外出着、という味もそっけもない言葉は、昔はよそゆき、であった。
明治の女の人の色気と情緒にはいろいろ原因があるが、冷たい縮緬(ちりめん)を皮膚に感じるところからも出て来たものだと思う。
縮緬とか、紋羽二重とかいうものにはやさしい情緒があって、このごろの化学繊維の織物のような非人間的な冷たさがない。
金のある家にも、部屋によっては多少の冷たさがあって、肌ぬぎをして襟白粉を塗って貰う時の、ぞっとする冷たさも、一つの情緒であって、そこから、女の人の美しさや柔しさ(やさしさ)も出て来ていた。
日本の着物というものは不思議なもので、電気暖房の部屋で裸になり、洋服の下着を着た上から着ても、着る人と着かたによっては素晴しい情緒が出る。
日本の着物というものは、不思議な魔法の衣(きもの)である。
『記憶の繪』より。
身につけるものとか、それによって制限された中で注意を払いながら動作することによって、やっぱり雰囲気が自然とすり込まれていくんだろうなぁ。
「ぞぞっ」と冷たかろうがそれを一瞬の覚悟をしてピッと袖を通して肌につけ、それがだんだん体温で暖まっていく感じ、とか、記憶に残りますわなぁ。(別に着物でなくてもあるよなぁ、こういうの。)
それが情緒感として醸し出されて、見る人をも「おお」ってさせるっていうかね。
今ではすっかり(なんの我慢の必要もないような)装飾されたビジュアルをまとってるその姿だけに「おお」ってしてるほうに洗脳されちゃってる感じ。脳が。
でもって、「切ないです・・・」「センチメンタル気分です・・・」って世の中を嘆いている現代。
明治の女の人の色気と情緒にはいろいろ原因があるが、冷たい縮緬(ちりめん)を皮膚に感じるところからも出て来たものだと思う。
縮緬とか、紋羽二重とかいうものにはやさしい情緒があって、このごろの化学繊維の織物のような非人間的な冷たさがない。
金のある家にも、部屋によっては多少の冷たさがあって、肌ぬぎをして襟白粉を塗って貰う時の、ぞっとする冷たさも、一つの情緒であって、そこから、女の人の美しさや柔しさ(やさしさ)も出て来ていた。
日本の着物というものは不思議なもので、電気暖房の部屋で裸になり、洋服の下着を着た上から着ても、着る人と着かたによっては素晴しい情緒が出る。
日本の着物というものは、不思議な魔法の衣(きもの)である。
『記憶の繪』より。
身につけるものとか、それによって制限された中で注意を払いながら動作することによって、やっぱり雰囲気が自然とすり込まれていくんだろうなぁ。
「ぞぞっ」と冷たかろうがそれを一瞬の覚悟をしてピッと袖を通して肌につけ、それがだんだん体温で暖まっていく感じ、とか、記憶に残りますわなぁ。(別に着物でなくてもあるよなぁ、こういうの。)
それが情緒感として醸し出されて、見る人をも「おお」ってさせるっていうかね。
今ではすっかり(なんの我慢の必要もないような)装飾されたビジュアルをまとってるその姿だけに「おお」ってしてるほうに洗脳されちゃってる感じ。脳が。
でもって、「切ないです・・・」「センチメンタル気分です・・・」って世の中を嘆いている現代。