老いて、なおチャレンジ

大好きな草花と共に、余生を楽しめたらいいな~

2週間のご無沙汰です!

2013-09-28 16:03:03 | 

白いまんじゅしゃげ 赤色のヒガンバナ タマスダレ

ハナカイドウ マユハケオモト

現在家の庭にはこんな花が咲いています。

今年も早4分の3の月日が終わろうとしている。9月は私の誕生月、4~6日は先ず秦野で過ごした。9日は一年に一回の健康診断、基本的な検査のみだから無料、まだ検査結果は届いていない。
14日は浜松まで出向いて私の卒寿の祝いをしてもらった。 18日は運転免許更新に必要な「高齢者講習終了証明書」を貰う為に近くの日通自動車教習所に赴き、色々な適性検査を受けた。認知症検査は一番嫌いな検査なのだ。一枚の紙に4つの絵が描かれていてそれを4枚見せられる。他の事をして時間をおいてから「さっき見た絵の名前を書いて下さい」と言われる。合計16の内4っは如何しても思いだせなかった。3年前よりは多く答えられたが、若い人だって多分全正解は無理だと思う。他にも問題はあるが大した事ではない。モニターを見て場面場面でブレーキを踏んだりアクセルを離したりする事や、目の視野検査、動体検査等々、そして最後は実地の車運転、3時間に亘っての検査を終わりホッとし無事証明書を貰う事が出来た。

20日は2か月振りに内科診察の日。主治医先生が亡くなられた後、代診をして下さっていた女医さんがこれからの主治医となる。医者としての腕は兎も角として何時もにこやかであり私の話しも良く聞いて下さるからお世話になってもいいかなと思っている。最近右腕が直ぐ痺れたり親指は常時痺れている。その事をお話したら「頸椎の損傷から来る事もあるし、一度MRIを撮ってみましょう、でも今回はこの様な症状に良く効くビタミン12を一カ月飲んで見て下さい」との事。私の心にはMRIなる言葉が強く引っかかった。何故かと言えば頭の中に何か悪い事が起こっていれば命に関わると思ったからである。「もし痺れが指全体に来たり腕の状態がひどくなったら何時でも来て下さい」と言われこの日は薬だけ貰って帰宅した。

23日 彼岸の中日で墓参り。前日長男が行ってくれ「笹が延びて凄かった、大分抜いたがまだ残っている」との電話を貰っていた。当日は秦野から長女夫婦が車で来てくれたので乗せて貰い楽だった。「お母さんは坐っていてよ、何にもしなくていいから」って言ってくれたので「ではお言葉に甘えて!」と座って二人の働き振りを見るだけでこれ又楽をさせて貰った。

その帰り練馬東大泉にある植物学者で有名な牧野記念庭園に2000本程咲くマンジュシャゲを見に寄った。読売新聞に報道されて居たのを見た私が誘ったのだった。去年の今頃埼玉県日高市にある巾着田のあの素晴らしいまんじゅしゃげには  牧野富太郎氏の銅像。

及ぶべくもなかったが、ま~ま~と言う感じ。去年あの帰り道で私が気を失って倒れ、救急車のお世話になった事を思い出した。もう一年経ったのだ~と過ぎ去る日々の早さを殊更に感じた日であった。

24日はパソコン教室の友達から頂いた「ベニシアと仲間たち展」の招待状を持って銀座の松屋に出掛けた。ベニシアさんの生い立ちから始まり、日本を好み写真家の日本人と結婚し京都大原の築100年になる古民家に住み、その素晴らしい庭を再現し沢山の写真と映像を合わせて展開されたこの展覧会は素敵であった。何にでも挑戦なさるベニシアさんを素晴らしい方と尊敬の念を抱いた。

25日 明け方5時右手指全部の痺れと肩から下への痛みに目が覚めた。先ず私専用の痛み止めを飲み様子を見ていたら左顔面に違和感を感じる様になった。心配で動悸が激しくなって来た「これはまずい!」と精神安定剤を服用したら30分程ですべて平常になった。然し先生からひどくなったら来るようにと言われていたし、顔面の違和感が少なからず心配で朝食もそこそこにタクシーで河北病院に向かった。 予約ではないので8時半から4時間待たされてやっと診て貰えた。経過をお話し主治医の先生ではないが電子カルテに今迄の事がすべて記入されているのでそれを見ながら私にいろんなことをやらせて異常なしと言う事であった。が兎に角MRIは撮りましょうと言う事で日にちを予約し、電車で買い物までして1時過ぎお腹を空かして帰って来た。相変わらず親指だけは痺れているが左程心配はしていない。

26日 運転免許更新の為先日貰った高齢者講習終了証明書を持って環八道路沿いにある成城警察署に行った。此処ではほんの簡単な目の検査と写真を撮るだけ、ものの20分位でこれから3年間使える免許証を手にして帰って来た。3年前帰りのタクシーが捕まえられず風雨の中を1時間も環八沿いをひたすら歩き、焼酎入りのウーロン茶を買っておたおたした事を思い出した。今回は裏手に更新者用の駐車場がある事を知り、自分の車で行ったので何事も起こらずスムーズに行動出来た。皆さんはきっと「90歳にもなって!いい加減に運転止めたら!」って思われるに違いないが、まだ運転中怖いと思った事はないし、重いものを持たずにすむし、暑さ、寒さを気にせず快適に過ごせるし、私にはなくてならないものになっている。これからも尚一層注意して後3年間運転を続けたいと思っている。

27日 先生のご都合で前回教室はお休みになったので一月振りであった。このひと月ですっかり涼しくなり勉強もしやすい。
スロットで沢山の写真を入れ文章なども入れ2冊目の思い出ノートを愉しく作っている。

終わって三女の家へ。留学中の孫娘の姿がなく寂しい。孫息子は何やらの会があるとかで顔は合わせたが夕方から外出してしまった。又二人だけの夕食。10時頃婿さんが赴任先から帰って来た。一人で夕食を食べその後3人で愉しい語らいの時を持った。例によって帰宅したのは次の日になっていた。

外出の多かった9月後半を纏めて掲載しましたのでとんでもなく長くなりましたが、お読み頂けましたら嬉しいです。

 


卒寿の祝い

2013-09-15 13:37:00 | 

                           一族の重鎮、4夫婦・次男そして90歳を迎えた私です

皆でくれた胡蝶蘭、綺麗です 三女の婿がくれた本(100歳まで生きてと言う願いを込めて) 長男の嫁が編んでくれたせーたー。嬉しいです

この他にミニipadと孫・曾孫がお祝いを言ってくれている動画のDVDがありました。

昨日私の卒寿を祝う会が浜松で行われた。何で浜松で行われたかと言うと、次女の婿さんが病で現在入院治療中であり東京までは来られない、住まいのある浜松でなら入院中でも2・3日の外出が許されたので、暫く会っていないし皆で行こうと言う事になったのである。
浜松駅に隣接したアクトタワーの中にある中華料理店「桃花林」の一室を借りきって時間の制限なくゆっくり祝いの会が持てた。奇しくもこの日は亡き夫の102歳の誕生日でもあったので共に祝う事が出来非常に嬉しかった。

浜松駅で待ち合わせ店に着いた時には次女夫婦は既に来て待っていてくれた。今年も去年の正月も集いに参加出来なかった次女夫婦、病気を抱えた人とは思えないほどにこやかで元気そうに見受けられ共に喜び合った。

三女の司会で、長男が乾杯の音頭を取り始まった会は終始和やかに真実味溢れるものであった。2年前私の米寿を一族全員で祝って貰ったばかり故今回は趣向を変えて子供夫婦だけの集まりにしたのだったが、孫・曾孫から動画で全員の顔写真と共に祝いの言葉がパソコンの画面に写し出され本当にびっくり、10人だけと思っていたのに実は家族全員に祝って貰えた私の気持ちは到底言葉では言い尽くせぬほどの喜びであった。 90歳まで生きていて良かった!これからも皆の為に出来得る限り生きなければと、小さい曾孫達の成長をこの目でしっかり見て行きたいとの思いを強く持った。

9人の子供達からも一人一人昔の私との出会いや私が発した言葉思い出など、全く正直な思い、真実味溢れる祝いの言葉を貰った。 昔の事は殆ど覚えていない私「そんな事言ったかしら?」と思う事ばかりであったけれど その言葉を善意に解釈してくれていた事を有難く思った。次男には「人に迷惑を掛けない人になりなさい」と、三女には「平凡な人あればよい」と言ったそうな!二人ともその時は「へ~こんな事」って思ったらしいが大きくなってこの言葉が大きな意味を持つものだった事を悟ったと言う様な事を言ってくれた。
何時もこの様な席で泣いてしまって何も言えなかった長女が今回はしっかり想い出を話してくれた。この長女が高校1年の時私はT家に嫁いできたのであるが、「お母さんが出来てとても嬉しかった」と56年経った今始めてその時の気持ちを言ってくれた。私が果たしてこの3人の良き母親になれるだろうかと煩悶した当時を省りみて、この言葉は何にも替え難い最高の贈り物であった。  夫々私にとって身に余る祝いの言葉を貰い感無量の思いで食べる事も忘れて聞き入ったのであった。

途中で次女夫婦は帰って行ったが、矢張り相当疲れたと後で知った。無理して来てくれたんだと申し訳なく思ったが、会えて嬉しかったのは事実、今後の治療で何とか快方に向かう事を祈るばかりである。

会場であった「桃花林」は次女夫婦の懇意の店で時間に制限がなかったので、5時から8時半までゆっくり落ち着いて語り合う事が出来たしお料理も美味しかった。夫の入院で忙しい中を全て次女が手配してくれた事を感謝している。
21時11分の新幹線で帰途に着き11時半家に帰り着いた。

人生最高に嬉しい幸せな時であった事を何時までも心に抱いて、これからも一族の為に命ある限り精一杯生きたいと思っている。
T家の皆さん本当に有難う。                      

  


想い出の三渓園!

2013-09-06 16:28:37 | 

  

  

 

秦野から帰る日、昨日までの黒雲は去った事だし雨も大丈夫そうだから何処かに行こうと言う事になった。この季節花は望めない、婿さんの「三渓園はどうですか?」との提案に賛成し出掛けた。三渓園は70年の昔母と弟二人の4人で潮干狩りに行った懐かしい場所である。「三渓園で潮干狩り!」って思われる方は多いと思うが、昭和40年頃その遠浅だった海が埋め立てられ潮干狩りは出来なくなったらしい。粒の大きなアサリが沢山取れ愉しんだし、新鮮でとても美味しかった事を思いだした。上の最後の写真の崖の下辺りが海であり潮干狩りをした場所であった。

三渓園は広さが53000坪もある日本庭園であり、昔各地方で有名だった建造物が後々此処に移築され趣のある建物を沢山見る事が出来た。大きな池もあり素敵な風情は見るに値するものであった。全部を見て回る事はとても出来ないが2時間ばかり涼しい風に吹かれながら気分良く見て回る事ができた。

お誕生日を祝った貰へたし、良い場所も見られたし、長女とのお喋りは愉しかったし幸せな2泊3日であった。後1時間したら東京に帰ります。


秦野に来ています

2013-09-05 11:58:03 | 

アブチロン まんじゅしゃげの仲間

今日9月5日私は90歳を迎えました。
たまたまこの日秦野に来ていたので長女夫婦が祝ってくれた。人生90年は本当に長く様々な事を驚くほど沢山経験した月日であった。
娘として過ごした34年間は父母の愛情を一杯受けて育った私である。自由学園での13年間の学生時代はこの教育なくして今の私はあり得ないと思う程に実践的で貴重な教えを受けた期間であった。学園を卒業した頃の戦争時代には小さな甥を一人で育てなければならないと言う過酷な経験もした。それから長い娘時代を経て結婚、その結婚は二人から始まるものではなかった。歳老いた義母、多感な年頃の3人の子供6人から始まり更に二人の子供に恵まれ総勢8人の家庭の主婦として懸命に過ごした日々であった。様々な苦労はあったと思うけれど、5人の子供達は私にとって同等のかけがえのない子供達になって行ったのである。
夫は技術者であり定年後は自分の会社を設立し、私も社員の一人として30年近く経理を任され懸命に働いたのである。人生の中でこれほど生き甲斐を感じた事はなかった。夫と共に働ける幸せ、人の為に自分の持てる力を発揮出来る喜び、こんな気持ちを抱かせてくれた夫に感謝したのである。

その夫は8年半前93歳で現役のままこの世を去った。12歳も年上であった夫であるから先立たれる事は当然ではあるが、残された30名の一族の頂点に立つ自分の責任の重さに押しつぶされんばかりの不安を感じ辛かった。幸い仲の良い一族であったから私の不安は払拭され、以後5人の子供達に支えられながら前より一層濃い交わりを持つ事が出来る一族である事を本当に嬉しく思うし感謝する日々である。

夫亡き後今日まで、通常は一人の生活でだんまり過ごすが、行って見たい処、したい事等を自由気儘にこなし、一族と愉しい交流を頻繁に持ちながら、今が90年の人生で一番幸せに満ちた時である事を感謝したい気持ち一杯である。

大台に乗った今、これから何年生きられるかは計りしれないけれど、命ある限り常に前向きでありたいし、第一に健康体である事を願い努力して行きたいと思っている。

5人の子供達に母親からの万感の意をこめて!!心から有難う。


関東大震災から90年

2013-09-02 15:47:15 | 

                 アブチロン

 

先日のブログで紹介した「やぶからし」の緑のカーテンに「いもり」と「かまきり」がやって来て暫しの間涼んでいた。

9月1日は10万余人の死者を出した未曾有の関東大震災が起きた日である。私はその5日後に生まれたので、毎年この日を迎える度に自分も同じ年を重ねているんだな!と思う。
丁度昼時、大きなお腹を抱えた母にすぐ上の姉がまとわりついて食事をねだっていた時に突然襲った物凄い地震、住まいが千葉の市川であったから直接被害に遭った訳ではないが、余震が頻繁に襲い家の中に入れず庭で夜を明かしたと言う。
死者の9割が焼死であったと言う。父は陸軍の軍医であったから東京方面から続々集まって来る負傷者の治療で長い間家に帰って来る事が出来ず、その間に生まれた私の名前を付ける事も、出生届を出す事も出来ず、届けが遅れてその当時の50銭を罰金として取られたそうだ。
母の妹(私の叔母)が日本橋の白木屋に彼と一緒にいた時この地震に遭遇し、壊滅的な状況の元乗り物もなく只管歩いて助け合いながら何日目かに千葉の私共の家に辿り着いた時姉妹は抱き合って泣いたそうだ。そして困難を克服した二人の絆は固く結ばれ結婚したのだと聞いている。
60年後には関東に再び大地震が来ると聞きながら90年経った今まだ来ていない。でもその間に関西の大地震、一昨年東北を襲った大津波、自然の猛威は後を絶たず襲って来ている。人間の力ではなす術もないけれど、あの壊滅的な状況下の東京、関西が見事復興を遂げたのは人間の偉大な力によるものである事を忘れてはいけないし誇りにも思うのである。
自然の災害を避ける事は出来ないけれど、災害に対する備えは各人で万全を期したいと思う。

9月の秋を迎えたと言うのに此処連日の暑さは何とも辛い。でももう暫くの辛抱である。数日前長女が来てくれ庭の草取りをしてくれた。2時間余掛けて秦野から駆け付けお昼を食べた後4時間ぶっ通しであの凄かった庭が殆ど綺麗になってしまった。45ℓ入りの袋に雑草や剪定した枝が8袋、私がゴミの日に出し易い様にと門の近くまで運んでくれた。有難いの一語に尽きる。若さの力と言うものは本当に凄い。と言っても長女は既に71歳、若さと言うより長女の持つ頑張り、要領の良さであろうか。
夕べは三女が私のipadの不具合を直す為「これからマラソンで行くね」と言って颯爽たる姿で駆け付けてくれた。子供達は各人が持つ得意技で私を支え続けてくれる。何とも幸せな有難い事である。