▼昨夜、10時半に床に入り、池波正太郎の鬼平犯科帳を読んだ。この手の本はどうもいけない。なぜなら、読み終えたのが朝の5時だ。寝床の灯りが、行灯のように思え、江戸時代にタイムスリップしてしまうからだ。
▼ テレビで「ぶら・タモリ」という番組がある。現在の東京の道路は、江戸時代の道路と同位置だそうだ。江戸の地図を持ちながら歩くと、それがよくわかる。桜田門外の変で、水戸浪士が逃げた場所は、門から下りにある。死闘を繰りひろげ疲労困憊で逃げるには、坂道を下るしかないと解説していた。
▼ そういえば、昔暮らしていた東京のアパートを訪ねたとき、周囲の建物はすっかり建て変わっていたが、道路は記憶にあったのを覚えている。もう少し行くと左に曲がり、その先に小さな神社がある、などという記憶も、道が教えてくれる。「導く」などという字も、道が入っている。寸は手という意味で、手を引いて道を行くのが導くだという。
▼ 「乳房」というちょっぴり色っぽい題名の本だが、悪党が普通の人以上に善の心を持ち合わせ、悪党が実に魅力的に描かれている内容だ。そこに鬼平のあたたかい目が注がれ、罪を憎んで人を憎まずの精神が、読む者の心をつかんで離さないのだ。
▼ 「人間というやつ、遊びながらはたらくものさ。善事をおこないつつ、知らぬうちに悪事をやってのける。悪事をはたらきつつ、知らず識らずに善事をたのしむ。これが人間だわさ」。善人と悪人。人生は、そのバランスを保ち、より善に生きようとするのが、人間なのだろう。鬼平自身、仕官する前は、若い頃市井で悪さをしていたという。人の心を読む術を心得ているのだ。
▼ 鬼平には、男の美しさがある。それは演じた松本幸四郎や中村吉衛門の魅力にもあるが、鬼平そのものを演じたら、男の美しさが自然と滲み出てきたに違いない。鬼平のような男になってみたいというのは、男子の願望だろう。川口鬼平じゃ、様にならないが。
▼ 九鬼周造に「いきの構造」という本がある。「酸いも甘いもかみわけたという言葉があるように、“いき”すなわち粋の味は酸いなのである。自然界における関係とは別として、意識の世界にあっては、酸味は甘味と渋味の中間にあるのである。また渋味は、自然界にあっては不熟の味である場合が多いが、精神界にあってはしばしば円熟した趣味である。
▼ 鬼平とは、渋くて粋なのだ。原発裁判で国側に味方する裁判官には、そんな趣味はないのだろう。だが、裁判官の中にも円熟した趣味のいい人もいる。大飯原発再稼動を却下した判決文。そこには、渋く粋な文章が、きらりと輝いているのだ。シューマニティーあふれる判決とは、こんな判決のことをいうのだ。
▼ 「原子力発電所の稼動については、法的には電気を生み出すための一手段たる経済活動の自由に属するものであって、憲法上は人格権の中核部分よりも劣位に置かれるものである」。これこそ、渋くて粋な裁定なのだ。
▼火付け盗賊改方、長谷川平蔵宣以(のぶため)を、最高裁判所長官に命ずるなんて、アベ総理は無粋だからしないだろうなと思いつつ、朝を迎えてしまった。風と波があり、ウニ漁が中止だったのは幸いだ。