元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ダラス・バイヤーズクラブ」

2014-04-12 06:55:15 | 映画の感想(た行)

 (原題:DALLAS BUYERS CLUB)痛快な一編だ。難病物のルーティンに尻を向け、最後まで勝手気ままに生き、それがまた結果的に世のため人のためになってしまった男の破天荒な行程を追う、実話を元にしたジャン=マルク・ヴァレ監督作。全編に漂う乾いたユーモアは、ウェットな“同情”なんかをまったく受け付けない。

 1985年、テキサス州ダラスに住む電気工のロンは、三度の飯よりも好きなロデオそして女遊びとギャンブルにウツツを抜かすいい加減な男であった。そんな彼がある日、体調不良を訴え気を失う。ロンは担ぎ込まれた病院で医師からHIVの感染を告知され、しかも余命30日だという。

 突然の出来事に対してまるで納得できないロンはエイズについて猛勉強。その結果、有効であると言われながら政府が承認していない薬があることを突き止める。メキシコに渡って大量の無認可薬を入手した彼は、これはビジネスになると考え、会員制で無認可薬を配布する“ダラス・バイヤーズクラブ”なるシンジケートを設立。病院で知り合ったゲイボーイのエイズ患者レイヨンを仲間に引き入れ、事業は成功を収める。しかし当局側は黙っておらず、司直の手がロンに伸びてくる。

 何となく“アメリカは医学先進国”みたいな印象を持っている向きは少なくないと感じるが、本作を観ればそれが嘘っぱちであることが分かる。明らかに効能が認められる薬品を、アメリカ政府は承認しない。その間に患者はバタバタと死んでいく。

 ロンはそんな状況に義憤を感じて法律スレスレの稼業を始めてしまうのだが、基本的に営利目的であり、会費を払えない客は完全無視だ。しかしそれが“悪い”ということではない。お為ごかしの“慈善”などよりもやってることは明快で、利用する側としても分かりやすい。何より、こんなヤクザ者に医療対策のイニシアティヴを取られた政府こそいい面の皮だ。

 オスカーを獲得したマシュー・マコノヒーの演技は凄い。極端な減量に挑んでエイズ患者らしく見せているのは敢闘賞ものだが、それだけならば高い評価は受けられない。彼の真骨頂は、役柄を完全に引き込んでいることだ。エイズに対する偏見が大きかった時代に罹患し苦悩するが、やがて持ち前のマイペースぶりを取り戻し、理不尽な運命と無策な政府に中指を立てる。主人公はまさにこういう人間だったのだろうと思わせるリアリティを付与し、観る者を圧倒する。

 レイヨン役の(これまたオスカー受賞の)ジャレット・レトも見事。儚げな佇まいはドラマに“華”を添えるかのようだ。ロンの考え方に共鳴する女医のイブに扮するジェニファー・ガーナーもイイ味を出している。

 告知から30日どころかそれを遙かに上回る時間を生きたロンは、確実に事態を好転させたのだ。御立派な思想や高邁な理想だけが世の中を動かすのではない。与えられた役割をフル回転させれば、ロンのような男でも功績を残せる。黒澤明の「生きる」の現代版焼き直しという印象さえ時折浮かぶこの映画、観る価値はあると言える。
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「119」

2014-04-11 06:29:33 | 映画の感想(英数)
 94年作品。竹中直人の監督作の中では一番良い出来だと思う。もっとも、他の作品が概ね低調なので本作だけ目立ってしまうという“事情”もあるのだが(笑)、観てあまり損をしないシャシンであることは確かだろう。

 舞台は18年間一度も火事が起きていないという小さな海辺の町だが、もちろんそこにも消防士たちは存在する。そこで思いがけない大火災が発生して彼らは慣れない消火活動に決死の思いで臨む・・・・などという展開は皆無だ(爆)。冒頭にそれらしいシーンはあるのだが、見事に“空振り”で笑いを取った後、彼らの何気ない日々を映画は丹念に追う。



 事件といえば、突然場違いなほどの美人がこの町にやってきたことぐらいだ。キレイな女を見るとすぐにデレデレするくせに、実は口べたで異性との付き合いが苦手な信幸と、消防団長で子持ちの男やもめの達哉は、彼女に果敢にアタックするつもりが実際にはせいぜい世間話しかできない。まあ、最初から彼女と駆け落ちするほどの勇気も無いのだが、それが決してネガティヴに描かれず、淡々と脱力系のタッチで綴られているので不愉快な感じはしない。

 予定通りにやがて彼女は町を去って行くのだが、最後に達哉と会うシーンはいくらでも盛り上げられるとは思うものの、そこでもあえて引いたタッチにしているのが(竹中作品には珍しく)何ともスマートだ。

 竹中自身をはじめ、赤井英和、鈴木京香、塚本晋也、温水洋一、浅野忠信、津田寛治といった多彩な面々がそれぞれあまり出しゃばらずに粛々と仕事をこなしているのも好感が持てる。忌野清志郎による音楽も快調だ。
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「家路」

2014-04-08 06:38:15 | 映画の感想(あ行)

 日本人の土着的なアイデンティティを再確認したような映画だ。園子温監督の「希望の国」でも描かれたように、我が国は“土地と共に生きる人々”によって支えられてきた。放射能汚染の危険性があるからといって、生まれ育った土地を簡単に捨てるわけにはいかない。さらに本作は“震災後に外部から入ってくる人間”をも扱うことによって、テーマを重層化させている。この手口は巧妙だ。

 原発事故で先祖代々受け継いできた土地を失った総一とその家族。今は妻と娘そして血の繋がらない母親と狭い仮設住宅で細々と暮らしている。妻は家計を支えるためにデリヘルに勤め、母親は認知症の症状が出始めて時折自分の家が分からなくなる。総一自身は定職にも就けない。まったくやりきれない生活だ。

 そんな中、昔故郷を追われた腹違いの弟の次郎が、立ち入り禁止区域となった家に戻ってきていることを知る。彼はここで生きていくことを決めており、放置されていた田んぼの手入れをし、苗を植える。総一はそんな次郎の姿を見て最初は驚くが、やがて弟の本当の気持ちを察するようになる。

 土地を失って辛いのは、総一たちだけではない。借金を抱えて何とか国や電力会社から賠償金をせしめようとする者、生きる張り合いを失って自ら命を絶つ者もいる。しかしながら、毅然として故郷に戻り土地と共に生きることを選んだのは、かつてそこから追放された次郎だけだったのだ。

 あの事故に関し、現場近くに住んでいた者たちに対して“危ないからとっとと出て行けば良い”とか“故郷を捨てる前提で身の振り方を考えた方が良い”とか言うのは容易い。ところが、そう簡単に土地を離れられない人々がいるのも、また事実である。大切なのは、彼らをどうやって別の土地に移すのかを考えることではなく、土地と共に生きて今後もその生活パターンを変えたくない人たちの存在を認めることである。原発事故対策も、復興計画も、そこから始めなければならない。

 断っておくが、私は何も“故郷を離れたくない人たちの意見を最大限に尊重しろ”と言いたいのではない。どう逆立ちしたって、汚染の危険があるエリアに全員そのまま住めるはずもないのだ。ただ、そんな人たちの意見を想定して、早めの思い切った措置を講ずるべきであった。今となっては、もう遅いかもしれない。

 松山ケンイチ扮する次郎の眼差しには透徹したような深みがある。故郷を喪失し、根無し草のような生活を長らく送った後、やっと土地と共に生きる機会を得たのだ。愛しい故郷。美しい故郷。だが、その土地には“未来”はない。そんな彼は母親を故郷に戻し、一緒に暮らすことを選ぶ。

 母親役の田中裕子の演技も圧巻だ。年を取ってからの彼女のパフォーマンスは、回を追うごとに練り上げられてきている。総一役の内野聖陽、妻のミサを演じる安藤サクラ、次郎と行動を共にするドロップアウト青年役の山中崇、いずれも手堅い演技である。監督はドキュメンタリー出身の久保田直で、これが劇映画デビューとなるが、手練れの作家のような力量を見せる。加古隆の音楽も良いし、Salyuによるエンドタイトル曲もなかなかのものだ。
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「平成狸合戦ぽんぽこ」

2014-04-07 06:40:32 | 映画の感想(は行)
 94年作品。高畑勲の作家性が前面に押し出された映画だ。ただし、それが公開当時ファミリー映画として興行展開される番組にふさわしかったのかどうか、すこぶる疑問だ。少なくとも、私は小さい子供には見せたくない。大人の観客でも感じるこの居心地の悪さ。これは評価出来ない映画である。

 エコロジー派の高畑が描くユートピアとは、自然と人間が共存する世界なのだろう。「おもひでぽろぽろ」の東北の山村や「柳川堀割物語」の柳川、製作を担当した「風の谷のナウシカ」の未来世界などで十分すぎるくらい描かれていた。

 ただ、それらはどれも人間の側から描かれていた。つまり人間が自然と共存しようとして並々ならぬ努力を払うこと、対する自然の描き方は客体としてのそれでしかないことが明記されていた。自然を擬人化しようとしてもヘタすると作者の傲慢にしかならない恐れがあるし、しょせん作り手は人間だし、それが正解だった。



 ところがこの作品は“自然の代表”としてタヌキを登場させ、主人公としている。理由は不明だが、その手法には賛成できない。

 多摩の宅地開発に抵抗する彼らは、人間を超越した“自然の象徴”として描かれていると予想していた。そういう設定だと自然に対する畏怖という点から、多少は納得できるかもしれないと思った。ところが、いくら人間に化けたってタヌキはタヌキでしかないことを明示しているのだ。

 抵抗の方法も極めて幼稚で、大々的な化け物ショーをやって人間の度肝を抜く愛敬があると思えば、建設作業員を殺しまくっても反省もしない。終盤では人間に同化して、社会の底辺で細々と生きる姿まで描かれる。頭の悪い畜生でしかない彼らをこうまで思い入れたっぷりに描いて、いったい何になるのだろう。

 超能力で昔の多摩の自然を一時的に再現するシーンまであるが、単なるノスタルジーであり不要だ。宅地開発はそれ相当の必然があってやっているのだ。それが悪いというなら、そこに到る人間側の事情もテンション上げて描くべきではないのか? すべてが中途半端で、居心地が悪いというのはそういうことだ。

 タヌキたちが可愛くないのも困ったものだが(まあ、可愛ければいいというわけではないけど ^^;)、三段変身する必然も効果もなく、思わせぶりなナレーションはシラけるし、主人公の二匹をアテる声の出演者達のヒドさも相まって、これは当時のスタジオジブリには珍しい、明らかな失敗作だと言ってしまおう。
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「あなたを抱きしめる日まで」

2014-04-06 06:15:00 | 映画の感想(あ行)

 (原題:PHILOMENA )これはひょっとして、カトリックを糾弾する映画なのだろうか。ちなみにニューヨーク・ポスト紙は本作を“カトリックへの悪質な攻撃である”と評し、製作者側とちょっとした“論争”になっているらしいが、いずれにしても本分であるヒューマン・ドラマよりも宗教に対する視点の方が気になってしまう作品である。

 1952年のアイルランド。シングルマザーになった少女フィロミナは親から勘当され、修道院に入れられる。そこでは禁欲的な生活を強いられた挙げ句に、幼い息子アンソニーは無理矢理に里子に出されてしまう。もちろん息子の行方は知らされないままだ。50年後、イギリスに移住した彼女は娘ジェーンに昔生き別れた息子のことを打ち明ける。ジェーンはリストラされたばかりのジャーナリストのマーティン・シックススミスに話を持ちかけ、母と一緒に息子を見つけてくれるように頼む。こうしてフィロミナとマーティンの人探しの旅が始まる。原作はシックススミス自身による実録ルポだ。

 つまりは、カトリック系修道院が未婚の若い母親達の“強制収容所”になり、子供は高値で金持ちに売り飛ばしていたという、あくどい遣り口が暴かれるというわけだ。50年ほど前の話だというが、見方を変えれば“わずか50年前”にこんな前近代的なことが行われていたのである。

 しかも、その“後遺症”は現在でも続いており、行方不明になった子供を探している当時のシングルマザーが今も多数いるという。さらには映画の終盤で明かされる“真実”は、雰囲気としては「ダ・ヴィンチ・コード」の世界だ(爆)。こういう宗教がらみのネタは、観る側に興味がなければ“縁のない話”であり、私もほとんど引き込まれなかった。

 ならばつまらない映画かというと、そうでもない。それは、主役二人の珍道中を追うバディ・ムービーとしては面白く出来ているからだ。ハーレクイン・ロマンスが大好きな下町のオバチャンであるフィロミナと、インテリ臭が鼻につくマーティンは、普通に考えれば絶対に接点がないはずのキャラクター同士だ。それがひょんなことから一緒に旅をするハメになる。当然のことながら最初は会話がかみ合わず、ヘタすると意思の疎通もままならない。それがやがて相手の立場を理解していくようになるプロセスは、スティーヴン・フリアーズの丁寧な演出もあり、納得できるものになっている。

 演じるジュディ・デンチとスティーヴ・クーガンは絶好調で、絶妙なユーモアを醸し出し、観る者を飽きさせない。アレクサンドル・デスプラの音楽は幾分ウェットだが、旋律美は忘れがたい。ロビー・ライアンによる撮影も見事。寒色系でシャープな画面造形は惹きつけられる。

 ただし、この邦題はいかがなものか。まるで安手のライトノベルのタイトルではないか。ひょっとしたら、ヒロインがロマンス小説の愛読者だから、題名もそれに準拠したのかもしれない(まさか ^^;)。
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「第11回九州ハイエンドオーディオフェア」リポート(その4)

2014-04-03 06:32:30 | プア・オーディオへの招待
 展示されていたブランドはお馴染みのところが多かったが、それでもSPIRAL GROOVEELECTROCOMPANIET等いくつか新規出品のメーカーのモデルも聴くことが出来て、それなりに得るものがあった。

 逆に最も失望したのがSONYである。新型のプリメインアンプネットワークプレーヤーが紹介され、同社のスピーカーSS-AR2を使ってのデモが行われていた。説明するメーカーのスタッフの弁舌には熱がこもっていたが、肝心の音はまるで話にならない。何というか、音楽が鳴っているという感じが全然しないのだ。ただ単に音が出ているという状態に過ぎず、音楽を楽しく聴かせるキレとかコクとか明るさとか艶っぽさみたいなものは皆無。



 ならば聴感上の物理特性が凄いのかというと、そうでもない。寸詰まりでレンジも音場も広がらない印象を受ける。同じ部屋に海外の有名ブランド品も置いてあっただけに、大きく見劣りするのは仕方がないだろう。

 昔のSONYは良かった。70年代後半のSS-G7をはじめとするフロア型スピーカーは実に味わい深い“大人の音”だったし、バブル期に出したアンプ類は骨太な展開で所有満足度も高かったものだ。それだけに、今の体たらくにはガッカリである。だいたい、CDの考案元であるにもかかわらずCDプレーヤーを新たにリリースしていないというのだから呆れる。

 パソコン事業の“切り売り”をはじめ最近いい話を聞かないSONYだが、今回の低調なデモはそれを象徴しているかのような印象を受けてしまった。実に寂しい話である。

 最後に、会場で某大手メーカーのスタッフから聞いた話を紹介したい。最近はネットからダウンロードする圧縮音源が大手を振って罷り通っているが、そんな情報量を間引いたような音源しか聴いてこなかった若い者にちゃんとしたピュア・オーディオシステムの音を聴かせると、驚くことに彼らは拒否反応を示すのだという。

 いわく“音がいっぱい飛んできてコワイ”とか“声が生々しくてキモい”とか、そういうネガティヴなセリフが飛び交うという。もちろん、音楽活動をやっている若い衆(プロアマ問わず)は上質なオーディオシステムの音の良さを素直に認めるらしいが、そうではないその他大勢は良い音に接しても腰が引けてしまうとか。



 そのスタッフは“確かに情報量が小さい音を心地良いと思うケースがある。たとえばラジオ放送や昔のカセットテープの音は、長時間聴いても疲れない”とは言ったものの、それは良い音で聴ける装置(ステレオセット)が存在していることを承知した上で、ラジオやカセットはその“代用品”に過ぎないと皆が認識していた時代の話だろう。圧縮音源以外のソースがこの世に存在しないと思っている今の若い連中にとっては、ピュア・オーディオシステムは“得体の知れない何か”であっても仕方がない。

 もちろん、今さらこんな状況を嘆いてみても無駄であり、そもそも責任は市場縮小に手を拱いてきたオーディオメーカーの側にある。くだんのスタッフ氏に“では、メーカーとしては若い者達に対して啓蒙活動(?)みたいなことはやっているのか?”と聞いたら“東京と大阪で小規模なものは実施しているが、本腰据えてはやっていない”との回答を得た。

 まあ、どこも自分のところの“目先の利益”が大切だというのも分かるが、少しは市場の拡大というマクロな視点でビジネスを見直して欲しいものである。

(この項おわり)
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「第11回九州ハイエンドオーディオフェア」リポート(その3)

2014-04-02 06:38:00 | プア・オーディオへの招待
 数百万円の高級機がズラリと並ぶ中、一番印象に残ったのはリーズナブル・プライスであるOLASONICのNANOCOMPO(ナノコンポ)である。OLASONICはプリント基板や組込マイコン開発設計を主な業務とする東和電子が展開するオーディオブランドで、業界ではニューカマーだが、エンジニアは各有名メーカーに在籍していた手練れのスタッフを集めているという。

 出品されていたのはDAC内蔵プリメインアンプのNANO-UA1、 CDトランスポートのNANO-CD1、メインンプのNANO-A1、ネットワークオーディオプレーヤーのNANO-NP1などである。なお、デモに使われていたスピーカーは独ELAC社のFS 407であった。



 まず驚くのがこのNANOCOMPO、とても小さいのである。CDケース約3枚分の大きさしかない。加えて、エクステリアの質感が高い。安っぽさは皆無。アルミ筐体の部材を見せてもらったが、ガッチリと作り上げられている。ちなみに、2013年度のグッドデザイン賞を受賞している。

 価格はNANO-UA1が7万円、NANO-CD1が6万円、その他の製品も10万円を切っている。ミニコンポよりは値が張るが、決して高くは無い。ピュア・オーディオの“相場”からすれば、エントリークラスといっても良いだろう。この小さなコンポーネントが、フロアスタンディング型のFS 407を朗々と鳴らしてしまったのには驚いた。

 もちろん他社の数十万円級の高級アンプに比べれば質的には及ばないものの、サイズと価格を考えれば文句は無い。音質は大っぴらにハイファイ度を追求したものではないが、バランスが良くてレンジも適度に広がり、特定帯域での不自然な強調感や向こう受けを狙った着色とは無縁だ。意外な力感もあり、繋ぐスピーカーを選ぶことはないと思わせる。また、縦置きが可能だというのも嬉しい。しかも、NANO-CD1はディスプレイも縦表示に出来る。

 メーカーのスタッフは“スピーカーは昔に比べると現在はコンパクトで高性能のものが出回ってきているが、アンプ類は相変わらず無駄にサイズがデカい”というような意味のことを言っていたが、これは日頃私が考えていることと同じで、大いに共感を覚えた。

 コンセプトとしては70年代に松下電器(現Panasonic)がTechnicsブランドで発売していた“コンサイス・コンポ”を思わせる。こういう商品こそ売れて欲しい。それも、ピュア・オーディオに興味のない多くの一般ピープルに対してアピールしてもらいたい。

 家電量販店でも扱っているらしいが、デパートやファッション関係ショップ、インテリア用品店などに並べても面白いだろう。とにかく“オーディオ機器はとにかくデカくて重ければ良い”と思い込んでいる旧来型のマニアを切り捨てて業界の健全化を図る意味でも、有意義な製品だと思う。



 多くの入場者の注目を集めていたのは、英国B&W社のスピーカー、805 Maserati Editionである。自動車メーカーのマセラティとのコラボレーションにより、人気モデルの805Dをチューンナップしたものだ。世界で500台の限定製品であり、日本にはそのうち100台が入ってくる。

 聴いてみると、確かにいつものB&Wのサウンドに明るく艶っぽいイタリア風味がブレンドされたような音だ。まあ、悪くはないのだが、イタリアン・テイストが好きならばイタリア製のスピーカーを買った方が良いのではないかという気もする。

 ちなみに、価格はペアで160万円強だ。いくらスピーカースタンド(置き台)込みの値段とはいっても、ノーマルの805Dが60万円弱なのだから、これは高すぎるのではないだろうか。そもそも、160万円あれば上位機種の803Dを買ってもお釣りが来る。

 しかしながら、たぶん限定品という表看板に弱いユーザーは買ってしまうのだろう(笑)。話によると、800シリーズはB&Wの上級機ながら、日本で同社製品の中ではよく売れているらしい。不況にも関わらず、世の中には金持ちが多いようだ。もちろん私は、ノーマルの805Dさえ買えない懐具合である(爆)。

(この項つづく)
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「第11回九州ハイエンドオーディオフェア」リポート(その2)

2014-04-01 06:44:00 | プア・オーディオへの招待
 このイベントでは何度も登場している評論家の福田雅光だが、今回も怪しげな(?)オーディオ・アクセサリーを引っさげて講演会を開催していた。彼が紹介したのは、スウェーデンのEntreq社の仮想アース装置である。

 近年、オーディオシステムの電源においてアース処理を施すことは“常識”になりつつあるという。ところが本格的な接地工事をやるとなると、手間も費用も馬鹿にならない。そもそも集合住宅などでは不可能な場合も多々ある。そこで登場したのが“仮想アース”という方法だ。

 それに対応する製品を用意し、オーディオ機器の空き端子に専用の付属アースケーブルを介して接続するだけで、いとも簡単にアース処理が実現するのだという。



 Tellusと名付けられたこのモデルは、見た目は単なる木箱だ。私は当初、アンプの梱包資材だと思っていたほどである(爆)。ただ中身は金・銀・銅・亜鉛などが独自の割合で配合されたマテリアルが詰まっているらしい。後面に入力端子があり、そこにアンプなど専用ケーブルで接続する。なお、デモに使用されていたのはスピーカーがB&Wのもので、アンプ類はLUXMAN。いずれも高級品クラスである。

 実際に聴いた感じは、確かに効果はあるようだ。Tellusを取り付けると音場の見通しが良くなり、音像の密度も上がる。しかし、Tellus自体の15万円程度という価格を考えると、導入したいと考えるユーザーがいるのかどうか全く想像出来ない。

 そもそも、Tellusの機能が本式のアース工事と比べてどうなのかも示されていないし、中級ぐらいのシステムでは効果があるのかどうかも不明だ。やはりこれも他のオーディオアクセサリー同様“買ってみなければ分からない”というレベルの商品だろう。輸入を取り扱っているのがOYAIDEだというのも臭い(笑)。あのメーカーは私はあまり信用していないんだよね。



 毎度の事ながらFURUTECH社のインライン・パワーフィルターも紹介されていたが、ある程度の効果は認めるものの、価格は安くないし見た目が不格好でもあるので、個人的には導入は遠慮したい(笑)。

 あとは電源ケーブルの新作の紹介と、アンプ付属の電源ケーブルとの聴き比べが行われた。結果は言わずもがなで、やはり付属ケーブルと市販ケーブルとの間には“越えられない壁”があることを再認識した(もちろん、両者を聴き分けられないリスナーもいることは承知しているが ^^;)。電源ケーブルの換装は、必須科目になりつつあるのかもしれない。

 それにしても、福田がいつもデモ用に使う音楽ソフトは面白味がない。現代音楽の管弦楽曲やマリンバ独奏なんか、いくら機器の比較用だといってもそう何回も聴きたいものではない。もっと平易で聴き所が分かりやすいソフトを使用して欲しいものだ。

(この項つづく)
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