四川の地震(4)

  地震から4日目の木曜日になって、ようやく都江堰以外の地域に内外のメディアが入って取材を始めた。ただ、震源地である汶川は山岳地帯にあるせいだろう、政府が撮影した上空からの映像しか流していなかった。それにしても、あれはひどい。おそらく村落があったであろう山が崩れて川をせき止め、そのために川は増水して泥水の湖のようになっている。切り落とされたように崩れた道路の下を、泥水が激しい勢いで流れている。

  朝のニュースでは、中国政府が国内の各メディアに対して、崩れた建物の生き埋めになった被害者を救出した瞬間などの「感動的な」シーンを中心に報道せよ、という指示を下したことを『人民日報』が報じた、と言っていた。中国のメディア規制を非難するネタにしようとしたらしいが、私の感想はちょっと違った。

  メディアによる報道については、日本人と中国人の考え方には異なる点がある。日本人は「報道の自由」とやらを尊重し、日本ではメディアによる自由な報道が許されている、と信じている。一方、中国人の中には、メディアはそれを報道することによって社会に利益をもたらすか、それとも不利益をもたらすか、というあらゆる可能性を勘案した上で、報道すべきは報道し、報道すべきでないことは報道しないほうがよい、と考えている人がけっこういる。

  中国政府が上のような指示を中国国内の各メディアに出した目的は、中国政府に不都合なニュースを報道させたくない、ということではなく、国民に不安を与え、デマの素を作り出し、中国全土をパニック状態に陥れる可能性のあるショッキングなニュースばかりを報道するのではなく、国民に希望を与えるようなニュースを中心に報道させよう、ということだったのではないか。

  大体、この指示の目的がメディアの自由な報道を規制することにあるのなら、政府がそんな指示を出したということを、なぜ中国政府の機関紙である『人民日報』がわざわざ報ずるのか。そう思っていたら、夜のニュースでは、日本のマスコミはほとんどこの件には触れなくなっていた。

  話は戻って、木曜日の職場でのこと。お昼の休み時間、中国人の同僚が日本の各新聞を自分の横に積み重ねて、次々と読みあさっている。私も一紙を取り上げて読んだ。衝撃的な記事があった。地震のせいで都江堰の一部が壊れたというのだ。

  都江堰は市の名前だが、これはこの街の郊外にある人工灌漑施設、都江堰に由来している。この街には岷江という大きな川が流れており、水量が豊かで流れも激しく、頻繁に水害をもたらした。そのため、今から2000年前の漢代、この川の真ん中に大きな人工中州が建設された。中州があることによって岷江の流れは二分され、一方は農業用水として平野に流れ込むようにして、もう一方は普通の川として流れるようにした。

  都江堰は中国の歴代王朝によって間断なく管理され、補修・強化・増築が加えられてきた。都江堰は大きな船のような形をしていて、岷江の流れを遡るような格好になっている。私は岷江という川とともに、この都江堰が大好きなのである。

  干潮のときは、都江堰の船尾(?)から対岸の間に一本の道のような砂地の川底が姿を現わし、徒歩で行き来できるようになる。私はこの雄大という言葉がぴったりくる岷江の真ん中をはだしで歩いた。岷江の水は澄んでいて、中国の川といえば、黄河であれ長江であれ、泥水しか流れていないと思っていた私は驚いた。都江堰によって二分された、私の両脇を流れる川の水はよどみなく速く、あふれんばかりに豊かな量の水からは強くて優しい生命力のようなものが感じられた。

  中華人民共和国になって、都江堰の大がかりな補修工事が行なわれたとき、都江堰の船首(?)の基底部から、5メートルばかりの高さの大きな石像が発掘された。「李氷」と刻まれており、漢代に都江堰の工事を主導して成功に導いた李氷の石像であることが分かった。李氷が自身の石像を作らせて、岷江の激流が最初にぶつかる都江堰の船首部分に、守り神のように自分の石像を埋めさせたのか、それとも後代の人が李氷にあやかり、この石像を作ってお守り代わりに埋めたのか、どちらかは分からない。

  豊かな生命力にあふれる澄んだ岷江に圧倒され、2000年も前の古人の祈りがしのばれて、私は都江堰がすっかり気に入った。

  その都江堰の一部が損壊したという。折しも朝のニュースで、外国人旅行客が撮影した地震発生時の都江堰の様子が放映された。岷江は映っていなかった。都江堰一帯は青城山も含めて非常に広い大きな公園のようになっているから、都江堰のどこを映したのかは分からなかった。

  都江堰の両岸には廟や店がたくさんある。あの廟や店はどうなったのだろう。連鎖して、成都のことも思い出されてきた。成都は野菜が新鮮でおいしくて、魚は丸々と太っていておいしくて、本場の麻婆豆腐もおいしくて、漢民族はもちろん、チベット族や回族やいろんな民族がいて、とてもいいところだった。まさしく肥沃な土地という感じだった。

  まったく知らない土地で起きた地震だったら気にならないだろうが、行ったことがあるばかりに、一種の「つながり」のようなものを感じてしまう。最初のショックや恐ろしいという感覚に代わって、悲しみのような感情が浮かんできた。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )