森のささやき

  ゴールデン・ウィーク後半の4連休、私は秋田の実家に帰省しておりました。田舎者の自慢に過ぎませんが、東北の春は気候といい、風景といい、食べ物といい、すべてがすばらしく、私は5月の連休に帰省するのを毎年楽しみにしているのです。

  日ざしは暖かく、しかし暑くはなく、空は淡い水色をしており、すがすがしい爽やかな風が吹いています。4月の末に咲く桜を皮切りに、いろいろな花が一斉に咲き出します。春の遅い山奥ではあらゆる山菜が芽吹きます。

  私の郷里は海に面しています。私は以前は海が好きでした。特に、海に沈む夕日を眺めるのが大好きでした。まだ冷たい海の水に足を浸して、波が引くたびに足元の砂が一気に流される感触を楽しみながら、飽きもせず水平線の下にもぐり込んでいく夕日を見つめ、夕日が沈んだ後の美しい色の空と、沈んだ夕日の光を受けて輝く銀色の雲を眺めていました。

  ところが、私は最近、海にはさっぱり興味がなくなり、山のほうが好きになりました。帰省するたびに家族で出かけるのですが、家族はたまにしか帰らない私の希望を優先してくれます。そのときの質問は「海がいい?山がいい?」です。近年の私はもっぱら「山がいい」と答えるようになったのです。

  「前はあんなに海が好きだったのに、今は山のほうが好きなのねえ」と母に言われて、私もはじめて気づきました。

  もっとも、母や兄も山のほうが好きなのです。ようやく互いの嗜好が一致したわけで、これはめでたいことです。

  今回は八重桜と黄桜を見るという目的で山へ行きました。平地の桜はもう終わっていますが、山の桜はちょうど5月初めに盛りの時季を迎えるのです。黄桜というのは、白と黄色の中間色の花をつける桜のことです。遠くから見ると白に見えますが、近づいて花弁を見ると、かすかに黄色か黄緑がかっている白なのが分かります。

  そこは黄桜で有名な山の公園でした。黄桜や八重桜を植えて観光地にしたのです。折しも花は満開で、また連休真っ只中ですから、花を見に来た人々はもちろん他にも大勢いました。みな桜の下でお弁当を広げてにぎやかにおしゃべりしています。

  いちおう桜をバックに家族写真を撮りましたが、内緒の話、私はあんまり楽しくありませんでした。その公園の桜はすべて人の手で植えられたもので、桜の他にも野外ステージ、ゴルフ・コース、キャンプ場などが建設されていて、翌週には「桜祭り」が催されることになっており、露店や屋台が立って、歌謡ショーが行なわれるということです。

  帰り道、母が「ちょっと寄っていっていい?」と言いました。どこに寄るんだろ?と私が思っていると、母は「この近くにお母さんの『山菜の場所』があるのよ」と言い、それまで走っていた大きな道路から、山の中に通じている細い道路に入りました。

  その道路は車1台がかろうじて通れるくらいの幅しかありません。道の両脇は森です。木々に遮られて道に日は射しておらず、文字どおり鬱蒼とした暗い森の中の一本道を車は走っていきました。

  ところが、道の途中に杉の木が倒れていました。これでは前に進めません。そこで徒歩で母の「山菜の場所」に行くことになりました。私は「熊でも出るんじゃないか」と不安になりましたが、母は「今は暗いけど、この先にパッと開けている場所があるのよ。そこがお母さんの山菜採りの場所なの」と楽しげに言いました。

  つまり、母親は山菜採りがしたかったのです。母親は手袋、鎌、籠という「山菜採り3点セット」を装備して歩き出しました。私と兄も仕方なくその後に続きました。

  道は舗装されていませんでした。石が撒かれているとはいえ、歩くたびに足が泥にめりこむ感触がします。日が射さないので、雪融けの後も道が乾かないのでしょう。石の上に更に杉の葉が一面に敷きつめられていて、泥の水を吸い取るようになっていました。

  人影のない森は静かで、西日が木々の間から射し込み、木々が真っ直ぐで長い影を地面に作っています。その光景が妙にきれいでした。「返景 森林に入り」とはこういう風景なんだろうな、と思いました。

  それに、森はよい匂いがしました。水分を含んだ木々の香りです。ひんやりとして湿気を帯びており、吸うとあまりに気持ちいいので、思わず何度も深呼吸してしまいました。私が大自然の恩恵に浸っている間に、母親はずんずん前に進んでいきます。彼女の頭にあるのは山菜だけのようです。私は「元気なババアだぜ」と思いながら、「空山 人を見ず」と頭の中で吟じておりました。

  母の言ったとおり、パッと開けた場所に出ました。道の両脇が丘になっていて、そこに山菜が生えているようでした。母は早くもかがんで山菜採りに夢中になっています。しかし、母は怒りを含んだ声で言いました。「誰かが先にお母さんの場所を荒らしたわ!」 つまり、すでに山菜が採られた形跡があるらしいのです。

  母は自分のなわばりを荒らされたことに憤慨しつつ、それでも鎌を動かして山菜を採っていました。もちろん、ここは我が家の所有地ではありません。たぶん国有林でしょう。

  私も手伝おうと思い、何を採っているのか教えてもらいました。ぜんまい、わらび、さしぼ、タラの芽でした。私は早くも群生しているぜんまいを見つけ、「ほら、ここにぜんまいファミリーがいるよ~ん」と教えましたが、「それは『イガイガ』があるでしょ?食べられないぜんまいなのっ!」と叱られました。とんがった綿毛に包まれたぜんまいは食べられないらしいです。

  原始的狩猟本能むきだしで山菜採りに熱中しているババアは放っておくことにしました。私はあたりの風景を眺めました。森はシーンと静まり返り、ウグイスの声がたまにこだまするだけです。

  突然、ざざーっという音が聞こえて、丘の向こうの森が風に大きく揺れました。その音の心地よさを耳で味わっていると、森を揺らした爽やかな風がこちらに吹いてきました。それとともに、どこで咲いているのか、山桜の花びらが音もなく飄々と空を飛んでいきます。

  母親は黙々と山菜採りに励んでいます。私は風が吹くたびに揺れる森の木々のざわめきと、やがて吹いてくるそよ風、あたりを舞う山桜の花びらの中で呆けていました。「人外境」ってこういう場所のことだろうな、と思いながら。

  「よし、そろそろ帰ろうか」と母が言いました。「来年のために、全部は採らないのよ。少ないけど、これで我慢しよう。」 そう言う母が持っている大きくて深い籠の中は、山菜で溢れんばかりになっていました。

  私はもう少し森林浴を楽しみたかったのですが、仕方がありません。また泥でぬかるんだ道を歩いて、車まで戻りました。森の中の地面にところどころ白いものが見えます。よく見ると、それは黒ずんだ落ち葉の下に残っていた雪でした。日が射さないために、融けずにまだ残っていたのです。

  冷たく湿っているけどよい香りの森の空気を、未練がましく体内にチャージして、ようやく帰途につきました。

  家に帰ってから山菜の下ごしらえを手伝いました。ぜんまいは綿で覆われているため、その綿を取り払って、更に葉の部分を取り除きます。わらびはアクがあるので、炭酸を入れたお湯で煮ます。アク抜きをして茹で上がったわらびは、かすかに甘い味がしました。

  その晩、タラの芽は天ぷらにして、さしぼは茹でてマヨネーズをかけて食べました。ぜんまいは味噌汁の具になりました。子どものころは山菜などどこがおいしいのか、と思っていましたが、今はとてもおいしく感じます。私はまったく労力を使わなかったので、母に「とてもおいしゅうございます」と礼を言って食させて頂きました。 
コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )


« 実家の庭 四川の地震(1) »


 
コメント
 
 
 
森の中のお母さんの場所!! (あけらん)
2008-05-12 00:12:35
一気に春が始まる感じの、秋田の5月、ステキですねー、
そして、羨ましい!!山菜採り!!

写真も、なんてステキなのでしょうか、
静かな森のひんやりと湿った優しい空気が、すごくよく伝わって来ます!!

海もあって山もある、なんて贅沢なふるさとをチャウさんは持っていらっしゃるのでしょうねー、ため息でちゃいます。

わたしも、先日ワラビを頂いて、人生で初めて、ワラビの灰汁抜き、と言うのをやってみたのですよ。
ネットで調べて初挑戦。
ですが、ちょっと茹で過ぎなのか、重曹が多すぎたのか、ワラビの表面がズルッと溶けたようになってしまって、失敗。
煮物にはできず、かろうじておひたしで頂きました。

さしぼ、と言うのは食べたことがありません。
茹でてマヨネーズ、ですか、調べてみま~す。


 
 
 
お母さまの「山菜の場所」 (りん)
2008-05-13 16:52:11
そんな場所をお持ちだなんて羨ましいですね!

私の5月のふるさとと併せて想像しながら楽しく
拝読しました。

小さいときに読んで映画化もされた「森は生きている」を思い出してしまいました。

あー、楽しかった…
 
 
 
山菜好きの人はみな持っているようです (チャウ)
2008-05-14 00:27:12
「私だけの秘密の山菜採りの場所」というのは、山菜好きの人ならそれぞれにみな持っているようです。

自分の採った山菜を近所や知り合いにおすそ分けするときにも、決してどこで採ったかは明かさないのだそうです(自分の「山菜なわばり」を他人に知られるのが嫌だから)。それを敢えて探りを入れるのも楽しいのだ、と母親は言ってました。

田舎の人間ながら、なかなかにほほえましい「付き合いのかたち」があるみたいですね。

そうそう、わらびはアク抜きのためにちょっと長く煮ないといけないので、湯きり加減が難しいようですよ。でも、柔らかめに煮たほうが甘味が出ておいしいと思います。
 
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。