老いて、なおチャレンジ

大好きな草花と共に、余生を楽しめたらいいな~

70年の年月を経て!

2013-10-21 10:23:38 | 

秋明菊 ホトトギス ムラサキシキブ

学業を終え今年で70年を迎えた。毎年行われる卒業生会(ふつう言われる同窓会)に久し振り参加した。
私が生まれた頃に創立した自由学園であるから、今年3月に91回生が卒業したことになる。私は21回生、90歳になった私達のクラスがこの歳になって何人参加出来るだろうと危惧したが何と12名の方がこられると知り嬉しく思った。でも何分年寄りである、体の具合が悪くなって当日は8名の参加であった。21回生、31回生と1の数字が付くクラスから代表者が壇上に上り感想を述べた。皆さん中々素晴らしい思いを話され私は興味深く聞く事が出来た。然しクラスの半分の方は耳が遠く話しの内容が全然分からず辛い3時間であったようだ。11回生は100歳だからご存命であっても参加は無理であろう。でも私共より上のクラスの方も数名来られたとの事であった。一番前の席であった21回生は全員立って後ろ向きになりお辞儀をし大拍手を頂いた。長く生きた事への賛辞の拍手であったと思う。
7人の話しが終わった後、スライドで羽仁両先生の懐かしい映像を見る事が出来たし、現在の学校の様子なども見せて貰い広い大芝生などを見て懐かしさ一杯であった。羽仁先生が亡くなられてから50余年経つけれど、ご存命中に直接教えを受ける事が出来た私は本当に幸せだったと思う。この日集まった卒業生約400人の半分以上が羽仁先生を知らない人達であるから!!
この70年の間に敷地内の様子も随分変わった。一人で行動したら迷子になってしまいそう、59回生によってこの会は運営された。会の前に一室をお借りし昼食を共にしながら久々のクラス会の時を持った。車椅子の方親族の方に付き添われての参加者が二人、認知症の方も、この方は私と小学一年生から学んだ方「Tさんでしょう~懐かしい!久し振りね~」とちゃんと私を覚えていてくれ手を取り喜こび合った。59回生の数人の方が私共のクラスを受け持たれ至れり尽くせりのお世話をして下さった。何事も生徒自身で考え実行すると言う生活に密着した教育方針は今に至るまで教育を受けた人々の中に脈々として存在する事を痛感した。
会の後お茶の会があり夫々に旧交をあたため卒業生会は終わった。
ひばりが丘の駅までタクシーに乗るまでお世話下さった。本当に嬉しい感謝の一日であった。

さて、外出するには交通機関、時間を検索して行動せねばならない。今回は小学一年生の時から13年間通いなれた場所ではある、が然しである。交通事情の発達そして全てに於いて今と70年前とは物凄い変わり様である。学校に通っていた頃私は武蔵野線(西武池袋線)の東長崎駅そして殆どは江古田駅からひばりが丘(その頃は田無駅)まで電車通学であった。池袋から田無まで30分に一回のそれも一駅一駅停車する鈍行電車なのだ。それに乗り遅れると絶対遅刻する訳だからしょっちゅう走っていた様な記憶がある。田無を降りれば線路のすぐ横を通る道を並行に暫く歩いてから林を通り過ぎ学園の正門までを真っ直ぐ皆で歩いて登校したものであった。帰りは「電車が来た~」と言っては走りやっと飛び乗ったりしたものであった。
今では準急行・急行があり途中一駅だけ止まって後はすっ飛ばす。昔の半分ほどの時間で着いてしまった。昔懐かしい江古田の駅を見ようと思って目を凝らしたが凄い早さで駅名が読み取れない。昔の田園風景も全く見る事が出来ず早くて良いな~と思う反面味気なさも感じた。
ひばりが丘に着いてみれば丸っきり昔の面影はない。改札を出れば道路に下りる階段が2箇所あってどちらを降りれば良いかがまず分からない。昔歩いた道なんて何処にもない。うろうろして人に聞いたり果ては交番に飛び込んで聞いたらタクシー乗り場を教えてくれやっと乗って校門に着いた始末であった。 
何事にも発達した便利さは有難く貴重ではあるが、鄙びた昔の佇まいも今となっては望むべくもないが懐かしさは禁じ得ない事を今回ほど感じた事はなかった。
急行などで早いとは言っても家から二箇所乗り換えて約1時間半掛かった。