老いて、なおチャレンジ

大好きな草花と共に、余生を楽しめたらいいな~

5人の子供揃って墓参り

2011-03-28 11:53:49 | 

何時までも咲いているパンジー スイセン

今日3月28日は夫の命日、あの桜の満開だった日に逝ってから丸6年が経過した
我が家はインコの鳴き声は絶え間なく聞こえるけれど、他は静寂そのものである。日本は未曾有の災害に見舞われ、放射能の危険にもさらされ総力を挙げて闘っている。私個人も生活の場を一部屋にし節電に努めている。
去年とは大きく異なった環境、心境の中で迎えた命日ではあったが、夫を思う気持ちには何ら変る事はない。

一日早く昨日墓参りをして来た。これまでは娘達と行く事が多かった、然し今回は5人の子供が勢揃い長男は嫁さんと、長女・次女は婿さんも一緒に秦野、浜松から2時間余を掛けて来てくれた。総勢9名があの狭いお墓で体がぶつかり合う様な形で草取りする様は正に見事な光景であった。こんなことって納骨式以来初めて、夫はどんなに嬉しかった事だろう。
次女の婿さんがお父さんが好きだった甘いものをと「柔らかキャラメル」を買って来てくれお供えし、その後皆で食べ敬虔な祈りを捧げた。何時もは「一族を守って下さい」と願うのだが、今年は「日本のこの重大な危機を守って欲しい」との切なる願いも祈りの中に加えた。
最高のお墓詣りが出来た事に大感謝であった。

昼の時間帯であったので、三女が前もって予約してくれた店で昼食を共にした。震災の話題から始まって何時もの様に和気あいあい、時間を忘れて話し合った。

終わって一応西荻の我が家に皆で戻り、家の不備な処で高くて私には直せない箇所を直してくれ次男だけを残し皆帰って行った。
次男はこの処家に来るのが遠のいていたが、久し振りに夕飯を食べ間もなく帰って行った。

皆さん本当に有難う。この様に嬉しい幸せな気持ちを与えてくれる皆さんに、天国のお父さんと共に心から感謝します。


大震災に思う事

2011-03-23 11:46:55 | 

クンシラン トサミズキ

大震災が起きて早10日余が過ぎた。福島県の原子力発電所での人命に関わる大事故も発生した。過去に類を見ない生活全てを失った多くの避難所の方々、死者、不明者を合わせて2万余の命が奪われた。
あれから連日、大津波が押し寄せる自然の猛威を見せつけられ、家族・家を失ったかたがたの悲嘆さを画面で見る度に涙が出る。
この寒空に安眠もできず、少ない食糧で全てに耐え抜いている人の事を思うと、計画停電があるとは言え大した不自由もなく過ごせる自分を申し訳なく思う毎日である。殊に私の住む地域は停電もない。せめて節電でもと自分の居る部屋だけの点灯やコンセントからブラグを抜いておく事、ガソリン不足の折から車での外出を控える事など、自分の出来得る限りの事に努力している積りではあるけれど!!

震災から1週間振りに始めて買い物をとスーパーに行って驚いた。棚の品物がなくガラガラなのである。思ってもいなかった現実。品物が震災の種々の事情で入ってこない所為でもあるだろうけれど、買占めの現象であるらしい事に憤りと失望を禁じ得なかった。こんな時こそ被災地の方々の為にも買い控え、最小限度の物で耐えなくてはならないと思うのに、自分の事のみを考え行動する人々の多い事、本当に残念だ。

日を追う毎にボランティアの人々が入り始め活動をしてくれている。被災者の子供達も一緒になって嬉しそうな笑顔で人の為に働いている姿を見感動した。又被災者の方達は配られる少ない食糧でも「有難う、皆さんに優しくしてして頂いて!」と嬉しそうに押し頂いている。

原発で放射線の危険も顧みず働いておられる方々、その夫を送り出すお家族のお気持ちは如何ばかりであろうか。
「日本の救世主になって下さい」と言って夫を送り出した妻が居たと言う。その内側には言うに言われぬ夫を思う不安と辛さを抱えていたのだと思う。余人には何も言うべき言葉がない。いろいろ問題はあるだろうけれど。善意の心を持っ人々の多い事に心強さを感じる。

未曾有の大災害に見舞われた日本、この大いなる試練を、日本人の総力を挙げて対処し、耐え抜き1日も早い復興を遂げたいものと切に願っている。

何の役にも立たない一老人ではあるけれど、我が国を思う気持ちだけは心に強く抱いている。
待ちに待った桜の季節は直ぐ其処まで来ているが、今花見に浮かれる気持ちにはなれない。毎年見る秦野の桜も見る事はないと思っている。庭の桜だけで我慢しょう。

 


未曾有の大地震

2011-03-12 17:38:52 | 

クリスマスローズ クリスマスローズ

東北・関東をM8・8の今迄にない大規模な大地震が襲った。津波の恐ろしさを一日中流す映像を見て、家をなくし、食べる事も安眠する事もままならぬ被災者の皆さんのお気持ちを思うと、のんびりぬくぬくしている自分を申し訳なく思う。心からお見舞い申し上げます。

東京でも震度5強の地震は経験した事のない恐ろしいものだった。私はこの日パソコン教室で前半の授業を終えお茶の時間の最中であった。あのゆらゆらとした何とも気持ちの悪い大きな揺れが、だんだん強くなり生徒さんと手を組んで座り込んでしまった。何回も襲ってくる揺り返し、多分何処かで強い地震があったのだろうとは想像していたが、果たして東北の太平洋側を未曾有の大地震が襲い、最も怖い津波が押し寄せていたのだ。隣の教室ではお茶が始まったばかりで、地震の揺れでお茶がこぼれて大変だったそうだ。後半の勉強をする余裕もなく授業は終り三女の家に行く。孫娘は沖縄へ修学旅行の最中、一人家にいた孫息子も驚いたのか教室に姿を現したほどであった。
神奈川県が全域停電と聞き、長女に電話するけれど掛からない。電話はパンク状態なのだ。メールならできると言うので皆に送るがそれも届くまでにとんでもない時間が掛かる。電車が全部動かなくなり家に帰る事が出来ない人で大混雑、長い道程を歩いて帰った人も多かった様だ。二人の孫も歩いたそうだ。
夜道を一人車で家に帰るのも一寸怖いなと、始めて三女の家に泊めて貰う事にした。インコ・グッピーが生きているだろうか、家に損傷はないだろうかと案じられたが、矢張り自分の身の安全を第一にした。三女の隣のベッドで、寝てからも二人でおしゃべりして思わぬ愉しい一夜を過ごしたのであった。

今朝ご飯を済ませ9時過ぎ家に帰って来た。生き物は何ら変わった事もなく元気でホッとした。大した損害はなかったけれどあちらこちらに物が落ちていた。ガスは止まっており復元の作業をした。石油でお湯を沸かし循環させる暖房器が止まっていた。これは復元の仕方が分からなかったので業者に電話で教えて貰い暖房にも支障なし。
今日も時々小さな揺り返しを感じる。昨日一人で家にいたらさぞ心細い思いをしたであろうと思うと、お友達と一緒で本当に心強かった。

新聞でもテレビでも地震の事ばかりが報じられ、災害もますます大きくなり壊滅的な様相に心は痛む。土地が陥没し水が引かず元に戻す事は不可能とさえ言われているが、関西地震の痛手が目覚ましく復興した様に、今回の被災地の一日も早い復興を心から願っている。


姪の訪れ!

2011-03-09 10:34:46 | 

    

庭の梅は満開、メジロ・ヒヨドリ等が来て何かを啄んでいる姿をしょっちゅう見掛ける。3・4年前まで来ていた鶯の姿を全く見る事がなくなった。ホーホケキョの声が聞きたい。

昨日姪(今は亡き兄の娘)が我が家を訪れてくれた。先日突然電話があり「A子です、叔母さんに会いたいんだけど!」と言う。5歳の時別れて以来大きくなってから年賀状のやり取りはしていたけれど、そして会う時は親類のお葬式の時ばかり、話しをする事もなかった姪なのである。「私もAちゃんに会いたいと思っていたの、嬉しいわ~」と言う事になりわざわざ私に会うために住んでいる三重県から約4時間掛けて上京してくれたのだった。
私が実家で兄夫婦と一緒に暮らしていた29歳の頃A子が生まれた。私が結婚するまでの5年間、この姪を私はとても可愛がったし、姪も私になついて何時も手をつないで買い物に行ったり遊んだりした特別な思いを持つ姪であった。
非常に頭の良い子でお茶の水から東大へ進み、其処で素晴らしい男性と出会い結婚し、4人の子供に恵まれたが早くに夫を亡くしてしまった。薬剤師の免許を持っていたので勤めながら小さい子供を一人で育て上げ、現在上3人の子供は海外におり一番下の子供と暮らしている。最近勤めも止めこれからの人生について考え中と言う事であった。
夫に先立たれ4人もの子供を立派に育てた姪を偉いと思っていただけの私だったが、会って4時間余私と別れた後の事を全て有りのまま話してくれた姪の苦労を知った私の心は姪への痛む気持ちと共に、その苦難を乗り越え今こうして叔母さんと話しをしたいと思う気持ちになり来てくれた事を嬉しく思った。
「小さい時叔母さんと一緒にいると嬉しく安心した気持でいられたの」と言う。5歳の子供がこんな気持ちを忘れずに今迄持っていられるものなのだろうか! 私の苦労など姪の足元にも及ばないと、人生半ばを過ぎている姪を改めて感動を持って見ずにはいられなかった。
昼食を食べながらも話しに夢中になり気がついてみれば箸をを置いている二人だった。「叔母さんに会えて良かった~、とても勇気ずけられた、又会いに来てもいい?」って嬉しい事を言ってくれる。「何時でもおいでよ、おばさんは大歓迎よ、又話し合おうね」と。
昼前に着き、4時間余話し続け「もう帰らなくちゃ」と4時に別れた。三重まで帰るのだから姪の帰宅は夜の8時は過ぎるだろう。
二人にとって長い月日が一瞬にして昔に戻った様な嬉しい日であった。


曾孫のお宮詣り

2011-03-07 09:55:29 | 

 

去年暮に産まれた9人目の曾孫の御宮詣りに行って来た。

お宮詣りは生まれて1カ月経ったらするものだそうだが、寒かったし、と延ばして2カ月余経った昨日行われたのだった。
私は生まれてこの方、御宮詣りなるものをされた事も、子供等にしてやったこともない、始めての経験。
孫娘一家もご両親様も船橋に住んでいるので、近くの「葛飾八幡宮」にて行われた。
先日長男から「6日に孫のお宮詣りをするんだけどお母さんも来てくれない?」と「エッ何で曾ばばである私が行くの?」って言ったら両家の曾ばば4人も参列するするのだと言う「それなら行かせて貰うは」と言う事で船橋から婿さんが車で迎えに来てくれ出掛けた。杉並区に住む長男夫婦と曾おばあさんと一緒に載せて貰い目出度い一日が始まった。
早く着いたので一応孫娘の家で暫く休み、11時過ぎ神社に向かい婿さん側の皆さんにお会いした。
結婚前の顔合わせの時、結婚式、今回でお会いするのは3回目、夫を亡くした4曾ばばが皆集まれるって珍しいのではないかと思う。もう間もなく90歳になられる方を筆頭に88歳、87歳、京都から来られた82歳の方皆元気である。
赤ちゃんは京都の曾おばあちゃんが作って下さった綺麗な着物を掛けて貰い、額に口紅で小(男児は大と書くのだと)と書いて貰った姿で婿さんのお母さんに抱かれ神殿へ、私達は立ったり座ったりお祓いをして貰ったり二礼二拍手拝礼で30分程で終了。最後にお神酒を頂く。赤ちゃんにも唇にお父さんが付けてあげていた。
無病息災で元気に育つようにとのお宮詣りは無事終わった。

次は近くの写真館で写真撮影。赤ちゃん一人、両親と3人で、全員で、結構時間が掛かった。撮影者のお兄さんは赤ちゃんが横向きになるのをガラガラを鳴らして上手に正面に顔を向けさせるのに懸命、中々上手なのには感心した。

次は又近くの料理店でお祝いの膳を囲む。総勢12人和やかに2時間程の時を過ごした。
天気は良し暖かく最高の日であったし、曾孫もお腹さえ満腹ならおとなしく眠っているし、全く困らされる事なくお利口さんであった。皆さんとお別れし再び婿さんの車で送って貰った。日曜日の夕方高速道路は混んでいたので二時間位掛かり6時半頃帰宅した。一生に唯一回のお宮詣りを経験する事が出来嬉しかった。誘ってくれた長男に感謝。

昨日行った場所は千葉県市川の近く、奇しくも私が生まれ5歳の時まで育った場所なのである。国府台に軍の施設があり父がその陸軍病院に軍医として勤めていた事、真間川の花火を家から見た事等、幼かった私は殆ど覚えていないが、市川と聞くだけで懐かしさを感じる場所であった事も嬉しさの一つであった。


ひな祭り!

2011-03-03 15:40:38 | 

   

3月に入り庭の花も徐々に咲き始めた。スイセン・ペンタス・ネコヤナギ・クロッカス、毎年咲く花だけれど新鮮に感じ嬉しい。

GOOブログがつい最近やり方が変更になり前の様に写真を大きくする事が私には分からない。三女に電話したら「電話で教えられる事じゃないから一応この仕方で入れて置いて!」と言われた。残念だが小さいままで投稿します。

今日はひな祭り。三女の為に買ったお雛様一式は棚の奥の方に仕舞われたまま、もう何十年も飾った事がない。お雛様の出し入れを愉しくなさるお母さん方は多いようだが、私は苦手、ちょっとも楽しくないし面倒なばかり、何時の間にか出す事をしなくなってしまった。今にして思えば三女に持たすべきであったかと!でもその時にはお雛様は虫に喰われていたかもしれない。

昔、実家では3人の娘が生まれる度に、上の姉の時は内裏様、次の姉は三人官女、私の時は5人囃子と次々増えて行ったのだ。私の時で一応粗末ながら雛段は完成したのであった。どんなひな祭りをしたか一切覚えていない。あの3色のひし餅だけは何故か私の頭の中に何時までも懐かしく残っている。
姉妹3人は結婚する時、買ってくれた雛人形だけを貰って嫁いだものだ。故に私は5人囃子をこの家に持って来た。然しこれだけではどうにもならず、三女が生まれた時一式を買い求めたのである。こんな母親で三女には可哀そうな事をしたかもしれない。

ひな祭りと言えば桜餅である。これは美味しいので2つだけ買って食べた。ソファーでテレビを見ながら甘いものが大好きだった夫をふと思い出し、何時も坐ったり寝転んだりしていた夫の定位置に今居てくれて一緒に食べる事ができたらな~なんて思ったりした。
穏やかなひな祭りの一日は私一人(心では夫と共に)で静かに暮れて行く。