世間様と私

  タイトルの「私」は「わたくし」と読みます。一人称ではなく、「公私」、「私事」の「私」という意味です。

  某大学の教員が、個人で開いているブログで、山口県光市で起きた母子殺害事件について、「永山事件の死者は4人。対してこの事件は1.5人だ」と書いたそうです。このニュースを読んで、私はてっきり「また、バカなオヤジ大学教員のたわ言か」と思いました。

  ところが、関連ニュースを読んでびっくりしました。これを書いたのは、男性教員ではなく、女性教員だというのです。でも、私はまたてっきり「バリキャリ(バリバリキャリア)系にはよくいるオヤジ女のたわ言か」と思いました。私のいう「オヤジ女」とは、男性たちの中で必死に働くうちに、男性(特に中年男性)が持ちやすい、マッチョな価値観に染まってしまった女性のことです。

  さっそくこの女性教員のブログに行ってみました。案の定、すでに問題となった記事はすべて削除されており、お詫びの言葉が繰り返し載っていました。

  でも、問題になってから削除しても遅いというもので、いろんなサイトに問題となった記事の全文が掲載されていました。そして、この女性教員のブログには、他にも様々な「問題発言」が書かれていたことが分かりました。

  山口県光市の事件では、山口高裁が出した「無期懲役」の判決に対して、最高裁は「量刑不当」という理由で「審議差し戻し」の判断を下しました。それについて、この女性教員はこう書いていたそうなのです。「差し戻した最高裁の判事の妻は、おそらく専業主婦で、TVばっかり見ていたため洗脳され、夫の仕事にも影響したのだろう。」

  また、こうも書かれていたようです。「赤ん坊はちょっとしたことですぐ死んでしまう」、「女子学生に多額の奨学金を貸し出すのはなんとなく気が引ける。光市の母子殺害事件の被害者みたいに、借りるだけ借りておいて、卒業したら間髪いれずに孕んでそのままぜんぜん働かず、挙句の果てに平日の昼間から家でぶらぶらしていたため殺されちゃうなんてことになっては回収不能になるからだ。」

  また、北朝鮮工作員による日本人拉致事件では、中学生の時に拉致された女性被害者についてこう書かれていたそうです。「私は子供をなくした経験がありますが、『めぐみちゃん』はちゃんと育って、結婚までして、あまつさえ子供まで儲けています。私の目から見ると信じられないくらい幸福です。なのにその幸福に感謝もしないで、いつまでもいつまでも『めぐみっちゃん』とか不幸面してられるアンタが心底うらやましいよ、とTVを見るたびに思います。」

  これらの「発言」を読むと、ある共通項があることに、みなさんすぐにお気づきになったでしょう?つまり、この女性教員は女性を蔑視しています。特に「専業主婦」と「赤ちゃんを産んだ(ばかりの)女性」を異常に嫌悪しています。

  これもみなさんお気づきになったでしょう?この女性教員は、自らも「子供をなくした経験があります」と告白しています。彼女の「赤ちゃんを育てながら『専業主婦』をしている女性」に対する嫌悪と蔑視は、このことに由来することは間違いないでしょう。

  私はこの女性教員が気の毒になりました。私の憶測ですけれど、彼女は自分の子どもを亡くした悲しみから、まだ脱しきっていないのでしょう。脱しきっていない、という表現は適切ではありませんね・・・子どもを亡くした悲しみや辛さときちんと向き合わなかった、と表現したほうが妥当でしょうか。

  私は子どもを産んだ経験がありませんけれど、愛する人が死んでしまったら、ましてそれが自分の子どもであれば、どんなに悲しいか、辛いか、いや、悲しいとか辛いとかいう感情ではすまされないだろうと想像できます。自分がこれから生きていけるかどうか、という瀬戸際まで気持ちが追いつめられるだろうと思います。

  だけど、ここに子どもを亡くした親御さんがいるとして、この人たちが生きていて、そして他人に対して優しさと思いやりを持ち続けているとするならば、この人たちは子どもを亡くした悲しみや辛さと向き合い、悲しみや辛さをじっくりと味わって、そうして今のような気持ちに落ち着いたのでしょう。

  それらを感じるのが耐え難いあまりに、悲しみや辛さと向き合うことなく、自分の中にある感情を抑えつけ、「なかったこと」にしてしまえば、その結果どうなるのか、このかわいそうな女性教員の言葉の数々が物語っているような気がします。

  理不尽な仕打ちを受けたことから湧き起こった悲しみ、辛さ、悩み、怒り、不安など、これらの感情をきちんと自覚し、それと向かい合い、それを受け入れないと、これらの感情は後に他人への憎悪や敵意となって表面化・行動化してしまうことがあります。

  また、たいていの人は辛い目に遭うと、自分は他人を同じような辛い目には遭わせまいと思い、また他人の心の痛みを思いやるようになるものです。ですが、中には、自分が辛い目に遭うと、他人が辛い目に遭ったことや他人の心の痛みを、逆に極端なほどに軽視するようになる人がいるのです。

  この女性教員の過激な考え方や、それを反映したブログでの「暴言」は、不合理な自分の境遇に対する彼女なりの復讐であり、また自分の味わった辛さに比べれば、他人の辛さなど何程のことでもない、という考えの表れなのでしょう。

  彼女はブログを通じて、世間に向かってそれを訴えたわけですが、自分が辛い目に遭ったからといって、関係のない他人を傷つけても許されるわけではありません。そんなことが許されたら、この世の中は無秩序状態になってしまうでしょう。

  だから、理不尽なことが自分の身の上に起こっても、関係のない他人に仕返ししてはならないのです。それが行動であれ、言葉であれ。「情状酌量」に該当する個人的事情があったとしても、世間様に対してそれを攻撃的な形で発散することは許されません。世間様は自分のパパやママではないのですから、ワガママが許されると思ってはならないのです。

  この女性教員は、自分と他者との境界線が曖昧で、精神的に幼い部分の残っている人だと思います。つまり世間様に対して、「過激なことを書いても、みんな(世間)はきっと私の真意を分かってくれるはず」と甘えていたところがあったと思うのです。

  でも世間様は「他人」なのです。「私(わたくし)」の感情を攻撃的な形でぶつけてはいけません。この女性教員は非常にプライドの高い人のようですから(過去のトラウマがそれを強化した可能性もあるように思います)、なかなか難しいでしょうが、もし私が彼女の友人であれば、私は彼女にカウンセリングを受けるように助言します。

  世間様向けの強気で元気で明るい顔を、素の自分だと無理に思い込まなくてもよいのです。素の「私」が時には弱気で陰気で暗くてもいいのではないでしょうか。そういう自分を受け入れれば、ずいぶんと楽になるだろうと思います。
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