函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

地域社会の未来

2014年03月16日 09時38分09秒 | えいこう語る
「函館市椴法華地区新八幡町町会」、加入世帯数約80世帯、これが、私が会長を務める町内会だ。
函館市と市町村合併し、今年で10年目を迎える昨日、臨時総会を開き、町会解散を決議した。
合併時は函館市の人口も30万人に増えたが、現在は27万と落ち込んだ。
合併すると役場も縮小され、保育園や消防署も隣町へ統合され、平成の大合併は、我が地域では確実に陰りを見せている。
私は学生時代、東京での生活を体験した。
当時の東京は「スクラップ&ビルド」の工事の騒音の中にあった。古いものが去り、新たな東京の建設が始まっているのを、私の鈍感な感性も反応していた。
否が応でも「一極集中」と「地方過疎」という現実を、目の当たりにした時代だ。
だが、進化し巨大化する都会、その中で反比例するように希薄化する「人間性」。
当時の流行言葉では「砂漠のような東京」などと称されることも実感した。
その直後「首都圏地方自治研究会」で、神奈川県の長洲知事が「地方の時代」を提唱した時の、私の心の動揺はいまだに身体のどこかに残っている。
田中内閣の「均衡ある国土の開発」などという言葉も、当時は新鮮に心に響いたものだ。
※なにものにもこびない、冬の海の色が好きだ。


だが故郷へ帰り驚いたのは、あまりも時代感覚に敏感さを失っている我が村だった。
当時の素直な印象だ。函館に戻ってきた時は、東京より「20年は遅れているな」という印象だ。北洋漁業の衰退が、この街には色濃く残っていたからだ。
それは私ばかりではない。都会生活を送って戻ってきた多くが、実感していたのだ。
さらに私の故郷は、函館市より「10年」は、確実に遅れていると感じた。
小さな自治体だとはいえ、交付税は普通に入る。むしろ小さな方が効率が良い、そんな時代もあった。そこに危機感の欠如が生まれたのだろう。
このままで行くと、過疎の大波が押し寄せ、高齢化が新幹線のようにやってきて、地域は衰退すると肌で感じたものだ。
「痴呆爺体」などという言葉が、浮かんできたのもその頃だ。
自分で出来る限りのアクションを起こしたが、象に蚤が食らい付いたようなものだった。
さて、現在に戻る。
函館市の人口減と財政の逼迫で、地域は住民自らの智恵と努力で再生するのを支援する、市の「地域経営会議」なるものがスタートした。
「地方の時代」から始まり「地域分権」「地域主権」と名称は変化したが、ついに「函館市地域経営会議」となって、手の届くところにやってきたのだ。
2年前には「函館市自治基本条例」が、施行され「市民が主役のまちづくり」の地盤作りが出来上がった。
地元行政職員の大きなバックアップで、弱体化する町会の再編が始まった。
町会長たちも3年にわたる熱心な討議が行われ、7町内会を1つ再編し、パワーアップを図ろうとしたが、それぞれの地域性で、2町会が合流せず、私の町会は5町会が1つになることに決定した。
残る2町会も、心の準備が出来たら、合流することになるだろう。
様々な問題が出てくるだろうが「座して死を待つ」より、この故郷を築いてくれた先人たちの「フロンティア、スピリッツ」を、受け継ごうと思う。
「発展的解消」などといっては、かっこよすぎるが、薄氷を踏む思いで一歩一歩前進するのみだと思う、2014年3月15日の決意だ。