ねーさんとバンビーナの毎日

「静」→ 「淡」→ 「戻」→ 「無」→「休」→「解・涛」→「涛・停」→「抜」→24年「歩」 最終章序章スタート!

やっぱりモリマリ20120204-04

2012年02月04日 13時50分19秒 | 紹介屋ねーさん
文学の本というものはそんなに売れる筈のないものなのである。
現代のような文学時代でも、いい本は一定の量で止まるということを、私は或先輩の作家の談笑の中から、知った。



『記憶の繪』より。


本だけにあらず。
モノの売れる量ってのは、一定の量で止まらないと本来何かがオカシイのだ。
そう、購買客が創出されちゃってるってこったね。意図的に。

オバチャマはよく祖父母や両親や叔父や叔母の話しで聴いてたけど。

「買わせるようにし向けちゃう(×セール)商売はお行儀がよくないから、必ず最後の最後に痛いめにあうって決まってるから。それが物事の道理。まぁ観ててごらん。」

ってさ。

「モノをつくって(仕入れて)それを買わせるようにし向けちゃう売り方で儲けを出さなきゃいけなくなったら(本来は黙ってても売れる(ルートは開拓しても)のが正常な目利き)、その商売は絶対に何かウソをついて誤魔化さないと続かないからお行儀としてやめておかないと。欲を出したら最後だよ。」

ってさ。

「そういう中(ウソナシ)で手にできるお金が自分の身の丈」ってさ。

やっぱりモリマリ20120204-03

2012年02月04日 12時42分47秒 | 紹介屋ねーさん
幼い頃、神田の中西という本屋によく行った。

本屋の中には落ちついた雰囲気があって、本を買う人は静かに入って来た。
写真入りで、新聞の半面を潰すような広告はその頃はないから、どの人も小さな広告で見つけて、熱心な気持で買いにくる人である。

本の広告が品がよく、落ちついているから、本屋も品がいいし、本を買いにくる人も、品がよかった。

本を買うと、洋菓子店に寄って珈琲をのみ、煙草をふかし、買った本を一寸開いてみる。
その人が家に帰ると、家には本を読む青年がい、本を読む子供がいた。

この頃は本屋に入って行くと、本の広告が騒々しいせいか、棚に詰まっている本の間々から広告の声が、拡声機つきでどなっているようで、本の色も派手で、模様が多い。

本自身は黙っているいい本もあるが、広告ががやがやしているので、その広告の声が勝手に本の間から鳴り出し、本たちがそれぞれおいらんの顔見せのように、色眼を使っているようである。


『記憶の繪』より。



本の広告に限らず、○買わせる為(×買って貰うため)の広告になっちゃったってのが、「がやがや」の発端で、終いには「拡声機つきでどなっているよう」ってなっちゃったんだろう。

「消費者を創出しなきゃ!(←こらこら。ならば贔屓を創出して。(苦笑))」なんて思ってる広告屋がいたとしたら(まぁ大量消費経済が前提だとこれで仕方がないのだろうがね。)、必然的に何か「がやがや」しちゃうだろうし、そこに創り手なりの「センスに添わないなぁ・・・」とかいう感覚や「これじゃミエミエで逆に悟られちゃうか・・・」とかいう(イヤラシイ)計算が入ってくると、逆に今度は引き算をしてカッコよさげなんだけども、どこか世間を逆突いて嘲笑ってるような(そこをわかる人間がカッコイイみたいな風潮にも繋がる)、はたまた本来の言葉の使いようすら変えていっちゃうような(そこをわかる人間がカッコイイみたいな風潮にも繋がる)、そういう風な方向にどんどんと変化していっちゃうんだろうと思う。

「作り込み→作り込み→作り込み」の連続は本当についちゃいけないウソにまで到達するしねぇ。

それをテレビのCMやら、街中の看板、チラシやなんやらで、視覚と聴覚で日々すり込まれてしまったら、「元のポジションってどこだっけ?」ってことになるし、○記憶力(△暗記力)の高い人間にしてみると日々が矛盾との闘い、間違え発見(←したくもないのにわかっちゃう)の連続で、さらに(余計なことで)心の中やら頭の中が忙しくなってしまって悶々とするし、これは「公害と大差なし!」なんだよねぇ。




やっぱりモリマリ20120204-02

2012年02月04日 12時29分08秒 | 紹介屋ねーさん
幼い私の着物、帯、リボン、草履への欲望は無限で、たべるものでももっと、もっと、と欲しがって際限がなかった。

枝から枝へ奔走して餌を運ぶ鶯と、嘴を大きく開けたきりの雷鳥の雛の映画を見た私は、幼い私をそこに見たようで、思わず心の内で笑った。

晩年になった今、着物がまるで無い同様になったのは、欲ばりの罪が罰せられたのかも知れない。


『記憶の繪』より。



これは「もっと!もっと!」と欲望から欲しがったんではないんだろうと想像。
「これは分かったから次!その次!はい、その次!」って感じで、わかりたかったというか、自分の中で決めてる最終目的値(創造の完成形というか)に到達したかったんだろうと想像。

だって、「鶯と雷鳥の雛に自分を見たようだ」って心の内で笑えるって、客観視してるんだもん、結局。
そうやって客観視しながら、まだ「もっと、もっと」って出来るって、単なる欲望と違う。○執念(×執着)っていうか?

欲望で「もっともっと!」の場合って、そういうモノの見方というか形容の仕方なんかま~~~~~ったく忘れてるから。

晩年にあれだけもっともっとと欲しがった着物がまるで無い同様になったというのは、もう「あれもこれも」と自分の手にしなくても、わかりきったってことなんだろう。

「収入が減って思うように買えなかった」とか、そういう理由ともどこか少し違うんだろう。

やっぱりモリマリ20120204

2012年02月04日 11時57分42秒 | 紹介屋ねーさん
私たちがともかくも、守らなくてはいけない(正義)。
これもしゃっちょこばった感じで守っている人をみると、私は呼吸(いき)が詰まってくる。
(ともかくも守るというのは、明治生れの老婦人の言葉としては変であるかも知れないが、私としては正しいことは、或程度の余裕(ゆとり)をつけて守るべきだと思っている。人に迷惑をかけない、という限度を守った上で、多少の振幅をつけて守る方が、正しい道を踏み外さないで行かれるやり方だと考えている)

私たちは人の家に火を点けてはいけないし、人を殺してもいけない、のは勿論、他人のものをひそかに持って来てはいけないし、他人の財産を悪辣(あくらつ)な手段で巻き上げたり、卑怯なやり方で他人に迫害を加えたり、すべて法律で禁じていることはしない方がいいのであって、それが正義を守ることなのだが、或種の人々のように、あまりにこちこちに正義づいていると、余裕というものがないので、息苦しさをおぼえ、柔かみのある、素晴しい人間は感じられない。

こんな感想は私だけだろうか?



『記憶の繪』より。



なんか、正義を守るってことも変わってきてるよなぁ。
これは1966年に森茉莉さんが書かれている。
あらまぁ、昭和41年丙午組、我らが誕生した年だ。

森茉莉さんが何がいいたいかってことはすごくよくわかるんだけど、今、ちょっと法律も正義も定義が変わってきちゃってる感じ。

「ある程度のゆとりをつけて守る(守らせる)」ってのは、それだけ許容する幅も広がるから、そのゆとりの中での(年長者からの)見逃し(=包容力)等によって逆にその優しさを感じたり、懐の広さを感じたりして、「自分の情けなさ」が痛切に身に染みるというような経験が出来たりする。
そういう人がいてくれるから、自分も守る余裕が出来る。
その余裕の中でのびのび何かにチャレンジ出来たりする。

「現段階では“責任”をこちらが背負っておいてやろう。でも背負う覚悟は少しづつ教えて行かなきゃ。ずっと見逃すわけにもいかないぞ。」

っていうような見逃し。

こういう(物事の道理をわかってる)オトナっていたけどね~~~。(過去形にしちゃおう、もう。)

法律を別解釈するとか、お行儀を別解釈するとかして、計算尽くしで見逃すのとは違うんだよねぇ~~。
それじゃぁ単にすり抜け術を教えてるのと一緒。
「ゆとりを持たせて守る」という教え方とは全く違う。
しかし今はこういうオトナが多いよねぇ?(罪の意識も「はて、本当にいいのだろうか?」という思考も無しみたいなね。)

だから社会もおかしくなっちゃってるんだよねぇ?


しかしまぁゆとりをつけられるほどの器(懐)が育ってないのが今の現実じゃないかなぁ?とつくづく思う。
それよりも「こうやってすり抜けりゃいいぞ!」的な技の伝授のほうが一般的っぽいような。

そうしちゃうとさぁ逆にどんどんどんどん守らせる幅を狭くしてっちゃうんだよねぇ。
「守れないなら、もっと、こうしたら守れるか!?」みたいに。
それ(ルール)を○暗記(×記憶)しなきゃいけないほうに脳みそ活動しなきゃいけなくなっちゃって、っとに本末転倒なんだよなぁ。



やっぱりモリマリ20120127-05

2012年01月27日 22時29分42秒 | 紹介屋ねーさん
この世で褒めたたえられるものは(根性)を持つ人間である。
大松精神の如きものを持つ人間である。

という通念がこのごろ特に盛り上って来ている。

このヤッタルデ精神はすべてに蔓延していて、この子は根性がある、この女優は根性を持っている、というような讃めたたえ方がされていて、まさにヤッタルデ時代である。

ヤッタルデ精神は、オリンピック以来いよいよひどくなったが、所謂根性的な、凝り固まった人間は私の好きでない感じの人間なのである。
何故好きでないかというと、見ていて息苦しくなってくるからだ。

眉宇に、相手を打ち負かし、捻じ伏せなくては止まぬ精神を漲らせ、小鼻のあたりはキンキンに緊張し、口元は歯ぎしりしそうに結ばれている人間はたしかに、大変に勇ましそうだが、そういう人を見ていると、だんだん呼吸が詰まってくるのをどうすることも出来ない。

武士にしろ、剣道の先生にしろ、ずばぬけて偉い人物の中には、いかにも根性を持っているぞ、と言わぬばかりのこちこちの人は見当らないようだ。

ピイタア・オトゥウルを見ていると(こう言っても映画好きでない人にはなんのことか判らないかも知れないが、「アラビアのロレンス」を主演した近来の名優で、批評家が全部賞讃している男である)小学校の時には授業時間中いつも窓から空を見ていたのではないかと思われるような男であり、自分の靴の紐を結ぶのものろくさそうな男であるが、ピイタア・オトゥウルに根性がないはずはなかろう。

私は根性でこちこちになっている人を信じることが出来ない。
熱心はみとめるが、そういう人間の仕事には或限度の山があると思う。
仕事というものはすべて、ある限度の山を越えて、その上に出ているかいないかで、優れた仕事か、平凡な仕事かが定まるのだし、数字とか、化学とかいう仕事も、或地点を越えれば芸術の世界と同じで、そこからさきはむやみに緊張するばかりの所謂根性ではやって行けないのである。



『記憶の繪』より。



根性っていうと、努力とも微妙に違って、

「何が何でもあれをひっつかまえる。
それにはどんな手段を使おうが、どんな仕事だろうが、おかまいなしです。
とにかくヤッタルデ~~~~~ぇぇぇ!」

って風で、視界がすごく狭く一直線な感じになる(いくらたたずまいをゆったり見せるように演技してようが透けて見えちゃう)のが、時に間違いすら引き起こしそうな心配を引き起こされてしまって、ヒヤっヒヤしてきて息が詰まるって感じがする。

目で見てるのがせいぜい前のクルマのテールライト程度で、あの先に見えてくる左右に曲がるカーブではない感じ。

だから、モリマリさんも言ってるように、根性でコチコチになってる人を信じることは出来ないって、わかりますわな。ちょっと危なくてね。(笑)

努力の場合は、「あの先のカーブに注意しながらどうハンドルやアクセルをさばくか?」ってことを常に考えてる風ではないですか。
つまり、目の前のことなんか根性なんか出さなくても消化済みなの。


「ある程度の山を越えて、その上に出ているかいないかで、優れた仕事か、平凡な仕事かが定まる」

まぁでも、山に挑む→その山を越えられるというだけでも、その上に出ようがいまいが、ひとまずそこをクリアしないとまずはどうにもならんのだけどね。
山を越えてからなのだよなぁ、優れてくるか、平凡かが定まるのはね。
山を眺めてるだけではどーにもこーにも、、、、なのだよね。