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函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

風刺について考える

2015年01月11日 12時38分46秒 | えいこう語る

▼風刺=遠まわしに社会・人物の欠陥や罪悪などを批判する        こと。この意味だと、風刺には正しさがあり品もある。さらに こんな意味もある。それとなくそしること。あてこすり。こうなると、少し悪意があり品もなくなる。風刺画=社会または個人の過失・欠陥・罪悪などの風刺を目的として、機知的・冷評的に画かれた絵画。こうなると、風刺も芸術性を帯びてくる。

▼ フランスの週刊誌が、イスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を描いたとし、銃撃を受け死者を出した。「表現の自由」が封殺されるテロ行為に、世界中が震撼し各地で抗議が起きている。風刺をブログの味付けにする片田舎の私も、漁の時、船の水抜き栓がはずされていやしないかと心配になる。まさに、世界中の隅々まで、テロの恐怖を与えたということになる。

▼ イスラム教スンニ派の最高権威機関アズハルの著名法学者、その名もラマダン・アブデルラゼグ師は、共同通信の取材にこう指摘した。「私たちも表現の自由を信じているが、無制限の自由ではない。全ての宗教には越えてはならない一線がある。互いにそれを尊重しなければならない。今回の事件は決して正当化されるものではないが、銃ではなくペンで応じなければならなかった」と語る。

▼ 私はこのメッセージに感銘する。さらに、師は、イスラム教は寛容と平和の宗教だともいう。寛容は私の身に余る言葉なのだ。私が日頃、自分を戒める言葉は「節度」だ。だがこの言葉さえ実行不能だ。長年の目標である「節度ある飲酒」、これすら守れないのだ。神様や仏様の教えの深部を理解できぬのが、私たちレベルの人間らしい。自分の都合のいいように曲解することが、生きる術だと思っているからだ。

▼ 宗教は異なっても、祈ることは共通だ。祈りとは、平和や心の安らぎを求めることだから、人間同士が殺しあってはいけないというのは、どの宗教でも共通した認識だ。

宗教とは、人間の持つ不安や業の深さを、和らげてくれるものだ。「宗教が必要でない世界をつくりたい」というのが、今朝のNHK「こころの時代」の、国境なき僧侶団代表若杉恵亮師の言葉だ。

▼ 日本国憲法第九条を思い浮かべた。この条文は真理であり、ムハンマドやキリストや釈迦そして世界中の神々に共通した教えではないかと思う。平和であるためには、共通項を大切に守りつつ、協力することが必要だとも、若杉師はおっしゃった。

▼ 民主党の党首選だ。お互い罵り合っていれば、アベ政権を利するだけだ。今は弱い者同士が集まり共通の政策を出し、一致協力しなければならないはずだ。昨年の暮れには、700億円の無駄使いで、結末が見え見えの「解散劇」をみせつけられた。それに続く、民主党の「内部暴露劇」、もはや無料招待されても足を運ぶ気にもなれない。

▼ 以前、私の選挙区に自民党の大御所がいた。小渕総理の時代に「次の総理は誰か」と尋ねたら「どんぐりの背比べだな」といったことを思い出した。どんぐりには悪いけど、♪お池にはまってさあ大変、というのが、我が国の変わらぬ現状のようだ。

▼最後に14代酒井田柿右衛門の言葉だ。「美しいものは自然が教える」。自然を破壊し続けたので、人間は寛容さを忘れたのかもしれない。緑豊かな土地ではないところで、テロや戦争が起こっているようだ。もしかして、コンクリート・ジャングルも、そんな危険性を孕んでいるのかもしれない。