5月25日に鳳来寺山に来ていますが、またやって来ました。 今度は昔ながらの表参道石段登りで、鳳来寺の本堂を目指します。
この道は松尾芭蕉や種田山頭火、若山牧水たちが通った道でもあります。
(以下は引用文)
”木枯に 岩吹とがる 杉間かな” 芭蕉
(元禄四年閏十月二十三日(1691年12月12日)のことです。)
松尾芭蕉は上方から江戸へ帰る途中、新城の門人、太田白雪を訪ねた。当時、鳳来寺山は三河随一の霊場で、芭蕉も鳳来寺山への参籠(さんろう)を希望していた。翌日の朝、白雪の案内で弟子を伴い、新城から16km以上の道を歩き鳳来寺山表参道へ到着したのは午後であった。曲がりくねった参道を進み、200段余りの階段を登ったとき、仁王門に差し掛かった時、芭蕉は身震いする寒さのために一気に疲労を感じて持病(一説には”痔”であったとも)が起こり、参詣を断念して下山することになった。このとき、上の句は即詠されたということである。
”夜着一つ折り出(いだ)して旅寝かな” 芭蕉
芭蕉は持病がひどくなり、頂上まで登らずに引き返し、表参道にあった「家根屋」という旅館に泊めてもらった。(この日は鳳来寺の秋祭りで、どの家も満員であったため、無理に頼みこんだものだったという。)
与えられたその部屋は風が吹き抜け、布団もお粗末だったために、芭蕉のことを案じた弟子たちが夜道を奔走して、やっと一軒の家から拝み倒して、夜着(掛布団の一種)を一枚借りることが出来たという。
その時の句が上掲のものである。(引用終了)
鳳来寺山のレポートを6回に分けてやっていきます。
位置図 ↓
行程鳥瞰図 ↓
実行図 ↓
断面図 ↓
一の門 ↓
この場所に無料の駐車場があり(休日は有料だそうです。)、そこに車を置かせていただきました。
この門から山に向かって昔の門前町の面影が残っています。
表参道 ↓
昔の勢いは失せてしまいましたが、表参道という感じは残っています。
自然科学博物館 ↓
朝早かったので立ち寄ることはしませんでしたが、ここでは
鳳来寺山を中心とした郷土に生息する植物・動物・きのこ、地質の総合展示で
動物:哺乳類、鳥類、両生類、爬虫類、昆虫類
植物:樹幹、さく葉標本、植生
地学:岩石(堆積岩、火成岩、変成岩)、化石、石の利用などを見学できるようです。
参道の民家 ↓
旅館や硯の工房などがありました。
石段の入り口 ↓
石段は全部で1,425段あるそうですが、数え方によって随分数字が違ってきます。
(以前、小生が数えながら歩いた時には1200段ほどでした。)
この入口でストレッチをしてから石段歩きに取付きます。
始めの一歩 ↓
歩き始めます。
ヤマホタルブクロ ↓
石段の脇にヤマホタルブクロが出てきました。
”セバイシ”あたりか? ↓
このあたりで芭蕉は句作のイメージが湧いたのではないでしょうか。これを過ぎるとすぐに仁王門が見えて来ます。
セバイシは”狭石”の変化形だと思われます。岩の狭まった道の個所といった意味でしょうか。
仁王門に到る石段 ↓
芭蕉はこの石段を上ることなく引き返したのだと思います。
芭蕉の句碑 ↓
この句碑は、仁王門に登る石段の取付き箇所にあります。”木枯らしに・・・”の句碑は新旧二つ設置されていて、新しい句碑は”セバイシ”のところにあり、こちらの古い句碑は仁王門に登る手前に設置されていて、もうほとんど字が判読できません。
仁王様「阿形」 ↓
仁王様「吽形」 ↓
仁王門は、慶安4年(1651)に再建され、三間一戸、入母屋造の楼門であり、屋根は銅板葺(本来は檜皮葺)となっていて、国の重要文化財になっています。
中央の柱間を通路とし、両脇前方の一間四方に仁王像を祀りますが、仁王像は県の指定文化財となっています。
仁王門より行く手を見る ↓
岡田耿陽の句碑 ↓
”霧深し大傘杉はどれならむ”耿陽(こうよう)は高浜虚子門下生で東三河の俳人です。
御神木である傘杉を探しながら、石段を頑張って登っていたのでしょうね。
その「傘杉」 ↓
(引用文):日本一の樹高を誇る大杉「傘杉」は樹高約60m、枝下約31m、樹齢は推定800年になります。新日本名木百選に選ばれるこの杉は、枝が“傘の骨”のように広がっていることから名付けられました。
(引用終了)
もう20年以上前のことになりますが、この根元に落ちていたセッコクの株を持ち帰り、我家の柿の木に着けておいたものが毎年花を咲かせてくれています。
ヤマアジサイ ↓
石段の道は杉の木の下で、どちらかというと薄暗くさえもあり、比較的涼しく歩けています。
そんな道沿いにこの花を見ます。
石段はまだ続く ↓
もう半分くらい来たのでしょうか、結構筋肉が熱くなってきています。
ユキノシタ ↓
道脇の石にこの花が咲いていました。
ハエドクソウ ↓
撮りにくい花が出てきました。
この道は松尾芭蕉や種田山頭火、若山牧水たちが通った道でもあります。
(以下は引用文)
”木枯に 岩吹とがる 杉間かな” 芭蕉
(元禄四年閏十月二十三日(1691年12月12日)のことです。)
松尾芭蕉は上方から江戸へ帰る途中、新城の門人、太田白雪を訪ねた。当時、鳳来寺山は三河随一の霊場で、芭蕉も鳳来寺山への参籠(さんろう)を希望していた。翌日の朝、白雪の案内で弟子を伴い、新城から16km以上の道を歩き鳳来寺山表参道へ到着したのは午後であった。曲がりくねった参道を進み、200段余りの階段を登ったとき、仁王門に差し掛かった時、芭蕉は身震いする寒さのために一気に疲労を感じて持病(一説には”痔”であったとも)が起こり、参詣を断念して下山することになった。このとき、上の句は即詠されたということである。
”夜着一つ折り出(いだ)して旅寝かな” 芭蕉
芭蕉は持病がひどくなり、頂上まで登らずに引き返し、表参道にあった「家根屋」という旅館に泊めてもらった。(この日は鳳来寺の秋祭りで、どの家も満員であったため、無理に頼みこんだものだったという。)
与えられたその部屋は風が吹き抜け、布団もお粗末だったために、芭蕉のことを案じた弟子たちが夜道を奔走して、やっと一軒の家から拝み倒して、夜着(掛布団の一種)を一枚借りることが出来たという。
その時の句が上掲のものである。(引用終了)
鳳来寺山のレポートを6回に分けてやっていきます。
位置図 ↓
行程鳥瞰図 ↓
実行図 ↓
断面図 ↓
一の門 ↓
この場所に無料の駐車場があり(休日は有料だそうです。)、そこに車を置かせていただきました。
この門から山に向かって昔の門前町の面影が残っています。
表参道 ↓
昔の勢いは失せてしまいましたが、表参道という感じは残っています。
自然科学博物館 ↓
朝早かったので立ち寄ることはしませんでしたが、ここでは
鳳来寺山を中心とした郷土に生息する植物・動物・きのこ、地質の総合展示で
動物:哺乳類、鳥類、両生類、爬虫類、昆虫類
植物:樹幹、さく葉標本、植生
地学:岩石(堆積岩、火成岩、変成岩)、化石、石の利用などを見学できるようです。
参道の民家 ↓
旅館や硯の工房などがありました。
石段の入り口 ↓
石段は全部で1,425段あるそうですが、数え方によって随分数字が違ってきます。
(以前、小生が数えながら歩いた時には1200段ほどでした。)
この入口でストレッチをしてから石段歩きに取付きます。
始めの一歩 ↓
歩き始めます。
ヤマホタルブクロ ↓
石段の脇にヤマホタルブクロが出てきました。
”セバイシ”あたりか? ↓
このあたりで芭蕉は句作のイメージが湧いたのではないでしょうか。これを過ぎるとすぐに仁王門が見えて来ます。
セバイシは”狭石”の変化形だと思われます。岩の狭まった道の個所といった意味でしょうか。
仁王門に到る石段 ↓
芭蕉はこの石段を上ることなく引き返したのだと思います。
芭蕉の句碑 ↓
この句碑は、仁王門に登る石段の取付き箇所にあります。”木枯らしに・・・”の句碑は新旧二つ設置されていて、新しい句碑は”セバイシ”のところにあり、こちらの古い句碑は仁王門に登る手前に設置されていて、もうほとんど字が判読できません。
仁王様「阿形」 ↓
仁王様「吽形」 ↓
仁王門は、慶安4年(1651)に再建され、三間一戸、入母屋造の楼門であり、屋根は銅板葺(本来は檜皮葺)となっていて、国の重要文化財になっています。
中央の柱間を通路とし、両脇前方の一間四方に仁王像を祀りますが、仁王像は県の指定文化財となっています。
仁王門より行く手を見る ↓
岡田耿陽の句碑 ↓
”霧深し大傘杉はどれならむ”耿陽(こうよう)は高浜虚子門下生で東三河の俳人です。
御神木である傘杉を探しながら、石段を頑張って登っていたのでしょうね。
その「傘杉」 ↓
(引用文):日本一の樹高を誇る大杉「傘杉」は樹高約60m、枝下約31m、樹齢は推定800年になります。新日本名木百選に選ばれるこの杉は、枝が“傘の骨”のように広がっていることから名付けられました。
(引用終了)
もう20年以上前のことになりますが、この根元に落ちていたセッコクの株を持ち帰り、我家の柿の木に着けておいたものが毎年花を咲かせてくれています。
ヤマアジサイ ↓
石段の道は杉の木の下で、どちらかというと薄暗くさえもあり、比較的涼しく歩けています。
そんな道沿いにこの花を見ます。
石段はまだ続く ↓
もう半分くらい来たのでしょうか、結構筋肉が熱くなってきています。
ユキノシタ ↓
道脇の石にこの花が咲いていました。
ハエドクソウ ↓
撮りにくい花が出てきました。