ニューヨークの想い出

ニューヨーク生活20年間の想い出を書いていこうと思います。

37、マリリン・モンロー

2007年08月05日 | Weblog
今日8月5日はマリリン・モンローの命日です。
その死因には自殺、他殺説など謎に包まれていて、彼女の人生のようです。
マリリン・モンロー(Marilyn Monroe・1926年6月1日~1962年8月5日)は、ロスアンゼルス出身の女優です。
本名ノーマ・ジーン・モーテンセン(Norma Jean Mortensen)、その後ノーマ・ジーン・ベイカー(Norma Jean Baker)に改名しました。
モンローという芸名は彼女の母親の姓です。
1950年代中頃から現在に至るまで「アメリカのセックス・シンボル」と称されています。
モンローについてはよく知られているので、私があれこれ書くまでもありませんが、彼女について私なりの感想を書いてみます。

評伝の多くが、モンローは孤児だったと書いていますが、母親がいたので孤児ではありません。
小さい頃孤児院に預けられていたのでそう思われているのだと思います。
母親が精神病を患っていたり生活が厳しいなどの理由で、孤児院へ入れられたり養子に出されたりしました。何軒もの養家へ次々と送られたようです。

16歳で高校時代の先輩ジム・ドハティと最初の結婚をします。
航空機工場で働いているときモデルとしてスカウトされ、売れっ子ピンナップ・ガールとして数々の雑誌の表紙を飾りました。
有名なヌード写真はこの頃のものです。
彼女の夫はモデル業に理解を示さず、彼女自身も女優として成功する夢を持っていたので4年で離婚しました。
1954年2月1日に元ニューヨーク・ヤンキースのスーパースター、ジョー・ディマジオと結婚しますが結婚生活は9か月しか続きませんでした。
1956年には劇作家のアーサー・ミラーと結婚します。
1957年、彼女は念願だった愛する人の子をお腹にやどしますが流産してしまいます。
この頃から精神的に不安定な状態が続き、大量の睡眠薬を飲み昏睡状態に陥ったり、精神病院に入ったりしました。
こうした自殺未遂はその後何度も繰り返されることになります。
結局62年にミラーと離婚しました。

彼女は「家庭」というものをほとんど知らずに育ちました。それどころか、里子に出された先の家で虐待もしくは性的虐待を受けていたようです。
両親がともに生きているにも関わらず自分を置き去りにしていった、という思いはその後も彼女を苦しませ続けることになります。
肉親の愛情を知らずに育ったマリリンの生い立ちはあまりにも哀しくつらいものでした。
それ故、彼女は生涯「父親」の代わりとなる「男性」を求め続け、平安な家庭を求め子供を産みたいと必死になるのです。
マリリンは多くの男たちを愛しましたがいつも心の中にあったのは、ついに会うことができなかった父スタンリ-・ギフォ-ドの面影でした。
一度電話をしたようですが、会うことを拒否され、冷たくあしらわれました。
そのことは大きな傷として生涯残ったようです。
愛を求め続けたが、いつも愛に飢えていました。

ヌード写真のモデルなどをして生活費を稼ぎながら女優になることを夢見ていました。
映画がヒットし人気が出てからも演技派女優として認められたいと思い、ハリウッドを離れてニューヨークに行きます。
マーロン・ブランド、ジェームズ・ディーン、ポール・ニューマンらを育てたリー・ストラスバーグのアクターズ・スタジオで演技の基本から勉強をしなおし本格的に演技を学びました。
マリリンは熱心に勉強し、ストラスバーグは彼女の演技者としての才能を高く買っていたと言います。
また、トルストイやミルトンなどの本を読み漁って教養を深めていきました。
彼女は演技の勉強だけでなく、肉体の鍛錬にも気をつかっていたようです。
まだジョギングがそれほどポピュラーではなかった頃から早朝のジョギングを習慣にしていたといいます。
体型を維持するためにエクササイズを毎日欠かさなかったというエピソードも残っています。

ハリウッドに戻って 1年ぶりの主演作『バス停留所』(56)での演技はアクターズ・スタジオでの演技修行の甲斐あって批評家から絶賛されました。
しかし、大衆が彼女に望んだのは、あくまでもセックス・シンボルとしてのマリリン・モンローだったのです。
マリリンは、自尊心と劣等感の谷間で神経を病み、睡眠薬を手放せない生活になっていきます。
数々の映画がヒットしスターの座を手に入れたが愛らしい顔、抜群のプロポーション故にセックスアピールのみを求められ悩み苦しみ、そして、押し潰されてしまったようです。

マリリンが時折、見せる寂しげな表情。
『帰らざる河』でギターを弾きながら歌っている彼女の表情や歌声は哀しげで切なそうです。 
子供を生んで平和な家庭を築きたいという彼女の願いが叶うことはありませんでした。
マリリン最後の映画「女房は生きていた」(1962)では図らずも二人の子供の母親役でした。
庭のプールで再会した子供たちと戯れるシーンは生き生きしていてとても演技とは思えません。本当に楽しそうです。
しかしこの映画は彼女の死によって完成されることはありませんでした。

マリリンは、決して演技者としての正当な評価を得ることはありませんでした。
それは、女優マリリン・モンローにとって大きな悲劇であったと言えるかも知れません。
実像とかけ離れていった分、マリリンは伝説として人々の中で生き続けているのかもしれません。

頭の空っぽなセックス・シンボルだけの女優と思われていますが、実際は知的で聡明、努力家で向上心にとんだ女性でした。
彼女の得意なことは皿洗いとバドミントン、動物や小鳥を愛し詩やエッセーを好んだようです。
お皿を洗ったり、バドミントンをして戯れるマリリン、小鳥の鳴き声を聞きながら詩やエッセーを書くマリリンは彼女の真の姿かもしれません。

エルトン・ジョンが歌う「Candle in the Wind」という曲があります。
これは亡くなったマリリンに捧げられた曲です。
私はエルトン・ジョンの曲はあまり聴かなかったのですが「Candle in the Wind」は好きでよく聴いていました。
それから十年以上たって突然この曲が世界中で大ヒットしました。
ダイアナ妃が不幸な死を遂げたとき、追悼式でエルトン・ジョンが感動的に歌った「Candle in the Wind」です。
CDが発売されたときすぐに購入しました。
歌いだしの“グッバイ・ノーマ・ジーン”が“グッバイ・イングランド・ローズ”になっています。歌詞もダイアナ妃の人生を歌っています。
両曲とも常にゴシップにさらされながら真剣に人生を駆け抜け、若くして逝った二人の女性に捧げられています。

マリリンの場合、本名のノーマ・ジーンもかなり有名で多くの人の記憶に残っています。
それは彼女の存在がマリリン・モンローという世界的な女優だけでなく、ノーマ・ジーンという一人の女性としても人々に愛され、理解されていたのかもしれません。

「Candle in the Wind」 (訳:柴山理香)
さようなら、ノーマ・ジーン
僕は君にめぐりあえなかったけれど
とりまき連中に囲まれていても
君は気品に満ち溢れていた
彼らはどこからともなく現れて
甘い言葉でそそのかしては
君を思いのままにあやつった
そして君の名前まで変えてしまった
君の生き方はまるで
風の中のキャンドルのようだった
辛いときすがりつく誰かに
めぐりあうことのなかった君
僕がまだ子供じゃなかったら
めぐりあっていたかった
君のキャンドルは燃え尽きてしまった
その輝きが消えるずっと前に
手に負えない孤独
君が演じた中でもっとも辛い役
ハリウッドのスーパースターの座と
ひきかえに君はたくさんの悲しみを背負った
君が逝ってしまった時でさえ
誰も君をそっとしておいてくれなかった
君が裸で死んでいたことを
新聞はこぞってかきたてた
さようなら、ノーマ・ジーン
僕は君にめぐりあえなかったけれど
とりまき連中に囲まれていても
君は気品に満ち溢れていた
さようなら、ノーマ・ジーン
22列目で観てたよ
君はただセクシーなだけじゃない
みんなのマリリン・モンローなんかじゃない

マリリンを愛する多くの人の気持ちを代弁しているように思えます。

 You Tube
Candle In The Wind(ノーマ・ジーン)
Candle In The Wind(ダイアナ妃)
「7年目の浮気」で撮られた有名な白いホルダードレスが地下鉄の風で大きく舞い上がるポーズがあります。
これはニューヨークのレキシントン・アヴェニューと53thストリートの角で撮られました。
私はここをよく通りましたが、この下には何本ものサブウエイが走っていて、電車が通過するたびに通風孔から風が吹き上げてきます。
しかし映画のようにきれいにドレスが舞い上がるのは難しく、何度も撮りなおしたがうまくいかず、結局スタジオで撮りなおしたようです。

写真は10年ほど前アメリカの友人が送ってきた荷物に貼ってあった切手です。
32セント切手が30枚以上びっしり貼ってありました。
郵便配達の人もびっくりしたのではないかと思います。
私は切手収集の趣味はないのですが、さすがにこの切手は捨てずにとっておきました。