咲とその夫

 定年退職後、「咲」と共に第二の人生を謳歌しながら、趣味のグラウンド・ゴルフに没頭。
 週末にちょこっと競馬も。
 

我が家の家庭菜園

2009-10-08 20:19:25 | 暮らし
 好きな家庭菜園を始めてから21年目。畑の地主さんから「野菜は人の足音を聞いて育つ」と聞きました。確かに!!近年やっと自信がついたかなってところ。

 自分が作った畑の野菜は、つくる楽しみの他、何よりも安心して食することも・・・

 沢山収穫出来た時は、子供たちに送ったり、お知り合いにおすそ分しています。

 地主さんから二箇所借り、一箇所では、お花も作っています。次の写真は、新たに借りた広い畑です。(咲)


新たに借り上げた畑 




 里芋・・・大きくなりました



 モロッコ豆・・・・・やわらかく美味しい  






モロッコ豆の可愛い花




 秋ナス・・・・・美味しいですよ






キャベツ・・・・青虫捕りが大変です






美味しいレタス・・・・・朝の食卓に



白菜・・・・・冬の鍋が楽しみ


 上方の奥は、先日夫が新たに耕した畑

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飛鳥Ⅱの船旅・・・・写真と共に

2009-10-08 15:29:40 | 旅行
 神戸港に入港する飛鳥Ⅱの雄姿
 全長/241m 全幅/29.6m 総トン数/50,142GT 喫水/7.8m 
航海速力/最高23ノット 横揺れ防止装置/フィン・スタピライザー
 乗客数/800人、乗組員数/約470人 客室数/436室(全室海側)



 神戸港 中突堤旅客ターミナル(神戸メリケンオリエンタルホテル2F)から乗船



 飛鳥Ⅱの船首と船尾の軌跡






 客室デッキと延々と続く廊下 200m位でしょう!
 エレベーター船首・中央・船尾の3基



 D・Eバルコニー



 飛鳥Ⅱの雄姿と共に



 種子島 西之表港に停泊する飛鳥Ⅱ、ここから高速船で屋久島へ



 屋久島 紀元杉






 ヤクスギランドの植物群









 佐世保港に寄港 






タグボートで飛鳥Ⅱを岸壁に寄せているところ




 九十九島へのクルージング  パールクイーン号で



 九十九島 遠望




 佐世保の水族館 ”海きらら”で



 釜山港に寄港






 龍宮寺にて
 干支の像









 龍宮寺の縁起物とか



 飛鳥Ⅱから臨む 隠岐の島及び蝋燭岩   




 参考資料:隠岐島の遊覧船から臨む蝋燭岩




 飛鳥Ⅱから臨む 鳥取砂丘



 楽しみにしていた飛鳥Ⅱ”秋の日本一周・韓国クルーズ 9/23~10/7”の船旅・・・・・私たちのDコース(6泊7日)もあっという間に終わりました!!

 やっと我が家に帰り、荷物の整理もほどほどに、家内と旅の思い出話に余念がありません。

 船上にて毎日携帯でブログを更新していたが、各ブログに新たな写真など入れて再構成しています。

 みなさんも是非一度は、飛鳥Ⅱのクルージングを満喫されると・・・・・・人生の新たな発見と出会いが待っています!!
 


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真田太平記と池波正太郎

2009-10-08 11:46:58 | レビュー
 定年退職を機に25~6年前に読んで大変面白く感動した「真田太平記」を改めて購入し、毎日のように読みふけり戦国から徳川政権までの大河の流れに身を任せております。

 武田信玄没後、武田勝頼が高遠城で織田・徳川両軍に敗れたところから、物語が始まり、武田信玄に仕えていた真田幸隆の子息“昌幸”を柱にその子“信幸”“幸村”、真田家の諜報網(武田信玄譲り)である忍び(草の者)が縦横に活躍する物語である。

 信州上田の小大名真田昌幸親子が、徳川の大軍を二度も破る場面。

 真田昌幸がいかに知略に優れた武将であるのか、物語に引き込まれ快活である。

昌幸も家康と同じく、武田信玄の謀略・知略・諜報網を学び実践した武将なのだ。

 武田家滅亡、織田から豊臣、そして徳川へとの大河の流れを基軸にすべての登場人物の描写が精緻で、さすが池波正太郎、その歴史の舞台にどっぷりと浸かり、高ぶる気持ちで、全12巻を読み終えました。



 私の好きな歴史上人物の一人である真田昌幸とは、
“知略に優れた武将として知られる。当初は武田に仕えており、高遠城が落城し滅亡寸前の武田勝頼を岩櫃城に迎えようと考えていた。

 武田家滅亡後は織田、北条、徳川、上杉、豊臣と仕える主君を転々としながら生き残りを図る。小牧・長久手の戦いの後、沼田を明け渡すよう命じる家康を拒絶し、徳川と戦う道を選ぶ。

 徳川方を上田城で退けるが、秀吉の斡旋により家康の傘下に入る。秀吉が北条討伐の口実を得るため、名胡桃城奪取の陰謀をお江(草の者)から聞くが、あえて見捨てる決断をする。

 関ヶ原の戦いの前の犬伏の陣では信幸に「豊臣家のために徳川と石田をどちらを残すのがよいか」と問いかけるが、信幸はどちらが天下のためになるかと反論される。関ヶ原の戦いの際には上田城で徳川秀忠軍を翻弄し、本戦には間に合わなくさせる。

 戦後は紀州九度山に配流されるが、大坂城で徳川相手に一戦することを願い、草の者を各地に飛ばし世の中の動向を探らせていたが志を果たせぬまま最後に「左衛門佐(幸村)、わしに夢を見させてくれ。見果てぬ夢を」という言葉を残し九度山で亡くなる。“と言った人物である。
  出典:「真田昌幸」HP ウイキペディアフリー百科事典


 これを機に暇を見つけては、“池波正太郎”を読みあさっております。

 来年あたり、上田の庄(上田市)を訪問したい!!(夫)
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