元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「インビジブル」

2017-04-14 06:35:33 | 映画の感想(あ行)

 (原題:Hollow Man)2000年作品。ポール・ヴァーホーヴェン監督がハリウッドで最後に撮った映画で、当時彼が“まるでスタジオの奴隷になったようだ”とコメントしたように、あまり気勢の上がらないシャシンではある。ただ、クライマックスではこの作家らしい勢いは感じられ、その意味では存在価値はあるだろう。

 極秘の国家プロジェクトに取り組んでいる天才科学セバスチャン・ケインとそのスタッフは、人間を透明にする方法を追求していた。すでに動物実験では成功しており、あとは人体で試すだけだ。しかし、当然ながらそこには技術的・倫理的ハードルが存在する。躊躇する皆の反対を押し切り、セバスチャンは自ら実験台になって見事に透明人間に変身する。ところが元の姿に戻れなくなってしまう。

 当初は落ち着いていたが、次第に常軌を逸した行動を取るようになった彼は、勝手に外出して狼藉の限りを尽くすようになる。やがてセバスチャンは自らを全能の神だと思い込み、同僚の研究メンバーを次々と殺していく。生き残った研究員のリンダとマットは、必死の抵抗を試みる。

 要するに、人間にとって“姿が見える”ということも重要なアイデンティティのひとつであることを描きたかったのだと思うが、そこまでは深く突っ込まないままサスペンスフルな活劇路線に移行してしまうのは不満だ。監督の内面描写力が足りないこともあるが、やはりヴァーホーヴェンがボヤいていたようにプロデューサーの意向でそうなったのだと思う。

 それでも、透明であることで意外に不便な点(たとえば、目を閉じても眩しさを感じること)が示されるのはちょっと面白い。終盤の活劇場面は、さすが凡百の演出家とは一線を画す粘りと迫力を見せる。

 主役のケヴィン・ベーコンはさすがの怪演。若い頃の青春スターの面影は、すでに無い。エリザベス・シューやジョシュ・ブローリンといった脇の面子も悪くない。音楽はジェリー・ゴールドスミスが担当しており、重厚なスコアを提供している。ヴァーホーヴェン監督は本作を撮った後にオランダに帰還。「ブラックブック」(2006年)のような快作を手掛けている。やはりハリウッドのシステムは、時として強い個性を持つ作家には相容れないことがあるようだ。
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「わたしは、ダニエル・ブレイク」

2017-04-10 06:28:13 | 映画の感想(わ行)

 (原題:I, DANIEL BLAKE )厳しくも、美しい映画だ。また、これほどまでにこの時代の一面を照射した作品はないだろう。ケン・ローチ監督の真骨頂とも呼べるような、強靱な求心力がみなぎる、まさに必見の映画だ。

 イングランド北東部にある町ニューカッスルに住むダニエル・ブレイクは、大工を生業にしていた初老の男だ。彼は心臓の病気に罹り、医者から仕事を続けることを止められる。しばらくは失業手当で糊口を凌いできたが、突然役所から給付を打ち切られる。働けるのだから就職活動をしろということらしく、そのための求職手当は出るという。

 しかしドクターストップが掛かっているのに、就業できるはずもない。そんな複雑な制度に翻弄されていたある日、役所で途方に暮れていたシングルマザーのケイティを助ける。それをきっかけに彼女や2人の幼い子供たちと交流し、何とか助け合うことで家族のような絆が生まれていく。しかし、厳しい現実は彼らを次第に追い詰める。

 先日観たスウェーデン映画「幸せなひとりぼっち」と似た設定だが、あちらが幾分ファンタジー仕立てだったのに対し、本作はリアリズムに徹している。まず、役所の理不尽な仕打ちに怒りを覚えずにはいられない。だが、考えてみると仕方が無い面もあるのだ。

 経済効率至上主義および新自由主義のテーゼが大手を振って罷り通る昨今、真っ先に削られるのは福祉だ。福祉という名の“施し”を受ける層は、経済的に見て“不合理”だと言わんばかりに、権力側は排除しようとする。その圧力は現場で申請者に対応する末端の役所の担当者にも降りかかる。逼迫した者を、余裕の無い者が邪険に扱うという、不条理極まりないことが英国はもちろん世界中で起こっているのだろう。

 そんな中でも主人公のダニエルは優しさを忘れない。困っているのは自分なのに、他人であるケイティたちを助けようとする。彼が子供たちに木で作った飾りをプレゼントするくだりは泣けてくるが、やがて明らかにされるダニエルの生い立ちと亡き妻との関係性を知るとき、本当の人間の美しさとは何なのかということに思い至り、切ない感動を呼ぶ。

 それにしても、日本では大した件数では無いと思われる生活保護の不正受給を必要以上に強調し、弱者排除を堂々と公言する手合いが存在するみたいだ。明日は我が身かもしれないことに考えが及ばず、自分より“下”の者を軽視して何かしらの優越感を得るという、低レベルの自尊感情や自己有用意識に過ぎないのだろう。

 ダニエルに扮するデイヴ・ジョーンズは本国では有名なコメディアンとのことで、役人相手に減らず口を叩く冒頭部分は笑わせてくれる。だが、映画が進むに従ってこのキャラクターの慎み深く暖かい内面を滲み出していくのはさすがだ。ケイティ役のヘイリー・スクワイアーズも好演。第69回カンヌ国際映画祭における大賞受賞作で、今年度のヨーロッパ映画の収穫の一つである。
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天神東宝が閉館。

2017-04-09 06:35:25 | 映画周辺のネタ

 2017年3月31日をもって、福岡市中央区天神にある天神東宝(TOHOシネマズ天神・本館)が営業を終えた。天神東宝ビルの所有者が建替えを予定しているとのことで、それに伴う措置だという。

 同映画館は97年3月にオープンしている。その前身は博多区中洲にあった宝塚会館だ。宝塚会館は5スクリーンだったが、天神東宝は6スクリーンだ。しかし、劇場の規模は宝塚会館の方が大きかった。繁華街の真ん中にある天神東宝は確かにロケーションは良いが、設備面では満足できるものではなかった。特に男子トイレを使うのに階段を上り下りする必要があったのには閉口した。

 顧客サービスにおいても、九州東宝株式会社が経営・運営していた頃は旧来型の映画館と変わらず、新興のシネコンに比べると見劣りしていた。ただし、2008年にTOHOシネマズ株式会社に経営統合されたあたりから、随分と良くなったように思う。

 それにしても、6スクリーンが一挙に無くなったというのは、映画好きの福岡県民にとってはかなりのダメージだ。まあ、福岡市のような規模の市場に東宝系のシネコンが存在しない状態が長く続くとは思えず、たぶん別の場所で開館してくれると予想するが、現時点では未定というのが辛い。今後の展開を見守りたい。
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「第14回九州ハイエンドオーディオフェア」リポート(その2)

2017-04-08 06:33:57 | プア・オーディオへの招待
 国産高級アンプのメーカーとして有名な、ACCUPHASEのブースにも行ってみた。音に関しては言うことなしで、このブランドらしい堅実な展開だ。ここで興味を惹かれたのが“AAVA方式”と名付けられたボリューム・コントロールである。

 この方式は16種類の変換アンプを電流スイッチで切り替えて音量を調節するというもので、利点としては左右の連動誤差やクロストークから解放されるという。要するに微小レベルでも左右の音量差がほとんど無く、いわゆるギャングエラーをキャンセル出来るらしい。さらに従来のボリュームとは違い、経年劣化による雑音の発生、つまりは“ガリ”の発生を抑え込むことに成功したとのことだ。



 私も同社の昔の製品を保有しているが、一度“ガリ”が出て修理に出したことがある。また、今まで使ってきたアンプでも“ガリ”に悩まされたことは一度や二度ではない。まあ、デジタル型のボリュームでは“ガリ”が発生しないという話も聞いたことがあるが、個人的な好みによりボリューム・コントロールはアナログ方式に限ると思っている(笑)。ともあれ、こういう使い勝手の向上に繋がるような仕様の採用は、どんどんやってほしい。

 さて、福岡国際会議場の別のフロアでは別のイベントが開かれていた。それは主にDAPやパソコン等に繋ぐ小型の音響デバイスを展示する「ポータブル・オーディオ・フェスティバル」(通称:ポタフェス)だ。そういう催し物があるとは当日になるまで私は知らなかったのだが、ついでなので少し覗いてみることにした。



 予想はしていたが、会場内は圧倒的に若者が多い。だから活気がある。デモされていた製品群も面白そうなものばかりで、特に音源からドライバーまでフル・デジタルで信号を伝送して振動板を鳴らすというヘッドホン・システムは実に興味深かった。DAC(デジタル・アナログ・コンバーター)も介さず、鮮度の高いサウンド再生が可能だという。ヘッドホンの世界ではすでにお馴染みのテクノロジーなのかもしれないが、初めて知った身としては驚くしかない。

 昔から高級ヘッドフォンの代名詞と呼ばれていたSTAXの製品も、初めて聴くことができた。刺激的な音を一切出さない流麗な展開で、これさえあればスピーカーはいらないという評価があることも納得できる。

 場内を見渡すと、若者たちに交じってオーディオフェアから流れてきたと思われる高年齢層の姿もチラホラ見かける。そして一様に珍しそうに展示物を眺めたり手に取っていたりしていた。ところが反対にこのフロアからオーディオフェアまで足を延ばしている若い衆は(私が見る限り)ほとんどいない。高年齢層が好奇心旺盛で若者はそうではないとも言えるが、オーディオフェア側に若者を引っ張ってくるような施策が無かったというのが実情ではないだろうか。

 まあ、若者たちにとっては、こんなに小型で性能の良い製品が出回っているのに、あえて大時代な重厚長大なオーディオシステムを選ぶ余地は無いというのが実情かもしれない。当地でまた「ポタフェス」が開催されるのならば、また足を運んでみたい。

(この項おわり)
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「第14回九州ハイエンドオーディオフェア」リポート(その1)

2017-04-07 06:39:35 | プア・オーディオへの招待
 去る3月31日から4月2日にかけて、福岡市博多区石城にある福岡国際会議場で開催された「九州ハイエンドオーディオフェア」に行ってきた。とはいっても年度末のこの時期は忙しく、何とか時間を見つけて足を運べたのは1日だけだ。だから大したことが書けるわけではないが、取り敢えず印象に残ったことをいくつかリポートしたい。

 まず興味を惹かれたのが、HDR対応のプロジェクターだ。いつもならオーディオ機器のネタを中心に書き連ねるところだが、この映像機器の印象があまりに強かったので、最初に言及したい。



 HDRとは“ハイダイナミックレンジ”の略で、画面の明るさのレンジを拡大する技術のことだ。最近は4Kテレビも市民権を得たようだが、あくまで4Kは画素数を増やして画面解像度を高める方向性であるのに対し、HDRは明るさの情報(輝度)に着目して、より自然な映像再現を可能にするためのテクノロジーだという。実際のデモ映像を見ると、これはなかなかのものだと感じる。スタッフの話によると、ソフトによっては映画館のスクリーンよりも高精細で再生出来るとのことだ。

 デモで使われたのはSONYの製品だったが、まだ高価だ。しかし今後は手頃な価格に落ち着いてくるだろう。もちろん大きなプロジェクタースクリーンを用意できる層は限られるだろうが、まさに時代はここまで進んだのかと驚くばかりだ。

 会場には相変わらず一般ピープルには縁の無い高価格帯のシステムが多数並んでいたが、今回はあまり聴けなかったこともあり、あえてリポートする必要性は感じない。その中でぜひ試聴したいと思っていたのが、Panasonicが展開するオーディオブランドであるTechnicsの製品群だ。

 このブランドが“復活”したのは数年前で、当ブログでは2015年にその第一弾のモデルに対するレビューを載せたが、今回はレコードプレーヤーをラインナップに加えたのが注目される。言うまでもなくTechnicsはダイレクトドライブ方式のターンテーブルを世界で初めて開発しており、“復活”後の製品展開が期待されていたものだ。



 展示されていたのはSL-1200GR(定価14万8千円)とSL-1200G(定価33万円)である。オリジナルのSL-1200が発売されたのが72年で、それからシリーズを重ねていったが、デザインは踏襲されていた。今回の2機種も同様で、昔ながらの佇まいに嬉しくなってくる。ただし、2機種とも見た目はほとんど変わらない。果たして値段の差は音に反映するのかというのが、今回の試聴会の狙いだ。

 同じアンプとスピーカー、同じカートリッジで聴き比べてみると、明らかに違う。もちろんSL-1200Gの圧勝だ。情報量や音像の捉え方、音場の広さなど、SL-1200GはSL-1200GRに大きく差を付ける。この2機種はルックスは似ているが、実際に触ってみると剛性感・質感は値段なりの違いがある。

 そういえば、私が実家で使っているプレーヤーはYAMAHAのGT-2000だが、それまでは8万円ほどの他社製品を使っていた。それまでアナログプレーヤーによる音の違いはあまり無いと思っていたのだが、いざ更改してみたら様相がまるで異なり、びっくりしたことを思い出す。必ずしも“音質と値段は比例する”とは言えないが、価格が高くなると音質向上の方法の多様性が得られるのは確かなのだろう。

 とはいえSL-1200GRも悪い製品ではないと思う。現時点でこの価格でこのクォリティならば、文句は無いだろう。なお、同社の新作スピーカーのSB-G90も展示されていたが、こちらはエージング(鳴らし込み)がほとんど成されていないとのことで、かなり音が硬い。店頭である程度鳴らされた状態で、改めて接したいと思った。

(この項つづく)
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「哭声/コクソン」

2017-04-03 06:32:16 | 映画の感想(か行)

 (英題:THE WAILING )わけの分からない映画である。もちろん“わけの分からぬ映画を作ってはいけない”ということはなく、その“わけの分からなさ”に作者のポリシーが一本通っていて映画的面白さに結実していれば文句はない。しかし本作は、各モチーフが文字通り“わけが分からないまま”放り投げられてしまった。これでは評価のしようがない。

 韓国の山奥にある谷城(コクソン)という村で、それまで正常だった人間が突然錯乱し、家族を殺害するという事件が相次いで起こる。しかも、加害者は皆一様に口もきけなくなり、皮膚は原因不明の湿疹に覆われていた。事件の捜査に当たっていた村の警察官ジョングの前に、ミステリアスな若い女が現れる。また、山の中には素性の分からぬ日本人の男が住み着くようになり、村人達は事件との関係性を噂していた。

 そんな中、ジョングは幼い娘の身体にあの湿疹ができていることを発見する。それから次第におかしな行動を取るようになった娘を心配した彼は、これは何かの“呪い”であると断定。祈祷師に頼んでお祓いをしてもらうが、事態は改善しない。意を決してくだんの日本人のもとに乗り込むヒジョン達だが、一連の事件で行方不明になっていた男がゾンビになって彼らに襲いかかる。

 ナ・ホンジン監督は「チェイサー」(2008年)と「哀しき獣」(2010年)で、出口の見えない閉塞感と焦燥感を醸成して観る者を驚嘆せしめたが、その息苦しさは本作も共通している。だが、話がオカルト方面に振られ、加えて作者の手前勝手な思い込み(のようなもの)が跳梁跋扈するようになると、正直どうでもいい気分になってくる。

 当初、事件の原因は毒キノコの幻覚作用と言われていたが、やがて悪魔憑きだのウォーキング・デッドだの、エクソシストだの結界だのと、さまざまなネタが五月雨式に投下され、それらは一つとして決着を見ることはない。まあ、話が“邪悪なもの”と“そうではないもの”との対立を追っているらしいことは分かるが、そう割り切っても辻褄の合わない箇所がいくつも散見され愉快になれない。

 話によると、劇中に出てくるモチーフは全て聖書から取っているらしいが、そっち方面に造詣の無いこちらにとっては鼻白むばかりだ。少なくとも「セブン」や「リーピング」ぐらいの平易な展開にしていただきたい。

 得体の知れない日本人に扮する國村隼はまさに怪演だが、どうして日本人でなければならないのか不明。かの国の反日感情も窺われて、観る者によっては不快な気分になるかもしれない。他のキャストに魅力はないし、上映時間は無駄に長く、見終わって徒労感だけが残る。
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「星空のむこうの国」

2017-04-02 06:38:48 | 映画の感想(は行)
 86年作品。現在でも映画やテレビドラマなどでコンスタントに活動している小中和哉監督の、劇場用長編デビュー作である。とはいっても、彼のフィルモグラフィは子供向けが多く、本作以外は観ていない。だが、この映画に限って言えば決して低くはないクォリティを持ち合わせており、(当時は限られた公開ながら)接することが出来た観客には、強い印象を残したことだろう。

 星を見るのが好きな平凡な高校生の昭雄は、ある日交通事故に遭って頭を打ってしまう。幸い傷は治ったのだが、それから彼は見知らぬ女の子の夢を毎晩見るようになる。並走する電車の窓に彼女の姿を見つけた日、帰宅してみたら彼は“死んだ者”とされていた。いつの間にかパラレル・ワールドに迷い込んでしまったのだ。



 その世界での昭雄のガールフレンドだったのが、くだんの少女・理沙だった。彼女の強い想いが次元を超えて昭雄を引き寄せたのだ。昭雄は親友の尾崎の助けを借りて理沙と会うことが出来たが、彼女は難病で余命幾ばくもないことを知る。昭雄はシリウス流星群を2人で見るため、理沙を一晩だけ病院から連れ出す。

 SF仕立てのラブストーリーで、昨今の若年層向けの毒にも薬にもならないようなシャシン群にも通じる筋書きながら、堅牢で無駄を廃したプロットとスムーズな展開が76分という短い上映時間の中に上手く組み立てられており、訴求力が高い。

 とにかく、観客に媚びるような素振りは微塵も感じさせず、正攻法にドラマを進めようという作者の姿勢が嬉しい。本作はNHKの少年ドラマシリーズをオマージュしているが、確かにあのシリーズ(まあ、記憶に残っているのは数本だが ^^;)は真面目に作られていたように思う。また、漫画やライトノベルの映画化ではなくオリジナル脚本だというのも見上げたものだ。スリリングな中盤から鮮やかな幕切れを迎えるまで、飽きること無く楽しませてくれる。

 主演の神田裕司は現在は監督やプロデューサー業で知られているが、本作での俳優としての仕事も達者なものだ。理沙に扮する有森也実はこれが実質的な映画デビュー作。ルックスはアイドル的だが、演技はこの頃からしっかりしていた。また音楽を担当したのがジャズ・ピアニストの木住野佳子で、的確なスコアを提供している。
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「チア☆ダン 女子高生がチアダンスで全米制覇しちゃったホントの話」

2017-04-01 06:21:26 | 映画の感想(た行)

 欠点はかなり目立つのだが、決して嫌いではない(笑)。実録のスポ根ものという、鉄板の御膳立て。しかも漫画などの安易な映画化ではなく、オリジナル脚本で勝負。何より主要キャストの存在感と頑張りが強く印象に残る。

 福井中央高校に入学した友永ひかりは、密かに想いを寄せていた中学時代からの同級生・孝介がサッカー部に入部したことを知り、試合で彼を応援するためにチアダンス部に入ることにする。ところがクラブの顧問教師である早乙女薫子は、軽い気持ちでいたひかり達の出鼻をくじくように“全米制覇!”という無謀な目標をブチあげ、想像を絶する激しい指導を行う。あまりのスパルタぶりに退部者が続出するが、ひかりは部長に任命された彩乃をはじめとするチームメイト達と心を通わせ、部活を続けることにする。2009年に全米チアダンス選手権大会で優勝した福井商業高校のチアリーダー部をモデルにしたドラマだ。

 困ったことに、肝心のチアダンスの描写が不十分だ。練習の場面はまあ良いとして、試合のシーンはまるで要領を得ず、観ていてシラけてしまう。そもそも、主人公達が舞台でパフォーマンスを披露するのは不調に終わったデビュー戦と、クライマックスの全米大会の決勝戦のみ。2試合以外の振り付けが考案されていなかったのだろうが、見せ方を工夫して断片的でも良いから予選からの軌跡を印象付けて欲しかった。

 しかも、その決勝戦もカメラは大騒ぎする地元の者達に振られることが多く、ダンスに集中していない。試合直前になって変更されたフォーメーションの概要も説明されない有様だ。

 周囲の大人達の扱いはステレオタイプかつ不自然にマンガチック。特に早乙女先生に扮する天海祐希は、観ていて胸やけを起こすほどのオーバーアクトである。また、劇中で福井県の学校であることがやたら強調されるにも関わらず、ロケが新潟県で行われているのは納得できない。これでは“看板に偽りあり”だ。

 しかしながら“落ちこぼれどもが奮起して活躍する”というスポ根のルーティンを提示されると、笑って許したくなるのも事実(笑)。各部員のキャラクターも“立って”いる。ひかり役の広瀬すずは余裕の演技。若いのにこの貫禄は一体何だと思ってしまった。

 山崎紘菜や福原遥、太めで抜群のコメディリリーフを見せる富田望生、バレエが得意という設定ながら体型が(肉付きが良い)グラビアアイドルの柳ゆり菜など、いずれもイイ味を出している。最も興味を惹かれたのは彩乃に扮する中条あやみで、演技はまだ硬いがスラリとした品のある佇まいで画面に彩りを添える。なお、恥ずかしながらチアダンスとチアリーディングが別物であることを、この映画を観て初めて知った(苦笑)。
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