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函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

人質事件で考える

2015年01月29日 10時55分57秒 | えいこう語る

▼ 私のお寺は浄土宗で開祖は法然聖人だ。その弟分にあたるのが浄土真宗の親鸞聖人で、どちらも本尊は阿弥陀如来だ。阿弥陀(如来・仏)は、西方にある極楽世界を主宰する仏様だ。法然さんは地方豪族の生まれで、幼少期に父親を殺され、周囲から敵討ちをするように言われたが、そんなことをすると、エンドレスになるといい、仏の道に入ったという。「戦争を回避する」その精神を私は尊敬している。

▼ 弟分の親鸞さんの人気は高いようだ。親鸞さんの教えに「悪人正機説」がある。善人は救われるのが当たり前で、悪人こそ往生するにふさわしいという説だ。こうなれば、悪業を行っても救われるというなら、殺された人は成仏できないのではないかと思う。ある哲学者がテレビで「悪人正機説」は、理解できないと話していた。そこで、知り合いの浄土真宗の住職に尋ねると「学べば学ぶほど、よくわからない」という答えが返ってきた。住職は「自分はまだ修業が足りない」と、謙遜したのではないかと、私はそう思った。

▼ というようなことを思い出しながら「イスラム国人質事件」を考えていた。この事件の発端は、アベ総理の「イスラム国と戦う国に対する人道支援で、2億ドルの資金提供」ということから始まった。わざわざ、戦闘地域に出向いてのこの発言は、敵に軍事資金援助を公言したということだ。集団的自衛権行使のための確信犯的発言なのか、それとも独裁的になってきたアベ政権の慢心から出たものなのか、今後の展開を注視したい。

▼ 何の対応策もないまま、湯川さんは殺害された。湯川さんは、軍事に関する会社を経営していたようだ。そんなことなら「仕方がない」というのが、一般的な感情ではないだろうか。後藤さんだけは助けようという声が大きいのも、なんだか湯川さんが可哀そうに思える。その後、身代金ではなく人質交換になって、後藤さんが助かる可能性が少し出てきたようだ。しかし、ヨルダン側は自国の人質を優先したいというのが本音だ。後藤さんは「おじゃま虫」なのだ。そもそも、危険な地域に入ること事態が、迷惑行為なのだから「自己責任論」で、押し切るコイズミさんの方が合理的に見えてくる。

▼ だが、アベさんはコイズミさんの様な冷たい人物には見えないけど、コイズミさんにあこがれているように思える。「言語道断・テロには絶対屈しない」と、ボルテージを上げるところを見ると、以前、総理の座を放棄した後に「コイズミ心臓(シンゾオ)」を移植手術したのかもしれない。

▼ 等と、下らぬことを言っている時間はない。イスラム国を生み出したのは、中東の利権を確保したい欧米列強だといわれている。だが、この事件をきっかけに、我が国が欧米列強の仲間入りをし、世界平和のために戦う国になるということだけは避けなければならない。戦争突入には何かのきっかけが必要だ。「人道支援2億ドル」がそのきっかけであれば、アベ総理は「軍事支援」を「人道支援」と書き換え、第3次世界大戦を誘引しかねない、大ペテン師ではないか。などと、あらぬ妄想が狭い脳裏を駆け巡るのだ。

▼ 混乱を沈めるのは、読書しかない。森達也著「視点をずらす思考術」だ。そこで親鸞の教えについての解説がある。阿弥陀のミダは、測るという意味で、アは反意を表わす接続語。つまり阿弥陀はサンスクリット語で「わからない」と意味を表わしているという。また「真仮偽(しんけぎ)」という言葉も、「真」と「偽」は対立概念だが、その狭間に「仮」を設定したのは「真仮偽」も「曖昧」や「わからない」などの意味を持つのではと、森さんは解説している。

▼ 「曖昧な日本の私」は、大江健三郎氏のノーベル賞でのスピーチだ。その前の受賞者川端康成は「美しい日本の私」というスピーチをしたので、それを受けて、大江氏は「曖昧」としたという。二人の主張を合わせると「美しくて曖昧な日本」だ。我が国はどうやらそんな国になってきたようだ。ということは、今の総理がアベさんというのは、納得できる。

▼ 森氏は世界にはわからないこともある。そのわからなさを仏教は否定しないと述べている。絶対神という概念は、それを信奉する信者の狭義の解釈に違いない。イスラム教であれキリスト教であれ仏教であれ「わからない」というのは共通しているのではないだろうか。私の知り合いの住職は「悪人正機説」を問われ「わからない」といった。それは「わからない」という意味悟っているので、そう言ったに違いないと、今になって思う。

▼聖戦(ジハード)というのは、神が最も嫌う語彙に違いない。お互い「テロへの戦い」と主張するが、その解決には「寛容」が大切だという。その寛容さが、法然上人の心であり「悪人正機説」も寛容さを説いたものではないかと、ふと感じた「よくわからない」今朝の私です。