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函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

視点をずらす

2015年01月23日 09時40分04秒 | えいこう語る

▼ 討論で相手をぶち負かす等というのは容易ではない。自分が相手より知識の量が圧倒的に豊富であればいいが、同等の知識量なら平行線だ。自分に分があると認められるには、教養の差が必要だろう。言葉に説得力が出て、それが討論の質を高めるからだ。普通は大きな声を出して、相手の言葉をさえぎり、多くしゃべった方が優勢というのは我々一般人の討論だ。簡単に言えば、品のない勝ち方だ。

▼ ののしり合いを制するには「視点をずらす」余裕が必要だ。ののしり合いになれば、周囲の人もうんざりした顔をしている。その空気を読み、深呼吸してから会話の方向転換を仕掛けることが、勝敗の分かれ目になる。「視点をずらす」というのは、相手を無視しているようだが、周囲は白けているので、新たな展開に入った方に、心が動くのだ。「視点をずらす」というのは実は「空気を読む」ことができる人。すなわち余裕があるとみなされるのではないだろうか。

▼ 最近、言葉について、非常に敏感になってきた。誰のせいかといえば、やはり、アベ総理だ。代表的なのは「積極的平和主義」だ。平和主義の頭に積極的を持ってくれば、より平和主義が強調されたように誤解してしまう。だが、実際はその反対で、仲間の国と一緒に、集団的自衛権を行使するという意味だ。「視点をずらす」というより「ペテンにかける」というのが、適当だろう。

▼ イスラム国の人質事件では「テロには決して屈しない」とアベ総理は強気だが、真意は、この事件を発端とし、欧米各国と手を携え、集団的自衛権を行使し、「積極的平和主義」の御旗を世界中に、はためかせると言う事なのではないか。「視点をずらす」というのは「空気が読める」と解釈したが、アベ総理は「空気を読めない」ので「視点がずれる」そんな人物ではないだろうか。でも一国の総理だ。実際は「空気が読めて」、「視点をずらしている」のかもしれないと、疑心暗鬼になってしまう。国民がこんな不安定な精神状態になれば、国の流れを大きく変えさせられるような気がしてくる。それが、戦後70年という、歴史の節目の、大きな特徴のように感じる。

▼ ギリシアの哲人、ピュロンは「反対の理屈を持たぬ理屈は存在しない」という。一方の言い分を聞くと、なるほどもっともだ、と思う。が、他方がそれに反論すると、その反論も、確かにその通りだと思ってしまう。そんな時ピュロンのこの言葉を思い出すというのは、先日亡くなった森本哲郎氏の「ことばへの旅」を読み返していて、見つけた言葉だ。

▼ もしも、それぞれの人が自分の考えを絶対的だと思い込み、反対の意見を踏みにじったり、無視したりしたらどうなるでしょう。この地上はたちまち修羅場になってしまいます。戦争がいたるところで始まるでしょう。戦争にならないまでも、社会は敵対と憎悪にみちみちてしまうでしょう。と森本氏は「ことばの旅」の「寛容について」という章でこう述べている。

▼ 「こころの旅」は、30代後半、私が入院した時、その病院に、私の高校時代の同級生が、すでに産婦人科の婦長をしていた。手術後退屈していた私に、彼女が薦めてくれた本だ。さらに真夜中、私を産室呼びつけ、出産直後の胎盤を見せてくれたのだ。彼女は生命の誕生に携わることで、すでに「こころの旅」をしていたのだろう。

▼ 昨日のブログで「寛容」について触れてみたが、まだしっくりしなかったので「ことばの旅」を読み返してみたのだ。でもよく理解できないまま、寝不足の朝を迎えてしまったのだ。

▼これもアベ総理が原因だと思うけど。私も「視点をずらす」とよく言われるが、自分では、同じことを話していると、飽きてしまうだけだと思っているのだが。