咲とその夫

 定年退職後、「咲」と共に第二の人生を謳歌しながら、趣味のグラウンド・ゴルフに没頭。
 週末にちょこっと競馬も。
 

真田幸村・・・・終焉の地

2011-02-15 23:00:00 | 日記
 長い間、行って見たいと思いながらタイミング悪く行くことができなかった「安居天満宮」・・・・娘夫婦の案内で遂に行く機会に恵まれた。

 池波正太郎小説「真田太平記」を読み、真田左衛門佐幸村の最期に感銘を受けていた。

 左衛門佐幸村(さえもんのすけゆきむら)が、大阪夏の陣で家康本陣へ攻め入り打ち取るところまで詰め寄ったが、今一歩及ばなかった・・・・大願成就ならず





 「真田幸村も全身に傷を受けてい、その体力は、いまや消えつくされようとしている。全身に鉛をはめこまれたように重い。」

 「幸村は、月影の遺体へ合掌し、槍を杖にして立ちあがった。そして・・・・・。田圃道からつづいている崖道をのぼり、安居天神の境内へ入って行った。」

 中略

 「呼吸を荒げつつ、幸村は社殿の背後の木立に入り、よろめきつつ南へ歩む。」

 中略

 「幸村は、小さな社殿の前にぬかずき、抱角(だきづの)の兜をぬぎ、両手を合わせて頭をたれた。安居天神の境内で自決することにしたのだ。」

 中略

 「池の向こうの木陰から人影が一つ、あらわれた。人影は、幸村(中略)を見つけたらしく、はっと槍を構え、じりじりと池のほとりをまわって近づいて来る。」

 「うすれかかる意識の中で、幸村は、これに気づいた。」

 中略

 「『手柄にせよ』と、笑いかけてやった。」

 中略

 「左衛門佐幸村の、四十九年の生涯は、ここに終熄した。真田左衛門佐幸村の首級をあげたのは、越前勢の西尾仁左衛門という士(もの)だったそうな。」
(出典:真田太平記 第11巻 大阪夏の陣 抜粋)


 月影:幸村の愛馬の名前

 抱角の兜:父・昌幸から受け継いだ兜


 幸村の首級を見分した家康が、西尾仁左衛門に首を取ったいきさつを話せと言うと、幸村と槍を交えて取ったと言ったので、お前ごときのものが相手になる幸村ではないこの場を立ち去れと・・・・・恩賞も与えられず、悄然として本陣を立ち去ったとある。

 家康は、左衛門佐幸村を敵ながらあっぱれな武士と思っていたらしい・・・・それが伝わってくる。


 安居天満宮に参拝した日は、前々日の大阪の初雪も消えて風は肌身を差すほどであったが、日差しもある好天の一日であった。

 天王寺駅からタクシーで向かって、降り立つと我々のような年かっこうの人たちが、丁度ご参拝から帰るところであった・・・・思っていたよりも小さな社(やしろ)であるが、やはり、人気のスポットなのだろう。





 社の鳥居をくぐると左手に社殿が見えて、手前に幸村公の銅像があった・・・・最近建立されたみたい。





 その銅像に直に触ってくださいとあった・・・・感激。

 一通り境内を散策し帰路に着くと社務所の前に猫が一匹日向ぼっこをしていた。





 我々が、帰ろうとしていたら、新たな参拝客がやってきた・・・・いわゆる、歴女と呼ばれるグループのようである。

 今回、関西への旅の目的のひとつであった京都・大谷本廟、そちらのお参りも済ませることができた。そして、この社殿に出向くこともでき・・・・満足な旅となった。(咲・夫)


[追 記]
「安居神社(やすいじんじゃ)とは大阪府大阪市天王寺区にある神社。安居天満宮ともいう。
 創建年は不詳であるが、当社は少彦名神が祭られており、天慶5年(942年)から菅原道真が祭られるようになったと伝えられている。 菅原道真が大宰府に流されるときに、風待ちのために休息をとった為にその名がついたという伝承がある。
 大丸の創業者の下村彦右衛門正啓がよく信仰していたので大丸天神と称されることがある。

 また、大坂夏の陣で真田信繁が当神社境内で戦死したと伝えられ、境内に戦死跡之碑が、他に古来、名水特に七名水として名を馳せた安居の清水(別名:かんしずめの井)の址などがある。」
(出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)


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