函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

後輩たちはすごい

2014年03月15日 15時21分46秒 | えいこう語る
13日に、私が函館市教育委員に推薦されていたが、委嘱状が届かないと心配していたら、3月11日付けで委嘱しますとの連絡があった。
そこで本棚にあった、教育関係の本を取り出し俄か勉強を始めた。
その翌日の14日は、我が母校椴法華中学校の卒業式に招待され、来賓席では小学校校長先生の横に並び、かしこまって我が後輩たちの晴れ姿に接した。


私の時代の卒業生は、3クラス120名だ。
今期の卒業生は12名だ。普段、町会長として過疎化による地域社会の衰退を目の当たりにしているが、我が村も大津波が押し寄せてきたのではないかという、そんな光景を想像してしまった。
しかし「24の瞳」は、涙の中に希望の光を力強く放っていた。
儀式とは厳粛なものだ。
だが、私の長い人生は、いつの間にか、厳粛な儀式が個性を埋没するなどと不埒なことも考える。
しかし、従わざるを得なきものから、吸収するものは極めて多い。
人生で、入学式・卒業式・結婚式など、厳粛な式典を通過してきたが、あと私に残されているのは、葬式だ。
式場を見渡すと、私が一番の高齢なので、この晴れの儀式で実感させられる。
卒業証書が授与され、それぞれが、お世話なった家族への感謝の手紙を読み上げた。
精神の過敏な思春期だ。両親や周囲の人と、コミュニケーションのとれないことが多い。
しかし、中学卒業というのは、親元から始めて離れ一人での生活が始まる。
この巣立ちに際し、普段表すことのできないことを、手紙に込めた。
話す者も聞く者も、涙を禁じえなかった。
私のカメラは、涙で曇りっぱなしだった。
「素直さ」というのは「感動」の最大の要素なのだ。
素直さが極端に減少し、皮肉っさばかりに身を包んでいる初老の自分が、反省もさせられた卒業式だ。
前日読んだ本の中に、昭和の初めから続く「つづり方教室」の記述を思い出した。
「つづり方の子供の文章からうかがうことの出来る、育てあげられた社会的知性というものの地肌に、子供の人間性の開放が見られる。子供たちが表白する本音、真実は,社会科学やその方法としての社会調査の網にかかってくるようなものとは異質なもので、私たちがそうした方法でつかんだものが、本当に色あせて感じられるようにさえ思えた」とある。
戦争の色濃い時代には「つづり方教師」は、迫害を受けたという歴史もある。
私は、高倉健主演の函館を舞台とした映画「居酒屋長治」のセリフを思い出した。
「人が心に思うことは、誰にもとめることは出来ない」。
心に思うものを自由に表現できる世の中が、いつまでも続いて欲しい。
50年後輩の卒業式に参列させていただいた、私の厳粛な感想である。
後輩たち、感動をありがとう。