ねーさんとバンビーナの毎日

「静」→ 「淡」→ 「戻」→ 「無」→「休」→「解・涛」→「涛・停」→「抜」→24年「歩」 最終章序章スタート!

ケースやモデルはあえて作り込んじゃあかんのだよなぁ。

2015年05月22日 20時32分36秒 | 伝われねーさん
何かしら新しい変化を起こそうとして、

こんなケース

だとか

こんなモデル

だとかを作り込んでは必然を装いやってしまう(実行する)ことがある。



オバチャマも経験値として実際にあって、あれは90年代早々から始まった、得意先有名大企業とグルになってた、いわゆる「作り」だ。

「こんなケース」と「こんなパターン」が同時進行してる感じ。


既成事実を実績として残すのではなくて、既成事実を単に手続きの為だけに作って、理論値やロジックだけであわせていくようなやり方だ。



あの当時、上司には散々、

「これはもうやっていいこととは思えない!」

「ほらもうこんなに混乱してしまっているではないですか!
ゆくゆく取り返しのつかない嘘になっていってしまいますよ、これ。
みんな人生の先々に「あんなに協力したことがこれなの?」ってガ~~ッカリするかと思いますよ。
汚点になって悩むかも。」

としゃべったりしていた事を思い出す。



上司たち(今60から69くらいだな。)は、

「深く考えないの~!
うちの娘もこうなっちゃったらどうしよう。(ウハハハハ)」

なんてお気楽に言い、

「っもー、失礼な。(ブリブリ怒)」

とムカムカきていたっけ。(笑)




あれから本当にあの「手法」とやらはあちこちで主流になっていって(オバチャマ、「うわぁ、あっちでもこっちでもそんな流れになってきてる・・・ワナワナ・・・」ってしてました、ずっと。)、同世代(昭和39、40、41生まれくらいの一部だな。その上の世代はスルッと逃げるか、情的なものと向上心から協力して「これはヤベぇ」ってドロップアウトしてるか、下ごしらえが終わった後にまんまと騙されて使われてる。(←親がこのパターンに流れている家の子供ももう社会に出てきてるよね。))でとある有名大企業に勤め、妙な改革劇(既成事実作り)に巻き込まれた知り合いも、

「絶対に天罰にあうよ、こんなことやってたら。
どうしようかなぁ…辞めようかな、でもな、子ども三人もいるしな、悩む…。」

と口にした時があり
、オバチャマは、


「あ、この企業も妙な演出かかったことやってるんだ。
やっぱりこの人ってば、勘がいいな。」



と思ったものだった。



その後に転職した会社でも、

「新しいことをやっていかないとダメだ、延々なんだろうが新しいことにチャレンジしなきゃいけないの、これは真理。」

と、まぁ、その前の8年間でかなりの珍しいことに遭遇したかと思ったら、そんなのを別の意味でいとも簡単に上回る動きをなさる、とある社員の方が入ってきた。


オバチャマは、

「えっ、また前の会社の上司たちみたいな妙な改革派気取る訳?この人も?(させねーよ、簡単には)」

と心がギュッとしたというか、力が抜けていくというか、気持ちが乱れたのはすごく記憶に残っている


しかし、動きをみていると、明らかに違うのである。

確かに既成事実はあるし、「やらせ?」と受け取られることは平気でやるし、回りはヒヤヒヤ、しかし、

「あれ?
今、この時代にこの流れってどういうこと?
これ、わざと世の中の妙な改革流行りやブームやエセ技術を無視して、20年先の仕込みをしてるって感じ?」


勘が働く(世間の流れに疑問を持ってたり)人は前のめりになっていく感じがあるのだ。


「変化は作らなきゃね」

とか、

「それでいくら儲かるの?」

が先に来なくて(「そういうのは後付である」っていうお行儀感の人たち)、

「それが実現したら非常に助かる!!みんな喜ぶ!!」

と、自分がやってきている仕事を誇りにしているような人達を前のめりにさせるのだ。


オバチャマもあの企業この企業と、前のめりになったオジサマ達を眺める機会は多々あった。

その前の会社で妙な改革を気取るオジサマ達より(流行のお洒落をしなくとも)立派で紳士で迫があるオジサマ方だ。


そんなオバチャマは一緒に仕事をしていて常に悶々としていたのは確かだ。
気が抜けないっていうか。

「これも前の会社パターンに陥るんじゃないの?
もうマジでゴメンだから。」

という点
だ。


並走15年、明らかに違った。


こちらのケースは誰も騙してないのだ。


どうして?


実績をきちんと残す点が明らかに違うのだ。


“実績”は数字や紙面的なことや手続き的なことや演出ではなく、単に心を込めての真剣な(本気の)行動なのだ。
皆を巻き込んで、動いて、実績を作るのだ。


その中でも人を釣ったり、売ったり、踊らせたり、がないのだ。
(90年代早々の「こんなケース」や「こんなパターン」の時はこれがあって、「これは人としてやっちゃいけない。」って痛感したのだ。)


役目を与えては、手厳しい芝居要求(単なる演技上手はマジ芝居中はウッカリがあるから適当なスパイスに活用というか。)がある感じだ。
リアルな実績作りにあたっては、超絶タイミングは逃せないからいつでも出動が出来る柔軟体操が出来てる人じゃないと巻き込めない緊張感があって、○突如(×突然)として芝居が始まる感じ。
シナリオや背景を伝えたり、言葉がなくとも、勘所で読めてないと出来ない感じ。



ケースやモデルはあえて作っちゃいけない。


だって簡単よ、嘘だもの。
リアルじゃないもの



そんなことより、

「うちがやればこうです!世間がどうだろうがこうです!」

という実績を積み重ねていくことが真にリアルなわけで、嘘がない訳
だ。


その先の未来が本当の未来。


作り込んだケースやモデルが元に、似たようなものが乱立するのは、そんなもの、仮想なんですよ。
みんな騙されて、洗脳されて、演技上手を要求される世の中になっちゃう訳よ。



雑記

オバチャマの仕事人生、なんだか、金八第2シリーズの松浦悟役が回ってくることも多いんだよねぇ。「立ち会い役」よ。


↓↓↓ はい、このシーンですっ!! ↓↓↓

悟っ!(←松浦パパ)

オレが証人なんだ。
パパや先生や3Bのみんなに話すために全部をここで見てるだけだよ。
乱暴はいっさいしてないから安心してよ。(←放送室の中から応える松浦)


出先などでこのシーンを思い出しては、

「私は一体ここで何やってるんだろう・・・(ニヤニヤ・・・)
ここに集まってる人たちはどこまで真剣で○素(×演技)なんだろう・・・(ニヤニヤ・・・)
いやぁ、ホントにこれは本気(マジ)で○素(×演技)なんだ・・・(ニヤニヤ・・・)
すごいなぁ・・・(ニヤニヤ・・・)
そんな場であんた何やってんの?(いやはや・・・)」

って、別の自分が自分にツッコミ入れて吹き出しそうになる(←不謹慎ね!)こともあって。


一緒に仕事してる人からは「っとに乱暴だよねぇ・・・(プププ)」ってツッコまれつつの。(←だからオバチャマは乱暴はしてないってばよ。)


ぼくは(わたしは)普通だ。

2015年05月21日 12時29分58秒 | 思い出ねーさん
今日のほぼ日のイトイさんのコラムに「いったい何が、何をもって普通なんだろう」的なことが綴られていて、オバチャマはふと思い出した。


「私が(日本)社会のスタンダードですっ(キッパリ!)」

と言い切る知り合い50代中盤♂がいることを。


仕事で出会った頃はかれこれ18年ほど前の40歳になる手前、当時よりこう言い切るこのお方に、

「ったく何を言ってるんだか。」

とわざとツッコミをいれたり、

「○○さんが社会のスタンダードならば、私は宇宙のスタンダードですわん!」

とわざと言い返したりした。



表現言葉として意味するところの「普通」と「スタンダード」は違うかと思う。

この方は「スタンダード」なのかもしれないけれど、まったくもって「普通」からかけ離れている。(笑)
こんなに(いい意味で)変人は後にも先にもいないだろう。(笑)

昨日今日と向田邦子の『言葉が怖い』を思い出したのです。

2015年05月20日 21時26分02秒 | 掘り出ねーさん
あのぅ、わたくしはこの頃になって、えー、言葉がとても怖くなりました

あのーーーーぅ、気がつきますと、

生まれてすぐに半年くらいで、「まんま」っていう言葉をわたくしはしゃべったんだそうですけども、

それから五十・・・年、五十・・・今、一になりますけども、

あの・・・・ぅ、その間に随分たくさんの言葉を、ま、しゃべったり、考えたり、、、

言葉というのは音に出さなくても心の中であるまとまったことを思えば、ま、それは言葉だと思います。

しゃべったり、思ったり、ま、最近は書いたり、ま、しております。

ほとんど前半は無意識で使っていたと思うんですけれども、職業にして、しかも・・・言葉でごはんを食べるようになって、二十年になりますと、昔・・・無意識に使っていた言葉が、ま、この頃になって、どんどんどんどん怖くなってきまして、え・・・言葉というものを、ちょっと自分なりに考えてみるようになりました。

ま、今日はそんなところをちょっと脈絡無くお話してみようと思います。


皆様は今朝起おきになって、ここにいらっしゃるまでの間に、いくつくらいの言葉を今日発音なさったんでしょうか。

それから発音なさらないまでもいくつくらいの言葉を今日お考えになったんでしょうか。

私は一人暮らしですから、ここへ来るまでの間、電話が5,6本かかった以外は、あのぅ、人としゃべらずに今日ここへ参りました。

昨日のことを考えてみますと、昨日は何人かの人に会い、人とケンカもしたり、言い争いをしたり、うち解けてしゃべったり、も、致しました。

ところが考えてみますと、私はその言葉を分類してみると、あんまりたくさんの言葉を使っていないんじゃないかと思うんですね。


意外に言葉っていうは貧しくて

例えば一軒のうち、一人の女の作るおかずというのが、得意の料理はハンバーグであったり、え~、ライスカレーであったり、え~まぁ、ビーフシチューであったり、ロールキャベツであったり、おみおつけの味も十種類か二十種類をとりまぜて使っているように、

言葉も意外に無精をして、ありあわせの言葉で、まぁ、おかずの残り物で間に合わせるように、

ま、意外と自分自身の使う言葉というのは、貧しいんじゃないか・・・っていう風に考えました。


で、私の場合は、放送、、、つまりラジオの作家、それからテレビを描き、今、エッセイを書き、小説を書いておりますから、文字の言葉は、ま、普通の方よりも、ま、職業ですから、たくさんの言葉を・・・まぁ・・・・織ったり、使ったりして、え・・・・やっておりますけども、

日常使う私がしゃべる言葉については、人様のことを笑えた義理ではなくて、非常に数が少ないんじゃないかと、っていう風に思っております。


一度自分の使う言葉を・・・ま、こういうことが出来るかどうかわかりませんけども、

「わたくしは毎日いくつくらいの言葉を使って暮らしているのか」

じっくり考えてみたいなと思うんですが、ま、まだその、数を数えたことはありません。


言葉が怖いと思う理由の一つは、
書く言葉は、これはもぅ小説を書くようになって、エッセイを書くようになって、気がついたんですけれども、
書く言葉は、この言葉を書いてしまって、「あ、ちょっと言い過ぎた」「微妙に違ってた」「これじゃないほうがいいと思います」と消しゴムで消すことができます。


ところが人を相手にしゃべった言葉は、一回口から出てしまいますと、「あっ、いけないっ・・・」と思っても、もう消せないんですね。

で、消すためには、謝ったり、謝る言葉がまた相手を傷つけて、もっともっとそのぉ、汚れといいますか、傷が大きくなったり、

言葉っていうくらい人を傷つけてしまうことはないと思うんですね。


ですから、つい最近の新聞で報道されました、あのぅ、金属バッドで息子さんがあのぅ、ご両親を殺めた事件がありましたけれども、

まぁ新聞報道だけを信じて、あのぅ・・・言ってしまうというのも、難しいんですけれども、

ま、新聞報道を鵜呑みにいたしますと、

あの時父親が息子を、ま、「お前はダメな奴だ。」と言った・・・って。

その時母親が「あんたって本当にダメね。」と言ったと、

その一言が、ま、引き金になったという風に、ま、新聞は書いてあります。



そうしますと、あれは、あの言葉をもし母親が言わずに、別の言葉を言っていたらば、「あの事件はもしかしたら防げたかもしれない」と思いますね。


そうしますと一言・・・の、その言葉のちょっとした強さ、これもし、文字で書いていたら、きっとあのお母さんは消しゴムで消してたと思うんですね。

でもいっぺん音に出てしまうと、特に相手にそこに生身の人間がいると、これは消せませんから、ああいうことになってしまった・・・

そうするとやっぱり言葉というのは、時にはあの・・・・ぅ、ま、自分の気持ちを伝えたり、相談をしたり、あのぅ、「あなたが好きだ」ということだとか、あの、思いやりを伝えることもできますし、商談にも役に立つ、

も、どんなことも出来る、人間の持ってる最高の武器だと思いますけれども、
時には人間の持っている一番の凶器にもなる、という風に考えます



そうしますと、その凶器と、まぁ武器ですか、両刃の剣で、あのぅ、言葉はもっともっと、まぁ、丁寧に考えて使わないと、

わたし達は大変な物を抱えて暮らしているんだなぁと、そういうことに最近また気がついたようなわけです。




おとといまた横浜・戸塚で思春期真っ盛りの15歳の男子が母親と祖母を殺めてしまったニュースが流れました。

原因としては「母親が祖母があれやこれやうるさかった」とありますが、お小言を言わない親なんていないですし(現にオバチャマも学生時代、親のお小言の無い日なんてなかったですし。(笑))、いつも思うのがこの向田邦子さんの講演CD「言葉が怖い」に収録されている「金属バッド事件を起こしたひと事」です・・・。

父親が嘆き、そこに母親がトドメを刺してしまっているあたり。
これでは逃げ場なくとっさに激情してしまうのもわかります・・・。


小言というより、親が自分の子供を嘆き、言葉でトドメを刺す、これではもう、いたたまれません・・・。
家庭の問題だけじゃなくて、会社の中でもありがち。
おそらく「○自分の得(×相手の徳)の為に相手を(自分の思うとおりに)どうかしたい」という心持ちでいるからそうなるんだろうと思うなぁ。

これがお互いに「自分の得の為に相手を思い通りにどうかしたい」という意識であれば、上手~~~~く(ケッ・・・って思いますけど)やるんでしょう。←演技ね。親子関係でもありそうで・・・(なんだかなぁ、それ。)

でもそういう計算がない人っているんで、「今あなたから吐かれた言葉をどう消せば・・・」とワナワナしてしまうんでしょう。


オバチャマ自身、え~、今年で四十・・・、四十八になりましたけども、自分でつくづく思うのは、「言葉の刃物を振りかざす技を持ち得てない」と自己分析(済み)。


数年前に20くらい若い男子に、

「言葉が刃物になってるから気をつけなさいよ?」

と促したことがあったっけ。

「知ってます。これって幼稚なんですよね。知ってます。
いまだに理論武装に躍起になってしまうし、自分が○幼稚(×子供)なのわかってます。」

って言い返されて、

「わかっているなら気をつけようよぅ、怖いよ。
すぐには直らなくても、気をつけようよぅ。」

って言ったっけ。


オバチャマは「ストレートパーンチ!」「ストレート直球!」「死なない程度の毒盛り」っていう単純?技しか持ち得てないんだなぁ。道具は使えないの。



ドラゴンボール(超)

2015年05月20日 19時18分38秒 | 思い出ねーさん
オープニング曲の作曲を吉井さん(作詩が大御所の森雪之丞さん)が担当とやらで、楽しみだなぁ。


どんな傑作・ロック歌謡曲になっているか。


夏に向けて楽しみが増えたぜ♪



影山ヒロノブさんはがっかりなさっているのだろうか。
オバチャマ(世代)は影山ヒロノブと聞けば、

「レイジーのね!(影山さんはミッシェルだった。オバチャマはキーボードのポッキーが好きだったかも。)
♪赤ずきんちゃんご用心~~(←なぜか歌が出てくるのであった…)」

とついつい口にしてしまう世代。


レイジーが横浜三越(現・ヨドバシ)の屋上に来たときは、入りきれない子達が警備員に泣いて「入れて欲しい」と訴えてたくらい。

あれは小学6年生の時(昭和54年頃)、チャー好き(竹中尚人好き)のクラスメイトが週明けの月曜日に熱く語ったのが映像付きで記憶に残ってるなぁ。

「教会(当時横浜・関内駅前の指路教会に通っている子が数名いたのさ。クリスマス会に誘われて行ったなぁ・・・)が終わってすぐ行ったけど入れなかったの~~ぉ。
悔しくて、悔しくて…」

みたいに。(笑)


学業優秀、県立高校(学区内トップ)時代に一年間アメリカ留学行って(日本の高校は留年してまでも)、青学に進学して、全日空のグランドホステスになった(背は高く、スタイルも良く、美人さんなのに、「スッチーは嫌なの」って本気で対象外だったみたいで。当時はスッチーをやたらにマスコミがちやほやするあたりも本気で嫌だったのかも。)ことは本人から聴いたよなぁ。


あれから何年も過ぎたけど、どこで何をしているのやら。


いやぁしかし、

レイジーの影山ヒロノブ→イエモンの吉井さん

かぁ。
(♪しみじみ~しじみ~~~~ぃ←内輪ウケ)

警察にお願い

2015年05月19日 19時04分22秒 | 伝われねーさん
歩き(ながら)スマホの注意喚起して欲しい。
もっと徹底して欲しい。


歩きながらスマホにナビやらせてる人の多いこと。(クルマのナビと違って、確認(誘導)も、『聴覚』ではなくて『視覚』ばかり使うことになるでしょ?
もうそれ、状況観察や注意散漫になるでしょ??)


止まれ、隅にっ!!(怒笑)
止まって、検索するなら怒らないよ!!(怒笑)



信号渡りながらのスマホ

横断中にとまったりする、とにかくノロい、渡りきりたいのか、途中で止まりたいのか、ワケわかんない。


特にこれな。



あとはやっぱり、



自転車乗りながらのスマホ(ふらつく、挙動不審)

原チャリ乗りながらのスマホ(ふらつく、挙動不審)

自動車運転しながらのスマホ(ふらつく、挙動不審)



これで交通事故になったら、正しく運転してた運転手が馬鹿みたいで。


前方を充分確認してようが、いきなりふらついたり、いきなりとまったり、いきなり走り出したり、「ながら○○」は挙動が訳わかんねぇ。



両手ふさがりやすいところも「オーマイガッ!」です。