ねーさんとバンビーナの毎日

「静」→ 「淡」→ 「戻」→ 「無」→「休」→「解・涛」→「涛・停」→「抜」→24年「歩」 最終章序章スタート!

「育まれてきた中での偏り」と「極端な世界にいた為の偏り」

2009年06月10日 22時20分07秒 | 2種分ねーさん
この2つって違う。


生まれてから育まれたきた中で何か偏った状態になってしまったものは、
理由をつけては「これはそうでは無い」というような演出をしている。

例えば、商品として曲がったキュウリを、

「かえってこのほうが本当に自然に育ったキュウリなのです。
そしてしかもお安いのです。」

と理由をつけて売るかのように。


たまたま極端な世界に身を投じていた期間があって何か偏った状態になってしまったものは、
かえってそのまんまを通している。

例えば、永田農法のように水を極限まで与えずにスパルタで育てたトマトが、
普通に育てるものよりも、ものすごく甘く育つように。



どっちもどっちでどっちもあり。
どっちも存在するのが事実。

どっちだって同じ辛さを味わっている。

曲がっているキュウリより甘く育ったトマトの方がみんなから羨望の眼差しを受けられるかもしれないが、人知れずスパルタを受けてそれを乗り越えて育っている。
だから「羨望の眼差しを受けたいのならこのスパルタ乗り越えてみろよ。別に羨望の眼差しを受けたいからってスパルタを乗り越えた訳じゃないんだぜ。この辛さ理解できるか?」って反論するだろう。

スパルタはすり抜けて楽に乗り越えられてきた曲がったキュウリは「なんであれは曲がってるんだろうね?」って痛い視線を受ける度に「キュウリはキュウリで同じじゃんか!」と心で叫ぶのだろう。
だから「スパルタに育ってみたかったよ。そうしてくれる環境が無かったこっち側の辛さってのを理解できるのか?」って反論するのだろう。


どちらも事実、存在する偏り。


だけどお金が発生する仕事においてはこの平行線があると非常にややっこしくなるのが事実。
仕事は仕事で障害者じゃない限り誰だろうと背負わなきゃいけないものは公平で同じはず。

自分にどういう「偏り」があろうが、背負うものは公平じゃないと、必ずややっこしい問題が発生するのが事実。
責任の比重はお役目で変わるけど、仕事を背負うのは公平でないとマズイ。

「やってできる事とやってできない事」があるのはその人の「偏り」によって仕方が無いこと。
それで充分、それで良し。

だけど仕事を背負うのは公平でないとマズイ。
「偏り」を利用して立ち回ってしまうのは公平さに欠けるからこれを利用しだしてしまうのは非常にマズイ。

こういういざこざ、むか~~~しから幾度見て来たことか。

「公平さ」を欠かして誰かを追い詰めるやり方ね。
そうやって誰かを消耗させるやり方ね。

こういう立ち回りに翻弄され、最後には泣きをみた人を幾度見て来たことか。
こういう立ち回りに翻弄され、消耗している人を幾度見て来たことか。

こういう立ち回り方をして、有利に立って、知らずに誰かを追い詰めている人を幾度見て来たことか。

こういう立ち回り方の人に親切に「公平さ」をなんとか伝えようとして疲れきって去った人を幾度見て来たことか。

もういい加減に、平等ではないってことに腹を括って、「公平さを真剣に考えてくれないか?」って思う。

いつまでたっても働かない環境は「平等の唄」を唄っている環境で「公平の唄」が唄われない。
「公平の唄」が流れている環境は、なんかワサワサと働く環境になっていく。
働く環境ってのはお金があろうがなかろうがやっぱり楽しい。
別の「豊か」があるから救われるのね。

便利で満たされて保護されて管理されている環境ほど「平等の唄」を唄わせちゃう気がする。
今なんか本当に便利で満たされて保護されて管理されているから本末転倒で参っちゃう。

「人間が平等になるとそれはそれでいざこざがなくなるんじゃないだろうか?」っていう考えは、
「怠慢極まりない人間を作り出しちゃった。減るかと思ったいざこざは増える一方。
だって怠慢だから思考は浅くなって広くなるだけ、解決能力は劣っちゃって、批評と処置ばっかり。
かえってややこしくなってきちゃったんじゃないの?」という結果を導いてる。

すこし欠けを作っておかないと自分で考えて答えを出して背負わないから「公平の唄」が流れないんですよねー。

必要以上に「便利に満たして保護しちゃって管理しちゃう人」は気をつけて欲しいのだよね。



咳止まらず・経過7

2009年06月10日 21時18分00秒 | まんまねーさん
6/7(日)

この日は土曜の友カラ後のアルコールが抜けず咳どころでは無かった。
薬飲まず。


6/8(月)

今日は特に咳き込み無し。
薬飲まず。


6/9(火)

夜少し咳込む。
昼間は客先で打ち合わせがあったけど咳が出なくて良かった良かった。
薬は飲まず。


6/10(水)

今日は朝から一日咳き込み酷し。痰がデルデル。
だけど咳き込んだ後に気管からヒューヒューいう感じは無し。
サリパラ・コデイン液を飲む。咳が止む。
咳が止むのはいいけど、薬が切れれば咳き込み開始(土曜あたりに再開か!?)だから、これじゃ処置してるだけなんだよなぁ。
これがイヤなのよねー。
異物で自分の身体をコントロールしている感じがどーしてもイヤなのよねー。(笑)


3月25日から咳き込み出して、かれこれ3ヶ月経ってしまうではないかーー。

街の診療所の先生は「アレルギーだ」っていう。
「ウィルス性じゃないからちょっと厄介。」っていう。
「百日咳じゃないのか?」って聞いたら、「この状態ではそんなハズが無い。もっとヒドイから。」って言う。

検査してくれないんだよなぁ・・・
なんで?なんで検査しない!!街の診療所!!(笑)

次に検査する気なのかなぁ。
なんかまた薬だけなのもイヤだから、総合病院に予約入れて行くかなぁ。



「人のややこしいを察してる」は「人の心の趣を察してる」とまるで違う。

2009年06月10日 19時06分25秒 | 2種分ねーさん
そういうことなので、


「あ、なんだかあの人って、言わんとしてること汲んでくれてるわ!」


と、ウッカリ気を許すと、


「参ったな~ぁ。
「ややこしいことに参戦して欲しい、お互い共依存していきませんか。」って、そういうことなだけじゃんか~。(トホホ)
「心の趣を察してる」とかそういうことじゃないんじゃん。
ま~るで見えてないんじゃん。
単に「ごまかしあおうよ?」ってだけなんじゃ~ん。
超ややこしいし超ガッカリだぜ。」


というガッカリ感を抱えるだけなんですよね。


だからあたしゃどーしてもダメ。(笑)
身体中が痒くなる感じで。(笑)

「面倒臭い」を「ややこしい」に変換すると。

2009年06月10日 18時43分26秒 | 伝われねーさん
ホントにダメだ~ぁ。


「面倒臭いこと」は「面倒臭いこと」として背負って対処していかないと、ホントにダメだから~ぁ。


糸がぐっちゃぐちゃにこんがらがることになってっちゃうから~。


どうしたって「面倒臭いこと」って避けられないから~。
人間関係、ことそのこと、すべてにおいて。


「面倒臭いこと」が嫌ならば、ややこしくする前に、自ら潔く関わらないとするか、手を引かないとダメだ~ぁ。


ややこしくしながら他人まで巻き込むのはホントにダメだよ~ぅ。
他人を巻き込んでいい結果を生むのは「面倒臭いこと」なんだよ~ぉ。


ややこしいことに巻き込まれそうになったら潔く断るか、巻き込まれる覚悟したならその「ややこしい」を精査しないとマズイ。


だけどややこしいのがとにかく好きな人もいてなぁ。
「暇だなぁ、趣味なの?」って感じで。(笑)


仮にそれが作戦であったとしてもマジでいいことない。
「いつまでごまかしがきくか?」ってだけで「やっぱりいいことなかった。」が後ろ押しになるだけ。


自分への戒めも兼ねて記録しておくこととしよう。