であったから、瀬戸内さんの文業の大半が「フェミニズム」と呼ばれるものに重なっているのは当然であろう。
 ぼくが20代の末に古本屋でセットで見つけて買い込んだのが、まだ「晴美」であった頃の瀬戸内さんが編者を務めた「人物近代女性史」(全8巻・講談社文庫)。タイトルのとおり、近代の日本をつくった女性たちの小伝を、簡潔かつ生き生きとまとめた列伝である。著者のほうもすべて女性というのがポイントだ。読み物としても面白いし、女性史としても、近代史としても勉強になった。残念ながらもう絶版で、電子書籍化もされておらず、古書でしか入手できないが、自分なりの追悼としてリストアップしておく。()内が各章の著者名である。







① 明治女性の知的情熱


 女の屈辱から生まれた「栄光の女医」第一号の苦闘と情熱・荻野吟子
(広池秋子)
 絹ひとすじに青春を捧げた「伝習女工」の輝ける日々・和田英
(安西篤子)
 密命を帯びた女教師が秘境にうちたてた教育の理想像・河原操子
(岩橋邦枝)
 芸術家・亡命政客のオアシス「中村屋サロン」の主役・相馬黒光
(太田治子)
 激しい忍ぶ恋と清冽な絵筆が描いた近代美人画の孤絶・上村松園
(落合恵子)
 スキャンダルの嵐を生きた「翔んでる」女の愛の虚実・宮田文子
(松原一枝)
 冬の時代に耐えて歩んだ婦人解放理論家の「持続した志」・山川菊栄
(江刺昭子)


② 反逆の女のロマン


 快然と絞首台に散った「大逆事件」の孤高のヒロイン・管野すが
(近藤富枝)
 爆弾をふところに潜行した女闘士の不屈の反骨精神・福田英子
(丸川賀世子)
 自分のために生きた「炎の女」の鮮烈な愛と思想・伊藤野枝
(池田みち子)
 薄幸な生い立ちを充実した「生」に変えたアナーキストの恋・金子文子
(瀬戸内晴美)
 革命家から家庭人への数奇な一生が刻んだ殉教者の肖像・九津見房子
(江刺昭子)
 動乱の中国大陸を駆けぬけた「男装の麗人」スパイ・川島芳子
(戸川昌子)


③ 自立した女の栄光


 女性解放のたいまつをかかげた「青鞜の女」のリーダー・平塚らいてう
(角田房子)
 娼婦から婦人運動家への数奇な転身を生んだ「時代」の奇蹟・山田わか
(保高みさ子)
 天才女詩人と内助の夫の愛がうちたてた女性史の輝く金字塔・高群逸枝
(中山あい子)
 離婚から出発して女子教育の鬼となった「精力絶倫」のクリスチャン・矢島楫子
(阿部光子)
 「終わりなき闘い」に殉じた婦選運動家のチャンピオン・市川房枝
(江刺昭子)
 家庭革命に挑戦した本邦婦人記者第一号の誇りと栄光・羽仁もと子
(田中澄江)


④ 恋と芸術への情念


 古いモラルとの闘いに命を賭けた恋のカチューシャ・松井須磨子
(河野多恵子)
 世界を駆けたプリマドンナの愛の遍歴・三浦環
(三枝和子)
 女王の座をすてて恋に生きた悲愁の歌人・柳原白蓮
(岩橋邦枝)
 明治の下町が生んだ粋で美貌の劇作家・長谷川時雨
(城夏子)
 狂気のうちにも夫を慕い続けた至純の愛の孤独・高村智恵子
(来水明子)
 美人芸者が新舞踏運動の旗手となるまでの情熱的生きかた・藤蔭静樹
(松原一枝)
 才女とうたわれたアララギ派歌人の華麗な恋の破局・原阿佐緒
(阿部光子)


⑤ 国際結婚の黎明


 さんざめくウィーンの夜に咲いた小さな伯爵夫人 クーデンホーフ光子
(角田房子)
 寄るべなき詩人の魂を定着させた「徳島の女」のぬくもり モラエス・ヨネ
(丸川賀世子)
 アメリカ富豪の玉の輿に乗った祇園の名花の愛と誠 モルガン雪
(安西篤子)
 愛する人を助けてつつましく燃えた献身的生涯のすべて ベルツ花
(近藤富江)
 絵の好きな下町娘が異国で洋画家になるまでの静かな道のり ラグーザ玉
(太田治子)
 「激動の時代」に旅立った混血女医の波乱の一生 シーボルト・イネ
(山本藤枝)


⑥ 新時代のパイオニアたち


 宰相をパトロンとした名妓から一躍国際女優第一号へ・川上貞奴
(丸川賀世子)
 妖女か才女か、謎と艶名につつまれた宮廷の花・下田歌子
(岩橋邦枝)
 鹿鳴館のシャンデリアの下に生まれた近代最初の令嬢作家・三宅花圃
(山本藤枝)
 彗星のように逝った天才女流作家の愛と文学・樋口一葉
(安西篤子)
 宮廷の才女、一転してわが国初の女流民権の闘士となる・岸田俊子
(田中阿里子)
 世界最年少8歳のアメリカ留学生、女子教育の一粒の麦ここに育つ・津田梅子
(来水明子)




⑦ 火と燃えた女流文学


 新しい時代の恋をひらいた情熱の歌人・与謝野晶子
(城夏子)
 奔放な恋の狩人の生涯・田村俊子
(瀬戸内晴美)
 ユニークな男性遍歴が告げた無明の世界・岡本かの子
(三枝和子)
 革命の文学に燃えつきた見事な生きかた・宮本百合子
(池田みち子)
 貧窮と放浪に負けずに歩んだ一筋の道・林芙美子
(中山あい子)
 すべての権威と闘い続けた反逆の子・平林たい子
(保高みさ子)


⑧ 人類愛に捧げた生涯


 孤愁と憂悶に耐えて底辺の救済を祈った美貌の歌人・九条武子
(田中澄江)
 貧困と忍耐が高らかに啓示した近代日本への告発・出口ナオ
(三枝和子)
 神への愛と信仰を苦難の同胞にそそいだコタンのマリア バチュラー八重子
(保高みさ子)
 「悲しい病」との闘いに限りない愛を捧げた白衣の戦士・小川正子
(阿部光子)
 日中友好の夜明けを生きた「緑の星」の嵐の青春・長谷川テル
(近藤富江)
 不幸な戦争が生んだ混血児2000人のすばらしき「ママ」・沢田美喜
(池田みち子)


◎ブログ内 関連記事
https://blog.goo.ne.jp/eminus/e/b04fabf7b52d60d95b6e3e793a149257





21.08.16 おぼえがき 文学は実学である。

2021-08-16 | 純文学って何?
 Twitterを見ていたら面白かったので、とりあえずまとめてみました。ひさびさに「純文学って何?」カテゴリの記事ですよ。
 ぼく自身の意見はまた後日。




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もう二度と「文学の時代」は戻らない……だからこそ文章を書く人に求められること
著者は語る 『文学は実学である』(荒川洋治 著)
https://bunshun.jp/articles/-/41688





著者(荒川さん)のことばの一部を抜粋


「文学部を出た人は、歩いていても、わかります。ぼんやりしている。文学部、文科系の人は、いつも、漠然と、人間について考えつづけてきた、というところがあります。つまり、〈人間〉の研究をしているんですね。いまは、これまでの方法では、解決できない問題が多い。社会が壁にぶつかったとき、いざというとき、文科系の人は、人間性にもとづく、いい判断ができ、大切な、必要なはたらきをすることがあります。人間についての総合的な認識や感性をもつことが大切で、文学が『実学』である、というのは、その側面をとらえてのことです。この『実学』は、文学ではないものに求めることもできます。言葉を身体の中で作用させなければならないから、音楽では担えないんです。そういう意味では、哲学・思想にも頑張ってもらいたいですね。」


「いろんなメディアが発達したこともあるし、読書は、他人が書いたものを読むという行為ですよね。でも今の人は、他人に興味がない。自己愛が強くなったのか、あるいは逆に、小さくなったのかもしれない。本来の健全な自己愛の構造は、まず自分があって、そこから親の世代への興味、祖父母の世代の興味へと遡り、過去との繋がりに学んでいくんです。文学はほとんどが、過去を書くものです。でも今は、世代が断絶していて、過去に学ぶこともなくなっています。」


「文学が偉くなくなったからこそ、〈文学とは何か〉という根本的で、本質的なことが問われる、試されている時代だと思います。だからこそ面白いし、やりがいがあります。また、時代の先行きが見えなくなると、人は自分自身に立ち戻ります。そういう点で、文学は多少持ち直している気がします。ただ、もう二度と、いわゆる文学の時代は戻ってこないでしょう。ところが、そんなことは関係なく、文学は消えずに存在しつづけるとも思います。」




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Twitterより




小説創作で学ぶ 文章の技術(文芸社 通信講座)
@writeinprose
7月2日
「この世をふかく、ゆたかに生きたい。そんな望みをもつ人になりかわって、才覚に恵まれた人が鮮やかな文や鋭いことばを駆使して、ほんとうの現実を開示してみせる。それが文学のはたらきである」(荒川洋治「文学は実学である」)




あいすカフェオレ@意識低い系読書
@cafeaulaitice
6月12日
『文学は実学である』荒川洋治
情報過多の時代、文学の力を侮ってはいけないと思いますよ。
“ 一冊の本を手にするということは、どうもそういうことらしい。自分の中に何かの「種」、何かの「感覚」、おおげさに言えば何か「伝統」のようなものが、芽生えるのだ。”




Pan Traductia
@PTraductia
7月30日
この一年ほど、政治家がかかわる問題や事件を見て思うのは、想像力の乏しい人が多いこと。たぶん、文学とは縁遠いんだろうな。文学は実学ですよ。仮定の問題にも答えられる思考力も、失言を防ぎ誤解されないようにする言語力も養える。




星野直彦@まぶしい社長
@HoshinoNaohiko
8月6日
文学は実学であるとは、まさに至言。虚言などではないし、実際には全ての学問は実学であると言っても過言ではない。
此処にあるように、想像力喚起の出来ない人間が問題解決に当たることの危険性は高いと言うこと。




Pan Traductia
@PTraductia
7月31日
若い頃に文学に接するのはごく自然なことなので考えに入れなくていい。いつまで、どこまで、という話。たとえば、イギリスの19世紀以降からだけでも、公務の傍ら詩人や劇作家として活躍した閣僚を数え上げていくと、結構な数になる。明治以降の日本ではどうか。調べると面白いことだろう。


Pan Traductia
@PTraductia
7月31日
例示しやすいので文学と書いたが、表現活動全般と考えてもらえれば。美術、映画、アニメ、音楽、演劇、漫画、いずれも入る。接しているか、好きかどうか、というだけの浅い話をしてもいない。


Pan Traductia
@PTraductia
7月31日
「文学が実学であるか」ではなく「その人が文学を実学として扱えるか」という、個々人の問題。政治家に限定せず。




Pan Traductia
@PTraductia
8月13日
前に「文学は実学」と言ったが、実学という言葉では伝わりづらいなら、基礎工事と言ってみよう。個人が個人であるための、そして、個人と個人がつながって社会を築くための。見えないからといって、捨てコンクリートやパイルで手を抜いたら、どんなに美しい外観の建物でも、倒壊します。




nakas17
@nakas171
7月5日
返信先:
@ShinHori1
さん
明治政府はあれだけ富国強兵が急がれている時期に教育の前のめりに走らなかった。アホみたいな実学優先に傾くことなく初等教育を固めることにも力を注いだし、基礎学問や哲学文学が重要なこともわかっていた。現政府の明治礼賛は驚くほど浅薄で無知にあふれている。






☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




佐藤優BOT
@satoumasaru_bot
7月18日
神学は虚学だと思うんです。神学から見ると理学も、工学も、法学も、文学も、経済学もすべて実学なんです。私は虚学と実学のバランスが取れてはじめて総合知が生まれると思うんです。






学問とは、ただむずかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。
古来、漢学者に世帯持ちの上手なる者も少なく、和歌をよくして商売に巧者なる町人もまれなり。
実なき学問はまず次にし、もっぱら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。
福沢諭吉『学問のすゝめ』より






勉強たん
@Lets_study_bot
6月9日
「知識は重要だが、有用でなければならない」とはマサチューセッツ工科大学に息づく伝統のこと。ここから実学、すなわち成果の見やすい工学や医学と成果の見にくい虚学、文学や天文学との対比が見て取れるわね。実学を重視する人も多いけど、虚学という土台のもとに成立している以上、どちらも重要よ。





逢坂誠二 立憲民主党
@seiji_ohsaka
文化芸術を大切にすべきと考えるのは、目先の利益や損得だけでは得られない、それが人の心を豊かにし、他者を尊重し意思疎通を図り、創造力や感性を育むための糧となり、人間に不可欠なものだからです。ゆとり、思いやり、優しさ、慈しみなど、今だけ自分だけ金だけの世の中だからこそ必要なことです。




第164回芥川賞受賞作決定。

2021-01-20 | 純文学って何?

 前回の記事は、期間限定っていうより「時間限定」でしたね。お昼休みにぱぱっと書いてアップしたんだけど、発表までの数時間だけ有効だったという……。
 2020年下半期の芥川賞は、下馬評どおり宇佐見りん「推し、燃ゆ」(文藝秋季号)に決定。ちなみに直木賞は西條奈加『心淋し川』(集英社)に。話題となったクリープハイプの尾崎世界観、NEWSの加藤シゲアキ両氏は受賞を逸す。
 これで2011年以降の受賞作はこうなりました。





第164回(2020年下半期)- 宇佐見りん「推し、燃ゆ」
第163回(2020年上半期)- 高山羽根子「首里の馬」/遠野遥「破局」
第162回(2019年下半期)- 古川真人「背高泡立草」
第161回(2019年上半期)- 今村夏子「むらさきのスカートの女」
第160回(2018年下半期)- 上田岳弘「ニムロッド」/町屋良平「1R1分34秒」
第159回(2018年上半期)- 高橋弘希「送り火」
第158回(2017年下半期)- 石井遊佳「百年泥」/若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」
第157回(2017年上半期)- 沼田真佑「影裏」
第156回(2016年下半期)- 山下澄人「しんせかい」
第155回(2016年上半期)- 村田沙耶香「コンビニ人間」
第154回(2015年下半期)- 滝口悠生「死んでいない者」/本谷有希子「異類婚姻譚」
第153回(2015年上半期)- 羽田圭介「スクラップ・アンド・ビルド」/又吉直樹「火花」
第152回(2014年下半期)- 小野正嗣「九年前の祈り」
第151回(2014年上半期)- 柴崎友香「春の庭」
第150回(2013年下半期)- 小山田浩子「穴」
第149回(2013年上半期)- 藤野可織「爪と目」
第148回(2012年下半期)- 黒田夏子「abさんご」
第147回(2012年上半期)- 鹿島田真希「冥土めぐり」
第146回(2011年下半期)- 円城塔「道化師の蝶」/田中慎弥「共喰い」
第145回(2011年上半期) - 該当作品なし







 西日本新聞の文化欄およびQJWEBの「第164回芥川賞全候補作徹底討論&受賞予想。」から、各候補作のあらすじを抜粋させて頂きましょう。上が西日本新聞、下がQJWEBです。


西日本新聞
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/682526/







 ▽宇佐見りん「推し、燃ゆ」
 高校生のあかりは、「推し」のアイドル上野真幸の活動を全身全霊で追いかける。ある日、その「推し」がSNSで炎上した。ファンを殴ったという。あかりの人生も暗転していく。


 アイドル・上野真幸がファンを殴ったという事件が〈あたし〉こと山下あかりの人生を変える。人生のすべてをかけて「推し」ていると言っても過言でない真幸が、少しずつ遠くに行ってしまうようなのだ。その事実に順応できないあかりの人生は次第に壊れていく。


◎発表前、ぼくが参照したすべてのサイトで、みなが「推し、燃ゆ」を推してましたね。






 ▽尾崎世界観「母影(おもかげ)」
 母子家庭で育つ少女は、学校に友だちがいないため母が働くマッサージ店で放課後を過ごす。カーテンの向こうで客を「直す」母の仕事には、そこはかとない怪しさがにじんでくる。


 〈私〉のお母さんは、体のどこかが壊れてしまったお客さんをマッサージで「直す」仕事をしている。だが、お店に来る男のお客さんの中には変なことをさせようとする人もいるようだ。小学生の〈私〉にも、お母さんが嫌がっていることはわかり、不安な気持ちになる。


◎少女の一人称語りの手法について、書評家の方々のあいだで、微妙に賛否が割れてましたね。






 ▽木崎みつ子「コンジュジ」
 小学生せれなの父は自殺未遂を繰り返し、母は娘の誕生日に出奔した。複雑な家庭で暮らす11歳のとき、テレビで目の当たりにした既に亡き伝説のロックスター・リアンに魅了される。


 11歳のとき、せれなはリアンに恋をした。リアンは〈ザ・カップス〉というバンドのメンバーで、彼女が生まれる前に死んでいた。駄目男の父と息が詰まるようなふたり暮らしの中で、リアンについて調べ、夢想することがせれなにとっては唯一の生きる希望になっていく。


◎「コンジュジュ」とはポルトガル語で「配偶者」って意味とのこと。ただし作中にはその説明はないらしい。それにしてもこの内容、「推し、燃ゆ」と少し被ってませんか。「私にとっての偶像(アイドル)を探す。」ってのが今日における主題のひとつになってるのかな。






 ▽砂川文次「小隊」
 ロシアが北海道に侵攻し、戦後日本で初となる地上戦が現実味を帯びてきた。自衛隊の安達3尉は、住民への避難要請などに忙殺されながら、やがて過酷な戦端が開かれてしまう。


 突如ロシアの侵攻が始まり、北海道が交戦可能性のある地帯になる。第27戦闘団第1中隊に属する安達は幹部自衛官として小隊を率いる立場だ。連絡が取れない恋人のことをくよくよ考える安達だが、そんな彼の思いとは無関係にロシアとの戦闘は始まってしまう。


◎内容からすると直木賞向きのようだが、芥川賞候補になったということは、単純なシミュレーション戦記ものではないのだろう。三崎亜記の『となり町戦争』をよりハードにした感じなんでしょうか。






 ▽乗代雄介「旅する練習」
 中学入学を控えたサッカー少女と小説家の叔父は、コロナ禍の春休みに利根川沿いをドリブルしながら歩いて鹿島を目指す。途中で就職を控えた女性と出会い、3人の道行きが始まる。


 姪の亜美が希望する私立中学の受験に合格する。そのご褒美として、小説家の〈私〉は彼女を鹿島への徒歩旅行へと誘う。亜美は道々サッカーの練習に熱中し、〈私〉は見聞した風景の写生文書きに余念がない。順調に旅をつづけるふたりは、木下貝層でひとりの女性と出会う。


◎今回の芥川賞および直木賞の全候補作のなかで、唯一、コロナの影響を直接描いた作品とのこと。それでいて、いちばん穏健そうな印象ですね。




 どれも面白そうだけど、やっぱり、「推し、燃ゆ」をまず読みたいですね。純文学というのは内容もさることながら文体と手法で「最尖端」を表現するものなんで、その点においてこれはいちばん純文学らしい純文学という感じがします。





期間限定記事・第164回芥川賞発表まぢか

2021-01-20 | 純文学って何?


 今回の芥川龍之介賞、候補作は以下のとおり。


宇佐見りん「推し、燃ゆ」(『文藝』2020年秋季号/河出書房新社)初
尾崎世界観「母影」(『新潮』2020年12月号/新潮社)初
木崎みつ子「コンジュジ」(『すばる』2020年11月号/集英社)初
砂川文次「小隊」(『文學界』2020年9月号/文藝春秋)2回目
乗代雄介「旅する練習」(『群像』2020年12月号/講談社)2回目


 毎回ぼくが参考にさせて貰っている「西日本新聞」の文化部記者による座談会は、今回なぜか大学の先生お二人による対談書評となっていた。おおよその雰囲気はわかったものの、すこし物足りなかったので(失礼)、さらにネットを探したところ、決定版ともいうべきサイトを発見。




QJWEB クイック・ジャパン・ウェブ
https://qjweb.jp/feature/46167/





 ライター・書評家の杉江松恋、翻訳家(日→独、独→日)・通訳・よろず物書き業のマライ・メントライン(ドイツ人/女性)両氏による書評。こちらも対談形式だが、紙幅に余裕があるのでボリュームたっぷり。この記事を読めば5本の候補作について大体のところがわかる。
 ほかのサイトもざっと拝見したのだが、宇佐見りん「推し、燃ゆ」の評判がすこぶる良い。最有力といっていいかと思う。
 例えばこちら

R ea l Sound
第164回芥川賞は誰が受賞する? 書評家・倉本さおりが予想
https://realsound.jp/book/2021/01/post-693465.html





 この記事の中で倉本さんは、
「2010年代の芥川賞は30代~40代の、もはや中堅と呼ばれていてもおかしくなさそうな顔ぶれが集まることが多かった印象ですが、ここ数年はばらつきがあり、“新人”のイメージが強い書き手の選出が目立ちます。例えば今回でいえば、宇佐見さん、木崎さん、砂川さんの3名が90年代生まれ。同日に発表された直木賞は、全員が初ノミネート作家です。これは単純に話題性で選んでいるということではなく、同時代の感覚を切り出せるような作家が求められている結果なんじゃないかと思います。」
 と述べておられる。
 このことは、上記の記事の中でマライさんが、
「特に若い世代の書き手の「才気爆発」ぶりが印象に残りました。翻って言えば、批評界を含む読者の側が、従前の読み方のままでいいのか?という問題を突きつけられているようにも感じます。自分自身、候補作に「すごい!」と感じても、そのポテンシャルを果たしてどこまで汲み取れたのか、不安なのが正直なところです。
(……中略……)いま文芸業界は、そもそも「狭義」の文芸的な枠組をはみ出す作品の価値を捉え切れて(あるいは、うまく紹介し切れて)いない気がします。これは各文化ジャンルのタコツボ化やその中での情報過多といった要因により、ある意味仕方ない、一朝一夕ではどうにもならない話ではあるけれど、(……中略……)業界横断的で強力な審美眼・分析力を持つタイプの別ジャンル有識者の見解の掘り起こしによって、そのへんはある程度対応できるのかもしれない。そして文芸(eminus注・ここははっきり「純文学」といったほうがいいかと思う)の価値や定義そのものの拡大や、市場(eminus注・もちろん、純文学全般の売り上げのことである)の盛り上げを図れるのかもしれない、という感触を得ました。逆に、業界特化的な有識者の単機能っぽい見解を持ってきちゃうと、マズいかもしれない。
これは今後の文化的プロモーション全体に当てはまる話のように思えます……その結果、我々は候補作の順位づけに、より一層苦悩することになるでしょうけど(笑)。」
 と述べておられることとも密接につながってくるだろう。




 今回ノミネートされている尾崎世界観(ロックバンド「クリープハイプ」)、さらに直木賞のほうの候補者・加藤シゲアキ(アイドルグループ「NEWS」)といった異業種作家の方々についても(ちなみに直木賞では2017年に「SEKAI NO OWARI」の藤崎彩織も候補になっている)、けしてたんなる商業主義ってことではなく、倉本さんやマライさんが指摘する文脈において捉えるべきだろう。「純文学」もまた、サブカルはもとより、SNSなどの影響を受けて、否応なしに変質しつつあるわけだ(それでもなお「純」を名乗り続けられるか否かは議論の分かれるところかと思うが)。